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<<   作成日時 : 2017/10/26 13:05   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 41 / トラックバック 0 / コメント 11

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。
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尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。

天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入れ、一門衆として家臣の列に加えています。この時、前田長種34歳。

単身逃れてきた前田長種を迎えた前田利家の待遇は家臣としたものの破格のものがありました。
前田利家の一族に対する親密感や信頼は大きいものがあります。自身が追い出す形になった元荒古城主で実兄・利久を能登時代に迎え入れ、留守がちな自分に替わって七尾・小丸山・金沢城代と厚遇し、野田山墓所でも最高部に利久を葬り、自分の上位に置いています。
前田長種に対しても、長女の幸姫(当時25歳)を嫁がせ、当時としては前田家内では実弟・前田秀継と並ぶ最高石高1万石を与えています。

前田家内の男性陣の仲の良さはこういった前田利家の性格にも寄ると思うのですが、長兄・利久、三兄・安勝、末弟・秀継。いずれも越前府中・能登・加賀・越中と目覚ましい活躍を見せています。次兄に利玄がいますが事蹟が不明。養子に出て早くに亡くなった次弟・佐脇良之の娘も利家が養育して、後に高山右近でライバル的存在として書いた篠原一孝の正室になっています。
身内で唯一利家に逆らって出奔した前田慶次(名は利益?養父・利久、義父・安勝)にしても、能登時代、利久復帰の際の石高7千石で迎えていますが、内5千石は慶次名義でした。奔放な性格の慶次に幾度も説教めいたことを云ったようですが、利久死後の出奔に対しても、風呂場の行跡の真偽はともかく、小説や漫画の様にそれ程の激怒もなく、子の正虎は加賀藩士(利久の2千石を相続)として利長・利常に仕え、娘たちは次兄・安勝に預けています。ちなみに三女は富山藩士、次女は北条氏邦の遺児(加賀藩士)に嫁いでいます。と、いうぐあいに前田利家の身内への愛情は結構きめ細かで高いものがあります。

前田長種幸姫は当時としては少々とうの立った年齢の夫婦ですが、夫婦仲は良かったと云われています。二人の間には直知・長時と二人の男子があります。
前田利家・お松(芳春院)の間には2男9女と子だくさんで有名ですが、この実子の数は伊達政宗の祖父母・伊達晴宗・久保姫の5男6女に並ぶ戦国期の武将夫婦の最多記録と云われています。
11人の子供の中で一番最初に誕生したのが幸姫でした。父親にとって長女は恋人と云いますが、その珠玉の玉を前田長種に与えたのですから、利家の期待と恩情が窺われます。

ちなみに、利家と松の結婚年齢は利家20歳・松11歳と云われており、幸姫が生まれたのは翌年で松が12歳と云われています。子供というより姉妹のような年齢です。ただ、後述しますが七女・千世姫は利家が外で作った子供で松の実子にしたという話があるので10人が正解のようで。。それでも、たいへんな子だくさんです。

利家の期待に応えるように長種は武功を重ねていきます。特に部下掌握と共に、統治能力に秀でていたようで、
主には前田利長を補佐するように行動を共にし、守山城・富山城・小松城と利長の城代を努めています。慶長10年(1605年)加賀全域が加賀前田家の所領となると、初代城代として小松城に入城しています。10年後の廃城まで努めており2万3千石を給されていました。長種は小松城代を務めあげた後、家督を譲って隠居、幸姫は小松から金沢に戻った翌年亡くなっています享年58歳。長種は寛永8年(1630年)に没享年81歳。

文化都市・金沢の基礎を築いた加賀藩三代当主・前田利常は前に何度も書いていますが、生まれて数年間は日陰の子でした。前回にも書きましたが、前田利家が朝鮮出兵で肥前名護屋城に派遣された際に、身の回りの世話役だった正室付き女中・千代保(寿福院)に手を出して産ませた子が利常(幼名・猿千代)でした。
名護屋城からの帰還後は正室・松の嫉妬と怒りを恐れた恐妻家の利家は最初からこの母子を顧みることなく、父子対面も死の前年まで行っていません。つまり、父に見捨てられた母子となっていました。

