山ノ下寺院群③ 正覚寺・宗壽寺・本光寺

全昌寺に入って墓地を抜けて、奥の細道で芭蕉と曽良が風の音で明け方まで眠れなかったという裏山を登って抜けて来たのですが、そのおかげで全昌寺の本堂内や展示室をすっかり見逃してしまった。。

裏山も古くからの墓地になっており、江戸初期のものが多くあり、興味深かったのですが。。抜けてみるとまたまた多くの墓が並ぶ墓地に出て最後には寺院の裏庭に抜けていました。
当初は全昌寺の裏庭だと思っていたんですが、表に戻るとお隣の正覚寺(しょうがくじ)宗壽寺(そうじゅじ)の墓地を抜けて来てしまったようです。
今更、表の受付に行くのもなんだし、また長い道のりの墓地を歩くのも嫌だったので、そのまま近接している寺院群を駆け足で回ってきました。
山ノ下寺院群の各寺院には、いろいろ特色があって興味をそそられたので、三か寺ですが簡単にご紹介します。
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まずは全昌寺のお隣の正覚寺(しょうがくじ)。浄土宗の寺院で正式名は「幽谷山正覚寺」。
天正元年(1572年)に、現在の大聖寺法華坊町に庵が結ばれたのが始まりと云われ、元和年間(1615~1624年)に現在地に移されたと云われています。
この正覚寺には「履行(くつばき)阿弥陀如来像」という変わった仏像があります。
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平家物語の巻一に出てくる「祇王」の中の仏御前に所縁があるとされています。平家物語では祇王・祇女姉妹、姉妹の母親・刀自と、四人で出家して嵯峨野の祇王寺の庵で生涯を過ごしたとされています。
しかし、祇王寺には祇王・祇女・刀自の墓はありますが、仏御前の墓はありません。
三人と報音尼として修行修養を過ごす中、清盛の子を身ごもったことが分かった仏御前は尼寺での出産を憚り、地元の仏が原(現・小松市原町)に戻ったとされています。北陸の越前・加賀の各所には仏御前所縁とされる名所・旧跡がいくつか残されています。 ⇒ 仏御前の安産石
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14歳で京都に出て、16歳で清盛に愛され、17歳で地元に帰る仏御前に清盛が贈ったのが、この履行阿弥陀如来像だと云われています。
原村に戻った仏御前履行阿弥陀如来像と共に仏門に帰依して、21歳で短い生涯を終えたと伝わっています。原町(小松市)には仏御前の屋敷跡・墓所があり、仏御前の死後に祇王寺から原村に仏御前の尊像が贈られ、寺社に安置されず信心な家から家へと伝えられています。また仏御前の命日とされる毎年9/16には御前様祭りとして白拍子の舞や演武が奉納され、縁起が詠まれています。
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履行阿弥陀如来像は寺伝によれば、インドの仏師・毘首羯摩天(びしゅかつまてん)の作とされ、玄奘三蔵によって中国にもたらされ、日本には大宝三年(703年)に新羅を通じてもたらされ、長く興福寺に安置さていたものを平忠盛が譲り受けて守護仏とし,子の清盛に渡ったものと云われています。仏御前に贈られて後は原村に在ったそうですが、霊夢によって譲り受けて当寺に移されたそうです。寺院内には仏御前の坐像もあります。
如来は悟りを得て仏の域に達したもので、その姿を描いた如来像は菩薩像と比べて装飾が少ないのが特徴です。通常は足も裸足が普通です。この正覚寺にある阿弥陀像は履を履いた姿で珍しい物があります。
秘仏になっていますが非定期で開帳があるのですが、だいぶ昔に観た記憶があるんですが。。。御開帳を期待しています。  加賀市観光が画像を残しているんで 興味のある人は ⇒ 旅まちネット 
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正覚寺の本堂は変わった形状をしていて、寺院群の通りを観ると目立った屋根頂上に灯台のような天窓が観られます。また、裏庭の庭園も綺麗に選定されていて必見です。

