雨の宮古墳群

すっかりブログが停止して、ご訪問もせず申し訳ありません。
毎年2月から4月にかけては仕事のかき入れ時で絶対にさぼれない時期に突入しています。
ところがご存知の如く2月初旬から中旬が大雪で交通マヒ状態で動けず、豪雪によって多くの家や車に被害が発生。。おかげでトラブル処理に忙殺、雪が消えた3月には家屋の破損が解る状態で、契約や更新、変更で大変な時期にさらなるトラブル処理、ブログを書き始めるとのめり込むので、ログインしないと決めて勝手な休止状態になってしまいました。この2月から引きずり込まれたトラブルはGWまでは引きずりそうです。。まだまだ、温かい眼で観てください。。おかげで、好きなスポットにもなかなか立ち寄れず、咲き始めた桜も満開の桜も横目で見るだけの生活。。(ため息)

とはいえ、ストレスを解消するにはやはり好きな場所に佇むのが一番。山城や古墳など木や草に覆われる場所は冬枯れの3月初旬が地形や形が見えて、最高の時季なのです。合間にはちょこっと立ち寄りたい衝動に駆られてしまいます。たまにはおサボりタイムも欲しいですからねえ。。。

能登半島は日本海に突き出ており、様々な形態の海岸線や年中波静かな七尾湾、深海が陸に迫る好漁場の富山湾と海に恵まれた土地柄です。海に突き出た好位置のために古代から東北・九州の交易の中継港、大陸の朝鮮・渤海などとの交易や親善使節の港があったことが知られています。以前ご紹介した福浦湊(福良津)はその代表のような港です。
しかし、港としての好条件な土地ですが、海岸線を除く大部分が山岳地で海岸線に迫る丘陵によって平野部が少ないために、大規模な政庁の置ける場所は南に下った羽咋(はくい)市街地、東北の七尾・鹿島に限定されてしまいます。
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雨の宮1号墳上から邑知平野
以前に書いていますが、能登と加賀の境界線には河北郡の扱いによっていろいろな見方があるために判然としませんが、一般に言われるのは宝達山を源にした大海川(おおみがわ)が境界線と云われています。
大海川を渡った免田(めんでん)から分かれて西の山塊(眉丈山系)の山裾を走るのがJR七尾線・旧国道、東の石動山系の山裾を七尾街道(国道159号線・四栁町交差点から山側の旧道)が走っています。この二つの路線の間には白鳥の飛来地で知られる邑知潟(おうちがた)や下流の羽咋川・上流の長層川がありますが、能登の中心地・七尾まで細長い平野部が続いています。能登では珍しいこの広大な平野(長さ約40キロ・幅2~4キロ)は現代では貴重な穀倉地帯になっています。本来なら貴重なこの平野部に古代や中世に能登の中心部として貴重な遺跡や政庁施設があるべきなんですが、、、、実は、、
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雨の宮2号墳上からの邑知平野 アップすると解りますが、左の高い山が石動山、右の残雪のある所が荒山砦跡 荒山峠下に雨の宮と同時期の大規模古墳(小田中古墳群)があります。
この平野部は邑知潟断層帯と呼ばれる陥没した断層帯で出来た平地で、その両側の石動・眉丈山系は隆起する逆断層だと云われています。その活動期は3200年前~9世紀と推定されています。つまり、奈良・平安初期時代まではこの平野部は広大な運河のような内海だったと推測されています。
この平野の最北に能登国府・国分寺・能登国総社が置かれ、両山系の山裾に重要な遺跡や古墳、有力神社・仏閣が置かれて、平野部にあまり遺跡や寺社が観られない理由になるように思われます。また中世でも土壌が安定しておらず、水の便も悪く前田利家の能登平定では飲料水が確保できずに陣を張れず、羽咋に一旦引き返しています。集落にしても平野部にではなく山裾になるのはこの地層が大きな事由と考えられます。

