古九谷の里~九谷焼窯跡展示館

石川県を代表する色絵磁器・九谷焼、時代ごとや先駆者によって開発改良で特徴が変わっていますが、華やかさに定評があって人気を得ています。
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九谷焼の始まりは、寛永17年(1640年)頃、大聖寺藩始祖・前田利治が、山中温泉の奥地(九谷)に良質の陶土を発見したことから、殖産業振興のために藩士・後藤才次郎を有田に派遣して製法を学ばせて、明暦年間(1655年)に後藤才次郎が帰国後に九谷の地に開窯(九谷初窯)したのが始まりと云われ、同年、初期のの作陶の花瓶(田村権左衛門銘)を当地の九谷八幡宮(現・三柱神社)に奉納したというのが九谷焼の創始と云われています。(画像はH24.9.29)
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現在の三柱神社は、九谷ダム建設による離町後の平成12年(2000年)に再建されたものです。九谷町はダム建設によって離町を余儀なくされましたが、九谷初窯・吉田屋窯跡が国指定史跡に指定されたことから、九谷の里としてダム湖(五彩湖)計画が変更され建物や町民はいませんが大部分が残されています。(画像はH24.9.29)
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九谷の地名の由来ですが、最古の九谷の名が出てくるのは文明18年(1486年)浄土真宗・蓮如の四男・蓮誓が九谷坊を開基したという記録がありますが、古来から山中温泉の中心地を一番にして、西の谷村と呼ばれる地区を隣接する柏野が2番、柏野は以前紹介したことのある柏野の大杉のある所です。その先の今はダム湖の下ですが我谷が3番といった具合に、奥に向かって村落に番号が振られていました。九谷は名前の通り、最奥の九番目の谷にあった村の名前と云われています。また一説には山が深く谷が多く、九百九十九の谷があると云われたことから来ているとも言います。

後藤才次郎が開いた九谷焼はその後50年ほどで製造を取り止め閉窯となっています。この時に製造された作品を総称して古九谷と呼んでおり、好事家には珍重されています。しかし、何故に閉窯となったのかという原因はいまだ不明と云われています。九谷の里の窯跡地には九谷焼の祖として後藤才次郎の顕彰碑があります。

現代においては伝統工芸の王国のように思われている加賀藩・大聖寺藩ですが、こと磁器や陶器に関しては、加賀藩では茶器を主とした大樋焼があるくらいで、この古九谷の閉窯以降は他藩から多くの作品・調度を買い入れていました。大藩の儀式や格式に使われる費用は尋常なものではなく、加賀藩・民間を合わせると年間購入数は約36万ともいわれ、運賃や商人の利ザヤを含めると高額に上り、藩財政を大きく圧迫していたと云われています。
その当時、陶器の独占全盛を誇っていたのが肥前有田の伊万里焼でした。そこに風穴を開けるように有田の技術を取り入れた染付磁器で台頭して成功を収めたのが瀬戸焼でした。瀬戸焼の成功に刺激を受けて、各諸藩も陶磁器の自家製法を研究したり、開窯をするところも増えます。それは加賀藩でも同じでした。

文化3年(1806)加賀藩では京都から青木木米を招聘して、卯辰山に春日山窯を開窯させて試作を開始、最初は九谷から陶土を取寄せていましたが、近くの河北・能美から陶土を開鉱して目途がつきかけたところで、文化の大火が起こり、緊縮・民営化と簡素化を迫る加賀藩と芸術作志向の青木木米の方針が合わず、怒った青木木米が帰京すると僅かな年月で衰退してしまいます。後年、この春日山窯を再興して民山窯を開窯したのが金沢城内の遺構として残った数少ない建物の中村神社の拝殿(金沢城時代は舞楽殿)の欄間を制作した武田秀平(友月)になります。

