刀利ダム

たまたま、仕事で国道304号線から富山との県境まで行く用事がありまして、時間もあるので南砺市から湯涌経由で戻ることに。。あいにくの小雨模様の天気でしたが、山裾からの砺波平野の緑が綺麗に観られました。もうしばらくすると紅葉の季節になるんでしょうね。
南砺市から山越えになる湯涌線に入ると、早くも所々で紅葉しかけた木々の葉が観られるようになっていました。この湯涌線にも色々と見どころはあるんですが、通り道にもなっている久しぶりのダムをご紹介しましょう。

富山県はご存知のように立山などの3000メートル級の北アルプス、白山を主峰として1500メートル級の山並が石川・富山の県境を扼する加越山地の高山地帯から、最深部1000メートルを越える富山湾という両極の海山を持つ自然豊かなところで、山の幸・海の幸に恵まれた北陸の中でも屈指の山・海産品の宝庫と言えます。この自然の宝とも云える山岳地帯と海湾を繋ぐ河川は古くからの氾濫を繰り返しながらも、豊穣な産物を生む土壌の砺波・越中平野を生み出してもいます。

富山湾に幾本もそそぐ主要河川としては一番西を流れるのが小矢部川。加越山地からはこの小矢部川と庄川があります。江戸期以前は2本の河川は源は別ですが、途中で何度か合流しては離れ、高岡で再合流してからは1本の河川として富山湾に流れ込んでいました。この高岡からの流れは総称されて射水川と呼ばれていたそうです。
江戸時代に大規模氾濫で庄川の流れが東に移動して、前田利常以降の加賀藩による大規模改修によって庄川の流れが固定され、明治20年頃の大工事で河口も別になって大河の流れを調整しています。
2筋の流れとなったと云っても高山岳から流れ落ちる急流には変わりなく幾度も氾濫を繰り返していました。逆に、不安定な急流は渇水も起こしています。

明治後期からは治水対策と水力電気需要からダム建設が計画され、昭和初期からは庄川には小牧ダム・御母衣ダム・庄川合口ダムなどの大型ダム、本流や支流の水量調整ダムが作られていきます。
小矢部川でも水量調整は緊急の課題で本流はもちろんですが、大型の支流が多くそちらも建設が急がれていました。本流上部の刀利ダムが建設され、主要支流にも打尾川・臼美ダム、山田川・城端ダム、子撫川・子撫川ダムなど多くの支流ダムが建設されています。

小矢部川は石川県と富山県の境界上にある大門山(1572m)を源にしています。ちなみに、金沢市街からも天気の良い日には遠目に姿が観られる山で、その形が富士に似ていることから金沢では加賀富士とも呼ばれています。この小矢部川の治水と水力発電を担うのが刀利ダムですが、金沢市湯涌と南砺市城端を繋ぐ貴重な通り道になっています。現在もダム湖とダム周辺の道路は貴重な存在ですが、加賀藩時代には「焔硝の道」と呼ばれた重要な道でした。

加賀藩以前にも一向宗門徒が五箇山から石山本願寺に焔硝(塩硝)を送っていたという資料もあるそうですが、本格的な焔硝の生産・購入は慶長5年(1585年)新川郡・砺波郡が前田利長の領有になった時から始まります。この両郡領有の大きなメリットは金銀・銅・鉛・硫黄などの鉱山資源が産出されることと、国内最良の焔硝生産の地・五箇山を得ることが出来たことでした。

戦国期の鉄砲の登場は戦術を大きく変化させ、重要な武器として各大名は保有に血眼となって行きました。鉄砲伝来から僅かな期間で鉄砲保有量は世界一になっていました。ところが、鉄砲にとって必需とも云える黒色火薬の原料の三要素、焔硝・硫黄・炭が問題となってきます。木材豊富な日本では炭に関しては豊富で問題がなかったのですが、大量の硫黄の産出地は限られますがそこは火山国・日本、ただ硝石だけが産出する処がなかったわけです。鉄砲を輸出することで大儲けを狙った欧州諸国のもくろみに反して、器用な日本人は鉄砲を自前で大量生産、更にはいろいろな改良を加えて種類を増やし、射程距離を伸ばし、集団使用という独自戦法に舌を巻いたのですが、硝石だけは日本にはないもので中国・東南アジア,遠くは南アメリカのチリからの輸入に頼らざる負えず、この交易路を持つことで儲けることになります。

