西山古墳群~高座八幡神社

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西山古墳群 標柱

前にご紹介した北陸最大級の前方後円墳1号墳の秋常山古墳群と隣接しているのが西山古墳群になります。秋常山は発見時は西山古墳群の一部とされていました。
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以前紹介したように能美平野の中に点在する丘陵地帯を利用して造られたのが能美古墳群ですが、その中で一番東方の丘陵に位置しています。前回紹介したようにこの西山古墳群も南面や西部が宅地や田畑地として掘削を受けています。更につい最近まで西山はこの辺りの秋常・高座・久常といった地区の共同墓地になっていました。
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西山古墳群入口

久しぶりに訪れてみると共同墓地は平坦地に降りて新設されていて、西山墓地はその多くが撤去移動されていました。国史跡指定の関係と思われますが、墓石が撤去されたとはいえ、古墳の形跡は解り難く、西山古墳群の標柱が無ければ、古墳のあった地とは解らない状態。。今後の灌木や藪地の整備が課題になってくると思われます。
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何カ所かは円墳の形跡も観られますが、この西山は古墳群が注目されていますが、その前の時代、弥生期から古墳期への移行期の周溝墓、土坑墓・木棺墓が発見されています。また、その位置が古いものが高度の高い東北部の位置、古墳期の物は麓の低地である西南部と見事に分離されていて、しかも同じ方向に並列しています。墳墓同士があまり重なる場所がないということです。とはいえ、その後の平成に至るまでこの西山の上は墓地の集積地だったわけです。
以前は地続きだった秋常山の大型古墳を含め、弥生期から古墳終末期そして現代までの埋葬の歴史が刻まれているということです。今後の調査によっては埋葬の仕方や仕様・墓所の形態の変遷が同じ場所で比較できる適地になりそうです。

国指定史跡・能美古墳群 西山古墳群  平成25年10月17日 国史跡指定

国指定史跡能美古墳群は、能美市の平野部に分布する5つの独立丘陵上(寺井山・和田山・末寺(まつじ)山・秋常山・西山)に造られた古墳群の総称です。現在、60基以上の古墳が確認されており、今から1600年前の古墳時代(3~6世紀)に造られた、能美地域を治めた首長とそれを支えた人々の墳墓と考えられます。
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西山古墳群は、能美古墳群の最も東に位置する支群です。昭和39年(1964年)からこれまでに7次の発掘調査が行われ、17基の円墳が発見されています。

古墳が造られた時期は5世紀後半から6世紀後半の約100年間にわたります。その始まりとなる3号墳は、小規模な円墳ながら鉄製甲冑や銅鏡などを副葬していました。6世紀前半までは、丘陵の西尾根・北尾根斜面を中心に直径12~20mの円墳が多く造られています。(13~25号墳)

6世紀後半になると、尾根頂部を中心に、加工した凝灰岩を積み上げた「切石積横穴式石室」を埋葬施設とする円墳が造られます(1・2・8・9号墳)。ここでは、鈴杏葉(すずぎょうよう)や馬鐸(ばたく)といった銅製馬具、金銅で飾った馬具や鉄鏃、鉄刀、玉類、須恵器を始めとする豊富な副葬品が見られることから、能美地域のなかでも有力な首長がいたことを示しています。

その他に、西山では弥生時代の土抗墓・木棺墓群や戦国時代の砦跡も見つかっています。

西山古墳群は、能美古墳群の終焉を物語る重要な支群として、平成25年に国史跡に指定されました。

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なにはともあれこれからの整備が待たれます。東の山塊の戦国期の砦跡の上にも弥生期の周溝墓があるようですが、灌木と藪に阻まれてまだまだ個人レベルでは確認できません。まだまだこれからといった感じですが発掘物は能美市立歴史民俗資料館で一部が見られます。能美市では昨年、能美市立博物館が老朽化で閉館したのですが、来年にはリニューアル開館予定なのでそちらにも期待しています。資料館も老朽していますから、リニューアルするかは分かりませんが、収蔵・研究施設もその分は改善されるでしょうから。。。
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というわけで、西山の東方部の山中をうろうろしただけで収穫もなく撤退してきたのですが、このまま帰るのも空しいので、戦国期の砦があるという西側の麓に行ってみると、高座八幡神社がありました 。ここは西山古墳群のある西山地区を形成する高座(こうざ)町の産土神になります。

