石部(いそべ)神社 加賀国総社(惣社)

加賀国府が置かれた際に加賀国総社とされていたのが石部神社でした。
このため、現代においても加賀一の宮は、白山神社の総鎮守の白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)石部神社が並立して主張し合っています。

弘仁14年(823年)、日本の国で一番最後に成立した加賀国。その政庁と云える加賀国府が置かれたのが、現在の小松市古府町近辺と云われています。推定されているものの、はっきり特定はされていませんが、現在の国府中学の近辺ではなかったかと云われています。これは、石部神社が国府の南にあり府南社と呼ばれたことからというものです。
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国司の最初の重要な仕事は人心掌握のために、有力神社を廻って参拝することが挙げられます。
神社や祠の多くは地元神を崇拝・継承していることから地元民衆に根づいており、この参拝は民心安定には欠かせないものでした。このため奈良時代から平安初期には、国が指定した神社を国司が巡拝することを定めていました。ところがこれがなかなか大変な作業になります。
一例ですが、皇族関連や臣籍降下の重臣が国司となった令制国だった下野国では、12座の神社をランク付けして一宮、二宮と順番に巡拝していたのですが、これらの神社は現在の栃木県の外周に点在しており、栃木県の県境沿いに一周しなければなりませんでした。しかもこれを毎月行っていたわけです。相当な費用と日数、更には国司の体力も消耗してしまうのが想像されます。加賀国でも有力神社八座を毎月1日に巡拝するのが定めになっていました。
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こんなことをしていては、肝心な国司の仕事に支障を来してしまいます。このため9世紀中頃には、国府の近くに主祭神や支社を合祀した総社(惣社)を定め、総社を訪れることで巡拝を行った事になるという簡略化が施行されました。
つまり総社は、国家や国司が定めたその国を代表する総鎮守であり、一番重要な神社となったわけです。
加賀国でも国府の近くの石部神社総社として認定され、加賀第一位の神社となっていた由緒があるわけです。
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これが後年になって一の宮を選定する大きな判断基準の一つになったわけです。しかし、総社が衰退・分祀したり、領主の崇拝から勢力や人気が上回る神社が登場して来ると、一の宮論争が起こり越中国のように四座も一の宮が存在したりすることになります。加賀国でも白山社の総鎮守・白山比咩神社が人気実力ともに突出しているのですが、加賀総社としての由緒から石部神社が加賀一の宮を主張、支持を受けているわけです。
個人的には、一の宮は神社の人気ランクだと思っていますんで、現状では白山比咩神社が加賀一の宮だと思います。
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前述のように総社=一の宮ではないということはご理解いただけると思いますが、国内の主祭神を合祀して国を代表させた神社という事実は動かせません。その国を代表する神社ということはまちがいありません。
しかし、長い歴史の中で神社も衰退を繰り返しており、廃絶されたものや再興されたものが多くあり、国によっては総社が不明なものや無かったり、推定とされて確定できず2.3座が在ったりします。
訪れてみれば、村社や郷社も多く、「えっ@@、これがこの国の代表神社@@」というのが多く存在します。
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加賀国総社石部神社も例外ではありません。
平安期にかけては加賀の中心地でしたが、鎌倉・室町期には野々市、戦国以降江戸期に金沢が政治の中心地と変遷するとともに、仏教勢力の隆盛も相まってこの地は農村としてのどかな地となり、歴史と自然に埋もれ農業地として取り残されていました。
この神社に訪れようとしても、住宅地の狭隘な道か狭い河岸道路から訪れねばならず、自動車ではなかなか入りづらい場所です。鎮守の森も梯川の蛇行する地にあり、景観は綺麗ですが訪れる人も少ない神社です。
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石部神社の創建は加賀国府が置かれた弘仁14年(823年)3月とされています。石部神社のある小山は古くから船見山と呼ばれていますが、府南社の名から由来していると思われます。またこの丘陵は古墳の丘陵を利用していると云われ、創建以前から社か祠が祀られていたと云われています。
加賀国総社となってからは、国司の参拝・奉納・寄進により、広い神社領と繁栄を誇ったと云われていました。

しかし、このブログでは何度も紹介している安元2年(1176年)の安元事件(涌泉寺事件)によって、国司と白山僧徒の争乱に巻き込まれて衰退。この事件によって加賀国府が自然消滅したために有力な後ろ盾を失い忘れられた存在になって行きます。更に白山僧徒・一向宗徒の主要勢力圏の真っ只中ということで、歴史の表舞台からは遠ざかる存在になっていました。
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石部神社が改めて歴史の舞台の光を浴びたのは慶長5年(1600年)。小松城主だった丹羽長重が社殿を修復、宝物を納めたところからになります。丹羽家から前田家に移った後は、小松20万石を隠居領とした前田利常が尊信して、その後の藩主にも受け継がれ奉幣社として復活しています。利常が荼毘の地を遺言指定するなど、往古国府の地に対しての思い入れは強かったようです。神社の神紋は五七桐ですが、境内内の社殿瓦・神馬像には梅鉢紋が配されているのはこの為だと思われます。
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主祭神は古くは大物主神だったようですが、現在は大物主の娘(事代主の娘とも)・櫛御方命(くしみかたのみこと)。江戸期には船見山王明神と呼ばれていたそうですから本来の大物主神が主祭神が正解かも。
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社域の建造物や寄進物は、ほとんどが昭和期の物ですが、手水舎前の灯篭は天保12年(1845年)の銘になっています。
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現在の拝殿建物は昭和6年(1931年)、神殿は昭和37年(1962年)に造営されたものです。小松・能美地区特有の赤茶色の瓦が葺かれています。風雪が厳しい地ですから、拝殿全体は木造の覆(さや)が施されています。
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梯川の蛇行地点で離れ小島のような場所の為、訪れる人は少なく裏寂しい雰囲気ですが、社域は地元の方たちによって綺麗に整備されています。加賀に住む人にとっては別格の神社になります。往古の盛衰を思いつつ訪れてほしい神社の一つです。

