馬坂

前々回にも書きましたが、ご紹介した椿原天満宮を巻くような天神坂は、田井・旭町などの旧街や越中・福光などから金沢城下町への往来の本道でした。
天神坂を登り切った小立野台地は砂岩層を覆う岩盤層がある台地で、水の手が少ないために農地としてはむかない場所でした。この為小立野台地上の住民は、農地を求める住人は浅野川沿いや犀川沿いの低地に畑地を求めることになります。この為浅野川に向かう台地には天神坂の他に三つの坂道がありました。それが、馬坂・鶴間坂・牛坂の三本の坂道でした。馬や牛が示すように農耕用の牛馬を使った名のように小立野の住民の生活道路となっていました。牛坂は整備が進んで面影がなく、鶴間坂・馬坂は車の通行禁止。。
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とはいえ、車人間の僕としては、なかなか訪れにくい場所なんですが、お客さんの家に訪問後に宝町に来たついでに立ち寄ってみることに。。というわけで今回は馬坂の紹介です。

坂道は舗装されていますが、道幅は当時より少し拡張していると思われます。なかなかの急勾配で途中には別名・六曲坂と呼ばれるように、大きなカーブがあります。

馬坂(途中の坂標碑より)・・・昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた
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画像 馬坂 扇町口 大曲

馬坂は現在は上部の宝町と扇町を繋ぐ坂でした。前述したように小立野台地の崖面を登る三つの坂は住民の生活道路であり、鶴間・牛坂は小立野から浅野川沿いに降りる坂でしたが、この馬坂の上部の宝町は、前田利家を始めとする半数の藩主の菩提寺・宝円寺があるように小立野寺院群がある寺町でもあり、下部の扇町は古くから住宅地でした。馬坂は他の鶴間・牛坂とは逆に住民は寺院群の草刈り作業のために、下から上に行くための坂道でした。
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馬と人の専用道ですから、なかなかの急勾配、坂好きの人には人気のある坂なんだそうですが、宝町口から降りた際はトットトと軽やかでしたが、登りになるとひーこらTT でも途中からの家々の屋根の眺望は見ごたえはバッチリ@@
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         馬坂不動尊
馬坂の途中にあるのは馬坂不動尊。上部に見える木造建物は高源院。右上の建物は伊田弦楽塾という音楽教室。ちなみに弦楽塾はチェロ奏者のご主人とバイオリン奏者の奥様の夫婦が営んでいて、金沢市内に三教室あるそうですが、ここ宝町では月2回ホームコンサートが行われています。裏側は立派な建物なのですが表は古びた旧家の玄関でビビる人もいますが、金沢では珍しいクラシック演奏がアットホームでリーズナブルに聴ける貴重な存在^^近日は12/30\1500・1/16\500・1/27\500とパンフレットが表に張られていました。興味のある人はこちらをどうぞ ⇒ 伊田弦楽塾HP
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この不動尊の上部からは湧水が流れ落ちていて、古くは馬坂の中途にあるため、馬の息継ぎの飲み場だったとも云われています。いつ頃からかは不明ですが、急坂で喘ぐのどを潤し、馬の健脚を願う人によって不動明王が祀られたと云われます。

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万治2年(1659年)、高源院が大豆田(まめだ)から移転した後からは、院の管理となって、後に不動尊寺が立てられ現在に至っています。
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馬坂不動尊の湧き水は、昭和期まで岩盤層や砂岩層の中を水路が通るために金沢でも金城霊澤と並ぶ名水とされていました。水で洗うと眼病に効用があると云われて、訪れる人が絶えなかったと云われます。
ところが、平成になって湧水量が急激に減って見る影もなくなって枯れる寸前でした。
平成21年(2009年)、崖崩れ防止工事の一環で小立野の崖面の調査・点検及び危険個所の補修工事が行われた際に、馬坂の水路の点検と補修も行われ、わずかながらに水量が戻ってきています。往時の勢いはありませんが。。ちなみにこの時の調査によって小立野台地の砂岩層を包むように岩盤層があるという構造が判明しています。
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   馬坂 宝町口大曲から馬坂不動尊寺
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画像 馬坂 
馬坂不動尊寺からの         直線急勾配




