奥野八幡神社

能美市の中心地・寺井地区は古代は広大な平野の真ん中に忽然と存在した丘陵と平坦地でした。
古墳期にはこの丘陵地帯に多くの古墳が築かれており60基以上の存在が確認され能美古墳群として国史跡に認定されています。しかし、戦後の高度成長期に市街地化のために丘陵地が掘削されて消滅しており、実際には150.200以上の古墳が集積されていたと推測され、日本最大級の古墳群であり、一大勢力が存在したと思われます。
画像奥野八幡神社 一の鳥居 表参道
平安初期に加賀国が成立した際にも、能美郡に五郷(村)の臨時集合地となる寺井市(いち)が置かれたと云われています。平安期には加賀の中心地ということもあり荘園が点在して勢力争いも垣間見られますが、この寺井市が商業市場として緩衝地の役割を果たしていたようです。この辺りのことは奥野八幡神社の縁起にも書かれています。
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奥野八幡神社由緒

御祭神 応神天皇 比売大伸 神功皇后 武甕槌命 比咩大神 天小屋根命 経津主命 少彦名命 高良玉垂命

千数百年の昔、能美丘陵に墳丘を築き祖宗を祀る豪族がいて、この地にも村があった。

九世紀、加賀立国の時、五郷二駅で能美郡が置かれ、郷が寄り合う寺井市が開かれた。

中世この地が畿内の岩清水八幡や南禅寺などの荘園になり各郷それぞれの争いを、商いで解決し、荘園ごとの均衡を保ったのも、この寺井市があったからといわれている。
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十四世紀の初めから、臨時市が定期市に発達し、商い店が建ち人が住んで町に発展し、住む人それぞれが、奥乃社・八幡社・春日社・少彦名社など一族の信仰する神様を氏神として屋敷内に祀り、商売繁盛や災難消除を願い、開運招福を願ったという。
この屋敷神の由緒や神々の伝説も風化していく中で、奥乃社は十四世紀の中頃、南朝に仕えていた結城氏の家臣佐次右衛門が、奥城に創祀したと伝えられている。

江戸時代、北板津郷を差配した十村の牧野氏は、奥乃社を郷内三十六ヶ村の惣社と定め、北国街道寺井宿の鎮守にしている。
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明治になって奥乃社を奥野八幡社と改め、明治四十一年四月寺井地内の五社を合祀して寺井一ノ宮奥野八幡神社となって今に及んでいる。
寺井に住む氏子たちは、この一ノ宮を守り、家毎にお礼をいただいて児孫とともに祭りを続け、生業繁栄・家内安全を祈っている。


右上:奥野八幡神社 表参道
右中:表参道脇 境内広場
右下:表参道 手水舎

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奥野八幡神社 天神祠堂 御神木

弘仁14年(823年)越前国から割譲する形で加賀国が誕生しました。加賀国には北の現在のかほく市から、加賀郡・石川郡・野身(能美)郡・江沼郡から構成されました。この中で野身(能美)郡野身郷、軽海郷、山上郷、山下郷、兎橋(うはし)郷の五郷から構成されていました。能美郡の役所となる国衙(こくが)は野身郷に置かれていました。ちなみに発足時の能美郡は、現在の能美市全域・小松市の8割、白山市の手取川・尾添川の左岸になります。
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また、北陸道の駅として、安宅(あたか)駅・比楽(ひらか)駅が存在しました。安宅は勧進帳で有名な安宅関があった安宅湊、比楽は比楽河から来た名前で、比楽河手取川の古名になります。手取川の河口にあった本吉湊(後の美川湊)の古名になります。ともに伝駅・駅湊として古代から役目を果たしていたようです。

野身がいつ頃、「能美」に変わったのかははっきりしませんが、加賀国建国時が有力とされています。
元々、能美の地は前述の古墳群が示すように、古代から政治拠点があったと思われますし、西に日本海、東に白山、北に丘陵地帯・手取川、南に広大な平野部と、自然にも農業殖産にも恵まれた地でした。加賀国建国に際して「美しき能国(よきくに)」から、良い意味の漢字をあてたのだと云われているそうです。

