小松(梯)天満宮

もう昨年の話ですが、嫁さんが夏に足を骨折して約2カ月ちょいで仕事に復帰してからも、まだまだ歩くのには支障があったようで、しばらく送り迎えをしてあげてたんですが、2カ月ほどで復調。足慣らしもあるからと歩いて通勤していたんですが、復帰明けから仕事が忙しそうで、ストレスを相当ためていたみたい。
強がってたくせに、ついにまだ床に座ると足に響くんだとグチグチ。。悪い癖で、どうもやせ我慢が過ぎるんですね。

ついに我慢も限界と、気分転換に高めの座椅子を買いに行くことに。。前に、小テーブルを買いに行った家具屋さんを覚えていて、小松まで遠征することに、オリジナルのちょっとした小物インテリアが余程気に入っていたみたい。在庫や陳列もそう多くない店なんですが、余程印象に残っていたようです。気分転換には遠くで一人じゃいけないショッピングが一番とは嫁さんの言葉。。ここのところ、嫁さんの相手は娘に任せっぱなしで、二人で市外へのドライブは、春以来行ってませんでしたねえ。。あ~~耳が痛い。。気に入った足高の座椅子を買ってニコニコ^^なのに、一カ月で用済みにして、その後元気にルンルンしている嫁さんって@@;

それにしても家具屋さん(家具ホームファッションイシイ)で、ミニテーブルを買ったのは8年前。よくもまあ覚えていたものです。その時に帰り道に遠回りして小松天満宮に立ち寄ったんですが、思い出して寄ってきました。 H22.10.09 道の駅こまつ木場潟
                     H22.10.09 小松天満宮

実は今回は嫁さんを言い訳に使いましたが、昨年の9月に小松天満宮の境内地を浮島にする工事が完成していて、機会があれば見たいと思っていたんですが、なかなか果たせずにいました。やっと行けましたねえ^^時間が遅くなって、あたりが暗くなって明度を上げたんですが手振れやピンボケだらけ、西端からの浮島だと解る画像が取れませんでした。また機会があれば明るい時間帯に再訪予定です。

小松城は築城年は不詳ですが、明智軍記の中で、明智光秀が越前在住の時代に朝倉義景から国内の要害地はどこかと聞かれ応えたのが「加賀にては小松あたり」。この様に古くから知られていたようですが、史上に出るのは天正4年(1576年)一向宗の武将・若林長門守が改修築城したと云われます。天正7年柴田勝家によって落城、丹羽長秀の組下武将・村上義明(頼勝、越後村上藩祖)が城代、城主となっています。村上義明は約20年在城し、城の基礎・整備を固めたと見られます。

