加賀海岸③ 橋立港 恵比寿神社

大聖寺川の河口の塩屋浜から橋立港にかけての塩屋町・瀬越町・橋立町は、かつては浜方(はまかた)と呼ばれ、北前船の船主を輩出したことで知られています。最盛期には48名の北前船主がこの地区に存在したそうです。特に橋立には30名の北前船主が居を構えたと云われています。
大聖寺藩は以前に紹介していますが、中期以降は莫大な慢性赤字を抱えて苦しんでいましたが、幕末まで存続できたのは北前船主の隆盛が寄与したと云われています。また、明治にも北前船の隆盛は続き、橋立には赤瓦の屋根や石畳・石垣の豪壮な船主たちの屋敷が立ち並び「日本一の富豪の村」と呼ばれていました。

加賀で有名な北前船の基地となった大野湊や宮腰湊は、金沢という大消費地を抱え荷の揚げ降ろしが行われるために港が整備されていましたが、橋立湊は寄港地であり宿営地のため岩場海岸のまま天然の良港として機能していました。
北前船の衰退と共に天然の湊では、遠洋航海の寄港地や沖合漁業基地としての転用が遅れ、昭和期には大きく衰退して忘れられた地になってきました。また、単調な海岸線における漁港の整備は厳しい物があったと云われています。

ところが、この浜方の沖合には蟹はもちろんですが、多種類の魚介類の好漁場があるために漁業地として注目を集めます。藩政期には北前船が注目され、漁業には注目されていなかったのですが、この好漁場を抱える浜方地区は天の恵みに恵まれていたといえます。
前述のとおり、藩政期から明治にかけては北前船の停泊地でしたが、明治から大正にかけて、県や政府に陳情し橋立港整備の道筋をつくったのが彦野彦蔵という人物でした。大正元年(1912年)に橋立港に漁業組合を設立して組合長として活躍しています。
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橋立港内港と呼ばれる船溜まりと防波堤内の外港で構成されていますが、内港の船の通路を跨ぐようにある歩道橋(御幸橋)を渡ると、橋立漁港の守り神の恵比寿神社があります。
参道を登ると、入口には橋立で獲れる魚介類の供養塔(魚族碑)がありますが、それを過ぎると二つの顕彰碑があります。恵比寿神社の参道沿いにある石垣作りの立派なものが彦野彦蔵の顕彰碑です。右手には彦野彦蔵と、販売事業を主体にする組合活動を推進した吉田清太郎、橋立港修築に努力した沢田宇之助。三人の橋立港の先覚者が顕彰され港を見つめるように建てられています。

顕彰碑文 ・・・ 藩政時代まで見放されていた当地方の漁業の再興に日夜精励された故彦野彦蔵殿、販売事業を中心として組合活動に努力された故吉田清太郎殿、および当時、単調な海岸に漁港修築の望みをかけられた故沢田宇之助殿、この三人の先覚者があらゆる困難を克服し、今日の漁業を発展させ、又漁船の根拠地として現在第三種漁港となる素因を築いた功績は、まことに偉大であります。此のたび橋立漁業協同組合は関係各位の絶大な協力を得、風光明媚な天﨑の一部に、この三人の偉業を讃え、その遺徳を偲び、且つその功労を後世にまで伝えるためここに顕彰碑を建立する次第であります。   昭和三十九年九月二十二日
                               橋立漁業協同組合 橋立漁業漁港功労者顕彰碑建立委員会

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碑文中の天崎というのが恵比寿神社のある地で、外海側にあって船溜まりの漁船を守っています。
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恵比寿神社の神拝殿は小振りな造りですが、狛犬の代わりに錨が建てられているのが、漁港の守り神らしい神社です。神社の裏手に回ると橋立漁港の外海・外港が見渡せるようになっています。
恵比寿神社は名前の通り、えびす神をお祀りした神社です。夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須、恵毘須いろいろな字で表現されますが、いずれも「えびす」と呼ぶものがほとんどです。

ところが、えびす様なんですが、大きく分けると二柱の神様に分けられます。
一柱がイザナギ・イザナミから生まれた最初の子で海に流し捨てられた蛭子(ヒルコ)神。西宮神社(兵庫県西宮市)が総社となっています。
もう一つが大国主の息子・事代主命とするもの。国譲りの神話で大国主から承諾を委ねられた神様です。
出雲の美保が関で漁をしていたとされ海の神様として信仰されています。美保神社(島根県松江市)が総社とされています。
橋立港恵比寿神社は後者の事代主を主祭神としています。美保神社から分祀されたとされています。
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港祭では、天崎に神輿が安置された際には、大漁旗をつけた漁船がその前を敬意を込めて、通るのが習わしになっています。更に恵比寿神社の祭神・神魂を載せた神輿が町内や港を練り歩きます。

北陸自動車道の高速道路を福井から金沢方向に向かうと、尼御前SAを過ぎた辺りから左手に長い海岸線を観ながら直線を走れます。下道を走ると高速道が邪魔で海岸線が見られません。帰り道、片山津ICを過ぎた辺りで、北陸道を跨いで海側に出られる道が行く筋かあります。車でも海の間近まで。。
海岸線には自転車道が整備されているんですが、風が強い日は浪でずぶ濡れになるのは請け合いですので、お気をつけて。。
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旅行日 2015.10.28


※おまけ画像です。以前、木場潟の西園地を紹介した時、台風の影響で湖越しの白山が見られませんでした。まずは前回の白山の観えない画像(H27.09.09)
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夏のような緑は少ないですが、今回は湖の向こうに白い雪をかぶった姿が美しく観えます。もちろん、冬場程ではないですが、夏場でも名前の通り白い姿の白山がみられます。
今回は夕方のために枯れた草木と夕陽の赤味がかって、また違った雰囲気です。
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木場潟には冬鳥たちが飛来していました^^
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                           獅子吼山系も雪を冠してきました。

旅行日 2015.12.07

この記事へのコメント

  • 家ニスタ

    北前船のルートぞいの町って、今では想像もつかないほど栄えていたみたいですね。
    いぜん青森の深浦という町に行って、資料館を見たんですが、江戸時代にはたいへんな繁栄ぶりだったようで、おどろきました。

    今年も拙ブログをご覧いただき、コメントも頂戴して、ありがとうございました。
    来年もよろしくお願いいたします。
    m(_ _)m
    2015年12月31日 22:30
  • がにちゃん

    あけましておめでとうございます
    今年も宜しくお願いします
    白山 綺麗ですね 
    北前船 この繁栄が加賀藩の経済的基盤になっているのでしょうね
    2016年01月02日 22:13
  • つとつと

    家ニスタさん
    あけましておめでとうございます^^
    家ニスタさんのブログは興味深い物ばかりで、いつもニッコリしたり、興味深く読ませて頂いています。

    北前船の寄港地は、今はそれ程でもない地が多いのですが、船主の館や旧家にはごつい棟柱や船ダンスで往時が偲ばれます。橋立には屋敷が多く公開されているので興味深いですよ^^

    がにちゃんさん
    あけましておめでとうございます。
    この時季になると白山が名前の通りくっきりと浮かび上がって、美しい姿が見られます。加賀の人間には見慣れた山ですが、離れて久しぶりに観ると心が現れる山姿です
    富山藩・加賀藩・大聖寺藩共に北前船からの献金や公用金は大きく財政に寄与していました。明治以降には、北前船主から他分野に移った人物たちが、国・地方の文化や事業に貢献しています。
    2016年01月04日 14:26

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