平安期以降は、加賀は多くの有力寺社や皇室領の荘園になっていたのですが、この為に地区(荘園)ごとで、流通や自衛が分散していたというのが実情で、地域間交流が希薄になっていました。
文中の寺井町を中心にした南禅寺領荘園、長野・能美・一針の現在の寺井北から梯川の北岸にかけての北小松の「能美三荘」と呼ばれた石清水八幡宮領荘園、その他にも東大寺領、白山神社領といった寺社領荘園が目立ちますが、他にも花山天皇・法皇領など皇族領が点在します。これらの荘園領は、反目警戒が強く、地域間交流や物流に支障をきたしてしまいます。この能美郡内の地域間の物流を支えたのが、寺井市てらいいち)の開設でした。                                奥野八幡神社 拝殿前狛犬像
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全国には一日(朔日)市・二日市・三日市など日にちに市を冠した地名が多く観られますが、これらのほとんどが昔、市場が置かれた場所や地名になります。中に三重の四日市、新潟の六日市・十日市のように大きな市町名に出世したものもあります。一~十まで全国各地に点在します。中には廿日市・晦日(みそか)町のように日を完全に指定する物もありますが、、基本的には定期市場の開催日を表すもので、例えば八日市なら8のつく日に開催されていたということです。

他にも県内には馬の市場となっていた野々市や寺井町のように市が地名になったものもあります。僕の生活圏に五歩市町がありますが、こちらは五分一(税率から来たと云われています)が変名したと云われていますから別物ですね。

寺井市も前述の定期市で能美郡内各地からこの地に人が集まり、臨時市から発展して定期市が開かれていました。この市場が置かれたおかげで、この地が能美郡の中心地として認識・記憶されたと思われます。
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右:表参道手水舎側の狛犬像
揮毫によれば、明治36年(1903年)8月建立 醤油業50周年記念の寄進物


由緒書にある奥野八幡神社の名の由来となる「奥乃社」。南朝に仕えていた結城氏の家臣・佐次右衛門が寺井に居住し、奥城に創祀したと伝えられている。
この奥城という城ば、寺井とはあまり縁のなさそうな場所ですが当時は同じ能美郡、小松市の最山奥ともいえる大杉町に「里山自然学校みどりの里」裏に登山道がありますが、奥城山(515m)の頂上に築かれた城で奥城(山崎城)になると思われます。 城の形跡は少しの土塁程度であまり見られませんが、浄土真宗八代・蓮如の弟・蓮照所縁の円光寺発祥地が途中にあります。 goさんが以前UPしていました。 goさんのブログ ⇒ 蓮如上人お杖の名泉と圓光寺発祥の地
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左:牧野傳三郎顕彰碑 牧野傳三郎は寺井(北板津)十村(とむら)役・牧野孫七の末弟、文政9年(1826年)生。丁々洞、由之または逸美と号した。詩歌・雅名を玉潭と称した。和歌、俳句はもとより、華道、茶道、書道、囲碁、謡曲の大家でもあった。(能美市HPから抜粋)。 北板津十村役は35村5000石の大庄屋(領主)になります。父の孫七は、幕末・明治初期に寺井町の行政・産業振興に、傳三郎は文化面と寺井町発展に大きく貢献した親子です。


南朝方の結城氏ということは、終始北朝方の本家筋の下総結城氏ではなく、北畠顕家の側近として活躍した庶流の白河結城氏と思われます。ただ、上洛戦や奥羽平定で活躍した結城氏の家臣が、北陸にどう係わったのかは不明です。それにしても同じ能美郡とはいえ能美郷と大杉の山では、全く違った地域で江戸期の寺井村十村役・牧野家奥乃社を勧請した経緯は勉強不足で不明。。
ブログを書いた後で神社庁の由緒を見たら「吉野朝の忠臣結城宗広の守護神を授かった佐次右衛門が北国に下って寺井に居住。寺井の奥城に奥乃社を奉祀したのに始まる。」となっていました。となると奥城は、寺井にあった丘陵地になるのかも、、でもそんな地名や由来は聞いたことなし。。。
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奥野八幡神社拝殿 寺井町は幕末から明治、昭和初期にかけて、九谷焼の産地・輸出元として発展していました。その最盛期、昭和6年(1931年)に社殿改築のために社地が拡大されました。しかし、戦争によって延期を余儀なくされ、昭和31年に奥殿(神殿)、昭和38年に幣・拝殿が完成しています。規模の大きさが全盛期の寺井町の隆盛を偲ばせます。