その後、村上義明の移封によって丹羽義重松任城から小松城を本城として移っています。小松城の防御力がいかんなく発揮されたのが、この丹羽長重の時代で、慶長5年(1600年)東軍の前田利家軍2万5千が加賀・越前へ侵攻。西軍の小松城(4~5千)を2万5千全軍で攻めますが落城できず、3千の抑えを置いて南進しています。結果的に大谷義継の謀略で撤退中の前田利長軍を城から抜け出した丹羽長重軍千余が後方から雨中奇襲(浅井畷合戦)で破っています。結局、前田・丹羽は相互人質で和睦。この時の前田家からの人質が後の前田利常猿千代6歳でした。人質とはいえ利常は長重から自身の子のように扱われ、手ずから梨の皮をむいて貰ったなど、晩年まで語り草にしていたと云われます。
実直で強気にも立ち向かう丹羽長重はこの故実もあって、小松・松任では人気の高い人物です。佐和山城の改修・安土城築城を指揮した父・丹羽長秀の血を受けた長重はその後の棚倉城の縄張り、小峰城築城など築城技術に優れていたことから、小松城在城2年ですが相当手を加えたとも云われています。
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北陸最強と云われる小松城は河川を利用した典型的な水城と言えるものでした。図は利常築城の物ですが、村上・丹羽の時代には三の丸・東霞島・竹島はなかったと云われています。
現在は真っ直ぐに東から西に流れている梯川(かけはしがわ)ですが、明治から現代まで何度も改修したもので、江戸期までは小松城の北西で直角に曲がって市街に向けて流れていました。昔から知られる水流豊かな河川で、つい最近にも増水で小松自動車学校のコースが沈んだことが有りました。
小松城は当時の梯川が直角に曲がる角地にあり、別名の芦城(ろじょう)が示すように湿地の芦原の土地でした。丹羽長重が前田利長の攻城を耐えた時には、梯川の水を引き入れ城を浮き城にするとともに、現在の三の丸や東西霞島・竹島などを湿地にして、泥沼に足を取られた騎馬・歩兵を狙い撃ちしたと云われます。
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丹羽長重改易後は、前田長種(前田与十郎家・前田対馬守家祖)が越中守山城から城代として廃城令(1615年)まで在任しています。養育されていた前田利常も藩主(1605年)に成るまで一緒に小松城に在城していたと思われます。
寛永16年(1639年)前田利常は隠居と共に息子三人に加賀藩・富山藩・大聖寺藩に分配して相続させ、自身は能美小松20万石を隠居領として小松城を隠居城とします。利常は小松城を改修、梯川を北と西の外堀として城内に水を引き入れ内堀とする水上の浮き城としました。その規模面積は金沢城の倍に達します。更に利常は西霞島(芦島)に屋敷地を置いたと云われますが、曲輪や丸となる各島に意匠を凝らした建物や構築を施したと云われ、死後は遺領は加賀藩に帰順しましたが、城には小松城代が置かれ江戸期を通して健在でした。明治期になり取り壊し、埋め立てが行われ廃城となって現在は名残りは天守台と一部の島の石垣しか残っていません。

利常小松城の改修と共に鬼門となる位置に建てたのが外郭の愛宕養福院(現在は無し)であり、更に線上の梯川対岸に小松天満宮を建てて鬼門鎮護の守護社としていました。
ちなみに、小松城天守・小松天満宮の線を伸ばしていくと線上に金沢城天守・宇多須神社(卯辰八幡宮)・越中守山城と繋がっているそうです。

金沢城は御存じのように加賀藩の本城になります。宇多須神社は江戸時代は卯辰八幡宮と呼ばれていました。公には浅野川から見つかった卯辰が描かれた鏡が御神体とされていましたが、実は藩祖・前田利家の御霊神を祀った金沢城の鬼門鎮護の神社でした。明治になって利家の御霊は尾山神社に遷座しています。守山城は前田利長が利家の跡を継ぐまで居城としていた城になります。男子の無かった利長は日陰の子だった弟・利常(猿千代)を養子として後継にしたうえ、生後も無視を続けた利家を説得して父の死の前年には利家・利常親子の対面を守山城で遂げています。また、守山城は利常が利長に引き取られて6歳までを過ごした城で、その養育は城代の前田長種・幸姫(利家長女)夫妻でした。丹羽長重改易後、小松城の城代は長種が就任、人質を経験した利常は11歳まで小松城で二人に育てられたと云われます。
小松城・金沢城・守山城が直線で結ばれるように設定したのには、こうした利常の経歴からの意向が大きかったと云えます。
画像小松天満宮 一の鳥居 右は分水路の防川堤

小松城の鬼門鎮護の神社として建てられた小松天満宮
小松城の北、梯川の対岸の河岸に建てられていました。梯川は前述したように小松城の北を流れ西岸を流れ、自然の外堀となっていました。この梯川は県外には知られていませんが、流量勢い共に強い川で、何度も改修工事や河岸堤の嵩上げが何度も行われていますが、氾濫を繰り返す流量豊かな河川です。つい3年ほど前にも川辺町の自動車学校が前年に5mの嵩上げを行った土堤を水が乗り越え沈んだほどです。
画像梯川分水路 天満橋
このため、昭和年代には梯川の流れを直線にして、木場潟から流れる前川との合流点を末広から河口近くの安宅に変更していましたが、この氾濫で前から計画があった流量調整のために、河岸だった小松天満宮の地を浮島にして調整河川(分水路)を造ったわけです。この浮島化の完成が昨昨年(H29)9月だったのです。
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浮島の周りに高い防壁堤を造った小松天満宮は、なんともいえない姿になっていました。車では以前は小松大橋の袂から直接降りるもので、すぐに表参道になって高低差を感じさせませんでした。改修後は高い位置で分水路を渡る天満橋という新設の北側の橋から螺旋に降りるようになります。離れてみると軍艦島のようです。おかげで表参道が短くなり永井柳太郎などの揮毫の社標が一の鳥居前に移動していました。
ちなみに永井柳太郎は足軽組頭の家に生まれ、大正・昭和にかけて逓信・鉄道大臣を努めた政治家です。江戸末期の生家は中主馬町(現・菊川2丁目)にあったものが善隣館の記念館として使用され、湯涌江戸村に保存公開されています。屋根は板葺き石置き屋根で興味深いものです。

