河合谷 大滝

お盆の時季となって、我が家も復活した嫁さんと僕の休日が合うということで、早めにお墓参りに行くことに。。
早くいくということは、他の家族より早いということで、墓掃除は今回は僕たちのお仕事に。。

お盆と言えば、新盆と旧盆がありますが、子供の頃不思議に思っていたのが、石川だと金沢市は新盆の7/15を中心にしていますが、その他は8/15を中心にした旧盆になっています。なんで金沢だけ7月なんだろうと思っていました。まあ、その後も気にはなっても何にも考えない僕は、前職ではお盆休みなど関係なく逆に忙しくお仕事をしていたので、気にもしていませんでした。ところが今の仕事になるとお盆は意外に暇になっているんで、ふと気になって調べたことがありました。

江戸期以前までは、ご存知のように太陰暦を採用していました。ただ、日本では純粋なイスラム世界で使用する月の運行のみで数える純粋なものではなくて、太陽の運行にも合わせた閏月を入れる正確には太陰太陽暦と呼ばれるものを飛鳥時代(554年)に導入して以来、中国の暦を和暦として使い続けていました。江戸初期にズレを修正する日本独自の貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦と改変を加えながら運用していたわけです。今でもたまに見ることがあると思いますが、伊勢神宮が発行している神宮暦の略本などは(子供の頃はなんのこっちゃとみるだけでしたが。。)、この天保歴に沿った作製ですが、修正を加えないので、真実とはあてにはならないのですが。。

旧暦(太陰太陽暦)の良い所は、お月さまを見ればだいたい今日が何日か解ることにあります。月の満ち欠けで判断するわけで、1日から満ち始めて15日が満月、そこから欠け始めて30日(1日)で深更というわけです。
よく合戦の状況を話題にしますが、旧暦の日付を見れば深夜に移動した合戦で雨が影響しない場合、どういった環境か読めるわけです。例えば上杉謙信・武田信玄の激突した第四次川中島合戦は旧暦9日に武田別動隊が妻女山を奇襲しています。ところが、これを読んだ謙信は八幡原に移動して本隊をついたわけです。実際には退却だったのが早朝前の霧に紛れて、待機中の武田本隊と接触して共に思わぬ遭遇戦になったという話もあります。ともかく謙信が奇襲に気づいたのは昼間の武田軍の違和感もあったと思いますが、夜間の月明りもあったことも奇襲部隊の行動が越後軍の偵察隊に引っ掛かったと思えます。武田軍がこの戦法を使うならもっと早い段階で一週間早めるべきでした。

また、明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変は旧暦6月2日で、月がほとんどなく、闇夜に乗じて京都侵入・本能寺を囲んでいるわけで、発作的なものでなく綿密に計画したと云えます。
逆に満月に近い月明りを利用したのが赤穂浪士の討ち入り。浪士の目的は吉良の首で、闇に乗じて見逃すわけには行かなかったのです。更に前夜の雪で満月近い月明りで、あたりが明るかったと思われます。

ところが大きな欠点もあるわけです。月の満ち欠けを月日にするので、一カ月は29又は30日。一年が354か355日になるので、大きな調整が必要になることです。それが閏月で、1年383日が出現することになります。

例えば誕生日。現代の太陽暦でも4年に1度、2/29に閏(うるう)の日を差し込むので、2/29生まれの人は寂しい思いを味わっていますが、旧暦では3年に一度閏月を差し込むのです。つまり1年が13カ月があるということです。しかも閏月はその時によって違うのです。閏十二月・閏五月とか、そうなると、閏月という本来はない月が29.30日あるわけで、閏月生まれの人は自分の誕生日が解らなくなるわけです。

一例ですが、江戸末期の公武合体政策で夫婦になった江戸幕府14代将軍・徳川家茂と和宮。二人はともに弘化3年(1846年)閏5月の24日と10日の同い年の夫婦でした。ところが、誕生日が解らないどころかないので誕生日祝いはなし。。「今年でお互い18だね」と言った具合に言葉だけで、誕生会を行った形跡はありません。
遡っても旧暦時代に誕生日を重視したものはほんの一部で無頓着だったのは暦のせいだったのかもしれません。更に旧暦では、行事日も年によって変わります。お盆も新暦の8月半ばから9月初頭で日が変動していました。

