仏御前の里①

平家物語は、作者は信濃前司行長(信濃入道、下野前司・藤原行長)が生仏(しょうぶつ)という東国武士出身の盲目の僧に教授して語らせたのが始まりというのが有力視されています。琵琶法師が各地を巡って口承で伝承してきた語り本、語り本を読み物として加筆・付加した読み本があるそうですが、十二巻(覚一が付加した灌頂巻を含めると十三巻)で約200曲があります。
琵琶法師という語り部が伝えた曲をベースにしているために、読み本も口語に近い原文で読みやすく、歴史的には平家を極端に蔑むことを差し引けば、古文の入門書としての価値もあると思います。是非、一度は読んで欲しい古典です。

平家物語の巻第一の五・六曲目にある「祇王」は、軍記物の原本に平清盛の悪行を示すものとして後付けされたものとか言われますが、なかなかの文脈で興味深いものがあります。

奥嵯峨の祇王寺には竹林や吉野窓に惹かれて多くの方が訪れているようです。ところが寺院の名称にもなっている主人公の祇王、更にはもう一人の主人公・仏御前、祇王の妹・妓女、祇王・妓女姉妹の母・刀自の平家物語の全文を読んだ人は少ないと思います。

原文や現代文の書籍を転写すると問題がありそうなんで、ちょっと自己流で原文を現代文にして「祇王」の段を紹介することに。。。

                              祇     王

入道相国(平清盛)が天下を掌握すると、世上のやっかみや誹りの声も無視して、余人の理解できない行動ばかりに走りました。例えば・・・
京の都に評判の白拍子の名手として祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)がいました。この姉妹は刀自(とぢ)という白拍子の娘たちでした。入道は祇王をことのほか気に入り寵愛し祇王・祇女を邸宅に引き入れ裕福な暮らしをさせています。母親にも屋敷を作ってやり毎月米百石・銭百貫を贈ったそうです。親子は幸せの絶頂にあり、世上の人々も羨んで、妹の祇女をももてはやしたそうです。

我が国の白拍子の始まりは、鳥羽上皇の時代に、島の千歳(ちとせ)、若の前という二人が舞ったことが始まりだそうです。はじめは水干(すいかん)に立烏帽子、白鞘巻(白鞘の小刀)をさして舞ったので「男舞」と呼ばれていました。やや経って烏帽子と刀を外して、水干のみを用いるようになって「白拍子}と名づけられたそうです。

祇王の幸運さを伝え聞いた都中の白拍子たちは羨む者や妬む者が大勢いました。
羨む者は「祇王はなんて幸せ者なんだろう。芸能者ならば誰れでもあのようになりたいよね。」「きっと『祇』という文字を名前に使っているから幸せを得られたんだよ。わたしも、あやかって、使ってみよう。」
おかげで、白拍子の中に『祇』を自分の名に使って、ある者は「祇一」と名乗り、あるいは「祇二」、「祇福」「祇徳」など続出しました。
しかし、多くの妬んだ者は「文字や名前を変えたって無理だよ。幸せは前世からの因果で決まってるんだから、」

3年ほどの月日が過ぎた頃、都に一人の白拍子の名手が現れます。加賀出身で名前を仏といいました。歳は16歳だそうです。
「昔から、多くの白拍子がいたけれど、このような舞いの名手は観たことがないぞ。」と評判になり、都のあっちこっちからお呼びが掛かるようになっていました。
自信を得た仏御前はこう思い立ちます。
わたしも演技と名前が都中に評判を知られるようになったけど、栄華を極めている太政入道殿(平清盛)に呼ばれないのはくやしいじゃない。そうだ。芸能者ならいいじゃん。自分で売り込んでやろう。」
というわけで、自ら西八条の清盛の屋敷に乗り込んで行きました。

「昨今、都の市中で評判になっている仏御前という者が参っております」と、取次人が清盛に伝えたのですが、
それを聞いた清盛は、「なんで、そんな芸能者が自分からのこのこやって来るんじゃい。芸能者は主人に呼ばれたら従って来るものだろう。そもそも、ここには祇王が居るんだぞ。神か仏か知らないが敵うわけがないだろうが、サッサと帰れ。」

