長壽寺① 能登長谷川家菩提寺 長谷川等伯

天正9年(1581年)前田利家が織田信長から能登23万石の領有を許されて、能登に入部すると政務をとるために山城で不便な七尾城から平地で東西にある御祓川と北の七尾湾に囲まれた小丸山城を翌年に築城しています。交通要路・攻め口になる南には今は掘削されて線路になっていますが、大念寺山砦が置かれ、更にその先に加賀・奥能登からの侵攻に対する出城替わりに、低山で緊急時の防御陣地として29の寺院を集積します。現在、山の寺寺院群と呼ばれる地区です。元々、武生府中から呼び寄せた小丸山城内にあった宝円寺をこの地に移したのが始まりで、その後既存の七尾の寺院を集めたものです。ちなみに宝円寺は本拠地を金沢に移した前田利家と共に金沢の現在地に。。寺院は名を長齢寺と改めて、前田利家の父母の菩提寺として存続しています。

後の加賀藩も人心安定政策・防御陣地を目的に前進基地となる寺院集積を行っており、金沢の寺町・東山、富山の梅沢町、大聖寺の山の下寺院群など寺院の密集地帯が要所に配置されています。
寺院群は能登畠山氏の七尾城時代は七尾城周辺に点在していたものが多かったと云われます。現在は16か寺残っていますが、宗派の内訳は浄土宗3・曹洞宗4・日蓮宗6・法華宗1・本門法華宗1・真言宗1になります。金沢・大聖寺・富山の寺院群にも言えるのですが最大人口を誇る真宗寺院が含まれないのは、実質的な加賀前田家の前の実質支配者・旧敵対勢力であり、宗教政策上は平等な扱いですが、講を教義の基本にして地域に密着しており、防衛上には問題があり地域に点在させていたためと思われます。また、分裂のために宗派は分かれていますが、日蓮・法華宗が半数以上を占めています。また29か寺でも半数以上を占めていました。

法華宗のこの大規模な集団は、羽咋の妙成寺集団と並ぶ大勢力で、戦国・室町期における法華宗の本拠になっていました。中世において、曹洞宗総持寺・浄土真宗阿岸本誓寺など、現代にも教生を強く持つ三大勢力の本部的拠点が能登に揃って存在していたのです。
法華宗の教義の根本に「現世安穏 後生善処」というのがあります。現世は安穏・安らかに、後世には善い所に生まれるということ。安らぎは健康・経済安定・和合あってのものと説いています。もちろん個人の根本の気質(個性)から善喜・善行をもって成仏に繋げるという考え方です。これに日蓮は「法華経の行者(信者)の祈りの適わぬことはあるべからず」という教えで、対外的で過激な面が出たのも確かです。
法華宗ではそれだけではないと否定しますが、他の浄土宗・真宗のような阿弥陀信仰の現世は仮住まい的なモノではなく、個人の修業・規律を半強制する禅宗とも違い、現世での病気平癒・商売繁盛等のご利益が強調される面が強くあります。このために、商家や女性陣に熱烈な信者が存在したようです。

加賀前田家では藩主などは宗教色を表に出していませんが、多くは曹洞宗の色が濃く出ています。これに対して女性陣には三代生母の寿福院は加賀経王寺・能登妙成寺(菩提寺)を建立、甲斐久遠寺五重塔・下総千葉法華経寺五重塔・鎌倉妙本寺五重塔・京都妙顕寺(日蓮宗大本山)十一重石塔など多くの寄進を行っています。この他にも女性陣には法華信者が目立ちます。
北陸の法華宗が隆盛したのは、日蓮の孫弟子・日像(にちぞう、日蓮宗大本山・妙顕寺開祖)が道を開き、石動山天平寺元座主・日乗(満蔵)が改宗して妙成寺を造ったことに始まります。
画像
羽咋・七尾に広がる法華宗寺院の仏画が多く残されていますが、山の寺寺院群にも多くの仏画が見られます。この仏画の多くを手掛けたのが、地元・小島町で染物業を本業にした仏画師・長谷川家でした。
平成25年(2013年)、山の寺寺院群の長壽寺(ちょうじゅじ)の無縁仏供養塔の下、土中から長谷川家の墓石が発見されました。
画像
元々、長壽寺には長谷川一族の過去帳があり菩提寺としては認識されていましたが、この発見で明確になっています。戦国から安土桃山・江戸期を通じて、画壇を独占していた狩野永徳を代表にした狩野派に果敢に挑み、凌駕した足跡を残した長谷川等伯を輩出した家になります。