白山勢力を追いやって浄土真宗が支配下に治めるようになった戦国時代は、戦乱の渦は能美郷の寺井の地にも影響を及ぼします。寺井はこの時期は真宗・越前超勝寺勢力下で、寺井から1.2キロ東方の和田山城を築いたのも超勝寺勢力と云われています。
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初期には越前・朝倉氏、加賀・富樫氏、加賀三か寺・越前超勝寺の真宗一向勢力は何度も離合集散を繰り返しています。一向宗の内部抗争となった大小一揆では超勝寺が本願寺の大一揆側、残り三者は小一揆派として共同戦線を張りますが、朝倉家の名将・朝倉宗滴が和田山の城を一時占拠・手取川合戦でも勝利するなどしますが、津幡の戦いで大一揆が逆転勝利。その後は加賀一向宗は本願寺直接支配、富樫氏は衰退して最終的に滅亡。朝倉氏は吉崎御坊を攻め落とし越前の基盤を固め、一向勢力との抗争を続けますが、一進一退の越前防衛に徹しています。
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戦国末期、天正8年(1580年)織田軍の柴田勝家の北陸方面軍が金沢御堂を落とすと、一向宗最後の拠点・鳥越城攻略の前線基地として和田山城に安井左近家清が入城しています。ちなみに和田山城は和田山古墳群を利用した平山城で、古墳群が国史跡になっているので整備されているので、空堀や古墳の櫓台など分かりやすい城跡です。和田山城は監視面が強い城のため居住区に限りがあるため、安井家清は近くに寺井城を築いて指揮を執る傍ら、町場を作って整備を図ったと云われています。寺井宿へと発展する先鞭は安井家清が執ったと云えます。
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安井家清は2年後には丸岡城に2代目城主として入城しており、寺井城はそのまま廃城となったようです。郷土史家・日置謙(へきけん、昭和16年著)・加能郷土辞彙には「寺井城 能美郡寺井にあった。質永誌にこの村領に城跡があって安井左近といふ者が居住したといふが、今は田地となって居るとある。」
天正11年、安井家清は賤ケ岳の戦いで佐久間盛政配下として従軍、大岩山・岩崎山進出の先鋒となり討ち死にしています。
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左・昭和40年(1965年)寄進燈台

江戸期には手取川を渡った後の小松への中継も宿場町として粟生宿と共に賑わっていました。また、白山参拝の岩本宮・岩本の渡しから白山本宮に向かう街道宿として白山詣での客でも賑わったと云われます。

幕末から明治初期、欧州で一大九谷焼ブームが起こり、その後の昭和期まで海外に輸出された九谷焼の中心地はこの寺井の地になり、寺井町の発展は前述の十村役・牧野家と九谷焼によるところが大きかったのです。
戦後、一時低迷しましたが、昭和を通して寺井九谷焼は一大生産地として栄えました。

平成17年(2005年)、根上町・辰口町・寺井町と合併して「能美市」になっていますが、それまでスポットが点在分散して、県内でも地味に観られていたのですが、、、根上の海から辰口の丘陵地帯まで自然豊かで、歴史文化もあり、いしかわ動物園、丘陵公園など家族の憩いの地も。。合併して住み心地のよさそうな町に変わった成功例でもあるかも。。今年は順位を落として19位のようですが、昨年・昨昨年の全国住みよさランキングでは9・10位とベスト10に連続で食い込んでいます。
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中央:九谷神社 右の円柱が九谷庄三記功碑