明治5年(1873年)11月9日、明治政府は文明開化の一環として新暦(グレゴリオ暦)への変更を発布します。また不定時法も定時法に変更するとしたものです。これはいきなりの変更で大混乱を引き起こしています。
前月には政府が全国の暦屋を集結させて商社を建てさせ翌年の暦を一斉販売してしまった後、当然、暦本の返本の嵐で大打撃を与え、政府は10年間の暦(カレンダー)独占販売を保証することで逃れています。
更に変更することによって12/3が新暦の新年1/1になるのです。つまり、1カ月無い状態で強行したわけです。
巷では簡単に解決するものではありませんが、政府の公職には12月分の給金なし。実は国家予算に苦しむ政府の狙いはこれで、苦肉の策だったと云われます。

この閏月をどこに入れるかは、ある程度の法則がありまして。。。各月に15日ほどの間隔の道標を置いてその間隔で決めています。その道標というのが24節気、、一応羅列すると、、

陰暦 一月 立春・雨水 二月 啓蟄・春分 三月 清明・穀雨 四月 立夏・正満 五月 芒種・夏至 
    六月 小暑・大暑 七月 立秋・処暑 八月 白露・秋分 九月 寒露・霜降 十月 立冬・小雪
    十一月 大雪・冬至 十二月 小寒・大寒


立春とか春分・秋分、夏至・冬至など季節を表すもので、例えば立春から一番近い新月の日が旧暦の正月一日になります。アジアで新暦で正月を祝うのは日本くらいで、中国は今でも正月は旧暦で祝っています。春節ですね。
各月に二つが配されますが左が(立春、立夏など)正節、右が中気になります。太陽が真東から上がる中気の春分を起点(秋分が対称)にして1年(地球の公転位置)を24等分したものです。ただし、公転スピードは季節で変わるので節気の位置は変化します。合わせて月の暦に合わせるので先述のように約11日のずれが発生するので、節気が変化して、節気間が1カ月以上の間隔があく場合にその月に閏月を差し込むことになります。二四節気を理解すると、今どの位置に太陽というか地球の通過地点が解るというわけです。
※この説明はそれまでの暦を改良した天保歴を参考に書いています。

季節感が解りやすい旧暦からいきなり新暦ですべてを合わせようとしたために、年中行事も「中秋の名月、十五夜」のような月の満ち欠けに関するものはそのままですが、旧暦の日付を新暦にそのまま使うとしました。しかし1カ月ずれるもの(月遅れ)が多く、春の七草・桃の節句は桃・端午は菖蒲・菊の節句は菊のように、行事日にその物や花がない、和歌・俳句に歌われるような季語もずれて、なんでこれが秋なの?ということになります。

そして、お盆も御多分に漏れず、、、お盆は祖先の霊を祀る行事ですが、その由来や発祥には多くの諸説や伝承がありはっきりしません。アジア各地で形を変えて行われている行事です。古代イランのゾロアスター教・道教。仏教などいろいろな要素が絡み合っているようです。各家庭で行われるものだけでなく、地蔵盆、施餓鬼会、精霊会、歓喜会など更には各集落や部落で行われる盆踊りなど多種多様な形態が観られます。
道教における地獄の窯が開く旧暦七月朔日から閉まる15日まで、七夕(しちせき)と絡めて始まり16日の五山の送り火で賑やかな京都が有名ですが、現代では通常は13~15日又は16日がお盆になっています。

前述したように旧暦のお盆も7/15前後から翌月の初旬としていましたが、新暦7/15に規定されました。
この変更は全国一斉に行われましたが、地方からは不満噴出。。政府はこの新暦変更と共に、公序良俗に反するとして、盂蘭盆会、盆踊りなどを禁止、神仏分離の一環で地蔵盆の禁止も打ち出していました。これにはフコク政策にも長い盆休みを消したいという思惑もありますが、やりすぎや思い付きで施行が目立つ政府の政策もありました。それも相まって、大反発を喰らった感じです。有名な所では京都府命令での五山の送り火を山火事の恐れがあり個人の焚火と同じとして重罪としてみなすとして禁止、地蔵も廃棄が相次いでいます。特に目の敵にしたのは当時流行った清水の舞台からの飛び降り、さすがにこれは明治16年の復活でも禁じられたままでした。
地方の盆踊りを禁じたのは、これが男女の出会いの場になるだけでなく、一部に乱交パーティー的なモノが多かったのもあります。まあ、功罪ともにありますが、この政策でこういう危うい行為が消えたり改善されたのは確かです。

