国造(こくぞう)神社

金沢市街には「」のつく町名が多くあります。米泉・増泉・西泉・泉本町・泉・泉野・泉野出町・泉が丘他、僕が思いつくものだけでもこれだけあります。この泉の付く地区は、犀川南岸から伏見川の両岸、大乗寺から西金沢駅周辺に及ぶ一帯です。この辺りは古くから金沢市内でも屈指の人口密集地になります。

このの地名のルーツですが、別にここに大きな泉や湖があったというわけではありません。前々回にご紹介した天満宮の前身・椿原砦を築いた須崎兵庫になります。須崎兵庫は賀州三箇寺(松岡寺・山田光教寺・本泉寺)の旧真宗軍団の中でも主力的存在で、加賀守護・富樫政親が滅んだ高尾城攻めでも、攻城方の総大将を努めています。この須崎兵庫の別名が泉入道と云い、前述の範囲が泉入道の領地だったといわれ、町名にそれが残っているそうです。泉入道自身も隠居後は米泉に庵を結んで隠棲、後に法名・慶覚から慶覚寺になっています。後に移転して現在は幸町の県税事務所の近くにあります。
画像旧北国街道 泉2丁目付近
犀川大橋から南に向かう旧北国街道は現在の国道157号線をなぞるように進みますが、大きくずれている場所が泉一丁目交差点から右斜めに進み、有松交差点手前に抜ける細い住宅路が特筆されます。この通りには江戸期から続く伝統のお店や店舗が残っていますし、一歩露地に入ると迷子になりそうな迷路の細道があります。

この北国街道沿いの泉2.3丁目、泉本町、弥生の産土神の神社になっているのが国造神社になります。神社の門前にも何軒か老舗や旧家が観られます。
画像
画像
加賀味噌の老舗・宝味噌(北中家住宅主屋・国登録有形文化財)
年代:江戸末期/大正初期改造 市内南部,旧北国街道に東面する味噌・醤油製造販売を営む町家。間口9間奥行9間,2階建,平入,桟瓦葺で,正面のほぼ全面に格子をはめ,2階両端に袖壁を付ける。1階南東隅に座敷蔵を取り込み,木部弁柄漆塗り,色土壁として内外とも質の高い造りになる。 (文化庁HP)
この建物は江戸末期の建築で明治末期に増改築を加えています。後部に廻ると増築部が解ります。宝味噌は江戸期には金沢城下を中心に数軒の店舗を運営したと云われます。大正に入って醤油蔵だったこの家屋に移って、加賀味噌の醸造元を行っています。近年は、加賀味噌老舗10社の加賀味噌食品工業協業組合が白山市倉部町に共同工場を置いています。 ⇒ 加賀味噌食品工業協業組合HP

全国地域によって千差万別の味噌ですが、金沢に伝わる加賀味噌は長期間熟成させた塩分が高めの辛口の味噌。米麹を多く使い、コクがあり味も濃厚で赤味噌が特徴。起源は加賀藩の兵糧用貯蔵庫の味噌からで、長期保存されたために濃い口になったと云われます。
とはいえ、食に関しては関西の影響の強い土地柄で、加賀では白・赤味噌は半々と云われています。ちなみに僕は赤味噌派です。
画像
近くにはこんな木造建築も@@ 木造家屋の増築を重ねるとこんな建物も出現します。大正期に増築された宝味噌の建物の家屋部分も同じ増築法です。元は店舗や工務店と思われますが、増築に次ぐ増築を重ねているようですが、何度増築しているのかは不明(最低でも7度以上は施しているようです)。。
画像
宝味噌のお向かいにある古いコンクリートビルの松下種苗店。こちらも古い歴史の老舗です。
以前紹介した先代の金沢地方気象台の桜標準木のソメイヨシノのある弥生さくら公園の横にある人気の園芸・種苗店・マツシタガーデンの本社ビルになります。創業157年、加賀地場野菜の開発・保存も行っていて、白菜の大型種・金沢結球白菜は有名。 ⇒ 松下種苗店HP
画像
湯涌江戸村 旧松下家住宅兼商家 H22.9.26撮影

