雑記 馬について

狭野神社の参道沿いに珍しい農耕馬と思われる神馬像を見たので、日本の馬に関する考察。多少どころか多分に私見が入りますのでご容赦を。。

神社に奉納されている神馬像をよく見ると思いますが、元々は神社宮に奉納していたのは本物の馬でした。ところが、近世になるとそう簡単に生きている馬を奉納もできなくなります。貰った神社にしても世話に困るし、近世以降は無神官の神社も多くなりましたから。。その替りに像を奉納するようになったと云われています。

現在、馬はどういったものと言われると、ほとんどの人が思い浮かべるのがサラブレッド。。競馬ブームの中で馬のイメージはスマートで大きい、サラブレッド(体高160前後)や近代(アングロ)アラブ種(140~160)がみんなの頭に刷り込まれています。ポニーは、海外では炭鉱現場で使うために馬を改良して小型化したものが始まりですが、今は体高147センチ以下の馬種の総称に使われています。現在、国内に残る在来種のほとんどが海外から観るとポニーというわけです。ついでにウマ科には白黒ゼブラのシマウマ、耳が立って尻尾の短い単独種のロバ・ノロバがいます。ところがこの体高の世界基準と競馬が歴史の上では、錯覚を起こす原因になっています。

この文以降にも馬の体高が多く出ると思います。馬の体高は、地上から首の付け根・たてがみの下の盛り上がった部分・鬣甲(きこう)までの高さを云います。現在までの世界記録はベルギーのベルジャン種のビッグジェイク号の210.2㎝、頭までなら3mを超す巨馬です。

だからと言って日本国内には中大型の馬はいなかったわけではないのですが、幕末から明治の開国の頃にはほとんどが城地にいる軍馬でした。幕末に海外の人が日本に来て目にする地方や農地には中大型種の馬はおらず小さな僅かな農耕馬だけでした。さらに、幕末以降、開国政策により居留地で、競馬の歴史の長い外国の要望で競馬場を開設し、競馬を開始しますが、軍馬と競走馬の違いというものがあります。軍事強化を進める政府は明治30年には競馬を廃止しています。これが島国日本が馬に関して後進国という伝説を作ってしまったといえます。競馬史を読むとほとんどが馬の劣等性と経済問題ばかりを上げています。しかし、軍部の考えは、競馬(軍馬への転用も視野に入っていました。)での走法が日本軍の軍馬には合わなかったためというのが本音

軍馬を必要としなくなった現代になると競馬でサラ系・アラブ系が席巻すると大型の国内在来種はほとんどが消滅します。日本人は海外の競争馬に劣等感を持ち、多くが国産馬に中大型種は元からいないと思っている人がなんと多いことか。。

そうなってくると、歴史観までひん曲げて観る人が出てきます。その中には著名な歴史学者・歴史家を名乗る人物も多々。。暴論や根拠を明確にしないものの中には、騎馬民族征服説はまだしも、武田騎馬軍団・伊達の騎馬鉄砲隊は存在しない、秀吉の朝鮮出兵も歩兵が主体だったなど、日本の騎馬は馬が貧弱だから軍馬に向かないとか軍馬全盛の戦国時代、武将のあの重装備に耐える馬はいないし、そもそも高身長・大身の武将は馬を乗り潰すし、足を伸ばせば地面についちゃうなど、挙げればキリのないほど。。

まず軍馬と競走馬の大きな違いについて、競走馬は速く走るのが全てといって良いわけで、体格が大きく脚が長いのが有利になります。僕が過去の競馬の中で一番好きだった馬にグリーングラスという名馬が居ました。トウショウボーイ・テンポイントと名勝負を繰り広げた名ステーヤーです。この三頭が最後にまみえた第22回有馬記念は競馬史に残る激戦でした。戦前からトウショウボーイとテンポイントのマッチレースと言われたように、最初から最後まで他馬を引き離して2頭が馬体を合わせてライバル心むき出しでトップ争い、最終コーナー手前で3位以下を3馬身近く放していましたが、大回りしてしまったグリーングラスが猛追、1位テンポイント、2位トウショウボーイ3/4馬身、3位グリーングラス1/2でゴールになだれ込んだレース。4位の馬は3頭から6馬身離されていました。このレースは今でも僕は競馬史一のレースだったと思います。