長谷川等伯は眼を見張る作品が現在80点ほど残り、全盛期の活躍から名前も知られている人物ですが、、等伯が挑んだ狩野派が江戸期を通じても画壇を独占したことで、死後、正当な評価を受けたとは言えず、、長谷川派が優秀な人材が後世に出ず、町絵師へと変わったために、詳細には謎が多く残っています。一応、等伯の解る範囲での略歴と作品を紹介すると。。。。

長谷川等伯は50歳以降の活躍が特筆されるものの、それ以前は謎に包まれた部分の多い画家でした。それ以前の出自や活動が解明されて来たのは近年になってからです。七尾当時は「信春」を名乗っていました。この名前は40代まで使用されていました。ところがこれが等伯が活躍した京都を中心とした中央画壇では混乱をもたらしていました。
近年まで、京都到着以降の信春等伯は別人とみられていました。信春久蔵(等伯の長子)という説が強かったのですが、京都本法寺に残る「日堯上人像」に「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の約款があり、久蔵は27歳で亡くなっていますから、、信春=等伯が現在の通説になったのはここ10年程の話です。
画像長壽寺 本堂 左の建物は鬼子母神堂

天文8年(1539年)、七尾畠山家の下級家臣・奥村文之丞宗道の子として生まれています。幼名は又四郎、帯刀。幼年期に染物屋・長谷川宗清の養子となっています。長谷川家は熱心な法華信者で染物屋と別に仏画師も兼ねていたようで養祖父(無分・法淳)・養父(宗清・道浄)から仏画と水墨画といった画業の基礎を培ったと云われます。七尾時代は初見とされるのが26歳の頃の作品が知られ、同じ山の寺の生家である奥村家の菩提寺・本延寺にある日蓮上人坐像の着彩を始めとして七尾・羽咋・富山に残る信春(等伯)作品が十数点確認されています。
画像長壽寺本堂 輪島塗山号額

しかし等伯の養祖父・養父も能登地区の寺院に作品が残っていますし、等伯が能登を旅立ってから長谷川家を継いだと思われる長谷川等誉は等伯死後、26年生きたことが長壽寺の過去帳に残されています。この三人の作品も能登地区の寺院に残っていますが、同じ構図の曼陀羅図などは、素人目には違いが分かりません。仏画師としての長谷川家の技量の高さが窺われます。とはいえ、中には眼を見張るような、涅槃図の鳥獣などそこかしこに眼を惹くものがあります。

元亀2年(1571年)信春(等伯)33歳
等伯が生まれた頃は能登畠山家の全盛時代ともいえる時期で、七尾城下は小京都と呼ばれる繁栄を誇っていました。しかし、天文14年(1645年)に7代・畠山義総(よしふさ)が亡くなると、家臣団の主導権争いで派閥抗争が激化、畠山当主の追放劇や国の乱れがあらわれます。これに加賀の真宗勢力・越後越中の上杉謙信の介入を招き、国力が衰退して国が荒れていました。実際、等伯のこの年の5年前には当主追放事件が起こり、この状況では数年で能登は真宗勢力か上杉謙信に蹂躙されると見ていたはずです。実際、6年後に七尾城は上杉謙信に落城されて、能登畠山氏は実質的に滅びています。
この年、養父母が相次いで亡くなっており、能登に見切りをつけたように、妻子(久蔵3歳)を連れて京都に旅立っています。

京都に上洛した等伯は、奥村家の菩提寺・本延寺の本山・本法寺を頼り、教行院に寄宿しています。翌年に前述の年齢を記した日堯上人像を描いています。しかし、ここから50歳までの約15年間の経歴・事蹟は点在するのみで詳しくは解っていません。
本法寺はこの当時は一条堀川にありました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命で現在地に移っており、この時に等伯と親しかった日通が入寺(本法寺14世)しています。後に日通は、等伯が先代の画家や鑑賞方式などについて語ったことを筆録した等伯画説を記しています。この等伯画説は画論としては最初のものと言われています。

