能登比咩神社

能登比咩神社  表参道入口 一の鳥居
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雨の宮古墳群を見て狭い林道を抜け、眉丈山トンネルを抜けて能登部の旧町道を右折して1キロほど進むと能登比咩神社の鳥居があり、長い参道がみられます。鳥居側には駐車スペースがないので手前のスーパー横の路地を登ると神社の駐車場があります。

神社のある場所は能登部・下という古代から続く街道沿いの集落に当たり、伝統的な能登の住宅が観られる地域です。ちなみに能登比咩神社には兄宮とも弟宮とも云われる能登部神社の辺りをいいます。能登部神社は後でも書きますが能登国造(くにのみやつこ)の祖神を祭った神社で能登でも重要神社の一つになり、後年には同地で前田家から隠れた寿福院(千代保)が加賀藩3代藩主・前田利常を生んだ地とも云われています。江戸期には前田利常の産神として崇敬されています。利常自身も「兄宮(大入杵命、おおいりきのみこと)の神域を侵すべからず」という掟書を残しています。
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上:能登部下 旧家住宅 中:能登部下 旧街道 下:能登部下 能登比咩神社 東部

旧鹿西(ろくせい)町の能登部上・下、徳丸地区は前述の様に古くからの集落であり、黒瓦の大屋根と切り妻の大きな三角壁のアズマダチ、土壁などの古民家の大型住宅が約50軒が軒を並べる地区になります。
石川県の方針もあって、能登の各地には景観保全のために、新築・改築物件に屋根や壁の色調制限がある地区があるのですが、ここもその一つになります。しかし、古くからの伝統的な家屋が多く残る地区としては突出した存在です。その多くが明治から昭和初期にかけてのものになります。

明治から昭和初期年代にかけて、羽咋・能登部では能登縮(のとちぢみ)と呼ばれる本麻手織り上布の一大産地でした。昭和初期には質量ともに全国一を誇ってもいました。これらの能登部の大きな家屋建物は昭和30年代まで日本一の質と生産量を誇った能登縮の発祥・中心地としての織り主の勢いを偲ばせます。
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上:能登比咩神社表参道 二の鳥居&手水舎 下:能登比咩神社表参道 拝殿前から

元々、古代から麻の栽培と麻糸の製造、小規模の機織りは地元では知られていたようです。しかし江戸初期までは麻織物の原材料となる麻糸の供給源であり、一部で地元産の織物はありましたが、麻糸や商品も、その多くは近江(湖東)に送られ近江縮の原糸となっていました。

江戸時代になると原糸の供給源に甘んじるだけでなく、良質で独自の麻織物を作ろうという機運が出てきます。地元の織物技術に磨きをかけるために近江から職工を招き、更に染色技術を学ぶことによって飛躍的に産業としての体裁を整えていきます。文政元年(1818年)、能登の名を冠した「能登縮」が誕生しています。その後は海晒しといった独自の製法も導入、徐々に名を知られるようになり、明治40年(1907年)、皇太子(後の大正天皇)への献上品となってその名を高め、能登上布として全国に一気に広まっていきます。ついには昭和初期には麻織物の生産量日本一になっていました。
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能登比咩神社 拝殿

ちなみに上布は麻平織りの最高級品を指す言葉で、朝廷や幕府に献上されるほどの上質麻織物になります。
麻衣という衣料素材は古代から日本人には一番馴染みがあり、連綿と続く切っても切れない存在でした。そもそも平安期から鎌倉期にかけては三大麻布と呼ばれたのが越後縮(小千谷縮)・奈良晒・高宮布(近江縮)とされていましたが、江戸時代には各地で導入・改良が図られて能登縮や宮古縮(宮古島縮・薩摩縮)・八重山縮(石垣島・薩摩縮)といった大規模なものを代表として、その他にも高島縮(近江湖西)・明石縮など昭和初期までに全国的に広がったと云われています。前述の上布の名を冠する主要産地は越後・宮古・近江・奈良・能登が5大産地とされますが、越後上布(小千谷縮)・宮古上布(薩摩上布)が東西の筆頭として重要無形文化財の指定を受けています。
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上:能登比咩神社 拝殿 左後方上部に見えるのは沼名木入比売命の神廟・本殿
中:能登比咩神社 拝殿 軒 
下:能登比咩神社 拝殿玄関門 透かし彫り 神社としては珍しい玄武2匹が描かれています。玄武は四獣神(玄武・朱雀・白虎・青龍)の内の北方を守護する海神 海に囲まれた能登を表しているんでしょうか