トウショウボーイはこのレースで引退、テンポイントは次レースで骨折後死去、グリーングラスはライバルより2年長く活躍、引退レースとなった有馬記念に優勝して年度優秀馬となり7歳で引退しています。TTGと呼ばれるこの三頭で競走馬の殿堂入りと言える顕彰馬に選出されていないグリーングラス。これには僕はいまだに納得いかない。

グリーングラスは当時の競走馬の中でも体格の大きい馬で脚の長さも際立っていました。体高170㎝、細身で脚長の体系で理想的な競走馬でした。ただ故障の多い馬で、3歳児は肺炎で未出走、新馬戦ではトウショウボーイに惨敗、4歳もその影響で未勝利が続きダービーにも出れない無名馬でした。体調の戻った4歳最期の菊花賞で超人気のテンポイント・トウショウボーイを12番人気であっさり抜き去っています。このレースから緑のフェイスマスクとネームから緑の刺客と呼ばれました。

このグリーングラスが示すように、速く走ることに特化した競走馬には全速で走ると、せいぜい2キロが限界でした。対して軍馬は何十キロも地形の起伏を進む走力とそれに対応する頑強さを重視されるのです。速く走るなら競走馬は絶対的に速いですが体力が持たない、、対して軍馬は速さでは劣るもののスタミナと、荷物や人を乗せるために頑強さを要求され、速く走る足の長さより踏む頑丈な脚が要求されたのです。
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有名な絵画にナポレオンのアルプス越えの雄姿を描いた「「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」があります。この絵は衣装などの違う5枚があるそうですが、いずれも有名な絵画です。ナポレオンが跨る愛馬はアラブの改良種で、名前はマレンゴと云います。ナポレオンはマレンゴ(体高142㎝)を駆って数多くの戦場に出陣しています。
ところがこのアルプス越えの難路踏破にはプロパガンダ的作品で実際には、マレンゴは参加していないのです。マレンゴはその姿の通り、走力に優れた馬ですが、アルプス越えを行えるような登攀体力や頑健さを持っていません。足を見れば一目ですがこの足で岩場を行けば、足をポキッといきそうです。実際にはナポレオンは悪路に強いロバに跨ってアルプスを越えています。ただ、ロバに跨った姿はとても雄姿とは言えないので、こういう想像の産物になったわけです。

もう一つは、走法の違いもあります。これは日本を含めモンゴルの東アジアの騎馬民族にも共通するのですが、馬上での弓術・鉄砲をこなし、近接戦では刀槍での戦闘が主体になります。対して西欧の騎士の時代は長槍と重装備の鎧で馬ごと突進し衝突・歩兵を蹂躙する戦術、重厚な体力勝負が主体でした。モンゴル民族が世界を席巻した時に、馬上からの弓術の遠距離攻撃や後方に回り込んで、鎧の隙間を狙い西欧軍を破っています。
アジアの戦法での最大の敵は馬の揺れにあります。馬上で弓・鉄砲や刀槍を操作するには馬上では揺れなく安定した動作が取れなければならないのです。その為に馬上が揺れないようにする必要がありました。

解りやすい例としては、映画・ドラマを見るとよく解ります。時代劇などの邦画・ドラマの凄い所は、役者さんの多くが乗馬が出来ることにあるのですが、更に映像を見ると早駆けしていても上下に身体が動くことなく、乗馬していることにあります。この技術は軍馬から来ているんですが、この馬の走法と乗馬や戦闘演技を器用にこなす役者は世界に誇れるものです。ただ気をつけて欲しいのは、映画やドラマの迫力を見せるためにサラやアングロアラブの大型種を使っています、本来はアジアなら蒙古場・欧州アラブではアラブ種、西部劇ならクォーター、すべて近代の西洋人がいうポニーの大型種と思ってください。

