秋常山古墳

今年は豪雪があって、花の開花や満開は遅れるだろうと、内心期待していましたが、、案に反してあっという間に咲いてあっという間に桜が散り、バタバタしているうちにアヤメは見逃すし、家庭内事情で紫陽花も観に行けず。。。車の窓から見る花ばかり。。ここまで、今年は花とは縁がないかと諦めていたんですが、6月に秋常山に紫陽花を植栽したという情報を聞いて見に行ったのに、アップしないまま1カ月。。。

たまたまニュースで秋常山古墳紫陽花3000株を植栽したと聞きまして、夕方になってしまいましたが、秋常山の古墳も一年近くご無沙汰ということで、一人で行ってきました。嫁さんが昨年に続いて今年も負傷して歩けなくて、、、娘に行こうと云ったら拒否。。ここ2カ月ちょっと、家族では買い物以外どこも行ってないなあ><;まあ、嫁さんもギプスが外れて復活基調。。しばらくしたら、気分転換でどこかに旅行がしたいなあ。。
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今更と云われそうですが、その時の画像を。。。

3000株というと、けっこうな数なんですが、秋常山古墳は名前の通り、古墳自体大きいうえに小山の上にあるので、紫陽花の範囲は広くは見えません。しかも時期が遅れて、しかも陽射しの当たる場所、咲いているのは約半分。。しかも時刻も夕方、紫陽花の花も陽射しで疲れた感じでした。来年はもっと早く来ないといけませんねえ^^;場所は2号墳に登る坂道になります。
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秋常山古墳群といっても二基の古墳から構成されるのですが、実際にはもう一つ隣に稲葉山という山に大型古墳があったと云われますが、戦後の造成掘削で消滅して詳細は不明です。。しかし1号墳は北陸では最大の前方後円墳で注目の存在です。また2号墳は1号墳とは50~100年ほどの開きがありますが、規模は30m前後四方の方墳ですが、山の上に築かれ、位置的には1号墳と同高度になる位置関係になります。1号墳は未発掘ですが埋葬者も同型の和田山5号墳の形態から、王族又は大豪族の支配者と巫女というセットの関係のようです。能登の雨ノ宮古墳・小田中古墳群などのように関係性が近い造りのようです。

以前に古墳の形態や規模についてはアップしていますから、そちらを見て頂ければ。。

2012.11.18 秋常山古墳群      2015.04.22 秋常山古墳 菜の花畑&麦畑
現在は和田山・末寺山(まつじやま)、秋常山と個別の国史跡指定でしたが、現在は他の近接した古墳群も含めて能美古墳群として国史跡に指定されています。寺井山・西山の古墳群を合わせて能美古墳群として国指定史跡に再指定されています。

2号墳上の地図・案内板から・・・能美古墳群・・・能美市内には荒屋古墳群・下開発茶臼山古墳群・来丸古墳群など数多くの古墳が築かれています。なかでも平野部に点在する独立丘陵上の古墳群は総称して「能美古墳群」と呼ばれ、北陸を代表する古墳群として全国にも知られています。古墳群は各丘陵名をとって西から「寺井山古墳群」・「和田山古墳群」・「末寺山古墳群」・「秋常山古墳群」・「西山古墳群」と呼んでいます。これまでの調査で前方後円墳2基、前方後方墳3基、方墳3基、円墳53基の計61基が見つかっており、消失した丘陵部分も含めれば80基程の古墳群であったと推定されます。築造時期は3~6世紀の古墳時代全般にわたり、方墳(和田山)→前方後方墳(末寺山)→前方後円墳(秋常山・和田山)→円墳(全丘陵)の順で墳型と築造場所を変えています。北陸最大の前方後円墳である秋常山1号墳を含むとともに、発掘調査では、木棺直葬・粘土槨・切石積横穴式石室などの多彩な埋葬施設が確認されており、和田山5号墳の鉄製武器・武具類、和田山1号墳の六鈴鏡、和田山2号墳の鈴付銅鏡、西山9号墳の馬鐸・鈴杏葉(すずぎょうよう)など北陸では希少な副葬品も多く出土しています。

