前田利常灰塚 ~徳橋神社 ~埴田の虫塚

ここのところ、加賀市に行く機会が多くて、山側バイパスから小松の八幡で国道8号に合流する産業道路をよく利用していました。この産業道路は広告看板が禁止されていて景観重視の要素が大事にされています。それはそれでとても良いことなんですが、金沢・松任・鶴来の分岐点の安養寺交差点から国道8号に合流する小松の八幡まで延々と続く片側2車線は、多少の起伏とカーブがありますが走りやすく、ドライバーはついつい飛ばし気味になってしまいます。
途中には松任グリーンパークいしかわ動物園、辰口丘陵公園など家族連れに人気のスポットもありますが、ビジネスや作業の営業車は脇目もふらずスピードに乗って走って行きます。

この産業道路のおかげで近接した場所に、精密機械系の工業団地や住宅地が形成されています。自然景観や緑をそこなうというなどの欠点はありますが、事前調査で埋もれていた遺跡や古墳など多くの歴史的遺物が発見されています。
そういう面では、この道路が開発されると聞いたときに期待したのが加賀国府の特定でした。日本の各地に置かれた国府のなかでも一番最後に出来た国府なのに、場所が特定されていない加賀国府は石川の歴史の中で最大の謎の一つです。
一応、地名から推測すれば国分寺を称する寺院のある古府町、河田山古墳群の近くの国府小学校近辺の河田町、埴田町近辺など諸説まちまちです。

地名の通り、歴史深い地名なのですが、現在はのどかな田園地帯で、産業道路でも一番の起伏地で周りを観ずに走りすぎることがしばしばの地でもあります。
そのような国府地区ですが、金沢から加賀方向に走ると道路脇に、石碑がある場所や小高い嵩上げの小山に石柱があるのですが、何人が気づいているでしょうか。結構重要で注目すべきなものなんですよ。

まずは河田南の交差点を過ぎて起伏のカーブを下りて国府小学校に行く「ひろい動物医院」の角。ここは産業道路一番の難所で、起伏のカーブをドライバーは全員道路に注目してハンドルを握って通るため、気づかない人がほとんど。

この角地を避けるために、このような起伏のカーブになっているという話が伝わるほどの代物。(でも、6/7に通ったら拡張工事でぎりぎりまで削り込んでました。)
ここは加賀藩の基礎を固めたと云われる加賀前田家三代・藩主・前田利常が荼毘に臥された地です。
画像

前田利常は前田利家の四男として生まれています。しかし、朝鮮戦役に名護屋城に出陣した際に、正室の派遣した下働きの女中に利家が手をつけて誕生したもので、正室を怖れた利家は利常と会うことはなく、高岡・氷見の間にあった二上山の守山城で、前田利長の城代家老・前田長種に養育されていました。ちなみに長種は加賀八家・前田対馬守家の祖になりますが、元をたどれば利家の本家筋の血筋になり、正妻は利家の長女・幸姫(春桂院)になります。また守山城主から前田家を継いだ利長。この前田家では重要人物の二人の仲介によって、利家の死の前年に父子の対面を果たしています。
その後は関ヶ原戦時には、小松城の丹羽家に人質になるなど、日陰の子として過ごしています。
しかし、子供の居なかった利長の養子となり、三代藩主に指名され当主となった苦労人です。利常にとって利長は兄であり父であり、そして自分を引きたててくれた大恩人。戦国武将最大の利長の墓所、利長が創出した高岡の整備など、利長の事績の継承するとともに、利長の正室・永(玉泉院)が亡くなるまで金沢城内に屋敷を建てて保護しています。
画像
画像
利家の正室・芳春院(お松)と利常の生母・寿福院の反目、ちなみにこの二人は生涯口を利かなかったと云われる程と伝わっています。幕府への人質として芳春院は長く加賀を離れ、利常が藩主になった時に寿福院が江戸に行き、芳春院が加賀に戻ると行った人質交替の擦れ違いですから機会もあまりなかったともいえ、廻りのやっかみや誤解とも云われてますが。。ただ、藩祖の正室・芳春院の意見は強く、更に兄弟との関係も悪化するなど、藩主就任当時は身内問題に忙殺されていたともいえます。
しかし、その後は加賀藩・幕府の草創期の荒波を乗り越え、4代藩主・光高の死に際しては5代・綱紀の後見として藩政を支えており、加賀百万石の基盤を固めた重要人物と言えます。
画像
画像
寛永16年(1639年、45歳)利常は長男・光高に加賀藩、次男・利次に富山藩、三男・利治(利治死後、五男・利明)に大聖寺藩を分藩、20万石を隠居領として小松城を隠居城として勇退しています。
隠居後は、四女・冨姫が八条宮に嫁いだ関係から、幕府とイマイチだった御水尾院と親交したり、桂離宮を再築・再整備するなど朝廷との関係を深め、京都の文化を吸収消化して文化教育に力を入れていました。

