帰り道 明神の森 ~ 柳ケ瀬トンネル

さざれ石公園からの帰り道は狭い林道の序盤戦と、明神山の登りはありますが、その多くは急激な下り坂の約15キロ。。


明神山は標高659m、さざれ石公園もそれなりの標高の地ですから登りはそう思ったほどでもありません。まあ、狭い林道と川があるのでそろそろ運転でしたが、下りは一気に頂上から関ケ原に駆け降りるスラローム。久しぶりに飛ばしたなあ^^V助手席に相方が居たら決して出せない走り方^^V
関ケ原まで明神山越えで関ケ原・垂井町の境界線上を走る総距離約15キロの山道走破。

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上:関ケ原明神の森・第四駐車場付近から 濃尾平野と関ケ原東口
右:関ケ原明神の森・管理事務所前  濃尾平野
前述の岩手峠の手前を越えると明神山の最高点になるのですが、ここは非常に眺望が良くて展望台からは天気が良ければ琵琶湖も見えますし、垂井・大垣から広がる濃尾平野が一望できます。夜間には夜景のビュースポットだそうです。そして歴史ファンにとっておすすめが、関ケ原合戦の東軍本陣が上空から見るように観望出来るんですね。一度は登って欲しい場所の一つです。 関ケ原明神の森 ⇒ HP
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明神の森 管理事務所前から 展望台に登ればもっとはっきり見えます。
手前の白っぽい細道が関ケ原東口・中山道で、真ん中の山が南宮山稜、右手前山裾に家康本軍が陣を布き、東山上に毛利秀元軍、左側面裏側に安国寺・長曾我部が陣取っていました。右奥の山稜が小早川の陣取った松尾山の東部山稜、木で隠されているところが松尾山になります。
ここから見るだけでも毛利軍が後方から攻めていればと悔やまれますし、毛利本隊が吉川に阻まれ動けないにしても、中山道・関ケ原入り口を固めていた池田・浅野勢に尾張道の平場にいた安国寺・長曾我部が、せめて仕掛けていればと悔やまれます。
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明神の森登山口 左の狭い道が登山道です。
本や地図で見ると広大な場所のイメージですが、実際に見ると意外に激戦地や陣場が近接しています。実際、石田三成・徳川家康の開戦時の本陣は4.5キロの距離、この間に10数万の軍勢がひしめいたんですから、とんでもない合戦だったわけです。
明神の森から降りると関ケ原のど真ん中に出ます。東軍・徳川家康本軍の正面500m前方、つまり東軍のマン真ん中に出ます。

壬申の乱や関ケ原合戦の話を始めたらきりがありませんので、今回はなしですが、関ケ原バイパスで岡山烽火場や石田三成本陣跡を横目に見ながら365号に乗り換えて、一路木ノ本に向かいます。ちなみにこの国道365号も北国街道をなぞる路線で戦国史に残る姉川の合戦場、小谷城址、賤ケ岳合戦場などを通る道筋です。滋賀に住んだ頃、その後もよく通った道であっち行ったりこっち行ったり、歴史ファンにはたまらない路線です。
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余呉町で見えた虹。この道を走るとよく虹を観ることがあります。2.3回に一度は見てるから頻度が高い。。いつも感じることですが、北陸から南下した時、この余呉町や北近江のマキノ、美濃に入る郡上八幡あたりに来ると、空気が軽くなったように感じます。北陸とは違った場所に来たと実感するところですねえ。。

湖東や岐阜方面から福井・石川に向かう際、木ノ本から余呉湖を左に観る365号を通っていました。本来なら8号線を道なりに走るのが普通なんですが、木ノ本から柳ケ瀬までは直線路の上に信号がほとんどないんです。走りやすい道なんで、こちらを選択していました。しかもこの道には隠れた近道があるんです。

そのまま365号を走ると旧北国街道の山間の柳ケ瀬越えを皮切りに椿坂・栃ノ木峠といった上り下りのカーブだらけの難所になるのですが、柳ケ瀬トンネルを抜けると平坦路のまま8号線をショートカット出来るんです。