能登の麻織物も戦中には国から製造停止を命じられ、戦後に再開を行いますが。。戦後の復興期には生活スタイルが大きく崩れ、一般生活から着物離れが進み洋服に替わって、衣料生活の大転回点になっていました。素材も綿・毛・化繊に移り、戦前の平服の8割が麻衣だった着用率が激減したわけです。大きな販路を失った能登の麻織物産業も大きな打撃を受け衰退の一途をたどります。最盛期には織元は120~140軒以上あったと云われますが、元々が織元を中心にした各家庭で行う家内製手工業の能登上布もその波を乗り越えることはできず、衰退の一途を辿ったのです。
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上:能登比咩神社 拝殿内 中:能登比咩神社 拝殿内扁額 扁額の記銘は加賀藩13代藩主・前田斉泰 下:能登比咩神社 奉幣殿

国や県も伝統産業として残したく、昭和35年(1960年)には石川県指定無形文化財にしていますが、歯止めに至らず昭和57年には能登部の織元も組合として名は残ったものの壊滅状態となり、羽咋市に一軒だけとなってしまいました。昨年その織元が法人化、製造・販路拡大をメインとしているのはこの一軒だけになっています ⇒ 山崎麻織物工房HP

能登上布の本地元と云える能登部では最後の織元が無くなった際に、昭和56年、鹿西高校の敷地内に「能登上布の里」という研究施設を敷設、更に部活動として染織部をおいて伝統の保全と後身の継続を図っています。
また組合では「能登上布会館」を昭和57年に設立、平成8年(1996年)にカルチャーセンター側にリニューアル、織物技術の伝承保存と認知、販売も行っています。 ⇒ 能登上布会館
現在、能登上布の製品が作られているのはこの二軒だけになります。
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能登上布の中心地だった能登部には前述の様に古くから麻織物が行われていましたが、能登部に麻織物の技術を最初に伝えた女神が祀られているのが、今回の能登比咩神社になります。

能登縮・能登上布を輩出した能登部・羽咋の最盛期に奉納されたものが多く、現在は静かな神社になりますが眼を惹くものが多く観られます。

拝殿周りや拝殿内の奉納品は境内の広さや奉納物を見れば、能登上布最盛期の江戸末期から昭和初期のものが多くなります。特に拝殿内奉納の天明7年(1787年)の七福神招来絵馬の大きさは圧巻です。その他の絵馬の大きさや緻密さも眼を惹きます。拝殿前の昭和2年(1927年)奉納の狛犬も摩耗していますが、最盛期の能登部を示すもので、なかなかの姿態と顔をしています。
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主祭神は能登比咩神・沼名木入比売命(ヌナキノイリヒメノミコト)の二女神になりますが、同神社ではこの二女神が麻織物の技術を伝えたとしてそれぞれの由来略歴を伝承しています。

能登比咩神社御由緒書

御祭神 能登比咩神 沼名木入比売命 二神を祀る

(能登比咩神) 
太古、大己貴命、少彦名命と倶に天下を経営し、越の八国を平げ玉う時、此地に到り、国津神を求め玉ふに、爰に手玉母由良に機織る乙女あり、命機殿に来たり、御飯を語り玉ひければ、乙女は稗粥を進む。命甚く愛で座して、永く吾苗裔と爲さむと宜り玉ふ。此の乙女名を能登比咩神と稱へ奉る。比咩神、常に女巧を重し、自ら機杼を作り、妙衣を製して天尊に供へ玉ふ後、機杼を海中に投し玉ひしに、一島忽然として生る。名を能登比咩島、又名機具島と言ふ。羽咋郡富来沖に在り。




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(沼名木入比賣命)
人皇十代崇神天皇の皇女沼名木入比賣命は、皇兄大入杵令に隨ひて、当國に下向し、此郷に駐り玉ひ、産土神能登比咩神の遺業を興し、郷里の婦女に機織る業を教へ玉ふ。命此地に薨去し玉ひければ、里人御尊骸を後丘に葬り、神霊を祭祀し奉る。能登麻織物の御祖神と稱え奉り、御神徳を仰敬奉る。