ところが、正保2年(1645年)加賀藩4代・光高が急死、綱紀が5代を継いだのですが僅か3歳の幼少の為、藩政に復帰して小松・金沢間を往復しながら、綱紀の教育・結婚の世話など帝王学を施し、藩政では治水や農政改革(十村制・開作法)などを行って小松と併せて120万石の基盤を残しています。また細工所の創設など現在の加賀文化の基礎を作っています。
画像
画像
万治元年(1658年)66歳。小松城で死去。現代ならば、まだまだ働き盛りですが、当時としては長寿の部類。
余談ですが、藩主は優秀な後継者を産み育てることも必要ですが、それなりの長寿を保つことが大事だったと思います。江戸期の加賀前田家当主の没年齢を羅列すると(利家などは生年が諸説あります。数えや満年齢もありますが記憶で書いています。間違ってるかも。。)(ついでに( )は藩主在任期間

前田利家62歳、利長52歳(6年)、利常66歳(34年)、光高(利高)29歳(6年)、綱紀82歳(78年)、吉徳54歳(22年)、宗辰21歳(2年)、重煕(しげひろ)23歳(7年)、重靖19歳(3か月)、重教44歳(18年)、治脩(はるなが)65歳(31年)、斉広(なりなが)41歳(20年)、斉泰72歳(44年)、慶寧(よしやす)43歳(5年)

藩主の在任期間を観れば一目ですが、綱紀が突出した存在だと解ります。父親の光高の急死で3歳で藩主になり78年の藩主期間が際立ちます。利常の藩政復帰で幼少の藩主として教育と実践を受けられたのが大きく、金沢では前田家最高の名君と称えられています。逆に宗辰以降、藩主の若死にが続き藩政・財政が大混乱に陥り、そのつけが幕末まで続きます。やはりリーダーは、実績も大事ですが健康も大事です。

万治元年、前田利常が死去すると遺命によってこの地で荼毘に臥され、遺骨は金沢の野田山に埋葬されています。また遺灰や燃え残りはこの地に塚として埋葬されています。
利常が何故にこの地を自分の荼毘の地として遺言していたかは正確には不明ですが、自分が育てた小松の地で、文化歴史にも造詣の深かった利常にとっては、悠久の過去に加賀国府が置かれた地。加賀の始まりの地で荼毘に臥されたかったのでしょうか。
画像
塚の横に13代藩主・斉泰が設置した灰塚碑の碑文

故 中納言前田公 諱、利常 灰塚の碑

加賀國能美郡小松邑(むら)の東北二里、徳橋郷三宅野で火葬にした所である。
我が十世の祖である中納言公利常の薨にあたり、遺命によって此所(このところ)で荼毘にした。
遺骨を野田山に葬り、燃え残りを此所に埋め、灰塚と称した。

公は小松城で万治の年戊戌(つちのえいぬ、万治元年一六五八)に薨去され、今(明治十一年、一八七八)を距たること、二百二十有余年である。
其の塚は、毅然と、このようにある。
しかし、世の移り変わりが激しく、形の変ることを虞(おそれ)てこのことを記し、石碑を建てた。