正覚寺のお隣が宗壽寺(そうじゅじ)になります。日蓮宗寺院で正式名は「久昌山宗壽寺」。
宗壽寺正覚寺と同じ法華坊町にありました。永禄元年(1558年)、真言宗から日蓮宗に転宗、町の名になった法華坊と呼ばれていたそうです。寛永19年(1642年)頃に現在地に移転したと云われています。
2月には鬼子母神星祭りが行われ、水行が行われ盛況を見せます。
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大聖寺に古くからあった為に、町人の信者が多く存在していましたが、江戸期の武士層では加賀・大聖寺藩士の多くは禅宗(曹洞宗)が多く、男性の多くの墓は全昌寺にありましたが、女性は日蓮宗信者が多くいました。このため、女性の墓はこの宗壽寺に集まっており、男墓・女墓に分かれた二墓制の家が多く在りました。明治以降はどちらかに集められているようです。
現代では宗派が家庭内で分かれるのは少なくなりましたが、江戸時代の武士階級の家庭内の信教が夫婦で違った形はどういう形態かは興味が惹かれます。
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武家層の女墓が目立った宗壽寺ですが、大聖寺藩家老生駒氏の菩提寺になっていたことと、子女墓が多いことから山ノ下寺院の中でも有力だったようです。それを示すように明治維新後に大聖寺関関所門が生駒氏の口利きで山門として移築されています。高さ3m、幅3.15m。屋根瓦は後づけだそうです。



ちなみに、幕府は藩が関所(私関)を置くことは禁じていました。このため、各藩では口留番所という名称で国境警備が行われていました。加賀藩でも最初は口留番所と呼んでいましたが、慶長年間には幕府許可と共に正式に関所を国境6か所に設けていました。その中でも、大聖寺関所は越後・越中国境の境関と共に、加賀藩二大関門と呼ばれていました。境関は幕府の箱根関の倍の人員・規模で知られますが、大聖寺関も藩兵20人が常駐していたとされています。もちろん、緊急時には大聖寺・加賀両藩の兵が駆けつける手はずになっていました。
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宗壽寺の門前には大きな木があります。樹勢がコンモリとして異彩を放っています。宗壽寺のスダジイ

説明板によれば・・・
加賀市指定文化財(天然記念物)  宗壽寺のスダジイ  指定年月 平成元年三月二十三日
宗壽寺の山門の側にあるスダジイの大木である。その樹形、姿体、景観とも雄大で豪壮な樹勢を誇る。このスダジイには十から十一mの主幹上に七種類(スギ、ヤマウルシ、ウメモドキ、タブ、ネズミモチ、ハイイヌツゲ、ツタウルシ)の樹木を着生させ、特にスギの癒着は大木となっている。その実態が珍奇で、景観も特異であり、当地方の自然植生を示す貴重な例として、自然保護及び学術上価値の高いものである。
幹回5.75m 樹高14.5mで枝張りは東西16m、南北19.5mを測る。
                                                  平成七年九月 加賀市教育委員会


確かに一本の木なんですが、近づいてみると違う葉っぱが観られます。大木に蔦や異なる木が寄生するのは見かけますが、これだけの数の木が寄生するのは珍しいですねえ。しかも杉が寄生するとは知りませんでした。
機会があったら側に寄って観て下さい。ただし、漆があるので肌の弱い人はご注意を
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宗壽寺から少し足を延ばして岡を登った所にあるのが本光寺です。法華宗の寺院で正式名は「鳳栄山本光寺
寛永19年(1642年)に、金沢の本光寺(寺町⇒東山⇒卯辰山)と同時期に開創したと云われています。
地名は塚原というように、古墳を思わせる土の盛上がりが見在しますが、学術調査は行われていないようです。
この寺院には、大聖寺では一番、名を知られている日本百名山の作者・深田久弥の墓所があることで知られています。今回は時間が無くて奥まで寄っていませんが、機会があったらまたご紹介します。

岡上に登る途中にも珍しい大木が在ったり、薬医門の山門や法華宗特有の鐘堂・本堂の建物が特徴的です。
卯辰山本光寺の有形文化財指定の薬医門より、こちらの方がしっかりして重厚感があるんじゃないでしょうか。
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ちなみに薬医門は、前面にせり出すような屋根を持つもので、前面の本柱で屋根を加重を支え後方の2本柱が補助の支えになっています。元々は貴族や武家屋敷の正門として広く使われていた時代は、せり出す矢を受け止める「矢喰い」から名が来ていると云われます。江戸期には医者の門として使用されて、左右の塀に小口を設ける形になり「薬医門」と呼ばれるようになったようです。