その素気無い言葉に、仏御前は悄然として帰ろうとしたところ、祇王が入道殿にとりなして助言してやりました。
「芸能者が自ら売り込むのは当たり前じゃないですか。年若な身なのに勇気を出してやって来た者を、そんなふうに素気無く追い返すなんて可哀想じゃないですか。どれほど恥ずかしく、きまりが悪く感じたことか。。」
「わたしも同じ芸道をする者として、他人事とは思えません。たとえ舞や歌を観たくも聴きたくもないと思っても、お情けで会ってあげるだけでも良いではありませんか。」
それを聞いた入道は、「そこまで、おまえが言うんだったら、会うだけ会って帰してやろう。」と、取次に伝えさせます。

清盛に素気無く言い放たれた仏御前は、すごすごと車に乗ろうとしている時でした。それを取次に呼び戻されて、入道に対面することになります。
「今日は会う気もなかったけど、祇王があまりにとりなすから会ってやるんだぞ。まあ、会ったかぎりは声ぐらいは聴かねばなるまい。今様のひとつでも歌って見せろ。」
仏御前は「承って御座います。」と答えると、今様を一節歌いました。

君を初(はじめ)見るときは 千代も経ぬべしひめ小松 
                  おまへの池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ 


と、三度繰り返して歌いました。それを聴いた一同はみな耳目を驚かせて聴き入ります。入道相国も実に興味を持ったようで、「おまえの今様は見事だ。これならば舞もきっと良いものであろう。一指し観ようではないか。鼓を打て。」と、所望します。仏御前は鼓を打たせて舞を披露しました。
仏御前は髪の姿ももちろん容貌も優れ、声は良く歌の節回しも良く、心の動揺も見せず舞をミスることもなく、舞を披露し終えました。

君が代を ももいろという うぐひすの 声の響(ひびき)ぞ 春めきにける

と、歌いながら舞い踊る姿に、入道相国は舞を褒めそやして、ついには仏に心変わりしてしまいます。我がものとして屋敷に留め置こうとします。これには仏御前も祇王もビックラコ。
仏御前「これはどうしたことでしょうか。元々、わたしは自分から勝手にやって来た者で、追い出されたのを祇王御前のとりなしで呼び戻された身です。このように留め置かれるのは祇王御前がどう思われるでしょうか。早々にお暇(いとま)させて下さい。」
入道「あかんあかん、そうはいかないんだよ。なんで祇王に遠慮する?それなら、祇王が出て行けばいいんじゃ。」
仏御前「そりゃまた、どうしてそうなるの。一緒に召し置かれるだけでも心苦しいのに、祇王御前を追い出してわたし一人を留め置かれたら辛すぎます。もしも後々まで覚えていて召し出して下されば参上しますから、今日は帰して下さい。」
入道「あかんあかん、そんなことは許さんからな。祇王はサッサと出て行かんかい」と、三度も使いを重ねます。(直言でなく取次を通して)

祇王も自分の境遇からこういう日が来ることは覚悟していましたが、まさか今日いきなりとは思っていませんでした。「すぐ出て行け。」の度重なる催促に、部屋の掃除をし、片付けをして出て行くことに決めました。一本の木の陰に共に暮らし、同じ時の流れに共に過ごしたことが、別れとなれば悲しいものである。三年の間住み慣れた屋敷の為、名残惜しく悲しくて、自然に涙がこぼれてきます。しかしこうなってはしかたなく「あきらめよう」と出て行こうとした際に、「いなくなった後の形見にでも」と思い、障子に泣きながら一種の書きつけをしたためました。

もえいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あわではつべき

さて、車に乗って宿所に帰り、障子の縁に倒れ臥して、ただただ泣き続けておりました。母や妹が「どうしたの、どうしたの。」と問いかけても返事もできない状態です。祇王の側に仕える世話女に尋ねて、この突然の出来事を知ることになります。

さて、毎月贈られていた米百石銭百貫も止められ、今では仏御前の縁者が栄えていました。都の市中では「祇王が入道殿に暇を出されて退出させられた。それじゃ、行って遊ぼうじゃないか。」と、文を送ったり、使いを送る者が続出しました。しかし祇王は「今更、人に会って芸を披露する気になれない。」として、文は読まず、まして、使いに会おうともしませんでした。こういった境遇の変化にも悲しくて、涙に沈み込んでしまうのでした。