そもそもお殿様の住む奥向きは江戸期になると、入室できる男はお殿様のみ、女の園ですべてが殿様のもので、お殿様にはより取り見取り、やりたい放題と思われています。しかし正室・側室付きの女中に手をつけるのは絶対厳禁でした。これは前田家だけでなく、将軍家の大奥、諸大名の奥室も同じです。実質的に奥向きの主は正室でお殿様はお客さんみたいなものです。お客さんは郷に入らば郷に従えで、正室付き女中は公的な秘書官のようなもので、それが例え下級でも同じことです。それに手を出せば、ただではすみません。正室からお殿様が厳罰に処されても文句は言えません。その禁を利家は侵してしまったわけで、に黙って逃げたり隠したりの悪あがきをしたのにはそういう面があったわけです。

利家にとっての嫉妬心と怖さは相当だったようで、前に高山右近(高山右近記念公園)で篠原一孝を紹介した時に書いていますが、一孝の弟・長次と七女・千世姫は双子で、利家が浮気で作った子供で(母親は不明)、この時大揉めに揉めて、松の実家筋になる一孝の父・長重を含めた秘密の三者会談で長次を長重の、千世姫を松の実子にするという裏技が行われていました。用は利家は脛に瑕持つ前科者だったわけです。さすがに二度は同じ手は使えず、松に黙ってこの母子を前田長種に預けたわけです。松は利家が千代保に手をつけたわけで、禁を侵した部下・千代保を追放したのですが、子供が出来ていたことは父子対面直前まで知らなかったとも云われています。

そもそも、千代保(寿福院)利常を出産した際も人知れずになされており、名護屋城だと云われていますが、立ち会ったのは飯炊き女一名と云われています。また、利長・長種が引き取るまでは母子二人で暮らしていたとも云われています。後年になりますが、利常が次期藩主として決まった際に、幕府に利常の履歴を提出する際に生年月日、時間が解らず、この飯炊き女を探し出して確認したという逸話があるほどです。
それだけ、利長・利政が健在な加賀前田家では、将来この利常が当主になるとは予測されていなかったわけです。

この利常母子を引き取って養育したのが、京都に出ていた前田利長の守山城代であった前田長種夫妻で、前田家では本家筋に当たることから芳春院から守るには他に居なかったともいわれます。その後、長種夫妻が富山城・小松城と城代として移動した際にも利常は共に移っています。また子のなかった実兄の利長夫妻にも自身の子の様に愛され、父子対面は利長の奔走と説得によって実現したものです。この際に体格が子供の頃の自分にそっくりだと云うことで、利家から利常に金箔仕立ての大小刀が渡されています。この二振りが尾山神社の宝刀で国重文の備前国光・国貞の大小と云われています。
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H24.11.28 玉泉寺 永姫(玉泉院)の慰霊塔 永姫の墓所は野田山にあります。
最後には利長利常を養子として次期藩主とします。これに反対した芳春院(松)を説得したのが、長女・幸姫(長種正室)、四女・豪姫(宇喜多秀家正室)永姫(利長正室)だったと云われています。この三人は芳春院に意見する数少ない女性陣でした。幸姫・豪姫は自身の娘とは言え、前者は初めての子である長女、しかも前田家にとっては本家筋に嫁いでいます。後者は豊臣に養女に出し一番苦労をさせた娘。そして永姫は長男の嫁ですが、父親は自身も仕え、旦那が神の様に崇めた主筋の織田信長。納得せざる負えません。ちなみに関ケ原逃亡中の宇喜多秀家と豪姫の逢瀬に出来た次女・冨利姫は永姫の養女となっています。

前田利常にとっては、前田長種夫妻・前田利長夫妻・豪姫の5人はかけがえのない大恩人になるわけです。
藩主に成ってからも、芳春院と実母・寿福院の確執、異母兄弟との確執に苦しみますが、そのたびにこの二夫婦と豪姫の助力を受けています。日陰の身から加賀藩の三代当主にしてもらい、加賀藩の基盤を整えた名君とまで呼ばれる存在にしてもらった大恩人だったわけです。
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H24.11.28 玉泉寺 上;玉泉院天満宮拝殿 右:玉泉寺 寺務所
玉泉寺は永姫が父・織田信長を弔うために建立した寺院です。江戸期は寺領内に天満宮が置かれていたのですが、実はこの天神様と称していますが織田信長として祀っていました。織田家の紋所や信長の座像があったそうですが、明治の大火で焼失しています。この玉泉院天満宮(泉野菅原神社)の拝殿は近年建てられたものです。似た事例では卯辰山三社の豊国神社も江戸期は山王社として豊臣秀吉を祀っています。前田利長の菩提寺・瑞龍寺には奥まった一角に織田信長・信忠・永姫の母とされる吉乃が石廟として祀られています。徳川家や幕府の眼を逃れるためと云われています。また、この玉泉寺は金沢では珍しい時宗の寺院です。檀家がないため、なかなか整備が進んでおらず荒廃が進んでいます。


