椿原天満宮①

画像椿原天満宮 右の道が天神坂
この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。

江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。
金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡)
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天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。
金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でした。

ところが南金沢・白山市や小立野方向からこれらに抜けられた道は二箇所だけでした。
一本は混雑する市街を抜けて兼六園下から東に向かう道。ところがこれだと3.4キロ遠回りで道も混むので時間が読めない。というわけで、六曲がりとも呼ばれる曲がりくねったこの天神坂は、10数年前までは狭い急坂に反して交通量の激しい道だったのです。現在は美大前からトンネルで直接田井町に抜けられますが、その交通量を観るとよくもあの狭くクランクだらけの道を多くの車が通っていたものです。トンネル道路が出来たおかげで、静かな通りに変貌して、椿原天満宮も神社らしい静けさを取り戻しています。
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久しぶりに椿原天満宮に立ち寄った目的は参道石段にある狛犬でした。
逆さ狛犬と呼ばれる逆立ちしている狛犬像は加賀が発祥と云われて、江戸期に東日本の一部更に西日本各地に広まったと云われています。ただし加賀藩で造られた狛犬はほとんどが手彫りで、材質が柔らかい凝灰岩、赤戸室石、笏谷石が多く、風雨雪による摩耗や破損が激しく製作年・奉納年などがはっきりしません。また石川県内の狛犬は「初老(40歳)記念」で奉納されているものが多く製作年と寄進年が多きくずれるものが多くあります。
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現在、石川県内には逆さ狛犬は100超が残っていると云われますが、製作年が不明なものがほとんどです。その中で製作年がはっきり解るもので最古になるものが、この椿原天満宮の狛犬になります。安政6年(1859年)石工・松田七左エ門
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椿原天満宮の狛犬は、逆さ狛犬の中でも初期型と云われていて、後ろ脚の蹴り上げが低くなっています。左の高麗犬などは後ろ脚を持ち上げただけ。。県内の狛犬は江戸期の物は足や尻上げは低く、近代(明治~昭和初期)のものはお尻と足の位置が高くなっていると云われます。椿原天満宮の狛犬は明治の逆さ狛犬の原型といって良いのかも。。

ちなみに、お尻の高さと蹴り上げが芸術的な美しさと評判なものは、21世紀美術館の向かい、広坂交差点にある金沢最古の神社・石浦神社(旧三輪神社・長谷寺・石浦山王)の摂社・広坂稲荷神社の入り口にある狛犬像(明治24年(1891年)奉納)。 ⇒ 石浦神社HP
のけぞり具合の凄さなら、ひがし茶屋街の奥にある宇多須(うたす)神社の狛犬は一見の価値がありです。今回は画像がありませんがまたの機会に^^;どちらも観光の人気スポットにあるので機会があったら立ち寄ってみてください。 ⇒ 宇多須神社(来まっし金沢HP)
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明治までは日本各地域で特徴的な狛犬がいました。並びも獅子+獅子、獅子+高麗犬(角がある)、獅子+高麗犬の場合は通常は右に高麗犬が多いのですが、逆も見かけます。椿原天満宮は後で紹介する拝殿の狛犬はこの逆パターン。逆さ狛犬は通常は向かって右にありますが、獅子もあれば高麗犬の場合も。。

逆さは見ませんが地域にもよりますが古いものでは狛犬とはいえ、どう見ても犬や狐というものもいます。要は地域ごと時代ごとでバラバラな形態でした。、、逆さ狛犬の最盛期も明治25年以降の約10年ですが、もちろんブームというのもありますが、神仏分離令と共に国家神道の強化と統一政策により、国から狛犬の形態も統一指示の内示が出されていました。それが明治29年頃で明治39年の神仏分離令から狛犬の形態も現在のお座り型(現代のモデルは愛知岡崎(三河岡崎)の狛犬がモデル規格とされたと云われます。ただ、分離令までの10年間に作製されたものは構わんだろうということで、反骨精神と駆け込みで作製されたためと云われます。分離令後の大正・昭和初期の逆さ狛犬は、その多くはこの10年の在庫を奉納したと云われています。この駆け込み時期に逆さ狛犬を含む変形狛犬を産したのが、明治政府に潜在的不満分子が多かった北陸・九州の石工産地と云われています。
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終戦後、明治末の規格統一がある程度浸透して、機械化と海外石の導入で手彫り石工が居なくなると、変形の狛犬が少なくなり、全国何処に行っても似たような狛犬になってきたというわけです。ただ企画が全てというわけではなく、各地域の伝統は残っていて顔や体形などは地域伝統が残ったり、新しい感覚も生み出されて来ています。