四つ足歩行の動物には二種類の歩行があります。みなさんも四つん這いになってもらって歩いた際、例えば右手を前に出した際に左足が前に出るのが斜対歩。そして、右手を出した際に右足が出るのが側対歩。
四つ足の動物のほとんどが斜対歩になります。側対歩で歩くものにはラクダ・象・ロバなど運搬に使われるものや悪路に強い動物の特徴のようです。これに右利き・左利きが係わるのですが。。。江戸時代以前の飛脚は右手と右足、左手と左足が揃って出すなんば走りと云われています。
これが馬になると、前述の戦闘スタイルの違いが影響しているのか、欧州・アメリカ・アラブ・中国などはスピード重視の斜対歩になります。そして、モンゴル・日本の在来種は側対歩になります。長い習慣と遺伝に寄ってのものであり、生来のもので在来種・外国馬ともに逆になったり、その後変わるものもいます。

斜対歩・側対歩の大きな違いは、斜対歩では右手が前に左足が前に来るということは右肩が下がることになります。逆に左を出せば左肩が下がることになります。これを早く繰り返せば上下に激しい運動がおこります。その替り推進力が下から上に跳ね上がるようになり、スピードアップが容易になります。その揺れが騎手にもろに伝わってくるのです。外国映画、特に西部劇での旗手の上下運動が激しく見えるのはこのせいです。
逆に側対歩は前足と後足の動きが同じになるので、肩が上下せず、多少の左右運動はあるものの、騎手には多少の左右運動のみで、上下の揺れが少なくなるわけです。

日本の軍馬は江戸期まではすべて側対歩だったわけです。幕末に西洋兵術を導入した際に、斜対歩メインの西洋教師によってヨーロッパ・アメリカ式の斜対歩への矯正が行われたのです。しかし、明治後期には元に戻しています。
馬上での弓術を主力とするモンゴル・日本で側対歩が当たり前で、前述したように伊達鉄砲騎馬軍団は日本だからこそ可能だったのです。ちなみに西洋諸国でも側対歩の利点は理解していて、例えばベンハーで観るような戦車競走や荷車や馬車では上下運動は大敵で側対歩が主流でした。(ベンハーの戦車レースの開幕の際の先導馬と戦車の馬の脚運びは解りやすいです。インコースをご注目。)
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日本に馬が導入された時代は古墳期前後、古代当初の馬は基本、体高100㎝位の狭野神社の神馬像の大きさだったと云われています。この導入された馬はDNAから蒙古(モンゴル)高原を発祥にしていると云われています。大きさから言っても農耕や運搬が主要目的だと云われています。埴輪の発掘から軍馬が居なかったわけではないようですが、騎馬民族侵攻説を証明するような馬骨や発掘はまだ証明されていません。
中・大型馬が登場するのは奈良時代以降の近畿圏からと云われており、その後も地方に波及は遅れ、長らく地方での馬は農耕馬が中心だったようです。中型馬の軍馬の登場は平安期以降になったようです。

軍馬として徴用された馬は体高四尺120~140㎝が中心だったと思われます。その進化は武士という軍事専門家の登場とともに進化していきます。馬の改良に新しい海外馬の血(主にモンゴル系)が導入もされていたようです。これは前述の走法が主に影響しています。日本の鎌倉・室町初期に世界を席巻したのはモンゴルで、その主力がモンゴル馬。そのサイズが前述のサイズ。。鎌倉時代の大量の馬骨が鎌倉港で発掘されていますが、平均サイズが120㎝でした。ほとんどは使役馬と考えられています。