北陸本線は米原駅から北陸を繋ぐ路線ですが、現在は余呉湖北の余呉駅で直角に西進、近江塩津駅で京都・大坂方面からの湖西線と合流、敦賀に向かっています。
最初の開業は明治15年(1882年)に米原=金ケ崎(現・敦賀港駅)が開通し、随時延伸されて大正2年(1912年)米原=直江津まで開通しています。現在の北陸本線は余呉駅で直角に曲がって西進しますが、開通時は現在の365号の上を柳ケ瀬まで直進していました。当時の宿場や茶店が並んで繁盛した木ノ本=柳ケ瀬の間にあった中之郷駅のレプリカ看板が国道沿いに観られます。

京都から敦賀に向かう道は、古来からあるものとして主要だったのは、大原から安曇川・朽木越えの別名・鯖街道で若狭に出て小浜街道の海岸沿いの道。現在の逢坂山越えあるいは大原から途中峠越えで湖西線を辿る西近江路。瀬田橋を越えて湖東の北国街道から近江塩津で西近江路と合流経由して木の芽峠越えで敦賀に入る現在の8号線。旧北国街道で木ノ本から柳ケ瀬経由で険しい栃ノ木峠越えで直接、国府に向かう道になります。何れも山岳地帯を越える難所だらけの道になります。
いずれの道を採っても、困難な峠道が待ち構えています。この山並みは鉄道にとっては尚更の急勾配を強いてしまいます。当時の蒸気機関車では登り切れるものではなく、トンネルが必要になっていました。
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柳ケ瀬トンネル東口(余呉町側)石額  「萬世永頼」 伊藤博文書
万世に永く頼む。この鉄道(トンネル)が世のために働いてくれることをいつまでも長く頼りにするという意味。


明治政府にとって、神戸=東京間がまだ完全開通していない中での突貫工事的な着工(着工2年で完成)でした。その主目的は人口増加が顕著な神戸・大阪・名古屋などの人口増加に伴う食糧事情にありました。当時から米どころだった北陸の米穀とロシア船が入港していた敦賀港からの輸送事情の改善が急務となっていたのです。この路線及び柳ケ瀬トンネルの完成は明治15年(1882年、完全開通は2年後)。東京=神戸間の完全開通は明治22年ですから、いかに急いだかが窺われます。
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土木学会選奨土木遺産 顕彰碑
北陸本線の整備のためにこの辺りには大小の鉄道トンネルが作られていました。実はこの柳ケ瀬トンネル(柳ケ瀬隧道)もその一つでした。しかも、国内のトンネル工事では初めてのダイナマイト掘削が行われたトンネルでもあり、完成当時、全長・1352mは国内最長の鉄道トンネルでした。この土木事業内容と現在も車道として現役ということでH20(2008年)に土木遺産認定を受けています。

日本で最初に造られた鉄道トンネルは、明治4年(1871年、開通は明治7年)石屋川トンネル(兵庫県住吉=灘、現在は埋め立てられて消滅)。現在、鉄道トンネル遺構として最古と云われるのは明治13年6月(1880年)逢坂山トンネル(京都大谷=滋賀大津、664.76m)ですが、現在は西口が埋められ、東口は地震計の通路で、一般通行できないそうです。今はどうか解りませんが、以前は逢坂山に棲んでいた蝉丸を祀った関蝉丸神社からトンネル東口に行けました。

前述しましたが現在最古の通行できるトンネルは、柳ケ瀬トンネルから先に行った脇道にある小刀根(ことね)トンネル(明治14年竣工、56m)になりますが、今回は先を急いでいたので画像がありません、またの機会に。。ただ、小刀根トンネルは完成時から一切手が加えられていない完成時のままの姿が観られる貴重な存在です。側に同じく当時のままの鉄橋の桁橋も観られます。H26、土木遺産認定。
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柳ケ瀬トンネル 東口(余呉側) 草で隠れていますが、右上を北陸自動車道が通っています。
と、いうわけで内部などにコンクリート改修はあり、現状は自動車専用トンネルですが、車で通れる鉄道トンネルとしては最古になります。ちなみに現役で鉄道が通るトンネルとしては、明治31年(1898年)完成の横浜の清水谷戸トンネル(保土ヶ谷・境木本町=戸塚・品濃町)になるそうです。まだ未見(たぶん、通ったけど寝てました^^:)