神社の由来書からの能登比咩神(のとひめかみ)について
大己貴(おおなむち)命大国主の別名でもあります。日本神話・古事記・日本書紀ではスサノオの息子もしくは6代目の子孫とも云われ出雲を根拠地に天下を平定したと云われています。その後、天孫族(天照の後孫)に国を譲って冥界の王になったとも伝承されています。気多神・大黒神・八千矛神・他,
様々な呼び名がありますが、大己貴命の名の伝承は主には山陰・中国・北陸・甲信越に多く見受けられますし、この名で祀る神社も多く見受けられます。大己貴の天下平定の過程で参謀格・軍師的存在でコンビ的存在が少彦名(すくなひこな)命になり、国家経営にも多く寄与したと云われています。
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明治10年(1877年)能登比咩神社由来碑 揮毫は加賀藩13代藩主・前田斉泰 隠居後・政治から離れた晩年のもの

この二人が越の国(現在の北陸四県)を平定した際には、越の国と云われた北陸の各地に共通した伝承が残っています。奴奈川姫・黒姫などもそうですが、国の平定と共に首長あるいはその娘と婚姻を交わして人心統治、農業と医術を伝え広めて国を安定統治させると、間に出来た子または妻に任せて出雲に戻るというパターンです。余談ですが古事記・日本書紀では大国主には名が解る奥さんが6人または7人、出雲風土記を合わせると数十人の奥さんと180人の子供がいたと云われます。やはり、再生を遂げた話を考慮すれば幾代かの大国主が存在したのだと思われます。


能登の地でもこの伝承は生きていて、能登の中心地である能登部に進出して迎え入れたのが能登姫(能登比咩神)になります。伝承では婚姻関係はないようですが、首長(国津神)として召されて饗応と恭順を要求して、改めて大己貴から国家経営を託されています。その能登姫を補佐したのが弟である能登部神(彦・比古)と云われています。
この二神に関しては前回の雨の宮古墳で書いた天日陰(あめのひぼこ)神伊須流岐(いするぎ)比古という能登二宮に当てられるとも思われます。この時点では能登部上下は弟と姉(従と主)の関係でした。また雨の宮古墳群の被葬者がこの二神に比定と考える僕の由縁です。
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姫塚(神廟または本神殿)から観た能登比咩神社・奉幣拝殿

巌門(がんもん)・関野鼻といった風光明媚な海岸の景勝地・能登金剛に機具岩(はたごいわ)があります。
機織り機のような女岩と男岩が注連縄で繋がれた夫婦岩ですが、西向きにあるために夕陽に浮かぶ姿は美しいものがあります。伊勢の二見岩に似ていることから「能登二見」とも呼ばれていますが、伊勢の二見岩の倍の大きさがあり、地元の僕としては夫婦岩と云えば、この機具岩の方に愛着を感じます。実際、二見岩も観ていますが海上の目線で見られる二見岩も良いですが、大きさも倍の大きさで荘厳感では、こちらの方が好きですねえ。ちなみに二見岩は大きい方が男岩(9m)で小さい方が女岩(4m)ですが、機具岩は大きい方が女岩(16m)で小さい方が男岩(9m)になります。
何度も見ている夫婦岩で、写真も何度か撮っているのですが見当たらずで申し訳ありません。。興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 機具岩(ほっと石川旅ネットHP)
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上:拝殿奥横の梅の木 中:拝殿奥横の残雪 下:摂社・子安神社 手前にも残雪が。。春と冬の狭間がこんなところに。。

由来書には能登比咩が投じたとしていますが、機具岩の地元の志賀(しか)町や富来(とぎ)町では、後述する沼名木入比賣命が織機を担いで山越えをしていた際に山賊に襲われ、思わず担いでいた織機を投げ落としてしまったと伝えています。その途端に忽然と島が現れて、慌て慄いた山賊が逃げ出し、難を逃れたと云います。沼名木入比賣命が能登比咩神社に祀られていたことから、機具岩の別名が能登比咩岩と呼ばれる由縁です。