北陸が好例とも云えるんですが、北陸は毎年梅雨明けがいつなのか解らない程、7月にも梅雨の時期は多々あります。能登では法灯として大型キリコが迎え火や送り火として練り歩きますが、加賀では小型化して墓に灯す灯明や玄関提灯や花キリコとなっています。当然と入っては何ですが和紙張りですから雨は厳禁。。
更に7月では、まだまだ農業の繁忙期になっていて、のんびり先祖迎えなどやってられないというわけです。
この梅雨と繁忙期によって地方では盆の行事はこなすことが出来ず、先のような政府の干渉に伴って大反発で、いつしか旧盆復帰の方向が高まり、変更するところが続出します。
現在では東京近郊と地方の都市部などの一部が新盆7/15、その他の大部分が旧盆の8/15になっています。当然と云っては何ですが、僕も8/15の盆前後に墓参りを行っています。
画像

そそくさと、お墓掃除とお墓参りも済ませて、ドライブがてら河合谷の流しそうめんでもと思ったのですが、お金を下ろさねばと、嫁さんのご要望で、まずは懐かしい津幡町の銀座商店街に^^;名前は立派なんですが、やはり郊外型が全盛の石川県では普通の町の商店街は昔に比べて寂れた感じは否めません。
ATMに嫁さんが行ってる間に駐車場でひと休憩していると、目の前には懐かしい風景が。。。
画像

銀座通もそうなんですが、今は石碑しかない津幡城の城下町だった津幡町は、江戸期は金沢・能登・越中への中継点として繁栄した宿場町でした。宿場町の象徴となっていたのが川の向こうに見えるおやど橋になりました。左が宿場街、右はお店が並んでいたそうです。橋の手前に見える寺院は弘願寺(ぐがんじ)です。元は笠谷地区・鳥越にあった真宗の寺院でしたが、佐久間盛政の末森城攻略の本陣とする依頼を拒否して破却。戦後に大西山(津幡城敷地)に再建後、江戸期に現在地に移ったものです。向かいの本福寺が加賀藩主の御旅屋の際に、家臣団の宿泊所になっていました。この寺院の周りには十村屋敷や古い商店が残っています。
画像

このおやど橋から津幡中学・津幡警察署の当たりを加賀爪というのですが、この加賀爪、実は僕の生まれ故郷になり小学校の中学年まで住んでいた場所です。生家は道路に削られて小さなスペースですが、貸し駐車場になっています。なつかしい~~~
画像画像
で、これが僕の母校というか母園というか、わずか1年(年長さんだけ)ですが通った保育園でした。今は社会福祉法人のこども園で立派な建物ですが、僕の頃は1/3くらいの大きさの町立の建物でした。実生(みしょう)こども園。今は立派な建物ですねえ@@僕の頃は玄関は東向きでしたが、今は南向きになっています。

現在は0歳時から5歳児でメロン組とかサクランボ組と可愛いネームですが、ウン十年前、僕の頃は5.4.3歳児の三組でふじ組・ムギ組・もも組。。。う~~ん、ももはともかく、可愛くない、ふじもちょっとだけど、ムギって。。。でも川沿いの風景は、川岸の道が広くなり新しい住宅もできましたが、子供の頃とあまり変わっていない懐かしい風景です。








懐かしい津幡の中心街を後にして津幡町でも最北の河合谷に。。河合谷ふれあいセンターの駐車場でジュース休憩がてら車を停めたら、公民館の広場では盆踊りの準備で皆さん忙しそう。。
さて駐車場の傍らに小振りな石柱が置かれています。石柱には「禁酒」の大文字が刻印されています。ここ河合谷はこの禁酒で全国的に有名になったところ。
画像
河合谷は津幡町の北の山間部で宝達山の南に位置する上矢田・下河合・上河合・瓜生・牛首・木窪の六地区からなっています。山間の谷間に集落が点在しますが、江戸時代は宝達山の採掘など業務者が宿泊し、能登・越中への間道の宿場として栄えた時代がありました。現在は過疎化に苦しんでいますが、斜面を利用した棚田も美しい景観の農業地帯として知られています。
鎌倉・南北朝時代には曹洞宗総持寺派の栄光寺・総持寺の二代目として基礎を築いたことで知られる峨山韶磧(がざんじょうせき)は河合谷でも最奥の瓜生が生誕地になります。この蛾山の生誕地としての河合谷は教育には並々ならぬ意欲を持った村落でした。