前述のとおり、昭和32年(1957年)、約2キロの余呉トンネル、約5.17キロの深坂トンネルが完成して、現在の北陸本線は余呉湖の北東部で直角に曲がって近江塩津に向かい、柳ケ瀬トンネルの線路は柳ケ瀬線となります。更に昭和37年、敦賀から今庄の約13.87キロの北陸トンネルが新設され、本線に貨物輸送の大半が集約、大きな収入源を失なって赤字路線となった柳ケ瀬線は昭和39年廃線となります。

ちなみに、北陸トンネルは通常(狭軌)鉄道のトンネルとしては国内最長、昭和57年(1982年)にスイスのフルカベーストンネルが出来るまで世界最長でした。
実は路線変更前には、栃の木峠下を貫通して18キロに及ぶトンネル計画として、今庄まで繋げる計画もあったのですが、敦賀を外すことや将来の湖西線との合流を考えて現在の路線になった経緯があります。そういえば、北陸新幹線の路線設定でも侃々諤々の路線案が揉めましたが、僕は今もって湖西線経由が正解だったと思います。京都・大坂への到着時間を考えれば、それが最短だったんですが。。。確定路線では、時間的に在来特急で湖西線経由と変わりませんもん。京都の手つかずの歴史山岳路を壊して高架化する難工事の費用に意味を感じませんもん。そもそも新幹線自体に必要性を感じないし。。候補路線だった琵琶湖沿いにコンクリートの高架が出現するのもぞっとするし

廃線の理由にはもう一つの事由がありました。それが事故の頻発でした。蒸気機関車の時代の昭和3年(1928年)冬のガス窒息事故。凍結によって車輪が空転して敦賀発の45両編成貨物車がトンネル内で残り30mで立ち往生、煙が狭すぎるトンネル内に充満して運転要員が窒息、補助機関車の要員が這い出して、駅に急報、出口駅に通過待ちで待機中の機関車が逆方向に押しだしたんですが、結局、救助したその機関車も犠牲になり乗員5名が死亡・7名重体という大事故になっています。それ以降も窒息事故が多発。更にはヤスデの大量発生で空転事故、急勾配を登り切れず逆走事故が発生するなど事故が多発しました。これらの事故を契機に路線変更が決定され、前述の新路線とトンネル工事が開始されたのですが、戦争や資金難で昭和30年代にずれ込んだ経緯があります。

廃線となった柳ケ瀬線は県道・国道となったわけで、他に小刀根と同時期に出来た曽々木(そそぎ)・刀根(とね)トンネルがあったんですが、曽々木は道路開削で消滅、刀根は拡張工事で造り直されて北陸道にあります。廃線とはなったのですが、地域補償として国鉄バスが走り、柳ケ瀬トンネルもバス専用トンネルになっていました。
昭和55年(1980年)に一般道として開放されました。僕が初めて車で通ったのは、その10年後だったでしょうか。。初めて走った時は暗さと長さにドキドキでしたねえ^^:
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柳ケ瀬トンネル東口(余呉側) 信号機 少し変わった作りで、三色信号の右上部信号は残留自動車がいる場合に点灯します。左の縦のレベルメーターみたいな信号は待ち時間を表しています。
単線のトンネルですから、車一台がやっとのために交互一方通行、三色信号機の隣に残り時間表示が出るのが味噌です(最長15分)。長いと思って無謀に入る人もいますが、トンネル内に避難場所は2カ所のみ、しかも入り口近くですからおとなしく待ちましょうね。10数年ほど前に、赤で入ってきた車を下がらせたことがあるんですが(50くらいの女性、僕の後ろに車3台)、運転手がバックできなくて、運転を変わって100m超のバック運転^^;後ろのドライバーにバックを誘導してもらいましたが、避難場所も狭くて一苦労^^; 女性を見るみんなの眼の冷たかったこと。。ですから、のんびり目盛りが減って信号が青になるまで待ちましょうね。。
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今回も後ろに車がいたんで、トンネル内画像はなしということで。。カメラを持ち上げたつもりでしたが、下を向いてたみたい。。何回も通っているんですが、こんな狭いトンネルを蒸気機関車が走ったんですねえ。ちょっと信じられないくらいの狭さ。。D51が通れるように造られたと云いますが。。そりゃ、窒息事故も起こるでしょう。。昔、小学校だったと思いますが、このトンネルを通るとき、乗客が総出で窓を閉めていたと先生が話していたなあ。。

