永安寺①

画像永安寺 本堂

山丘を巻くように流れる寺津用水と遊歩道。。その山丘の上にあるのが真言宗・鶴舞山・永安寺になります。
永安寺に関してはあまり予備知識がなくまったくの初訪問になります。

永安寺は山岳修験道を修めた初代・霊光が大正・昭和初期に開山した歴史的には新しい寺院ですが、境内の広さは金沢では屈指の広さを持っています。また、多少の昇り降りがありますが、真言宗寺院特有の構築物が多いのが特徴で散策に打ってつけ
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永安寺 開山堂
開祖・霊光僧正を祀っています。中央に観世音菩薩立像、右に弘法大師座像、左が霊光僧正座像


開山堂に書かれていた説明板によれば…
開山堂 
中央に観世音菩薩、向かって右に宗祖・弘法大師、左に当山の開祖・霊光僧正を安置してあります。霊光僧正は明治二十三年に元加賀百万石の城主・前田慶寧の外孫として出世される。
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幼少より出家の遊びをされ、わずか七歳にて金沢夕日ヶ丘の傳燈寺にて七日間の行をされる。更に十五歳のとき、奈良県の生駒山にて百日間の捨身の行をされ、時の瓜生海軍大将の斡旋にて、高僧大阿闍梨・井上哲城僧正の元で修行。師の跡を継がれ、更に近畿・北陸三県の深山にて、数年間修行される。
師・哲城大僧正の遺言により、足利九代将軍・義尚公が建立した由緒ある永安寺が、維新後の廃仏毀釈で、廃寺寸前にあるのを惜しまれ、新たに造営、仏法興隆、国家安泰、衆生済度のために一生を尽くされる。


永安寺由来記から
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当山開基 霊光上人は明治23年、石川県河北郡三谷村字月浦で誕生されました。加賀百万石、14代藩主慶寧公の外孫にあたられます。
幼少の頃より大変利発で、五歳の頃から論語を読み始め、観音経(仏説妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)をすぐに理解されたとのことです。僅か数え歳八歳のとき金沢郊外の伝灯寺裏の洞窟にて七日間の行をされ、その後、幼いながら富山県の日石寺でも捨身の行をされました。
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成長されるとともに、更に伝灯寺や医王山などでたびたび修行され、数え歳13歳のとき、奈良の生駒山頂の「白水の峯」にて70日間に渡る捨身の荒行を修され、人事不省となられるも山中深く狩りに入っておられた瓜生海軍中将(後に大将)の一行に救われ、京都近迎院住職 井上哲城 大阿闍梨のもとに身を寄せられました。(哲城上人の恩師、天如上人は明治天皇の相談役を務めておられたとのことです)
哲城上人の弟子となられた後も、京都の阿弥陀寺をはじめ各地の霊山にて幾たびも厳しい修行に没頭されました。すでに余命を悟られていた哲城上人は、霊光上人にすべてを伝授され後継者とされました。これは密教の真髄が中国の恵果阿闍梨から弘法大師へと伝わり、その後連綿と伝わる法統の後継者となられたということなのです。
その後、師の遺言に従い金沢の地に由緒ある寺号「永安寺」を遇し、再興を果され、鶴舞山に仏法興隆のための伽藍の造営にとりかかられたのです。その間も、衆生済度を願って各地で精力的に布教され、石川・富山・岐阜と信者は増えました。そして、後継者と定められた霊城上人にすべてを引き継がれ、上人自らの予告のとおり昭和44年11月1日入滅されました。その後も伽藍の造営は進み現在に至ります・・・・

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上:永安寺 共同墓 形態は宝篋印塔で石室内に五彩仏舎利と阿弥陀如来、虚空蔵菩薩、地蔵菩薩像が安置され壁面に1万8千文字の一切経が梵字で刻まれているそうです。開祖・霊光、二祖・霊城の二住職もここに納められているそうです。
ちなみに、国内における宝篋(ほうぎょう)印塔はインドの阿育王(アショーカ王)が国内外に広めた仏舎利を納める墓塔としての塔と、中国で広まった一切経の仏像を納める信仰対象の宝塔の二種類が模されているものがあるんですが、永安寺のものは両方を採用しているようです。つまり正面に立つときは墓石で、脇から見る時は宝塔になりますねえ。