しかし、この春日山窯の開窯と県内の陶土発見による功績は大きく、陶土の発見された能美・若杉(現・小松市若杉町)に文化13年(1816年)木米と共に招聘され残留し、能美(小松)の林屋八兵衛の元に移った本多貞吉によって若杉窯が開窯され、更に近くの花坂に良質の陶石を発見して発展、加賀藩で最初の量産に成功した窯となります。加賀藩は改めて官営の若杉陶器所として、本多貞吉を職長として京都・平戸・信楽から職人を招聘して加賀藩の九谷焼の中心地となっていきます。
本多貞吉の元からは多くの名工が輩出されており、九谷焼再興の祖ともいえる人物です。
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文政6年(1823年)、発祥地と云える九谷のある大聖寺藩では、藩は動かず民間の豪商吉田屋・吉田伝右衛門が後藤才次郎が開いていた窯跡に開窯をします。徐々に発展しましたが、製品の運搬ほかの事情から窯を山代温泉の地に移しています。商品としての磁器を重視していますが、芸術性の調度の評価も高く「青九谷」として再興九谷の中では最高格と評価されており、青色の技法は現代にも引き継がれています。ちなみに主工は若杉窯の本多貞吉の養子・本多清兵衛。軌道に乗ると共に成形担当に京都・信楽の職人が招聘されていました。また九谷の命ともいえる絵付・焼き着けの錦窯には加賀の名工として名高い粟生屋源右衛門がいました。本多清兵衛・粟生屋本多貞吉の門下に当たります。しかし吉田伝右衛門一代で吉田屋窯は幕を閉じます。

その吉田屋窯を引き継いだのが番頭の宮本屋宇右衛門で、宮本窯として同じ地に再興しています。宮本窯では金沢の民山窯の赤絵技法を取り入れて金彩を施し吉田屋窯とはまったく違うものになっています。、更に細密画的な絵柄で赤九谷として人気を博し発展していました。加賀(山代)九谷の発展の基盤を造ったと云えます。
しかし、財政難に苦しむ加賀藩が活況を示した若杉窯を官営にしたように、宮本窯も大聖寺藩の官営として取り込まれてしまいます。官営化は収益を義務付けられるために、技術の継承には向きますが芸術性や独自性が置き去りにされやすく販路も限られる機来があり、加賀の九谷焼の勢いは能美・寺井に移り、しばらく不遇の時代を迎えます。
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春日山窯から始まる金沢の民山窯、小松の若杉窯、加賀山代の吉田屋窯・宮本窯、その他にも能美の斎田道開の赤絵二度焼き・細密意匠の佐野窯、吉田屋・宮本窯の流れを引く粟生屋源右衛門などが開いた小野窯、彩色金欄手で寺井九谷の源流となる九谷庄三など江戸末期から明治初頭の復活は再興九谷として現代の九谷焼の源となっています。

画像は寺井の九谷焼茶碗祭りです。毎年GWに開かれるイベントは人気があって多くの人出で賑わいます。画像の200円の灰皿、今も僕の愛用の灰皿になってます。(H25.5.3撮影)
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九谷焼ですが前述のように、金沢・能美・寺井・小松・加賀(山中・山代・大聖寺など)と加賀地方それぞれに諸派や町割で分かれ交流しながらも各地独自の進化を遂げてきたのですが、加賀市における古九谷・再興九谷の流れを受け継いで来たのが、ご紹介する九谷焼窯跡展示館の地になります。