逆さ狛犬の起源や意味に関しては諸説あります。で、真相は解らず。。その幾つかを挙げると。。

まずは素材説・・・奈良・平安期は狛犬は屋内に置かれたことから木造が多かったのですが、前回ブログに上げたように随身(随神)と同じく神の守護獣や使いと考えられていましたが、幣殿から拝殿前、社殿前の渡り廊下から門前へと屋外に出るようになり石造に変貌していきました。元々、狛犬の起源と云われるエジプトのスフィンクス・メソポタミアのライオン像といったもののように、門番兼守護獣だった頃に昔帰りしたともいえます。ところが、貴重な硬い石(加賀藩でいえば青戸室石)は、まずは城の石垣や武家屋敷の土台に使用されました。一部の重要寺社にも少なからず廻っていますが、土台・石垣に使用され、鳥居や塀垣にと回されます。余った石材が石工に回されて狛犬や灯篭などになっていたわけです。このため形が変形なモノや限られた大きさになってしまいます。このため、変わった形態をとる必要から考え出されたのが逆立ちした狛犬になったというもの。

意匠に関しては・・・一番有力と云われるのが、加賀鳶の形態を真似たというもの、特に梯子登りの「鯱(しゃちほこ)」「足留め(玉つぶし)」ではないかと云われているもの。真似るという言い方はおかしいですが、言い方を変えれば威勢の良さと心意気にあやかったというもの。

意匠としては能美・小松に観られる九谷焼の獅子像の意匠の試作説なんていうのもあります。能美・小松・加賀市では九谷焼の獅子像を思わせる狛犬・獅子像がよく見られます。

神社関係の人がよく答えるものでは、後ろ足で雲を蹴り上げているというもの。曇天を打ち払い光(奇瑞)を呼ぶとして縁起物として,,ここまで来るともう訳解りませんが、挙句は石川県人の変り物好き石工の遊び心の作品と真相は解らず。
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椿原天満宮にはもう一対の狛犬像があります。拝殿内を拝観したのは初めてだったので、初お目見えです。表参道にある逆さ狛犬とは対照的なお座り型ですが、金箔押しの豪華な造りで筋肉質な狛犬です。この狛犬の形態は尾山神社の獰猛な狛犬に似ています。
前回話題にした矢大臣・左大神の隋身像、獅子・高麗犬の狛犬像が四点セットで幣殿に揃っているのは豪華ですねえ@@
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上:椿原天満宮 拝殿 右:拝殿扁額
神社の社殿には奥から神殿(本殿)・幣殿・拝殿・拝殿玄関の参拝所と並んでいます。まあ、中には伊勢神宮・春日大社・宇佐神宮・松尾大社など有名古社のように拝殿のないもの、明治神宮のように内外拝殿のように二つの拝殿を持つもの、小さな神社では幣殿と拝殿を一対にした幣拝殿になっているものもあります。
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椿原天満宮 本神殿
石垣は加賀藩以降のものですが、一向宗時代の砦(椿原山砦)の曲輪を利用した造りに見えます。幣拝殿から本神殿までを渡り階段で繋ぐのはたまに見ますし多少の高低はありますが、これだけ幣拝殿と本神殿に高低差があるのは珍しく、石川県内では能登の伊須流岐比古(いするぎひこ)神社くらいではないでしょうか。

本殿(神殿)が神様の御座所であり本来の神域。
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本殿に対して幣殿は神主が祭儀を行い幣帛・神饌を奉る社殿です。祭祀者(神主)以外が立てない神様の本当の窓口であり門前です。随身にしても狛犬にしても本来はここにいるべきものです。時代を経るごとに神域が広がり、随身や狛犬が表に出て行ったわけです。
ちなみに、東照宮などの権現造の神社では幣殿は拝殿と本殿の間に一段低く造られていて「石の間」と呼ばれています。中殿、繋ぎの間といった存在です。
しかし、自然崇拝・自然神道・国家神道と変遷はしてきても基本的には磐座・磐境・神籬の三点セットが、神社や神棚の原点になっていると云われています。磐座が本殿(神殿)、磐境が幣拝殿、神籬が拝殿といった具合です。

椿原天満宮のその他の見どころ ①菅原道真 梅鉢紋
画像椿原天満宮 菅原道真公石像と梅
天満宮は皆さんご存知のように、主祭神は菅原道真になります。でも古代から中世までは、天皇及び皇族を祀った寺院でした。菅原道真はあくまで人臣ですが、ある時から天満宮=菅原道真になったのです。まずは知ってるようで知らない菅原道真について・・・

