玉龍寺 (前田対馬守家菩提寺・墓所)

加賀藩では人持組頭として1万石以上の所領を受け、家老として藩政に常時参画する資格を持つ一門衆・重臣の家系を別名で加賀八家と呼んでいました。他藩の年寄役に当りますが、所領を見ても解るように、外様陪臣とはいえ小大名以上で幕府でも別格扱いを受けており、明治には全家が男爵号を受けています。加賀八家の成立時期ははっきりしませんが、三代・利常から五代・綱紀にかけて成立して行ったようです

軍制面では、約68家と云われる人持組(上士身分、1000石以上)からなる7組をそれぞれの組頭(軍団長)として率い、また藩主不在時や緊急時の金沢城代、平時・緊急時の小松城代として努めています。行政面では幕府交渉、藩内人事、財政管理、藩校運営などがありますが、月番で行政担当を努め、残りの組頭(年寄)が加判と呼ばれ承認・非承認の判断役となり、重要事項の全員連署で決定していました。つまり、加賀八家の八人が加賀藩の最高首脳部になります。

加賀八家をあげると(所領は時期で分家・返上や相続・恩賞・昇給で変動があります。)

本多家   ・・・筆頭家老5万石 家祖・本多政重 徳川家康の最側近で某臣と呼ばれた本多正信の次男
        本多政重の波瀾万丈の人生は以前(松風閣庭園)で書いていますが、紆余曲折(七家を渡り歩いています)の末で前田利常に2万石で帰参、対幕府交渉に当り、特に幕府からの越中国返上の強要を撤回させた功績で3万石を加増されてます。また利常・光高・綱紀と三代の藩主の補佐をしています。

長家     ・・・3万3千石 家祖・長連龍 (ちょうつらたつ) 元能登畠山家の国人で穴水城主、名家で連龍は20代当主になります。前田利家が能登領主になった際に与力武将として配属。信長死後に家臣として仕えた。
        前田家臣団の中では唯一、能登に本拠領地を持つという特権を持っていました(初代・二代まで)。加賀藩5代・綱紀の時代に、検地拒否の内紛を起こし、家内不祥事を理由に「藩中の藩は危険不要」で領地の能登鹿島郡を没収、没収石高と同数を加賀藩から扶持米するという形に変えています。

横山家     ・・・3万石 家祖・横山長隆 元は金森長近に仕え辞去、隠棲後に越前府中領主になった前田利長に仕官、賤ヶ岳の合戦で戦死
        二代・長知は徳川家康との大阪城での交渉で知られ、加賀藩の親德川方針を進めた人物。才人が出ることで知られた家で、明治・大正期には鉱山開発で財をなし北陸の鉱山王と呼ばれています(尾小屋鉱山)。、金沢ではお殿様といえば江戸期は前田家。明治以降は横山家のことでした。

前田対馬守家・・・1万8千石 家祖・前田長種 今回のブログの主人公です。また後ほど。

奥村宗家   ・・・1万7千石 家祖・奥村永福 尾張荒子時代からの荒子前田家の譜代家老の家柄 
           永福は強情律義で前田利家が信長の命で荒子城主になった際、利家の入城拒否を行い、利家の兄で城主・利久と共に退去、浪人しています。帰参後は利家と共に転戦。末森城代として末森合戦の守将として活躍。

村井家     ・・・1万6千5百石 家祖・村井長頼 荒子時代からの前田利家の臣。利家の不遇時代も含め側に居た人物。利家死後は江戸に人質となった芳春院を守って同行。死後は野田山墓地の利家・芳春院の一段下の入り口に防人として大きな五輪塔に葬られています。これは本多家の伝言ですが、遺言で加賀を守るため甲冑姿で立った状態で江戸の方を向いて埋められたそうです。
           元々は人持組でしたが、長頼の功績から人持組組頭に昇格しています。昇格は村井家だけになります。ちなみに人持組は人材によって家老に付くことのあるヒトランクしたの立場。今枝家・津田家など1万石を越す分限から1000石までの家で約70家あったと云われています。

奥村内膳家  ・・・1万2千石 家祖・奥村易英 易英は奥村永福の次男で末森合戦・小田原征伐・大聖寺城攻・大坂冬の陣で活躍し9千石を受け、永福の死で3千石を相続して奥村分家を作っています。

