長壽寺② 裏千家と宮崎彦九郎義一(寒雉)

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長壽寺には、他にも注目に値するものがあります。まずはこの鐘楼堂の梵鐘(釣り鐘)
以前ご紹介したことが有りますが、加賀藩の鋳物師で宮崎彦九郎儀一(初代寒雉)の作になります。

以前に宮崎彦九郎儀一(寒雉)を書いた記事 ⇒ 2013.05.08 宝乗寺
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宮崎彦九郎家は金沢で代々寒雉の名を受け継いで現在14代続く茶釜鋳物師で、大樋焼とともに金沢茶道界の一翼を担ってきた伝統工芸の名家と云えます。その宮崎寒雉・初代の梵鐘になります。

初代・宮崎寒雉こと宮崎彦九郎義一 祖先は七尾北湾の海辺の能登・中居村(現・鳳珠郡穴水町中居)で代々鋳物師を営んでいました。中居村は近くに原料産地もあり、古くから鋳物の産地として知られていたようです。現在は左官業の町になっているそうですが、七尾湾に沿って走る国道249号線を奥能登に向かうと入江に古代猟法のボラ待ち櫓が見られる中居ふれあいパークがありますが、その近くに能登中居鋳物館があり、往古の能登鋳物の歴史が解ります。
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天正9年(1581年)前田利家が能登を領有した際に召し出されたのが中居村の宮崎彦九郎吉綱(義一の祖父?)小丸山城の普請にも係わったと云われますが、主には武具・馬具・鳴り物(鉦鼓,銅鑼など)などの製造に係わっていたようです。天正11年前田利家が金沢に入城すると、木の新保(現金沢駅・駅周辺)に千坪の土地を授けられて武具・馬具の生産工場を任されていました。

江戸時代に入り状況が落ち着いてくると、武具・馬具の製造はある程度落ち着き、加賀藩の民心安定政策として寺社の保護政策が盛んにおこなわれることになります。社殿の再建整備、仏具・神具の奉納が盛んに行われています。これは初代の利家から盛んに行われた政策でしたが、寺社に対する梵鐘も奉納品としては重要視されたものです。この製作に大きく係わったのが鳴り物に熟練した宮崎彦九郎家だったのです。その中でも初代・義一の作品が形・音共に加賀藩領内で最高品とされていました。有名なものでは富山城の時鐘にも採用されていました。現存する義一の作製した梵鐘は20口ほどと云われています。



天下も江戸幕府によって固まり、武力・兵力の増強は幕府に睨まれるようになると、、金沢・高岡・小松を江戸・京都よりも文化都市にしようと三代藩主・前田利常は京都を中心に全国の文化・教養人を招聘、工芸品の製造研究施設として御細工所を創設します。この政策は利常・光高・綱紀の三代に渡って完成され、金沢伝統文化の多くがこの時の基礎になっています。

慶安5年(1652年)小松城に隠居していた利常は、京都から裏千家4代・仙叟(せんえい、せんそう)宗室を招聘し、小松城三の丸に屋敷と茶室・玄庵(当時の仙叟の名・玄室から)を造営しています。

茶道には多くの流派がありますが、主流・本流になっているのが表千家・裏千家・武者小路千家三千家になります。
ちなみに表千家とか裏千家とか云われても、よく解らないという人に、、、千家の開祖は千利休になりますが、そもそも千という変わった姓名は利休の祖父・田中千阿称(里見氏の傍流)から採ったものと言われますが、それもはっきりしていません。

千利休が豊臣秀吉に切腹・梟首されると長子・道安は飛騨高山・金森長近(阿波説もあり)に逃亡、次子・少庵は会津・蒲生氏郷に蟄居していました。つまり千家は取り潰し状態にありました。道安は先妻との子、少庵は後妻の連れ子で養子になります。少庵の実父は能楽師と云われていますが、松永久秀という説も有力です。この異母兄弟は生年は同じで仲が悪く、茶席を同じくすることは終生なかったと云われます。しかし、茶道への研鑽・情熱は強く千家として相互協力は怠っていませんでした。

利休切腹から3年後の文禄3年(1594年)、前田利家・徳川家康の斡旋で千家再興が許されて、道安が本家として堺千家を起こし、少庵は分家として京千家が復活します。ただしこの時、秀吉は道安を惣領としながら、没収していた利休の遺産と云える茶器類は秀吉の指名で二人の兄弟ではなく、少庵の息子で僧籍だった宗旦を還俗させて贈っています。秀吉は道安を惣領としながら、その後継には宗旦を指名したわけです。
道安は堺千家を再興すると、秀吉死後は細川忠興の誘いで茶頭として300石で豊前に赴きますが、慶長12年(1607年)61歳で死去。墓所は初め大宰府・崇福寺から、後に堺の南宗寺・千家一門墓に移されています。子孫は無く無子断絶。このため、少庵の京千家が本家となりますが、元々身体的(下肢障害)に不安のあった少庵は家督を宗旦に譲り後見になっています。