松下種苗店の創業は文久元年(1861年)。当地に煮売り家兼農業用品店として開業しています。販売の主は昭和36年(1961年)からマツシタ・ガーデンが前面ですが、出荷配送・本社業務は泉町の本社で行っています。現在の建物は昭和41年(1966年)築のRC建築ですが、それまで江戸期から使い続けた店舗兼家屋だった建物は湯涌江戸村に寄贈されています。現在も当時の建物は湯涌温泉で観られます。だいぶ古い記事になりますが、旧松下家住宅の画像が1枚あります。 ⇒ 2010.09.26 湯涌江戸村
画像
そんな老舗がある旧北国街道に鎮座するのが「国造神社」になります。国造神社の由来碑によれば・・・

國造神社の由来  旧社格 村社  鎮座地 金沢市泉二丁目二十一番六号  主祭神 大兄彦大神 大國主大神  境内地 三四六坪

天平勝宝三年(752年)の創建と伝えられ、藩政期初頭、藩主所蔵の虚空蔵菩薩が奉納され、当社を虚空蔵之宮とも称した。歴代大聖寺藩主の崇敬篤く、木地挽の隆盛などを祈願して家臣を代参せしめた。
明治初頭一時、井手神社と称したが、明治三十九年十二月十三日(1906年)、再び、國造神社と改称した。同月二十九日、神饌幣帛供進神社に指定された。社殿は明治四十年八月造営され、昭和五十年、屋根瓦葺替改修工事を竣工した。吉例により三十年の一度の式年祭の慣行があり、天保二年(1832年)に第三十六回式年祭の記録がある。近年の式年祭は昭和五十六年に斎行された。 平成二年十一月吉日 宮司 田中正記誌

画像国造神社 表参道
神社の名前は国造と書いて「こくぞう」と漢読み(音読み)ですが、和音(訓読み)では「くにのみやつこ」になります。国造は詳細はまだまだ不明の部分が多いのですが、古代では職制の要素が強く、初期から飛鳥時代は大和朝廷に服属した地方豪族に下賜された職位と姓で、軍事・政治更に神事を職務としていたとされ、平安以降の国司・国守のような権限を持っていました。大化の改新以降は、軍政は郡司として独立し、神事を司る職務に変わって行ったと思われます。更に奈良時代までその名が神官職の名として残っています。平安期にはこの国造という名は消滅し社家となり、現代まで家系が続く出雲大社・諏訪大社上下社・阿蘇神社などが知られています。
画像
この他にも古代に国造と呼ばれた地方豪族の郡が統合や合併を経て国となり、各郡支族が発生したと云われています。物部氏が著したと云われる先代旧事本記では全国に144の国造が存在したと云われます。

北陸道は越の国と呼ばれていましたが、7世紀末に分割され、大宝律令後(701年~)に越前・越中・越後となっています。当時は、現在の石川県(南から江沼郡・加賀郡・羽咋(はくい)郡・能登郡・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)の6郡は越前国十一郡に組み込まれていました。養老2年(718年)に北4郡が分割されて能登国となっています。弘仁14年(823年)と平安期になってから江沼郡・加賀郡が分割されて加賀国が誕生しています。
画像
先代旧事本紀では、江沼郡は現在の加賀市と能美・小松の一部とみられ、江沼国造として志波勝足尼(しはかつのすくね、18代反正天皇期)で後の江沼氏。ややこしいのは加賀郡で、二項に分けられていて、加宜(かが)国造として素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと、16代仁徳天皇期)で後の道君(みちのきみ)氏賀我(かが、加我)国造として大兄彦君(おおえひこのきみ、21代雄略天皇期)となっています。時期的には道君が先なんですが、加賀では後の世にも道君が残り、大兄彦君の氏族は残っていません。道氏の勢力が能美・小松から河北に進捗していることから、早い段階で道氏が大兄彦氏を駆逐もしくは吸収したとも思われます。この辺りはいまだ不明です。
画像
文字でわかるように加賀の由来は加宜賀我、二つのかがを合わせたものになると思われます。
ちなみに氏族名のは、古代の姓(かばね)の一つで、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・公(きみ)・直(あたい)などが国造に与えられた姓になります。この順位が国造の格を示すとも見られます。