右上:永安寺 六地蔵 開山堂の横に安置されています。通常は寺院や墓地の入り口に置かれるんですが、永安寺では奥の院近くにあります。元は赤穂事件(赤穂浪士討入)の四十七士の冥福の為に、正徳2年(1712年)明石の寺院に奉納されていたものですが、廃仏毀釈で大阪船場の問屋が引き継いだものを寄進したものだそうです。。


ちょっと首を傾げたくなる文章が多いので、僕の知る範囲での解説と説明を。。。永安寺 地蔵堂 
画像14代藩主・前田慶寧(よしやす)は加賀藩では最後の藩主に成ります。父親の斉泰(なりやす)とは違って、尊攘派に近い存在でしたが、禁門の変で病を口実にして京都守備から離れたために、父親によって失脚させられています。翌年復帰していますが、側近をその間に失脚や処刑で多くを失い、実権も父に奪われ加賀藩が明治政府に乗り遅れた要因になっています。維新後は金沢藩知事に就任するなど、父に代わって政府交渉の矢面に立っていました。しかし、明治7年(1874年)に44歳の若さで亡くなっています。ちなみに、娘は6人いますが、2人(次女・三女)が夭逝、長女は越後高田藩主榊原家の正室(元々は会津藩・松平容保の婚約者の時期がありました。)。四女は有栖川家に嫁ぎ、有栖川家最後の皇族・慰子(やすこ)親王妃。五・六女は近衛家に嫁いでいます。外孫というのが不明。。慶寧が外で作った娘の子ということ?聞いたことないけど。。                                    永安寺 観音石仏群
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開祖・霊光の出生地・河北郡三谷村字月浦は、昭和29年(1954年)森本町との合併で金沢市に編入され、現在の金沢市月浦町で加賀野菜・クワイの産地で知られています。以前、森本ICを紹介した時に、僕が撮影していた山上や西側の住宅地がそこに当ります。ちなみに国道304号を東に進んだ県境まで三谷村でしたから結構広範囲・・
月浦から約4キロ、山を隔てた夕日寺地区にあるのが傳燈寺(伝燈寺) 。この寺院は以前、ご紹介していますが、今は越中国泰寺の末寺として寂れた寺院ですが(しばらくご無沙汰なので詳しくは不明。。)加賀の歴史では重要地の一つになります。
画像永安寺 弁天堂 崖にせり出した朱色の姿はなかなか優美です。
教科書や簡単な歴史本では、長享2年(1488年)高尾城で一向宗によって加賀守護・富樫政親が落城・自害に追い込まれて富樫家が滅亡、百姓の持ちたる国・一向一揆の国なったと書かれ、多くの人にそう思われています。しかし正確に言うと、高尾城の落城の戦いは富樫家の内部抗争に、政親に弾圧された一向宗門徒が反対派の富樫泰高を擁立した戦いでした。事実、この戦いの後も実権は一向宗でしたが泰高を含め加賀守護は四代続いており代によって不在もありますが、それなりに勢力を回復しており、一向宗寺院も守護職として尊重していたと云われます。加賀富樫家が滅亡したのは26代・富樫晴貞の代で、織田信長によって上洛を果たした足利義昭の御教書に従って一向勢力に敵対、ところがその後、義昭と信長は事実上離反で信長は浅井・朝倉と抗争に、孤立無援の富樫晴貞は元亀元年(1570年)、一向宗勢力に追い詰められ傳燈寺に逃げ込みますが、焼き討ちによって追い詰められ自害。ここで加賀富樫家は実質滅亡していますから、傳燈寺は加賀富樫家の終焉の地と言えます。また加賀の一向宗単独支配も正確には、ここから約10年程となります。
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晴貞死後、27代を越前に逃亡中の兄・泰俊が継いではいますが、一度は加賀に戻ったとも伝承されますが越前金津で客分のまま戦死しています。
ちなみに、晴貞は息子・晴友を越後に逃亡させており、福島県に小杉姓で子孫が残ったと云われています。また泰俊の三男・家俊は、織田勢力が加賀に及んだ際に名前を後藤姓に変えて金沢市の富樫に移り住み佐久間盛政に仕えています。江戸期には農民となって、後藤家は十村役となっています。前回の寺津用水の次に造られた長坂用水は、この後藤家が主導したと云われています。