戦国末期には各大名・有力武将の鉄砲保有は飛躍的に広がりますが、代表的な者は織田信長を誰もが思いつきます。海外交易地・堺を抑えていた彼ならばとみなさん理解していますが、彼を上回る鉄砲保有・使用した本願寺に与力した根来・雑賀衆、本能寺後の各地の戦闘をみれば、鉄砲の波及は各地に広がっています。鉄砲保有量は一説には戦国末期で50万丁、世界の7割を占めたとも云われています。考えてみれば、そんな大量保有・使用に応えられるほど輸入品があったのかということ、これは無理だと思います。しかし必要となれば、無いとなれば他から作り出す日本人。これははっきりしませんが、たぶん火薬の製造段階か、西洋からの火薬製造法を仕入れたとも云われますが、そこは勉強不足。。それが古土法、更には後年になっての硝石丘法(西洋式培養法)。五箇山70箇村ではこの両法の中間的な古土培養が行われていたようです。今でも合掌集落では民家内や焔硝小屋の跡を一部で観ることができます。
五箇山の焔硝製造は機密保持で謎が多いのですが、糞尿使用は一部に限られていたようで、独自の土培養だったというのが有力です。その質は江戸期にも全国一の折り紙つきでした。

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古くは五箇山から上平村を起点にしてブナオ峠を越えて現在の刀利ダム湖になる前の小矢部川東岸を通って刀利集落に到り(西赤尾道)、板谷峠越えで湯涌を経由して土清水(つっちょうず)・小柳(現・鶴来小柳町、日御子町)の黒色火薬の製造所に送られていました。ちなみに、焔硝の道はここ以外のルートもありましたが主要経路はこのルート、火薬製造所も元々は金沢城内でしたが、度重なる大火による延焼によって小立野台地に移り、更に寛永の大火によって土清水・小柳の両所に移り、規模を拡大しつつ明治初頭まで続いていました。西赤尾道はここ10年程は災害通行止めで峠越えが出来ません。訪れた際にはご注意を。
火薬の原料のもう一つの硫黄は、立山の地獄谷で採掘されて滑川に硫黄蔵が置かれ、ここから金沢に陸送・海送されていました。
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江戸時代は鎖国によって鉄砲の保有制限が行われ、細々とした伝統芸として鉄砲が残った程度に思っている人が多いのですが実は違っています。享保年間頃(1716年)から沿岸に異国船が出没するようになると、海防対策と兵員装備が必要となり火薬製造は増大しています。加賀藩が五箇山からの焔硝購入量は、初期の1000~1500キロから4725キロに、更に動乱期に突入する嘉永元年(1848年)には更に増産令が出され急激に増えて、慶応2年(1866年)には40トンを越えていました。わずか20年ほどで10倍に増えたわけです。幕末の加賀藩の火薬保有量は560トンだったと云われており、その火薬純度も全国一で幕末最強と言っても過言ではない軍事国になっていたわけです。あ~~それなのに、幕末・明治には時流に乗れないテイタラク。。全ては前ブログでちょこっと登場した13代・前田斉泰のどっちつかずの指導ミスと改革派を排斥しすぎたせい。。
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完全に横道に逸れてしまいましたが、刀利ダムは江戸時代から重要なルート道の中継点に作られたダムということ。江戸期から明治初頭に到る需要交易路であったことと、加賀・越中の生活交流道路のために、いくら重要なダムとはいえ通行の妨げにはできません。
地形的にこの辺りは、岩盤が安定した岩山地帯であることから、ドーム型アーチダムとしてダム上を通行できるようにしています。パッと見には黒部ダムに似ていますね。
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刀利ダム(富山県) 案内板から
小矢部川上流地域の総合開発を行なうため、この刀利地内にダムを築造して、豊富な融雪水を貯蓄し、小矢部市、福野町、城端町の農地4,354haの灌漑用水の補給に利用、洪水の防止及び発電にも利用する多目的ダムです。
一方下流の従前用水取入口を3カ所の頭首工に統合し、これに接続する用水路を改修して今日の農業の近代化の基盤を造りました。
刀利ダムは、農林省の直轄事業として、昭和35年から7カ年の歳月と、39億円の費用をかけ、昭和42年に完成しました。以降富山県が農林省より委託を受け管理しています。