馬鐸(ばたく)は銅鐸のような形で馬の首に下げた飾り鈴。鈴杏葉(すずぎょうよう)は三鈴の形態が多いのですが、馬の銅や尻尾につけた飾り鈴。

国史跡になると、それだけ重要遺跡として整備保全作業や誘客にも多大な補助があるため、石川県や能美市も力が入って、良い部分ばかりが強調されます。ここ何年かは話題に上がらなくなりましたが、県も市も自分たちの責任ですから触れたがらないという事情もあります。、あろうことか以前から各古墳群が今のまま独立した存在のように語られています(怒)。
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遠景写真や航空写真で見ると解りますが、能美丘陵は広い平野の中に忽然とある丘陵群になります。そしてその全てといって良い小山のような山上に古墳群があります。実を云えばこの丘陵はもっと大規模なものでした。文中に消失した丘陵部分とありましたが、その消失の原因は市街地や道路の造成のために丘陵を削って平地にしたためです。古墳群の5丘陵地帯も大なり小なり手が加えられています。本来はこの5古墳群は近接していて、各々関連していたと云えます。もっと言えば、文頭の荒屋古墳・下開発古墳西山古墳から1キロもない場所の集落です。関係性は位置的に当然あったと思われます。来丸(らいまる)古墳群はどちらとも言い難い地ですが、やはり物見山古墳を代表にする辰口丘陵古墳群の仲間ではないかと思います。
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画像は能美市のHPから拝借しましたが、汚い字で名を入れましたから、5古墳群の位置関係が解ると思います。そしてもう一枚の水色部分、僕が昔読んだ資料の記憶で書いていますから正確ではありませんが(特に寺井山丘陵)、この水色部分が削平された範囲です。特にひどいのが寺井山で、残っている寺井山は全体の一割に満たないものです。しかも古墳があると解っていながら削ったものが10数基。文中の予想数はそれを入れた数で80基などと言っているわけです。まあ、よくぞ過小に云ったものです。面積や地形を考えれば消失した古墳は100~200以上はあったと思われます。

しかも、能美丘陵群の端部になる寺井山・西山古墳からは弥生末期の周溝墓が発掘されています。西山古墳に至っては周溝墓と古墳紀末期の古墳が綺麗に整列同居していたのです。寺井山も円墳の脇に周溝墓がありました。これを考えれば、寺井山・西山が弥生から古墳期に渡って、同民族が続いた貴重な存在だったことが窺われます。寺井山に関しては、以前画像を撮ったと思うので、整理した時にアップしますねえ。西山は訪れたことはあるんですが、画像がないのでまたの機会に。。
画像秋常山2号墳から南方向 右に見える二つの山が和田山古墳群
戦後、さらに高度成長期、多くの歴史史跡が県や市によって破壊の憂き目に遭っていますが、金沢市では戦国の百姓一揆の国を示す象徴とも云える高尾城址の大半は、北陸自動車道の土取り場として破壊されています。そして、能美丘陵の破壊も。。どちらも、場所や遺跡の存在が解っていながら、事前調査もなしに破壊した確信犯です。本来ならストップをかけるべき教育委員会、学界、埋蔵センターも何をやっていたんだと云いたいですね。
石川県の負の遺産で、県の地方史にとって悔やんでも悔やみきれません。。今更、時代を戻せというわけではありませんが、案内表示に最初から、公的な削平を無かったような記述はやめて欲しいですね。真摯に反省と存在が解る20ほどの消失古墳は示して欲しいものです。
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巫女が埋葬されていたと思われる秋常山2号墳。昭和59年(1984年)、寺井町の踏査調査で、土砂の崩落により玄室がむき出しになって発見されたのが、1号墳の発見にもつながっています。北側が崩落したために、崩落部の土砂を取り除き玄室が内外から観られるようになっています。このため、横から見ると北側の左が低くなっていますが、そこが崩落部分。玄室を頭からも足からも観られる珍しい工夫が施されています。17:00までに来れば、内部から足部側を見学できます。今回はとっくに時間オーバーで見られず。。上記のブログに内部の画像が観られます。
方墳ですが形に段差があるのは北の崩落と西が元々土取場で削られていたため。。
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案内板から・・・秋常山2号墳・・・秋常山2号墳は、南北約27m、東西約32.5m、高さは東側で約4.8m、西側で約2.8mの方墳です。
発掘調査では、墳頂部や斜面から円筒埴輪と朝顔形埴輪の破片が多く出土しており、出土状況から墳頂部の周囲に並べられていたと推測されます。埴輪を持つ古墳は能美市内では初めての発見となりました。
また、墳丘の西側から鉇(やりがんな)、鑿(のみ)、鉄斧などの鉄製工具と砥石がまとまって出土しています。
埋葬施設は、木棺を粘土で覆う「粘土槨」であったことがわかりました。北側を頭にして、頭部付近には刀子・針・竪櫛・滑石製臼石、足部の両側には鉄刀を1本ずつ副葬していました。
造られた時期は埴輪や副葬品から5世紀半ば頃と考えられます。古墳のさまざまな特徴から、1号墳の被葬者と関連があり、生前に祭祀の場で活躍した人物の姿が想像されます。
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秋常山2号墳の埋葬施設・・・秋常山2号墳では、平成16年度に埋葬施設の発掘調査を行いました。整備では、発掘した状況を復元展示しています。
調査の結果、埋葬施設は「粘土槨」と呼ばれる種類のものであることがわかりました。墳丘の中心部に長さ3.3m以上、幅2.5mの四角い穴を深さ60~70㎝程度掘り、中心部をさらに掘り下げて木棺を設置し、粘土で覆っています。木棺は長さ2.6m、幅65~70㎝、高さ60センチ程度あったと想定され、北側に頭を置いたと考えられます。
副葬品は頭側に刀子・竪櫛・滑石製臼石・針がまとまって置かれ、足の両側には鉄刀が1本ずつ置かれていました。