神社庁の由緒書によれば・・

加賀藩三代藩主前田利常公が小松城に穩居された時に、前田氏の氏神である北野天神を城北に当るこの地に社殿を造営して鎭祭されたのが小松天満宮です(明暦3年・1657)。東は靈峰白山を望み西は安宅の海岸に続く梯川の畔にあって今も厳かな風致を保っています。社殿は北野天満宮の社頭を四分の一に縮めて造られました。当時の名工山上善衛門(加賀藩のお抱え大工で瑞竜寺・妙成寺・那谷寺などの造成にたずさわっています。)の手に成ったものです。昭和36年、神門と共に江戸時代の唐様建築の代表的なものとして国重要文化財に指定されています。当社はその創建の由来からみても前田家代々の尊崇が篤く、祭神が文学の神と仰がれたことと、初代別当が近世を通じて連歌の第一人者であったこともあって、絵画、書蹟、文書、典籍寺貴重なものが多く宝物殿に保管してあります。
画像小松天満宮 拝殿
寛永16年(1639年)、小松城を隠居城として能美小松20万石に入った前田利常は、京都の北野天満宮を分祀して小松天満宮を建てたのですが、当時の幕府との関係から大神宮の建立は遠慮して、北野天満宮の社殿を1/4にして建立しています。
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大工頭は山上善右衛門嘉広(1600?~1680)。妙成寺(元和2年(1618)重文)・那谷寺(寛永19年(1642)重文)・気多大社(承応2年(1653)重文)・小松天満宮(明暦3年(1657)重文)・瑞龍寺(寛文3年(1663)国宝)、他にも昭和42年(1967)解体修理中に焼失した日石寺地蔵堂(旧重文)、兎橋神社本殿(慶安4年(1651)小松市文化財)など多数が現存しています。山上善右衛門嘉広の建築は高く評価されていますが、それ以上に火災や災害に弱い木造建築として多くの作品が現代にも残っているのが神の宿る建築とも云われる由縁。
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画像上:小松天満宮 本殿裏門 中:西側面 左から本殿・石の間・幣殿・拝殿 下:本殿東後方から 
社殿は冬囲いの為に拝殿は隠されていますが、本殿と幣・拝殿の間に、一段低い石の間を置いた権現造。昭和36年(1961)国重要文化財指定。とにかく時間的に暗いは、板囲いがされているので解り難い画像。。今度は春夏の明るい時に再訪します。
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江戸時代は梯(かけはし)天満宮・小松天満宮、別名では小松梅林院と呼ばれていたようですが、明治になって神社に皇室に繋がる「宮」をつけるのが制限され、しばらくは梯天神社・梯神社、昭和初期には小松神社などとも呼ばれていたようです。
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東にある神門山上善右衛門嘉広の作で国重文の指定を受けています。門柱の前後に支えを 2本ずつ配した四脚門で、全面に朱塗が施され屋根は銅板葺き・切り妻屋根。南北の切り妻部には南の小松城側に軸梅鉢紋、北の金沢城方向には加賀藩の剣梅鉢紋が施されています。ちなみに軸梅鉢紋は星梅鉢の中心丸から軸5本で外丸を繋いだものです。金沢城の利常・綱紀時代はこの紋が屋根瓦に施されていました。兼六園と繋がる石川門の軒瓦に観られます。本殿の東方に建てられており、冬至の日の出が門の間から本殿に当たるように設計されています。今は防川堤や建物に遮られて一日中日陰状態です。神門から北に延びる瓦葺塀も美しい眺めです。
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拝殿の前にある建物も板囲いで保護されていますが、能舞台になります。
能舞台の紹介・・・
関ケ原の戦の翌年、加賀藩二代藩主・前田利長公は小松城において、小松住のの諸橋太夫、波吉太夫に命じて市人を城中に入れての町人能を催されました。三代・利常公も小松城にて町人能を斉行されました。
諸橋太夫と波吉太夫は、共にその後、代々、加賀藩能役者を勤めました。明治維新後に金沢に残されていた波吉太夫家の能舞台は、小松の能楽愛好家の方々の募金により当社に移築されました。その後、昭和十年代の梯川改修工事により西方広場に移築されましたが、平成の河川改修により明治時代に建てられていた故地に戻って本舞台のみが再建されました。