こぼれ話ですが、富樫家滅亡の地として昭和の一時期に埋蔵金の噂が立って、山に一獲千金を狙った採掘者が多く集まったそうです。おかげで裏山には山を掘った通路が、幾つかあったりします。
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傳燈寺は加賀藩草創期に活躍した津田正勝(家老・津田玄蕃家1万石・初代)の菩提寺になっていました。津田正勝の墓となる五輪塔もあります。ちなみに、金沢の名称の由来となった兼六園にある金城霊澤(きんじょうれいたく)の横にある兼六園管理事務所は津田玄蕃家の屋敷を大手門前から移築・再利用したものになります。
以前書いたように、客分大名として高山右近が長く仕えたおかげで、藩内には多くのキリシタンに転宗した藩士や家族が多くいました。その数、最盛期で1500人超とも云われています。

津田正勝夫妻も高山右近と親交を重ね熱心なキリシタンとなっていました。しかし、禁教令が強化され高山右近が国外追放となると、加賀藩内の信者も転宗を強制されることが余儀なくされます。加賀藩政に係わる藩士の多くは転宗していますが、海津夫人(津田正勝夫人)を始めとして、前田利家の娘で後の八家老のひとつ・長家に嫁いでいた福姫やその娘・菊姫など高級武士の妻子20数名が、七尾の本行寺に送られ一代蟄居となっています。海津夫人の墓は宝筐印塔ですが、宝筐内に聖体が納められ、基壇に格子紋と縦格子を組み合わせた十字が刻まれ、ゼウスの塔と呼ばれて隠れキリシタンの聖地になっていました。

金沢市内に点在するキリシタン灯籠や十字石や盆唄などから、隠れキリシタンは続いていたことが窺われますが。。津田正勝は臨済宗に改宗していますが、キリシタン信仰は一人で陰で続けていたと伝承されています。真偽はともかくとして、隠れキリシタンが津田正勝を信奉したのは確かで、傳燈寺の建物裏にある洞窟は江戸期からのもので、洞内が十字の通路になった祈禱所になっていたと伝わります。明治末の頃にはこの話は金沢近在に知れ渡っており、この洞窟内で仏法修行をしたと口承するのはどうかと思われます。。
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永安寺 愛染明王像 地上から紅焔の先端頂まで、全長10m、愛染明王像としては日本最大級と云われているそうです。毎年6月に愛染明王火祭りの法要が行われています。
怖い顔をしていますが、弓と矢を持つ仏教界のキューピット。背面の炎(紅焔)は愛情の赤の炎。弓矢はもちろん愛の弓矢で人を射止めたり。。愛と情欲の明王として、弓矢で欲望を断つ役目も持っています。
腕が6本あるのは、六道輪廻の衆生を救う意味を持っていて、前面腹部の第一手は左手が五鈷鈴は智慧の音で衆生を迷いから覚醒させ、右手の五鈷杵で悟りに導く。第二手は下段に開いて左に弓、右に矢をもって前述の様に愛の縁組をしたり、欲望を断ち切ったりします。第三手は左手はグウですが摩尼宝珠を握りしめています。摩尼宝珠(如意宝珠)は衆生が望む宝・財産・生命を育むとされています。右手に持つ蓮の花は未敷蓮華(みふれんげ)といって、宝・財産・生命を奪おうとする四魔(煩悩魔・五蘊魔(ごうんま)・死魔・天魔)を打ち払う効果を持っています。

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瓜生外吉は当時は海軍中将で第四戦隊司令官。霊光と出会った翌年に日露戦役の火蓋を切った仁川沖海戦で主戦、日本海海戦でも第二艦隊第四戦隊でバルチック艦隊を追撃して活躍しています。
大聖寺藩士の家に生まれており、霊光には恩人であり同郷ということで、親しい交流があったようです。

師として仰いだ井上哲城については不明。。ただ、阿闍梨位は真言宗では僧籍の最低限の資格としていて、大がつくのは、その中で徳のある人物としていますが、一般が想像するほど高位高僧とは一概には言えません。
京都近迎院というのも不明。。京都では来迎(らいげい)院とか遣迎’けんごう)院なら名前くらいは解りますが、不明、、