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小松の方では埴輪のあった古墳が発見されていますが、能美古墳群では埴輪の発見はこちらだけになります。朝顔形円筒埴輪も県内では希少な出土になります。現在の展示では古墳上部に円筒埴輪レプリカを並べて立てていますが、破片類は崩落土の中や外郭土の中から出土しているので、実際には古墳の外周に埋められていたと云われています。

2号墳1号墳に向かってちょうど直角の造りになっていて、密接な関係性があるのは確かです。
案内板に略図がありますから、UPしてもらうと、1号墳と2号墳の関係性が一目で解ると思います。
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案内板から・・・国指定史跡 秋常山古墳群 平成11年(1999年)1月14日国史跡指定 平成23年(2011年)3月31日整備工事竣工 平成25年(2013年)10月17日追加統合・「能美古墳群」国史跡指定

秋常山古墳群は、昭和59年(1984年)に発見され、平成3年(1991年)から測量、発掘調査が行われました。
調査の結果、1号墳は全長140mの前方後円墳で、石川県最大、北陸でも最大級となることがわかりました。墳丘斜面には手取川の川原石を並べ、東側くびれ部の造出(つくりだし)からは赤く塗った小型の土師器(はじき)・高坏(たかつき)が出土しています。造られた時期は4世紀後半頃と考えられ、約1600年前、加賀地域の広範囲に影響力を持つ首長が能美の地にいたことを示しています。
2号墳は南北約27m、東西約32.5mの方墳で、墳頂部の四方には埴輪がめぐっていたと推定されます。埋葬施設の発掘調査も行われ、木棺を粘土で覆う「粘土槨」から副葬品として鉄刀・刀子・針・竪櫛・臼玉が出土しました。造られた時期は5世紀半ば頃と考えられます。
秋常山古墳群は加賀地域の古墳時代の解明にとって、欠くことのできない重要な遺跡として、平成11年(1999年)、国史跡に指定されました。その後、平成16~22年度にかけて保存整備工事が行われ、史跡公園として保全されています。

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1号墳東側 造出(つくりだし)
文中の造出(つくりだし)というのは、案内板略図の東側(上部左)前方部と後円部のくびれにせり出した四角の部分です。2段目の斜面途中に平坦部としてありました。そこから祭祀用の赤塗り土器が発掘されており、古墳の祭祀場だったと推測されています。右画像の中央の階段下の左平坦部になります。
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秋常山1号墳は昭和59年(1984年)発見時に北陸に巨大古墳発見として話題なった前方後円墳です。基壇部分(三段目)を含めるかどうかの議論がありますが、整備後の姿を観る限りは三段造りが有力だと思われます。
全長141.0m・後円部径108.0m・前方部正面幅推定67.0m・後円部高さ19.0m、前方部に比べ後円部の大きさが全長の75%以上ある円の面積が異常に大きい造りです。全国的にも珍しい形です・・
この規模は前方後円墳としては全長では石川県内随一、北陸圏でも福井丸岡のの六呂瀬山古墳群1号墳と並ぶ最大規模です。六呂瀬山は後円部が小さく前方部が細長い造りの為、面積・容積では秋常山が勝っています。
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発見時には前方部頭を削平して秋常八幡神社があり、戦前には段々畑が古墳全体に大規模にあったなど、更には後円部の斜面には当地の墓地がありました。表面は大きく変形しており、神社によって前方部の一部が削られていました。国史跡認定を受けて、トレンチ調査と並行して、秋常神社・墓地を移転、前方部の一部復元、緑地化、後円部斜面の復元と葺石の一部復元など手が加えられ、現在の形状になっています。
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後円部の東側、葺石の復元部分 
葺石に使われていた石は、手取川の川原石が使われていたことが解っていましたが、成分組織から手取川橋対岸部の石と判明しています。当時、渡るにも苦労した手取川の大河の対岸から、わざわざ運んだ理由は不明。。


