大聖寺関所跡

加賀藩は分藩した大聖寺藩7万石・富山藩10万石を含めると120万石の大藩でした。
その分国は能登・加賀・越中・飛騨の一部と広範囲に及び、国境の警備防衛・特産品の流出・不審者の流入・民の逃散には気を使っていました。このために、多くの口留番所を設置していました。

関所というのは元々は防衛目的が主務で、古代には武器庫と軍票を常備したもので、中世の出城の要素が強い物でした。
中世になると寺社・貴族・守護などが関銭目的の関所を設けて通行規制を行いました。あまりの乱立に通行税が高騰して、流通には大きな支障をきたしました。これを撤廃して商業流通を活発にして町を発展させ、大きな軍費の獲得と神速の移動を可能にしたのが織田信長でした。ただし関所を撤廃したために、通行が自由になりすぎて明智光秀の急襲を受けて本能寺の変を招いています。もし、丹波から京都にかけて関所があれば、そう簡単に明智軍が京に侵入を果たせなかったはずです。そういう功罪が関所にはありました。
信長の跡を継いだ豊臣秀吉も商業重視で関所を撤廃しています。

徳川幕府は両者の功罪から、江戸防衛の面から関所を53カ所設置していました。有名な所では東海道の箱根関、中山道の碓氷関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関、北国街道の関川関が有名です。主要道に配置された関所は、初期は江戸防衛の立場からでしたが、「入鉄砲出女」という言葉の通り、江戸での武器使用が可能な鉄砲持込みの規制、江戸屋敷からの大名の妻の勝手な帰国の阻止も役目になっていました。

前述のような観点があるため、幕府は大名には基本的に関所は許可していませんでした。
このため、大名家では国境の警備・特産品の密流出・流民の防止が必要なために、番所という名で簡易な警備体制の施設を設けていました。国境や地域境警備にあたる番所は「口留番所」と呼ばれていました。
しかし大藩になると、規模の面から警察組織の番所ではなく、軍組織の関所の必要性が生じ、幕府の許可の元に関所を設置していました。
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加賀藩では多くの番所・口留番所がありましたが、重要視される国境に8カ所の関所を設置していました。その内、富山藩2か所、大聖寺藩1か所が含まれています。
北陸に入る道筋となる、飛騨街道の神通川両岸の街道にある猪谷には加賀藩の東猪谷・富山藩の西猪谷関。北陸道の越中・越後の国境には境関。加賀・越前国境には大聖寺関。この三か所は特に重要視されていました。その中でも境関は江戸幕府最大の箱根関を上回る小さい城の規模と軍備を誇っていました。

大聖寺関所は慶長15年(1610年)には既に設置されていたと云われています。
越前からの侵攻を防備する目的が大きかったようですが、後年は前述のように国内安定の目的が重視されたようです。
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旧街道にもなる加賀温泉郷の山代・山中温泉からの国道364・305号と、北国街道の本道だった小松・菅生石部神社方向からの県道145号が東の菅生交差点で合流して、大聖寺の市街を経由して越前に向かいます。大聖寺城の在った錦山の真南を通過する街道の出口に大聖寺関所がありました。
ちなみに、大聖寺から平安期には皇室領の荘園もあった熊坂を越え、片山津GCの農道を越えた先に細呂木という集落がありますが、そこが幕府親藩の越前藩が番所を置いていました。つまり、対加賀藩対策に置いた出先機関です。番所の手前の橘には越前・加賀両藩の通信連絡の場と言える伝所が設置されていまっした。
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大聖寺関所跡地には、以前までは角柱の道標しかなかったのですが、近年になって土地所有者によって関所門が復元されています。
現在、関所の木柵と関門がある大聖寺関町の交差点は、大聖寺藩兵が常駐した番所館が置かれていた場所だそうで、本来の関門があったのは道路拡張で交差点道路の下になるそうです。

寛永16年(1639年)大聖寺藩成立。関所管理は加賀藩が支配権を持っていましたが、大聖寺藩に平素は委任されていました。
大聖寺藩では番兵10名余りを常駐させていましたが、有事発生時には加賀藩から兵が派遣される決まりになっていました。実績としては加賀藩主の死去、金沢城の罹災時などがこれに当ったようです。

関所の任務としては越前からの越境者の荷物検閲が重視されていました。関門は日の出とともに開門され、日没と共に閉門され、夜間は通行禁止となっていました。
加賀から越前に抜ける者には、宿の主人に身分証明の許可状を発行して貰い持参しなければなりませんでした。逆に入国者には通関札を持つ者しか通しませんでした。入国に厳しい詮議を行った薩摩藩程ではありませんが、加賀藩も対幕府には敏感で閉鎖的な面が多く見受けられます。
しかし、前述の加賀温泉への他国からの湯治客に関しては例外で、関所で村肝煎り連名の入湯人過書を持たせて通過させていました。大聖寺藩の重要観光資源の温泉湯治客が大きな資金源だったことが覗われます。奥の細道の芭蕉一行も山中温泉で長期滞在していますから、江戸時代にも人気の湯治場だったようです。
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前述の入出国の許可状(出切手)や通関札(入り切符)とは別に関銭も徴収していました。文化・文政時(1812年~)では、許可状の発行に銭八十文(約300円)を徴収していました。これが旅の一般民衆には評判が悪かったようで、修験僧で全国の山を修業として廻った野田泉光院が記した「日本九峰修業日記」の中で批判しています。
加賀百万石の国主の御掟至って理不尽のなされ方と存ぜられ候」要約すると、「百万石の大藩のくせに、なんてガメツイことをするんだ。せこい奴だ。
旅をする人にとっては関所前で一泊させられて、あげくに追加料金を取られるんですから、悪態の一つや二つつきたくなるでしょうね。
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現在は当地には復元柵と道標以外、関所の面影はありませんが、以前紹介した大聖寺の山ノ下寺院群の宗寿寺に山門が払下げられ、寺院の山門として残されています。東町の個人宅には、関所で使用されていた関所用具六点(刺又(さすまた)・突棒・袖搦(そでがらみ、もじり)・弓・槍・薙刀(なぎなた))の完品が残されているそうです。
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大聖寺関所は享保3年(1718年)以降は口留番所に改称したという文献が見られるようですが、多くの文献では大聖寺関となっています。明治2年(1869年)に撤廃され姿を消しています。

