永安寺② 

前回は開山堂と由来記で終わってしまったので、その続きです。今回は永安寺が真言宗寺院であることと、真言宗について取り留めなく。。。
画像開山堂入り口から本堂の風景

山岳修験道は国家神道に対抗するものとして、自然崇拝に八百万の神や古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げて来たともいえます。純粋に山岳修業を通して自己研鑽を目的にする者もいましたが、山の民や口減らしの対象としての側面も強く持っていました。インチキ祈祷や護符を売り歩く輩の温床にもなっていました。とはいえ、山岳修験者の数は、正式な申請修験者・はぐれ修験者合わせて江戸期には17万人以上いたとも云われています。当時の人口からすれば200~250人に一人の割合になります。その半数以上がいかがわしい行者や浮浪者ともみられていました。

明治5年(1872年)政府は廃仏毀釈の前段階として、天台宗・真言宗の一部を除く山岳修験道の禁止令を出しています。国家神道を是とする国としては、怪しげな自称修験行者の排除はもちろんですが、古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げた山岳修験道は危険な存在であり大きな障害でもありました。
更に段階的に一般への売薬・護符の販売禁止、一般への祈祷行為の禁止など締め付けを強くし、山岳修験者の収入源を断ち、廃仏毀釈によってとどめを刺したと云えます。石川県内では能登の石動山・天平寺の破却が典型的な事例です。
画像永安寺 本堂

古来から中央政府から虐げ続けられた存在、国家神道(中臣神道)に反抗し続けた歴史を持つ山岳修験道。そう簡単には廃れるものではありません。最初は決まりを無視した永安寺の開祖の修行でしたが、阿闍梨位を持った天台宗或いは真言宗僧侶の師を得たことは、正式な修行や鍛錬を受ける素地になるということで大きな宝になったと思われます。


前述の様に、天台宗・真言宗に認められた山岳修験の修業は、百・千日回峰・滝行といったものがニュースやドキュメントとして放映されているので、多くの人たちに認識されています。厳しい連日の日課勤行と山道の往復など常人ではこなせない超人の修業になりますが、あくまで地域限定になります。それを成した行者は住職となって各地に派遣され、そこで改めて民衆に広める住職の責を努めています。又中には、千日回峰に再挑戦したり、派遣地での修行についています。しかし、住職というのは後進や民衆への教導が大きな使命で、個人の修業優先は難しいと思われます。
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永安寺 本堂と庫裏の渡り廊下下
裏山を降り、本堂の裏から回り込んだ不審者に、驚いて吠えるワンちゃん^^;


本来、山岳修験道は山岳での厳しい修行と、自然からの気力・神力を体内に取り込み、悟りの境地を得ようとするものです。全国各地の霊山を駆け巡る個人の修験道は明治の禁止令により禁じられており、それを生すことは、国に逆らって世捨て人となり、人里離れた山中に庵や草庵を営むのが精々になってしまいます。
山岳修験道に励みながら、民衆と交わったり教導しようとするには寺院を開基して運営する必要がありますが、これが非常に困難な道のりになっていました。それを生すためには、天台宗・真言宗の一員になる必要が出てきます。永安寺真言宗・醍醐寺派に属しています。
画像永安寺 本堂入り口

そもそも、最澄(伝教大師)が開いた比叡山空海(弘法大師)が開いた高野山は正式に国家から仏教の聖地と認められた地です。このため、一部排他的な面はありますが、僧侶の教育研究機関的な要素を強く持っています。
特に比叡山延暦寺・天台宗四宗兼学と云われるように、法華経を中心に置きながら禅や戒(律宗)、念仏、密教の要素も広く取り入れており、総合的な研究教育機関と言えます。このために現在にも残る宗派の開祖、良忍(念仏宗)・法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・栄西(臨済宗)・道元(曹洞宗)・日蓮(日蓮宗)などが輩出されています。
これに対して、高野山真言宗は密教に特化した面が強く、前者のように多種な教祖の発生は見られませんが、流儀や解釈の違いによることや前述の山岳修験道を受け入れることによって、多くの流派が出てくることになります。

真言宗と聞くと僕も含めて皆さんが連想するのが、高野山・金剛峯寺・弘法大師(空海)といったあたりです。
実を云えば空海は62歳で病没したのですが、高野山では肉体が滅んだだけで、奥の院で入定(禅定)している、つまり永遠の禅修業に励んでいるとしています。一応、火葬説と即身仏の二説が存在していますが。。
ちなみに高野山と金剛峯寺は今は分けて観られますが、平安期には金剛峯寺は高野山の一部として、金剛峯寺=高野山として扱われ東寺(教王護国寺)長者として高野山を管理していました。