先に書くべきだったかもしれませんが、欧州での馬の改良種が盛んになったのは19世紀になってからです。ちょうど江戸時代に当たり、日本が鎖国制度と泰平によって、軍馬の生産改良を自粛していた時代です。この1.2世紀が日本を先進国から後進国にしてしまったわけです。ただ、世界標準の軍馬サイズとしては十分に対抗できる在来馬は存在していました。また前述した外国人の見た小型農耕馬の多くは海外から小型改良された農耕専用馬でした。

軍馬が時代を席巻した戦国時代、馬は重要な武器であり、武威を示す象徴の一つでした。又贈答品としても珍重されました。遠国として離れていた伊達輝宗が織田信長に駿馬を贈って、大感謝されたなどの例があります。その逆に馬によってトラッぶって内紛になった事例もあります。さほどに馬の有名は後世に残っています。
江戸時代後期に編纂された古今要覧稿には体高5尺(150㎝)の馬を大馬、4尺5寸(135㎝)の馬を中馬、4尺(120㎝)の馬を小馬とするのが世の常としています。駿馬・優馬と言われる条件は4尺6寸(約140㎝)以上、更に性格の荒いものと言われていました。
他の古文書では馬の大きさは5寸とか7寸などと寸だけで表すものが多く存在します。軍馬=4尺は当たり前というわけです。小馬は小荷駄用で、中・大馬が乗馬用になります。18世紀以前の世界基準でいえば、日本の馬はサイズ負けするどころか、勝っているのです。

宣教師ルイスフロイスは西洋の馬に比べ、日本の馬はでっぷりして醜いと云っています。これはたてがみの処理や、前述の走法や仕様の違いになります。フロイスの言う立派な馬は日本馬と同じ種のモンゴル馬を使うモンゴル族やフン族に散々やられている事実をどう言い繕うんでしょうか。。それとフロイスが観た日本は西日本、西日本は舟戦や歩兵に優れていますが、中大型馬の産地は少ないのです。大型馬の産地と騎兵のメッカは奥州などの東日本です。肝心な馬の産地や騎兵を見ていません。。また、西部劇で有名なアメリカのガンマン時代の馬はクォーターホースが使われていましたがこれまた体高は120~140㎝、近代にサラブレッドの片親を認めたので体高が150を超すようになっていますが、、、

有名武将の馬には名前と共にサイズが記録されているものがありましすし、武将には名馬がつきもの
有名どころでは・・・

平家物語に出てくる宇治川の先陣争いを行った佐々木高綱の「生食(いけづき)」4尺8寸(145㎝)、梶原景季の磨墨(するすみ)4尺7寸(142㎝)。
奥州随一と言われた藤原国衡(奥州藤原三代・秀衡の長子)の高楯黒(たかだてくろ)4尺9寸(147㎝)
若い人にも知られる花の慶次に登場する前田慶次の「松風」4尺7寸(141㎝)。徳川の四天王・本多忠勝の「三国黒」4尺9寸(147㎝)。親子不仲の原因と言われる武田信虎の「鬼鹿毛」4尺8寸(144㎝)。
名馬コレクターとして100頭以上の馬を所有していたと云われる織田信長、京都御馬揃えで披露した鬼葦毛(おにあしげ)・小葦毛・大葦毛・遠江鹿毛・小雲雀・河原毛は5尺に迫るまたは超す駿馬と云われています。
上杉謙信の愛馬・放生月毛(ほうしょうつきげ)も5尺と云われています。実は放生月毛は二頭いて全白が「駆」または「団白」、口毛の黒が「詮」。これまた5尺超えと云われています。
昭和55年(1980年)大阪城京橋口三の丸跡から発掘された豊臣秀頼の首とされる頭蓋骨と共に発掘された馬はアラブ種の体高170㎝(約5尺7寸)あったと云われています。
特筆ものは加藤清正の帝釈(たいしゃく)栗毛、6尺3寸(189㎝)、輸入物・アラブ馬と言われますが当時としてはあり得ない数字、清正関係は誇張伝承が多いので疑義。。ただ歌に歌われるほどの大きさだったのは確かのようです。。