旅行日 2015.12.29





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この記事へのコメント

  • minoc

    関所の功罪、興味を惹かれました。
    江戸時代は空前の旅行ブームでしたが、そこに各地の関所が融通無碍に対処したことが、当時の文献に見られるようです。
    江戸の幕藩体制を封建主義の圧政と観たかつての教科書、いまはどのように記述されているのでしょうか。
    2016年02月10日 14:30
  • つとつと

    minocさん
    江戸時代中期以降は国内旅行が大流行していましたから、関所は現代から考えるよりは緩やかだったようです。一応、関所破りは磔刑でしたが、けっこう柔軟に対処していたようで判例は多くはなかったようです。ただ、薩摩藩や加賀藩では重関では相当厳しかったようです。
    以前は圧政のイメージが強いですが、実際には言われる程の事はなかったようです。中学の教科書を観たことがありますが、それ程表現は厳しくないみたいです。でも、自分たちの頃に比べると、ずいぶん変わった所も多くて???になることも多いですねえ。。大聖寺を書いていたら、以前行った境関にも再訪したくなりました。あちらには資料館や資料も多いので興味深かったです。お昼は何と云ってもタラ汁が名物だし。
    2016年02月11日 13:10
  • がにちゃん

    先日とあるTV番組で加賀百万石を守った「おまつさま」の事を放映されていました 陰に女あり  関所も藩を守る大事なものだったのでしょうね  
    2016年02月12日 11:17
  • つとつと

    がにちゃんさん
    江戸期以前は名前(諱)を表に出さないので、本名が出てくるというのは相当な人だったというのが解ります。しかも、女性ですから。。加賀藩には多くの女性が歴史の表や裏に出てきます。それだけ女性の力が大きかったんだと思います。
    対外的にも、外部流出の為にも藩を守るには必要悪の部分が大きかったのが関所だと思います。藩が変われば異国という通関事務局の役目だったんですねえ。今は日本国内はほとんど自由ですからねえ。将来は世界も広がればいいんですが、問題山積みですね。
    2016年02月13日 11:07
  • 家ニスタ

    幕府ではなく、各藩が設けた関所というのもあったんですね。
    興味ぶかく拝見しました。
    なるほど、関所があったら本能寺の変は起きなかったでしょうね。
    関所の撤廃は信長や秀吉が有名ですが、他の大名にもそうした例はあったのでしょうか?
    2016年02月14日 18:15
  • つとつと

    家ニスタさん
    加賀藩・薩摩藩以外にも会津藩や津軽藩なども正式な関所を設けていたようです。
    関所の撤廃は織田信長の選挙公約みたいなもので、自分の領内には一切禁止を行っています。寺社勢力と軍事衝突した原因は関の撤廃の強行も影響していました。
    ただ、防備の面がおろそかになったのは、関の全面撤廃も主要な場所には必要だったと思うんですが。。もしくは、自分の直属の親衛隊がなかったのも大きかったと思います。信長は自分の公約を履行して、自分の公約に死んだともいえますね。
    他の大名も経済流通の必要性は解っていましたから減らす努力はしていたようですが、寺社との関係があるかぎり自国の関や市座を無くすのは難しかったと思います。
    当然、寺社の関があれば、それに対抗する番所や関が必要になるジレンマがあったようです。
    2016年02月14日 18:59
  • メミコ

    今回も初めて知る内容になるほどです
    関所といえば こちらでは箱根の関所 箱根の関所の記念館みたいな施設で当時の様子を知ることができますが かつては関所がいたるところにあったのですね
    2016年02月16日 11:03
  • つとつと

    メミコさん
    関所はけっこう多かったみたいですねえ。流民対策や他国からの隠密や特産品の盗みには頭を悩ましたようですから。加賀藩も逆事例なんですが、南部藩の国外持ち出し禁止の青森ヒバの苗木を盗み出して県内に広めたのが、高級建材や輪島塗の下地の能登ヒバだと云われていますから、敏感だったんでしょうね。
    関所と云われて一番に浮かぶのが箱根の関、何といっても幕府が重要視した関所ですから、逸話も多いし。。見て見たいです。
    そうそう、境関にも資料館があるんです。機会があったら紹介しますね。タラ汁が名物の場所なんですよ^^V
    2016年02月16日 20:43

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