今回の国造神社の主祭神は大兄彦君になります。並列で大国主が祭神ですが、こちらは越の国を統一支配したと伝わる時称に倣ったと思われます。由来碑にあるように、江戸期には二つの国造神社がありました。もう一つの国造神社はここから1キロほど西方に行った西泉にある井手神社になります。明治初期に両神社は国造から井手神社と名称を変更していました。明治39年に泉町は国造神社に名を戻していますが、西泉は井手神社のまま現代に至っています。
画像
画像   国造神社 拝殿
拝殿は明治40年建立の入母屋造の重厚なもの。特に上部の造りは黒瓦を含め、軒などの造りも重厚で、上部に比重が置かれているように見えます。彫刻も優れていて、入り口上部の向背の竜も透かし彫りの緻密なものですし、木鼻の象鼻も牙が大きく迫力があります。。拝殿入口の社紋も秀逸です。

井手神社の方は国造社の別名に御馬(みんま)社とも呼ばれていました。御馬神社は延喜式内社に数えられる加賀第五位の古社ですが、本社の所在は不明で、久安と間明(まぎら)に論社・御馬神社がありますが、この井手神社も本社候補の一つとも推測されます。
画像国造神社拝殿向背 透かし彫り彫刻

井手神社の主祭神は大己貴(おおなむち)神、大国主の別名になります。つまり、国造神社の祭神と同じになります。国造神社というからには主祭神は素都乃奈美留命大兄彦君になるのですが、現在は大己貴神のみになっています。井手神社には「イリコ祭り」という祭事が伝承され続けています。イリコと云えば、関西以西では煮干しを指すことが多いのですが、石川では干しナマコをいいます。また和菓子の材料の一つ、煎り粉(煎り種、麦焦がし)を指すこともあります。井手神社のイリコ祭りは元は麦粉を奉納して神様を慰撫する祭事でした。今は玄米を奉納するそうですが、、、「イリコ」とカタカナやひらがなにする場合は、干しナマコを指すのは石川の一般常識。どこかで粉の方に擦り替えられたと思われます。     国造神社向背 裏側
画像
干しナマコは能登の特産品で「能登ナマコ」とブランド化も進んでいます。前述の先代旧事本紀は素都乃奈美留命を能登国造と同祖(竹内宿祢・蘇我の臣)としています。となればイリコ祭りの井手神社の主祭神は素都乃奈美留命こと道君になると推測できます。

道君氏には、築後守・肥後守を兼任し、官僚の見本とされ、正五位下(後に従四位下追贈)と本来は国書に記されない身分ながら、国書・続日本紀に卒伝(伝記)が載せられている道首名(みちのおびな)の孫が9世紀半ばまで史上に見られます。
画像国造神社 拝殿板戸 ⇒

それ以前ですが、壬申の乱(672年)で天智朝から天武朝に移って後、天武から9代8人の天皇が続きましたが、称徳天皇の死によって、天武系の天皇候補が幼く、中継ぎとして天智系で老齢の光仁天皇が即位したのですが、肝心の光仁の皇后・井上内親王(天武系)と皇太子・他戸(おさべ)親王が呪詛事件で廃嫡、後に不審死を遂げ天武系の血筋が絶えたことから、山部親王(光仁の子・母は百済系の高野新笠)が立太子を経て桓武天皇となり天智朝が復活していますが。。天智系天皇を復活させた光仁の父は天智天皇第七皇子・志貴皇子で、母は越道君伊羅都売(こしのきみのいらつめ)で名の示す通り道氏の出生になります。後述しますが道君・大兄彦君の一族は現天皇家の皇統起源に係わる一族ということになります。道君と大兄彦君を祀る同じ国造神社がわずか1キロ圏に東西に並び立つというのは興味深いものがあります。
画像
画像 国造神社 拝殿 木鼻・象鼻