50歳くらいまでの詳しいことは解っていませんが、京都では画壇を牛耳っていた狩野派狩野永徳の父・狩野松栄(直信)の門下に入った時期もあったようですが数年で辞去しているようです。しかしここで、障壁画や屏風絵・肖像画などの技術を取り入れたようです。また、千利休との親交から堺と京都の間を何度も往復していたことが窺われます。この伝手から大徳寺で雪舟の作品に触れ、宋・元の作品、特に牧谿(もっけい)、曾我蛇足(そがじゃそく、一休の画師)に多く触れていたようです。この雌伏の時期、41歳の時に妻・妙浄を失っています。

約10年に及ぶ雌伏の期間から、信春名の作品が確認されていますが、日通千利休を始めとする堺衆との交際と引き合いからか、大徳寺・総見院で山水図・山水図・芦雁図を描いた記録があり、この辺りから画師としての名を高め、長谷川派の総帥として活動を始めたように思われます(45歳)。一派を立ち上げるということは当時隆盛を誇り室町後期から桃山、江戸期と天下人や大寺院の画壇を独占した狩野派に挑むことになります。とはいえ、50歳までは深刻な戦いは無く、天正14年(1586年、47歳)には狩野永徳と共に聚楽第の襖絵を描いています。

千利休の依頼により大徳寺山門(金毛閣)の天井画・柱画を描いた(50歳)後からになります。この京都を代表する大寺院の天井画や柱画を描いたことにより、一躍、等伯は一流画師として認められ、改めて狩野派もライバルと認識させたものになります。ちなみに等伯の名を使うのはこの頃からになります。それが表面化したのが、等伯が仙洞御所対屋障壁画の秀吉の注文を獲得しようと前田玄以・山口宗永に働きかけ決定寸前まで持って行った際に、狩野永徳が堂上家・勧修寺晴豊を使ってキャンセルさせた事件からになります。この事件は狩野派の強大さを示すとともに、等伯の台頭を世に知らしめるものでした。

狩野派長谷川派の台頭を警戒した最中、ここで大事件。この仙洞御所事件から僅か1カ月後、狩野派の大総帥・狩野永徳が48歳で急死したのです。狩野派が混乱する中、豊臣秀吉は最初の子供・鶴松を失い、その菩提寺として、東山に当時の京都で最大の寺院・祥雲寺(現智積院)を建立し、その障壁画を長谷川派に任せます。
この長谷川一族最大最高の作品とされる金碧障壁画は日本障壁画の最高傑作とも云われますが、現在は襖絵ほどの大きさですが、完成時は二層構造の建物の内部を埋め尽くす障壁画でした。5作品が国宝指定を受けていますが、その中でも最高と評価が高いのが「楓図」になりますが、その横に並ぶ個人的にはこちらが好きですが国宝「桜図」があります。この桜図は等伯の片腕で後継者ともくされていた長子・久蔵の作になります。作品を書き上げた翌年、久蔵は26歳の若さで急死しています。等伯はその死後に桜図の対称として楓図を書き上げたと云われています。つまり、親子の最初で最後の競作とも云えるのです。
この智積院に残る障壁画には息子を失った豊臣秀吉と長谷川等伯の父としての哀惜と悔悟の念が籠っているともいえます。
とはいえ、この京都最大の寺院の祥雲寺障壁画によって、豊臣秀吉は知行200石で等伯をお抱え画師とし、この時点で長谷川派は狩野派と肩を並べる存在になったのです。

ちなみに長谷川久蔵は父・等伯もその才能を認めていますが、ライバル狩野派が後に編纂した本朝画史でも触れていて、「画の清雅さは父に勝り、長谷川派の中で及ぶ者なし 父の画法を守り・・・・人物・禽獣・花草に長じる」、こと他派の画師ついては、けっこう批判やけなしの多い中で等伯以上の評価と賛辞を与えています。