慶長5年(1600年)関ケ原戦後の加領により、石川南部・小松・大聖寺が版図となった際に、小松城で行われた町人能が加賀藩の能楽の創始と云えます。利長・利常の時代は文中の小松在住の諸橋太夫、波吉太夫が加賀藩に召し抱えられて主流として一家を成しています。利長は能(金春流)にも造詣が深かったようで、能登・越中領の確保が確定すると、慶長9年には利家の金沢入城の上陸地と所縁の大野湊神社の社殿の修復建立と共に能舞台を新設。諸橋太夫に神事能を行わせ、毎年の恒例行事とします。なお、諸橋家は大野湊神社の神事能を担当し続けていましたが延宝5年(1677年)に江戸屋敷に移転、波吉家が受け継いでいましたが、やがて諸橋家が金沢に戻ると一年交代で交互に行うようになります。大野湊神社の神事能は現代にも連綿と受け継がれて400年、「寺中の神事能」として金沢市無形文化財に指定されています。

徳川歴代将軍・徳川家康・秀忠・家光は猿楽(能楽)を好みましたが、5代綱吉の時代に能が幕府の式楽になったために各大名家でも能役者を雇うようになります。綱吉は宝生流を好んだために、その影響を受けた加賀藩も5代綱紀の時代に、前述の諸橋家・波吉家宝生流に転向させています。また御細工所の所員にも能を習得させ、町人にも能を学ばせ更に町人能の優秀な者には名字帯刀を許しています。御細工所による面、衣装や楽器製造も合わせて加賀宝生と云われる宝生能の拠点となっています。又狂言も同じく隆盛します。おかげで、加賀藩都・金沢では「空から謡が降ってくる」という一大ブームを呼びます。この時の町人から名字帯刀を許された御細工所員や町人から生まれた著名な家としては、笛方として人間国宝に選出された藤田大五郎を輩出した笛方一噌(いっそう)流の藤田家や狂言和泉流の野村万蔵・万作家が子孫にあたります。
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この能舞台は、明治27年(1894年)5月に金沢市野町の泉祐三郎座の舞台を移築したものです。当初は社殿前に移築されましたが、昭和10年の河川改修で西の広場に移築していましたが、今回の河川改修で元の位置に本舞台のみを再移築したものです。(記憶は定かではありませんが、鏡板に描かれた色褪せた松が記憶にあります。位置は社殿の東だと思っていましたが、そこは記憶違いだったようです。)
野町の泉祐三郎座の舞台は、元々は明治20年に東京に移転した波吉家の舞台を譲り受けていたと云われます。