馬坂を登りきったところにあるのが高源院

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小立野寺院群 高源院 
福母山と号し、曹洞宗に属する。
開山の春堯和尚は、加賀藩初代藩主・前田利家の息女・福姫の縁類として取り立てられたことから、その恩に謝するため、寛永十八年(一六四一)、大豆田に当寺を建立し、福姫の戒名より高源院と称した。
しかし、万治二年(一六五九)、寺地を召し上げられ、替地を与えられなかったため、現在地を請地して寺を建立した。
また、金沢西国二十九番の霊所でもあり、毎年七月一日には早朝より「一ツ灸」が執行される寺としても知られる。この一ツ灸は氷見市鞍川の東泉寺の開山一如禅師が宝永元年(一七〇四)、灸点を施すようになったことをきっかけとし、東泉寺十七世・菊池徹参和尚がその秘伝の術をこの地に伝えた。  金沢市

画像高源院 玄関 
門に掲げられた「金沢三十三観音寺巡り 第二十九番札所」は西国三十三所を金沢の観音寺に模したものです。西国29番は「丹後国 松尾(まつのお)寺」で本尊は馬頭観音座像。国宝で秘仏の美福門院の持念仏・絹本著色普賢延命像が有名。高源院の本尊も馬頭観音です

石川県内の古い文化財候補の家屋や寺社の建物は表だけが古い景観を残し、裏は改築や立替で立派とういうものが多いんですが、ここはお隣の伊田弦楽塾もそうですが、その典型的な寺院になります。中に入ったり裏に回ると、立派な寺院と解ります。
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高源院の名は前田利家の八女・福姫の戒名から来ています。ただ福姫は寺院開設期やこの地に移転したころはまだ存命という異説があり、公に名前を語るには早い段階では憚りがあり、だいぶ時期を置いてからの寺院名だとも思われます。

日本史の女性は○○の室・母・娘(女)など名前が不明な人が多いのですが、これは諱を隠すという意味もありますが、、加賀前田家の初期の女性陣は加賀藩や日本の歴史に名を留める人物が多く、名も明らかな人が多くいます。前田利家の娘は正室・松との間に9人いますが、成人して名を知られている娘としては、幸姫(長女・前田長種室(加賀八家対馬家祖)・簫姫(次女、中川光重(宗半、前田家家老2万3千石)室・摩阿姫(三女・豊臣秀吉側室、万里小路充房室)・豪姫(四女・宇喜多秀家室)・千世(七女・細川忠隆室、村井長次室(加賀八家村井家2代)。ちなみに七女・千世は異母説があります。
画像 高源院 門前の地蔵菩薩 馬坂に点在していた地蔵菩薩を集めたようです。

松(芳春院)は11歳で嫁いで約20年間で、12歳で長女・幸に始まって、30歳で次男・利政、32歳で七女・千世と11人の子(内二人夭折、戦国期実子数タイ記録(伊達晴宗・久保姫と並ぶ)をもうけていますが、ただ千世には前述の様に別母説があります。しかし11人の子の中で芳春院の直筆手紙が多く残るのも千世宛で一番愛された娘でもあります。

一回り近い(利家の生年は複数説あり、8~11歳年上)年下の幼な妻を迎えた前田利家は松が30歳までは奥さん一筋で浮いた話は数えるほど、、なのですが、千世の母とされる侍女(千世は双子で篠原長次(篠原宗家)が兄弟)、四男・利常の実母・千代保(寿福院)と当時は厳禁物の正室直属の女官に手を出してしまったようで、内輪で大騒ぎになっています。。。ここで夫の閨房を諦めた松は利家の側室を認めます。というわけで、利家には40歳以降、解る範囲で側室4人他に七男(三名夭逝、篠原長次は除)四女が別にいました。
画像高源院門前の石仏 本来なら馬頭観音でしょうが、普賢菩薩に見えます。