利常の感謝の意は、明治に至るまでの八丈島の宇喜多家への援助・明治の東京移住への便宜と豪姫の嫁ぎ先への250年以上に及ぶ前田家の恩情に繋がっています。戦国武将中、最大規模の墓域の前田利長墓所と北陸唯一の国宝建物で菩提寺・瑞龍寺。昨昨年、復元された金沢城の玉泉院丸庭園玉泉院(永姫)の為の庭園で、庭園内に御殿を建てて住まわせ別格の扱い、玉泉院が建てた父・織田信長を祭る野町の玉泉寺を援助、玉泉院が亡くなり玉泉寺を菩提寺にすると5600歩(坪)の寺領と寺領を囲むを水堀と囲い塀を与えています。明治の焼失を免れていれば、国宝級の寺院でした。

更に育ての親となった前田長種が亡くなった後になりますが、寛永の大火で家臣団を金沢城外に移住させた際には、現在の大手町を中心にした広大な屋敷地を与え、金沢城の正門守備の家としています。全家臣団の中では金沢城正面の一番近い場所に存在したことになります。また、玉龍寺が法船寺町から野町に移る際には3000坪の寺領を与えて、加賀八家の中では異例の菩提寺に墓所を置くことを許しています。この為、現在も加賀八家の中で唯一、野田山ではなく寺領に墓所を持つ特別待遇となっています。

長種は小松城代を終えて金沢に戻った際には隠居料として5000石。元和2年(1616年)金沢に戻って約1年で妻の幸姫が亡くなり、長種も正式に引退しています。この際に直知(就任時5000石)に隠居領を合わせて相続させて1万石としています。この時が正式な人持組頭になった時で、加賀八家・前田対馬守家が誕生した時でもありました。

そんな前田対馬守家にも存亡の時がありました。2代・直知が大阪陣後の病で隠居して京都で静養、3代には直正に譲り、弟・長時に1500石で分家(後の前田織江家7千石)していたのですが、寛永7年(1630年)9月に死去しています。ところが不幸は続くもので翌年4月、初代・長種が亡くなります。更に祖父・父の相続を継いで1万7千石となった3代・直正が10月に江戸で急死します。折あしく、直正は当主就任と同時に弟や相婿を分家させたばかりでした。僅か1年余りで初代・二代・三代が立て続けに亡くなり、残された4代・孝貞は僅か3歳。後見すべき親族もいない状態でした。

当然ながら慌てたのは利常で。。この状態では主君としては、前田対馬守家を減俸して人持組頭(軍団長)から外すしかなくなります。つまり、大恩人の前田対馬守家が消滅してしまう大ピンチ。。
利常がとった窮余の一策は玉龍寺でも書きましたが、2代・直知が離別した先妻・おなあ(父は朝鮮戦役で陣没したキリシタン武将・利休七哲の一人・牧村利貞)の連れて出た直知の実子・直成、恒知でした。

おなあは離婚後、妙心寺で修業(師匠は石田三成の遺児・石田重家)、蒲生家重臣・町野幸和と再婚。ところが蒲生家が御家断絶で町野氏が浪人となって家族で江戸にでます。姪のお振の方が家光の側室として大奥入りした時に、その才幹を春日局に買われて大奥入り、春日局の最側近補佐役・祖心尼となって、将軍・家光に臨済禅や道徳の教師も務めていました。春日局ファンには有名な人物です。直成は町野家を継いで、妻や子もあり町野直成として幕府に仕え始めていました。実父母に似たのか才幹・体力共に秀でていたようで、利常はこの町野直成に眼をつけたわけです。
ちなみに、おなあ(祖心尼)は父親の死後、前田利長に引き取られ利常と共に育てられた幼馴染でもあったのです。利常は心懐かしい祖心尼と直成に頼み込み、直成の復帰を願い出たわけです。