明治十一年 歳次 戊寅 七月
十世孫正三位前田斉泰謹識 


碑文中の灰塚のある三宅野は徳橋郷のはずれになりますが、利常在世当時は原野が広がって眺望が良かったと云われています。この国府の在った地の眺望に感動した利常が遺言を残したとも云われています。
その後、安永(1779年~)・文政年間に徳橋郷に埴田の十村役が移住して、開墾が行われ畑地や田園が広がるように整備されたと云います。現在も豊かな穀倉地帯として田園が広がっています。
三宅野から南東に国府小学校を越えた所に徳橋郷の集落がありますが、その入り口にあるのが徳橋神社です。
画像
画像
画像
その社壕は遠くから見るとウサギに見えるということで、地元では「ウサギの森」「ウサギの鎮守」とも呼ばれているそうです。以前紹介した子供歌舞伎の祭礼で賑わう兎橋神社は近くの古府にあったと云われますが、得橋や兎橋といった字体の変遷を考えると、この徳橋郷に所縁があるのかもしれません。
画像
画像
画像
徳橋郷の東方には後山と呼ばれる山がありますが、ここからは環鈴鏡が発掘された後山明神古墳など数基の古墳が確認されています。位置的には以前紹介した60数基が発見されている河田山古墳群の南500mと近接しており。年代も近いと推測されているようです。
この後山に神明社、稲荷社が古くから祀られていたようで、加賀国府誕生以来、国守が参拝していたと云われています。いつ頃かは不明ですが、稲荷社がまず現在地に移され、その後に神明社を合祀して江戸期を通じて稲荷神社として尊宗されてきたものです。明治29年(1896年)に「西宮稲荷神社」と改められ、明治41年(1908年)に近くの白山社・宇野神社を合祀して「徳橋神社」と改称して現在に至っています。
画像
画像
画像
画像
画像
画像
境内地は2125坪(7012㎡)と神社・村社としては広い敷地になりますが、特筆すべきはその悠久の社壕。ウサギに見えると云われる森を構成する木は、椎・椿・モチが主木で暖帯林ですが多種類。古くからの古木が多く立派な幹の太さ、異様なほどの枝ぶりが目立ちます。昭和7年(1932年)に石川県老樹名木、昭和46年(1971年)市文化財天然記念物に指定されています。
画像














徳橋神社から西に少し行った産業道路の交差点に石標が建つ小高い盛山があります。
これまた産業道路の中での起伏のある地点で見逃しやすい場所ですが、なかなか珍しい石碑です。埴田の虫塚
画像

加賀平野は白山麓などの山地に入るまでは平坦地が多く、農業地には最適な場所になります。
沼地や芦原が多かった海辺や河口に比べ、安定した土質と手取川・梯川の水がある白山市や能美市は古くから豊かな穀倉地帯になって行きました。しかし、農業地帯の大敵は天候不順・洪水・病虫害が挙げられます。
農薬や品種改良の速度が低かった時代は農民にとっては恐怖感に近いものがありましたし、記録にも多くの病虫害が残されています。自然豊かな加賀平野も例外ではなく、歴史の中で多くの被害が起こっています。加賀の各地に多く残る虫送りや火祭りは病虫害の駆除や祈願からの起源になっています。
数多い加賀の虫送り祭で著名なものでは、花火の方が有名ですが川北町の火祭り。松任横江の虫送り火祭りが伝統行事として大掛かりな祭事となっています。ブロ友のgoさんが以前に紹介しています。 goさんのブログ横江の虫送り
                       



             埴田の虫塚と高台からの眺望、鉄塔左の森が徳橋神社のウサギの森
画像

余談になりますが、この虫送りの対象になる病害虫ですが、すぐに連想されるのが飛蝗です。飛蝗はトノサマバッタやトビバッタの突然変異による大量発生ですが、世界各地に歴史書や記録に残されています。また現代でも発生報告が続いています。東アジアでも中国や朝鮮の歴史書に多く残されているため、日本でもこの印象が強く病害虫の発生では蝗の文字が散見されます。この虫塚の碑文にも観られます。
日本では明治に北海道の十勝や鹿児島・沖縄での事例報告はありますが、過去の文献やこの虫塚の文面でも蝗の文字は散見しますが、イナゴや稲の病気を媒介するウンカ・カメムシといった稲虫を指すようです。