千宗旦は政治との係わりを嫌い仕官せず、乞食修行まで行って、清貧と侘茶を追求して千家中興の祖とも呼ばれています。しかし内情は当然ながら火の車、そこは親心か息子たちをそれぞれ手に職を持たせようとしたり有力大名に斡旋、仕官させています。長子・宗拙(加賀前田家⇒勘当、浪人)、次子・宗守(松平高松家)、三男・宗佐(紀州徳川家)、四男・玄室(宗室、加賀前田家)といった感じです。

三人の仕官が決まる少し前、3代宗旦は三男・宗佐に家督を譲って、敷地内に隠居宅・茶室(今日庵)を建てて四男・玄室を連れて隠居します。ちなみに長子・宗拙は勘当浪人、次子・宗守は塗師・吉文字屋(中村宗哲家)に養子に入っていました。ちなみに玄室も医師へ修行に出されており、玄室の名もこの時に名乗ったものと言われています。

前述の様に慶安5年(1652年、30歳)仙叟玄室は、前田利常から小松城三の丸に屋敷と茶室(玄庵)が与えられ仕官しています。しかし、万治元年(1658年、36歳)、前田利常・千宗旦が相次いで亡くなると、小松能美領は加賀藩に収公、また今日庵の相続もあって京都に戻ります。今日庵・宗旦の遺品はそのまま仙叟玄室が相続して、名前も仙叟宗室と改め分家・裏千家を立ち上げます。更に養家から晩年の宗旦の元に戻っていた次子・宗守に弟二人からの勧めで、同じく分家・武者小路千家を建てて松平高松家に仕えています。この宗旦の息子三人が建てた三家が、現在に受け継がれて千三家として茶道の本流となっています。ちなみに三家とも開祖は千利休としており、当主は代々、宗佐・宗室・宗守を名乗っています。

千家流とは別に同時期に発生した流派には大名家・武家からの派生、寺院から派生など多くの流派が誕生しています。その多くが各藩から保護や援助を受けていました。しかし明治の廃藩置県によってスポンサーを失って多くの流派が消滅しています。それでも危機を乗り切ったり復活した多くの流派が現在も受け継がれています。
金沢では仙叟宗室が在藩したおかげで裏千家流が多いのですが、その他にも小堀遠州・古田織部の門人の流れを汲む遠州流千道安の流れを汲み金森宗和(金森長近の孫)が創始した宗和流も多く観られます。

仙叟宗室の小松時代は茶道茶道具奉行となっており、鋳物師としての宮崎彦九郎吉綱(父)も知己を得ていたと云われます。吉綱は仙叟の指導もあり、利常の御用釜師として次男・義一を京都に修行に出し、仙叟の指導を受けさせると共に行動を共にさせています。義一の京都での釜作りの修業先は諸説あります。金沢に戻って後も義一はその後も仙叟の指導を受け茶釜の名作を多く残しています。

仙叟は利常・宗旦の死後、京に戻って裏千家を創設しましたが、寛文6年(1666年、44歳)5代・前田綱紀によって茶頭として加賀藩に招聘されます。その際に同道したのが楽焼・土師(大樋)長左衛門で、加賀藩のお庭焼となって金沢茶道の茶器の中心的存在となった大樋焼の祖になります。この宮崎家の茶釜大樋焼が加賀藩・金沢茶道の両輪として大きな役割を果たしてきました。

仙叟は寛文11年、正式に茶頭として再仕官、150石と味噌蔵町(現・大手町、寺島蔵人邸の近く)に屋敷地を受け、茶室・宗旦臘月庵(ろうげつあん)を構えています。ちなみにこの5年後、金沢在住中、50歳の時に後継となる常叟が生まれています。その後、元禄元年(1688年、66歳)まで精力的に京都・金沢を往復していました。京都に戻って利休100回忌法要と利休堂(御祖堂)を建立。元禄10年、76歳で逝去。本墓は大徳寺聚光院ですが、分骨された墓が金沢の山の上町・月心寺にもあります。
5代・常叟も加賀藩に仕官していましたが、後に辞去して伊予松山藩久松家に移り、裏千家は幕末までこの二藩(松山藩・加賀藩)に仕えていました。
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長々と仙叟宗室について書いてしまいましたが、初代・宮崎彦九郎寒雉(義一)は仙叟の薫陶によって、独自の名茶釜を生み出し、御用窯師の地位と寒雉(かんち)菴号(あんごう)を授かり現代にも続く窯師の家系を造ったのですが、茶釜以外にも梵鐘・銅鑼・仏具などの製作も精力的に行っています。特に梵鐘・時鐘は銘品揃いとして各寺の寺宝になっています。県内に20口程残っていますが、造りの姿も良いのですが音色が美しいと評価が高いものです。現存していませんが、正午に打ち鳴らされた富山城の二代目の時鐘は金銀を注入して何度も音ねを調整したという逸話があります。

