椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

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椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石にはが刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。

は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。
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横山家 丸に左万字

ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりながら、帰国した右近の妻と家族を陰で能登に受け入れ、いわくの眼で観られる卍紋を使い続けたのは、右近への尊敬と思慕だった、ついでに隠れキリシタンだったなどと云われています。
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脇参道を進むと稲荷社特有の赤鳥居が立ち並び、稲荷社の祠堂に導いてくれます。
この稲荷社は、稲荷社月読社を合祀しているものです。ちなみに月読(つくよみ)神は古事記では、イザナギがイザナミの住む黄泉の国から逃れた後、禊を行った際に生まれた三神の一人です。左眼から生まれたのが姉・アマテラス、ツクヨミ(月読男神)が右眼、弟・スサノオが鼻から生まれたと云われています。太陽を司るアマテラスに対して、月を司り夜と時の神とされる対極の重要神になります。 実はこの月読社は前田利和(勢之祐)を祀り、稲荷社は真如院(6代藩主・前田吉徳側室、利和の母)が祀られていました。

以前訪れた際にもご紹介しています・・・2013.08.06(椿原天満宮(椿原山砦跡)) から引用すると・・・

椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。
こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓がある経王寺があります。

小説や講談ではおどろおどろしい筋立てで、真如院(お貞の方)・大槻伝蔵・浅尾・前田利和などは極悪人や妖術使いにされています。しかし、後年の研究で藩政改革の革新派と保守派の抗争による犠牲者だとされています。

加賀騒動前後の保守派の代表・前田直躬の弾劾状が、長町の前田土佐ノ守資料館に展示されています。その激しさの一部が解ります。最終的に保守派が勝利したわけですが、改革推進を進め、それなりの成果を上げていた大槻伝蔵を除去したため、加賀藩はこれ以降幕末まで財政逼迫に苦しむことになります。

史実としては大槻伝蔵は五箇山の流刑地で自殺(墓所は能登の妙成寺)、真如院は金谷屋敷(現・尾山神社)で縊死(絞殺と云われています。墓所は経王寺)、浅尾は獄死(真如院と同じ経王寺でしたが、今は大学病院の下で不明)、前田利和と八十五郎は共に幽閉生活の末、20代で病死(共に天徳院に葬られました。)

昭和になってからですが、二人の密通の皆無と無実が証明されました。それまで利和と弟・八十五郎は天徳院の墓所に葬られてはいたのですが、前田家の供養・法要には加えられていませんでした。改めて序列に加えられて野田山に改葬され地位復権しています。

加賀騒動はまた機会があったら書いてみたいです。大槻伝蔵に関するものは意外にあっちこっちに点在していますから。。ちなみに旧県庁の椎の木迎賓館の正面玄関にある椎の大木は大槻伝蔵の屋敷にあったものを移植したものです。元々は中央公園の四校の辺りが大槻伝蔵の屋敷があった場所です。


加賀騒動の簡単な詳細もアップしています ⇒ 2018.01.10 加賀騒動
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加賀騒動での最大の犠牲者はこの二人だったかもしれません。真如院は金谷御殿に幽閉尋問を受け、毒殺未遂は否定しましたが、大槻伝蔵との仲は暗に認めたと云われます。本人の希望で縊死され、天神坂を登ったところにある経王寺に葬られています。利和は弟・八十五郎と共に不義の子として扱われ、利和は天満宮から東方の上野村牛坂付近に幽閉、八十五郎は金谷御殿に幽閉されています。利和は10年の幽閉の末24歳、八十五郎は12年の幽閉20歳で亡くなっています。二人は天徳院に葬られましたが、前田家から除籍処分で供養から外されていましたが、昭和戦後に大槻伝蔵・真如院の無罪が証明され復権、野田山の前田家墓所に改葬されています。