この突然の依頼を受けた直成は、実父の家のピンチに町野の姓を捨て前田姓に復し、町野の家を捨てることになります。町野の家は弟・恒知が500石で旗本として存続します。後の話ですが、町野家は直成の子が継いでいます。
町野改め前田直成前田対馬守家に戻って、幼い当主・孝貞の後見兼執政として立て直しと整備に努めています。前田対馬守家を建て直し明治の男爵家にした立役者となります。前田家に戻ってからは妻を求めたかは不明ですが、子供がないまま直成の血筋は絶えますが、前田対馬守家では、救世主であり偉大な執政として語り継がれていましたが、幕末の天保13年(1842年)に9代・孝本が養子によって前田直成家(500石)を復活させています。

話が前田対馬守家のその後の方に流れてしまいました。とにかく前田利常前田利長夫妻・前田長種夫妻の菩提寺に施した感謝の念には厚いものがありました。
この寺町・野町に近接した玉泉寺・玉龍寺そしてこれから紹介する月照寺(幸姫の菩提寺)は、江戸時代には大きな自領と伽藍をそろえていたと伝わります。
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六斗の広見 奥に観えるのが龍雲寺の山門で右隣りが玉龍寺 右画像は玉泉寺の跡地で右敷地は玉泉天満宮となっています。
観光客に人気のある忍者寺・妙立寺から南に狭い道(旧鶴来街道)を進むと、直角に曲がるといきなり広い広場のような道路になりますが、これが金沢最大の日除け地六斗の広見になります。
広見は延焼を防ぐ日除地の他にも火消の集合地、戦略上の兵の集合地や待ち伏せの伏兵を置く地でもありました。また、民衆に対する高札を立てる地、辻説法の地、更には荷車や大八車の転回場所としても利用されていました。この金沢最大の六斗の広見では、鶴来街道の始点・終点の手前に当たることから幕府の巡検使の送迎場所になっていたとも云われます。

ちなみに幕府の巡検使は、この地で加賀藩の御用番や家老に出迎えを受け、妙立寺前の鶴来街道から北陸道に出て、犀川大橋を渡り、片町、南町を通って城下に入りました。この間は、職人の店や商店は閉店させ看板類も仕舞わせていました。また北陸道に出入りする間道は通行止、女子供は家から出ることを禁止、とにかく巡検使との不要な接触を避けたわけです。

この六斗の広見を含む旧鶴来街道沿いを構成したのが多くの寺院になりますが、その中でも、堀と塀に囲まれた広大な玉泉寺と、玉龍寺月照寺の三か寺は、江戸期にはその核となって崇拝・尊宗を集めた寺院です。今ではその面影は薄いですが、旧鶴来街道はゆっくり歩いて欲しい道になります。

書き遅れてしまいましたが、前田長種・幸姫夫妻の墓所は玉龍寺にありますが、一区画挟んだ南にある月照寺は慶安5年(1652年)に、前述した前田長種の次男・長時(前田織江家、前田一門衆、7千石)によって母親・幸姫の菩提寺として建立されたもので、寺の名も幸姫の法名「春桂院殿月照利犀大姉」から由来しています。幕末まで続く前田織江家の菩提寺ともなっていたようです。この月照寺も前田利常から3000坪の寺領を受けています。