戦国時代といえば、、よく話題になるのが武田騎馬軍団と鉄砲三段打ちの長篠合戦。現在は否定説が優勢ですが、何年か毎に肯定・否定が繰り返されています。
三段打ちも否定されていますが、織田軍は鉄砲を主力にしたのは確かなのですが、総数もいろいろ言われています。そもそも、三千丁の数字を記載する現存の信長記で原本とされる池田本には、一千丁と書かれた横に三と修正が書かれているということで、後の写本などは全てそれに倣って三千になっており、千と三千でいまだに揉めています。更に織田鉄砲隊の五部隊以外の鉄砲数が不明です。ただ、徳川軍の鳶ヶ巣山奇襲部隊に鉄砲隊500を援兵として出していますから、他軍の鉄砲を含めれば設楽原では千丁もしくは千五百丁といった所が妥当かも。。とはいえ、これだけの数の大量投入は特筆ものです。これを五つの部隊に分けて、各個に一斉射撃に徹したと思われます。

特筆すべきは、土木工事で斜面を造り、馬防柵と三重の土塁と空堀を築いて野戦築城を行ったことにあります。
野戦なら射程距離内に入ってからの正攻法の正面突撃で活路を見出すことも可能ですが、城に籠った鉄砲隊ほど厄介なものはありません。通常よく言われるように城攻めには攻城軍は数で勝る必要があります。ところが数では逆になっています。城攻めの鉄則の包囲攻撃もできず。。これでは勝ち目はないと云っても良いわけです。腑に落ちないのは、最初の当たりで武田軍も状況は理解できたはずで、それなのに午前中いっぱいをかけて攻撃を継続し続けています。途中での撤退はともかく、態勢の再構築も行わずに攻勢を続けたのが不明。鳶ヶ巣山を押さえられたために前に出たとも考えられますが、そこまで捨て鉢もしくは攻撃に固執することになるものでしょうか。。

武田の総動員能力は貫高での陣立や軍役から全盛時で約5万。更に騎馬は武将本人を含めてその一割で5千騎。ただし、後方支援や在国業務・国境防衛を考えると、無理をしても3~4割までとなります。そうすると、騎馬は千五百~2千騎になります。更に前述の様に武田軍は家単位の構成ですから、武田信玄・勝頼の直接運用があったとしても独立の騎馬隊・鉄砲隊の編成は限られてくると思われます。この多くても特別編成は3~5割、500~1000になります。
長篠の戦では長篠城監視・鳶ヶ巣山守備に騎馬を減らせば、設楽原での騎馬の比率が増えるとはいえ、総勢8000~1万が精々ですから400~500が騎馬隊になります。これでは騎馬のみの突入は難しく、歩兵と一緒に突入とならざる負えないと思われます。ただし、武田軍の騎馬運用は優れていたようで、織田・徳川両軍は騎馬に用心していたのは確かです。

ちなみにですが、部隊編成での騎馬比率の高さならば、関東の北条軍の方が武田の倍数の騎馬編成です。上杉謙信の侵攻や豊臣秀吉の侵攻では、小田原籠城戦がほとんどで野戦が軽視されますが、、馬の生産地を抱え坂東武者の本拠ですから、騎馬軍団を組むことが可能なのは北条ならばと思います。

朝鮮出兵での歩兵中心の理由は、まずは海外派兵ですから海上を行くことになり、多数の馬を輸送するのには限界があったということ。。更に騎馬を多く保有する東国大名ではなく、西国大名中心の編成だったのが大きな理由にもなります。それと異国の地ですから餌の使用にも不安があったのかも・・

さて、欧州から日本に来た人たちが驚いた上に日本の馬を見下した理由の大きな事由に、蹄鉄の未使用と去勢をしないということがあります。前述のルイスフロイスなどは日本馬の気性の荒さを見て「これは馬などではなく、ただの獣(けもの)だ@@」、前述の気品がないとか醜いとか、獣だとか言いたい放題ですが。。