こうして年が暮れあくる春の頃、入道相国は祇王に使者をたてます。
「祇王どうしている。その後、なにかないか。近頃、仏御前があまりに寂しげにして思い悩んでいるようだ。参上して今様を歌い、舞などを舞って仏を慰めよ。」
祇王は返事も出来ず、涙をこらえて寝込んでしまいました。ところが入道は重ねて使者をたて、
「祇王、なんで返事をしないんじゃ。参らぬなら、参らぬでその訳を言わんかい。黙っていると浄海(清盛の法号)にも考えがあるんだからな。」

母の刀自がこれを聞いて、「どうしたのです、祇王御前。とにかく御返事を申さねば。このように怒らせては。。」

祇王は涙を抑えて言うには、「行こうと思ったら、やがて「参ります」と申します。行きたくない者は何と返事を言えますか。この度の「呼出しに来なければ、考えがある。」というのは、都の外に追放されるか、そうでなければ命を奪われるか、これ以外にはないでしょう。たとえ命を奪われようとも我が身が惜しいわけではないし、また都の外に追放されたとしても嘆くべき必要もありません。ひとたび鬱陶しいと思われたのなら、再びお伺いする甲斐はありません。」と言って、なおも返事をしませんでした。
母の刀自は重ねて教え諭しま。「この国に住む者は入道殿の仰せに逆らうことはできません。男と女の事や因縁は今に始まったことではありません。千年、万年と誓い合っても別れることはあるし、かりそめの仲だと思っても終生添い遂げることもあります。それが男女の定めというものです。御前は三年も愛されたのは、ありがたいことではないですか。呼出しに応じなければ、命を奪うまでは致しますまい。都の外に追放されるでしょう。たとえ都の外に追放されても御前達は歳が若いですから、どんな岩木の狭間でも棲すことができるでしょう。けれども、わたしは年老いて弱く衰えてしまい、都から放り出されては慣れない僻地の生活は、思うだけでも悲しくなります。わたしを都で終生を暮らさせてくれまいか。それが今生、後生の孝養だと思って欲しい。」
祇王は気が重い道と思いながらも、母親の命に背けぬと、泣く泣く赴くことにします。しかし、その心中は実に痛ましかった。涙ながらに

露の身の わかれし秋に きえはてで 又ことの葉に かかるつらさよ

「一人で行くのはあまりに切なすぎる」として、妹の祇女も同行することにします。その他に白拍子が二人。合わせて四人で一つの車に乗って西八条へと赴きました。これまで召された部屋に入れてもらえず、はるか下方に設けられた座敷に控えさせられます。
祇王は「これは何ということだろう。わたしは何も過ちを犯していないのに捨てられた。その上に座敷までをこのように遠ざけられるとは悔しい。ひどすぎる、どうしたらよいの。」と思うだけで、人に知られまいと顔を押さえた袖の間から涙が零れ落ちます。
仏御前はその姿に痛ましさを感じ入道に頼みます。「いつも控えていたお部屋なのですから、こちらにお呼び下さい。でなければ、わたしに暇を下さい。出て行って直にお会いいたします。」
入道は「絶対にそれは許されん。」 仏御前は力及ばず出ることができませんでした。

入道がやがて出てきて祇王に対面しました。
「祇王よ、その後変わりはないか。仏御前があまりに鬱々としているのじゃ。気晴らしに今様でも一つ歌ってくれ。」
祇王は「ここまで来てしまっては、ともかく言葉には逆らえない。」と思い、零れそうになる涙をこらえて今様を一つ歌いました。

月もかたぶき夜もふけて 心のおくを尋ぬれば、仏も昔は凡夫なり、われらも遂には仏なり、いづれも仏性 具せる身を、へだつるのみこそ、悲しけれ

と、二度、三度と涙ながらに歌ってみれば、座に居並んでいた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍たちに至るまで、みな感動の涙を流されました。
入道もバツが悪かったようで「即興にしては、うまいことを言うもんだ。これからは呼ばれずともここに来て、今様や舞を舞って仏を慰めてやれ。」
祇王は答えることもできず、涙をこらえて退出しました。
祇王「母親の命に背いてはならないと、辛い場所に赴いたけれど、再びこのような憂き目を見るとは悔しい。」