石川県神社庁の八幡神社由緒によれば・・・

御祭神 応神天皇 神功皇后 比咩大神
由緒   創立年月不詳。神社の裏山一帯に古墳群がある。またこの丘陵によって水害がない。古昔春日部族の住んでいた所で神祠があったが、後世石清水八幡宮の御料田があったので八幡社を勧請したと伝えている

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いたって簡単な由緒書ですが、文中にあるように能美(寺井)の地は元々から平野部の低地帯のため近くの大河で暴れ川と云われる手取川の洪水に悩まされて来たのですが、背後の西山が自然の堤防となって、集落を守ってきたのです。春日部族ですが、武蔵・会津などにある春日部氏と北陸には関連性が無く。近江・越前に係わりが深く春日という地を地盤にした豪族一族となれば古代の雄略・安閑天皇の后妃(春日山田皇女)を出した大和北部の春日和邇氏に繋がる一族だと思われます。その春日部氏の傍流一族が祖神を祀っていたのが創始のようです。
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秋常・高座の地区は古くは石清水八幡宮の御料田(荘園)だったので、その所縁から八幡神を勧請したと思われます。ちなみに文書的には建仁元年(1201年)に石清水(男山)八幡宮の神職分立の菊大路家譲り状に「秋恒」の名があり平安後期には御料田になっていたようですから、創建建立もその辺りではないかと思われます。
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石清水八幡宮・護国寺は神仏習合の先駆け的存在で、貞観6年(864年)には八幡宮と護国寺は一体と見なされていました。更に神宮寺(護国寺、宮寺制)が10世紀前半には置かれていす。トップと言える神宮寺(護国寺)別当は4代目から紀氏が世襲となっていました。平安末期、27代別当の垂井(紀)光清の時代に息子の二人に祀官と全国八幡宮の諸領地を持つ田中坊(田中家)・善法寺坊(後菊大路家)に入れて分派させています。現在、石清水八幡宮に伝わる石清水八幡宮文書は両家が現在まで伝えてきたものを云います。前述の「秋恒」の名が出る文書もこの石清水八幡宮文書の一節です。
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ちなみに垂井光清の娘二人も有名人で、美濃局(紀家子)は鳥羽上皇の後宮に入り、二皇子・一皇女を産んでいます。二皇子は僧籍に進みますが次男・覚快は安元事件の責任を取って流罪となった明雲に変わって天台座主になっています。3年で病気引退して明雲が復帰していますが法性寺合戦で明雲は座主のまま戦死。混乱に巻き込まれずに済んでいます。
もう一人は太皇太后・藤原多子の女房・小侍従。平家物語・源平盛衰記双方に出てくる女流歌人で、高倉・後白河・後鳥羽と三代に仕えています。平家物語では「待宵の小侍従」と称され、鴨長明に当代一等の女流歌人と呼ばれ、後白河法皇の宴席で法皇をやり込めた逸話は有名。後白河・後鳥羽とも関係した恋多き女性で伝承も数多くあります。

待つ宵の ふけゆく鐘の こゑきけば あかぬ別れの 鳥は物かは (平家物語から)
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神社のある高座(こうざ)の名の由来は、元来は仏教僧侶が弟子に講義したり,信者に説教をする場合に周りより一段高い壇や厚い座布団を設けて坐った場所を意味します。寺井の地ではこの地に高座が置かれ近在の民衆に講義を行っていたと伝わっていることからこの名が付けられたと云われます。加賀では真宗が盛んに講を結んで、高座を催したと云われますから、高座町の命名は15世紀後期以降だと思われます。
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ついでに演芸や寄席の演じるところを同じ高座と云いますが、語源は前述の僧侶の高座から来ていて、江戸時代に成立し、文化年間に講釈師が演じたあたりから舞台全体を呼ぶようになったようです。

実は秋常八幡神社は以前から知っていたんですが、高座八幡神社は存在自体知らなくて、本当の初訪問。。
山に登るような石段は日に当たらないせいか苔むして古そうに見えますが、石段前の鳥居・手水舎や狛犬は新しく新調したように見えます。狛犬の台座裏に昭和63年(1988年)寄進とありました。

石段に登る前の看板を読んでみると…

能美市指定文化財 天然記念物 高座のアベマキ群
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高座町八幡神社内のアベマキは、もっとも大きいもので高さ28m、幹周3.8mにもなり、本市において最大、石川県内に現存するアベマキの中でも最大級である。他の2本も太い幹と大きく伸びる枝、分厚いコルク質の樹皮をもち、老木としての風格を備えている。
アベマキは、過去に薪や炭の材料として利用されたため、巨木が残ること自体珍しい。このアベマキは、古くから神木として崇敬されてきただけでなく、高座町のシンボルとして町民に大切にされてきた。
鎮守の神木としてだけではなく、古来の姿をとどめている巨樹として貴重であり、後世に伝えていくべき文化財である。      平成21年11月25日制定 能美市教育委員会