長谷川派狩野派と並ぶ二大画師集団として頂点に並んだのですが好事魔多しで、この年に等伯の最大の支援者だった千利休が豊臣秀吉の命で切腹させられています。その表向きの事由は、秀吉や貴人が通る前述の大徳寺山門(金毛閣)の楼閣に足蹴にするような利休の立像を置いたということと、茶器の利権の不正使用。。翌翌年には非凡な技量を持つ後継者とみていた久蔵の死でした。二人の死の打撃は大きくそれまでの画風とは全く違った国宝松林図屏風を描いたのが久蔵の死の翌年でした。国宝の人気投票では毎回上位に位置する国宝中の国宝。水墨画の濃淡とか技法や構図のズレを専門家は雄弁しますが、それまでの仏画や障壁画とは対極のような寂寥感を感じさせ、石川県人特に羽咋から門前にかけての海岸線の松並木を知る人には、その松林の冬の大気の景色を思い浮かばせる作品です。久蔵の死は等伯に故郷の静寂感を寂寥感を思い出させるほどの衝撃だったのでしょう。

これ以降、等伯の画風は、雪舟・牧谿の影響を受けつつも昇華した山水や水墨なものに移って行きます。
等伯の略歴を見ていくと、約10年ごとに自身の画法や方針が変更されています。全盛期とも云える60歳時、本法寺に寄進した仏涅槃図から自雪舟五代と署名しています。雪舟-等春-法淳-道浄-等伯(法淳は等伯の養祖父、道浄は養父)
雪舟は僧侶ですから血筋ということではなく、画業の弟子の流れを示したものです。雪舟は画号を等楊(とうよう)と云い、晩年の弟子・等春と共に各地を旅しており、加賀・富樫家、能登・畠山氏とも親交が深かったと云われます。等伯の養祖父はこの際に親交と指導を受けたとされ、等春の門人になっていたと云われます。この養祖父とその指導と血を受けた養父に指導を受けたのが、等伯というわけです。等伯の若い時の名・信春は等春の一字を受け、等伯の名は雪舟(等楊)と等春の一字を継いだものだと思われます。

もちろん、雪舟は御存じのように現代では水墨画の最高峰と唄われています。明にも渡って禅と画を学んだ一流僧です。等伯の時代にはその名前と作品はある程度知られていたようですが、江戸時代に入ってからは狩野派も恩師の一人としたことで、各大名家の間に作品の収集から人気が広まったと云えます。有名な涙の鼠の説話は江戸時代に狩野派が編纂した本朝画史に載せられていたものですが、その人気が世間に広まって、人形浄瑠璃・小説・逸話が広まり神格化されたものです。

それを最初に記した「仏涅槃図」は本法寺に奉納前に後陽成天皇の叡覧に供され、公に宣言したことになります。つまり自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言することになります。この評判によって、それまで法華経・寺院主体が他宗の大寺院からの依頼を呼び込むことなり、画壇における自分の地位と名声を広げ長谷川派は全盛期を迎えます。65歳には絵師としては最高峰の法橋に叙任、翌年にはその一段階上の異例の法眼に叙されています。法橋・法眼は単なる画師ではなく、京都における町衆(有力者集団)の一員にもなったということです。

天下は実質的に徳川家に移っていた慶長15年(1610年)、徳川家康の要請によって次男・宗宅(等後)と共に江戸下向中に発病、江戸到着二日後に死去、享年72歳。遺骨は京都に送られ、本法寺に埋葬されましたが、その後行方不明、近年墓が建て直されたそうです。その後、等秀、弟子筋で伊達家に重用された等胤、娘婿の等秀などの名が出ますが、集団を率いるほどの突出した人物はでず。長谷川派は町絵師としての性格が強くなり、流派としては名前だけになってしまいました。
画像
能登長谷川家もその後は不明ですが、長谷川等誉が能登を中心に活動して評価を受けています。前述の様に長谷川家を継いでいたのかは不明ですが、等伯死後26年以上を過ごしていますし、名からも等春に繋がることを考えれば、等伯の画法と能登を引き継いでいただろうと考えられます。
境内に立つ長谷川家の墓石は作り直されたものだそうで、横の建立者には「長谷河十一代孫 金城住昌久建立」とあります。金城は金沢の城下町を指しますから、子孫が金沢におられるようですが、詳しくは解りません。ご存知の方は教えてもらえると幸いです。