吉田屋窯は最初は始祖・後藤半次郎が開いた九谷の里に窯を開いたのですが、山間地の為に運搬や販売に支障をきたすために、わずか2年後の文政9年(1826年)九谷の里から移転・造成したのが、山代温泉(越中谷)にあるこの地になります。
吉田屋窯、宮本窯、藩営・九谷本窯(山代窯)、民営・九谷本窯、九谷陶器会社、九谷陶器本社、大蔵寿楽、嶋田寿楽と、この地は運営は変遷しつつも窯は修繕を重ねつつ、昭和15年(1940年)まで吉田屋の築いた窯が使用されていました。同敷地内に焼成窯が新しく築かれて昭和40年頃まで使用されていました。なお、嶋田寿楽は協会に展示施設として管理運営を任せ、隣接地に工房と店舗を置いて三代目が良品を生み出しています。
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平成に入ってこの地が発掘され、吉田屋窯から続く重層の窯跡の全体像が発見され、国指定史跡「九谷磁器窯跡」となっています。吉田屋窯として造成されて115年間使われた窯跡を保存・保護するために柱を使用しない特殊構造の覆い屋で囲っており、出入り口から入ると斜面を利用した登り窯跡には圧倒されます。
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焼き物の窯に関しては詳しくないのですが、焼成の炎や熱が循環する登り窯には目を惹きつけられます。
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説明板によれば、大小の修理修繕が加えられ120年近くの長期間に渡って継続使用されて来たようですが、大きく造り直した形跡が3回あったことが判明しています。吉田屋窯草創期登り窯の焼成室は4房でした。文政10年に大規模改造が加えら、藩営九谷本窯時代(1860~1870年)に5房になって、明治12年(1879年)九谷陶器会社が6房に拡大していることが解ったそうです。また通常残りにくい色絵皿窯も残っているそうです。
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国指定の窯跡を出て右手にある建物は、小松・加賀ではお馴染みの赤茶の瓦に木造建築ですが中に入ると、昭和15年(1940年)に造られた後継の登り窯があります。前述の約120年近く使われた登り窯の後継が造られています。この登り窯は昭和40年(1965年)まで使われていたそうで、現存する九谷焼の登り窯としては最古と云われ、加賀市指定文化財に指定されています。
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本焼きの登り窯としては小振りなんだそうですが、実際に目の前で見ると大きく見えます。この窯でも一度の窯詰めに1000個が入るそうです。構造形態は前述の吉田屋窯跡も同じ基本構造だったそうです。その他に窯焼きに使われる道具類も同じく展示されています。
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入場受付のある大きな木造建築住宅は、窯元の社屋・経営者の住居兼工房として使われていたもので、築年は明治30年代と云われています。築100年以上の旧家としての雰囲気がありますが、屋内には昔ながらの足蹴り轆轤場(ろくろば)、はがし場、絵付け場が復元されて、轆轤・絵付け体験も職人による指導体験ができます。僕が訪問した時も4人連れ家族とカップルが轆轤に、老夫婦が絵付けに挑戦していました。作業場横の座敷には企画展示とビデオが見られますし、以前は店舗だった部分には常設の展示、お洒落な小物から重厚な伝統工芸士の作品までの販売コーナーもあります。観光施設のため、手ごろな現代作品が多いようです。

入場料は一般310円、絵付け2000~3000円 、轆轤;体験コース 作品1個3000円2個4500円
                                 陶芸教室  一時間1200円
駐車場は施設から少し離れた場所で、住宅などの路路を巡るように歩くので要注意。

独りで行くより二人以上で行って、轆轤や絵付け体験が面白いかも。。

旅行日 2016.05.04
























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この記事へのコメント

  • go

    九谷焼は大聖寺藩始祖、前田利治が藩の産業振興の為に(1640年)始めた、とありますが、もっと古い歴史が有ると思っていました。
    つとつとさんの記事を見ると300年余りの間に多数の人たちの創意工夫によって凄く進化したものですね。
    私は焼き物には知識がないんですが、「お宝鑑定」のテレビの番組を見ていると古九谷焼や九谷五彩など立派な物が有りますが、始めた当初は成熟した九谷焼とは違って有田焼きを手本にした特徴のないものだった事を想像します。
    茶碗祭りには何十年か前に一度だけいった事が有りますが、沢山の店が出ていて随分賑やかでした。
    2017年02月08日 17:41
  • がにちゃん

    良いですねぇ 九谷焼 我が家にあるのはコーヒーカップと古九谷焼のおちょこ位なものです  
    2017年02月08日 18:08
  • 家ニスタ

    いろいろなものの歴史に興味があるのですが、こと焼き物に関してはほとんど知識がありません。
    いちど勉強しなきゃなあ、とは思っているのですが・・・。
    登り窯の遺跡、なかなか興味ぶかいですね。
    機会があれば一度訪れてみたいと思います。
    2017年02月08日 23:26
  • つとつと

    goさん
    九谷焼は大聖寺藩の前田利治が創始ですが、50年ほどで一度100年間中断しています。古九谷が謎の焼き物と云われる由縁です。ですから、春日山窯が起こされて約200年が九谷焼の実質の変遷が歴史だと云えると思います。それでも古九谷と伝わるものには意欲的な意匠が多く存在します。ただ、光沢の仕上げ地や真っ白な磁器を作るのに苦労したのが、原因かもしれません。
    寺井の茶碗祭りは何度か行っていますが、平素とても静かな高台にあんなに人が集まるんだと、毎回驚かされます。