地理的関係で羽咋郡に属していましたから、能登国の最南地になっていました。戦後の昭和29年(1954年)、江戸期の山間道が消滅して、連絡路が河北しか繋がっておらず河北郡津幡町に編入されています。
前述の様に明治期には羽咋郡でしたが、宝達山に阻まれて独立した部落であり前述の蛾山の生誕地という自負の強い教育の村という感じでした。

そんな河合谷村の小学校は明治8年(1875年)と県内でも創立の早い小学校でした。
小学校制度の大変革が行われたのは明治40年になります。日清・日露戦役の勝利で利潤は得たものの、多くの戦死者を出し、富国強兵に迫られた優秀な人材の発掘は急務と言えました。そのために、それまで4年だった小学校教育を6年の義務教育に変更したのです。しかしこの改革は、単純に2学年増えることになり、それだけ小学校設備の増築や建て替えの必要を迫ることになります。しかしこの費用は地方自治体に任されることになります。河合谷小学校も例外ではなく、創立の早い手狭な旧校舎の老朽化で、新校舎の建築に迫られます。

大正15年(1926年)試算段階でその費用は45,000円。現在の価格に直すと約7000万円。ちなみに当時の内閣総理大臣の給金は12,000円で現在換算で約1800万円と云われていました。当時の河合谷村は298戸・人口1600人。
これだけの金額を村で捻出せねばならなかったわけです。河合谷村のそれまでの主な産業は木炭・山芋・養蚕で、とても難しい問題でした。明治末から、農業改良による棚田の整備、勤倹貯金を試みるも到底届くものでもありません。更に学校の維持費を考えればそれ以上の金額が予想されます。

大正15年(1926年)1月、自治改良委員会(公職者、僧侶、有志30人)で、森山忠省村長が「全村で飲む酒をやめて、その分を貯金すれば5年で費用は償還できる。」と、「飲んだつもり貯金」を提唱。つもり貯金を村税負担金に振り替えることで全会一致で決定します。
当時の河合谷村での戸数298戸の酒消費量は一升瓶で8000本(平均27本)・年間総額約9000円。単純計算で5年償還できるというわけです。
画像
禁酒規約の内容
1.禁酒による貯金は小学校校舎建設費に充て、村の財政難を救い、村民の勤倹習慣を作る事を目的とする。
2.禁酒は大正15年4月1日から5年間。氏神祭礼と地鎮祭、婚礼はこの限りに非ず。
3.村民は禁酒期間中、毎日全戸5銭(現在価格200円)以上の貯金をし、村民各自の村税負担金に振り替えるものとする。ただし、貧困または病気など止むを得ない事情がある場合はこの限りではない。
4.村民は禁酒期間中、事項を遵守すること(外来者も同様)
     *村内において酒類を販売しない
     *村内において酒・酒券の贈答をしない
     *村内において来客相手に酒を振舞わないこと
     *全戸において家の門に禁酒標札を掲げること
5.上記の規約を破ったものには相当の制裁を与える


この4月施行で村内8カ所の酒屋が自主廃業。後に村から感謝表彰されたそうです。全戸で鉄板に赤文字で「禁酒」の表札を玄関に掛けることに。。小学校校舎は同年7月に完成。。5年後に予定通り償還も完了。このニュースは地元紙から始まって、全国にも伝えられ、海外からも視察団が来たそうです。
この禁酒は5年更新で続けられ村としては20年間続きました。個人宅ではその後も続ける家があり、現在でも数軒でこの表札を観ることができます。
画像
まあ、裏話ですが酒好きの人は絶えることは無くて、村内で酒が飲めない人は村外なら飲めるということで、山奥から幾つも山を越えて七塚や津幡に出て飲んだそうです。峠を越えた先にも店はあったけど、でも河合谷近くの店で飲むと家や里にばれて、規約を破っていないけど、家中からどやされて面倒なので友達や知人の家に、、母親の子供の頃の思い出話で、祖父の家に知り合いの河合谷の住人が農具の修理補修にきて「酒飲ませて~~」ってよく来ていたそうです。それでも飲んだらへべれけで、暗い道をフラフラで帰って行ったそうです。当時は自家用車なんてない時代、僕の里から河合谷は山越えだらけで約15キロ、往復30キロ徒歩で。。母は子供心に酒飲みはどうしょうもないと怒ってました。それに戦前から戦後にかけてで、家に酒がない時も多々、ないと知って悲しそうな後姿が何とも言えなかったと。。。昭和40年頃までそんな姿があったそうです。