神社の由来書からの沼名木入比賣命(ぬなきいりひめのみこと)について
10代天皇・崇神天皇は初代・神武天皇と同じ名(はつくにしらすすめらのみこと)を持つこと、事蹟(旧辞)などから大和王朝最初の実在性のある初代天皇と云われている天皇です。年代的には3世紀中もしくは4世紀初頭と推測されています。大きな旧辞としては北陸道・西道(山陽道)・山陰道・東海道に四道将軍を派遣して鎮撫・征討の天下平定を行っています。このことが大和王朝が大和の地盤を固めて対外侵攻を開始したとも云われています。その後、行政面では史上初の課税政策などで国の安定を図ったとも云われています。ちなみに北陸道将軍・大彦命(8代孝元天皇長子・崇神の伯父)の娘・御間城(みまき)姫は崇神の正室として次代・垂仁天皇の生母とされています。
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姫塚(御陵山) 神廟・本神殿 鞘堂
大彦命に制圧され恭順した越の国の能登に派遣されたのが、崇神天皇と后(尾張大海媛・後妻?)の長子・大入杵(おおいりき)命。大入杵は能登に入植して治めたとも、能登の首長を監督・監視したとも云われ、能登国の基礎を造ったと伝えられています。その後、子孫は能登首長を継ぐことになり能登国造(のとのくにのみやつこ)の祖になったと云われています。

古くから伝わる大入杵の墓所は能登比咩神社とは対岸に当たる小田中にある小田中親王塚古墳とされています。文献としては平家物語にも出ており古くから親王塚と認識されていたようです。前回にも書きましたが、この古墳は北陸最大級の円墳(直径65m)になります。又近接した場所に同時期の前方後方墳(亀塚古墳)があり宮内庁では円墳の陪墳としています。陪墳と云われますが、大入杵が同行させた同母妹ではないかとも云われています。

ちなみに親王塚から200m程先に御祖(みおや)神社がありますが、古来からこの神社のある辺りは御祖村といって親王塚の墓守村とされていた地です。余談ですが、御祖(みおや)の名を持つ神社は僕の知る限り、北九州の妙見宮と京都の下鴨神社。妙見宮は和気清麻呂創建の古社で、神仏分離後の明治期から戦前の間に呼ばれた名が御祖神社ですが。。日本開闢の五柱神を除けば、鐸石別(ぬてしわけ)命は和気氏の祖神であり、和気清麻呂は兄の広虫と並ぶ和気氏の功労者であり、宇佐神託事件との係わりとはいえ奉舎は清麻呂の息子です。正式な主祭神は鐸石別命になります。。下鴨神社は加茂氏の祖神を祀っていて、下鴨神社の正式名は賀茂御祖神社といいます。つまり両神社が示すように、能登の御祖神社も能登国造・国守の祖神・大入杵命を祭る本来の神社になります。となると、現在、国造の祖神の本社を標榜する能登部神社には後に移ったことになると思われます。

小田中は七尾街道の上道(うわつみち)の入り口に当たり、その後の飛鳥・奈良・平安期には政治・宗教の中心地はこの街道沿いに北上しています。対岸の雨の宮古墳や能登部能登首長の中心地だったことを考えれば、監督・監視する国造は対岸に中枢を置いたと云えます。首長に替わって国造が能登国を統治するようになると能登部にも勢力や思想面も首長から国造勢力が入れ替わって行ったと思われます。元々は能登比咩・能登比古姉弟大入杵・沼名木入兄妹に入れ替わって行ったと思われます。
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姫塚(御陵山) 神廟・本神殿
大入杵命の伝承はあまりどころかほとんど残っていないのですが、沼名木入比賣命(渟名城入媛命)については崇神天皇の旧辞の重要項目として古事記・日本書紀に出てきます。
崇神天皇統治の初期になりますが、遷都後、疫病が蔓延して百姓の流亡、反乱が各地で頻発するなど世上が混乱したとされます。託宣によって原因は皇祖神の天照大神・倭大国魂神(大物主もしくは大国主と云われています)の祟りとして両神を皇居外に遷座することになりました。天照大神は笠縫邑(かさぬいむら、現・檜原神社)に遷座、倭大国魂神を長岡岬(現天理市・大和神社)にそれぞれ遷座させます。当時、天皇にとって天照大神・大物主が皇祖神どころか祟りを生す旧敵対勢力だったことが窺われます。
それはともかくとして天照大神には皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)、倭大国魂神には皇女・沼名木入比賣命を祭主として派遣したわけです。後の斎王(斎宮)の起源と云えます。つまり沼名木入は史上初の斎王の一人だったということです。
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ところがこの二人の皇女は、どちらも悲惨な運命が待ち受けていました。祖神を抑えるどころか、逆にその神威に負けて、髪は抜け落ち瘦せ衰えて任務不能になったと云われています。天照大神はその後、垂仁天皇の皇女・倭姫命に託され畿内十数カ所を転々として現在地の伊勢神宮に落ち着きます。また倭大国魂神は現在地も同じですが、大物主大神を切り離して三輪山(現・大神神社)に移し、現在に至っています。何故切り離したかの事情は大物主からの託宣とはいえ不明です。古事記では大国主と大物主は別人ですが、日本書紀では国譲り前が大国主、その後(死後?)が大物主となっていますから、その辺りのことからかもしれません。。