前田利和が亡くなったのは 宝暦9年(1759年)3月23日。そのわずか10数日後の4月10日。金沢史上最大の大火・明暦の大火が発生します。この大火は金沢の町の9割を焼き、燃えた家屋は金沢城を含め1万戸以上の大惨事でした。この日は加賀騒動の毒殺未遂の対象となった8代藩主・前田重煕の七回忌法要の準備中で燃える大広間では、高笑いの男の声が響き渡ったと噂されています。この男の声が大槻伝蔵か前田利和かは不明ですが、死後の日数を考えれば前田利和の霊だとより大きく噂されたわけです。
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加賀藩主は6代・吉徳死後、歴代藩主は若死が続き、 宗辰(吉徳長子) -重煕(次男) -重靖(五男) -重教(七男) -治脩(十男) と異例の兄弟相続が続いています。もし加賀騒動が無ければ、四男・利和が藩主に成る可能性が高かったのです。八男・八十五郎は村井家への養子縁組が決まっており、真如院・八十五郎母子の捕縛・監禁もこの縁組のための帰途中でした。

内々の除籍処分の利和を公に慰霊するという行為は、加賀前田家は表立ってはできず、大火の後始末でそんな余裕もなく、、誰が建立したかは不明です。しかし、金沢五社筆頭の勅願神社の境内地。当然、加賀前田家でなければ難しいのも事実です。
名を表に出さず、真如院を五穀豊穣の女神・ウカノミタマに準え、前田利和(勢之祐)を夜の男神・ツクヨミに準えて、怨霊封じの地でもある天神の地に慰霊したのだと思われます。

椿原天満宮の門前には小立野台地の断崖に沿うように東西に小路が続いています。小立野台地は、犀川と浅野川に挟まれた広大な台地ですが、河岸段丘の特徴で砂岩層の上に硬い岩盤が覆っており、水の便も悪く、耕地には向いていませんでした。この為、小立野台地上の農民は、大地の北側の浅野川沿いに用水路を曳き、低地に農耕地を置いていました。

この断崖地を登り降りするために、牛馬を使いながら利用された坂が三本ありました。天神坂も含めれば四坂ですが、天神坂は当時から武士や旅人も通行し、越中との交易路でもありメインの坂道でした。農耕民が通るには支障が多かったようです。

一番西にあったのが馬坂で、三つの折れを持つけっこう急な登り降りです。この坂を登りきると前田利家の八女・福姫(長好連・中川光忠室、高源・松寿院)所縁の寺院・高源院の門前に出てさらに進むと、前田利家を始めとする歴代藩主の半数の菩提寺・宝円寺の門前になります。
ちなみに、福姫はキリシタンで改宗も拒否した女性で、娘の菊姫、津田玄蕃夫人を始め武家の子女20数名と共に七尾の本行寺に一代謹慎となったことで知られます。
高源院は初代住持が福姫の縁者として、元は大豆田(まめだ)に建立されましたが、万治2年(1659年)に寺地を召し上げ、当地に住職の私費で請地として建立されたものです。門前に馬坂の守り神・馬坂観音があります。

実は福姫を含めて本行寺は書きかけだったんですが、まとまっておらず、またの機会に。。

東に進むと鶴間坂。約400mあり、江戸時代には最長の坂道だったそうです。この鶴間坂の途中に当地の旭町の由来となった一つの石祠に二体の旭(朝日)観音石仏清水跡があり、その傍に前田利和が閉じ込められ憤死したという伝承の洞窟があります。田上町地区の伝承では、加賀騒動の毒殺未遂の実行犯とされた浅尾もこの地で処刑されたと云われ、、加賀騒動の流布本には二人を悪の化身カップルにしたものも。。旭観音は二人を慰霊したものとも伝わっています。

暗い伝承もある坂ですが、麓の谷は別名・鶴舞谷と呼ばれ、坂上から浅野川の流れる鶴舞谷とその先に観える臥竜山(卯辰山)・鈴見山(奥卯辰山)・戸室山・医王山の山並みが観られ、渡り鳥が飛ぶその眺望は「牛坂渡鳥」として、嘉永2年(1849年)編纂の「十景細見(金沢十景)」の一つとして描かれています。坂上は明治には金沢でも屈指の高級住宅地で、今でも洋館が幾つか点在します。