正室の娘たちも数奇な運命を辿っていますが、側室の四人の姫(一人は母子とも詳細不明)も数奇な運命を辿っています。そもそも正室・松が男子は利長以来、長らく男子が出来ず30歳で利政を授かって、正直松さんもホッとしたんでしょう。。その後の歴史を観れば、利長に跡継ぎが出来ず、利政は能登改易、結局、加賀前田家を継いだのは側室・寿福院の子・利常。更に松の実家筋と云える篠原本家は前述の篠原長次が継いで後世に伝えているんですから、側室は必要だった、結果オーライだったことがよく解ります。

30歳で念願の二人目の男子・利政を得た正室・松は、閨房を離れ利家の側室を認め、その最初の側室が隆興院・ お岩(笠間氏)でした。笠間氏は詳細不明ですが、少禄の家臣名が加賀藩に観られます。お岩の産んだ最初の娘が菊姫でした。生まれてすぐに菊姫は子供の居なかった羽柴秀吉の養女となっています。同時期に秀吉は織田信長の四男・秀勝を養嗣子として迎えています。秀吉の構想では菊姫と秀勝を婚姻させて跡を継がせようと考えていたようです。しかし菊姫は僅か7歳で早世します。「利家と松」などドラマでは、泣く泣く松の娘を秀吉夫婦に渡す涙の美談になっていますが、実は。。側室の娘、、更にお岩はこの後に男子を三人産んでいますがいずれも夭逝。。怖。。懲りない利家は17年後、お岩に九女・保智(模知)を産ませています。保智は徳川家康の五男・武田信吉と婚約していましたが、信吉が婚姻前に早世、篠原分家の貞秀に嫁いでいます。

この後、利家は禁断の松の侍女二人に手を出し、利家・松・篠原一孝の相談で、双子の千世を松の実子(七女)に、男子を松の実家筋の篠原一孝(執政)の実子として篠原本家(6千石)を継がせています。ちなみに一孝本人は篠原出羽守家(1万7千石)を別箇に起こしますが次代で、当主が相次いで早世で無嗣断絶しています。
もう一人は中能登に隠した千代保(寿福院)で、生まれたのが四男・三代藩主・前田利常になります。但し利家はずっと母子を無視。利常を養子として後継とした長男・利長の要請で死の前年に親子の対面を果たしています。母の寿福院は利常が藩主となった際に、江戸に人質となり、帰国する芳春院と交代しています。寿福院と芳春院の中は犬猿の仲として有名で、交替時以降一度も口を利かなかったと伝わります。利常はこの二人の板挟みと他の側室の兄・弟との確執にしばらく苦労することになります。

そして、利家が金沢入城後に迎えた側室・お在(金晴院)は荒子時代からの家臣・小塚家から迎えています。このお在は二人の子を産んでおり、姉が今回の後の高源院・松寿院となる八女・福姫(天正15年(1587年)生)、弟が利常と抗争を起こし鞍馬・近江に隠棲出家、関係修復後、金沢への帰途に病死した知好(三男)。この関係修復(六男・利貞も)に対して尽力したのが二人の義弟・五男・利孝。利孝はそれまで江戸で芳春院に養育され共に帰国、後に分藩独立して七日市藩(1万石)の開祖になっています。

福姫は公式の文書の上では33歳で(1587~1620)で亡くなったことになっています。慶長3年(1598年)に後の加賀八家・長好連(ちょうよしつら、当時17歳)に嫁いでいます。好連は24歳で長連竜(つらたつ)の後を継いで当主となります。長家は後に加賀八家老家の一つ、加賀前田の家臣団ですが、この当時は穴水城主として3.3万石。前田利家・利長時代は領地持ちの組下大名でした。長家が加賀八家老として、完全な家臣団に組み込まれるのは5代・綱紀の時代になります。
ところが好連が慶長16年、30歳の若さで亡くなります。長家当主は父・連竜が復帰、福姫は24歳で後家さんとなって加賀前田家に戻ります。二人の間に男子はありませんでした。