学家と知られる菅原家に生まれ幼少から詩歌に優れていたと云われます。ここでよく勘違いされていることですが、よく身分低い貴族から学問ひとつで成り上がったと思っている方が多いのですが、最終官位でいえば、父・是善は従三位参議、祖父・清公は従三位・左京大夫、共に文章博士に就いた学識の家と解ります。従三位、参議以上が朝廷貴族の中では公卿と呼ばれる国政参加の幹部になりますから、藤原全盛時の中では決して低い家門とは言えません。

18歳で文章生になったのを皮切りに、23歳で数多い文章生から2名しか選ばれない文章得業生、26歳で官吏登用試験(方略試、現在の上級国家公務員試験)に合格して官吏の道を進みます。32歳で文章博士となっており、朝廷及び私塾で教鞭を取って若くして文人社会では中心人物になっています。とはいえ、官位・位階では通常並の昇進で41歳で正五位下で讃岐の国司として赴任して讃岐での善政で名を高めています。異例の昇進を重ねるのはこの讃岐守在任中の※阿衡(あこう)事件の諫言書によります。

事件から3年後、藤原基経が急死して跡継ぎの藤原時平が幼く、宇多天皇の親政が始まると、この時の諫言書の一件で憶え目出度い菅原道真は讃岐から呼び戻され、宇多天皇の政治ブレーンとして迎えられ、実績を残すとともに位階・職位ともに引き上げられていきます。宇多天皇の目論見には自分の政治ブレーンの中から大きく育った道真を独占勢力である藤原氏が再び台頭するまでに対抗馬にしようと図ったようです。道真の父方は学家の菅原氏ですが、母方は伴氏(大伴、紀氏)という藤原氏に排斥された一方の雄だったのです。これに道真も大きく応えたと云えます。
この間の道真の事蹟で大きい物には、寛平6年(894年) 唐の衰退を見透かしたような遣唐使の廃止にあります。この時期、唐では朱全忠が台頭し、延喜7年(907年)に唐は後梁に禅譲して滅亡しています。朱全忠の失政もあり五代十国という戦国期に突入します。日本はこの間、一種の鎖国状態に入りますが、影響を最小限に抑えたともいえます。

宇多天皇は治世10年で退位しますが、道真は正五位下・讃岐守から呼び戻された7年で、従三位・大納言兼右大将と官位で7階級特進、職位でも父を超えています。いかに重用されたか解ります。この父を超えるというのは平安時代では藤原氏以外考えられないことでした。通常は前述の様に菅原家なら年数を重ねて従四位上が最高で、高齢で引退間際に従三位、余程の功臣で追贈で一段上というのが決まりでした、もしそれまでに亡くなっていれば、その子は父親の最終官位までで終わりという不文律がありました。この異例の出世は藤原氏を恐れさせ、他の貴族にも敵を作り出したのです。

宇多天皇は譲位後は12歳の醍醐天皇に自分の政治ブレーンをそのまま引き継がせ、自分は法皇として実力を保持したまま、仁和寺から政治を取っています。この譲位は次代の皇統を藤原氏が口を出す前に、自分の血筋に継承しようとしたと思われます。後代に摂関政治を無力化させた院政の先鞭と言えます。

成長すると共に父親に似た独立志向の強い醍醐天皇は、菅原道真(さらに昇進して従二位・右大臣)を始めとした政治ブレーンの権限が強まり、更に決定権は宇多法皇に握られ、親政は名ばかりの状態で鬱々としていました。

宇多法皇が仁和寺・熊野三山などの仏事で政治助力から離れだすと、成長した左大臣・藤原時平(基経の長子)を片腕として反抗の挙に出ます。世にいう昌泰の変(昌泰4年(901年))。醍醐天皇16歳・藤原時平30歳のコンビが台頭します。この二人の統治(約8年間)は非常に評判が高く、後の世に「延喜の治」として皇室では天皇親政の手本とされています。

天皇の名前は漢風諡号で宇多にしても醍醐にしても死後に追贈されたものです。現代の明治・大正・昭和・平成天皇は元号決定に合わせて現行天皇として呼び名されています。
ところが日本史上唯一、自分で天皇号を決めていた天皇が一人いました。それが鎌倉幕府を倒し南北朝の原因を作った後醍醐天皇。後醍醐は醍醐天皇の「延喜の治」・村上天皇の「天暦の治」の復活を理想として目指しており醍醐に因んで後醍醐を自ら追号と決めていました。南朝2代・後村上天皇はこの事蹟に倣って追贈されたものです。

昌泰の変における処分は菅原道真が太宰府左遷(名目は左遷ですが実質罪人扱いで、移動は輿や馬の使用禁止・屋敷も監視付)をはじめ、息子4人も流罪。宇多の付けた政治ブレーンのほとんどが同じく左遷・流罪に処されています。宇多・道真に協力的だった藤原忠平(基経四男)も事実上の追放、ちなみに忠平は大宰府の道真に励ましの手紙を送り続けるなど、藤原北家ながら友情を持ち続けた人物です。。道真は宇多法皇の助力も空しく大宰府に赴任2年後に無実を訴えながら憤死。大宰府安楽寺に葬られます。