東京に移った泉祐三郎座は金沢では辻能から人気を博し、明治27年に東京に出て、女性も出演する今様能の照葉狂言・仙助能を創始しています。同年に東京歌舞伎座で慈善興行で人気を博し、愛媛・松山の新栄座に何度も興行を行っていたようです。翌年、正岡子規が帰郷の際に 夏目漱石と観劇したと記しています。残念ながら、大正に入って解散したようです。
元々、この能舞台は江戸期のものでしたが前述の様に明治27年に移築棟上げが行われたのですが、同年に日清戦争の勃発で修築などが棚上げされ2年間野ざらし放置の状態で相当疲弊していたようです。その後、建物を古いものをベースに鏡板以外は腐食材を新材で補修や造り直しを施しているようです。明治29年に奉納能が行われたそうです。以前あった橋懸(はしがかり)や小屋がどうなったかは不明。。県内の能舞台としては金沢能楽堂の舞台より古い歴史を持つことから、恒常的な神事能を復活させて欲しいものです。
内部状況の画像は小松天満宮のブログにあります。⇒ 小松天満宮ブログ
画像小松天満宮 十五重の石塔
案内板から・・・十五重の石塔 秘話
前田利常公は当宮を創建された翌年、万治元年十月小松城で逝去されました。その折五人の追腹衆の一人品川左門と、この石塔にまつわる秘話が伝えられています。

利常公の遺命によって、棺柩の供奉を命ぜられた品川左門は、小松から金沢へ向う道すじ、梯川を渡りながら天神の森を望み見た時、「尊霊御末期の御時、我を召されけれども、御存命の御影を拝したてまつらず、定めしお待ちなさるらんと、心の中に懸橋を心静かに打渡り懸橋の浜通りに輿をやる。日頃見慣れし天神の石の塔を見げつつ重ねあげにし塔なれど、限りありてぞ見果てぬる」と心中を語りかけたと三壺記に記されています。そうして大任を果たした左門は自ら殉死の儀式を行い割腹して公のあとを追ったのです。


万治元年(1658年)前田利常が66歳で逝去した際に殉死(追腹)した近臣が5人(品川左門・古市左近・堀作兵衛・原三郎左衛門・竹田市三郎)。野田山の利常墓所の脇に墓石が並んでいます。その中でも利常に愛されたのが品川左門でした。同じ三壺記には利常は左門の名を叫んで絶命したとなっています。臨終に立ち会えなかった左門の心中が描かれている秘話です。十五重の石塔が利常の生前から建てられていたのが解ります。文中では小松城から金沢に利常の遺体を運ぶために小松大橋を渡ったとしていますが、実際には利常の遺体は三宅野で荼毘に付されて金沢に向かっていますから、渡橋後に右折して能美・三宅野に向かったようです。
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品川左門は、正式名は品川左門雅直と云います。実は左門は昔からの家臣ではなく俗な言い方ですが前田利常が個人的に召し出した新参者でした。左門の前身は花山源氏であり公家で、皇室の祭祀を司った神祇・伯家神道(白川流神道)の家元・白川家(白川伯王家)で21代当主の子になります。ただ公家とはいえ、白川神道は「神道は古今で変わらぬ根本原則であり、国においては大筋で神道と武道は一つであり、修身、整家、国治の要領も、皇典の研鑚によって知る」という大義で、吉田神道に押された中で公家でも武家よりの性格でした。利常は隠居後は御水尾院・八条宮などとの親交を深め朝廷との関係が深く、その中で容貌器量に優れた左門を家中に召し出したと見られます。

利常の遺命で子供たちの養育を頼まれて殉死を断念していましたが、時は武家諸法度で正式に殉死が禁止される5年前のこと。公私(衆道の相手にもなっていたと云われます)共に一番の寵臣・新参者の左門への家中の風当たりは強く、5人の中では最後に殉死切腹せざるに負えない立場に追い込まれています。
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利常死後から2カ月、追腹殉死に当たって、左門は当時としても珍しい一般公開の切腹を演じています。場所は利常の菩提寺・宝円寺境内。境内に幔幕を張りめぐらして正式な場所を造って儀式に沿って行われる予定でしたが、本人の希望により幕を開いて一般民衆に見えるようにし、主君以外に我が子にも見せなかったというもろ肌を脱いで公開の切腹をしたと云われています。享年34歳。
「自分は命が惜しくて生きながらえていたのではない」と云いたかったと思われる行為でしたが、この行為は前田家臣団・金沢市民に鮮烈な印象を与え、「品川左門は忠義で剛毅な武士」という言い伝えが残されます。品川家は左門雅直を家祖として人持組3000石として続いています。