越中富山と国境を共有する東の石動山山系は、加賀の白山比咩神(菊理媛)と対を成すとされる伊須流岐比古神(石動彦)碁石が峰が示す神の山としての性格と、七尾城を北端に石動山城・荒山砦、最南端の末森城が示すように越中に対する監視・防衛地となっています。
これに対して西の眉丈山山系は尾根部に峠道があったようですが、山裾に主要集落が配され、後述しますが山頂部に天日陰神社や相撲土俵が置かれ神聖視されていたようです。ちなみに天日陰(あめひかげ)神社は能登國の二宮に比定される古い神社で能登二宮に大規模な神社があります。当社が奥宮か本社がどちらになるかは不明です。また昭和初期には眉丈山は冬場のトキの営巣地ともなっていて、別名が朱鷺の台として県内では知られています。
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この眉丈山(標高188メートル)の最高所の尾根筋から大規模な古墳群が発見されています。現在の数は36基。未確認・不明を入れると39基の大規模古墳群になります。「雨の宮古墳群(昭和57年国史跡指定)」
古墳群の推定年代は4世紀中から5世紀初期と推定されています。種別としては64mに及ぶ大型の前方後方墳・前方後円墳を中心に円墳が多数になります。古墳の形態、銅鏡などの出土品から大和王朝の影響を受けた能登國の首長墓と思われます。



国指定史跡は全国に2000近くあり、その内に特別史跡は61件になります。特別史跡が国宝で指定史跡が重文に当たると思えば理解が早いかも。。ちなみに、特別史跡は石川にはありませんが国史跡は26件、国史跡になると整備が進み遺跡の保存・復元はもちろんですが、付近に資料館や公園化が進んで一般にも歴史に触れる機会が増えます。ここ雨の宮古墳群も以前までは険しい山岳でしたが、林道が整備されて能登の大規模古墳群として訪れやすくなっています。
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雨の宮古墳群の入り口にも園地や、出土品・1号墳の埋葬施設の再現が観られる「雨の宮能登王墓の館」という資料館が置かれています。山間地の高所のため冬期間は休館していますが、3/25から火曜休館で開館しています。訪れた日は休館中で画像がなくて申し訳ありません。
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雨の宮古墳群の特徴は、各古墳が尾根の平面や小山の地形を利用して削平と盛り土で作製されたようです。
特筆されるのは二基の大型墳墓で前方後方墳と前方後円墳の違いはありますが、長さ64メートルと同じくらいの大きさ、崩落防止の2段造り・表面の葺石など、対称的な位置関係と類似性というか相関関係を感じさせます。

登山口を登り切って最初に眼に入るのが前方後方墳1号墳。前方後方墳としては北陸最大級の規模を誇り、特に後方部の高さは圧巻です。後方部の頂上は眉丈山系の最高点になります。発見前から頂上部には国土地理院の三角点(雨宮山)が設置されていました。頂上部からは邑知潟地構帯と呼ばれる平野部が見渡せます。築造時はこの平野が海の運河だったはずで、内海の沿岸からは葺石が施された墳丘は輝いて見えたのではないでしょうか。全長69m(葺石部64m)・最高点8.5m(後方部)・後方幅43.6m・前方幅31.0m。


雨の宮1号墳 説明板
雨の宮1号墳は、前方部を東に向け、墳丘の主軸をほぼ東西に置く前方後方墳です。墳丘の長さ64m、広報部の幅43.6m、前方部の幅31メートル、後方部の鷹さ8.5mを測り、前方部が短く、後方部が長いプロポーションをしています。墳丘は元々の地形を利用して作られていますが、崩れにくくするために、途中に段を作ったり(段築)、斜面に石を葺いたり(葺石)しています。その上、前方後方形に成形する際の盛り土には、2種類の土を交互につき固める方法(版築)が採用されています。この雨の宮1号墳は、こうした当時の先端技術を結集して築かれているのです。