空海の廟所内は非公開。更に廟所内の岩扉と石棺を開けたという記録は史上一度だけ。今昔物語に書かれているのですが、延喜21年(921年)醍醐天皇が空海に諡号・弘法大師を追贈した際に、高野山を管理していた東寺(教王護国寺)の長者・観賢が高野山金剛峰寺の空海の廟所に報告に向かい、岩窟である御廟の石扉を開いて石室へ入ったとしています。その後の観賢が「大師(空海)が生きているように、光輝いた姿で現れて、座るお姿があった」と述べています。この辺りから空海が入定しているとなったようです。
日本後記では、空海死去の報が遅れ、朝廷からの喪料の使者が荼毘に間に合わなかったと書かれています。空海の師匠・恵果は中国で荼毘に付されており、空海の跡を継いだ真然の骨壺が近年確認されています。これが火葬説の拠り所。
入定・入滅の真偽はともかく、高野山では空海は生きており、日に2回、弘法大師に食事を届ける生身供(しょうじんぐ)が行われていますが、担ぎ手の二僧と維那(ゆいな)という仕侍僧となった高僧の三人が廟所に向かい、維那が廟所岩窟内に入って食事を届けますが、廟所内の様子の口外は絶対禁止で不明。
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永安寺本堂内 御神籤
何年振りかでおみくじを引きましたが、結果は吉、でも内容はまずまず^^V


開祖・弘法大師があまりに超越しすぎた存在のために、大日如来・弘法大師への信仰は各寺院で共通しています。空海は唐に向かう前は山岳修験者の面が強く、全国にも多くの伝承を残していることから山岳修験者にも信奉されています。しかし、反面雑多な信者が集まることによって派閥が起き、教生が統一されず多くの分派が派生・独立することになります。現在でもその数は50を数えると云われています。

真言宗の有名寺院を訪れると、どの寺院でも総本山・大本山・別格本山などの記銘の門柱を見ると思いますが、どれがホントの本山と思うでしょうが、実は真言宗の各宗派の総本山・大本山になるわけです。金剛峯寺も高野山真言宗派の総本山というわけです。中には真言宗醍醐寺派のように派内で醍醐寺が総本山でその下に大本山6・別格本山18・準別格本山9、更に別院・一般寺院とランク付けしている派がほとんどです。ちなみに永安寺は醍醐寺派の別格本山になります。

そもそも、なんでこんなに宗派が分かれてしまっているかと言えば、前述の様に開祖が偉大過ぎるために後継に目立った人物が出なかったこともあります。また、山岳修験者など雑多な人間が多くてまとまらないという状況が続いたこともあります。更に開祖は死なずに修行中なんですから、高野山が聖地として中心地になるはずですが、空海が金剛峯寺建設途中で他界してしまったことと、険しい山間地のために費用がかさみ、遅々として進まなかったことが要因です。長らく東寺が管理者になったために、完成後には根本道場のある東寺と空海の廟所・高野山が反目したということも影響しています。東寺が残す御詠歌「身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」を聞けば、東寺のプライドが解るというもの。
天台宗では比叡山・延暦寺が最澄在世中に、はっきりと聖地・最高位・根本道場を確立していたのとは対照的です。
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おみくじは「吉」 「このおみくじにあう人は 心を正しくすれば 世に出 幸せを得る 悪心あれば事成らず ただ神仏に念じ 自分に恥じない 日々を尽くせば 前途は明るい」 内容もまずまずですが、実践は難しい^^; 


更に真言宗の有名寺院をいくつか挙げて観れば、大覚寺・仁和(にんな)寺・勧修かじゅう)寺・妙心寺など、この四寺に共通するのは宮門跡(みやもんぜき)の寺院ということです。宮門跡というのは親王家・摂家・足利将軍家が住職として居住する寺院です。妙心寺は皇女や貴族の息女が入る寺院で比丘尼御所とも呼ばれます。更に真言宗には醍醐寺五門跡(三宝院・高野山報恩院・金剛王院・理性院・無量壽院)が親王・公家が入る門跡寺院となります。