十五重の石塔は倉ヶ岳近くの坪野で産出される坪野石で出来ています。加賀藩では留石として高級武家以上にしか使用を許されなかった青戸室石よりも硬質で、産出量も少ない黒系岩石材になります。坪野石は青戸室の上を行く石材として珍重され、前田家専用の石材として独占された最高級石材でした。現在は産出されていませんが、金沢城の玉泉院丸の切込ハギを施した石垣は異なる石材を組み合わせた色のコントラストが効いていますが、上部の黒が坪野石になります。
小松天満宮創建時に建てられた十五重の石塔は高さ7.24m。県内の坪野石を使用した彫刻を施した構築物としては最大級の物になります。
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小松天満宮は学問の神様・菅原道真が祭神ですから、絵馬や寄進物も参道沿いに興味深いものが観られます。ちなみに対岸の小松城址に立つ県立小松高校は加賀地区屈指の進学校。11月の画像ですが、進学・合格祈願の絵馬が鈴成りです。

天満宮といえば臥牛像 臥牛は大宰府の自邸で亡くなった菅原道真の遺体を運んでいた牛車を曳いていた牛が臥せってどうしても動かなくなった為、当地に墓所(後の太宰府天満宮)を造ったとされる伝承。。その臥せった牛に因んだ願掛け牛となったものです。
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神門前にある大きな牛の像は、慶応元年(1865年)に越前・浜崎浦(現・あわら市浜崎)の北前船主・城谷家から寄進されたものです。
ちなみに浜崎浦は石川と福井の県境・北潟湖の対岸にあり、奥の細道では汐越の松があることで知られています。この浜崎浦の北前船主・城谷(労助?)氏が小松天満宮に奉納しようと作製したもので、完成後、船に積もうと大勢で掛かりますがガンとして動かず、仕方なく翌日改めて積んで船出をと延期。その晩、海が大時化となり、人々はこの牛像のおかげと感謝して、無事奉納したという伝承があります。これ以降、なでると願いが叶うとされています。
なぜ越前の北前船主が小松に奉納したかといえば、寛文15年(1638年)前田利常が足軽小頭・杉原九郎兵衛を派遣して加賀より関門海峡、瀬戸内海を通る西回り航路を開拓したとされ、北前船の信奉を集めていたことにあります。
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奉納時、臥牛像は現在の位置から南の岸辺の船着き場近くにありました。しかしその後はこの牛は境内の中をあっちこっち移動しています。
天満宮創建当時は神門前の現在の臥牛像のある位置に黒門と呼ばれる別の入り口がありました。小松城の利常やその後の城代は、城から前述の船着き場に渡り、黒門を潜ってすぐ左の神門を潜って社殿に向かっていました。しかし、梯川の再改修工事により、船着き場が無くなり社殿前に移されました。参道の最奥突き当り、神門と正対するように置かれました。
昭和の梯川の大改修工事によって、現在の臥牛像案内板の位置に移動。黒門はこの頃には無くなっています。更に宝物殿横に絵馬舎が出来て、通路分移動。。動かないはずの臥牛は散々な動きよう。。

旅行日 2018.11.25

この記事へのコメント

  • がにちゃん

    明智光秀がこの地に・・・交通の便の悪い昔に転勤族の侍も大変だったのでしょうね
    臥牛・・・一瞬見たとき豚かと思った(すんません)
    小松天満宮・・・手を加えるにしたがってだんだん元の感じが無くなっていきますね 守らねばならないから仕方が無いのかなぁ  
    2019年01月14日 18:39
  • tor

    小松城は難攻不落って図を見ただけで分かりますね。この水に囲まれた図を見た後、小松天満宮浮島計画と…。どな風情になるのかと期待していたら、逆だったのですね。水害防止のためにはしかたないのかもしれませんが…。品川左門殉死の話は細川藩が舞台の森鴎外「阿部一族」を思い浮かべてしまいました。その細川忠利関連の寺院、終了直前のウェブリブログで紹介していますよ。
    2019年01月14日 19:13
  • ミクミティ

    小松天満宮は知りませんでした。小松城は加賀藩3代藩主、前田利常由来の場所でしたか。利常のバックグランドがこの地にあるのですね。加賀藩の文化的地位を確立したのは利常ですよね。
    鬼門に天満宮を設けたのに、菅原氏への思いの強さを感じたりします。
    いつかこの辺りもゆっくり散策してみたいなと思いました。
    2019年01月14日 21:14
  • 家ニスタ