黒船が浦賀に現れた時、沿岸では遠目に大砲に見えるだろうと、寺院の梵鐘を供出して並べたという笑い話があります。しかし戦時の金属供出で大きな犠牲になったのが、銅像と並んで金属の塊の梵鐘でした。この供出で大きな犠牲になった4万~5万口と云われる梵鐘はその多くが江戸期の梵鐘でした。宝城寺のブログから抜粋すると・・・

ちなみに梵鐘について、前回の芦城公園の利常銅像が戦時供出に遭ったことを書きましたが、梵鐘は更に厳しい対象になっています。古くは黒船来襲で梵鐘を置いて大砲に似せたという笑い話がありますが、その後も幕府が梵鐘を鋳直して大砲や武器に供出していたことはあまり知られていません。第2次世界大戦の梵鐘の供出は4~5万口以上、江戸期から戦前の梵鐘の9割と云われています。対象外となったのは製作年が慶長末年以前(1615年)の銘の有る物、国宝・重文指定、特別保存許可の出た物だけでした。本来寺社のほとんどが持っていた梵鐘ですが、戦後には製造の難しさから無いお寺も多く存在します。現在の梵鐘製作が限られた企業にとどまり、技術継承者の存在、作製工程の多さによるチーム編成などの問題が大きいそうです。年間200~500口の製作に留まっているそうです。失われた数を取り戻すには2世紀以上の年月を要することになります。特に江戸期の梵鐘の喪失は大きく、もし江戸期の梵鐘を見かけたら相当の銘品と思って、鑑賞、聴音することを心がけましょう。

戦時中の金属供出で多くの梵鐘が消滅したのですが、文中の様に国宝・重文・慶長末年(1615年)以前の梵鐘は除外され、県市町で特別除外になった一部を除き、軒並み寺院から梵鐘は姿を消していたわけです。その中で県内では初代・宮崎寒雉(義一)の梵鐘は特別除外の第一候補として除外指定を受けていました。他県でも江戸期の梵鐘を寺院で見かけたら、相当の名品か、地元や寺院が隠匿するほど大事にされたものと思って、心して観たり聴いたりしてみてください。。
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長壽寺の案内板・・・七尾市指定有形文化財 梵鐘 青銅鋳物 一口 名工 宮崎彦九郎義一(寒雉)
合掌 天正十年(一五八二)前田利家が七尾に入ったとき、穴水町中居の鋳物師の彦九郎を連れてきた。彦九郎は、小丸山城の普請にその腕を振るったと思われる。その子孫に宮崎彦九郎義一が寒雉(かんち)と号して茶釜造りでは有名な加賀藩の御用釜師となり数々の名品を残した。当山の梵鐘はその(寒雉)作で貞享元年(一六八四)七尾箔の元祖といわれる山崎屋の寄進であり、現在七尾市内に他二箇所、小島町西光寺、太田町の海門寺にあり、これらと当山の梵鐘は同年代に製作され七尾市内でも最も古い釣鐘である。
銘文の「蒲牢(ほうろう)」は梵鐘の異称である。乳は四段四列。草の間に阿吽の追い唐獅子を陽鋳する。名文は池の間の一、二区に陰刻し、縦帯の一、三区には蓮の花上に南無妙法蓮華経の題目を陽鋳する。 再拝


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文中に梵鐘の部位名称が多いので、右の図を@@ 時代によって名称が変わる場合があります。

「蒲牢(ほうろう)」は(ほろう)が本来の読みになりますが、鐘の銘ではなく、梵鐘の別名称の一つです。中国の伝説上の竜が生んだ9匹の怪物(竜生九子)の内の一つです。鯨(くじら)を襲い、襲われた際に、大声で吠えるということで、中国の梵鐘のほとんどがこれで、日本もこれに倣っているものが多いそうです。四つ足で吠えている竜頭があれば、大概は蒲牢がモデルになっているそうです。
陽刻陰刻は、文字や文様が盛り上がったものが陽刻、逆に彫り込まれたように見えるのが陰刻。