同じ慶長16年(1611年)~、利家次女・簫(しょう)姫(瑞雲院)を正室としていた中川光重(1万7千石)を継いだ長子・光忠(弟とも云われます。)に再嫁していますが、僅か結婚生活2年で、光忠が派閥抗争に巻き込まれて加賀藩を致仕・京都に出奔浪人。その際に離婚しています。

慶長19年(1614年)、高山右近が加賀退去・マニラ追放となった後、バテレン追放の嵐の中、キリスト教の棄教を拒否して能登・本行寺(七尾市山の寺寺院群)に娘の菊姫(好連の娘が有力ですが、光忠とどちらの娘かは不明)や20数名の加賀藩家臣団の子女と共に一代謹慎として幽閉され、生涯を閉じています。死去の年代は元和6年(1620年)33歳、万治4年(1661年)74歳とも伝わります。この辺りは本行寺には記載誤りが多く、判然としませんし、菊姫との混同も窺えます。晩年・死後・墓所には謎の多い女性です。
画像 一ツ灸 菊池徹参和尚碑

毎年七月一日に催される一つ灸は明治に入って伝えられたものですが、伝えた東泉寺は氷見市にある富山での灸道発祥と云われる曹洞宗寺院です。光禅寺二一世の一如孝順が開山。「当山夢想秘灸略縁起」に一つ灸の発祥が遺されているそうです。中風に苦しんだ一如が薬師如来の夢告で最上に赴いて、青麻(あおそ)と灸を修めて持ち帰ったと云われています。
ちなみに青麻は青苧とも呼ばれ、越後麻の原材料でもあり、戦国期の衣料材料の多くを占めたもので、越後が主要産地で全国に出荷され上杉謙信の財源の多くを占めた産業でした。また、灸として使うのは最上・米沢が発祥地で最上氏や伊達氏によって普及したと云われています。

ついでに一如が21世とされる光禅寺は、越中曹洞宗の発祥地とも云える古刹で、加賀大乗寺や能登永光(ようこう)寺で、太祖と呼ばれ総持寺派の祖とされる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)に学んだ門下で四哲(明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡)の一人・明峰素哲が創建した寺院です。藤子不二雄Ⓐさんの父が49代住職で生家として小5まで過ごしたとしても知られています。境内に作品のモニュメントやギャラリーがあります。氷見に行かれた際は話のタネに必見です。
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    高源院の隣にあるのは献珠寺(けんじゅじ)
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献珠寺 金竜山、後に黄竜山と号し、臨済宗に属する。
開基は、慶安四年(一六五一)加賀藩士・横山式部長治の妻である海元院が、その母・献珠院のために母の帰依僧・遠山を開山に招いて建立した。献珠院は加賀藩初代藩主・前田利家の孫娘・亀姫である。
寛文七年(一六六七)、遠山の死後、無住となったが、その間三年間にわたって曹洞宗の月坡が寺を守った。しかし、月坡が天徳院に移住したため、再び無住となり、次いで檀那・横山氏従は寛文十二年(一六七二)、禅僧・高泉を招いて、明法山と称した。
高泉が退院した後、元禄(一六八八~一七〇四)、末寺妙心寺の嵩山を招き臨済宗に復しました。 金沢市

画像 献珠寺 六地蔵
前を何度も通っている割には立ち寄ったことがなく初めての訪問でした。以前はもっと大木が生茂っていたような。。。
寺堂を観れば、卍紋で横山家関連の寺院と解りますが、文中の横山式部長治は横山長知の三男ですが、神谷守孝に婿養子に入っており、正室となったのが守孝と献珠院(亀姫)の娘・海元院でした。献珠寺は元々は神谷家の母の菩提寺として建てた物になります。ややこしいのですが、夫の長治は伯父の相続も受けており横山・神谷双方(計1万石)の名を名乗っていました。後に家督は長男が横山式部家(7千石)、次男が神谷式部家(3千石)に分かれています。