菅原道真の罪状は明確には解っていません。娘婿の斉世親王(宇多の第3皇子)を皇太弟にして醍醐の譲位を図ろうとしたとも云われますが、後に名誉回復時に焼却破棄されたために現代にいたるまで不明。この人事処分があまりに急激なもので、訳が分からず宮廷内では相当の反発もあったといわれ、道真への同情も相当根強く残っていたようです。

北野天神絵巻の伝承ですが、道真死後、道真の怨霊が比叡山に現れ13代座主・尊意の前に現れ・・・
道真「これから無実の罪で大宰府に左遷させた者たちに復讐に向かう。比叡山では彼らに頼まれても私の復讐の邪魔をしないで下さい。」尊意「一、二度ならば黙殺もできましょうが、天皇領に住まう私には天皇から三度までも招きを受ければ断ることは叶いますまい。その時はお許しいただけますか。」道真「う~~む・・・確かに・・・」 定めと怒りの狭間で思い悩む道真に尊意は冷静になると、本尊のお供えの柘榴の実を食べさせますが、これが怨霊封じの策略。道真は柘榴を吐き出すと炎と化し、怒って消え去ります。尊意の策略も2.3年の怨霊封じに終わり、道真の怨霊が跋扈します。ちなみに尊意はその後、清涼殿後の醍醐天皇の加持、平将門への授法を講じたことで知られます。

醍醐天皇、左大臣・藤原時平コンビは前述の様に「延喜の治」と称されるように後世に名を留めるほど頑張ったわけですが、時平が39歳の若さで急死。この時の臨終場面は道真の怨霊が介在したとして巷間に流布されます。さらに気落ちしたか醍醐天皇も病がちとなり政務にも支障を来します。政治の実権は宇多法皇と藤原忠平に移ったと云われます。ちなみに道真の怨霊の祟りを受けず恩恵を受けた藤原忠平は兄・時平とは真逆に道真と親交が深く、醍醐初期は不遇でしたが兄の死後は重職を歴任、兄と道真の業績を継いで「延喜の治」、後の村上天皇の「天暦の治」と後世に善政と呼ばれた立役者になっています。職位も摂政・関白・太政大臣を務め、準三后(皇族待遇)に累進しています。

比叡山に現れた道真の怨霊が復讐を宣言して後、道真追放に係わった主要人物が次々に亡くなっています。例を挙げれば、時平と共に讒言した中納言・藤原定国が最初に病死(41歳)、首謀者の藤原時平が39歳で病死、宮門に駆け付けようとした宇多法皇を阻んだ藤原菅根が落雷死、讒言に加担した右大臣・源光(ひかる)に至っては底なし沼に馬ごと嵌り溺死という不審死。。他にも疫病(水疱瘡)が流行して多くの関係者が亡くなっています。この怨霊におびえて醍醐の正妃・隠子は息子・寛明(ゆたあきら、後の朱雀天皇)を部屋の奥深く幾重の几帳の中に8歳の即位まで一切外に出さずに育てたと云います。

この怨霊の跋扈に怯えた醍醐天皇は時平の死後、大宰府に勅使を派遣して、道真の墓所の上に本殿を竣工(安楽寺、後の安楽寺(太宰府)天満宮)。しかし、春宮(とうぐう、皇太子)が死去、改めて道真を没後20年として左遷前の右大臣に復帰させ従二位から正二位に追贈しています。又子息の罪を解き京に帰還させています。この時に道真の罪科状が焼き捨てられたと云われますが、この焚火が類焼、多くの公家・僧侶が亡くなったと云われます。
つまり災厄は修まらず、新春宮も死去。そして延長8年(930年)午後1時、怨霊最大の大事件が発生。

この新春宮が僅か5歳で亡くなって5年、度重なる災厄、更に京周辺の旱魃が発生、これは菅原道真の怨霊の仕業として対策会議が醍醐天皇臨席の元に清涼殿で行われていました。旱魃の最中の真昼間の晴天の中、愛宕山方向から発生した黒雲がいきなり京都を包み雷雨をもたらしたのです。そして清涼殿南西に狙いすましたように落雷。