神社を見上げていたらクヌギの木かと思っていたら、アベマキ@@???
アベマキの名は知らなかったので後で調べてみると。。。
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アベマキ Quercus variabilis Blume  (ブナ科 コナラ属)

アベマキは落葉性の高木で、中部地方から九州の段暖帯の二次林に多い。クヌギに似ているが、樹皮に厚いコルク層が形成される点と葉の裏面に毛がある点で区別できる。岡山の沿岸地帯では、マツ枯れの跡地を回復する主要樹種として、コナラとともに重要である。
アベマキの葉は丈夫でしっかりしており、葉の色は深い緑色で、大きいものでは長さ20cm程になる。葉の表面は光沢があり、太陽の光を反射して輝く様子は、落葉樹でありながら照葉樹的である。葉の裏面には蜜に毛があり、灰白。厚い樹皮とともに乾燥に対する適応と考えることができ、毛がないクヌギとの簡単な区別点。
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アベマキは「あばたまき」の意味で、樹皮がコルク層の発達によってあばた状になる様子を意味していると言う。樹皮を拡大してみると、年輪のようにコルク層が形成されていることがわかる。岡山地方の地方名が標準和名に採用されたものといわれている。
 コルク層が厚いために薪、木炭、椎茸のホダギとしてはクヌギに劣ると言われている。ワインの栓などに使用するコルクは、地中海沿岸に生育するコルクカシから採取したものであるが、アベマキのコルク層はそれほどは発達しない。第二次世界大戦中から戦後しばらくの間はアベマキのコルクで代用した。多くは一度砕いて糊で固めた粉コルクとして使用した。
                    (岡山理科大学 植物生態研究室(波田研)のHPより引用)

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アベマキは樹皮がコルク質なので押せば弾力があるそうですが、カチカチだったけどなあ。。クヌギと似ていて見分けがつきにくいそうですが、葉の裏が白っぽいのがアベマキなんだそうです。国内では山形以南で西日本に多く見られるそうで、ワタクヌギ, オクヌギ, コルククヌギ, ワタマキ, クリガシワなど各地で色々な呼び名があるそうですが、文中のように岡山県の地方名が標準名で漢字にすると「阿部槙」。阿部という地名は僕の知っているところでは備中総社のあった阿部(あぶ)村(現総社市)。安倍晴明の屋敷と天体観測の伝説が残る阿部山。語呂的には後者でしょうか。
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20m程の巨樹になるそうですが、樹皮がコルク質なので、シイタケの榾木(ほだぎ)の原木や、炭薪に使用されるので、巨樹はなかなか見られないそうです。巨樹としてはアベマキの唯一の国天然記念物・岡山県の口大屋の大アベマキ(樹高16m・幹周5m)、最大は岐阜県の釜井の丈マキ(樹高12m・幹周7.1m)といった所。石川県内では幹周5メートル超が能登にあると聞きますが、この高座のアベマキは幹周は3.8mですが樹高は28mと国内でも全国レベルのスマートボーイ。。花を観ていないので雄雌は不明。。花は雄が房状、雌が綿玉のような小粒な花。先述のHPの画像を見て納得、けっこう見かけるものでした。

高座八幡神社の扁額もアベマキの木材使用のようです。着色もあるようですが、なかなか雰囲気のあるものです。ついでに拝殿前に色絵つけ前の九谷の素焼きの獅子像が狛犬代わりかな。拝殿扉の隙間を除くと随身神の矢大臣の姿(右の左大神は見えず)と太鼓がチラリ。。社殿は小振りですが地元から大事にされている神社のようです。
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諸説が多い矢大臣・左大神についての個人的考察

右が矢大臣なので、もう一人を左大臣とする人もいますが、本来の左右大臣とはこの二人は違います。平安期でいえば、左右の近衛府の大将・長官が近い存在、ひな祭りの段飾りの下段にいる二人が本当に近い存在といえます。ただ、随神の姿は大臣でも大将・中将クラスでもなく護衛の舎人や武官の姿です。

その他の説では、古代には左右大臣(大臣(おおおみ)はありました)はないから、左が中臣鎌子(藤原鎌足)、右は竹内宿祢としているところもあります。ちなみに二人の中臣・宿祢は大和政権から与えられた身分・位を示す姓(かばね)になります。天皇・大君を身近で守るということでは合いますが、共に軍師・文官のイメージです。純粋な武官というイメージからは遠いものがあります。