元々は三角点が示すように丘や小山という認識でした。古くから雷が峰と呼ばれて前方部に天日陰神社の洞が置かれ、後方部には相撲場や鐘撞き場が置かれていたそうで、古墳の認識はなかったようです。三角点表示の山の名前はこの神社からの「雨宮(天宮)山」。古墳群の名称もこの名からつけられたようです。
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雨の宮17号墳墓
この古墳群には古くから幾つかの円墳が確認されていましたが、1号墳の後方部の下に17号墳が発見されたとき、安山岩の板蓋と共に石室が確認されて学術調査と復元保存が入り、周辺調査で1号墳が発見された経緯があります。頭頂部から17号墳が見えますが、大きさが全く違います。17号墳の方が古く築造され尊重された位置になりますが、17号の後ろの小山全体が墳丘とは誰も気づかなかったんでしょうね。。

雨の宮17号墳 案内板
雨の宮17号墳は、直径約16m、高さ約1.5mの円墳です。墳丘は狭い尾根を幅1.5~2mの溝で断ち切って作り出しています。この溝の埋まり方などから、1号墳よりも先に作られていたようです。
墳頂平坦面の東寄りには、安山岩の板石で積み上げられた小規模な竪穴式石室が作られていました。石室は北側を頭に、長さ3.7m、幅1.5mの規模で、大きめの板石8枚程度で蓋をしたものでした。内部については、調査を実施していないので分かりませんが、埋葬された当時の姿がそのまま残っているものとみられます。

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天日陰神社・祠堂
ちなみに、天日陰神社は前方部上から降ろされ、前方部登り口の脇に置かれています。元は能登部一帯の総雨乞神社として雨の宮と呼ばれていたそうで、雨乞には黒馬、雨鎮には白馬を献上して七日間に渡って太鼓をを打ち鳴らす神事が行われていました。この神事に関しては大正時代まで行われていたそうです。その神事に合わせて相撲神事も開催されていたそうです。




後で後述するつもりでしたが、後方部から埋葬施設が発掘されていますが、発掘されたのは一人分でもう一人その横に葬られているのが確認されています。1号墳は二人の人物の合葬墓になります。

天日陰神社は北東対岸の二宮にもう一社あるのですが、気多大社に次ぐ能登二宮とされています。しかし、本来は天日陰姫神伊須流岐比古神の二神、つまり二人の姉弟神、二人の宮を祭っていたという伝承があります。二宮は二人の神を指すというものです。伝承では石動山に登った泰澄が荒れる石動山を鎮めるために伊須流岐比古神を遷座したと伝承されています。
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雨の宮1号墳・後方部墳頂
左手前にあるのが国土地理院の三角点・・復元のために盛り土をしたために埋もれてしまうので、丸い蓋の下に納められています。
石で四角く表示されている部分が墓室部分になり、内側の四角は発掘調査が行われた部分、手前に同じ向きでもう一人分の人物が葬られていますが未発掘・未調査になっています。


雨の宮1号墳の埋葬施設 案内板
雨の宮1号墳には、後方部に2基の埋葬施設が確認されています。発掘が行われた1基は、粘土で棺を密封した「粘土槨」と呼ばれるもので、中には長さ約6mもある「割竹型木簡」という種類の棺が納められていました。
被葬者のまわりには銅製の鏡や車輪石・石釧などの腕輪形石製品、鉄製の刀・剣・甲冑などのたくさんの副葬品が納められ、この古墳の主が大きな権力を持っていたことが推測できます。

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上:雨の宮1号墳 北側から側面部
中:雨の宮1号墳 前方部から後方部
下:雨の宮1号墳 後方部