祇王「生きてこの世に在れば、またこのような憂き目を見なければならない。今はこの身を投げようと思います。」
妹の妓女も、「姉さんが身を投げるなら、わたしも共に身を投げます。」
母の刀自は二人の嘆きを聞いて、二人の心情を思いながらも、涙ながらに教え諭します。「貴女がこの世を恨む気持ちは解ります。このような事が起こるとは思いもせず、教え諭したことが口惜しい。しかし二人の娘が共に亡くなれば、年老いて容貌も衰えた母が一人残ってもどうしようもない。わたしも共に身を投げましょう。ですが、いまだに死期も来ぬ親に、身投げをさせるというのは五逆罪になりましょう。この世は仮の住まいとはいえ恥じても何もありません。今生でこそ孝養はあるのです。後生では悪道に赴くことになります。」
と、袖を顔に押し当てて、さめざめとかき口説くと。。
祇王も涙を抑えて、「一時の恥をかいた口惜しさに申してしまいました。誠にそのように思います。親を道連れにすれば五逆罪はまちがいありません。されば自害は思い留まります。こうして都にいては、また憂き目を見ることになります。都の外に出ようと思います。」

そうして、祇王二十一歳にて尼となり、嵯峨の奥の山里に柴の庵を結んで、念仏の世界に入りました。
妹の妓女も「姉さんが身を投げたら、共にわたしも身を投げると誓ったんだから、まして出家するというのなら、だれに後れを取りましょうか。」と十九歳で出家、姉と共に一所に籠って後世を願う姿は哀れである。
母の刀自は娘たちの姿を見て、「若き娘たちに、このような仕打ちをする世の中に、年老い、容貌も衰え、白髪姿になっても何にもならない。」とて、四十五歳にて髪を剃り、二人の娘と共に一向専修に念仏して、偏(ひとえ)に後世を願う姿はやはり哀れを感じさせました。
、こうして春が過ぎ夏の盛りに秋の初風が吹いた頃、七夕の空を眺めつつ、天の川を渡る梶の葉に願い事を頃であろうか。夕陽の影が西の山に落ちるのを観ては、「陽の入り給う所は西方浄土なのですねえ。いつか、わたし達もそこに生まれて、嘆いたり悲しんだり物事にこだわらずに過ごせるのでしょうか。」それでも、尽きぬのは涙でした。

黄昏時が過ぎ、竹の編戸を閉じ、薄暗い燈火の中で、親子三人で念仏をしていると、ホトホトと竹の編戸を叩く者がいました。尼たちは肝を冷やすほど驚いて。。
「ああ、これは未熟なわたし達の念仏業を邪魔しようと、魔物が来たのかもしれない。昼でも人が訪れない山里の柴の庵なのだから、こんな夜更けに誰が訪ねてくるというのでしょうか。粗末な竹の編戸なんですから、開けなくても、打ち破って入るのは簡単なこと。ならば開けて入れてやりましょう。それで情け容赦もなく命を奪うというなら、日頃、頼み奉る弥陀の名号を称えなさい。念仏の声に応えて来迎する菩薩様達ならば、導いて下さらぬわけがありません。念仏を怠ってはいけませんよ。」と、互いに心を決めて竹の編戸を開けてみれば、魔物などではなく、仏御前がそこに居たのでした。

祇王「これはいかに、仏御前ではないですか。夢かうつつか。。」と言えば、
仏御前は、涙を抑えながら、「このような事を申しても、繰り言になってしまいますが、言わなければまたしても見て見ぬふりの薄情者になってしまいます。初めの事からお話しいたします。元々、わたしはいきなり乗り込んだ身で追い返されたところを、祇王御前のとりなしで召し戻されたものですが、女という弱さが心に思う通りにさせて貰えず押し留められたのは、心苦しくも情けないことでした。貴女が暇を出されたのをみて、「明日は我が身になるに決まっている。」と思えば、嬉しさなど一切ありません。障子の『いづれか秋に あはではつべき』と書き置かれた跡、『まったくそのとおり』と思い知らされました。先日またしても貴女が召し出されて、今様を歌った際にも更に深く思い知りました。」