ちなみに馬坂を下りた先にある横山町や材木町は、横山家の下屋敷や家臣団が住んだ場所で、献珠寺は何度も無住の寺院になりながら、その度に横山家や藩主の保護が入ったのは大事な存在だったことが窺われます。特に寛文12年に招聘した高泉は、黄檗宗・高泉性敦(こうせんしょうとん)のことで、元々は福建省からの渡来僧で、萬福寺で初の授戒を行い、仏国寺を創建しています。黄檗宗は最新の禅宗であり、後水尾天皇から紫衣を賜り、晩年には五代将軍・徳川綱吉に法説話も行っている当時の禅僧ではトップの存在でした。案内板では長治の三男・氏従が招聘したとしていますが、実際には人持組の陪臣が呼べるような僧ではなく、藩主・綱紀が招聘したものです。
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献珠院(亀姫)の母親は前田利家の次女・簫(しょう)姫(瑞雲院)になります。簫姫は美女として知られ、三女を側室にした秀吉は実は彼女が本命だったようで贈り物を何度も彼女に贈っていたと云われますが、希望は達せずでした。夫となった中村光重は、越中砺波の増山城主でしたが、元豊臣秀次に仕えた経験から外交面を担うことが多く、浮き沈みの激しい立場(2万3千石取、千石で配所送りになったり、秀吉の御伽衆になったり)で留守がちで、増山殿と呼ばれたように留守を預かるように城主の役目を果たしていました。二人の間には亀姫と妹がいましたが、前述の光忠出奔で当主不在の際に、妹に光重の親族から婿養子を受けて中川家を存続させています。
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横山・神谷両家にとっては重要な寺院ですが、幕末から明治初期には漢籍や漢詩、児童教育、建仁寺の輪番で紫衣を辞退する気骨の住職として知られた金谷善応住職がいましたが、明治中期以降は衰退の一途を辿っていました。
現在は女性の寺のように、愛らしい、寺に本来合わない、こんな飾りも置かれていました。肌寒い日にちょっとホッコリしちゃいました^^
画像 俵屋宗達墓所案内碑 大正三年(1914年)八月十二日樹
高源院献珠寺の前を南に30mほど進んで右折すると、加賀前田家の菩提寺・宝円寺の門前通りになりますになります。右折した入口右手には石標が建てられています。
琳派の創始者と云われる俵屋宗達の墓所への案内碑になります。
以前にUPしていますので興味のある人はこちらをどうぞ ⇒  H29.12.25 護国山 宝円寺
H20.11.28 宝円寺

以前から宝円寺には宗達と思われる過去帳があったのですが、大正2年に宝円寺の墓所から倒壊した五輪塔が発見されました。翌年に俵屋宗達の墓として調査報告が行われています。俵屋宗達記念会の開催に合わせた調査でタイミングが良すぎるという批判もありますが, それまで尾形光琳の影に隠れ、顧みられなかった俵屋宗達の画が見直された契機になった出来事でした。
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俵屋宗達の墓所は京都・頂妙寺にも建てられたという記録があります。俵屋宗達は京都と金沢に工房を構えており、晩年は金沢をベースに後進の育成に努めたと云われます。また京都の町衆でもあり、どちらが本墓かは不明のままです。

江戸・明治には俵屋宗達の墓が宝円寺に建立されたことは広く知られていました。明治末から大正に書かれたとみられる、偉人の墓所を書いた金沢墓誌の宝円寺の項に俵屋宗達の名が観られます。

寶圓寺 下百々女木町(現・宝町) 三・俵屋宗達 泰嶺院宗眞劉達居士
宗達は加賀の人、或は能登の人といふ、金澤に住居し、本寺第五世泰山と親厚なり。絵事に長じ、狩野土佐両派を融和して、自己独特の手法を出し、光琳風の先駆を成す。晩年、亰師に出で、本阿弥光悦と親善なり、飫にして(よにして、飽きる程の意)金澤に帰り、寛永二十年八月没す。近年、有志者爲(なす)に宗達会を起し、遺墳の修補保存に従事す。