割竹型木簡というのは、大木を二つに割って中身を刳り抜いて、改めて被葬者や副葬品を納めて二つを合わせたカプセルのような棺です。初期のものに多く、後に続く石棺や漆棺の前段階のものです。
車輪石・石釧(いしくしろ)は、弥生期の貝を刳り抜いた腕輪や首輪と同種ですが、古墳期には石を加工した物が現れます。車輪石は表面に放射状の紋を刻んだもの、石釧は石の腕輪の総称で古墳期のものを挿します。棺内から19個出土していて、北陸では突出した数になります。銅鏡は頭部左に置かれていて直径17㎝、色々な種類の要素が混じった独自の紋様で類似品のないもの。甲冑は方形板革綴短甲と呼ばれるもので鉄板を皮布で綴ったもの、これまた古墳出土品では類例が少ないそうです。能登王墓の館に埋葬施設の復元模型と出土品が観られます。

つまり、この1号墳に葬られている二人はその天日陰姫神伊須流岐比古神に比定されるのではないかというのは、無理があるでしょうか。。ちなみに能登に点在する伝承には気多神(大国主)が侵攻した際に、当地で協力した首長に当たる姫神と婚姻したとされています。この姫神は機織り姫に比定され、能登金剛の機具岩(はたごいわ、男岩女岩、夫婦岩)の源となる能登比咩神社の渟名木入比咩命(ぬなきいりひめのみこと)とも同一視されています。この神社は同日に立ち寄っているので、後日ご紹介しますね。気多神が去った後、この女神の統治に協力した弟神・能登神が存在したと伝承されています。この能登神は能登比咩神社の社伝では能登部神社が相当し、雨の宮古墳群の山下にあります。

発掘された墓室は男性的なものですが、前述のもう一人の墓室は未発掘で、ぜひ学術調査が待たれます。
もし巫女的な人物や出土品なら、この伝承が確認されるんですが、、、ただ1号墳に匹敵する2号墳の存在も気になる存在ですが。。。
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雨の宮1号墳 後方部葺石
雨の宮古墳群の各古墳は尾根の地形の窪地や小山を利用して削平を施して造られていますが、1号墳も同じく小山の地形を利用して造っています。崩落防止のために2段造りの段築が施され、斜面には葺石が全体的に施されています。葺石は近在からの岩石が多いのですが一部には奥能登産の石も使用されているそうです。更に成形のための盛り土には二種類の土を交互に重ねて突き固めてあったそうです。
葺石と云えば、1号墳のサイズ表示は葺石が施された部分が古墳として認定されています。葺石下の土面はもとの地層として古墳に含まれないそうです。。どうしてそうなるのか納得できないんですが、底部を含めれば実質の高さは1~2m、長さ・幅共に5mほど大きくなります。

発掘当初は現状保存のために葺石は発見当時の形で残されていたのですが、平成19年(2007年)の能登半島地震で一部が崩落、現在は葺石の間に補修剤を使って接着で固めてあるそうです。
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1号墳後方部山頂から2号墳
1号墳の前方部手前から2号墳を見ると、真っ直ぐに墳丘が観られ相対関係にあることが解ります。
形は全く違う前方後円墳ですが、製造時期は近接しており、製造方法も同じ工法が窺われます。1号墳と同じように地形をそのまま利用しており、二段墳丘で葺石が施されているのも同じです。

石川県内には方墳と前方後円墳の秋常山古墳群、雨の宮古墳群の対岸に当たる小田中古墳群は巨大円墳と前方後方墳。形態は違いますが、いずれも巨大古墳二基がセットになって周りに古墳が点在しているという傾向が観られます。雨の宮古墳群でも前方後方墳と対を生すように前方後円墳2号墳があります。未発掘のため、被葬者は確認されていませんが、能美の秋常山古墳のように巫女と武人の組み合わせではないかと推定されます。ただし、秋常山は対称の古墳が年代的に100年以上の隔たりがありますが、小田中や雨の宮に関しては二基の年代は近接しているようです。雨の宮では1号墳の跡に2号墳が築かれたようです。
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上:雨の宮2号墳 前方部から後方部
中:雨の宮2号墳 後方部登り口
下:雨の宮2号墳 南斜め側面部