明治4年(1871年)3月、東の隣町にあった沼田町(現・野町3丁目)の安立寺から出火した大火で、寺町・野町の多くの寺院が焼失しています。この大火での記録によれば焼失寺院・住居は271軒にのぼったとされています。この際に玉龍寺は被災を免れますが、玉泉寺は全焼失、月照寺は山門を除いて全焼しています。玉泉寺の再建はなされず寺務所だけになり、菅原神社として一部が残っていました。月照寺は明治11年に前田織江家の屋敷の一部を移築改造して現在に至っています。
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山門は江戸期中期の作と云われ曹洞宗山門としてはオーソドックスですが、細かい彩色の細工が散りばめられています。地盤に傾斜があるために、ちょっと屋根はかたがって見えます。離れてみると貧弱な感じに観えますが、近くで見るとどっしりした造りに見えます。
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門前の狛犬がユニークで左は子を抱く獅子ですが、右は人を抱くになっています。
ちなみに菩薩が象や獅子に跨る姿を観ることがあると思いますが、象に跨るのが普賢菩薩・あまり数は多くないですが獅子に跨るのが文殊菩薩になります。このため、象は仏の慈悲・獅子は仏の知恵を表すと思われます、たぶん、、、。それでもこの二つの獅子と象が並ぶのは珍しいと思います。
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この月照寺の見どころの一番は山門の表裏に並ぶ石仏群になります。総計60体を越すと思われます。この石仏群は三十三観音像ですが、明治の神仏分離により卯辰山の参道と門前の旧鶴来街道に置かれていた観音像を集めたものです。山門の表にあるのが卯辰山にあった三十三観音で、石角材を彫りこんだもので横面に寄進者銘がはっきり読めますから江戸末期のものと思われます。境内の横の小屋掛け内にあるのが鶴来街道に置かれていたものです、思ったよりも大きいものが多く地蔵尊に近い大きさに観えます。全体に旅人を見守る柔和なお顔をしています。卯辰山は金沢を守護する山とされており寄進的な要素が強く、鶴来街道は旅人を見守り続けるもので、全く違った造りになっており見比べると面白いですねえ。。
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寺院は居住用の家屋を移設したために、多少の改造はうかがえますが大きな住居という雰囲気です。ただ、築年数は江戸末期から明治初期のものですが、全くそれを感じさせない新しさを感じさせます。
建物の裏には前田織江家の墓所があり、表に墓標と法名が刻まれ、後方に大きな五輪塔が設置されています。
織江家については明治まで続いたこと藩主一門衆・人持組の家としか知らないので、また知ることがあった時に。。
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山門を入ってすぐ右手にある顕彰碑は明治の先駆け的政治家・遠藤秀景、石川県最初の衆議院議員6名の一人です。
来歴を書くと長くなるので省略しますが、、、士族救済を目標にした急進的な考えの強い政治家でした。

旅行日 2017.08.23

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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
前田利家の懐の深さを感じますね。そしてそれに応えた前田長種。しかし女性癖は悪かったようですね。「利家と松」理想の夫婦のイメージですが…。そして前田利常の存在。こちら苦労したぶん徳川の警戒をかわしながら加賀藩を守ることができたのでしょうか?珍しい狛犬も見ることができました。今回も大作で驚くことばかりでした。
tor
2017/10/26 21:18
利家が他に手を出すようになったのは、金沢に入ってからのようです、
戦場を駆け回っていた頃は、奥さん一筋だったようですが。。落ち着いてからは^^;
利常はいろいろ苦労した分、幕府をかわしたりしていますが、反ばく精神が強かったようで、何度も危機を迎えています。船舶の製造で問責を受けたり、越中返上を云われたり、、分藩で加賀藩を60万まで削るなど、後バカ殿さまの真似したりで、硬軟両面を使い分けています。ただ加賀藩の基盤を作った意味では地元人気の高い藩主です。
今回の文は以前の玉龍寺と六斗の広見を合わせて、少し付け足したので長くなってしまいました。
つとつと
2017/10/27 10:51
本当に珍しい狛犬ですね