明治期に欧州で九谷焼ブーム(ジャパンクタニ)を起こした輸出品の中核になったのは佐野窯・斎田道開(さいだどうかい、斎田伊三郎)、庄三工房・九谷庄三(くたにしょうざ)の活躍で、その多くはこの地から産していたものでした。ちなみに、この二人は佐野、寺井、能美九谷の祖と云われています。毎年5月に泉台の九谷陶芸村で開催され、入場者20万人以上と云われる寺井九谷茶碗祭りの開会前には、若杉町の慰霊碑で本多貞吉斎田道開が祀られている陶祖神社(狭野(さの)神社内)と九谷庄三の祀られている奥野八幡神社で慰霊祭が行われるのが恒例になっています。始まりは佐野九谷の蔵出しの総ざらえ市(処分市)を狭野神社の境内で行ったのが始まりでした。

加賀藩12代・前田斉広が金沢の卯辰山に古九谷の再現を狙った春日山窯を開窯した際に招聘したのが、京焼き画家・青木木米、島原出身の陶工・本多貞吉と数人の陶工でした。加賀藩の目的としては古九谷の閉窯以来、目ぼしいものでは茶道具の大樋焼きくらいしかなく、他藩に頼っていた食器類の藩出費の節約・食器産業の育成、失業対策が目的でした。ところが文化の大火以降、大量生産を望む藩と芸術家肌の木米は方針が合わず、木米は京都に帰京します。残った本多貞吉が春日山窯を継ぎますが閉窯。能美小松の林屋八兵衛の元に移った本多貞吉は若杉窯を開き、九谷焼の基盤で現在も使われている花坂陶石を発見して発展させます。古九谷の最大の欠点、白の発色、破損性の高さがこれによって克服されたのです。この陶土発見は県内の各九谷焼に広まって行きます。若杉窯が火災で焼失した際に、隣町の八幡に工房が移った時期があり、その後の小野窯になりますが、小野窯が得意としたもう一つの九谷焼の顔とも云える獅子や仏像などの立体焼き物が可能になったのもこの陶土の発見によります。若杉窯はその後、藩営となり職長として本多貞吉は責任者となり、信楽、京都、平戸の陶工も集めて芸術性を高め、現代にもつながる再興九谷の祖となっています。

再興九谷は加賀江沼・能美若杉、八幡・金沢から始まったともいえますが、その多くは窯元として、素焼きから作画・絵付けまで最初から最後までを一括生産するものでした。しかしこの製法は当然ながら、一つの作品が出来上がるまでに幾つもの行程を重ねる焼き物には芸術性では利するものの大量生産には向きませんでした。
瀬戸焼や肥前伊万里焼が日本では先駆けと云われますが、素焼きと作画・絵付けを分担専業にすることによって大量生産が可能になってきたのです。特に瀬戸焼が江戸期に急浮上した大きな要因がこの分担専業制でした。斎田道開・九谷庄三がこの分業制に着目して能美九谷の分業制が進み、大量生産による輸出でジャパン・クタニのブームで活況を呈します。

斎田道開・九谷庄三ともに作画師として当代一流の名を持っていました。
斎田道開は佐野村で生まれ、16歳で若杉窯で本多貞吉に製陶を学び、5年後に山代九谷で南京写を習得して若杉窯に戻り赤絵技法を学んでいます。本多貞吉没後、清水焼で製陶・着画を学んだのをはじめ、肥前・伊万里焼で製陶、築窯、焼成法を修め、丹波、美濃、尾張なども見分して36歳で若杉窯に戻り習得技術を伝えて発展させています。また、隣の小野窯にも赤絵技術を伝えています。40歳で佐野村に帰って独立、佐野窯を開きます。更に赤絵の発色をもたらす2度焼きを行い鈍い赤色を深紅にまで引き出す技術も開発。傍らで作画塾を開き門弟を多く抱えます。佐野窯が軌道に乗った後、素焼き窯を独立させ、分業専業が進み産業九谷としての能美九谷・佐野窯の後継者が多く出ています。佐野窯は明治30年で閉窯していますが、その後も陶工・画工がこの地に育ち、九谷資料館や陶芸村が現在も置かれ中心地になっています。
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九谷庄三は元の名は庄七で、若い頃のことはあまり知られていません。道開と同じく若杉窯で上絵付の陶工から始めています。その後小野窯に移り、作画の名人・粟生屋源右衛門の影響を強く受けています。当時は赤絵中心に色絵細描が目立っていたと云われます。32歳で庄三に名を改め、35歳で寺井に戻って工房を開き、小野窯の素焼きに絵付けをしていましたが、徐々に粟生屋の楽焼の影響を受けながらも、顧客に応える色を増やす永楽風に変わって行きます。更に独自の錦窯を作り、分業制をはっきり打ち出し、画工200~300を超える工房として大量に製造する専業に移行していきます。庄三の大きな貢献とされるのが、産業開発もさることながら、洋絵の具をとり入れた鮮やかな多色という斬新さに能登呉須という黒色の使用によるメリハリにあります。この能登呉須を発見したのは若杉窯の三田勇次郎ですが庄三も随員しています。その関係でクロスの研究には並々ならぬ努力を払い、その成果は現代九谷にも受け継がれています。
しかし、没後は庄三に変わる指導者が現れず、工房は消滅しますが、寺井には多くの作画・陶工が独立開業しています。