大正15年に村の住民の禁酒によって建てられた小学校は昭和40年代まで使用されていましたが、昭和46年(1971年)に鉄筋コンクリート4Fで後に中学校と併用となる校舎が500m程、西に完成して移転、役目を終了しています。ちなみに河合谷中学は昭和38年に津幡中学の分校として発足して、校舎の完成後に正式に河合谷中学として発足しています。分校時代は冬以外は本校に通っていたのですが、僕が中学入学した時に別々になってあまり交流がなく、高校で再会という感じでした。

平成8年に河合谷中学が廃校で津幡中学に統合になると、平成19年(2007年)1月児童減少と維持費不能を理由に教育委員会が津幡町に当年廃校を提出して議会決定。。ところが河合谷地区だけでなく、津幡町全域から禁酒の歴史ある小学校の廃校反対の署名活動で住民の6倍以上の2000名の署名が集まり直接請求、廃校が延期されました。当時は全国ニュースにも流されていました。僕も住民票が残っていれば署名したでしょうねえ。
しかし、翌年住民の希望に反して、議会決定で平成20年に廃校が決定。ただ後者は住民によって美しく整備されていて、緑の田園に立つ白い校舎は美しく観られます。

旧校舎のあった場所は河合谷公民館と併設する河合谷ふれあいセンターの駐車場になっており、禁酒の碑もこちらにあります。昭和16年(1941年)、禁酒15周年の記念として、ここから禁酒の意味で、村の入口となる濁澄橋の袂に建てられたのですが、近年、こちらに移設しています。

河合谷は市街への人口流出に廃校が重なるなどで、現在(平成23年)は戸数182・人口388、でも自然に囲まれ、上大田雅楽や獅子舞などの伝統祭事や大滝の流しソーメンの店などをみると、その団結力はまだまだ健在です。
画像
大滝の正式名は木窪大滝(きのくぼおおたき)
宝達山系を水源にして流れ、この滝を落ちて木窪川の源流となっています。木窪の隣の牛首から大海川に名を変えて羽咋(はくい)の免田(めんでん)で日本海に流れ出しています。ちなみにこの木窪川と大海川の流れは古代から能登・加賀・越中の境界線としての流れでもありました。
画像

画像
画像上:臨時駐車場から大滝への道、行きは誰とも合わなかったのに。。 右:小滝
大滝までの道は、生い茂った木々に遮られて、日陰の多い道です。
避暑を求めるには最高です。

画像







名前程には大規模な滝ではないのですが、滝自体が少ない河北郡内の中では珍しい大きな滝になります。高さ約15m・幅約7m。ちなみに大滝に対する小滝は臨時駐車場から大滝に向かう途中にあります。高さ約2m・幅約4m。

今年の夏は中国・四国・九州で集中豪雨で大きな被害を出していますが、北陸に関しては逆に雨が少なく水不足が心配される状態です。おかげでと言っては何ですが、大滝も木窪川も水量は例年よりも水量が無く、いつもなら滝滑りもできる大滝も、小滝などはチョロチョロ状態です。

                 岩魚の摑み取りの池も新設されていました。
画像

大滝には大きな滝つぼがありますが、広さの割に水深が深くなく、岸辺には広場のような平地もあり、夏になると多くの家族連れが水遊びに興じています。そして、夏休みには河合谷が運営する流しソーメンが、夏の風物詩となって人気を集めています。他にもイワナ・しいたけの石焼なども食べられます。7月中旬から8月後半まで開催されていますが、この山奥に1万人が夏に訪れるそうです。

画像
こちらに来るまでにそれ程の車を見なかったんですが、駐車場に着いてみれば、満車で空いた場所に停めて大滝まで行ったんですが、予想通りと言えば予想通り、芋の子を洗うような状態@@;流しソーメンも2時間待ち@@ 大滝前の状態と行列を見た僕たち家族は、大滝を見たらそそくさと撤退(T_T)
画像