古代の皇女は祭祀を担当するシャーマン的存在だったと考えられます。国の統治をおこなうには「まつりごと」と呼ばれるように政治と祭祀は同意の傾向が強まります。シャーマンとも云える巫女(皇女)の存在は欠くことのできないものだと思われます。巫女の存在は地方に行けば尚更その傾向は強かったようです。能登の国造となった大入杵が失敗した祭主とはいえ大国主・大物主に対抗し得る能力の、同母の妹(巫女)を伴ったのには、祭祀による思想面の教化を期待したものだと思われます。沼名木入もこれに応えるように巫女として強化に努める傍ら、第二の織姫として、里人特に女性の手仕事として機織りを伝えたと云われています。近世・昭和に至っても能登上布の機織り作業は女性のみの仕事とされていました。男性の織元主も機織りだけは口出しは許されていなかったようです。

時代が進むにつれ、能登部にもヤマト政権が浸透した段階、能登国造が治める時代が経過すると、前述の様に能登比咩神社沼名木入比賣命が主祭神となり、能登部神社能登比古神から大入杵命が主祭神になって行ったと思われますが、前首長である前神を主祭神として同列に鎮魂したこと、親王塚古墳と同時代に造られた雨の宮古墳群も破壊することなく、自然に共存していくのが日本的な傾向だと思われます。
とはいえ、それまでの弟宮が兄宮という上宮(うわつみや)に、姉宮が妹宮という下の宮に逆転したと思われ、それに伴うように江戸期以前は兄村・妹村、上村・下村、現在の上・下と変わったこともうなづけます。また機会があれば能登部神社も紹介したいと思います。
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拝殿の横から崖上を見上げると高い位置に鞘堂に納められた祠堂が観えます。由緒書では沼名木入比賣命が亡くなった際に里人によって裏山に墳墓を造って葬られたとなっています。それを示すように祠堂の奥に入って行くと三連の円墳跡があるそうです。つまりこの祠堂は沼名木入比賣命神廟に当たるのだと思われます。
内部に入ってみると、見事な細工の遥拝殿(神殿?)が納められています。造りを見るとそう古いようには見えません。明治以降のように感じられます。ただ、拝殿前の狛犬は非常に古風な造形にもみられます。ただこの神廟に関しては勉強不足は否めません。。建立年や由来などご存知の方には教えて戴きたいものです。ちなみにこの地は姫塚・御陵山と呼ばれています。

中能登町には道の駅に「織姫の里なかのと」と命名するほど、能登比咩沼名木入比賣命という二人の織姫を打ち出しています。ただ哀しいかな、、世間的には二人の女神の存在は知られておらず、何故、織姫の里なのか知らない石川県人のなんと多いことか。。我が家の嫁さんなどは、着物が好きなのに、、田舎だから星が綺麗に見えるからなんて思ってるほど、七夕の織姫だといまだに思い込んでいます。。昔、七尾に1年ほど住んだ時、何度も能登部や二宮を通っていたのにです。。。能登上布・織姫の里の元となる由緒ある神社です。二人の織姫神にご挨拶するなら是非訪れてみて欲しい神社です。

旅行日 2018.03.18

この記事へのコメント

  • tor

    完全復活でしょうか?大変でしたね。お疲れさまでした。
    麻織物の里と二人の織姫を祀る神社。栄華をしのばせる旧家とすばらしい神社ですね。特徴のある狛犬もあまり見かけないですね。3番目の目に特徴のある狛犬。この顔は見たことがある狛犬に似ていますが…。数年前に七夕神社へお詣りしたのですが昨年七夕前に写真を探すのに見つかりませんでした。そのうち再訪したいと思っています。織姫さまで思い出した。
    2018年05月11日 21:05
  • つとつと

    torさん
    もう少しという感じです。まだ、ぎりぎり仕事が続いていて、もうちょっとという感じです。今週岐阜まで行く予定でしたが、行けそうにない哀しさで延期しています。
    神殿の狛犬は僕も誰かのブログで観たような気がしてたんですが、torさんのだったんでしょうかねえ。。こちらでは見ない形の変わった顔でした。
    七夕神社ですか、織姫と云えばやはり七夕が連想されますねえ^^
    2018年05月12日 07:18
  • メミコ