奥野八幡神社には注目すべき遺構物があります。それがこの七重の石造の塔。案内板には。。
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能美市指定文化財 建造物 奥野八幡神社 七重塔 昭和三十三年九月十日指定

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役一五九二~一五九五)の際に前田の臣、某が持ち帰ったもの、また、加藤清正が持参し、前田家に贈呈したもの、との両説がある。
当時は二基対をなしていたとされ、一基は兼六園緑滝の前にある海石塔であると言われている。
前田利常が小松城に移る際、持参愛賞したが、廃藩置県の結果、明治五年に一般に払い下げたのを、寺井村の綿谷平蔵氏が買収し、村民挙げて運搬し、奥野八幡神社に奉納した。なおこの塔の一部(二重)は小松城内にしているとの説がある。

能美市教育委員会

      兼六園 瓢池の海石塔 奥に観えるのが翠滝 H22.3.14撮影
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海石塔というのは、兼六園の元となった瓢池(ひさごいけ)の蓬莱島にあります。ちなみにこの瓢池周辺は加賀藩5代・前田綱紀(利常の孫)が作庭したもので、兼六園の発祥地になるものです。翠滝は安永2年(1774年)に霞ヶ池の水を使用して造られたものです。ちなみに兼六園の海石塔にはもう一つ説がありまして、金沢城内にあった十三重塔の上部だったというものです。小松城に下部が残っているというのはこの説が由来しているのかも、、

確かに形態はよく似ています。ただ、宝頭部の形や柱穴のような部分の数は違いますが。。。比べてみると確かに対の塔にも見えます。

小松城時代からこの対の塔という話は当時から語られていました。小松城は3代・利常の隠居城として、意匠に相当凝ったと伝わっています。そのまま残っていれば国宝級の城でしたが、現在は天守台のみになっています。
明治維新によって多くの城が廃城の憂き目に遭いましたが、小松城もその代表のような城です。明治5年(1872年)小松城三の丸に小松徒刑場(刑務所)が置かれ、廃城令と共に刑務者の懲役として、小松城の破壊が仕事となり、徹底的に行われました。その際に門などの一部が一般に払い下げられていますが、この塔もその時の払い下げになったものです。小松城の利常時代を伝える貴重な遺物です。
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ついでに、境内を歩いていたら珍しいものを見つけました。戦中を知ってる方には、嫌なものかもしれませんが・・戦時中の戦勝祈願の寄進物「七生報国」。裏面には「君が為に 散れと教えて 己れまつ 嵐にむかふ 寺井野の里」 表はお馴染みの標語ですが、裏は悲しくも我が子を思う言葉です。
戦後、GHQの占領下、平和主義の下に、こういったものはほとんどが撤去されていますが、こうしてキレイに載っているのは珍しいですね。。

語源は太平記で、湊川合戦の後、楠木正成・正季兄弟の最期に、、、
正成「人は死ぬ間際、その最後の一念によって、句会の世に生まれ変わるという。九界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩。。九界のいずれに生まれたいと願うか。」
正季「もとより、七度までも人間に生まれ、朝敵を滅ぼす存念です。」
正成「私も同じ思いだ。」
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二人はこの後、お互いを刺して自害しています。ただ、太平記全般を読むと正季の言葉は思いのままですが、正成は同じ人間でも家族と平和に過ごすことを望んだ生れ変りと思わせます。江戸期以降は大日本史の国家に殉死した姿を強調したことから話を擦り替えた形です。
ついでに太平記では人間に生まれることを望んで亡くなった楠木正成ですが、最終の場面では怨念を持った妖怪(怨霊)に姿を変えて、崇徳上皇を筆頭に後醍醐と共に世を乱そうとする眷属になっていますTT