長谷川家墓石案内板・・・ 合掌 当山は、長谷川等伯が養子に入った長谷川家一族の菩提寺であり、当時染物屋を営む養父長谷川宗清(法名道浄)養祖父法淳(無分)などにも絵を教わったと考えられ、当山にも「無分」印養祖父の手によって描かれたとされる絹本着色釈迦涅槃図(七尾指定文化財)寺宝を所蔵しております。また江戸時代の過去帳には、長谷川家一族関係の諸霊位が沢山記載され、特に注目される所は、能登方面に仏画の作品が残る謎の絵師とされている、長谷川等誉の没年が記載され等伯より二十六年長生きされたとわかる貴重な資料にもなっています。 再拝

旅行日 2018.08.18




長谷川等伯 (新潮日本美術文庫) [ 長谷川等伯 ]
楽天ブックス
新潮日本美術文庫 長谷川等伯 新潮社ハセガワ トウハク ハセガワ,トウハク 発行年月:1997年09


楽天市場



この記事へのコメント

  • がにちゃん

    京都のお寺に行くと結構長谷川等伯のふすま絵がみられます
    等伯以外に実力者が出なかったのですか・・・
    そういえば、長谷川XXとゆう名前はあまり聞きませんね
    2018年09月14日 18:33
  • つとつと

    がにちゃんさん
    長谷川等伯が京都を中心に活動していましたから、目に触れるとしたら対策・名作なら京都、若い頃の仏画なら北陸になります。
    長谷川派が後世に大きな名を残せなかったのは後継者の久蔵の死が大きかったようです。更に次男・宗也(等後)も法橋になりながら、等伯の死の翌年に亡くなっています。とはいえ、江戸初期までは江戸や仙台・北陸に宗圜・等胤・等誉など名を残す名画師も出ているんですが、画師集団を統率するほど逸材が残らなかったのが原因です。等伯のような長寿・宣伝への力・画力・統率力を有したリーダーが出せなかったことが辛いですねえ。。
    2018年09月14日 20:17
  • tor

    今回も読み応えがありました。「松林図屏風」長谷川等伯の出身地なのですね。見に行きたいですね。加賀前田家藩主は宗教色を出さなかったのですね。先日アップしました大村藩主は加藤清正のすすめで日蓮宗本経寺を建て大きく出していましたよ。
    2018年09月14日 20:45
  • 家ニスタ

    なるほど、寺院を集積して出城代わりにしていたのですね。
    いぜん備中高梁に行ったときに、備中松山城の周囲に堅固な城郭づくりの寺がならんでいて、出城代わりにしていとのことでした。
    小丸山城の周囲もそんな感じだったのでしょうか。
    山の寺寺院群というのですか、機会があったら訪れてみたいですね。
    2018年09月14日 23:37
  • つとつと

    torさん
    七尾も現在は静かな町ですが、この山の寺寺院群に歴史の古い寺院が多く、貴重な資料や画像が多く観られます。機会があったら、他の寺院も紹介しますねえ^^
    等伯の地元ということで、七尾市美術館には長谷川等伯の作品が多く展示されています。松林図屏風の実物を始めてみたのも美術館の開館の特別展でした。この絵を見ると能登の松並木が目に浮かんでくるんですよ。ぜひ羽咋から門前経由で海岸線を通ってくるとその風景が見れますから、249号線経由で遠回りしてみてください。
    2018年09月15日 11:13
  • つとつと

    日本国内の城下町には要所に寺院を集めた地区がありますが、多くは町の中や郊外になっていますが、加賀藩の寺の集積は金沢城の南・犀川を挟んだ対岸で福井からの進撃路、卯辰山の斜面は越中からの進撃路の要所でした。小丸山城も北の海、東の七尾城の山塊がありますが、唯一手薄な西側の御祓川の対岸の小山が寺院の集積地なっています。どの寺院も地形的に即要塞化可能な地形になっています。
    山の寺には数少ない反逆児ともいえる生涯の前田利政の肖像画が長齢寺でみられます。
    2018年09月15日 11:28
  • yasuhiko