それにしても、大滝は長い雨なし状態で水量も寂しいくらい。。やはり見るなら冬近くの晩秋がお薦めですねえ。。

このまま帰るのは面白くないので、久しぶりに大滝から富山に越境。子撫川沿いの宮嶋峡を見ながら家路につくことに^^; 
そういえば、だいぶ前にも同じことがあったなあ・・H20.8.13 祐閑寺名月~大滝
なんと10年前@@ 学習能力のなさと、行動パターンが変わっていない^^;

旅行日 2018.08.12

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 26

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた
面白い
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

  • 家ニスタ

    5年間の禁酒でもたいへん、と思ったら、けっきょく20年も続けたんですか!
    僕にはとても耐えられそうにありません。
    前にピロリ菌を駆除する薬を飲んでいて、1週間の禁酒を医者に命じられたんですが、辛くて辛くて・・・。
    スペインの南端のアルヘシラスという町で、町にイスラム料理の店しかなくて、2日間の禁酒が耐えられずにモグリみたいな店で買って飲んでました(笑)。
    僕の海外旅行先でイスラム圏が少ないのは、酒がのめないからです。
    その時代の禁酒の村に生まれなくてよかった・・・。
    2018年08月25日 22:56
  • つとつと

    家ニスタさん
    (笑)家庭によっては女性陣の強い家では半世紀以上続いたそうですよ。下手すると一生飲めないことも。。
    ピロリ菌ですか‥それは辛かったでしょう。ちゃんと直さないとダメージが残るそうですから^^
    そうでしたイスラム教は飲酒禁止でした。まあ、自家製とかでこそっと飲むなんて聞いたことがあります。酒好きの人にはたまらないですねえ。おかげでと言っては何ですが、廃校になった校舎は今は生徒はいませんが綺麗で、田舎には似つかわしくないくらいの立派な建物です^^
    2018年08月26日 07:52
  • がにちゃん

    お盆 京都では8/16は当然休みと思っていたのですが、次男の会社は15日から出勤 京都なのになんで・・・中国と取引のある関係なのでそうです 

    禁酒 我が家の旦那様 きっと死んでしまいますね(笑)
    大滝  次回はぜひ水量の多いときに期待してます  
    2018年08月26日 14:23
  • つとつと

    僕も前職は販売店だったので年中無休で、お盆は人員不足でお休みはありませんでした。今はお客さんに呼ばれれば行くという感じで今年は2軒仕事しました。お盆後の土曜に仕事でいつものように輪島まで行ってきましたよ^^横目で輪島大祭を見ました。

    (笑)河合谷には何人か、中学からの顔見知りで高校の同級生がいますが、みんな酒好きが多いみたい、でも一軒だけは酒なしの家だって嘆いてましたよ^^同窓会でがばがば飲みながら^^;
    2018年08月26日 16:18
  • tor

    新暦と旧暦紛らわしいですよね。時々今の感覚で?と思うことがあります。お盆は同一市内でも別々だったりしますから…。お墓参りで古里へ帰ると懐かしい思い出や変化に驚いたりします。禁酒で小学校を建てるとはすごいアイデアですね。そして実行してしまうところが凄いです。教育の重要さを皆が理解していたからこそでしょうか?
    2018年08月26日 20:59
  • つとつと

    torさん
    新暦・旧暦は身近な部分で影響されていて、やはり難しいですねえ^^暦の中に春分野秋分がしっかり生きていますから尚更感じます。
    お酒の好きな人には相当苦しいことになったみたいですが、よくぞ実行したものと思います。
    今は過疎化で人口が減っていますが、道路が整備されて行きやすくなっています。大滝から小矢部に抜けると風光明媚さはばっちりです。お薦めスポットの一つです。
    2018年08月27日 10:45
  • まだこもよ

    そんな理由で 「禁酒」って スゴいですね!
    2018年08月27日 16:27
  • つとつと

    まだこもよさん
    北陸はこども教育に真剣過ぎるくらい。。固執するところがあるんですよ^^
    それだから、統一試験ではトップ争いできるんでしょうが、
    まあ、僕は足を引っ張る方でしたが^^;
    2018年08月27日 22:56

この記事へのトラックバック

  • 宮島峡 川と滝そしてビーナスたち
  • Excerpt: 河合谷の木窪大滝から林道を抜けると、すぐに富山県に入れます。分かれ道を北に行けば、五位ダム経由で宝達山の西麓になりますし、西に向かえば子撫川(こなでがわ)ダムを経由して子撫川に沿って小矢部の町に出られ..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2018-08-29 09:37

最近のコメント