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宝円寺の門前に進んで右手には豪壮な本堂を持つ瑞雲寺。寛正6年(1465年)に越前府中(現福井県越前市武生)に創建されたのが始まりで、天正18年(1590年)前田利家が府中の領主だった関係で木の新保(金沢駅)に寺領が与えられ、藩臣・寺西宗与(秀則)が開基となり瑞雲寺を建立。後に野田山の大乗寺坂上に移転していましたが、寺西要人家の菩提寺・墓所として続いていましたが、明治19年(1886年)に陸軍練兵場用地に召し上げとなり現在地に移っています。日露戦役後、ロシア人捕虜で病没した10名の菩提寺となり、ダモイ観音が安置され毎年8月に法要が営まれています。

開基の寺西秀則は、生まれは利家と同郷の荒子。織田信長の武将として、佐久間信盛の与力として近江石部城主として活躍していた武将です。天正5年、石山合戦の不調などで佐久間信盛が高野山追放の処分で、連座して追放処分となり、佐渡に向かう途中、府中領主だった前田利家の慰留で家臣に加わった経緯があります。

当時、組下・与力を加えると最大軍団を指揮した佐久間信盛、筆頭家老・林秀貞の追放劇は、表面上は信長の恣意的理由が強く、織田家中に波紋を起し、不信感と恐慌をあたえ、後の松永久秀・荒木村重・明智光秀の反乱の一因になったと云われています。

旅行日 2018.12.11

この記事へのコメント

  • がにちゃん

    結構な急坂の様子  タモリさんが喜びそうですね(笑)
    2018年12月26日 17:00
  • tor

    金沢には坂が多いとの紹介がありましたが馬坂は整備されていて車が通らないならトレーニングに最適だと思ってしまいました(笑)長崎も坂の街で夜景は美しいのですが生活は大変のようです。途中の湧水は一休みして喉を潤すにはちょうど良いですね。そして上りきると寺院がある構図でしょうか…?
    2018年12月26日 20:34
  • つとつと

    がにちゃんさん
    たしかに^^昨年はブラタモリでは平坦地ばかりの紹介でしたから、河岸段丘は喜ぶでしょうねえ^^金沢でも小立野の寺院群には曹洞宗の関係が多いので、宝円寺・天徳院などはおすすめですよ^^次回来られたらゆっくり回ってみてください。
    2018年12月27日 14:18
  • つとつと

    torさん
    金沢の町は犀川と浅野川の河岸段丘の上にあるために、両川の河岸は高い崖があり、生活に大きな影響を与えていたようです。小立野と坂を下りた町では全く違った街並みが形成されています。馬坂・鶴間坂は車の通行はできないので、トレーニングには確かに最適ですが勾配がきつくて僕は歩くだけで精一杯です。。
    馬坂の下は古くは参勤交代などの要員、横山家の関係者が住んでいた場所で、現在でも住宅の密集地です。登ったところが前田家の菩提寺があり寺院が密集していました。宝円寺とは反対方向に行くと広大な寿福院の経王寺の広大な境内だったんですが今は金沢大学の医学病院になっています。昔は馬坂や鶴間坂、兼六坂を上って病院に通ったそうです。病人には大変な坂だったそうです。
    2018年12月27日 14:30
  • yasuhiko