    長谷川等伯の「松林図屏風」は
    上野の国立博物館でお馴染みです。
    撮影できるので、何度か挑戦してますが、
    霧の中に見え隠れする松林の、
    あの空気感はなかなか表現できません。
    その作者の長谷川等伯が能登出身という事で、
    どうして画壇の中心になれたのか、
    前から不思議に思ってましたが、今回のお話は
    大いに参考になるものがありました。
    千利休と親交があった事、その縁で、
    雪舟を始めとする水墨画の名作から学ぶ
    機会があったらしい事など、彼の作風から
    しても、なるほどと納得できるものがあります。
    もし長男が生きていたらなんて、
    想像力を逞しくしてみたい気がしました。
    2018年09月15日 11:46
  • つとつと

    yasuhikoさん
    国立美術館にはなかなか縁がなくて、地元出身作家で一番人気の長谷川等伯の松林図屏風の実物を長く観ていなかったんですが、20数年前に七尾美術館の開館記念の特別展で観ることが出来ました。TVや雑誌では目にしていましたが、実物はやはり引き込まれますが、石川の人間にはやはりこの松並木はどこかで観たことが有るという郷愁を感じさせてくれます。その頃は、等伯の名は遠いものだったのですが、一気に身近になったのを覚えています。
    久蔵の死は長谷川派にとっては痛すぎる出来事で、今回の記事には書かなかったんですが、その後に法橋にまでなった次男の等後も、等伯の江戸行きに同行した翌年に亡くなっています。三男・左近は作品は残っているのに、確執があったのか長谷川家からは外された格好になっています。長谷川家を継いだ四男(後妻の子)・宗也の頃には評価が落ちて大きな仕事は見られなくなっています。やはり、長男・次男の死は痛かったんでしょうねえ。どちらかが長く生きて後継者を育てていればと思いますねえ。
    2018年09月15日 20:25
  • まだこもよ

    長谷川姓のルーツなんですかね?
    2018年09月17日 11:05
  • つとつと

    まだこもよさん
    長谷川と聞いて一番最初に思いつく歴史上の人物が等伯なんですが。。
    長谷川姓のルーツはやはり「長谷の初瀬」から来ていると思います。
    奈良県の桜井市の古名で、長い谷のような地形でそこを流れる初瀬川(泊瀬川)があることから、この言葉が出来たようです。和歌の枕詞として長谷に「はつせ」を当てたのがいつしか「はせ」に変わって長谷(はせ)そして川がついたのは地名でなく初瀬川を指しているということです。
    2018年09月17日 14:13
  • ミクミティ

    色々と忙しくてご無沙汰しておりました。
    そうでした、長谷川等伯は能登出身でしたよね。でも謎も多いとか。
    こうやって一族のお墓があるとリアリティがありますね。私も国立博物館で何度か等伯の屏風を見たのもです。楓図に感激したのを覚えています。
    信春という名前だったのですか。それは知りませんでした。
    2018年09月22日 00:13
  • つとつと

    ミクミティさん
    忙しいというの良いことですよ。頑張ってください。それに比べて秋バテでへばってる僕って。。駄目ですねえ^^;
    長谷川等伯と信春が繋がったのは近代に入ってからで、昔は長谷川等伯と長谷川信春は別人として紹介されていました。今は同一人物になっています、
    僕も初めて松林図屏風の実物を七尾美術館で観た時は、能登の松林がすぐに浮かんで懐かしさを感じました^^あの松並木は間違いなく能登の風景です。
    楓図と久蔵の桜図、僕も観た時は感激でまじまじ見入ってしまいました。後に文中の逸話を知って、父を乗り越えようとした子と父親の思いが入っているのだと、納得させられました。
    2018年09月22日 10:35

この記事へのトラックバック

  • 本行寺① 丸山(円山)梅雪
  • Excerpt: 実を言えば、山の寺寺院群に訪れた本来の目的地はこの本行寺でした。ところが勇んで来てみれば、住職は裏山の作業中で不在で、用事の人は携帯までの残し紙が玄関に・・・どうもこういうのに電話するのは苦手なんです..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2019-01-22 23:29
  • 和倉温泉駅周辺
  • Excerpt: 和倉温泉駅は名前の通り観光地・和倉温泉の玄関口になります。北にまっすぐ1キロほど進むと七尾西湾になり、左手に石川でも一番元気な温泉地・和倉温泉、右手に行けば能登島大橋を渡って能登島に行けます。駅か..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2019-02-20 23:12

最近のコメント