大兄彦君は本紀によれば、雄略朝の御代、三尾(みお)君の祖・石撞別命(いわつくわけのみこと)の四世孫とされて賀我(加我)国造についています。石撞別命は垂仁天皇(11代)の第十皇子で北陸に下向して中能登の羽咋を中心に活動したと云われます。子の石城別(いわきわけ)命が同じ雄略期に羽咋国造についています。大兄彦君の墓所は金腐川中上流で星稜高校を過ぎて東に進んだ御所町の北方の八塚山頂の御所八ッ塚古墳。名前の通り、8基の円墳の集積墓が比定されています。
画像
国造神社 幣殿・神殿
本殿は土台に石垣積みを使用しており、通常よりも背が高く、海風(西風)が直接当たるので、木羽板の覆い堂で包んでいますが、木目が美しくみえます。先に紹介した宝味噌の建物もそうですが、この辺りの旧家に観られる木羽板が良く分かるものです。
画像

画像ちなみに石撞別命羽咋国造として残った羽咋氏一族、更に分離した三尾氏が近江・高島の水尾(みお)に移ったと云われています。高島の水尾神社は石撞別命と石城別命が祭神になっています。その後、三尾氏は越前・三国、丸岡に戻って一族を生しています。この三尾氏から出たのが11代・垂仁天皇七世孫・布利比弥命(振姫)。応神天皇の5世孫を名乗る雄大迹(をほど)という越前の豪族・26代継体天皇の母親と伝えられています。伝承では継体天皇は近江高島で生まれ、母の故郷・三国、丸岡に戻って越前に勢力を広げたと云われています。

大兄彦君三尾氏羽咋氏かは不明ですが、どちらにしても北陸では有力な一族だったと云えます。どちらにしても、現天皇家の皇統の祖・継体天皇が大和に攻め上った軍団の一翼を担ったと思われます。こじつけっぽいですが、大兄彦君の一族が消えた痕跡は、三尾氏や継体天皇の移動と重なるようにも見えます。

天正11年(1583年)金沢入城を果たした前田利家は、国造神社に虚空蔵菩薩像を奉納したと云われます。
画像
虚空蔵菩薩は明けの明星(金星)や流星の象徴とされ、人に知恵と福徳を授ける菩薩として信仰されています。このために十三詣りといって、13歳を迎えた男女が虚空蔵寺に詣でてご利益を得るという行事が伝わっています。男子は大人となる半元服の日、女子は大人として晴れ着を着る日とも謂れ、今は小学校から中学校に上がる通過儀礼の要素も強いようです。一部地域では七五三よりも重視する傾向があります。特に関西に強いようで、京都嵐山の法輪寺・大坂天王寺の大平寺・奈良の弘仁寺が有名です。金沢では三代藩主・前田利常と正室・珠姫が正式に床入りした時の珠姫の年齢13歳の由来で、菩提寺・天徳院は十三詣りの寺院となっています。
画像               摂社 天満宮 ⇒
加賀の白山の白山妙理大権現(十一面観音、白山媛神の本地仏)と対を生すとされる能登の石動山の虚空蔵菩薩(石動彦権現の本地仏)があります。本能寺の変直後の能登領主時代、前田利家が旧畠山旧臣の温井・三宅に加担した天平寺を焼討した際に、本尊の虚空蔵菩薩像を人質として収容、後に越中・小矢部の今石動山の麓に移して社殿を整えています。
画像
画像
加賀前田家では能登・加賀の領有・民衆安定もあって、神仏保護は重要案件で、白山媛神(白山妙理権現、十一面観音)・石動彦神(石動権現、虚空蔵菩薩)・天神(菅原道真)は特に大事にされており、各神社や寺院にはこの三神にちなんだものが多く奉納・寄進されています。他県に比べても白山神社・石動神社・菅原社が多い理由の一つです。前述の珠姫の天徳院には曹洞宗寺院としては珍しく虚空蔵菩薩の位置が強く置かれています。また、利常が珠姫の安全祈願所として卯辰山観音院に虚空蔵菩薩を納めています。

この国造神社にも、天正11年(1583年)金沢入城を果たした前田利家が持仏・虚空蔵菩薩像を奉納したと云われており、虚空蔵の宮と呼ばれていたそうです。この名称のおかげか、本来は由来もはっきりしておりクニノミヤツコと呼ぶべきものが「コクゾウ」になっているのは、この虚空蔵(こくうぞう)の宮の名が大きく影響しているようです。