本来は矢大臣・左大神共に神様を間近で守る「随身」だったのが、時が経つごとに「随神」と呼ぶようになり、神様の身近な護衛が、隋神としてどんどん前に出て門番になったり、狛犬の獅子や狛犬(高麗犬)と同じ扱いになってしまったのではないかというのが正解のようです。
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この神社の神殿後方の山上が戦国時代の砦跡があったそうですが、斜面を登ってみたものの、やはり灌木と藪で仕事中の服装なので途中で断念。。ラフな格好で出直しの予定。。。
山上には戦国期の砦跡の他に2基の弥生周溝墓が確認されているそうです。

考察の追加
yasuhikoさんが武蔵総社の大國魂神社で隋神門を観たと云われたので、随神の異説の追加として、、、大國魂神社のように国絡みの神社の隋神門に侵入者を見張るように祀られている随神像は「豊磐間戸(とよいわまと)命」「櫛磐間戸(くしいわまと)命」と称しているものが多くあります。この二神の神は豊や櫛が美称になることから同一神とみられることもあります。
豊磐間戸命の別名は天石門別(あめのいわとわけ)神と呼ばれています。天岩戸伝説では豊磐間戸しか登場せず櫛磐間戸は登場しませんが。。。
名前の通り、天の岩戸伝説で天の岩戸をこじ開けた天手力男(あめのたぢからお)神と同一視されますが、天照神が岩戸から出た後は天照神が入った神殿の門を守ったとされています。

その後、この二神は瓊瓊杵(ににぎ)尊の天孫降臨時に従って降臨しています。瓊瓊杵は降臨後、三種の神器を納めた神殿の門衛に二神を建てたと云われます。
その子孫となる神武天皇が皇天二組(天照・高皇産(たかむすび)?)の神勅を受けて、神籬(ひもろき、依り代)を立てた時に、神籬の前に建てた御門に先例に倣って二神を奉納したと云われています。この神事から天皇の宮殿の四門にこの二神を門の守護神として置くということから神社に派生したというものです。

説としては一番有力とも云えるんですが、天孫族の一員と言える上級神を、いくら奈良・平安期とはいえ社殿外で衣装が下級武官というのはそれでは考えられなくなります。
ただ、拝殿内に置いた場合、衣装は別として存在自体がこの二神というのは、一番有力と云えます。

旅行日 2018.09.25


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この記事へのコメント

  • tor

    古墳から神社までたっぷりと楽しめますね。西山古墳群はこれから徐々に全貌が分かって来るのでしょうね。私が仕事でお付き合いしていた方が定年退職され再雇用で働いておられたのですが、一昨年退職されて遺跡発掘の手伝いを始められました。興味のあることをしたいと…。そんな生き方も有かなと羨ましく思っています。矢大臣・左大神についての解説もよく分かりました。九谷の素焼きの獅子像も良いですね。
    2018年11月11日 19:21
  • がにちゃん

    アベマキ初めて知りました
    コルクのようになっている幹  火をつけやすそうに思えるのですが、薪に適さないのは火持ちが悪いからなのでしょうか
    古墳群  整備もされているようですね  
    素焼きの獅子  何気にかわいい  
    2018年11月12日 17:46
  • つとつと

    torさん
    西山古墳群は能美古墳群の中では異色の存在で、弥生期の周溝墓・最盛期の巨大古墳・終末期の円墳群と長い期間の物が混在しているんです。ところが混在すると云っても古いものの存在を知るようにそれを避けるように配置されています。
    つまり有力者が同族で続いていたと思われるのです。調査はある程度進んでいるようですが、整備や復元が待たれますねえ。
    生活のためについつい目先の職にキュウキュウとしてしまいますが、出来るなら好きなことや興味のあるものに進みたいですねえ^^早い段階で気づいてチャレンジできれば幸せですが、時を経て他の知識を持って臨むのも有りだと。。僕もそんな生き方が出来ればと思います。
    2018年11月12日 18:58
  • つとつと

    がにちゃんさん
    アベマキ 後で調べてみると、けっこう身近な木でした。僕の周りではコクヌギでクヌギと同じものとして扱っていました。調べてみると僕の所より、京都の方に高さを誇る木が多いようです。しかも住宅地の中に@@ 区民の誇りの木というのがあるのを知りましが、そこにけっこうアベマキがありました。
    薪炭にむかないどころかよく使われた木なんですよ^^クヌギに比べてというだけです。すごく使い勝手の多い木で、そこそこの大きさになると、薪や榾木に使われてしまうのでなかなか大木が見られないんだそうです。
    色絵付けされていない獅子もなかなかでしょ^^素焼きの九谷もなかなかでしょ
    2018年11月12日 19:18
  • 藍上雄