この落雷で大納言・藤原清貫(きよつら)が衣服と胸を焼かれ即死。右中弁・平希世(まれよ)が顔を焼かれ瀕死(後に死亡)、その他多くの重軽傷が発生、紫宸殿にも雷が走り、衛視・近衛3名死亡・他重軽傷多数。
朝廷にとって衝撃だったのは、天皇の御座所での事故、しかも死穢(しえ)が発生するというのはあり得ないあってはならない出来事でした。しかも即死した清貫は時平から左遷された道真の監視役を命ぜられた人物だったのです。この二重の災厄は醍醐天皇を打ちのめし、病が重くなって寝込み3か月後に崩御。更に翌年には道真のバックだった宇多法皇まで崩御。朝廷を大混乱に陥れたのです。
この事件によって菅原道真・怨霊=雷神となり、火雷神を祀っていた北野の地に社殿を築きます。これが後に北野天満宮になります。

朱雀天皇(8歳、部屋から出ずの寛明親王)が即位後も災厄は修まらず、有史以来最大の噴火と云われる十和田湖山が噴火、疫病の再発生、平将門・藤原純友の反乱と道真の怨霊の跋扈と云われた災厄は約100年余り続いたのです。

怨霊と化した道真を鎮めるために「天満大自在天神」という称号を贈り、北野・大宰府に天満宮の名を贈ります。また、その後、菅原道真所縁の地として神社地の防府・大阪なども天満宮の名を朝廷から冠しています。天神というのは天津神のことで、国津神の上位に立つものになります。つまり、国内の神の上位の天上の神としたわけです。また北野天満宮や大阪天満宮の前身と云える火雷神や鬼門の守護神は初期は道真に結び付けられましたが、後には火雷神・鬼門は道真の眷属として、道真に「日本太政威徳天」と冠し直しています。また天満宮は前述したように天皇・皇族の寺社でしたが、道真に明け渡した形で朝廷は無条件降伏の態になったわけです。ちなみにこの二つの天神は神仏習合の仏教では大自在天、大威徳明王となり、悪霊退散や敵国調伏などの呪法に変化、元寇などの調伏の秘術とされました。

正暦4年(993年)一条天皇は道真に正一位・左大臣を追贈、半年後には太政大臣を追贈して人臣の最高位とします。そして災厄の鎮静化と共に天神信仰が流行、武家には諸芸百般、一般には学問の神様として信仰が広がって行ったのです。

※注釈※
※阿衡事件というのは、宇多天皇が即位した際に、光孝前天皇の際に摂政・太政大臣だった藤原基経に対して関白就任の詔を出した際の政争事件です。この関白就任は人臣初で、普通ならここで大喜びなんですが、そこは曲者・藤原基経。。宮廷では大臣職の詔を受けたら一度辞退して二度目の詔を貰って受諾するというのが慣例でした。問題は宇多天皇が側近・橘広相(ひろみ)に代筆させた二度目の詔の文に「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の一文が問題になったわけです。「阿衡は位は貴いが、職掌はなかった」という理由で難癖をつけた基経が広相の更迭と文面の謝罪と訂正を求めて職務放棄、国政がストップした事件です。

阿衡は中国殷代草創期の伝説的賢臣とされた伊尹(いいん)のことになります。初代・湯王が伊尹を宰相につけた際に称した言葉「阿衡(はかりに頼るの意)」で、その後、阿衡は伊尹の号になったと云われ、殷(商)王朝建国の一翼を担ったと云われます。湯王死去後は息子二人の王と孫(太甲)を補佐しています。特に遊蕩三昧の太甲を国から追い摂政に3年就任して国政をみており、反省して戻った太甲を改めて王として臣下に戻り補佐して善政を施かしています。この事蹟から阿衡の名は後代には摂政・関白の異称になったと云われます。

前述を観れば難癖だと思われますが、伊尹は有莘氏の元で70代まで農夫として仕え、有莘氏の娘が皇后として湯王に嫁いだ際に料理番として随行した人で、料理に例えて湯王に政治を説き、感銘した湯王は宰相につけた経緯があります。湯王の時代は政治の相談役だったわけです。基経はそこに突っ込みを入れたわけです。

当然ながら橘広相は抗弁し続けます。宇多天皇も異例の詔の書き直しなどできず、源融(とおる)を中心とした宮廷文化人グループに阿衡の職掌の有無を調査させました。しかし、当時藤原氏の総領で権勢NO1の基経に遠慮した調査団は阿衡には職掌なしと結論を出したのです。これによって、宇多天皇も苦渋の書き直しによる国政の全面委任・阿衡の削除を命じ三度の詔、広相を更迭謹慎させます。ところが、それでも基経は納得せず広相の流罪を要求して関白を受けず逼塞を続けます。この混乱は半年以上続いたのです。