また清水の方も有名で、東の朝日が清水に当たり輝くことから旭(朝日)清水と呼ばれていました。金沢最古の酒造・福光屋の前身・能登屋(創業・寛永二年(1625年))の時代、この清水を使った「旭鶴」という銘酒を醸造していました。安永年間(1772年~)に引き継いだ福光屋は明治10年(1877年)まで主力として販売していましたが、清水が枯れて消えていました。その後、福光屋は福正宗を代表単一ブランドとしていましたが、近年、加賀鳶・黒帯といった切れやコクを打ち出したマルチブランドを打ち出し始めています。

そして一番東にあるのが牛坂。現在はきれいに整備されたなだらかな直線坂道で、現在は650mで三本の坂道では最長の坂道です。ところがなだらかで整備され、眺望の美しい坂道に騙されて登ってしまう県外ナンバーの車がいますが、登りきると入り組んだ住宅道路に入り込んでしまい、狭い通行に半泣きになる人が続出で要注意。
画像牛坂八幡神社・裏門鳥居 本来はこちらが正門で神社の構築物としては一番古いものになります。住宅地の狭い路地に面してありますが、昭和50年(1975年)宅地整備や境内地・社殿の整備によって神社の正門も逆向きになりました。 

この牛坂浅野川に挟まれた三角地旧上野村牛坂・牛坂村と呼ばれていました。現在の旭町1丁目に当たります。前田利和が幽閉されていた屋敷はこの地の武家屋敷だったと云われています。それが牛坂八幡神社の辺りと云われています。前述の様に利和が幽閉された洞窟があるという伝承もありますが、いくら不義の子として扱われたとはいえ、故藩主・重臣の忘れ形見に変わりはなく名も前田姓のまま、しかも幽閉当初は14歳で元服したばかり、、不義の子としてもっと疑われた弟・八十五郎(当時8歳)でさえ金谷御殿の座敷牢です。利和も洞窟は考えられず、武家屋敷内の座敷牢だったと思われます。
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牛坂八幡神社の創建は安永5年(1776年)で前田利和の死去より20年弱程後になります。しかし、利和との係わりは語られてはいません。しかし、結びつきとしてあってもおかしくない存在です。僕としてもそうあって欲しいのですが、田園の中の孤社の期間が長く、文献や伝承が散逸しています。
由緒では川底から出て来た大山咋神(日吉神)、八幡神と二社を祀っていたと云います。ただこの伝承は卯辰(宇多須)神社の神体(卯辰の紋様が刻まれた鏡)とそっくりで、真似たと思われます。
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牛坂八幡神社の周辺は現在は住宅や店舗も多く賑やかな街並みですが、江戸期後期には牛坂村として60軒ほどの農村(牛坂村)が出来ていたようですが、江戸末期の大火で農村が離散。その多くは牛坂の山裾に移ったために昭和40年初期までは田園地帯だったそうで、牛坂八幡神社も田圃の中に孤立した社でしたが、周囲が旭町として住宅や商店が増え、氏子が増えて来た昭和50年に社殿が整備されたものです。それにしても由緒書きにも書かれていました、この社殿の費用が6000万(現在価格で約9000万円)@@ 社殿造りにも大きな費用が掛かるものと改めて認識しました。
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昭和50年の社殿・境内地の整備により、御神木や樹木も細い感じで、古色はありませんが、山側の旧家の氏子と新興住宅地の若い氏子の交流が増え、徐々に行事も増えており、これからの神社として期待されています。

牛坂八幡神社 御祭神 応神天皇 大山咋神 少彦名之命

由緒

旭町の前身である「牛坂」は、慶長9年(1604年)時代には、既に石川郡鞍月郷に属した集落として存在していました。 その後、幾多の変遷を経て、文政4年金浦郷に属していましたが、明治22年崎浦村字牛坂となりました。昭和11年4月に金沢市に編入された際、鶴間坂の旭観音にちなみ、町名を旭町と呼称しました。
当社の創建は不詳であるが、安永5年(1776年)には建立されていました。 その頃には二社があり、一社を日吉社と号し、安永5年、川の中より拾い上げられた大山咋神をまつられていましたが、慶応3年社殿が造営されて遷座しました。 その後、明治40年4月、八幡神社に合祀されたことにより、大山咋神が鎮座しています。昔の社殿は北向きでその門前集落がありましたが、藩政末期の頃の大火により民家の大半は焼失し、現在の旭用水沿いの山側に散居したので神社はたんぼの中に孤立し、祭事以外には参詣する人も少ない状況でした。
旭町は昔から農業を生業としてきましたが、時代の推移により、町の更なる発展を願い、昭和47年区画整理事業に取り組み、昭和52年4月工事が完成し、現在の街並が形成されました。 この事業を機会に昭和50年吉日に現在の新しいお社が竣工されました。 なお、境内には、盤持石(ばんぶちいし)もあり、江戸時代より、この石を使って体力の維持向上と力自慢をしたと言われています。石の重さは四十二貫(157kg)と刻まれています。 (神社庁HP)より