虚空蔵菩薩にはもう一面、大きな伝承があります。。木地師(轆轤(ろくろ)師)の神とされている55代文徳天皇の第一皇子・惟喬(これたか)親王ですが、もう一つ大きな技工の祖とされています。それが漆芸技術になります。惟喬親王が前述の京都嵐山の法輪寺に参籠した際に、本尊の虚空蔵菩薩から漆の製法と漆塗の技法を授かり、漆芸を広めたとされています。漆芸界では日本に漆芸技術を広めた漆芸の祖として、木地師と共に惟喬親王を祖神として崇めています。惟喬親王の法輪寺満願明けの日11/13は「漆の日」とされ法輪寺では祭事が催されています。また木地・漆芸の産地では虚空蔵菩薩を尊崇しています。

大聖寺藩祖・前田利治及び弟の二代・利明は、大聖寺藩の商業振興のために数々の特産品の創出・振興を行っています。九谷焼の陶土の発見による有田への後藤才次郎の派遣を行い、古九谷を発祥させたことが知られています。そしてもう一つの大きな業績が山中漆器になります。初期は山中・山代の温泉土産としての始まりでしたが、現在は四大漆器(山中・越前・紀州・会津)の中でも生産量は日本一を誇ります。石川県内では輪島塗・金沢蒔絵に眼が行きがちですが、元となる木地は山中が主要産地になります。正確には石川県全体の漆器と云えるんですが、山中漆器の真髄は木地にありと云われる由縁です。

前田利治は茶人としての名声があり、茶道関連の焼き物や漆器に造詣が深かったと云われます。更に加賀藩祖・利家、実母・珠姫の守護仏とも云える虚空蔵菩薩への信仰が厚かったとも云われます。前述の実母の安全祈願所だった卯辰山観音院の虚空蔵菩薩像を形見分けとして受け、山中温泉の山中漆器産地にある東山神社に安置しています。ちなみに東山神社は戦国期には加賀一向宗の前線基地として柴田勝家軍の激戦地となった黒谷城の跡地に立っています。

更に大聖寺藩では金沢城下から大聖寺に向かう加賀藩祖・前田利家と虚空蔵菩薩所縁の国造神社を尊宗して、江戸期には毎年家臣を申次に派遣して保護・寄進を怠らなかったと云われています。

冬以外に訪れると緑や黄色の銀杏が包む境内ですが、この時季、葉も落ちてしまい、寒々しい境内ですが、参道を進んで赤戸室石の灯籠を過ぎると、、灯籠は寄進年は摩耗して読み取れませんでした。赤戸室石は柔らかく加工に優れますが、損耗が早いのが難点で、年代を観たいときは辛いですね。狛犬が迎えてくれます。冬場に風雨を直接浴び、水分を含んで春夏秋を過ごすせいか、狛犬に苔がついて緑に染まっています。
画像画像
画像画像
前回の逆さ狛犬が飛び跳ねてるだけに見えると、torさんあたりを失望させたようなので、国造神社の大正期の逆立ちの高い逆さ狛犬をなかなかの逆立ち具合でしょ

狛犬は大正4年(1915年)11月(大正天皇即位記念)寄進、江戸期の逆さ狛犬として紹介した椿原天満宮の狛犬の跳ね上げは低かったですが、そこで書いたように明治に入ってどんどん後足が跳ねあがって行きます。明治39年以降の逆さ狛犬はそれまでの在庫を使ったと云われていますが、一番華やかな姿態とも云えます。対の阿形の狛犬は金沢では珍しい大きく口を開いています。逆さ狛犬の対象になる狛犬の特徴の岩や珠に前足を乗せる姿態は標準仕様。