醍醐寺五門跡の三宝院門跡は醍醐寺座主を兼務しますから実質醍醐寺の頂点・管長になります。ちなみに三宝院は山岳修験者の当山派を統括する寺院で、真言宗山岳修験者の頂点でもありました。ちなみに天台宗山岳修験者は本山派として聖護院に所属していました。江戸時代は山岳修験者はどちらかに所属することを義務付けられていました。永安寺が真言宗醍醐寺派に所属するのはこの故事からともいえます。しかし、所属数と実数の差から無所属も相当いたようですが。。

他宗にも門跡寺院は多くありますが、最多の天台宗は比叡山延暦寺を頂点として確立しています。天台座主は太政官が任命しますから延暦寺に朝廷からの影響はありますが、延暦寺が頂点であることは変わりません。浄土真宗は門跡座主不在を狙って青蓮院から独立していますから、宮門跡を始めとする門跡寺院の影響力が突出することは多くありませんでした。

宮門跡には前述の様に摂家や足利将軍家から入る寺院もありますが、その中で親王家のみが入る純粋な宮門跡寺院が、大覚寺・仁和寺・輪王寺(りんのうじ・天台宗・日光)になります。
大覚寺は嵯峨天皇の離宮を寺院に改めたものですが、後宇多法皇が院御所として院政を行っており嵯峨御所とも呼ばれています。後宇多の父・亀山天皇に因んで南朝の大覚寺統という名の起因になっています。このように朝廷とは密接な関係にある歴史の舞台にもたびたび登場する宮門跡の寺院でした。例外としては足利義満の子・義昭(尊有(たかもち))が座主になったのが唯一の例外です。

仁和寺は光孝・宇多天皇によって開基された寺院で、宇多天皇出家譲位後は、宇多が住まいとしたことから御室御所とも呼ばれていました。その後、宇多天皇の子孫が住職を務めていましたが、三条天皇の子・性信が検校として入ってから宮門跡として皇族が入る寺院になっていました。例外は摂政関白・九条兼家の子・法助、足利義満の子・法尊がいますが、共に准后で準皇位格を有していました。

空海は他宗の開祖と同じく自身の修業を優先した面が強くあります。当然ながら、弟子たちに対しても個人の修業を優先することを求めています。テンデンバラバラに個人修業を優先すれば、教団としては秩序や規律が乱れがちになりますし、当然一般民衆への教生も遅れることになります。
ここで現れたのが覚鑁(かくばん、興教大師)で、当時は東寺が高野山を管理していた時代ですが、高野山は衰退状態で綱紀の粛正と一般への教生が求められていました。覚鑁は真言宗内でも空海以来の学僧と期待されていた人物です。以前紹介した曹洞宗の瑩山・蛾山、浄土真宗の蓮如に匹敵する中興の祖といえるんですが、結局は瑩山と同じように独自の道を歩んで真言宗を大きく二派に分けることになります。

それまでの真言宗の教義には「現世の一時一物(あらゆる出来事)は法身(大日如来そのもの)がもたらす説法だ」という考え方でした。つまり世の中の出来事は空から見ている大日如来が、現世の人々に対して起こす戒めやご褒美の言葉なんだよ。と、いうものでした。その説法(眼に見えないもの)を感得する為に、自身の智力・体力・胆力を磨かなきゃいけないというわけです。

ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教のエホバ、イスラム教のアラーのような存在が大日如来で、世の災厄や喜びは神の説諭(説法)の具現化したものだというわけです。神様の姿は見えないが、そうやって我々に教訓を与えたり、災厄という罰を与えるんだというものです。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では神の啓示や教訓として、タナハ・ミクラ-・タルムード、旧約・新約聖書、コーラン・モーゼ五書といったもので規律や行動規範を拘束して実践することを求め、あるいは強制することで実践しているのです。このことは秩序を保ち、かっちりした実践主義につながり、化学実証主義にもつながるわけです。ところがオリエンタル・アジアではこの秩序優先・強制主義を嫌う傾向があります。日本では協調や曖昧さが優先することも多々あります。

覚鑁が提唱したのは、大日如来の説法は重要だが、それが眼に見えないのでは、全員が空海様レベルにならないと無理。そもそも仏教・密教は民衆のためにあるのだから、一般の人に対して解りやすく曼荼羅や僧侶の言葉として大日如来の説法を伝え導く必要がある。その為には僧侶は自らの行動規範を整え、智力・体力・胆力を以て人を導く指導力を持たねばならない(加持身説)。個人主義から人導主義への転換を図ったわけです。