     古墳群、興味深いですね。札幌周辺の恵庭市や江別市でも円形で周囲に溝を掘った、末期古墳群が有ります。(これは擦文文化・本州では飛鳥時代に造られたもので、蝦夷征伐でやって来た東北地方の墳墓との事です。)そちらの古墳は、色々な時代のものが混在して出来た古墳群様ですね。
     時や場所が離れていても、どこかで繋がっているようなロマンを感じます。
     高座八幡神社の扁額、アベマキとの事ですが確かに加工しやすいのでしょうね。中々趣のある額ですね。少し見えるお公家様の像も神社の格式を感じます。
    2018年11月12日 23:06
  • つとつと

    藍上雄さん
    地域によっても状況は変わると思います。北陸は出雲・大和・九州・東北の文化がいろいろな面で混在しています。同じ場所に重なっているのではなく並んでいることが多いのが特徴的です。北海道にも古墳があるというのは聞いていましたが、良きにつけ悪しきにつけ交流や戦闘があったんですねえ。
    アベマキは北海道では見られないと思いますが、戦時中や戦後、コルクが輸入できなかった時に代用になったのがこのアベマキだったそうです。これだけの大木が残るのは珍しいそうです。神社の神木として大事されたようです。でも神社前には伐採の後が結構ありました。神社は大規模でもない小振りな部類ですが、拝殿内に立派な矢大臣がいるのは大事にされている証拠かも。。
    2018年11月13日 10:03
  • yasuhiko

    西山古墳群が、ごく最近まで
    地元の共同墓地に利用されていた
    というのは面白いですね。
    古墳群のある一帯が、聖域という意識が
    地元にはあったんでしょうか。
    隋身(随神)の話も興味深かったです。
    こちら府中の大國魂神社にも
    隋神門があって、随身姿の守護神が
    左右にいますが、この門について
    今まで深く考えた事はありませんでした。
    2018年11月15日 21:52
  • つとつと

    yasuhikoさん
    云われてみれば、墓地は一種の聖域ですね。平生はとても静かな位置で近寄りたがらない人が多いようです。個人的には墓石が多い時はそれ程感じないんですが、この西山のようにポツネンと墓石が残ってる方が緊張します。
    大國魂神社。武蔵の総社と云われる神社ですね。隋神門の記憶はないんですが、あれだけ大きい神社ならあっても不思議はないですねえ。
    加賀では拝殿内に多く見られるんですが、隋神門となるとあまり見かけないんです。金沢の兼六園の金城霊澤の側にある金澤神社・大野湊の大野湊神社、加賀市の加賀二宮の菅生石部神社くらいですかね。。
    2018年11月16日 11:56
  • まだこもよ

    まだわかってない 古墳が まだまだあるみたいですね!
    2018年11月19日 07:52
  • つとつと

    古墳の場合は円墳でも方墳で盛り土をして固めていますから、草木を伐採して土を観ないと解りませんし、そもそも先に崩れたり掘削されていたりしますから、まだまだこの先にも発見されるかもしれませんねえ。近くの秋常山は大きすぎてわからなかったというのもありますからね。
    2018年11月19日 10:52
  • 家ニスタ

    墓地で改変されているとはいえ、円墳の形跡がたどれるのなら、まだいいですよね。
    僕の地元の古墳群なんか、完全に隠滅したらしいですから。
    それにしても、弥生時代から現代まで墓地として使われ続けるとは、すごいですね。
    戦国時代の砦跡にも興味あります。
    能美市立歴史民俗資料館ですか、リニューアルしたら、僕も行ってみたいですね。
    2018年11月22日 23:14
  • つとつと

    家ニスタさん
    小松・能美には古墳群が多いのですが、やはり消滅状態の古墳群も多いようです。
    秋常山や西山は山中に墓地が多くあったのですが、国史跡指定で平地に墓地が移されていますが、数を観ればこんなにあったんだと痛感させられます。
    民俗資料館は和田山の古墳脇にあって、鎧や剣等の発掘品が見られます。以前、紹介したように古墳を利用した和田山城もありますから、なかなか見どころの多い所です。博物館がリニューアルされると、展示物を移動すると思いますから、早めに見た方が良いかも。
    2018年11月23日 14:47

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