雨の宮2号墳 案内板
雨の宮2号墳は、前方部を南西に向ける前方後円墳です。墳丘の規模は、長さ65.5m、後円部の直径42m、前方部の幅28m、後円部の高さ7mを測り、墳頂部の高さで1号墳より約7m低い位置にあります。
1号墳と同様元々の地形を利用して作られていますが、崩れにくくするために、途中に段を作ったり(段築)、斜面に石を葺いたり(葺石)しています。前方部の前面では3段になっていますが、葺石は上2段だけに施されており、上2段が墳丘本体として意識されていたことが推定されます。


2号墳は規模では1号墳に匹敵する大きさですが、1号墳より低い尾根上を利用して築かれています。このため、2号墳から1号墳を見ると見上げるように感じられます。しかし独立した尾根上ということもあり、眺望に関しては見劣りする物ではありません。やはり、同格以上の存在感を感じさせます。
2号墳に関しては、葺石部のトレンチ調査以外は内部調査の発掘は実施されていません。このため、石室や被葬者遺物は不明のままですが、未盗掘の可能性が高いようです。
全長65.5m・後円部径42m・後円部高さ7.5m・前方部縦経23.5m・前方部前幅28m・くびれ幅25.5m。全体的には後円部が大きい形の前方後円墳です。1号墳と同じくこのサイズ表示は葺石部で、下層の地形を利用した段丘は含まれていません。どうもこの辺の研究者の判断は疑問を感じますねえ。。下層を含めるのが本筋だと思いますねえ。。
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雨の宮古墳5・6・7号墳
上:5・6・7号連結円墳 2号墳後円部山頂から
下:5・6号墳連結部

2号墳の後円部の下、南東部に三つの円墳があります(左から7.・5・6号墳)。通常円墳と云えば独立した墳丘が多いのですがこの三基は墳丘を共有した三基連結の形になった珍しいお団子形態。2号墳の後に築造されたようですが、墳丘を共有しているので築造順が解ったそうです。築造順は7・5・6の順になるそうです。本来は面積などから7号墳が一番大きかったのですが倒木により墳丘が破壊されたようです。
しかしこういう三連結の古墳は初めて見ました。これも地形を利用したおかげと墳丘が残っていたおかげですね。
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上:雨の宮3号墳
下:雨の宮4号墳

1・2号墳以外は円墳ですが、尾根筋を利用しているので、一つ一つの形態は興味深いものがあります。
その中には古くから塚として認識されていたものもあったようです。雨の宮古墳群の中では最大の円墳・3号墳(直径30m)もその一つで、古くから愛宕塚として信仰を受けていたと思われます。伝承では墳丘上に愛宕神の祠堂が置かれていたとも云われています。愛宕信仰は京都の愛宕山発祥ですが、全国に大きく広まったのは江戸時代になります。この3号墳は江戸時代から認識されていたようです。
画像雨の宮林道
眉丈山の天日陰神社を信奉した能登部(旧鹿西町)ですが、海側から向かうと、現在は眉丈山を貫く眉丈山トンネルで上棚矢田ICや志賀町からのアクセスも楽になりましたが、以前は眉丈山を縫うような林道の峠道で、非常に悪路でした。
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上:地蔵堂とめおと岩
右:峠地蔵(子宝地蔵)

雨の宮古墳群からも林道がありまして、帰り道はそちらを通ってきました。当然この林道も元々は歩くだけの峠道を広げたもので、尾根上を抜ける道で車一台がやっとの道です。この林道は古くから存在したようで旅路の歩を見つめる地蔵堂なども見られます。