ダム型式 ドーム型アーチ式ダム  地質 輝石角閃石安山岩
高さ 101m  ダム長 229.4m  ダム堆積 148,000㎥

貯水池  集水面積 45.9K㎡  満水標高 354.50m  利用水深 33.00m  貯水面積 103.0ha
総貯水量 31.400,000㎥  有効貯水量 23.400,000㎥

放流設備  洪水吐ゲート ダム越流式 8.2X2.9X6門 
        ハウエル・ハンガーバルブ 空中拡散式 

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アーチ式ダムは両岸の岩盤が安定していないと造れないものです。北陸では富山を除くと岩盤の安定したところが少ないために、大型ダムとしては岩を積み上げたようなロックフィルダムが多くなります。飛騨の御母衣ダム、石川の手取川ダム、福井の九頭竜ダム、富山でも石川寄りの子撫川ダムなどがその典型になります。その対照的な存在が両岸の岸壁に貼りつきダム自体の重量で貯水池の重圧を支えるのがコンクリートダムや重力式ダムになります。
自重を増すには当然ながらコンクリート量を増量するため工費が増大してしまうために、日本ではこのコンクリートダムや重力式はあまり数は多くないと云われています。
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刀利ダムのように弓のようなアーチにして放水路側に傾け、貯水池の重圧を受け流す設計の型式をドーム型アーチ式ダムといいます。当然ながら設計・施工には手間がかかるのですが、材料としてのコンクリートの量を抑えられ工費を大幅に抑えられるというメリットがあるそうです。ただ刀利ダムはサイドの方に重力式も組み合わせています。堤高185mと日本最高度の黒部ダムもこの型式です。刀利ダムに訪れると黒部ダムに似ているように感じると思いますが、同じ型式に加え施工が同じ業者(間組)の為と思われます。黒部とは同じ県ですから、兄弟ダムともいえます。
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放水側から観ると威圧感を感じると思いますが、アーチダム特有の施工時の作業通路で完成後の点検作業路として使われるキャットウォークと呼ばれる通路が、オレンジ色に塗られているので通常の無機質なコンクリートダムを女性的な柔らかさを感じさせてくれます。通常は銀や黒が多くて武骨で目立たないのですが、このオレンジのアクセントは非常に斬新で眼を惹きつけます。黒部ダムは確か水色だったと思いますが。。コンクリートに同化して目立たず男性的、と言うことは兄妹ですかね。







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ダムの放水路側ドームの中央下部に大砲の筒先のような物が観えますが、これが刀利ダムの放水口になります。筒先にはハウエル・バンガーバルブ(ダム放流バルブ)が取付けられており、大雨での満水時や水力発電所が停止した時などに放流され、このバルブによって放流水が直接地盤に落ちないように噴霧状になるようにされています。ダム完成の昭和42年(1967年)から長年使われたバルブが平成16年(2004年)に交替されたのですが、取り外された1号機は湯涌側の展望台前に展示されています。口径1.35mは近くで観ると大きく観えます。まだ、放流を観たことがないんですが、一日に何度かは行われているようです。午前8時頃や夕方が狙い目のようです。
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これとは別に洪水吐ゲートが6門。増水によって貯水が溢れそうになった時にゲートを開いて水を吐き出す構造です。ダムの天辺にある箱型の部屋がゲートの開閉調整室になるようです。
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刀利ダムのある地点は標高354.4mになります。緑色の湖水のダム湖は美しい物がありますが、もうしばらくすると山の緑が紅葉となって、美しい紅葉の名所に変わります。
ダムの大きな罪となるのがこの紅葉を盛り上げるダム湖が一番に挙げられます。この刀利ダムの建設によって、刀利集落の多くが湖底に沈んでいます。湯涌方向にしばらく行ったところに刀利集落の水没50年の記念碑があります。記念碑の高台から正面対岸に岬のような親水公園が観えますが、この岬の先には刀利の神社の小山がありました。渇水時やダム湖の水位が下がった時には、神社の跡が頭を湖水に覗かせるときがあります。
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帰り道、峠の途中の道は狭隘ですが湯涌に近づくと、右手に滝が観えたりします。
などとゆったり構えていたら、この峠道では携帯が繋がらないので、要注意。。伝言が3件も@@;どひゃ~~、仕事の呼び出しが。。