前田土佐守家・・・1万1千石 家祖・前田利政 前田利家の次男。能登の太守となりましたが大阪同情派で、関ヶ原参陣を病欠(仮病)して取り潰し(その後、能登は加賀藩に返還)、京都で隠棲したまま死去。ちなみに大阪陣には東西両軍から要請を受けながら参戦せず、戦後に不戦の恩賞として幕府から20万石復帰の要請を受けながら、「大野晴長が嫌いだったから、大坂に行かなかっただけ」の捨てゼリフで蹴飛ばしています。
           利政の長男・直之は利政浪人中に京都で生まれ、利政の母・芳春院に引き取られ12歳まで養育されます。改めて芳春院の要請で前田利常に2千石で家臣となっています。芳春院死後に化粧料7千5百石を相続して前田土佐守家を開いています。前田土佐守家では本来の家祖・直之ではなく利政としています。

加賀八家では、江戸期の間には分家となった人持組の家などもあり、実質の所領は各々1.5~4倍になると云われています。

加賀藩主の墓所は野田山にあります。前田利家の兄・利久の墓所が始まりとされ最高点にありますが、山頂の斜面に歴代藩主夫妻、子女の墓があります。
藩主の墓所が設けられたのちに、その下方に前述の加賀八家の内、六家の墓所が設けられています。(一部例外は前述の村井長頼・長次親子、奥村永福は藩主と同じ標高です。)

野田山墓地に墓所のないのは筆頭家老・本多家と前田対馬守家になりますが、本多家は同じ野田山にある寺院・大乗寺が菩提寺でそちらに墓所があります。多少、藩主墓所とは離れますが同じ野田山の山内ともいえます。ところが、野田山とは全く関係のない場所にあるのが前田対馬守家になります。こちらも菩提寺になりますが、寺町寺院群の玉龍寺(玉竜寺)に墓所があります。
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寺町地区は金沢では東山寺院群と並んで寺院が集められた場所です。寺町寺院群の中では観光の人気スポットとして、忍者寺・妙立寺がありますが、更に奥に進むと六斗の広見と呼ばれる金沢最大の火除け地が東に広がります。この広見の東の突き当たりにある寺院が玉龍寺になります。江戸時代この辺りの大きな寺院としては、織田信長息女・2代藩主正室・玉泉院(永姫)が信長と利長を弔う願いから前田利常が創建した玉泉寺(玉泉院死後は位牌所)がありました。現在も境内に玉泉院の供養塔があります。この玉泉寺と前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺が大きな敷地と伽藍を有して寺町内でも他を凌駕していました。

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以前にもこのブログ内に書いていますが、三代藩主・前田利常は日陰の子であったのを、長兄の前田利長・永姫夫妻の養子となって後継者として育てられ、前田家当主にして貰った大恩人です。
更に利常を養育したのが、利長の本城だった守山城・富山城・小松城の城代を歴任した前田対馬守家の祖・前田長種と前田利家の長女・幸姫の夫妻でした。そもそも利家・利常の親子対面、利常の藩主就任に反対する芳春院への説得もこの両夫妻及び豪姫の説得が大きかったと云われます。前田本家筋の嫡流、自身の長女、家内で人気のある苦労をさせた四女、長男に主筋の娘といずれも、加賀藩では絶大な発言力の芳春院に勝るとも近い存在です。