競走馬で制御の効かない馬に対して去勢を施す場合があり、去勢された馬を「騙馬(せんば)」といいます。
騙馬になると、男性ホルモンを作る場所がなくなるので攻撃性が減り、大人しい性格になると云われます。ただし馬それぞれに個性もあるので全ての馬が従順になるというわけではありませんが全般にはそう云われています。一般に牡馬より大人しいとされる牝馬でも発情期によって気難しくなりますが。それもなく扱いやすくなるとされています。日本馬やモンゴル種に比べ性格が穏やかな馬が多いうえ、欧州では手なづけるためにも、悍馬に対しては手っ取り早く去勢処理は当たり前だったのです。但し、これを行えば、当然ながら種牡馬の道はなくなります。

日本には昔から「名馬はことごとく悍馬より生じる」「男子須く(すべからく)巌頭(がんとう)に悍馬を立たしめよ」という格言があります。悍馬(かんば)は荒々しい性格の馬を指します。
前者は名馬というのは、気性の激しい暴れ馬にしかいないということ。花の慶次を読まれた方なら解ると思いますが松風などが良い例です。また、前述の名馬の生食(いけづき)などは、元々は源頼朝に献上された馬で、生き物をも喰らうほどの猛々しさから頼朝が命名して佐々木高綱に与えたものです。他にも主人以外にはなつかないなど武将の馬には悍馬が多い。。
後者は、司馬遼太郎の歳月のなかで、主人公・江藤新平が終生好んだとした言葉。「男子として生まれたからには、悍馬に乗って崖の先に駒を進めて立つ気概を持つべきだ」という意味。

日本で軍馬に乗れたのは武士になります。武士にとって武威や実績はもちろんですが、名誉を重視もします。前述の様に名将には名馬ありです。馬は一種のステータスシンボルで、悍馬を乗りこなすのもステータスになるわけです。逆に騙馬に乗るなどは、恥ずべき行為で考えもしなかったと思われます。
日本では馬だけでなく、豚・牛など家畜にも去勢を行っていませんでした。また、中国・朝鮮、諸外国でもあった宦官(かんがん)や纏足(てんそく)なども日本では見られません。このへんは、自然神道の影響か、自然摂理に手をつけるのを嫌ったのか、理由は解りませんが、、、、

蹄鉄(ていてつ)は馬の蹄(ひづめ)の保護と摩耗を防ぐものです。これまた、欧州と日本の自然環境と飼育法の違いが影響しています。

馬の蹄は、人間でいう爪の一種ですが、歩行の補助や走る際に土を蹴る役割を果たしています。この蹄を固くするには、、、健康食品で名前をよく聞くようになりましたが「ベータカロチン」を大量に必要とします。ところがこのカロチンを多く含むものは雑草や低木に限られます。栽培される野菜類にはあまり含まれていません。
当然ながら現在のような飼料を与えられる牛馬には、このカロチンが摂取できず、蹄が弱ってしまうのです。早くから管理飼育が発達した西洋では飼料を与え続けるために、蹄も弱くなっています。遊牧民が自分の動物たちを牧草を求めて移動するのは、食料の為もありますが、動物たちの健康管理のカロチンを求めているのです。
ところが日本は雑草ならそこら中に生える環境ですし、放牧中心ですから遺伝も重なって蹄が堅く頑丈になっていました。

更に、西欧や中国では石畳や舗装路が整備されており、未舗装路でも岩盤地や乾燥した硬い道が多いという条件がありました。当然ながら蹄の消耗・摩耗が激しかったのです。当然ながら、蹄の保護と摩耗防止に蹄鉄を施すのが当たり前でした。又金属製の蹄鉄は馬が走る補助になるという利点が大きかったのです。
逆に日本では湿度が高いおかげで土に湿り気があって柔らかく、岩だらけの岩盤地帯は山岳を除けばそう多くありません。更に防衛上の問題から石畳や舗装路は皆無に等しかったので、馬自体の本来の蹄の頑丈さと相まって蹄鉄は流行らなかったのです。
もちろん農耕に馬(特に東日本)を使いましたが、前述の気性の問題で馬車は流行らず、牛に荷車を引かせる程度という欠点がありましたが。。