    前田の大軍の攻撃にも耐えるとは、小松城は相当な堅城ですね。
    やはり水城の防御力は高いものがありますね。
    僕が数年前に小松城を訪れたときには、あまり水城のイメージはわきませんでしたが・・・。
    関東には水城が多くあって、僕の地元の近くでは下妻城や、南北朝期の北畠親房で有名な関城や大宝寺城がそうだったようです。
    いずれも今ではあまり水城の雰囲気は残していないんですけれどね。
    2019年01月14日 22:51
  • つとつと

    がにちゃんさん
    明智光秀は朝倉家に仕官する前に、丸岡に住んだと云われ、国境を越えれば加賀はすぐでしたから、足を延ばすことは十分あったと思われます。転勤というより、放浪時代の記憶だったと思われます。
    最後の筆塚の臥牛は@@たしかに豚さんに見えますねえ@@;みんなに撫でられるせいか、すり減り具合も凄いですねえ^^;この筆塚の方はなでると地が上手になると云われていますが、僕には効果がなかったみたい。凄い癖字のまんま育っちゃいました。。
    2019年01月16日 20:09
  • つとつと

    torさん
    加賀では戦績は山城の鳥越城と並ぶ要害の城になります。両極の城が存在したのは峻険な山岳と大河、海の距離が短い加賀ならではです。更に利常が金沢城の倍の規模で整備して絢爛豪華な建物やお花畑まであったそうです。明治の廃城がなく保存されていれば、間違いなく国宝級だったお城です。
    小松天満宮は改宗を受けてすっかり壁の中の神社になっていました。社殿は小振りですが趣きのある建物で手が込んでいるのが解ります。ただ、今回は冬支度で板塀の囲いがあって解り難いので、今度は解放された時に再訪するつもりです。
    2019年01月16日 20:25
  • 藍上雄

     小松城、なるほどですね。周辺を湿地帯にして一気に攻める事が出来ないようにしていたんですね。(これでは兵糧攻めしか手立てが有りませんね。)
     複雑に水路をめぐらしているのも船による物資運搬を考えての事でしょうか…?
     小松天満宮、すぐ傍に押し迫って来て、ちょっと興ざめの印象ですが、屋根の有る鳥居なので神門なんですね、こういうのは初めてです。(もしかして仏教の影響なのかな…?)石造りの一の鳥居が有って後は神門なのは、不思議な印象です。
     神門お提灯に梅鉢紋が有りますね。(左右色違いなのは何か意味が有るのでしょうか…?)
     十五重の石塔、なぜ15個積み重ねているのかと言う小学生の質問の答えが見つかりませんでした。どうしてでしょうね。
     臥牛像、此処の牛の像は素朴な形をしていますね。(最後の写真は、風化したせいでしょうか…。かなり丸くなっていますね。)
     
     
    2019年01月16日 20:27
  • つとつと

    ミクミティさん
    他市町村の人が小松の悪口を言うときは、小松から重機のコマツと航空自衛隊をなくしたら何にもないなんて言いますが、小松城の辺りに行くと古い街並みや碁盤のような町割りが残った良い所です。
    加賀が平安時代に出来て以来、戦国期までは加賀の中心地でしたから、意外に歴史的なモノが多い町で、歌舞伎や能も盛んな所です。GWに子供歌舞伎の山車が町内を演技しながら練り歩くのも見物でお薦めです。
    2019年01月16日 20:32
  • yasuhiko

    奥様、昨年の後遺症がまだ残って
    らっしゃるんですね。それは、
    全面的に気を遣ってさし上げないと…。
    そのための小松行き。その序での
    小松天満宮参拝でしたでしょうか。
    その神社の位置がお城の鬼門の方角に
    定められている事、両者の関係性が分かって、
    興味深く感じられました。さらに、
    金沢城・宇多須神社・越中守山城が、
    鬼門・裏鬼門の関係で一直線に並ぶのは、
    それぞれの関係の深さを思わせて面白いですね。
    2019年01月17日 12:00
  • つとつと