稲虫は先に挙げた稲の害虫の総称ですが、全国各地にはサネモリ虫という名で伝承され、病害虫は不幸な死を遂げた人の祟りだとして人形(ひとがた)を作って祀る虫送りがあります。
サネモリ虫は斉藤実盛という源平合戦期の武将の名から来ています。火祭りが主流の加賀ですが、このサネモリ虫の伝承起源は加賀から起こっています。斉藤実盛の戦死については以前にUPしていますが、一騎打ちで討ち取られる際に、稲刈り痕に馬が足を取られて体勢を崩した無念の死とされています。このため、無念の実盛が稲虫に変化して稲に祟りをすると伝わったものです。ウンカの成長形が烏帽子姿に見えるということからとも云いますが。。以前のブログ⇒ 「実盛塚 篠原古戦場」  「首洗い池」
画像
江戸時代は寒冷期で冷害・洪水による多くの飢饉が頻発しましたが、特に江戸期四大飢饉にも挙げられる天明3年(1783年)の「天明の飢饉」、天保3年(1832年)から5年間の「天保の飢饉」ではこの地でも多くの餓死者が発生していました。

その痛手からの復興を目指していた天保10年(1839年)、能美郡一帯に大量のウンカが発生して、またしても大凶作に見舞われます。当時の十村役・.田中三郎右衛門(十村役は名字帯刀が許されていました。)は、村々の住民を率いてウンカの駆除と虫の死骸を綿袋に取り集めていました。その量は5斗俵の綿袋が23俵余り(約90リットル)になったと云われています。
病害虫とはいえ前述のように斉藤実盛や不幸死の人の生まれ変わりとも伝わる虫の命を奪ったこと。このことから病害虫の供養と併せて、駆除の方法を後世に残すために、虫の供養塚を建てたものです。碑文には発生状況と共に駆除の様子が彫られています。
飢饉の犠牲者の供養碑は各地にありますが、害虫の供養塔は全国的に珍しいものだそうです。高さ1.7m・直径30㎝の円柱状の石柱です。石材は前田利常が小松城の石垣に多用している鵜川石。先日、日本遺産の認定を受けた「小松の石の文化」を代表する石材です。

虫塚の高台に登ると、埴田・徳橋の田園・畑地の遠景が観られます。また、先に紹介した「前田利常の灰塚」「徳橋神社のウサギの森」が遠景で観られます。画像の遠景の左の森が利常の灰塚の森です。
画像


旅行日 2016.05.16

この記事へのコメント

  • まだこもよ

    3歳で藩主になって 78年間…私は3歳の時の記憶なんて まったくありませんが 遊びたい盛りに 大変だったでしょうね。
    2016年06月20日 21:10
  • がにちゃん

    利家 お前もか・・・ですね 不倫と隠し子騒動 いつの時代にも変わりませんね
    しかし後々考えてみれば前田家にとっては大事な子供だったのですね
    がんばりましたよね 利常さん
    2016年06月21日 21:56
  • 家ニスタ

    加賀国府は特定されていないのですか。
    国府のあったところが、今でも栄えている街ならわかりやすいでしょうが、そうでない場合も多いですもんね。
    わがイバラキ県の国府のあった石岡は、現在ではさびれたイナカ町です。
    秀忠、利家、奥さんが怖い人にかぎって、そういう隠し子を作りたがるものですね。
    ふだん押さえつけられている反動なのか・・・。
    2016年06月21日 22:48
  • 家ニスタ

    間違いました、×茨城県の国府→○常陸の国府ですね。
    ちなみに僕の家のあたりは下総国で、同じイバラキ県でも常陸じゃないのです。
    2016年06月21日 22:51
  • つとつと