ちなみに、このトンネルの中間くらいが滋賀県と福井県の県境になります。トンネルを抜けるとそこはもう福井県。古い画像ですが、福井県の敦賀側⇒ 2007.12.08 湖北みずとりステーション

この記事を書いていたら、旧北陸本線のトンネル巡りや廃駅巡りを一度やってみたいなあなどと思ってしまいました。ただ、何と言っても家から距離が遠いうえに、山道だらけ。。。個別には2/3は過去に観ているんですが、相当の根性が必要です。。敦賀から南今庄間11トンネル・3施設 これまた昨昨年、土木遺産認定を受けています。これに柳ケ瀬線2トンネルと2廃駅。。いつになるやら。。

旅行日 2018.06.12









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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    1度登ってみたいですね  気分は、徳川家康 なれるかなっ
    2018年06月21日 18:15
  • tor

    関ケ原行かれたのですね。私は何度か近くは通ったのですが…。東軍本陣の位置については平面図では見ましたが、山の上からみると…。ここに陣を構えたのは、やはり確信があったからなのでしょうね。
    2018年06月21日 21:18
  • つとつと

    がにちゃんさん
    春は桜も咲くそうです。秋は紅葉の名所。濃尾平野の眺望は、春日から来るといきなり眼の前にこの眺望で、ビックリする美しさです。
    ここに立つと、やはり西軍の眼になってしまいます。だから石田三成かな。
    2018年06月21日 22:10
  • つとつと

    torさん
    山の上から見ると東軍の危うさは、はっきりわかります。下工作の確信もあったでしょうが、家康も相当焦っていたんでしょうね。短期決戦に掛けていたんでしょう。ひたすら西に進む体制です。毛利秀元や吉川広家の動きひとつで大混乱。西軍は長期戦狙いで兵が分散していますから。。やはり実際に目の前で観ると平面図とは違って見えますねえ。
    2018年06月21日 22:17
  • 家ニスタ

    おおっ、東軍陣地が一望にできる山ですか。
    こんな山があるのは知りませんでした。
    ぜひ一度行ってみたいです。
    本当に長宗我部盛親は残念でしたねえ。
    大阪の陣のときになって大坂方につくくらいなら、関ヶ原のときに一か八か仕かけてみればよかったのに・・・。
    僕も西軍ファンですので、いっつもそう思って悔しがってます。
    2018年06月21日 23:53
  • つとつと

    家ニスタさん
    保存林を中心にした広い公園です。前に来た時は展望台や管理事務所の横に高い気があって見難かったんですが、今は遠望できます。とにかく濃尾平野が一望できるんで大垣まで見えますが、一晩でこの距離を軍勢が大移動したんですから驚きです。 南宮山を見ると毛利・長曾我部が徳川本軍に、迂回せねばならないとはいえいかに近かったか、毛利・長曾我部の日和見が全てといって良かったかもしれません。後の処分をみれば、どちらも一か八かが必要でしたねえ。。本軍が移動するのを後方から突けばとここに立つとよく解ります。
    2018年06月22日 11:02
  • まだこもよ

    最近・・・ユーチューブで 「廃屋探検」みたいな 動画をよく見てます!
    2018年06月25日 05:46
  • つとつと

    まだこもよさん
    ちなみにこのトンネルも、その筋では心霊スポットなんだそうです。
    でも、亡くなった機関車の乗員ではなくて、お婆さんがいきなり歩いてくるそうです、僕はあったことないけど^^;謂れは解らないそうですが^^;
    2018年06月25日 22:19

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