仏御前「その後、貴女の行方を知らずにいたのですが、このように姿を変え皆様一緒に隠棲していると知った後は、あまりに羨ましく感じ、何度も暇乞いを申し上げていましたが入道殿は頷いてはくれませんでした。つくづくと思案にくれていると、この世の栄華は夢の中の夢にすぎず、楽しみ栄えてもなんだというのでしょう。人の身として生まれたことは難しく、仏の教えに接することも難しい。この世から泥犁(ないり)に沈み落ちてしまえば、多生曠劫(たしょうわごう)を経ても浮かび上がることは難しいでしょう。年若いことを言い訳にしても詮無いこと。死や転落には老若の境などありません。一呼吸の間も置かれず。蜻蛉(かげろう)、稲妻のように果かなく切ないもの。一時の快楽に溺れて、後生を知らぬということは悲しいことです。今朝、隠れて出奔し、このような姿で参りました。」、上衣を脱ぐと、尼の姿となってそこに居たのでした。

仏御前「このような姿に変わって参りました。これまでの罪を許して下さい。「許さん」と仰せならば、共に念仏に精進して、一蓮托生となりましょう。それでも尚、心に納得が行かないならば、これより何処へと彷徨い行き、苔の莚(むしろ)や松の根を枕に眠り、命のあらん限りに念仏修業をして、往生の願いを遂げましょう。」と言って、顔に袖を押し当てて、さめざめとかき口説いたのです。
祇王もまた、涙を堪えて申しました。「誠に、それほどに貴女が思い悩んでいるとは夢にも知らず、浮き世のせいで自分の身の不運を思えばよいのに、貴女が恨めしく、とても往生を遂げられるとは思っていませんでした。今生も後生もなまじに損じていると思っている時に、貴女がこのように姿を変えて来られたことは、これまでの罪は露(つゆ)とも塵(ちり)程にも残らず、往生本懐も間違いありません。願いを叶えられることが嬉しいのです。わたし達が尼になったことを、世の人々は珍しいことのように言い、わたし自身もそう思っていましたが、それは世を怨み、身を怨んで出家するのは世の常のことです。貴女の出家はそうではない、あなたの出家に比べれば、物の数にもなりません。貴女の出家には嘆きもなければ、怨みもありません。今年僅かに十七になる人が、このように穢れた世を厭い、浄土を深く願うのは、誠に求道心と感銘いたしました。わたし達を導いて下さる方です。諸共に精進いたしましょう。」

柴の庵に四人一緒に籠り、朝夕に仏の前に花と香を供え、余念を混じえず仏道に願い続けたおかげで、遅い早いはありましたが、四人の尼御前はみんな、望みの往生の本懐を遂げたそうです。
それゆえに、後白河法皇が建てた長講堂の過去帳にも「祇王、妓女、仏、刀自が尊霊」と四人一緒に載せられています。ありがたくも哀しいことであります。  (終)



長々と「祇王」を載せてしまいましたが、読まれたとおり、浄土信仰の思想が強く入っているので、敬遠する方も多いようですが、個人的には仏教用語を除けばけっこう惹きこまれて、昔から何度か平家物語は読み返しています。

「祇王」の中では題名の通り、白拍子の主人公・祇王の有為転変が描かれているのですが、ライバルとなって祇王を奈落に落とす存在が仏御前。最後は仲良く終の人生を山里の庵で、仏道に過ごしたたのですが、それが幸せだったのか不幸あるいは逃避だったのかは、本人たちの心境であり、読み手の感じ方によると思います。二人の存在は文中では際立っています。
ただ、気をつけてほしいのは、白拍子=遊女という一種の偏見を持たないことです。白拍子は芸を売りながら春を売るという風に一般に思われています。それは一部市井の白拍子には生活の糧として行う者も居たようですが、文中に出てきた祇王・妓女姉妹、仏御前、更には鳥羽法皇時代の島の千歳、若の前のように、皇族や公家の屋敷に出入りをする白拍子は特別な存在だと思った方が良いということです。