鳥羽上皇の帰依を受けた覚鑁が金剛峯寺の座主となり、高野山は発展を加速し整備されたのですが、、当然ながら、聖地としての自負のある整備された高野山とそれまでの管理者である東寺の関係が、教義まで加わって悪化してしまいます。又高野山内でも意見が二分されてしまいました。
結局、責任を取る形で覚鑁は山を下り、紀伊の根来寺を拠点に移し大いに発展を遂げます。戦国末期には寺領72万石、近くには雑賀の庄も抱え、一大鉄砲軍団、根来衆・雑賀衆は勇名を轟かしています。
豊臣秀吉の雑賀攻めで衰亡しますが、関ケ原後に根来寺にあった智積(ちしゃく)院が京都東山に再興され本拠を移しています。ややこしいのは智積院は別名・根来寺なんですが、地元の根来寺はその後紀州藩の援助で再興されたのですが、真義真言宗はとして別派をたてていて、根来寺は別派で二つ存在しているんです。。

更に、戒律を重視する真言律宗(西大寺・宝山寺など)も独自の道を進めています。古義・新義・真言律宗の三派から分派・枝分かれしているのが真言宗の実態です。

江戸幕府はそんなバラバラでは困るので禁制を出してある程度の統一を図って、檀家(寺檀)制度で収入の安定化の見返りに、幕府の禁制の元に監視下に置いていました。ところが、明治になると政府は金剛峯寺を真言宗の管長としますが、まとまらず多くの寺院が離脱してしまいます。その後政府の命令で東寺を総本山にしますが、分離独立の嵐はやみませんでした。更に神仏習合の施策で、寺領の召し上げで無住寺院が続発したために、文化財保護の観点で集約が検討されていましたが、昭和14年(1939年)政府命令で真言律宗を除く真言宗を大真言宗として強制的に統一させていますが、結局、戦後には分離独立が相次いで新組織・新宗教(真如苑・ 弁天宗・他)まで出現して約50の宗派組織が存在します。

新宗には弁財天・勧喜天や霊能者を重視する物もありますが、基本的には大日如来・弘法大師をメインに置くもので教義的にも新義・古義・戒律重視といった具合に全く反するというわけではなく、歴史経緯や由緒・寺格が離合集散のの大きな要因になっています。
現在は昭和33年(1958年)、古義・新義・真言律宗の主要な16派、18総・大本山によって各山会(真言宗各派総大本山会)が結成されて、連絡・交流・親睦・共通事業のために運営が行われています(事務局は智積院)。さらに真言宗の最高位として「長者(大阿闍梨)」が1年交代で選出されています。
画像
永安寺 本堂内
本堂内で、住職の御母堂さんにいろいろなお話を伺いました。一番強調していたのは、仏道というのは仏教を教訓にして自分を磨くもので、寺院は手助けをするものだということ、永安寺は真言宗としているけど、宗教・宗派なんてどうでも良いんですよ。と強調されていました。
御母堂さんを話していたらすっかり長居をしてしまいました。前日まで祭り事があったそうで、たくさんのお菓子や果物をいただいてしまいました。初訪問の寺院でお土産を貰っちゃうなんて初めての経験でした。ありがとうございました。


旅行日 2018.04.02

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この記事へのコメント

  • tor

    つとつと様完全復活ですね。とても参考になりました。正直途中で混乱しましたが…。これからも楽しみにしています。
    2018年07月09日 20:33
  • 家ニスタ

    わが家も真言宗ですので、親しみがありますね。豊山派です。
    豊山派の本山は長谷寺みたいですね。
    長谷寺には以前行ったことがあるのですが、そのときは本山という意識はまったくなく、ふつうに観光しました。
    高野山にも行ったことはあるのですが、けっこう駆け足で見てしまったので、また行ってこないといけませんね。
    2018年07月09日 22:38
  • つとつと

    torさん
    やはり宗教話はちと面倒な感じです。取り留めなく書いたので、あまりまとまりのない文章になってしまいました^^;
    真言宗は密教が主体ですからくらく怖いイメージがありますが、境内の中にはいろいろな仏教構築が多いので、見学には最高の寺院です。
    2018年07月10日 09:08
  • つとつと