    馬坂、いいですね!
    私はタモリ氏のような坂道オタクでは
    ありませんが、この坂道のうねり方には
    かなりしびれます。タモリ氏が力説するように、
    坂道には昔の風景が残ってるという事が、
    馬坂の場合、うまく当てはまるように思いました。
    人や牛馬が坂道を上る場合、鋭角的に最短距離を行く事は
    難しいから、自然に緩やかなカーブを描くんですね。
    このカーブが何とも言えず魅力的と言うか…。
    オタクで無いと言いつつ、かなりオタク的発言になりました。
    2018年12月28日 21:45
  • つとつと

    yasuhikoさん
    (笑)yasuhikoさんが坂オタクとは思いませんでした。
    そうなると、残りの鶴間坂と牛坂も紹介した方がいいのかなと、、、馬坂は勾配がきついので途中に曲がりを重ねているようです。そうですか、坂道は何気に昇り降りしていますが、云われてみれば崖面に沿うような曲線はきれいですもんね。そうそう金沢にはたくさんの坂があるんですが直線が4本でアルファベットのWに似ている石伐坂。W坂は井上靖が寺伝小説にも書き、室生犀星が一番好きだった坂、、今度紹介しますね。坂を紹介するってことは登り降りが@@体力つけるには良いかも^^;
    2018年12月29日 09:40
  • go

    小立野台から猿丸神社の方に登り降りする坂はよく利用しますが、小立野台から旭町や田井町を結ぶ道は未だ行ったことがありません、随分歴史のある街並で金沢の住んでいても知らないのが恥ずかしいですね。
    田井町の菅原神社に十村役が加賀藩に献上した鏡餅を見に行った事があるくらいです、季節が良くなったらその辺を歩いてみたいですね。
    2018年12月29日 14:38
  • つとつと

    昔からの街並みや寺院が多いのですが、その分駐車場が無かったり道が狭かったりで、車で行くと不便な場所なんですよ。今回は宝円寺を廻るついでに寺の駐車場に停めて歩いてきました。実は鶴間坂も歩いてみたかったんですが、駐車するところがなくて、時間的に断念してしまいました。後で考えたら、椿原天神から少し西に天神緑地という公園があるんで、そこに停めればよかったと後悔していました。2月末から4月初旬に行くと各種の椿が綺麗に咲いています。なかなかお薦めですよ^^
    2018年12月29日 18:18
  • 藍上雄

     馬坂、昔の人は馬を引いて登ったのでしょうね。荷物の運搬には欠かせない動物でしたね。車が通れないような道が現在でも通行できるというのは、中々興味深いです。それはさて置き、小樽にもちょっと乙な坂道が有ります。高島漁港から手宮公園に登ってゆく坂道ですが、車が一台やっと通れるような坂道で、途中に小樽稲荷神社が有ります。消火栓などもかなり物が使われていたりです。家並みは古いだけですけれどね。暫く進むと小樽湾を一望できる場所が有るんですよ。
     ある意味でちょっと近い雰囲気だと思います。
    2018年12月29日 22:36
  • つとつと

    藍上雄さん
    小樽と聞くと港や運河ばかりを想起してしまいます。手島公園が解らなくて、つい地図を広げてみると、小樽の町は海岸から丘陵までが意外に近い町なんですねえ@@
    そうとなれば坂道が多いんでしょうねえ。
    北端から一望に出来るなんて贅沢な眺望が観られそうですねえ^^
    昔ながらの雰囲気の残る坂というのはなかなか見られないのですが、車が入れないようなところに意外な発見があったりしますねえ^^
    2018年12月30日 10:35
  • ミクミティ

    金沢のこの辺りも由緒あるお寺が多いのですね。それが当然ながら前田家と色々な絡みがあって面白い歴史の足跡を追うことできるのですね。それにしても、前田利家はこんなに子供が多かったのですか。秀吉とは大違い。歴史ドラマでもこれほど登場しませんからね。
    俵屋宗達墓所が金沢にあるのも意外でした。京都文化との深い関係性もうかがえます。
    2018年12月31日 00:06
  • つとつと