遠江の永安寺というのも不明。。永安寺という寺院名は全国に点在するのですが、有名なものは鎌倉の永安寺跡(ようあんじとも読みます)。足利公方・足利氏満の菩提寺として建てられた寺院でしたが、4代・持氏が永享の乱で敗れ同寺で自刃、そのまま廃れてしまい、鎌倉公方の菩提寺は側の瑞泉寺に移っています。世田谷大蔵の永安寺はこの鎌倉永安寺の流れを受けた寺院です。
画像永安寺 聖天堂奥院

ついでなので、関東以外の人には解り難い鎌倉・古河・堀越公方と関東管領について、足利幕府の草創期、足利尊氏・直義兄弟が京都・鎌倉に政務を分担したように、東国支配として鎌倉府は重要視されていました。それを踏襲するように2代将軍・足利義詮の実弟・基氏が東国管理のために鎌倉府に派遣されました。元々、鎌倉公方などという言葉はなく正式には関東管領が正式名でしたが、後に基氏の執事だった上杉憲顕が関東管領(初期は関東執事、他1名の二人体制)に就任したために、区別の意味でこの名が出来たようです。。まあ、将軍に対抗する意味も大きかったと思われます。初代・二代と関東経営は基盤を固めて行きましたが、基盤が固まると将軍家に対抗する意識が強く謀反的行為が増えますが、それを抑えていたのが関東管領・上杉家だったのです。しかし前述の永享の乱では、持氏が暴走、ついには上杉家とも対立してしまいます。結局、持氏が断罪されて鎌倉公方は一時断絶します。持氏の子・成氏が一旦は継いだのですが、成氏が関東管領を暗殺、怒った幕府派遣軍に敗れた成氏は鎌倉公方を剥奪され鎌倉府を放棄して古河を本拠にし、後に許されて古河公方と呼ばれることになったのです。
鎌倉公方不在時に、幕府から派遣されたのが堀越公方になりますが、前述の様に古河公方が復帰すると伊豆と下総で並立することになります。その後、関東管領の本家筋・山内上杉氏(武蔵)、扇ガ谷上杉(相模)、堀越公方(伊豆)、古河公方(下総)の四巴の抗争が続きましたが、北条早雲の介入で局面は一変、堀越(伊豆)・扇ガ谷(相模)は敗北滅亡、関東管領・山内上杉家は越後に亡命、古河公方は名跡と権威のみの状態で戦国を過ごします。
画像 永安寺 聖天堂 遥拝所

9代将軍・足利義尚は応仁の乱の原因となった継承争いの東軍当事者ですが当時は幼児でした。将軍就任後は将軍家の権威復活のために奔走しますが、六角氏の叛乱の対処を誤り、近江栗東に長対陣したまま病で26歳で陣没した悲劇の将軍でもあります。六角征伐に2万以上を集めた人気はそれなりの才覚と期待を感じます。ただ六角征伐の目途がついた時点で、後始末を部下に任せて京に戻れば未来は輝いていましたが、意地になってしまった坊ちゃん気質が感じられます。まあ、親が親ですから。。。自分の趣味に走って政治を顧みず別荘に籠る駄目父親・足利義政、稀代の悪女・教育ママゴンと云われた日野富子のいる京都に帰りたくなかったからという陰口があります。実際の主要因もそんなところだったかも。。
しかし容貌は戦国随一の声があるほどの美少年将軍。美しい顔立ちから別名・緑髪将軍。「御容顔いとも美しく、隙の無い玉の御姿」とされていました。
京都と近江にしかいなかった若き将軍。。遠江に永安寺という寺院建立をするという関係性は不明ですが、義尚の主力軍となった斯波義寛の任国が越前・尾張・遠江で、この関係性があったかもしれません。
画像永安寺 聖天堂奥院
聖天堂は大聖歓喜天を祭ったものです。歓喜天は密教では秘仏中の秘仏とされています。通常は叶えられないような願い事も叶えてくれるという仏ですが、作法を誤ったり、約束を破るととんでもないしっぺ返しを喰らうと云われており、信賞必罰の絶対仏と云われています。
通常、秘仏扱いで仏像の姿は滅多に観られませんが、曼荼羅や画像があるんですが、象頭人身の単独・双身・象頭人身+人頭人身などがあります。ちなみに双身・象頭+人頭は抱き合った立像になります。単独像はヒンズー教のガネーシャと同じです。実際、起源がガネーシャとも云われていますから。。ヒンズー教でも大人気のガネーシャの父はヒンズー教最高神の一人・シヴァ神、母はパールヴァティー(ウマ(烏摩 )・ヒマ(ヒマラヤ)・山の女神)