埋葬部の発掘は行われていませんが、磁気検査・地中レーダー検査によって、二つの埋葬施設が予想されています。大規模な武器・武具が発掘された和田山5号墳の構造に近いと見られています。今後の調査が待たれます。

旅行日 2018.06.24

この記事へのコメント

  • がにちゃん

    奇麗ですね これだけ咲いていれば
    本当に古墳が・・・今日 TVで古墳の番組がありました
    色々な説があって面白かったです
    2018年07月26日 14:45
  • つとつと

    がにちゃんさん
    遅い時期と夕陽の日差しがきつくて、紫陽花があまり元気じゃなかったんで、ちょっと残念という感じでした。でも久しぶりに古墳の周りを歩いてみると東側の山影は、案外涼しくて思ったよりは汗もかかずに済みました。
    えっ@@そんな番組があったんですか、構築や形などまだまだ不明な部分が多くて、、まだまだ謎がいっぱいという感じです。石川は古代から東西が入り混じった遺物が多いので、古墳もいろんな形状が観られます。
    2018年07月26日 18:35
  • tor

    紫陽花3000株といえばかなりの数なのですが、これだけ広いとそんなに多いと感じられないのが寂しいですね。古墳といえば私の新婚時代は埼玉県の県名にまでなった埼玉古墳の行田市にいたものですから休日は家族で弁当を持って行っていました。最近有名になった行田市ですが当時は…。ご存知とは思いますがここの丸墓山古墳に忍城を水攻めにした石田三成が陣を張ったと言われています。私の歴史・古墳好きの原点ですかね。先日吉野ヶ里に行きましたが、また面白そうな古墳を見つけたので行ってきます。高尾城址は、北陸自動車道工事で残念な事になったのですね。今は復元整備して古墳公園になっているところが多いような気がしますが…。
    2018年07月26日 21:31
  • 家ニスタ

    遺跡保護と開発の問題は、どこでも難しいですね。
    以前も書いたかもしれませんが、僕の地元にも古墳群があったようなのですが、宅地開発と道路開通でほとんどが隠滅してしまったそうです。
    戦後すぐや高度成長期には、遺跡が観光資源になるなどという感覚はなく、遺跡があるとわかっていても、
    「何か言われる前にさっさと終わらしちゃえ」
    とばかりに強引に開発を進めていったんでしょうね。
    確信犯に対しては対策を取るのも難しかったと思います。
    それどころか行政が率先して破壊していたりして・・・。
    2018年07月26日 23:50
  • つとつと

    torさん
    torさん一家のスタートは行田市でしたか。僕は新潟市で、鳥屋野潟のほとりでした^^
    行田市の古墳は有名ですねえ。たしか風土記の丘という公園になっていたと思います。開館して間もない子供の頃に、親せきの家に行ったときに案内してもらったのですが、あまり記憶に残っていないのですが。。その後、稲荷山から金象眼の鉄剣が出土したり、のぼうの城が話題になったりで、あの時ちゃんと見ていればと子供時代の僕を怒ってやりたいくらいです。風土記の丘公園は史跡公園と博物館・資料館がセットなんですが、国史跡も通路や遺跡を整備した見やすい公園化を行っていますから、凄く見やすいところが多いんで、家族で訪れるには最適な歴史スポットが多いです。
    2018年07月27日 09:16
  • つとつと

    家ニスタさん
    そうなんです。開発と保存は難しい問題ですが、それにしても確信犯が行政というのは、ちょっと許せないものがありますね。掘り直せば出てくるものならまだ救いがありますが、山を削られては古墳や山城は堪ったものじゃありません。しかも地方史でも教科書に出るような分岐点の史跡ですからねえ^^;
    こちらでも道路や新幹線の整備工事が現在も急ピッチで進んでいますが、たまに遺跡調査の姿を観ますが、見逃しや見なかったことも多いんだろうなと感じます。
    掘れば何か出てくる奈良・京都・滋賀よりはマシかなとは思いますが。。。
    2018年07月27日 09:27
  • yasuhiko