前回・今回の記事で、加賀国府の場所の特定がされていないとしましたが、国府の場所を探る際には総社と共に近接した所に国分寺があったはず、国分寺が特定できればという所に眼が行く人は鋭い眼力と見識をお持ちです。実際問題として一部の総社・国分寺を除いて、総社と国分寺は国府の政庁から1.2キロ圏内にあるというのが実例です。ところがこの国分寺近接論が通用しないのが加賀国の哀しい所です。
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天平13年(741年)聖武天皇が「国分寺建立の詔」によって全国に造営を命じた寺院が国分寺で、国分僧寺・国分尼寺の二寺がありました。総本山として国分僧寺を総国分寺・東大寺、国分尼寺を総国分尼寺・華厳寺。
詔に先立って金光明経と法華経10巻の写経を納めること。七重の塔を設けること。釈迦仏像1躯・挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経の写経を命じています。更にこの為に僧寺には封戸50戸・水田10町、尼寺に水田10町を国が施すとしていました。この大寺院の規模は国府の政庁を凌ぐ規模でした。

ところが、鑑真の来日によって僧の授戒制度が確立すると、なぜか女性の授戒が禁止され尼寺が衰退し、更に律令制が崩れ国家の支援が滞ると国分寺も衰退し廃絶されていきました。特に国の変遷が激しかった北陸はこれが顕著で、尼寺は一切合財不明状態、そもそも存在自体が疑われています。
他宗に変更して存続したり、法華宗によって再興された寺院もありますが、多くが姿を消しています。
発掘調査などで先に挙げた詔の内容に則した国分寺跡が発見されていますが(能登国分寺のように心礎や礎石の幅から三重塔規模もありますが)、前述の詔に近い事物が証明に役立っているといえます。

しかし、国の成立が遅れた加賀国は成立時は下国でした。2.3年で2階級特進の上国に格上げされたとはいえ、聖武天皇の詔から100年過ぎており、律令制が崩壊する渦中の時期に差し掛かっていました。
越前国から分国当時の加賀国には当然ながら国分寺はなく、続日本後記によれば国分寺が置かれたのは承和8年(841年)。しかも既存の寺院・勝興寺を国分寺として利用するというものでした。文献による名前だけで勝興寺の場所・規模・詳細が不明なため、まったく不明状態になっています。
ちなみに国分寺が置かれたこの年は、江沼郡から能美郡、石川郡から河北郡が割譲されて、近世まで続く加賀四郡の形態が確立した年でもありました。
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余談になりますが石部神社の表参道から北に進んだ古府町内に国分寺という名の寺院がありますが、この寺院は平成になってから小松市街から移転してきた東本願寺系寺院で、地名にちなんで名称を変更したんだそうです。つまり、古代国分寺とは全く関係ないそうです。名前に釣られてガッカリして帰る歴史愛好家が多いそうです。紛らわしいですねえ。。以前に訪れてがっくりした一人の僕

旅行日 2016.06.27







この記事へのコメント

  • 家ニスタ

    一ノ宮論争のある国はけっこうあるのですね。
    石部神社の現状を拝見すると、たしかにさびれていて、一ノ宮の主張はちょっと無理があるようにも思えますね。
    2016年07月03日 22:57
  • つとつと

    家ニスタさん
    けっこう多いみたいですね。越中の四つの神社はどれも規模が大きいんですが、加賀では白山比咩神社が突出した存在です。
    総社は全国に一か所だけの存在で貴重な存在なんですが、中世の動乱期を乗り越えるのは至難の事だったようです。石部神社は確かに寂れてはいますが、変わらぬ地に鎮座して残ってるんですから貴重な存在です。
    他県に行って観ると、まったく場所が変わっていたり、同じく小さな社があるだけだったりで驚かされることがしばしば。。政庁の移動に大きく影響されているようです。でも、常陸の総社宮は一度観ましたが、大きく立派で大掛かりで驚きました
    2016年07月04日 10:18
  • がにちゃん

    歴史を感じさせる神社ですが少しさびしいですね
    管理維持は大変なのでしょうね  
    2016年07月05日 11:11
  • つとつと

    がにちゃんさん
    総社は平安期に国家が創建した神社ですから、朝廷の衰弱と共に廃れたものが多くなっています。
    今は地元の人たちが整備していますが、それ程人口があるわけではないので、なかなか維持管理は大変なようです。
    2016年07月06日 12:02
  • まだこもよ

    「1845年の 灯籠」…よく無事に残ってましたね!(「石」だから?)
    それに 「こけ」が いい感じ ですよね!
    2016年07月10日 15:04
  • つとつと

    まだこもよさん
    歴史の古い神社ですが、境内のほとんどが昭和期の物で、ちょっと残念な気もしたんですが、寄進年の銘文が深く刻印されていて確認できました。
    木陰の神社で苔が良しに媚びrついていることが多いんですが、なんとも良い雰囲気を醸し出してくれますね。
    そんな厳かな気分でいたんですが、拝殿内のの側面に入ったら警報装置でサイレン音が。。。いっぺんに現実に引き戻されました><
    2016年07月11日 10:35

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