    家ニスタさん
    やはり、大砲などがない時代なら水城や沼地を利用した城は防御力が高いですねえ。山城と違って一方的な反撃も可能ですから^^小松城の場合は沼地が多かったというのが強みです。家ニスタさんが来られた時に通った公園が後の三の丸ですが、長重時代は三の丸は高校が三の丸で沼地になっていました。
    小松城は見事なくらいに埋め立てが行われ、城の西側に南北に流れた川も改修で無くなっていますから、初めて見ると水城とは気づきにくいと思います。
    関東には有名な城が多いですねえ^^石川では水城は小松城くらいで、ほとんどが山城になっています。
    2019年01月19日 12:57
  • つとつと

    藍上雄さん
    小松城の攻防戦では前田軍は三の丸方向から攻めたようですが、その多くが湿地に足を取られて攻めあぐんだようです。城は各郭が島になっていて基本的には右回りに独立した存在になっていますから、大軍では大渋滞を起す構造ですね。攻めるとすると船での侵入も考えられますが、当時は海からは複雑に入り込んでいますし、陸上を運んでくるにも不便で難しかったと思います。結局、攻城を諦めた前田軍は5千の兵を残して先に進んでいます。
    赤黒@@何のことと思ったら、神門に下がっていましたねえ^^;なんて鋭く見てるんでしょう^^観察眼には感心します@@
    訪れた日、消防関係の行事が行われていたようです。提灯の家紋というか社紋の黒赤は通常は男女を示すと云われています。提灯は紋が色違いに裏表にあって男関係の行事では黒、女性関係は赤、両方が赤黒にすると聞いたことが有ります。
    神門自体仏教の影響が強いんですが、提灯も盆会に関しますから本来は仏教の影響が強いようです。盆の提灯になると本来表に黒を向けるんですが、祖霊が滞在中は赤を表にすると云われています。
    2019年01月19日 17:02
  • つとつと

    多重塔や多層塔は実は仏教関連で神社の方もご存じなくて答えられなかったようです。神社に多重塔があること自体珍しいですから。。石塔や五重塔というのはお釈迦様の骨や所縁を修めたストウーパが元になっています。墓の卒塔婆や五輪塔・宝篋印塔なども由来は同じです。元を辿れば納仏の上に石を積み上げたものが由来になります。僕はここの塔より多段の物は見たことがないんですが、十三重では宇治の浮島が有名です。詳しくは知りませんが三・五というのが塔の段数の決まりのようで、どう見ても偶数なのに三や五の塔にしているものもあります。小松天満宮は三×五で十五段にしたんじゃないか、単なる多段の総数の数を自慢したかったんじゃないかと思われます。ただ本来、仏教塔では一層に仏を置いて、上層の大きさを同じにして飾り、天辺に芳珠や九輪・相輪を置くという定義があるんですが、この石塔はそれにすべてを無視しているんです。造形や芸術に造詣にこだわる利常が知らないわけはなく、そうなると単なる趣味とするのが妥当なのかも。。というわけで僕の答えは利常さんが日本一の多段を狙った個人的趣味だから。。こんなこと小学生には言えませんね^^;
    2019年01月19日 17:03
  • つとつと

    yasuhikoさん
    なにせ、僕の調子が悪いと大人しく寝てろの嫁さんなんで、つい僕もそういうときは放置に^^;たまには、気を使わないといけませんねえ 反省です。
    前田利常は加賀では戦国最後のバサラ者とも呼ばれて、自分勝手な人とも見られる時がありますが、、実際には父・利家は別にして兄・利長、養父・長種には深い思い入れがあったようです。三つの城は三人には所縁の深い城でその辺に利常のこだわりが感じられます。寺院や屋敷関係では二人の妻、利長の妻・永姫、長種の妻・幸姫も母親代わりで大きな寺院に祀られていました。永姫は玉泉院というのですが、金沢城の西にあるお殿様の庭園の玉泉院丸は利長死後に、利常が永姫の為に邸や庭園を築いたのが始まりです。
    2019年01月19日 17:23

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  • Tracked: 2019-03-21 19:37
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