長壽寺の梵鐘は貞享元年(1684年)、宮崎彦九郎寒雉51歳の作品(生年は明確ではありませんが、寛永10年(1633年)が有力、80歳没)。

寄進者、七尾箔元祖・山崎屋について
現在、日本国内の金箔の生産9割以上を占める金沢金箔ですが、元々加賀藩当初は能登七尾で金箔が生産されており、金沢では銀箔が生産されていました。金沢に金箔打ちが広まるのは、17世紀初頭と思われますが、幕府による寛文7年(1667年)大名の貨幣製造禁止令、元禄9年(1696年)には金箔・銀箔の製造禁止、金座・銀座の移行で地金も流通禁止で、金沢金箔は幕末1850年代まで中断します。金沢金箔の復活は幕末で隆盛を極めるのは近代(明治30年代)に入ってからになります。

加賀藩の一番古い文献では、文禄2年(1593年))前田利家が朝鮮出兵中の名護屋城から「七尾(所口)で金箔を打ち、金沢(尾山)で銀箔を打て」と命じた文書があるそうです。この時にはすでに金・銀箔打ちが盛んだったと思われます。能登で金箔に携わった人物で名が知られれているのが、加賀象嵌の祖とされる彫金師・後藤甚右衛門(能登後藤、後藤琢乗門下)、利家に金箔を献上して諸役免除と屋敷地を与えられた箔屋佐助(松井佐助、京都山崎出身)の二人。山崎屋は後者と思われ、佐助の4代目に当たると云われています。箔屋佐助の子孫(山崎屋?)はその後、金沢・東山に移り、前述の幕末に金箔うちを復活させる能登屋佐助を輩出したと云われています。

旅行日 2018.08.18

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この記事へのコメント

  • tor

    戦時中の金属供出で多くの国宝級が行方不明になった中で除外され残って良かったですね。阿蘇神社の蛍丸はどうなったのだろうと…。今回茶道の流派について学ぶことができました。
    2018年09月22日 22:08
  • yasuhiko

    現代にも続くという茶釜鋳物師、
    宮崎彦九郎家の話、興味深く読ませて戴きました。
    戦乱の時代、武具・馬具を製造していた
    鋳物職人が、平和な江戸時代に、梵鐘や茶釜の
    造り手に転身して行く歴史が、よく理解できたような
    気がします。その時代は、様々な分野の
    職人・技術者が、同じように転身を図ったんでしょうね。
    茶道の流派の話も面白かったです。
    2018年09月22日 22:23
  • がにちゃん

    梵鐘の鐘の音は心が落ち着きますね
    銘鐘ならなおさらなのでしょね 聴いてみたいものですね
    千家 いろいろあった千家ですね  
    話は少し違いますが、玄室さんは今でもお元気ですね(笑)
    最も昔から色々うわさはありましたが
    2018年09月22日 22:54
  • つとつと

    torさん
    北陸は古くから寺社の信仰が強く、金属供出を免れた梵鐘や銅像があります。
    やはり白山僧兵や一向一揆の歴史が色濃い地域で、政府も遠慮した部分もあるようです。とはいえ、それでも多くの重要品が消えたのは確かです。
    阿蘇神社の蛍丸、来国春の名刀ですねえ。行方不明で文化財指定を受けてるのは珍しいですから。行方が解るといいですねえ。写しが出来たというニュースを見たような。。
    2018年09月23日 14:13
  • つとつと

    yasuhikoさん
    全国に工芸品の名作や名工がありますが、その多くが軍機から転身したものが多いようです。幟も広告用のぼりに転用されていますから。。
    茶道も意外に身近で観たり、体験することが有るんですが、たまになのでとまどうばかり。。それと個人的に家族に抹茶嫌いがいるんでますます機会が減ります。
    2018年09月23日 14:40
  • つとつと

    がにちゃんさん
    そういえば、騒音問題などで、梵鐘の音を聞くことが少なくなってきましたねえ。。打ち手が減ったというのもあるんでしょうが、あの音は夕暮れなどや徐屋には欠かせない音だと思うんですがねえ。あの音が騒音に感じるのは感性が変わっちゃったんでしょうかね。
    裏千家、賄賂強制問題とか、組織も大きくなるといろいろ問題が大きくなってきますね。。侘びとか寂を追求するのが千家の家風だったはずなのに、格式とか家元とか組織維持には必要かもしれませんが、ピラミッドの上で胡坐をかくのは身を滅ぼすことになるんじゃないかと、今の裏千家を観ると危惧しますね。
    玄室さん、たしか90代でしたね。おさかんですね~~女好きは年齢には関係ないんでしょうか。
    2018年09月23日 14:58
  • まだこもよ