    ミクミティさん
    金沢は寺院が多いのですが、その中でも寺町・東山卯辰山・小立野に寺院が集積しています。東山と寺町は観光コースなんですが、意外に小立野は知られていないのですが、加賀前田家関連の重要寺院は小立野にあるのですよ。特に前田利家の菩提寺・宝円寺、珠姫の菩提寺として建てられた天徳院の二つの寺院が、後に藩主の菩提寺になっています。前田家は明治に神道に宗旨変えしているので寺院には直接かかわっていませんが、それでもいろいろな足跡や事物が観られます。意外にお薦めの場所ですよ^^前田利家は戦国大名では夫婦の子供でタイ記録の11人、でも男の子が利長と利政だけで目立っていないという印象が、初老からの子供が11人で計22名。すごい数ですねえ^^;子供に恵まれなかった秀吉には菊姫と豪姫が養女になっていますが、もし菊姫と秀勝が長生きして跡継ぎが出来ていれば、歴史も大きく変わっていたでしょうねえ^^
    戦国から江戸初期に活躍した俵屋宗達、本阿弥光悦、長谷川等伯は京都でも大きく協力関係にありましたが、実は三人とも加賀藩とは深い関係にあるんです。特に本阿弥家は加賀藩と家臣関係で屋敷地や墓所も持っていました。光悦の墓は京都光悦寺ですが、江戸期後の本阿弥家の墓所も小立野の経王寺にあります。
    2018年12月31日 13:35
  • 家ニスタ

    あけましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いします。
    m(_ _)m
    僕の地元も坂の多い町で、現に僕の家も坂に面しています。
    今はいいですが、老後に足腰が弱ってくると心配ですね。
    尾道や長崎など、坂が多いことで景色が美しくなっている町も多いですね。
    地元の人は暮らしにくいかもしれないですけれど・・・。
    2019年01月01日 10:29
  • つとつと

    家ニスタさん
    明けましておめでとうございます。こちらこそ本年もよろしくお願いいたします。
    金沢の城下町は犀川と浅野川の河岸段丘の上にあるために、坂道が多くなっています。その代わり、区画を分けるにはこの坂が便利だったようで、はっきり町が区分できたようです。僕の住め白山市の松任地区は手取川の扇状地の為に、平地の上で坂がほとんどない場所で、眺望には恵まれていません。また、金沢・野々市と交わって住んでる人もはっきりわからないなんて感じです。
    金沢も白山も山側に住宅化が進んでいますが、斜面に並ぶ住宅地を観ると、これを登るのかと慄くような場所が多く顕在しています。でも案外年寄りの人の方が元気という話もありますが。。
    2019年01月01日 13:17
  • メミコ

    今年もよろしくお願いいたします
    坂にまつわる様々なお話は 日本各所 どちらも面白いですね
    わたしの身近には うとう坂という 危険予防のため 唄いながら歩くといいとかいう坂があります

    さて 昨年 久しぶりに金沢を訪れ 兼六園と生前 父が住んでいた平和町の官舎を見てきました  金箔のお店にも寄りました  ゆっくりしたかったのですが 半日ほどの日程でしたので お寿司を食べて 山代温泉へと向かいました

    また 時間があれば 金沢の旅リピートしたいです

    そうそう 教えていただいた和菓子もいただきました

    今年も 時折 ブログにお邪魔させていただきます
    2019年01月09日 10:33
  • つとつと

    メミコさん
    本年もよろしくお願いします。町に坂があるのは、風情があっていいですね。僕の住むところは扇状地の平野の上で、ほとんど坂がないんですよ。ちょっとうらやましい感じ^^;歌いながら登る坂道、閑静な場所なんでしょうか@@

    金沢は楽しめましたか? 平和町に住まわれたんですか、そういえば平和町の近辺は住宅が増えましたが、昔とあまり街並みが変わっていないと思いますから懐かしかった子も^^それでも野田山に向かうと、メミコさんがいた頃、兼六園下にあった近大付属小学校が移っていて、山側バイパスが開通して交通事情は大きく変わっていると思います。またゆっくり散策してみてください^^山代温泉も道路が変わってだいぶ雰囲気が変わっていたと思いますが、名所旧跡は変わらぬ姿^^一番大きかったホテル百万石が旅館加賀百万石として5年ぶりにオープン。どんなふうになったかまた行ってみたいなあ

    2019年01月10日 23:07

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