前田利常にとっては、育ての親であり大恩人の両夫妻には非常な感謝と報恩の情を感じていたようです。戦国武将最大規模の越中高岡にある前田利長墓所、北陸唯一の国宝建物の利長の菩提寺・瑞龍寺がそれを表しています。
玉泉寺・玉龍寺も往時の豪壮さと規模が覗われます。同じ近接した場所にこの二寺を置いた意味は大きい意味があったと思われます。また、野田山とは別に加賀八家で唯一、ここ寺町の菩提寺に墓所を置いた前田長種夫妻に別格な存在感と複雑さを感じさせます。
とにかく、利常にとっての大恩人・養父母となる利長夫妻長種夫妻。今回は前田長種の菩提寺であり夫妻の墓所のある玉龍寺をご紹介します。幸姫の菩提寺は玉龍寺とは1区画挟んだ南に、長種の次男・長時(前田織江家祖7000石)が建立した月照寺になります。明治4年の大火で玉泉寺と共に焼失していますが、前田屋敷を移設して再建。更に卯辰山・鶴来街道の三十三観音石像が集められていますから、またの機会にご紹介します。
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金沢の桜橋から円光寺に向かう幹線道路から高いコンクリート塀を越える5基の墓標が覗いていることに眼が行くし、野町・寺町に在住している方には野町保育園があるお寺として知られています。この保育園がある関係で平日はなかなか訪れ難いし、境内だけの公開になっていますから墓所もなかなか観れる機会がありません。日曜に訪れましたが、寺院もお留守のようで拝観の許可が得られませんでした。というわけで、境内と墓所の一部だけの画像になってしまいますが。。。
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保育園のある寺院ということで、境内は子供たちの遊具やキャラクターで賑わっています。どちらかと云えば、保育園に力を入れているようです。
慶安年間(1648年~)の造りと云われる重厚な山門にも、仁王替わりにガンダムが外に顔を覗かせています。参道にもアンパンマンやドラえもん。平日は子供たちが走り回り歓声に包まれ、初めて訪れる人には加賀八家の重臣家老の菩提寺とは気づかないと思います。
境内中央にはソメイヨシノの大木が目立っています。樹齢250年、樹高17メートル、金沢市保存樹、江戸期の火災で全焼から本堂を再建した際に記念として植樹されたものだそうです。

玉龍寺の正式名は大亀山玉龍寺。曹洞宗の寺院になります。
寺名の玉龍寺は、前田長種の戒名「玉龍院」から。。
元々の在所は前田家発祥の地である尾張国海東郡前田庄(現・愛知県名古屋市中川区前田西町)で、寺伝では永正11年(1515年)前田長種の父・長定(種定)の創建となっていますが、年代的に祖父・種利(長規)とも云われています。その後、長種が北陸に移ると異動を共にして、越中守山・富山・加賀小松・金沢法船寺と在所を移しています。慶安元年(1648年)、現在地3000坪を寺地として与えられています。
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長種の尾張前田家は当主は代々与十郎名を襲名しており、海東郡の土豪として前田城・下之一色城・荒子城・蟹江城を領する有力領主でした。前田与十郎長定は織田信長の父・信秀に仕え側近の林秀貞(通勝)・通具兄弟の与力となっています。しかし信長・信行兄弟の織田家督争いでは寄り親の林兄弟の関係から信行方に所属。しかし、稲生の戦いでは林兄弟が前田家の城に入ったままで合戦に参加していません。
しかし敵対したことに変わりなく、信長の命令で一門の前田利春(利昌)に荒子城を譲っています。この利春が利久・利家の父親になり加賀前田家(荒子前田家)の祖になります。ただ、資料的には業績が解るのは与十郎家は4代目・長定、荒子前田家も利春からで、その関係性をはっきり実証するものはありませんが、初代与十郎・利治から分家したのが荒子前田家だと思われます。その後の節度重視の利家からの長種に対する処遇・厚遇を観れば、前田与十郎家本家で荒子前田家が分家という見方が有力です。

前田利家は信長側近衆として地位を高め全国を転戦したのに対して、前田長定は地元を守る形で下之一色城を本城として積極的には動いていません。いつしか荒子城は廃城となっていたようです。基本的には長定は滝川一益の与力になっていたようです。
本能寺の変後、利家は能登を領有する形となり、賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉が地歩を固めると能登に加えて、河北郡・石川郡の過半、小矢部・高岡の一部を領有して行きます。前田長定は地理的な条件から織田信雄の傘下に組み込まれています。この際に蟹江城は織田信雄の領有となり、前田一門の佐久間政勝が城主となっています。

羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った小牧長久手の合戦。
当初、前田長定は織田信雄軍に属しましたが、滝川一益を介した羽柴秀吉の勧誘に応えて寝返り、蟹江城に進行して佐久間政勝と共に籠城、羽柴秀吉の来援を待ちます。この際に長種は本城の下之一色城を守備しています。
危惧を感じた織田信雄・徳川家康軍は前田方の三城を急襲します(蟹江合戦)。このため羽柴軍の来援は間に合わず、蟹江城・下之一色城はともに孤立します。蟹江城は落城、家族と共に脱出した長定は補足されて家族共々斬殺されます。この報を受けて下之一色城は降伏落城し、長種は能登の利家を頼って単身落ち延びて行きます。長種は時に34歳。

前田利家(45歳?)は長種を家臣として迎え入れましたが、流浪して辿り着いた敗残人にしては厚遇を持って迎え入れています。1万石を持って七尾城主とし、長女・幸姫を嫁がせて一門衆としています。この1万石は当時の前田家内では、後継者の利長を除けば、最前線司令官とも云える利家の末弟・秀継に並ぶものです。しかも長女を嫁がせるとは本家筋の長種を非常に尊重したものと云えます。
これに応えるように、跡継ぎである利長と行動し城代として、補佐及び行政手腕を発揮しています。七尾城を皮切りに越中守山城・富山城・小松城と本城及び重要城の城代を歴任しています。この間に利長の跡継ぎとなる利常を幸姫と共に養育しています。長種は加賀藩への功績が認められ生涯では2万3千石を給されていました。

加賀前田家が加賀百万石として金沢城を本城とすると、金沢城大手門から大手掘に沿った北側の現在の大手町一帯の敷地を与えられ屋敷を構えています。当然ながら、前田対馬守家は位置的な関係から大手門守備の役目を担っていました。
明治維新後の廃藩置県で前田対馬守家は豪壮な屋敷を建てて移転していますが売却、それが金沢を代表する名料亭・旅館の金城楼になります。食事だけも良いけど、ゆっくり宿泊して食事にありつきたいと思うけど、僕の身分では高嶺の花ですねえ・・
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前田対馬守家からは、一門衆人持組として長種の次男からの織江家(7000石)など幾つかの分家が出ていますが、2代直知の4男からの将監家(3400石)、4代・孝貞の次男から勘解由家が幕末まで続いています。
ちなみに山門左手の「不許葷酒入山(葷酒の山門を入るを許さず)」の石碑は延宝3年(1675年)に4代・孝貞の寄進によるものです。黙玄書となっていますが、ちょっと不明。。曹洞宗関係の住持名とは思いますが。。ついでに、葷酒(くんしゅ)の葷(くん)は臭いのきつい野菜を言います。ニンニクやネギ類がこれにあたります。音読みでは「なまぐさ」になります。

ちなみに、2代・直知の初めの正室は牧村利貞(伊勢のキリシタン大名・利休七哲)の娘・おなあと云いますが、父親が文禄の役で異国の地で死去したため、仲の良かった前田利長が養女として利常と共に養育していました。直知との間に3代・直正直成をもうけています。しかし、二人はその後離婚(長種の正室つまり姑・幸姫と折合が悪かったと云われますが、実際には父親がキリシタンで、客将・高山右近と親しかった為、右近追放と関すると云われています)、おなあは次男・直成を連れて加賀を離れ、妙心寺寿聖院に世話され石田重家(石田光成の長男・済院宗享)に師事して禅を学んでいます。
その後、蒲生家重臣・町野幸和と再婚、ところが蒲生家が無嗣取りつぶしとなり、浪人となって江戸に出ています。

姪のお振の方が将軍側室になった機会に、春日局の要請で大奥に入り、春日局の最側近の補佐役として大奥の教育・指導に大きな権限を持っていました。また家光に禅の説を教え伝えており、お振の方死後に出家して祖心尼となった際には、家光の命で祖心尼を開基として済松寺を創建、彼女はその余生を済松寺で過ごしています。将軍・家光は祖心尼と済松寺をあつく信仰しており、自分の臨終の枕辺に祖心尼を呼び「我が身は日光に葬られても、我が心はこの済松寺に留まる」と言い残したと伝わっています。