    まだこもよさん
    お偉いさんの息子は物心がついた頃には、城内の一室でひたすらお勉強、しかも奥さんも一桁や10代、利常の正室・珠姫は3歳で輿入れ。ちなみに利常は7歳。
    さすがに、正式な床入れは10年待ったようですが、10年で三男・五女をもうけています。金沢では人気の二人です。
    2016年06月22日 04:17
  • つとつと

    (笑)ドラマなんかでは、松が言い含めたなんてという設定が多いですが、実はとんでもない。正室直属の女性に手を出すのは今も昔も大変な事だったんですよ。
    やらかしちゃって、気まずいはかあちゃんは怖いわで、利家君は大変だったみたい^^;
    2016年06月22日 04:22
  • つとつと

    家ニスタさん
    そうなんですよ。奥さんが怖い人はちゃっかりというか、眼の届かない所で作っちゃっている場合が多いですねえ。こういう場合、秀忠のようにずっと秘密にして、ばれても奥さんにも反発するような女傑(震源の娘・見性院、信松院)に養育して貰って他家に養子になった保科正之がいます。利家も正室が口出しできない前田本家の流れの前田長種に預けていますから、、
    ちなみに、利常が養育した綱紀の正室は保科正之の次女。似た境遇の二人ということで、仲が良く綱紀の師匠にもなって貰っていたそうですよ。
    おかげで加賀藩と会津藩の仲が良かったんですが、幕末に討幕・佐幕で揺れ動いた一因になったようです。
    加賀(小松)国府は823年と日本で一番遅い成立なんですが、1176年の安元事件で衰退して自然消滅。。。期間が短く、しかも一向一揆の主要勢力地になって、近くの国分寺も正確には不明状態。推定発掘はあったんですが、まだ特定されていないんです^^;
    2016年06月22日 04:53
  • go

    前田利常の灰塚のことを初めて知りました、利常は正室の芳春院の子供でなかったので色々と苦労したようですが、四代光高が早く無くなったので五代綱紀の後見をして加賀藩を後世に引き継いでいったのは立派です。
    話はそれますが、大乗寺山の加賀藩の廟所で、藩祖前田利家と芳春院の墓地の近くに二代利長の墓がありますが、三代利常の墓地はずっと離れた下の方にあります、利常の墓地から上に四代~の順で墓地が並んでいます、やはり正室の子でないことが死んだあとまで関係しているのでしょうか。
    加賀産業道路沿いの国分台工業団地にお得意さんが有ったので現役時代には何回か訪問していますが、名前からして、昔、国府が有った所と思っていたのですが場所がはっきり特定されていないのですか、国分寺の後が発掘されれば分かるのですがね。
    虫塚は今では象徴になっていますが、昔は農家にとって干ばつと害虫の発生は死活問題だったようですね、私の拙い虫送りのblogをリンクで紹介していただいて恐縮します。
    2016年06月23日 12:52
  • つとつと

    利家、芳春院、利長、玉泉院は草創期の利常にとって別格的な重要人物ですから、利常が遠慮したんだと思われます。ただ下段とはいえ、利常の墓はやはり存在感があります。その後の配置は自身の場所を含めて、五代・綱紀の意向が大きく反映しているそうです。珠姫の改葬も彼の事績になるそうです。
    国府は判然としないのですが、府南社と呼ばれた石部神社の位置から行って、国府中学の近辺だと思われます。国分寺を称する寺院はあるんですが、どうも判然としないんで、、、まだまだ解らないというのが本当の所みたいです。
    2016年06月23日 20:07

この記事へのトラックバック

  • 石部(いそべ)神社 加賀国総社(惣社)
  • Excerpt: 加賀国府が置かれた際に加賀国総社とされていたのが石部神社でした。 このため、現代においても加賀一の宮は、白山神社の総鎮守の白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)と石部神社が並立して主張し合っています。..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2016-07-02 04:52
  • 小松(梯)天満宮
  • Excerpt: もう昨年の話ですが、嫁さんが夏に足を骨折して約2カ月ちょいで仕事に復帰してからも、まだまだ歩くのには支障があったようで、しばらく送り迎えをしてあげてたんですが、2カ月ほどで復調。足慣らしもあるからと歩..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2019-01-13 20:51

最近のコメント