裏では女性がかなり活躍していそうですね 内助の功

しかし 初産が12歳・・・かなり危険な出産ですね
がにちゃん
2017/10/27 15:39
がにちゃんさん
なかなか観ない変わった狛犬さんでしょ。寝転んでるんで、背も低くて通り過ぎそうになるんですけどね^^;
戦がなくなった分、女性の発言力は強くなっていますから、特に創業者の妻ですからなかなか発言力は強いですからね。特に子や孫のことになると^^;
たしかに12歳の初産は危ないですが、それにしても32歳までに11人@@;
利長と利正は話題に事欠きませんが、16歳の年の差があるんですよ^^ドラマとかでは似通った歳に描かれますが。。
利政や利常が出来てから、松さんもあきらめたのか、利家には晩年4.5年でこの後4人も側室が出来ています。子どもも6人@@;
つとつと
2017/10/27 19:25
前田家及び前田対馬守家の詳しいお話、
とても興味深く拝読しました。
NHK大河の『利家とまつ』を半年くらい
観てたので、「松の嫉妬心と怖さ」というところ、
松嶋菜々子の顔が浮んで来てしまいました。
利家の気の遣いよう、娘たちの影響力も面白いですね。
人を抱く象の狛犬にはびっくりです。
yasuhiko
2017/10/27 22:09
yasuhikoさん
松と云えば、松嶋菜々子さん。。僕も書いてる時に頭に浮かんじゃいました。。なんか、松嶋さんの悪口言ってるみたいで、怒った顔が浮かびました^^;
結婚したころは傾奇者と云われた利家も晩年はこなれてきて人格者の様に見られますが、けっこう駄目な所は駄目だったみたいです。
他藩に比べても、加賀藩の女性陣、けっこう肝心な所で名前が登場してきますから、やはりいろんな面で強かったようです。
変わった狛犬でしょ。しかも寺院ですから、なおさら眼を惹きますねえ
つとつと
2017/10/28 08:23
金沢には隠れた良い所が沢山あるようです、また、この辺をぶらついて見たいですね、道路が狭いし駐車場もないので足で巡らないといけないようですね。
go
2017/10/29 10:51
本家筋の人を家臣に迎えると、いろいろと気を使いそうですね。
しかし利家はそのへんうまくやっていたのですね。
人格者だったのでしょうか。
兄弟相争うのが普通の戦国時代で、前田家のような例は稀有ですね。
現代でも、兄弟仲が悪い人も多いのに・・・。
家ニスタ
2017/10/29 11:39
goさん
以前、goさんが玉泉天満宮の新築時の画像を残されていて、その後に観に行った画像がこの拝殿画像です。駐車場は狭いですが、玉龍寺・月照寺・玉泉寺に駐車場があるんで、長時間でなければ大丈夫のようです。
僕も車では何度も通ってますが横目になってしまいます。蛤坂から泉野までの旧鶴来街道は歩いてみたいと思っています。結構よさげなものが目に付きますから^^

家ニスタさん
利家は分家の四男坊ですから、身内関係では苦労したようです。立てるところは立ててうまくつきあうことには長けていたようです。そうでなければ、三人もいた兄たちがあれだけ弟のために働くとは思えませんからねえ。目立ちませんが、利久・安勝は統治能力・部下からの信頼度に関しては高いものがありますし、弟の良之・秀継は戦闘力に優れていて利家以上の活躍をしています。利家の性格もあるんでしょうが、これら兄弟の信頼度の高さは驚きで羨ましいくらいです。
僕を含め知人を見ても男兄弟はイマイチなんですけどねえ。。
つとつと
2017/10/29 14:29
大殿の館はTVでも映画でも題材によく取り上げられますね。何かどろどろとした女の戦いがかなりのものですね。
最近は韓国ドラマを奥さんに付き合われますがこちらも同じで女の戦いが見にくいぐらい描かれています。
どの世も男子が生まれてくることを望んでいるようで、現在の皇室でもその名残があり難しい問題ですね。
読み返してみて、ちょんまげ時代の人形にも扱う予定のため参考になりました。

ゆらり人
2017/11/11 10:56
ゆらり人さん
韓国の宮廷ドラマは、日本でいう所の平安時代の宮廷生活に近いと思って頂ければ。。。平安時代の朝廷は都に多少の警察力を持つほかは軍隊を持たず、かぶようきょくが政治になっていました。政治を昔はまつりごとと呼んだのはこの名残りです。韓国ドラマの宮廷は日本と同じ時期に始まって実に長い期間でした。治安より宮廷での催事が政治だったわけです。そうなると、光源氏みたいな世界が現出されるわけです。その期間が日本より長く根付いたせいで、宮廷ドラマが多くなっちゃうんですね。ちょっと大げさなのは王子さまは刀を振るうことはあり得なかったのが朝鮮の宮廷ドラマなんですよ^^ 韓国ドラマが王様や王子様が剣を振るう戦場シーンの多いものは、ほとんどが高句麗・新羅といった8.9世紀までさかのぼらないといけないんですねえ^^;
つとつと
2017/11/11 17:10

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