そこに登場したのが菅原道真で、基経に対して諫言書を送り、広相の阿衡の正当性を説き、国政の全面移譲を勝ち取った上に天皇を追い詰める愚は藤原氏の為にならないと説いたわけです。内心、意地を張りすぎ、やり過ぎたと思っていた基経は先の文章博士の諫言書を口実に関白を受諾。人臣初の関白職となったわけです。この事件によって天皇は傀儡となり、藤原氏の実力を見せつけたことになります。翌年、基経の娘が女御として入内して天皇と基経の関係は修復したかに見えますが、宇多天皇には欝々としたものが残ったのは確かで、基経の死と同時に諫言書を書いた菅原道真を讃岐から召還して抜擢しています。※

この菅原道真を祖先として尊宗したのが加賀前田家になります。
加賀藩領内にはおかげで天満宮(椿原・卯辰山・小松など)・菅原神社が多数存在します。今回の椿原天満宮のすぐ近くにも、お正月に加賀特有の紅白の鏡餅の発祥地と云われる「田井菅原神社」などがあります。
田井菅原神社、田井村の十村役の邸内社から発展したもので、河内・道明寺で頂いた社宝の菅原道真の自画像や松尾芭蕉の歌碑があります。僕も何度か訪れていますが、goさんが金沢城に献上していた鏡餅をアップしていました。 ⇒ goさんのブログ 田井菅原神社と加賀藩献上の鏡餅
紅白の鏡餅は僕たちには馴染み深いものです。学生で県外に出るまで、紅白の鏡餅が加賀だけの物とは思っていなかった僕^^;嫁さんなどはこちらに来るまで、イヤ来てからも抵抗があったみたいです。10年程で馴染みましたが。。。

加賀前田宗家の家紋は天満宮所縁の加賀梅鉢紋。金沢五社筆頭の椿原天満宮も加賀梅鉢紋を使用しています。加賀前田家では豊臣秀吉から下賜された五七桐紋や菊紋もありましたが、寺社奉納での使用はあるものの、あまり公には使用していません。このため替え紋を持たない珍しい大名とも云われています。前田利家は菅原道真の末裔という自負(自称)が強力にあったといわれ、家紋は初期は湯島天神と同型の梅鉢を使用していましたが、その後意匠を加えて独自の加賀梅鉢紋を本家の紋所としたと巷間云われますが、兄の死から正式に継承したという異説もあります。
     梅鉢紋                               加賀梅鉢紋(幼剣梅鉢)
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利家の五男・利孝の七日市藩は梅を六曜に象った星梅鉢(京都の長岡・北野天神と同型)。三代・前田利常が隠居時に分藩した富山藩は剣を丁子型にした丁子梅鉢・大聖寺藩は剣が長瓜の実になる瓜実梅鉢になっています。パッと見は解り難いのですが。。。支藩では用途によっては、梅鉢や加賀梅鉢を特別使用する場合がありました。

加賀前田家の利家・利長の時代、前田宗家の家紋・加賀梅鉢を使用していた戦国武将がもう二人いました。一人は前田利家の兄・利久、もう一人が加賀前田家を飛び出し、上杉家に仕官した前田慶次こと利太。元々、加賀前田家の前身、尾張の荒子前田家当時の当主は利久でした。その養子となっていたのが慶次で、次期当主とされて家紋も継承していたようです。ところが織田信長の介入で荒子城主を利家に入れ替えられ、それを良しとしなかった利久・慶次親子は放浪生活。利家が能登国守になった時に二人は帰順していますが、利久の死後、慶次は加賀の利家から離脱、京洛を経て米沢上杉家に移ってもそのまま家紋は使い続けていました。家紋は武家にとっては身分証明書のようなもので、簡単に捨てられなかったもので、前田姓を捨てない限り使うしかなかったようです。ただこのことは加賀梅鉢・梅鉢紋が荒子前田家から継承されていたことが窺えます。また荒子・加賀前田家の本来の本家筋になる前田対馬守家(前田与十郎家、加賀八家・前田長種家祖、)は「角の内梅輪」という梅紋を使用していますから、尾張海東郡時代から前田家は菅原道真の末裔を称していたようです。

長々と加賀前田家の家紋について書きましたが、一般に社紋や家紋が付けられだしたのは平安後期と云われていて、菅原道真は家紋は使用していませんでした。皇室の菊家紋も導入は後鳥羽上皇の時代(1200年頃)と云われています。天満宮の梅紋が導入されたのも11世紀以降ではないかと云われています。

天満宮に梅紋が導入されたのは、やはり菅原道真が梅の花を愛したことからとされています。道真には多くの梅の花との係わりが残っていますが・・古い伝承では5歳の時に詠んだというものもあります。 美しや 紅の色なる 梅の花 阿呼(あこ)が顔にも つけたくぞある
阿呼は道真の幼名になります。11歳の頃に詠んだ漢詩・「月夜見梅花(月夜に梅花を見る)」 月耀如晴雪(輝く月の光は晴れた日の雪の如し) 梅花似照星(梅の花は輝く星に似ている) 可憐金鏡転 庭上玉房馨(月が動いて庭の梅の花を陰で隠し、梅の香が馨って心に染みるのは何とも言えない)