この区画整理事業とは関係なく、この事業を機会に新しい町にふさわしい神社の造営計画が、町内在住の地権者から持ち上がり、地権者の浄財寄進による、金六千万円によって、神社を造営、昭和五十年四月吉日完成した。
ここに、旭町の歴史と神社の経緯を記し、町の称栄と氏子の崇敬の念の高揚を祈念して揚額する。 昭和五十二年四月吉日 敬白 宮総代 (奉納額一部付記)


拝殿内には明治期の美しい彩色の大絵馬がありました。
画像拝殿内奉納大絵馬 題材は海上の赤の幟と左座敷の笹竜胆から「源平盛衰記」だと思いましたが、右の軍勢の幟に足利ニ引き・武田菱が観られ太平記?、城郭まで書かれていて不明。明治18年(1885年)9月の奉納年があります。右下隅に寄進者銘 左下隅の「竪町 松翠堂」は、字面から美術商・筆墨の商店名と思われます。
竪町は現在は430mの直線道路の左右にショップが並ぶ、金沢屈指のファッションストリートです。別名「タテマチ通り」。歴史は非常に古く、寛永9年(1632年)加賀藩3代藩主 前田利常公時代から既に街並みが形成されていました。今も昔も金沢の花形通りです。奥の方や新竪町には加賀毛鉤などの伝統の店もあります。

昭和45年(1970年)から日曜歩行者天国で、平成18年(2006年)から全日午後歩行者天国になっています。不詳、恥ずかしながら、僕の前職デビューはこのタテマチ通りのメンズショップでした。右も左も分からない駆け出し。。通りも今とは全然違った雑多な町通りって感じでしたが・・ ⇒ KANAZAWA TATEMACHI STREET
画像拝殿内奉納大絵馬 
題材は天神・火雷神絵巻と思われます。明治26年(1893年)9月の記銘
明治期は田園の中の孤社だったそうですが、これだけの大絵馬が奉納されているのは驚きです。

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奉納大絵馬 題材は誰もが解る 川中島合戦 謙信・信玄一騎打ちの図絵

奉納大絵馬に関しては1.2枚目は簡単に題目を書いちゃいましたが、イマイチ自信がありません。特に2枚目はどこかでこの絵に接しているんですが記憶が。。もし解る方は教えてください










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牛坂八幡神社の画像は4月に訪れた際のものですが、裏口は日陰になるせいかヤブツバキの花が残っていました。椿原天満宮で書き忘れましたが名前が示すように、江戸期には椿の名所として知られていました。一時期、数を大きく減らしましたが、植樹によって数を増やしています。1~3月に訪れると多くの椿の花が観られます。
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旅行日 椿原天満宮   2018.09.20
      牛坂八幡神社  2018.04.16



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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    昭和になって不義密通の事実がなかったことが証明  嵌められたと言っても今更遅いし でもありますね 煙の無いところに噂話・・・悪意のあることが多いですね
    絵馬 きれいに残っていますね 豪華です
    2018年11月30日 14:05
  • tor

    前回書かれておられたとおり坂の街ですね。そしてその坂には見所満載。自分の足で走って見てまわりたくなります。これをすると袋小路に迷い込んで大変な目にあったこともあるのですが…。加賀騒動。この手の話には無実の犠牲者が…。奉納絵馬に見とれてしまいました。
    2018年11月30日 20:06
  • yasuhiko

    東京の湯島天神の境内奥にも、
    確か稲荷社があったと思います。
    大國魂神社の参道脇にも…。
    稲荷社って、他の色んな神社に
    紛れ込んでるんですね。それも隅っこの方に。
    加賀騒動の話はなかなか辛いものが…。
    政敵を倒すのに、不倫騒動を利用したり、
    でっち上げたりするところは、
    最近の世情に通ずるものがある気がしました。
    2018年11月30日 21:42
  • 家ニスタ