    この前TVでやってましたが・・・鐘の中に 頭をいれて ゴーンってやると・・・
    なんと 音がほとんど無いらしいですね!(コントでは 「うるさい」と やっていたような・・・・あれは嘘なんですね!)
    2018年09月24日 04:50
  • つとつと

    まだこもよさん
    へえ~~ そうなんですか しらなかった~~ 大きいのの中に入ったら鼓膜や頭がおかしくなっちゃうと思ってました。道成寺の清姫も中にいる時は大丈夫なんですねえ^^
    2018年09月24日 14:34
  • 家ニスタ

    以前百貨店に勤めていたときに、数年呉服売り場にいて、そのときに会社のお金でお茶を習ったことがあります。
    たしか裏千家でした。
    週に一回通って、手順やらなにやらおぼえたのですが、今ではまったくおぼえていません。
    その後なにかの役に立ったということも、一切ありません。
    「お茶って手順が細かく決まっていて、面倒くさいなあ」
    という感想だけが残っています。
    今習えば、もうちょっと違った感想を持てるんでしょうか?
    2018年09月25日 22:52
  • つとつと

    家ニスタさん
    本来の茶道は心を落ち着けて、落ちつかせるために飲む・喫するというのが本来の筋だったんですが、江戸時代には大名家や武家の格式や作法や様式が優先されて、明治以降は生き残りのために家元制度や文化検定や教養科目になったりで、様式・格式が優先されていますね。当然ながら、家元を頂点にしたピラミッド組織は、家元や会長がしっかりしていれば、問題ないんですが、今の裏千家はがにちゃんさんが言うようにいろいろ困った事態が、その内大変な事態が起こるかも。。
    僕も一・二度、茶席で機会があって飲みましたが、あんなしゃっちょこばった席は遠慮したいですね。茶席は2.3人でゆったりがベストですね。でも基礎だけは習って損はないと思います。
    2018年09月27日 09:29
  • ゆらり人

    梵鐘のご説明を興味深く読ませて頂きました。
    このデザインと模様が本当にどういう目的でこのようにしたのか何時も思っていました。
    まさか全体に竜が登るがごとく貼り付かせていても良いのかな~とも思いますが鐘の響きにも影響を与えるかも知れませんからね。
    一度、粘土で作ってみたいですが、このような単純な模様ほど均整がとりにくく、難しそうなので手を付けていませんよ。
    何時も詳しく掘り下げて書かれているご説明に感心しております。
    これからも長~くお続けくださいね。
    2018年09月29日 09:52
  • つとつと

    ゆらり人さん
    梵鐘は一つ一つ、形や文様、音色が違って興味深いですねえ。共通しているのは乳・池・草の間を帯模様で分けているところですか。高岡が生産の多くを手掛けているんですが、この文様や乳や竜頭は音を左右するんだそうです。たぶん影響するんでしょうが。。。確かにこの均整の取れた姿は作るのに苦労しそうですねえ^^
    2018年09月29日 11:45
  • ミクミティ

    加賀前田家は、武力ではなく文化の振興を図ったのは有名ですが、よくここまで徹底してできたなと思うことがあります。やはり前田利常が打ち出した藩の方針をしっかりと守ってそれが受け継がれたことが大きいのでしょう。その意味で、利常の偉大さを感じます。
    個人的にはあまり注目していなかった梵鐘造りに高い技術と芸術性があったことをあらためて認識した次第です。確かに金箔の歴史も面白そうです。
    2018年10月02日 21:19
  • つとつと

    ミクミティさん
    加賀藩の文化をみるならば、金沢・七尾・小松・高岡は外せない町です。
    当時の前田家は北陸の人にとってはあくまでよそ者だったんです。それに侵攻時点では人口率の多数を占める真宗と闘っていますから。。前田家が北陸に地盤を固めるには、武力よりも文化などの精神面が重要でした。政策も徹底していますが時代がちょうど味方したともいえますね。
    梵鐘や銅像の製造では現在でも高岡が国内の多くを占めています。もし機会があったら、高岡の銅器工場団地を見るのもお薦めの一つです。金箔は国内生産の9割が金沢産、降水量日本一を高知と争うくらい湿度が高いことが金箔瀬増に向いているそうです。住んでいる僕たちは夏の蒸し暑さには辟易していますが。。
    2018年10月03日 10:08

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