このように子供の頃から梅の花が好きだった道真の本宅・天神御所は別名・白梅御殿、別邸・紅梅御殿と呼ばれていたそうです。左遷で都を去る際に紅梅御殿の白梅に語ったという和歌  東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな
残された梅の木が一夜で道真の元(大宰府)に降り立ったという飛梅伝説に繋がります。そして絶筆の漢詩にも梅が織り込まれています。 「謫居春雪(たくきょで春の雪を迎える)」 盈城溢郭幾梅花(大宰府の城の内外にもどれだけの梅が咲いたのかと思った) 猶是風光早歳華(だがこの雪花も年の初めに咲いた華に違いない) 雁足黏将疑繋帛(雪が雁の足に粘りついているのを見て蘇武が匈奴から帰還した故事になぞらえ) 烏頭點著思帰家(カラスの頭に雪が乗るのを見ては、燕の太子丹の帰郷を思い出す。)

謫居は流罪先や住まい(流謫(るたく)の意味。蘇武は前漢の使者として匈奴に向かい、転覆の罪で抑留され、抑留生活中には李陵の援助を受けたと云われ、抑留19年で国に戻っています。 春秋戦国時代後期、燕の丹は大国・趙に人質となっていました。その時の人質仲間には秦の政(後の始皇帝)が居ました。人質は一生を過ごすことが多い中、燕の太子として帰国する故事を伝えています。ちなみに後に、荊軻を秦(始皇帝暗殺未遂)に送り込んだことから、始皇帝の統一の最大のライバルとして描かれることが多い人物です。

梅の伝承だけでもこれだけあり、これらの伝承から天神像にも梅の花が描かれ、天満宮にも社紋とする際に梅を象ったと思われます。

旅行日 2018.09.20



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この記事へのコメント

  • yasuhiko

    逆さ狛犬ですか。面白い姿の
    狛犬があるものですね。
    これまでに、府中大國魂神社や、
    赤坂氷川神社など、狛犬の種類が多い
    東京の神社に参拝してますが、この形の
    狛犬は無かったように思います。
    狛犬に地域差があるのは興味深い事ですね。
    一方で、神仏分離令とともに、狛犬の形まで、
    統一規格の指導があった事にも驚いてます。
    地域の特徴や、独創性を阻害するなんて、
    何てつまらない事を考えたんでしょう。
    2018年11月25日 10:54
  • つとつと

    yasuhikoさん
    なかなかユニークな狛犬でしょ^^加賀に多い狛犬なんですよ^^
    江戸期の起工年の解る珍しい狛犬です。逆さ狛犬の中では後ろ足の歯値上げが低いタイプですが、興味深い狛犬です。
    現在の狛犬はほとんどがお座り型の重厚感のあるものになっていますが、古いものを見ると各地特有の顔や体つきになって面白いですねえ。
    神仏分離・第二次大戦後に国家神道の統一が唄われて、決まり事を参拝者に押し付けたり、規格を統一しようとしたりしますが、余程の違反がない限りは、押しつけは勘弁してほしいですね。
    2018年11月25日 14:05
  • tor

    予告されていた「逆さ狛犬」登場ですね。個人的にはもっと足を上げているのかと思っていました。加賀発祥の理由は余り石の制約によるものなのですか。私が見た「逆さ狛犬」は「後ろ足で雲を蹴り上げている」説でした。狛犬も地域によって特徴があって興味深いですね。私個人的には「肥前狛犬」のデフォルメされた姿が好きです。菅原道真が今回登場していたので…。読み進むと加賀前田家の祖先なのですね。国東半島巡りの最後は「綱敷天満宮」の予定でしたが雨で断念でした。大宰府へ向かう途中やっと九州に上陸した地です。ところで金沢は坂の多い街なのですね。そのイメージ無かったです。
    2018年11月25日 19:11
  • 藍上雄

     狛犬ですが、普通にお座りしている物よりも、「逆さ狛犬」の方が動きが有って良いフォルムしていると思います。
     椿原天満宮の拝殿内の狛犬は金箔張りで豪華ですね。一方は角が有り(一角獣?)ます。もう一方は顎の下に何かついているように見えますが…。(もしかしてスフインクス)霊獣を表現しているのでしょうか…?天満宮、菅原道真公の所縁なので社紋も梅鉢紋を個別にデザインして使っているようですね。(少し調べてみたら天満宮ごとに違う梅鉢紋使われているのですね。)梅鉢紋には、きっと色々な知識の集積がなされていたのかもしれませんね。
     前田家も道真公を先祖とする家柄なので、やはり梅鉢紋なんですね。
    2018年11月25日 20:18
  • まだこもよ