前に紹介した大聖寺藩主の菩提寺・実性院、山口親子・奥の細道所縁の全昌寺、今回の三寺。
これらの山ノ下寺院群の後方の山は、山口親子の大聖寺城攻めの際に前田軍が本陣を置いた場所であったように、防衛上の重要地で、墓地を配したことも大聖寺藩邸及び城郭の防御を主としています。
しかし、各寺院は歴史的にも観るべき価値や特徴的な事物が多く観られ、寺院巡りのお奨めの場所です。
また機会があれば、紹介していない蓮光寺・久法寺・慈光院(神明宮)を紹介したいと思っています。

旅行日 2015.10.03


この記事へのコメント

  • 家ニスタ

    7種類もの木が寄生している木はめずらしいですね。
    養分をすいとられたり、しめつけられたりして、もとの木が枯れることはないんでしょうか?
    2015年12月10日 22:44
  • つとつと

    家ニスタさん
    これだけ寄生してる気は珍しいでしょうねえ。
    杉は枯れて来てるみたいですが、本体は元気に繁茂しています。
    スダジイって強いんですねえ
    2015年12月11日 10:56
  • go

    大聖寺の山ノ下寺院群は寛永16年(1639)に前田利治が大聖寺藩主になった時に、山ノ下地区に寺院を集めたようですが、仏御前の話が出てくると、ここに集められた寺院はそれ以前に別の場所でかなり古い歴史を持っていたのでしょうね。
    宗壽寺のスダジイは珍しい木ですね、七種類もの樹木を寄生している木は見た事がありません、特にシイの木とは全然違う常緑針葉樹の杉が寄生しているんですから。
    スダジイを一度みたいものです、歴史とは違って実際に目の当たりに見られるんですから、一見の価値が有るようですね。
    2015年12月13日 12:42
  • つとつと

    goさん
    実性院、本光寺などが新設された寺院ですが、多くは場所を移したもので、それ以前の歴史もある寺院のようです。中には正覚寺・宗壽寺のように河川の改修で移された寺院もあるようですが。。大聖寺城や藩邸を守るには要の場所になります。
    スダジイは僕も観て驚きました。こんな木はなかなか観られませんねえ。
    確かに歴史は観られませんが遺されている物は想像を掻きたてます。長い年月を過ごしながらその威容を見せる樹木は一見の価値があります。
    2015年12月13日 20:59
  • 風見 弦

    初めまして・・・

    我が先祖を調べるうちに
    ”大聖寺 生駒”で検索していましたらこちらに辿りつきました


    母方の先祖が肥後熊本細川藩の重臣から
    この生駒家に婿養子に入っており
    家族で写った明治時代の写真が残っています。

    母方の祖父の弟が明治時代にアメリカに留学の後
    シアトルで北米報知新聞社の初代社長を務め
    引退後、帰国し・・・今はこの宗壽寺に眠っております

    少し先祖のことが分かりました事を感謝いたします



    2017年12月06日 20:19
  • つとつと

    風見 弦さん
    ご丁寧なコメントありがとうございます。お母様の御先祖に当たるんですか。それならば、宗壽寺は大事なお寺になりますねえ。
    僕も詳しくは不明なことが多いのですが、大聖寺藩の重臣は初代の前田利治が大聖寺藩立藩の際につけられた家臣団になります。ですから生駒家も加賀藩の人持組・生駒勘右衛門家(3000石)にルーツがあるようです。初代は生駒直勝で、織田信長の馬廻りから豊臣秀吉・秀次、織田信雄・秀雄に重臣としてつかえています。秀雄時代に越前大野にいた関係で、関ケ原後に前田利長がスカウトした人物です。奥さんが織田信雄の娘です。芳春院が江戸屋敷に入った際に同行した一人で、信頼の厚い人物だったようです。
    2017年12月07日 01:38

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  • 大聖寺関所跡
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