旅行日 2018.12.08

今回の旧北国街道沿いには、加賀の千代女が52歳に剃髪し素園と号して、5年程過ごした念西寺があります。またの機会に。。いつかは地元では一番の有名人ということで。。



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 47

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

  • 家ニスタ

    木造家屋を何度も増築すると、こんな複雑怪奇なつくりになるんですね。
    母の実家の造り酒屋が、増築を何度も重ねて、二階が二か所に分かれていたりと、複雑なつくりになっていたのを思いだしました。
    そういえば母が亡くなってから、とんと味噌を食べなくなってしまいました。
    夏は味噌汁も飲まないですし、冬でもインスタントで済ませています。
    ほかに自分で作る料理で、味噌を使うものも思い浮かびません。
    なので今わが家には、味噌のストックはまったくなくなっています。
    2018年12月16日 23:10
  • yasuhiko

    さすが旧北国街道。旅人の行き交った
    昔を偲ばせる木造の建物が多く、魅力的な
    街並が見られるんですね。
    国造神社も、由緒正しきその名前通り、
    街道筋に堂々と鎮座するといった印象です。
    干しなまこの事を「いりこ」と呼んだり、
    関西文化の影響の強い土地柄ながら、
    赤味噌の伝統があったり、地域独自の文化が、
    街道沿いに見られるのも面白い点ですね。
    2018年12月17日 00:21
  • つとつと

    家ニスタさん
    木造住宅には増築改築を重ねて外部だけでなく内部も複雑な造りになったものがありますねえ。加賀では江戸時代に外間口の広さで税金が変わるというものがあって、宝味噌とは逆の造りの表が狭く仲が広い住宅もあって、複雑な構造がありました。
    僕が以前住んだ旧家では玄関は小さいのに中に入ると横に5部屋が並ぶなんてありました。
    昔の言葉に味噌を食べれば医者知らずというのがあるほど、味噌は健康効果があるそうです。そういえば、味噌汁以外にはあまり過程では使わなくなっていますが、味噌煮込みやみそ焼きなんてのも美味しいですよ。あんまり料理はしない僕ですが、嫁さんの居ない時に魚や肉に味噌塗って焼いたり、お茶漬けの山車にしたりけっこう食べてますねえ^O^
    2018年12月17日 14:21
  • つとつと

    yasuhikoさん
    金沢城下から南に加賀に向かう北国街道は、金沢市内ではほとんどが国道になっているんですが、この泉町の通りだけが町道になっていてなかなかの雰囲気があります。
    なにせ、大きな戦災や災害を受けていないせいか、あまり区画や道が変わらないので独特の迷路が多いのですが、その中を通る街道は貴重な交通路で、住民にも大事な通りになっています。ただ欠点は僕のように車人間にはなかなか車を停めたり通行には厳しい場所が多いんです。。
    石川・富山は昔から東西の交差点のような地で、両方の文化がまじりあったようなところです。更に東海出身の前田家の統治が長かったおかげで、名古屋・東海の文化も入っています。たまに古くからの家なのに隣で味が全く違うということがよくあります。そうそう、正月の餅も家によって丸餅と角餅がありますねえーー:関東・関西の人が見ると違和感を持つんですが、逆に言えば長く住んでみると、自分に合うものがどこかに必ずあるという土地柄です。
    2018年12月17日 14:42
  • がにちゃん

    北中家住宅 いい雰囲気ですねぇ・・・つとつとさんのブログ見ていたら、まだまだ一杯見に行きたいところが出てきます
    彫刻も素晴らしいですね 象の鼻 じっと見ていたら睨まれているように思いました
     ギョロッ 
    2018年12月17日 18:59
  • tor

    見事な逆さ狛犬と笑う狛犬ですね。楽しみにしていました。ずいぶんと古くて立派な建物が残っているのですね。建物を見てまわるだけでも楽しめますね。国造神社も素晴らしいですね。国造神社といえば私は阿蘇の神社が浮かびます。こちらは鯰と関係があるのですよ。大杉も有名だったのですが、台風で折れてしまいました。
    2018年12月17日 19:24
  • つとつと