日本馬が蹄鉄を使うようになったのは明治以降の大型の海外馬の導入と、道路の舗装路の増加、牛馬の家畜化による飼料の変更にありました。

明治以降の近代の海外馬の導入により、多くの軍馬の中心になった中・大型在来馬は消滅していますが、主なものでは南部馬・三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒・ウシウマ(種子島)が知られたものになります。ちなみに国内在来馬で残っているものは8種類(道産子 ・木曽馬 ・御崎馬・対州馬 ・野間馬・ トカラ馬・宮古馬・ 与那国馬 )で、ほとんどが現在では小型馬になります。

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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    日本の馬の種類がこんなにたくさんあるとはビックリでした
    2018年08月17日 15:20
  • tor

    武将の乗る馬の体格が小さかったなんて笑えるな…と以前から思っていました。やはり大型の軍馬っていたのですね。いろいろな事を思いながら読ませていただきました。私はマラソン大会に出たりしていたので短距離と長距離の走りの違いが分かるのですがおっしゃることもよく分かりました。なんば走りは末續慎吾さんがとりいれようとしていましたので真似てみましたが…。慣れないので走りにくかったですね。
    2018年08月17日 21:34
  • yasuhiko

    神社に奉納された神馬像の話から
    始めて、日本の馬の歴史を概観する。
    「雑記」というタイトルと裏腹の、
    深い内容には驚きました。今後も、何かの折に
    参考にさせてもらいたいと思います。
    なるほど、源平合戦の時代から、かなりの
    大型馬が軍事用に使われていた訳ですね。
    確かに、そう考えないと、馬の産地である
    東国を本拠にした源氏の優位性というものが、
    はっきり見えて来ない気がしました。
    それに、戦用のお馬さんは皆ナンバ歩き、ナンバ走り
    だったんだ。それは、以前どこかで聞いたような
    気もしますが、明治後期の軍部で、先祖がえりの
    現象が起きていた事は知りませんでした。
    2018年08月17日 22:27
  • つとつと

    がにちゃんさん
    元をたどれば、モンゴル馬に辿り着くんですが、地域ごとに多くの馬の産地があったようです。先日も相馬の馬追が行われていましたねえ^^
    神社を訪れると、よく神馬像が奉納されていますが、それだけ身近にいたということだと思います。
    2018年08月19日 10:17
  • つとつと

    torさん
    ナポレオンの愛馬マレンゴの大きさはヨーロッパでも話題の馬でしたが実際の大きさは先の通り。。ただ、軍馬の足と体格は頑丈さは競走馬とは異にしますから、横幅や骨格で威圧感は十分だったと思います。
    そうでした末續慎吾さんがチャレンジしてましたねえ。。また現役復帰されたそうで今度は楽しんで走って、記録を出して欲しいですねえ^^走りに関してはtorさんの方が詳しいので釈迦に説法なんですが、長い慣習で慣れた物を変えるのは難しいと思いますねえ。いつもの悪い癖で馬を書いてたら、農耕馬を書くつもりが軍馬や競走馬になっちゃいました。次回は神社書きますねえ^^
    2018年08月19日 10:51
  • つとつと

    yasuhikoさん
    またしても神社を書いてる途中で脱線してしまったんですよTT次回は神社を書きますんで。。
    やはり日本では関東、東北がメッカですからね。言われるように名馬と呼ばれた馬は関東・東北馬が多いようです。やはり源氏や奥州兵と言えば馬を連想しますし、優位にあったのは確かです。
    華やかな騎馬隊にも、器用な日本人は馬上での兵士の動きがやはり優先するということなんでしょうね。輸送用の軍馬はナンバ歩きが有効ですからねえ。バラバラにはできなかったようです。
    2018年08月19日 11:13
  • 家ニスタ