芸能をこととする白拍子は皇族・公卿にとっては河原者ということになります。つまり本来は下賤の者として近づけたくない存在です。ところが、鳥羽法皇の父・白河法皇は白拍子だったと云われる祇園女御(女御の氏素性は諸説が多く不明ですが)に通ったと云われ、後白河法皇も今様に凝るあまり白拍子を観に行ったり、側に近づけています。また、公卿の方でも、宴席を開いて自分の屋敷に呼んだりしていました。

祇園女御、祇王、仏御前、更には有名な義経の静御前の存在から高級娼婦という印象が強くなっています。またそういう風に解釈する歴史家が居るのも確かです。
しかし、義経が含まれるかは疑問の余地がありますが、白河・鳥羽・後白河といった当時の皇族や公卿というのは、武芸を除く絵画や書、舞楽、歌曲など祭り事が最大の職務で、政治をまつりごとと呼ぶほどです。つまり、芸術分野を含む知識分野の最高権威になるわけです。こういった人たちの屋敷に出入りする白拍子は、相当の機微と知識、技能を持っていなければならず、それとは別に格式にも精通、また持っていた、持たされていたと推測されます。
その筆頭とも云える祇園女御などは正式な女御ではありませんが、他の女房たち以上の女御待遇を受け、待賢門院(璋子)を養女として養育・教育して鳥羽帝に嫁がせ、崇徳・後白河の母としています。また今回の主人公の一人・平清盛も祇園女御の猶子となって、教育や引き立てを受けた一人です。

名の知られる白拍子とその夫と云われた有力者は、後年の芸者と大旦那の関係に近いと思った方がよいと思います。白拍子は自身の知識技能を伸ばすためや、名前を広めるには、大旦那というパトロンが必要だったといえます。祇園女御は白河法皇に専属として身請けされたと思えば早いかも。。
また、出身にしても雑多ではあるものの、祇王・妓女の母で白拍子の刀自は近江・野洲(現野洲市・妓王寺付近)の江部荘、保元の乱で戦死した北面の武士・橘次郎時長の妻だったと云われています。
仏御前は、小松原村(現小松市原町)にあった花山上皇建立の五重塔の京から派遣された塔守・白河兵太夫の娘で、共にそれなりの素養・素地を持つ出身でした。

文中では、四人一緒に生涯を過ごしたことになっていますが、祇王寺には祇王・祇女・刀自(閉)の墓と清盛の供養塔はありますが、仏御前の墓はありません。
仏御前は庵でみんなと過ごしたということですが、妊娠していることが発覚。庵で出産することは仏道に観励むみんなの妨げになるということで、郷里の加賀国小松原村に戻って出産することにし、帰国してしまったためです。仏御前は原村に到着寸前に白山麓・木滑で出産しますが、子供は生後2週間で夭逝、原村に庵を建てて仏門に過ごしたとされています。加賀国は平家の知行国のひとつで、つながりが深く、清盛から贈られた靴履阿弥陀像を大事に過ごしたと云われます。しかし帰国3年で短い生涯でした。

ところで、異説や疑問も残っています。祇王寺にある祇王(性如禅尼)とされる墓標には「承安2年8月15日」の銘があります。ところが仏御前が京でデビューしたのは承安4年(1174年)で祇王の生きた時期と2年の開きがあります。仏御前が清盛と別れ出家して報音尼となって、往生院(現・祇王寺)に入ったのが治承元年(1177年)。
文末の長講堂には4人の名が残されていますが、白拍子から出家していた祇王親子と仏御前の行為が、合わさって伝えられたのではないかという考えも在ります。また、祇王自体が存在しなかったという説もあります。

次回は、この物語のつづき 仏御前の里を紹介します。




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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    鉄道唱歌の曲に合わせて覚えた平家物語  祇王祇女刀自仏御前 何となく知っていた物語 この文章を読んでなるほど・・・ 白拍子の立場 静御前も白拍子だったのですよね
    2016年01月18日 22:02
  • つとつと

    がにちゃんさん
    がにちゃんさんの地元京都では有名な祇王寺。そこのお話ですが、なかなか面白いでしょ。白拍子は芸者・芸子に繋がって行ったんだと思います。そう思えば、京文化の一端を担った存在ですね。
    静御前も有名ですよね。鎌倉で舞った「しづやしづ・・・」は有名ですよね。
    2016年01月19日 20:40

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