    がにちゃんさん
    古九谷焼きをお持ちなんですか@@そりゃ凄い@@
    子供の頃は派手な絵柄と色の焼き物という寺井九谷の印象でしたが、今はいろいろな絵柄や光彩があって、たまに見て回るのが面白く感じられます。

    家ニスタさん
    なかなかお伺いできなく手間があき申し訳ありません。
    茶道も華道もさらに言えば、料理の皿や器など、縄文土器もそうですが日本の焼き物文化はいろいろ変化が激しいですね。焼きあがった作品や茶碗や湯呑みでは馴染みがあるんですが、登り窯のような焼成の過程に関してはなかなか触れる機会がなくて、伊崎字を書こうとすると、全く解らないという自分がいました。
    温泉がてら訪れてみてください。石川の温泉街の側には歴史的な遺物が多く存在します。
    2017年02月09日 13:32
  • yasuhiko

    九谷焼のルーツとなる場所の写真、
    興味深く拝見しました。
    ここから九谷焼が始まったかと思うと、
    ちょっとした感慨を覚えますね。
    登り窯は、40年くらい前に、
    確か伊賀上野で見学した記憶があります。
    その時点で使われていたのかどうか、
    詳しい事は全く覚えていません。
    瀬戸焼の台頭、それに影響された各藩の
    取り組みなど、陶磁器の歴史も面白いですね。
    2017年02月10日 17:55
  • つとつと

    yasuhikoさん
    九谷初窯の跡地は山中、山代温泉双方から行けるんですが、なかなかとんでもない山中になるために晩春から初秋にかけてしか行きにくい場所ですが、その場に立ってみるとやはり感慨深いものがあります。機会があれば訪れて欲しい場所です。文中にチラッと書きましたが山代側の道には、小松・能美・加賀によく観られる赤茶の瓦の荒谷地区という重要伝統的建造物群保存地区に指定されている東谷・荒谷の山村集落が見られます。山奥の山村集落の赤茶の瓦は妙に森林と合うんですよ。
    陶磁器ではやはり有田焼の存在が大きいのですが、華やかな九谷焼の存在感もなかなかのものですよ。九谷焼は各市町で別個の特徴があるので、4個所の展示館や施設がお薦めです。寺井ではウルトラマンのキャラクターものまでありますよ^^
    2017年02月10日 18:57
  • イータン

    こんばんは~
    九谷の登り窯 最古の焼き釜が現存するのですね
    驚きでした それはうむを言わせぬ文化財物ですね。
    九谷焼きのお皿をはじめて見た時、深みのある色合いの焼き物だと思ったのを覚えています。
    それにしても、一度に 1000個とは驚きです。
    2017年02月13日 20:52
  • つとつと

    イータンさん
    九谷初窯はとんでもない山奥にあるので、行くにはなかなかの覚悟がいるんですが、再興九谷の窯跡は山代温泉街にあるので、風呂あがりのそぞろ歩きのついでによることができます。九谷焼と云っても今は5カ所の産地があり、作者それぞれで意匠も全く違ったものになります。深みのあるものから、虹を思わせる光沢の色、近頃ではウルトラマンの絵皿やアクセサリーまで。。。そうそう、我が家にもバルタンがいますよ^^
    登り窯としては1000枚は小振りなんだそうで、もっと大きなものが主流なんだそうです。驚きですね。
    2017年02月13日 22:36
  • tor

    熊本地震で被害を受けて、焼き物はやめてしまったのですが…。窯元や焼物の里を歩くのが趣味でした。九谷焼も三代徳田八十吉さんの作品に憧れていました。訪ねる前にお亡くなりになり残念でした。歴史ある窯跡を保存されているって素晴らしいですね。旅行した際は観光地がメインで、合間に私の趣味だったのでノーマークでした。今にして思えば残念としか…。おっと!もうやめたのに未練がましいことを。ちなみに震災で割れた物を接着剤でくっつけていて、妻から「器小っちゃ!」と言われました(笑)
    2017年08月29日 21:21
  • つとつと