    たしかに神社に卍文があると、奇妙な感じがしますね。
    でも神仏混淆の時代には、珍しくなかったのでしょうか。
    キリシタンが卍を十字架の代わりに見立てていたというのは、面白いですね。
    たしかに一部を切れば、十字架の形になりますもんね。
    2018年11月30日 23:23
  • つとつと

    がにちゃんさん
    なにせ悪役にされた真如院は数多い側室群で一番寵愛を受け、その相手とされた大槻伝蔵は整った顔立ちと所作で藩主に気に入られ、浅尾は奥女中、利和は14歳の若様、これだけの好素材はいろんな脚色がついてしまったようです。
    復権したとはいえ利和・八十五郎兄弟の墓所は野田山の藩主墓所でも東南、つまり一番低い片隅で寂しげな場所にあります。できれば、加賀騒動の悲劇は真実が解明されるといいのですが。。神社の社殿が新しく気密性があるせいか、大絵馬の彩色がこれほど美しいのは、久しぶりに見ました。
    2018年12月01日 12:59
  • つとつと

    torさん
    金沢は浅野川と犀川によって浸食された河岸段丘の上にある町です。おかげで川沿いの台地にはどうしても坂道が出来てしまいます。しかもそれが急な場所ばかり、湾曲したり、W坂のようにジグザグの階段など色々な坂があります。長い歴史の中で坂道にはいろいろな逸話が出来ています。
    台地の坂上は、住宅地が密集しているところが多く、本当に迷子になりそうなところが多いんですよ^^車だと進むしかないみたいなところも^^;
    加賀騒動は幕府の介入がなく、内内で治めてしまったので、勝利者がの大本営発表だけが民衆に流布され、悪者にされた犠牲者の復権は大きく遅れてしまいました。哀しい話でもあります。
    2018年12月01日 13:10
  • つとつと

    yasuhikoさん
    稲荷神社キツネさんが目に付きますが、主祭神・ウカノミタマは五穀豊穣の神様、つまり農業神になるんです。当然、農業は立国の中心だし食料になりましたから、どの神様よりも信仰されていました。これに匹敵するのは薬・医学の神様・少彦名神くらいでしょうか。牛坂八幡神社も少彦名が祭り神に並んでいます。本社ではなく摂社や脇祭神を見たらこの二神は双璧じゃないでしょうか。
    そうなんですよね。いつの時代もこういった派閥抗争に、不倫やでっち上げが利用されるんですよね。昭和40年代まで大槻伝蔵と云えば、県内では悪の代名詞にされていました。それが今では悲劇の主人公にもなっています。
    2018年12月01日 13:34
  • つとつと

    家ニスタさん
    神仏混交とはいえやはり違和感はぬぐえません。
    もちろん神社関係でも戸隠神社や松陰神社など卍を紋にしている神社はあるんですが、天満宮には卍との関係があまりないんですよ。唐突にこの祠だがあるんで違和感を持つんですね。
    キリシタン信仰は各地に残っていますが、いろいろな形で隠れた信仰が残っていたようです。石川県内では七尾の本行寺が有名です。卍が十字から変更しやすいですから、良く用いられたようです。
    ただこの祠に関しては何と言えないので、また機会があったら調べてみようと思っています。勝手に祠の扉を開ける訳にもいかないので。。
    2018年12月01日 13:51
  • ミクミティ

    古くから続く神社にはその土地の有力者や文化の影響が色濃く反映されるものだとあらためて感じました。時代と共に地元の有力者の栄枯盛衰がその神社にもおよぶのでしょうね。時には権力争いに利用されたりすることも。
    こちらの牛坂八幡神社は現代でも新たな発展を遂げているのですね。それも氏子や地元方々の支えがあってこそ。花の名所となる寺社は多いですが、やはりそれも多くの人に愛されているからなのだと思いました。
    2018年12月02日 21:19
  • つとつと