    家ニスタさん
    そうでしたか^^;真言宗でしたか^^;
    豊山派といえば、新義派ですから根来寺・智積院との関係も深いようですね。
    紀伊の根来寺は未訪地で是非一度行ってみたいと思っています。
    関東には護国寺(西新井大師)という大きな寺院がありますから、関東の方には多いようです。真言宗寺院には有名寺社が多いのですが、宗教色が強く出ていないのが好感を感じます。
    僕の子供時代、毎年初詣に行っていた倶利伽羅不動尊は高野山真言宗でした。僕も高野山は駆け足でしたから、一度ゆっくり観てきたいなあと思っています。
    2018年07月10日 09:29
  • がにちゃん

    実家は、母が亡くなった時に浄土宗から建仁寺に変わりました  ただ友達が建仁寺のお坊さんだったから墓をそこに院に建てたなぁ~んて簡単な理由で 
    これを読んでいると・・・簡単に変えすぎたのかなぁ と思ってしまいますね
    2018年07月11日 15:59
  • つとつと

    がにちゃんさん
    江戸時代に住んでいる場所で宗派が決まってしまう檀家制度のせいで、家の宗派やお寺はなかなか変えられないんです。いろんな宗派のお寺を廻って、見学したり成り立ちを聞いていると、どれも一長一短で、それ以前に住職さんの人柄が一番なんじゃないかと思うようになってきました。
    宗派を気にする人が多いですが、永安寺の奥さんみたいに、信仰のお手伝いというくらいが一番だと思えてきました。寺の決まりとかやれ修繕費だとか、作法があ~~だこうだとうっさい寺の坊主は逆に信用できませんねえ^^
    2018年07月11日 20:32
  • ミクミティ

    いや~、本当にお詳しい。私も各地の寺社仏閣へ訪れるのが好きですが、これほど深い見識で参拝したり見学したりしてません。勉強になります。
    確かに仏教の宗派の多さには驚きます。それぞれ似ているようで違いますし。
    まさに真言宗もそうですね。数年前、高野山へ行き宗教都市としての重みや歴史に圧倒されました。あらためて思い出されます。
    前回の記事の大聖歓喜天も参考になりました。4月に熊谷の妻沼聖天山へ行ったので。
    2018年07月11日 20:58
  • つとつと

    ミクミティさん
    北陸という地は今は地味で暗いイメージがありますが、古代は朝鮮渤海の玄関口で、江戸期には北前船の船主が多く他国への流通で発展した明るい地でした。
    仏教各宗派にしても、曹洞宗・浄土真宗・戦国期の日蓮宗など本拠地が多く置かれていました。更に白山・石動山といった山岳修験道系もあって、宗教が身近だったということがあります。僕の家は真宗ですが、初詣には山岳系の倶利伽羅不動に行っていましたから、、、、あまり宗教に抵抗感がないというか、歴史ものを読んだり観たりするとどうしても宗教や神道が絡んでくるので、ついつい調べてしまうというのがありますねえ^^;
    熊谷の妻沼聖天、熊谷に親せきが居て、行ったときに何度か見ているんですが、武蔵での人気は開基の斎藤実盛と共に高くて驚きます。ついに国宝になりましたからねえ^^そうそう、斎藤実盛の墓所は石川県加賀市にあるんですが、平家物語や源平盛衰記の舞台にもなっています。

    2018年07月12日 10:17
  • yasuhiko

    山岳修験道の実態とは、
    大体そのようなものなんですね。
    高尾山に登って、ここは仏教と神道と、
    どちらがメインなのかと、途惑った
    事があります。永安寺の由来記に頼らず、
    その疑問点をご自分で掘り起こされてる
    点が素晴らしいと思いました。
    2018年07月14日 11:41
  • つとつと

    yasuhikoさん
    江戸時代までは、神仏混交で神社なのか寺院なのか解らないものがほとんどでした。
    そもそも日本は神道というより、自然崇拝が最初で磐座や神木をご神体にしていました。、そこに地域の神を祀るようになり、日本書紀や古事記の神々が登場するようにした国家神道が登場してきたんです。更に仏教を導入してきた経緯があります。
    それぞれをうまい具合に自分たちに会うように造っていますから、曖昧さと独自の変更を加えていくのが日本の宗教です、中には景教や道教の影響も見られますから。。
    それでも高尾山もそうですが、仏教色が色濃く残ったり寺院でも神様が優先されたり、他国の仏教者が観ると卒倒するような世界ですねえ^^だから面白いというのもありますね^^
    2018年07月14日 19:05

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