    torさん
    三代・徳田八十吉さんが亡くなって10年近くですねえ。三代の彩釉磁器の登場は革命的で九谷焼の名前を引き上げた功労者でしたねえ。突然の死去で地元の人間も驚きました。小松や加賀市には三代目の所縁の場所が点在しますが、小松城址公園の池には三代目の飼っていた鯉が優雅に泳いでいます。魚釣りが大好きで海釣りに行き、家では鯉を眺めるのが好きだそうで、魚には一過言持っていたそうです。
    焼き物は割れ物ですからねえ。。地震はほんとうに悔しい思いをされたと思います。
    でも未練はいくら持っても良いのではないですか。
    九谷焼は加賀の各地で独自進化してきたので、九谷の里は点在していますが、観光地の端っこに多いので次回にはそぞろ歩きにどうぞ^^この窯跡は山代温泉からすぐの場所です。
    2017年08月30日 09:37
  • 田舎懐古

    家内のお爺さんは金沢で石野竜山とともに赤九谷焼を拓いた若村泰山と言います。明治期に多くの弟子を抱えていたようです。親友の兄さんは福島武山という名前の九谷焼陶芸家をやっています。僕も明治期の古書、九谷焼という本を読みとき、後藤才次郎が大聖寺から柿右衛門の元へ行ったのをしってはいますが、才次郎の墓が九谷焼で作られ、弟子達が参ったと記されてあり、一度参りたいと願う物です。本は元の加賀市長を通して九谷焼会館に寄贈しました。読みといた結果は戯曲のようでした。当日の有田の様子もわかり楽しい本でした。加賀市長、完璧に現代語訳でワープロ打ちしてくれました。九谷焼会館に詳しく書かれた筆がき本があると思います。因みに、前の副館長の中谷さんは僕の同級生でした。
    2017年11月21日 00:22
  • つとつと

    泰山さんの名は聞きかじり程度ですが、10年ほど前に近江町近くのギャラリーで弟さんの紫紅さんの展示会を偶然に観て二人のお名前が頭の片隅にありました。
    紫紅さんは片目が不自由と書かれていましたが、細密な図柄には眼を見晴らされた記憶があります。ただ美術感のない僕は悲しいかな、観るだけに終わってしまいました。
    後藤才次郎の墓ですか@@それは全く知りませんでした。そのような本があるんですねえ。今度九谷焼会館にも立ち寄ってみます。
    墓所は知らなかったんですが、奥九谷の古九谷窯跡の入り口に顕彰碑は重厚な造りです。
    2017年11月26日 14:00
  • 田舎懐古

    紫紅は家内の父です。花詰めが得意で、それで細々と生計を立てていました。我が家には沢山ありますが。泰山は家内のお爺さんですが、良く知らないようです。金沢で10年程前に泰山の打出の小槌を見つけて買いました。明治は遠くなりにけりです。お返事ありがとうございます。
    2017年11月26日 23:41
  • 田舎懐古

    泰山は1代と2代があり、展示会では、2代の泰山を出品したんですね。1代の物は余りないようです。金沢は流石に工芸の町ですね。同級1つ上に、また大場さんの父、隅谷さんの父など人間国宝が沢山。東京にきてからは、全く工芸関係の人に会うこともありません。振り返れば独特の文化の町ですね。僕達の出た学校も歴史博物館になっているようです。埃だらけの学校が懐かしいです。
    2017年11月27日 08:03
  • つとつと


    紫紅さんが奥様のお父様になるんですか@@ 
    滅多にないのですが、その道を嫁さんと歩いていて変わった装飾のビルで、二人で冷やかし半分で入った際に、展示会は開催されていたんです。特別展示会だったか回顧展だったか、二人で観てきていたんです。まさか身内の方にこのブログで出会うとは驚きました^^;
    石川の人間国宝は工芸関係は人数でも京都とトップ争いを演じるそうですから、やはり伝統の継承、新規の発見・技術があるようです。悪く言うとオタク人間のように、人とのことにのめり込む人が多いようです。
    加賀市の加賀福を製造販売しているお菓子城・加賀藩の駐車場奥のドーム型建物に石川県の現役人間国宝の作品や人物を紹介する施設があるんですが、そこで見るたびにため息が出る作品群と人物像。。こういった具合に普通に作品が一般に眼に触れるんですから、まだまだ風土から人材が出てきそうです。
    2017年11月28日 13:32

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