    OO天満宮って たくさんありますよね!
    2018年11月26日 07:01
  • つとつと

    torさん
    江戸期の物はそれ程足を挙げていないのですが、明治に入ると一気に足もお尻も直角に蹴り上げています。この形を見ると加賀鳶説が有力だったと思います。神社の方たちは雲を蹴り上げて奇瑞を見せる霊獣を強調します。でも、何かの形を模したというのが正解だと僕は思います。肥前狛犬は角ばったフォルムの面白い狛犬ですね^^江戸期から明治中の狛犬は各地で独特のものがあって、ついつい見入っちゃいます。
    こちらではやはり前田家の影響で菅原神社が多いのですが、昨日久しぶりに小松天満宮に立ち寄ったんですが、冬の板囲いで社殿が覆われて観難かったです。y針春先に行く方が良いみたいです。
    2018年11月26日 21:10
  • つとつと

    藍上雄さん
    鋭いですねえ^^狛犬は大別すると、獅子(しし)と高麗犬(こまいぬ)の二種類いるんですが、古代は獅子+獅子、中世から高麗犬と獅子のコンビ、近年は獅子+獅子が増えています。獅子も高麗犬も中国や朝鮮の霊獣で、ライオンとオオカミをベースにいろいろな創造の獣が散りばめられているんです。狛犬でこんな細長い角は珍しいですねえ。普通はコブみたいなもので、時々じっくり見ないと解らないものもあります。 梅紋の始まりは大宰府か北野のどちらかが先だと思うんですが、古い道真像を観ると着物に梅花が多いようですから大宰府というのが妥当かも^^梅鉢は戦国後期からではないかと思われます。梅鉢も多いですが、梅の花紋の変形も結構多いです。道真は百芸の神様とされているんで、あやかろうと多くの梅紋・梅鉢紋・梅輪紋が見られます
    2018年11月26日 21:34
  • つとつと

    まだこもよさん
    やはり、学問の神様と云えば天神様。
    道真の神社は、大きく分けると天満宮(神社)・天神社・菅原社と色々な呼び名がありますが、神号・天津神・生前名で色々呼び分けるようですが。天満宮の多くは所縁の地や朝廷や大名などが建てた物を呼ぶようです。
    2018年11月26日 21:44
  • がにちゃん

    天神さん 我が家の長男はなぜか天神さんと相性が悪いのです。 おかしなくらい天神さんに行くと悪いことが・・・その昔 道真公と敵対関係か
    長男以外は誰も別段なんとも無いのですがぁ~・・・
    祭りにも行かない息子ですわぁ

    加賀鳶 すごい カッコイイ!!! いなせやわぁ 感激ですね  観てみたい 消防団40年入っていた主人 とてもとても こんなことはできませんわぁ(笑)
    400年 500年 いつまでも続いてほしいですね
    2018年11月27日 17:29
  • つとつと

    がにちゃんさん
    ん~~ 何となくそういうのってありますよね。
    がにちゃんさんが能登に来られた時に観て行った気多大社。。僕があそこに行くと必ず、雨や雪とか、必ず降るんですよね。何となく相性があるのかも。。
    敵対関係といっても道真を取り巻く敵対関係は、宇多・醍醐の親子、時平・忠平の兄弟と血を分けた中で繰り広げられているんですね。。ん~~血の濃さですかね。
    消防団はやはり地場の花形。金沢には3消防団49分団で52あるんですが、その多くが梯子登りを伝承しています。お正月には金沢城公園でふんどし一丁の放水とか、なかなか見どころ満点ですよ。 1月の出初式や6月の百万石まつりが消防団の晴れ舞台 機会があったら是非眼の前で^^
    2018年11月28日 11:40
  • 家ニスタ

    逆さ狛犬の変遷、面白いですね。
    石川県内に多いのですか。
    僕の家の近くでは見たことありません。
    だんだん足をあげる角度が高くなっていくのですか。
    21世紀美術館の向かいにある神社の狛犬が、足の角度が高いのですね。
    こんど金沢に行くときは、ぜひ見てきたいと思います。
    2018年12月02日 10:47
  • つとつと

    家ニスタさん
    逆さ狛犬は西日本に主に分布しているようです。北陸や九州に変形の物が多いようです。
    石浦神社という名前です。金沢市内では歴史的に一番古い神社になります。その摂社になります。そうそう、この神社の裏側は本多の森と云って、自然林がそのままで残っているんですが、昔からタヌキの棲み処になっていて、時々、神社の裏庭でタヌキの親子連れに出会うことが有りますよ^^
    2018年12月02日 13:59

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