旅行日 2016.09.28

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この記事へのコメント

  • 家ニスタ

    日本でも有数の高山地帯から、標高ゼロの海岸部まで、富山の土地は本当にバラエティに富んでいますね。
    だから食べ物がおいしいのでしょうね。
    海の幸から山の幸まで、なんでもありですもんね。
    先日雑誌に長篠合戦の記事を書いたのですが、武田が敗れた原因として鉄砲数そのものより、弾丸や火薬の保有量の差があったのではないかと考えています。
    武田も相当数の鉄砲を長篠に持ちこんでいましたから。
    このへんはこの前の記事で論じきれなかったので、今後の課題です。
    2016年10月08日 15:21
  • つとつと

    家ニスタさん
    富山は山・川・海、本当に自然豊かで食材の種類では北陸随一ですねえ。自然の産物はお隣ですが羨ましいくらいです。
    凄いですねえ。歴史物の執筆なんて@@ 鉄砲隊や指揮者のの練度、弾丸の形状や質、火薬の保有量や質にしても大きな格差があったようですね。その上に、どうしても一斉射撃がメインですから、城や砦に籠った方が鉄砲に優位だと思いますし。
    長篠では馬房柵や陣地構築で織田方は籠城戦を行ったと同じだと思います。
    山岳での持久戦でなく短期決戦を野戦で行った武田方は鉄砲保有はしても、難しかったでしょうね。
    2016年10月08日 17:47
  • まだこもよ

    四国の方だったか よく ダム湖が 干上がって ダム湖に沈んだ建物が 出てくる事があるけど それは 珍しい例で 大半のダム湖は 「干上がる」事は無くて ダム湖に沈んだ建物は もう2度と見ることができないのでは?
    「建物」では 無いけど 母方の じいさんと 一緒に釣りに行ったことがある「思いでの河原」は ダム湖に 沈んでいます!ちなみに 私は 「釣り」は やらずに(なかなか 釣れないと つまらないので…チビだったしね!) もっぱら 石を投げて じいさんに 怒られて いましたが…(笑)
    2016年10月08日 21:00
  • 家ニスタ

    すみません、お詳しいつとつとさんには、釈迦に説法のような形になってしまいました。
    もしよろしければ、雑誌の僕の記事をお読みいただき、建設的なご批判を賜われれば幸いです。
    よろしくお願いいたします。
    m(_ _)m
    2016年10月08日 22:51
  • つとつと

    まだこもよさん
    北陸のダムでは水位が下がることは多々ありますが、仰るように底まで見えることはまずありません。せいぜい埋没林が岸辺に見える程度、刀利ダムの神社跡は小山の上に在ったために、水位が下がった時に小山の上が覗かれるんです。さすがに建築物は観られないようですが、、小山の頂きが覗かれる感じ、滅多に観られないんですが。。祖父さんとの思い出がダム湖に沈んだんですか@@それは切ないですねえ。僕はそういうのはないですが、小川や河北潟に釣りに何度か行ったことがあります。釣果はあまり覚えてないけど、僕は祖父の前では良い子だったみたいで、おとなしく棹を伸ばして真剣だったみたい。

    家ニスタさん
    何をおっしゃいますか、僕は自分の観たいものや興味のあるのを観たり、読んだり調べたりしてるただの好事家ですから。。家ニスタさんと比べられたら恐縮至極恐れ多いです。こうして、ブログ上で御つきあい戴いてることでも、すごく光栄です。刀剣と歴史、ぜひ読ませて頂きます。評価なんて難しいでしょうが。。
    2016年10月09日 07:48
  • go