旅行日 2017.06.12

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この記事へのコメント

  • yasuhiko

    能美市は古くは「野身」といい、
    「能美」の字は、後になって割り当てた
    《好字》だったんですね。以前、能美高校って、
    甲子園に出ませんでしたか。その時だったか、
    「能美」とは面白い地名だなと、とても
    印象に残りました。地名の謎が一つ解けて、
    嬉しい気がします。日本でも最大級の古墳群が、
    数を減らしながらも残っているのは魅力的な点ですね。
    2018年07月21日 11:45
  • つとつと

    yasuhikoさん
    能美の古墳群は東の丘陵地にも大規模なものがあって、古代には大勢力があったようです。
    能美には寺井高校しかなくて、県大会はいいところまで行くんですが、まだ未出場なんです。でも、夏の大会になると必ずかかる「栄冠は君に輝く」の作詞者・加賀大介さんが能美郡根上町(現・能美市)の人で、毎回紹介で能美の名が出ますから、きっとその辺りからyasuhikoさんも知ったんじゃないでしょうか。
    でも、誰も最初は読めない地名なのに、ご存知とは^^;
    2018年07月21日 14:31
  • tor

    大きくて立派な神社ですね。久谷神社があるのですね。そして別の場所に陶祖神社があるのですね。先日有田の陶山神社へ行ったばかりでした。九州の有名な焼き物は朝鮮半島から来日した陶工が祖なのですが、久谷は有田からの技術だったでしょうか?
    2018年07月21日 21:22
  • がにちゃん

    恨みをもって死にたくないですね  最後は笑顔で天国へ
    九谷焼 素敵ですね  
    2018年07月21日 21:52
  • つとつと

    torさん
    能美九谷焼では三人の陶工が神様として祀られています。この九谷神社に九谷庄三。狭野神社の境内にある陶祖神社に本多貞吉と斎田道開が祀られています。能美の再興九谷にとっては本当に神様という存在です。寺井の陶芸村に行かれた時はすぐ近くですから立ち寄ってみてください。
    古九谷が創始される前に後藤才次郎が派遣されているんですが、それが有田か唐津か。。文献には唐津が多いようですが、埋もれていた陶片は有田を参考にしたものが多いようです。ベースは有田焼にあったと思われます。ところが残ってる作品は有田とは違うものが多く謎が多いのだそうです。ただ、期間を置いた再興九谷は天草の流れや清水、京焼など素焼きに関してはいろんな場所からの参考があったようです。
    2018年07月21日 23:34
  • つとつと

    がにちゃんさん
    そうですねえ。太平記を読むと最後の方に怨霊が山上で会合する場面が出てくるんですが、後醍醐はともかく、なんで正成までと違和感を持ってしまいます。
    でもやっぱり、怨霊になるのは遠慮したいですね。できれば笑って死ねれば^^
    いうことなしです。
    能美九谷もなかなか良いですよ^^陶芸村はお薦めです。
    2018年07月21日 23:39
  • まだこもよ

    「八幡神社」って うちの地元にもありますね!
    2018年07月23日 08:21
  • つとつと

    まだこもよさん
    八幡神社は神仏混合だと南無八幡大菩薩とか弓矢の武神・弓矢八幡のように勇ましいイメージがありますが、大分の宇佐八幡が本宮で応神天皇と同一とされています。お母さんが神功皇后で、子供や出産の神様にもなりますから、全国的に広まって稲荷神社と競うほどの数、数万以上があると云われています。
    こちらでは八幡様は子育ての神様の意味が強いようです。
    2018年07月23日 15:43

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  • 能美市九谷焼資料館
  • Excerpt: 前々回に奥野八幡神社を書いていたら、やはり寺井の九谷焼陶芸村に行こうか、忘れないうちに、、イヤ行った方が良いかなと。。
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2018-09-06 13:50

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