祖心尼の連れ子・直成のその後ですが、祖心尼が嫁いでいた蒲生家旧臣・町野氏を継いでいましたが、寛永7年(1630年)前田対馬守家の父・直知、翌年祖父・長種、兄・直正が相次いで死去、当主には直正の幼い子・孝貞(3歳)が継ぐことになりましたが、前田対馬守家の存続と衰退を心配した前田利常の要請を受けて、旧姓に復して孝貞の後見人・家宰として代行を努めています。前田対馬守家では家の救世主として尊敬の的として永く語られる人になっていました。ただ、町野姓の時の子供はそのまま幕府旗本となっており、復した前田の姓では子が無く血脈は絶たれています。天保年間(1830年~)になって前田直成の家名を当主によって前田本文に復活させています。
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前田対馬守家墓所は本堂内と同じく非公開で遠目にしか観られません。寺院の許可を得られれば行けると思うんですが、当日はお留守のようで確認はできませんでした。
しかし遠目にも墓石は観られます。加賀八家では最多の12基が金沢市文化財に指定されています。指定外にも興味深いものがあります。
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その内容は多種多様で石製基壇墳墓から舟形板碑、傘柱状。3mを越す宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔。バラエティに富んだ仏式墓標が並んでいます。ちなみに長種夫妻の墓標は宝篋印塔になります。機会があれば再訪したいものです。
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旅行日 2016.07.03


この記事へのコメント

  • がにちゃん

    愛すべき男子 利政さんですね 読んでて笑ってしまいました
    前田家が天下を取っていたらなんぞと想像したりして  また違った日本が出来たのかもぉ~
    2016年07月11日 15:17
  • まだこもよ

    「遊具」・・・子供たちは 喜ぶでしょうけど・・写真を 撮るとなると・・・・「う~ん・・」ですよね・・・。
    2016年07月11日 17:27
  • つとつと

    がにちゃんさん
    利家の血を色濃く曳いたのが利政だと云われています^^
    利家が元気で長生きしてたらもしかしてはありますが、利家以外では、海千山千の家康に対抗するのは無理だったと思いますし、前田家の人材はバサラ的で個性派が多いですが、女性陣は旦那を抑えるのが強いし堅実派が多いから難しいでしょうね。
    史実では堅実で大人しい性格と云われた利長でさえ、謀反を疑われた時、徳川の条件を聞いて一旦開戦を宣言したくらいですから。それを鶴の一声で止めたのが芳春院。地元では他でいわれるより芳春院の評価はイマイチの訳。。
    バサラと云えば、マンガの花の慶次では、一番人気は意外に慶次の親友・奥村助右衛門ですが文中の奥村永福(ながとみ)のこと。。けっこう、個人個人は面白い人物が多いんです。

    まだこもよさん
    古い歴史の寺院なのに、仁王様がガンダムだし、参道にアンパンマンやドラえもん^^;結構写真撮るのは恥ずかしいですよ。それに園児が居たら不審人物にされちゃいますよ。日曜だから撮れた写真です^^;

    2016年07月11日 20:51
  • 家ニスタ

    家臣が1万石以上とは・・・!
    さすがは大藩、加賀ですね。
    そうした家臣の在所の館が、どういったものか気になります。
    きっと城に匹敵するような館を構えていたのでしょうね。
    要害や郷の名で、一国一城令をのがれていたのでは?
    (仙台や薩摩の例ですが・・・)
    2016年07月11日 22:36
  • つとつと

    家ニスタさん
    加賀藩では、初期は戦闘で城を担当していましたが、石高の配給・扶持米として在所を与えていませんでした。。この為、家臣団は城を囲むように屋敷をはしていました。(寛永の大火前は城内にありました)、防衛時にはそのままその家が各門の防衛の要になりました。平士・平士並以上の御目見えが1500家以上、与力以下の御目見え以下が1000家以上。これらが全て居を構えていました。
    地方に関しては、代官を廃して十村役という有力郷士を防衛・監視役と庄屋役を兼ねさせていました。ですから加賀藩内では十村役の屋敷が砦の要素を強く持っています。中能登の飯田家、加賀の多川家などは屋敷が重厚な防御拠点としての形態が強く残っています。
    もし機会があったら、十村役の屋敷を見学してみて下さい。明治以降も大地主として残っていた家が多いので、武器武具や高級調度品を伝えていますから、下手な武家屋敷より驚きの展示品にぶつかります。
    2016年07月12日 09:32

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