    僕はやはり武田騎馬軍団は存在しなかったと考えています。
    おっしゃる通り、長篠に参加した騎馬隊の総数では、騎馬隊のみによる突撃は難しく、歩兵と共同しての攻撃になります。
    その状態での騎馬隊を“騎馬軍団”と称していいものかどうか・・・。
    そもそも、たしか武田は騎馬軍団と自称したことはなく、後世にいわれたものだと思います。
    長篠の戦いが長引いたのが、武田が騎馬突撃を行わなかった傍証だと考えています。
    おそらく金山衆などを用いて柵を倒しつつ、じりじりと進んでいったものと思います。
    『甲陽軍鑑』には真田兵部らが三重の柵のうち二つ目までを引き倒し、内部へ侵入したとの記述があり、世上考えられているよりも接戦で、勝算があったから攻撃を続けたのでしょう。
    また『信長公記』には三番手に小幡一党が攻撃をしかけてきて、「関東衆馬上の巧者」と書かれていますが、小幡は西上野の武士で、騎馬軍団と呼ばれていたのは武田ではなく、むしろ関東勢だった可能性もあります。
    そもそも、信玄の代の三方ヶ原の戦いなどに、武田が騎馬突撃を行ったとの記述はなく、武田の得意戦術であるはずの騎馬突撃が、長篠で初めて実践されるのは不思議です。

    伊達の騎馬鉄砲隊ですが、実在はしていましたが、見掛け倒しで、実戦ではあまり効果的でなかったと考えています。
    政宗は母の郷里の英雄ですので、あまり悪口はいいたくないのですが、どうも口先やパフォーマンス先行だったきらいがあります。
    騎馬鉄砲隊も、実戦より見た目重視で編成したんじゃないでしょうか。
    宮城ではこんなこと言えないんですけどね・・・。
    2018年08月19日 12:05
  • つとつと

    家ニスタさん
    長篠で騎馬隊のみの攻撃がなかったというのは僕もそう思います。一部で無謀な突撃はあったと思いますが、基本無いというよりできなかったと思います。
    ただし、純然とした野戦ならばともかく、要塞化した陣地、軍勢の数も兵器の差でも負けている攻撃ですから無謀としか言いようがありません。接戦どころかよく一部でも柵内に入れたというのが僕の意見です。
    ただ、勝頼の長篠までの領土拡大の戦線移動あるいは到達スピードは、機動力が無くては難しくそれなりの騎馬軍は運用はしていたと思います。その機動力を織田・徳川が警戒したのだと思います。信玄時代にしても木曽馬や甲斐馬の保有は高いのです。騎馬軍の運用重視と最低でも輜重隊としては整備されていたと思います。ただ、反論になるかもしれませんが、自軍の戦法を公にするのは時代が終わってからするもので、現状で表に出すことはありません。現実には武田本家が消えていては推論するしかありません。対戦する敵軍はそれまでの対戦経験と自軍の能力で対応しますから、織田・徳川の両軍があれだけ守備的な陣立てを採ったのは、武田の突進力を警戒したということで、騎馬の能力への警戒は馬防柵と陣地工作を見る限り、口頭で注意が言い渡されています。
    伊達の騎馬鉄砲隊は実数が未整備でまだまだ実戦経験が不足した初期段階だったと思います。ただそれにチャレンジし、運用準備をしていたのは確かで、西洋よりも成功性は高かっただろうと思います。実践がまともには大坂夏の陣だけで終わったのが幸か不幸かですね。ただどうしても単発発砲、突撃ですから効果は限定されたと思います。連発なら画期的ですが。。そうでしたかお母さんのお里が宮城ですか。。そりゃ、伊達のことやお馬さんの悪口は言えませんねえ^m^
    2018年08月19日 21:16

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