    秋堂山古墳の裾野部分でしょうか、
    3000株の紫陽花を植栽し、市民の憩いの場として
    親しまれるように工夫してるのは、
    素晴らしいと思います。高度成長期に始まる
    開発至上主義の時代には、こうした
    「ゆとり」に価値を見出だす発想が無かったんですよね。
    その間に失われた文化財の事を思うと胸が痛みます。
    考古学部出身の教育委員会の若手の中で、
    自殺する方が少なくなかったという噂も聞きました。
    それはそうと、能美古墳群は内容豊富ですね。
    方墳→前方後方墳→前方後方墳→円墳という形態の変遷から、
    対外的な関係の移り変わりが推測されそうです。
    古い方墳、前方後方墳の時代は、出雲勢力との
    繋がりが深かったんでしょうか。
    2018年07月28日 11:51
  • つとつと

    yasuhikoさん
    まあ、始めたばかりですし、これからという試行錯誤の連続です。春には田圃を使用して菜の花畑、麦畑、、これまた古墳似合うんです^^
    専門家になるほど、ジレンマは多かったと思います。ただ、高尾城などは跡地に教育センターが建ってるのを見るとなんだかなあと思ってしまいます。
    能美古墳群は年代が多岐に渡っていることもあって、古墳の種類は弥生の周溝墓も含めると非常に多くて興味を惹かれます。津幡に古墳期前の七野墳墓群があるんですが、方墳・前方後方墳の前段階の四隅突出型墳丘墓という出雲にしか見られない墳丘があるんです。初期は出雲から大和へと緩やかに変遷していったようです。北陸からは継体天皇が出ており、元の勢力は三国・坂井・加賀だったと云われています。
    北陸の加賀・越中西部は旧石器時代から東西の端境地で、双方がまじりあった特殊な地域だったようです。どういう扱いになるのかがちょっとわかりにくい地でもあります。
    2018年07月28日 14:35
  • ミクミティ

    北陸の幅広い歴史の散策に引き込まれます。本当に詳しくよくお調べになっていますね。和田山古墳群の周辺にかつてどんな古代都市が栄えていたのか。歴史ロマンがありますね。やはり継体天皇とのかかわりを想像してしまいます。
    とはいっても、古代から現代までも様々な人間の発達の歴史があったも確か。それをしっかりと残しておきたい気持ちよく分かります。
    秋常山古墳の紫陽花の植栽は素敵ですね。いい取り組みだと思います。やはりそういう魅力も歴史探索と一緒に味わいたいものです。
    2018年07月29日 13:37
  • つとつと

    ミクミティーさん
    加賀では最大規模の古墳群ですが、どんな王族・豪族かについては、まだまだ解っていません。南加賀を支配した江沼(えぬま)臣(おみ)、手取川以北を支配した道君(みちのきみ)臣、辰口丘陵を支配した財部(たからべ)臣が有力候補になっています。これだけの古墳群があるのですから、都市もあったのだろうとは思いますが、まだまだ不明です。継体天皇の後援勢力になったのが江沼臣一族だと云われています。
    この江沼一族と三つ巴の勢力争いをしていたのが道君・財部一族、この三社の交流展が飲みになるために決め手に欠けるようです。ちなみに道君の娘と天智天皇の間に出来たのが日本書紀の責任者・志貴皇子で、その息子が天武系の滅亡で継いだ光仁天皇になります。今の天皇家は北陸(越)の血が絡んでいるようです。
    古墳と紫陽花は合うと思いますねえ^^ただ秋常山は大きすぎて^^。これからの広がりが期待したいです。
    2018年07月29日 19:15
  • まだこもよ

    毎度 素晴らしいブログで 感心してしまいます! しかし 現代の 「モノ」を作るために 歴史的な「モノ」が 消えてしまうのって 寂しいですよね。
    2018年07月31日 21:43
  • つとつと

    まだこもよ
    そんなに褒められた、豚が木に登っちゃいますよ^^;
    場所によっては何かを建てよう、掘ろうとすれば、その下にはなにがしかの歴史が埋もれていると思います。それならば、せめて何があったかの記録を残すのは後世の務めだと思います。
    まあそれで大変な思いをしてるのが近畿圏、、滋賀にいた頃勤め先の前道路の拡張工事で柱付き住居跡が出て半年近く調査のために入り口が無くなったことがあります。でも、調査ですから仕方ないかも。。でも、そのままだったら大弱りのところでした。
    2018年08月01日 10:00

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