    最近小矢部ダムへ行く機会が有りません、と云うのもダムからブナオ峠までが通行できないからです、その昔、大門山や赤魔木古山に登るときは湯涌街道から刀利に抜けてダムゲートを通ってブナオ峠に行っていました、上流の下小屋のあたりに岩魚釣りにも良く行きました。
    今では登山でブナオ峠に行くときは高速道路を利用して西赤尾から入っています、ブナオ峠の頂上には小矢部川に行けないようにコンクリートブロックで通行止めになっています、20年以上も通行止めで道路は荒れ放題です、現在では国道304号の五箇山トンネルも整備されて下梨まで行かれますし、東海北陸自動車道もあるので刀利ダムルートは永久に通行止めのようです。
    刀利ダムの湖底には刀利の部落が沈んでいますが、ダムを作るときは住民が反対した様ですが、下流の水害を無くすため涙をのんで故郷を捨てたようです。


    2016年10月10日 12:28
  • yasuhiko

    「焔硝の道」ですか。
    五箇山の合掌集落で、焔硝が
    製造されていた事、それがこの道を
    通って運ばれていた事など、
    鉄砲の歴史とともに興味深く思われました。
    「塩の道」「鯖街道」などの名は
    聞いた事ありますが、「焔硝の道」は初めてで、
    成る程と思う事ばかりです。
    2016年10月10日 15:29
  • メミコ

    初めて知ったダムです  自分の身近には丹沢山系のダムがいくつかあり 見学に行ったりしますが こうして各地のダムの歴史を知るのも面白いですね

    ダム建設の苦労は どうしても黒部の太陽 を思い出しますが ほんとに大変ですね
    狭い日本ですが ダムの数は すごいのでしょうね
    2016年10月12日 13:36
  • がにちゃん

    黒部ダムのちょっと小型と思えば良いのですね  周りも山に囲まれていて 景色も良く似ているのでしょうね 紅葉の季節 もう1歩ですね
    2016年10月13日 15:43
  • つとつと

    goさん
    僕も今回は久しぶりに通ったんですが、刀利ダムの分かれ道にあるトンネル入り口には相変わらず通行止めの標示になっていました。西赤尾道のブナオ峠越えは1.2度通ってるんですが、コンクリートで通れなくしてあるんですか。。せっかくの歴史的な道なんですがねえ。。おかげで不動滝もすっかりご無沙汰です。
    今度は久しぶりに西赤尾から登ってみようと思います。
    2016年10月15日 12:59
  • つとつと

    メミコさん
    日本のダムと呼ばれるのは約2700あるそうですが、堰堤や砂防堰なども含めるともうわからないくらいあるそうです。生態系の変更やダム湖による集落水没など功罪も多いのですが、ダム建設の必要性の当否は正直定まっていないのが実態のようです。

    丹沢水系と云えば、このおかげで神奈川は、水不足で大騒ぎだった関東で唯一、影響がなかったと云われていますねえ。観光放水が凄いって宮ヶ瀬ダムは一度は観たいと思っています。
    2016年10月15日 13:13
  • つとつと

    がにちゃんさん
    そうそう、黒部ダムとは3.4年違いで完成したダムですが、同じ形態で妹分て感じです。このダムの両側になる金沢の湯涌温泉、南砺の福光温泉など、静かな温泉地があります。この辺りは紅葉の隠れた名所です。そうそう、白山麓の三方尾根が今は真っ赤の紅葉してるそうです。これからどんどん郷に紅葉が下りてきます。
    2016年10月15日 13:19
  • つとつと

    yasuhikoさん
    基本的に江戸時代には自給経済でしたから、産地から貯蔵地や加工地に送られる経路がありました。加賀藩は越中・飛騨北部・加賀・能登と細長く、海・山に恵まれて道路や経路が重視されたところが大きかったようです。焔硝の他にも、文中にちらっと書きましたが、硫黄は滑川の硫黄蔵から小杉・津幡に宿や保管所を経て、金沢・鶴来に輸送した陸路は硫黄道と呼ばれています。
    ハッキリ言って、今は田舎道や草分け道みたいな所も多いんですが、道には興味が尽きません。そうそうスピード参勤交代の映画が公開されてるけど、、参勤交代の道や宿場も興味深いですよ。
    2016年10月15日 13:39

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