    ミクミティさん
    金沢五社の筆頭だった椿原天満宮も今は護国神社の兼務社になりますから、たしかに栄枯盛衰は感じさせますねえ。それでも地場の氏子に大事にされていますから、加賀騒動は長く地元では語られた事件でしたが、政争・派閥争い・さらには大惨事と金沢の負の一面の教訓になっていると思います。
    神社は地場の拠り所として、地域の親交や結束を固める一因になっています。金沢でも新しい部類の神社ですが、そのおかげで神事や行事も新しく創出されて勢いを感じます。古い社でも正月以外は誰も寄り付かない神社も多々ありますから、そうしてみると牛坂はこれからの可能性を大いに来する神社です。
    2018年12月03日 02:02
  • まだこもよ

    昔も今も 絵を描くのが 上手い人が必ずいるんですよね!
    2018年12月03日 07:29
  • つとつと

    まだこもよさん
    たしかに、どうしてこんなにうまいんだという人が必ず出てきますね。子供の頃同級生にもうまい人がいて、羨ましかったもんです。僕は下手の部類でしたから、観るのは好きなのにという悲しいタイプでした。
    2018年12月03日 12:34
  • 藍上雄

     卍紋は、西洋では、十字架の変形としても使われていたようですね。東洋は、やはりインドが起源のようですが…。それぞれに意味合いが少し違っているので、隠れキリシタンには、都合の良い紋形だったのだと思います。
     お稲荷さんの祠は、小型ですが、稲荷社とは縁のない月読社も合祀しているのは、珍しいと思います。(加賀藩の諸事情によるところが、大きいのかもしれません…)
     牛坂八幡神社をネットで調べると田井菅原神社も一緒に出てきますね。なんか不思議です。もしかすると、参拝者が一度に色々な願い事を出来るようにするために、色々な神様を集めたのかもしれませんね。
     奉納大絵馬は、実物見て観たいです。
    2018年12月06日 12:18
  • つとつと

    藍上雄さん
    よく調べられていますねえ^^卍は、インドを中心に東西に変化して伝わったと思われます。西洋ではインド・アーリア関係や十字として扱われ、日本では仏教の奇瑞のイメージが強いようです。元々、自然崇拝から発祥した神道の補完として日本は仏教という外来宗教をとり入れた歴史で、すべてが神仏習合には当てはまらずに、曖昧ながら、寺院・神社の中ではある程度の区別があったんです。そういった面が隠れキリシタンの逃れる余地だったのかもしれません。
    江戸時代、加賀藩では真如院と利和は悪役で、歴史の暗部で、神聖な部分で公にはできない存在でした。それが稲荷社と月読社となっていたようです。
    現代の国内の神社の多くが無人で、神主不在の神社がほとんどです。でも、地域の神事には神主が必要になります。他県はどうかははっきりと知りませんが、北陸では兼務社といって、神社在住の神主が無人の神社のお務めを果たしています。田井菅原神社の神主さんが牛坂八幡神社の神主さんを兼任しているんです。多く兼務をする神主さんでは30社以上を兼務している人もいます。
    正直お祀りしている神様が違うだろうと突っ込みたくなりますが、現状はそういう状態です。神主さんに言わせれば、自分は多くの神様にお仕えしていて、各神社の祭り神はあくまでその多神の代表、たくさんいる神様のお一人だと仰います。
    つまり菅原神社は天神様が代表で、八幡神社は八幡神が代表だということ。これは仏教も同じで本尊があくまで多くの仏さまのその場での代表者というわけです。神社や寺院にお願いするとき様々なことをお願いしたり、お祓いしたりしますが、要は天神様なら健康は少彦名神に、五穀豊穣なら稲荷神に天神様から伝えといてねというわけです。仏教の宗派も教義が違うだけで、要は信ずるものは同じなんです。
    こういうのは一神教のキリスト・イスラムには理解されにくいのですが。。。
    2018年12月06日 23:04

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  • 馬坂
  • Excerpt: 前々回にも書きましたが、ご紹介した椿原天満宮を巻くような天神坂は、田井・旭町などの旧街や越中・福光などから金沢城下町への往来の本道でした。 天神坂を登り切った小立野台地は砂岩層を覆う岩盤層がある台地..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2018-12-26 13:38

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