雨の宮古墳群テンジクダイラ支群 案内板
テンジクダイラ支群は、雷が峰(らいがみね)から南西約1kmの眉丈山稜線上の地点にあり、四号墳墳頂で標高177.6m、雷が峰に次ぐ高さである。この尾根の高まりに並ぶ円墳三基、方墳二基をテンジクダイラ支群と称している。
昭和47年の雨の宮林道工事で、1号墳の一部が削り取られていたことから本支群が発見され、鹿西(ろくせい)町は昭和52年に1号墳の発掘調査を行い、1号墳が尾根の高まりを円く削り整えた円墳であり、■■■■■■■■■5mから9mの長方形である。ここに二基の■形■棺と割竹型木棺が地山を掘り込んだ土壌に納められていた。副葬品■■■刀子、鉄鏃などの武具と鉄斧、手鎌ノミヤリカンナなどの農機具であった。築造年代は4世紀後半から5世紀初頭とみられる。
1号墳から4号墳は墳丘を接してつくられており、何れも自然地形を削って整形されている。三基の円墳は4号墳の■径35mを最大とし、2・3号墳は方墳で一辺20m前後の規模を持つ。本支群は位置や規模、1号墳の副葬品などから雨の宮古墳群と密接なつながりを持つ支群と考えられる。テンジクダイラ1号墳に葬られた人物は初期能登国王に仕えた武将であったかもしれない。

鹿西町時代の案内板で文字が薄く、一部剥げていて判別できない文字があります。鹿西町は平成17年に市町村合併で中能登町になっています。
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テンジクダイラ1号墳
林道の拡幅工事で発見されたのが雨の宮古墳群から南西約1キロの「テンジクダイラ古墳支群」。この古墳群のある場所は雨の宮古墳に次ぐ高さの尾根部に当たります。
昭和47年(1972年)林道の拡幅工事で1号墳を削ったことで発見され、5年後に発掘調査が行われています。
調査当時、円墳3基・方墳2基で構成されていました。1~4号墳が尾根の高まりを利用して円墳・方墳・方墳・円墳の順に連結して作製・成型されています。最大規模の4号墳が最高点になります。5号墳のみ独立形態。雨の宮に比べ、出土品には農機具が多いのが特徴のようです。その後、同じ尾根の南に6.7号墳が発見(墳墓の形態は不明)。製作年代・発掘品も雨の宮古墳と類似しており、氏族又は家臣墓ではないかと推測されています。テンジクダイラ支墳として雨の宮古墳群と共に国史跡指定を受けています。

眉丈山の尾根筋はこの他にも古墳や遺跡の宝庫ともいえます。雨の宮古墳群を中心に東西の県道2号線沿いの斜面に遺跡や古い神社が点在しています。日本最古の炭化したおにぎりが発見された杉谷チャバタケ遺跡も西の尾根筋になります。まだまだ未発見の興味深い遺跡や古墳が予想されます。

書き始めは桜の季節でしたが、今はすっかり若葉の季節になりました。
日曜日に倶利伽羅峠に行きましたが、開山1300年八重桜まつりのイベントで凄い人出で、車で抜けただけでしたが、肝心な八重桜は盛りを過ぎていました。例年より2週間以上早い春の終わりになっていますねえ。。これから暑い季節がやってくると思うとちょっと憂鬱^^;

旅行日 2018.03.18


この記事へのコメント

  • tor

    お仕事大変のご様子ですね。好きな事ができないとさらにストレスたまりますから…。その分力が入っているような。心配していましたが安心しました。雨の宮古墳群すごいですね。興味津々です。こちらにも古墳群が多くあり行ってみたい所が多いです。そのうちご紹介したいと思います。早く落ち着くと良いですね。お体ご自愛下さい。
    2018年04月24日 21:09
  • がにちゃん

    お忙しかったのですね  雨ノ宮古墳群 きれいに整備されて  古墳の中を時代を戻って歩けそうですね  
    2018年04月25日 14:42
  • 家ニスタ