    かなり お久しぶりです
    能登の織物について 初めて知りました  お茶碗・お椀のイメージばかりでしたが 確かに織物文化もありますものね
    次男が4月から名古屋へ転勤したこともあり 関西・北陸方面に出かける機会が増えそうです

    つとつとさんブログ必携です
    2018年05月12日 09:40
  • つとつと

    メミコさん
    すっかりご無沙汰しちゃいました。
    石川では織物はあまり名前が売れてませんからねえ。でも、能登が昔麻織物は日本一だとは思わなかったでしょ^^北陸は伝統的な織物産業が昔から盛んなんですよ。加賀は絹織物が盛んで、衰えたとはいえ生産量は国内5位、牛首紬や羽二重、加賀友禅の需要がありますから。。織物産業ある所、伝統和装があります。
    息子さん名古屋に行かれたんですか、北陸東海自動車道のおかげで名古屋は近くなりました。僕もしばらく行ってないんで、また行きたいなあ。。来月岐阜に行くんで足伸ばそうかなあ。。
    2018年05月12日 20:32
  • yasuhiko

    能登比咩神社へのルートは、
    旧街道らしい面影がよく残っていて、
    とても魅力的な道のりですね。
    能登の麻織物は、生産量日本一を
    誇っていたとは驚きました。
    麻織物の歴史、とても興味深く思われます。
    2018年05月12日 22:27
  • つとつと

    yasuhikoさん
    石川はあまり戦災や災害を受けていないこともあって、古い家屋が残っているところが多く、国指定重要伝統建造物地区は最多の8地区あるんですが、それに続く第一候補がこの能登部地区なんです。麻織物の織元が多く住まいした大型住宅はなかなかの佇まいですし、旧町道の住宅街も時間が変わって感じるのどかさです。
    北陸は和装の原糸となる麻・絹の生産は全国トップクラスなんですが、着物文化はなかなか復活は難しくなっています。能登の能登上布も小物が多くなっていますが、懐かしい素材感があります。座布団もこの時期の風物だったんですが、近頃はあまり見なくなってしまいました。懐かしい肌触りで涼しさを感じるんですがねえ。。
    2018年05月13日 03:29
  • がにちゃん

    姫塚の狛犬さん 何か笑っているように見えますね  能登上布とゆう織物がおられていたのですね  上布と言われる織物は何となくパリッとした感じの夏物に使われる様な気がします  
    神社の雰囲気と街並みが凄くあっていますね

    2018年05月13日 10:55
  • つとつと

    がにちゃんさん
    繊維や織物・染色の話になったらがにちゃんさんの専門ですから
    上布や縮はやはり夏物の印象が強くなりますねえ。通気性が良いので夏の印象がとても強いです。ただ、絣模様が出るようになって直衣などのお洒落感を出すには最高だったようです。以前、洋服(シャツ類)にもカジュアル素材で一時期はやりかけたんですが、普段の洗いに向かなくてすぐ見なくなりましたが、個人的には好きなものでした。北陸は冬場雪や雨が多く、湿気があるために麻糸を作ったり織ったりするときは非常に向いていたようです。
    変わった狛犬で本当に笑ってるみたいですねえ。こちらではなかなか見ない姿態でした。面白い顔をしてるでしょ。
    2018年05月13日 14:02
  • 家ニスタ

    能登部下の集落、古い家が多くて、雰囲気のある集落ですね。
    僕も古い町並みは好きですので、いずれ訪れてみたいと思います。
    能登比咩神社も、みごとな彫刻があって、雰囲気のいい神社ですね。
    能登は小さな国ですが、歴史のある寺社が多いのですね。
    2018年05月15日 22:55
  • つとつと

    家ニスタさん
    能登部の集落は大きな古民家が多く立ち並んで、時間が止まったように感じられるばしょです。明治から昭和初期の建物が多くなかなかのものですよ。海の方に行くと板張りの家が多いのですが、この辺りは土壁が多くなります。
    古代から飛鳥・奈良期にかけては朝鮮・渤海などの窓口的存在が能登で、加賀よりも歴史的存在は古いと思います。
    2018年05月16日 12:34

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