起源の説話も色々あるんですが、代表的なモノでは・・・インドのある国にラケイラレツ王とい名の王がいた。王は毎日、大根と牛肉しか口にしない。そしてついに、国じゅうの牛を食い尽くしてしまった。困った国民は、かわりに人間の死体を捧げた。すると、王は瞬く間に国じゅうの死体を食い尽くしてしまった。そして、空腹に耐えかねた王は、今度は生きた人間を食うようになってしまった。困った大臣は、国民たちと共にクーデターを起こし、王を暗殺しようとする。王は大魔神ガネーシャ(ビナヤカ)に化身し、眷属と共に空を飛んで去って行った。そして、自分を殺そうとした国の民を恨み、伝染病を流行らせて祟る。困った国民と大臣は、十一面観音に助けを求めた。十一面観音は美しい女に化身してガネーシャの前に現れた。その美女に夢中になったガネーシャは、抱かせてくれと熱望した。十一面観音の化身である美女は、祟りを止め、仏法を守護する善神になると誓うのなら、抱いてもよいと答えた。ガネーシャはそれを約束し、観音の化身の美女を抱き、十一面観音と合体した守護善神となった。

古くから聖天信仰は存在したのですが、江戸時代にピークが来ていて「聖天さま」として、気軽な信仰に摩り替って、国内に200以上の聖天宮があると云われています。有名聖天宮は、本龍院・待乳山聖天(東京台東区)、宝山寺・生駒聖天(奈良県生駒市)、歓喜院・妻沼聖天(埼玉県熊谷市)が代表格。
しかし、正式な密教の聖天を司る行者は限られていると云われるほど作法が厳しく、ご利益は聖天行者の行い次第の部分が多々。永安寺の現住職は県内唯一の聖天行者なんだそうです。


旅行日 2018.04.02



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この記事へのコメント

  • tor

    広い境内で見所満載ですね。つとつと様の説明でまわることができれば最高ですね。知識が増えました。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産となりましたが石川県にも関連遺産多いのでしょうね。
    2018年07月08日 21:00
  • つとつと

    torさん
    真言宗寺院は良い意味でも悪い意味でも境内にに多くの構築物があるんですよ。激しい修行を行う所ですか、精神を和らげる意味があるのかもしれません。今は宗派に差別を置かずに広く相手をするのも特徴ですから。。境内を散策するには良い寺院です。
    長崎の世界遺産時間の問題と思っていましたが、ついになりましたねえ^^
    石川のキリスト教は藩士階級に限られた感じで、関連遺産は思ったより少ないんです。ただ、思わぬような金沢の屋敷内の庭園にキリシタン灯籠があったりします。民衆には仏教でも景教に近い浄土真宗が多いですから、転宗は進んでいなかったようです。
    2018年07月09日 09:37
  • 荒井市郎

    永安寺をご紹介頂きありがとうございます。読ませて頂き、永安寺にお参りしている私も大変勉強になりました。
    ちなみに、永安寺の開祖霊光上人は、慶寧公と側室おこんの方との間に生まれた與三郎(ともさぶろう)の子どもです。
    おこんの方は、1863年に病気になったことを機に宿下がりが許されましたが、その際既にに懐妊していたものです。ご参考まで。
    2020年02月27日 08:58
  • つとつと

    荒井市郎さん
    コメントありがとうございます。
    けっこう長く金沢近郊に住みながら、永安寺の存在を知りながら、なかなか機会が得られず、この時が初めての訪問でした。それにしても金沢最大の敷地と聴いていましたが、本当に広いのに整備されている寺域には感心したものです。御母堂さんにもお話を親しくお話を窺えて、思いのほかに良い寺院だと感心しきり、なぜもっと早く訪れていればと思わされてしまいました。
    予備知識がなく、周辺知識のみで書いてしまい支離滅裂で申し訳ありませんでした。

    最後の加賀藩主・前田慶寧公 1863年というと、一時謹慎させられた蛤御門事件の前年なるんですねえ 幕末から明治初期の激動の時代を過ごした人ですが、あの謹慎挫折が無ければと思います。
    祖母の事が解らず、ちょっともやもやしてたんですが、うれしい情報でした。ありがとうございます。
    2020年02月28日 19:39

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