    がにちゃんさん
    なかなか見ごたえのある建物でしょ。泉町は古くからの町で古い住居が路地の中にも混在しています。以前紹介した湯涌温泉の江戸村も旧家を集めていますから、温泉がてら見て回るのもお薦めですよ。白雲楼がある頃だったらもっとお薦めだったんですが。。
    象鼻も多くの神社で見られるんですが、これだけ立派な牙があるのは珍しいと思います。それが迫力を醸し出しているようです。おかげで目のきつさで拝殿に上がりづらかったです^^;
    2018年12月18日 13:36
  • つとつと

    torさん
    ご希望にお応えして逆さ狛犬の逆立ち型です。大正の物で一番はでな頃のものです。
    国造というのは、最初の公的に認められた豪族ということで、各地元にとっては祖先に近い存在になります。各地区のルーツを探るには最適の存在です。
    出雲・諏訪・阿蘇の社家はこの国造から連綿と続く家で、特に重要視されています。
    阿蘇神社の社殿配置も三の御殿としながら、国造の祖神がど真ん中に立っていますから、重要な存在だったんでしょうね。地震の損害が大きかったですが、是非復興して欲しい神社ですねえ^^
    2018年12月18日 13:55
  • 藍上雄

     宝味噌や国造神社の本殿の外壁の木羽板ですが、これはやはり焼杉なのでしょうか…?、こういう感じの外壁は、漁港の古民家で良く見る事が有ります。(中には、最近造られた物も見かけますが、味わいのあるものですね。
     国造神社と言うと、やはり大国主命のイメージが強いですが、ここではその土地土地の有力者の様な方たちが祀られているようですね。
     拝殿の竜の透かし彫りや象鼻は立派ですね、これはやはり象なんでしょうね。(獏も有るようですが…。よく似ています。)
    2018年12月18日 15:25
  • つとつと

    藍上雄さん
    木羽板は杉材が多く使用されていますが、神社の方はヒノキや能登ヒバも使用されているようです。石川は細長い県ですから海風・山風双方の影響が強いので木造建築には多く見られます。実際能登や加賀の海沿いには多いですねえ。
    泉町の木羽板は木材に赤漆を塗っていて腐食防止が施されています。
    国造りの神話時代はやはり日本海側は大国主がほとんどですが、今回の国造は古墳期から飛鳥の時代の各地の発祥豪族を祀ったものになります。
    木鼻に使用されるものにはりゅう・ぞう・獏・トラなどが観られますが、こちらでは象が多いようです。やはり向背は火災防止の要素が強いですから、花から水を葺く象が珍重されたようです。竜を除けば実在の動物ですが日本では想像の要素が強くて、たしかに像と獏は鼻の長さと牙くらいの違いですねえ。北陸では富山の城端が神社仏閣の彫刻が盛んで、ほとんどがそちらの作品のようです。又そちらの方に行ったらご紹介しますね。
    2018年12月20日 11:15
  • ゆらり人

    こんにちわ。
    今年も沢山の社寺や細かなご説明に感じ入りました。
    また建築模型の好きな私にとっては貴重な写真が参考になりありがたかったです。
    歴史に疎い私にとっては一つでも記憶に残ることが新鮮でした。
    また来年も楽しみに拝見いたします。
    どうぞお体にご留意され素敵な新年をお迎えになり、又のレポートを楽しみにしております。
    どううぞ良いお年をお迎えください。
    2018年12月26日 10:51
  • つとつと

    ゆらり人さん
    こちらこそ、つたないブログにお付き合いいただいてありがとうございました。
    北陸の神社は雪囲いがあるので、神殿などは本当の姿がなかなか見られないのがちょっと心残りですが、少しでも参考になれば幸いです。
    ゆらりさんの建築模型や創造力豊かな作品の数々にはいつも目を見晴らされています。又お邪魔させて頂きます。お体のメンテナンスも忘れずに、良いお年をお迎えください^^
    そうそう、今年果たせなかった20年ぶりに河内に行く計画、来年こそは果たしたいと画策中です。
    2018年12月27日 14:13

この記事へのトラックバック

最近のコメント

「雑話 日本の仏教①」- by ゆらり人 (02/17)

「松任 若宮八幡宮①」- by つとつと (02/16)

「松任 若宮八幡宮①」- by 家ニスタ (02/15)

「雑話 日本の仏教①」- by つとつと (02/09)

「雑話 日本の仏教①」- by ミクミティ (02/08)