    かなり見ごたえのある古墳群のようですね。
    わが地元の埋蔵文化財センターで先日展覧会をやっていて、わが地元にも古墳群があったということを、つい最近知りました。
    歴史ファンとして恥ずかしい限りですが・・・。
    平地にあった古墳群で、残念ながら道路や住宅の建設でほとんどが湮滅してしまったようです。
    さきたま古墳群や西都原古墳群は行ったことがあるのですが、雨ノ宮古墳群は行ったことがありません。
    きれいに復元されている古墳もあるようですので、一度行ってこないといけませんね。

    ブログ復活されてうれしいです。
    拙ブログへのご訪問は急がなくて結構ですので、ゆっくりとまずは疲れをお取りになってください。
    2018年04月25日 22:59
  • yasuhiko

    今年の豪雪は、様々な方面で
    大きな被害をもたらしたんですね。
    それはお忙しくて大変でしたでしょう。
    とにかく、再開されてたのでホッとしました。
    雨の宮古墳群、立地条件がよく分かって、
    興味深く拝見しました。考古学者の故森浩一氏は、
    日本海側の古墳文化の特徴として、「潟」の
    近くに古墳が多い事を指摘し、海上交易の
    重要性を強調されていたように記憶しています。
    1号墳、2号墳から見下ろした写真を見て、
    それを思い出すとともに、成る程という気がしました。
    2018年04月28日 00:16
  • つとつと

    torさん
    雨の宮古墳は以前に訪れていて、久しぶりでしたが、綺麗に整備されていて、、、
    しかも尾根の頂上部ですから邑知平野の全景が見渡せて気持ちの良い場所でした。
    古代からの遺跡地の位置が見渡せるんですから、本当に素晴らしい場所です。
    全景を見て、平野が海で山上を朱鷺が飛ぶ風景が瞼に浮かびました。数年前に佐渡から飛来した時を見ましたが、昔はこの古墳上が冬の営巣地で昭和初期には数十羽いたそうですから、古代にも上空を飛んでいたんでしょうね。
    2018年05月01日 22:32
  • つとつと

    がにちゃんさん
    雨の宮古墳は入り口からはきつい登りですが、尾根の上に出てしまえば古墳の数々がそれほど苦労せずに見られます。苦労せずに意外に多くの古墳が観られるばしょです。眺望も美しいお薦めスポットです。
    2018年05月01日 22:37
  • つとつと

    家ニスタさん
    尾根の山上を利用した手つかずの古墳群なので、形態も保存も良く残った貴重な存在です。平野部の古墳はその多くが宅地や開発で消滅していることを考えると貴重な存在ですねえ^^山城の方はその多くが対岸になるのですが、眉丈山の尾根筋は弥生・古墳期の遺跡が点在していて興味の尽きない場所ですし、七尾線の駅もレトロ感満点です。
    2018年05月01日 22:52
  • つとつと

    yasuhikoさん
    今年の豪雪では自動車・家屋被害の数は相当なもので、まだまだ車の板金や屋根・雨樋工事はしばらく引きずりそうです。代車やレンタカーにも困ってるようです。
    そうですねえ^^石川の遺跡群は確かに川や海、湖の海上・河川交易の利用が顕著なようです。
    森浩一氏は資料重視の面はありますが、三角縁神獣鏡の国産説を提唱したり、仁徳陵の大仙陵への変更など大きな影響を及ぼしていますが、鋭い見方ですねえ
    この細長い平地が海だと思うと驚きですねえ^^でも当時の姿は是非見たい景色でもありますねえ^^
    2018年05月01日 23:09

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  • 能登比咩神社
  • Excerpt: 能登比咩神社  表参道入口 一の鳥居
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2018-05-11 05:03
  • 秋常山古墳
  • Excerpt: 今年は豪雪があって、花の開花や満開は遅れるだろうと、内心期待していましたが、、案に反してあっという間に咲いてあっという間に桜が散り、バタバタしているうちにアヤメは見逃すし、家庭内事情で紫陽花も観に行け..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2018-07-26 11:08

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