本行寺① 丸山(円山)梅雪

実を言えば、山の寺寺院群に訪れた本来の目的地はこの本行寺でした。ところが勇んで来てみれば、住職は裏山の作業中で不在で、用事の人は携帯までの残し紙が玄関に・・・どうもこういうのに電話するのは苦手なんですよね。。勝手に不法侵入するわけにもいかず。。しかも嫁さんが一緒だと尚更。。。というわけで、外回りだけになってしまいました。
また機会があれば、ゼウスの像を始め茶室・きく亭やキリシタンの観音像やマリヤ像、高山右近の書状の草稿などはまたの機会に、、、出来れば5月のデウス祭に来れると最高なんですが。。。
画像 本行寺 山門

本行寺門前 案内文より

本門法華宗 京都妙蓮寺末 揚柳山 本行寺

我国茶湯(殿中)の祖 「円山梅雪」創建(文明年間)
梅雪由来 前田家茶室「きく亭」
皇室より「法華経八巻」奉経 永代聖号寺院
七尾城三面大黒天安置 「ぽぷら(かぼちゃ)御講」
隠れキリシタンの寺 高山右近とゼウスの塔
全山紅葉 一名もみじ寺

画像 畠山文化の重鎮 円山梅雪 草創の寺

本行寺の始まりは丸山(円山)梅雪という人物から始まります。出自には諸説あって判然としませんが(没年1542年、1558年?70歳没)。主要諸説としては・・・

河内畠山家(畠山本家)の一門衆・遊佐(ゆさ)家に生まれたと云われています。姓は不明ですが(遊佐?)清三郎家長。ただ病弱なため出仕は短期間で出家。丸山梅雪を名乗ったと云われます。正室は泉州堺の有力商家・柳屋から迎えており、分限者として知られ丸山長者とも呼ばれていたと云われます。
ところが、畠山本家が家督争いが元で畠山総州家・尾州家に分かれて争い、応仁の乱を介して分裂、更に足利将軍家も分裂、(細川家の分裂で足利義維(11代義澄の次男、14代義栄の実父)の堺公方(阿波公方)が出現)、畠山本家は衰退の一途を辿ります。河内畠山家の衰退で見切りをつけた梅雪は永禄10年(1513年)能登畠山家を頼って能登に移ります。

当時の能登畠山家の当主は7代・義総(よしふさ)。能登畠山家の全盛時代で混乱を極める京都や大阪から多くの文人・教養人を迎え光り輝く小京都と呼ばれ、文化・勢力共に絶頂期にありました。
画像               本行寺 境内

その中で、丸山梅雪は一千貫以上の所領を得て、七尾城内に住んだと云われます。又、別邸が七尾市街の海沿いにあり、後に前田利家が築いた小丸山城の名の元になっています。
梅雪の知行一千貫以上と云うのは、能登畠山家では畠山八臣と呼ばれた家臣団に匹敵する数字です。合戦には参加していませんが、軍役は主君・畠山義総に匹敵する数字が記載されているそうで、畠山家でも相当の地位で迎えられたようです。出家しており嫡男も幼く(下向時2歳)、軍事には参加していませんが、七尾畠山家の内政・文化興隆の一翼を担っていました。

能登畠山家全盛時に下向した丸山梅雪は前述の様に厚遇を持って迎えられ七尾城内に住居しますが、城内に父親を弔うための本行坊を建てています。これが本行寺の起縁に当たります。本行坊の本尊とされていた三面大黒天は七尾城の守護神ともされていたもので、上杉謙信の七尾城攻めの際に城内の内通を知って脱出した松波城主・畠山義視(9代・義綱の三男)が持ち出したと伝承されています。この三面大黒天像も現在の本行寺にあります。
画像          本行寺 本堂玄関門

ちなみに畠山本家(河内畠山家)と能登畠山家の関係ですが、遡ること三代将軍・足利義満の時代。5代・畠山基国は義満の信任を得て、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任して細川家・斯波家に次いで管領職を得ます。6代を継ぐのは本来ならば嫡子・満家でしたが、義満の不興を買って疎外され、庶子で次男の満慶が6代を継いでいました。義満が没すると4代将軍・義持によって満家の復帰が許されます。この際に満慶が兄である満家に家督(河内・紀伊・越中・能登守護)を譲り、返礼として能登守護の分国を譲られて能登畠山家が誕生します。ただ能登畠山家の初代・2代は在京守護で、正式に能登在国の守護大名としての能登畠山家は3代・義統(よしむね)からになります。

満慶から満家への家督・領国の移譲は当時の美談として伝わっていますが。。政局にも大きな影響を受けていました。室町幕府最強の権力を誇った3代将軍・足利義満と跡を継いだ4代将軍・義持の親子関係は犬猿の仲とも云え、義持は義満の政策や遺産を尽く排除しています。現在京都一といっても良い観光名所・金閣寺は、破壊・撤去された北山第の数少ない遺物です。満慶は義満の寵臣であり、満家は義満台頭の根源と言える大内討伐で主将・大内義弘を討ち取る大功を挙げていますが、義満の不興を買って不遇を囲い義持に接近していました。権力者の交代で畠山本家を守るため当主を変えたとも取れます。満家はその後、義持・義量(よしかず)・義教(よしのり)と三代の管領・最側近として仕えています。特に織田信長の師匠とも云える独裁・暴虐将軍と呼ばれた6代・義教も満家生前までは穏健な政策で満家に従っており、満家時代の畠山本家は全盛期と言えます。
画像   玄関門の上にいた猫の造り物

能登畠山家は満慶以降、武功や戦闘参加もありますが、文化信奉の強い家系で、文化先進度がもともと高いものがありました。戦国期に入ると、戦乱で荒れた京洛から疎開した公家・文化人の受入れ先でもあり、畠山文化が能登に花開いた時期でもありました。漂泊の連歌師・飯尾宗祇(そうぎ)、冷泉家6代・冷泉為広、東福寺住職・彭叔(ほうしゅく)守仙 などが知られています。七尾で亡くなった冷泉為広の墓所とされる塚は津幡城址にありました。

前述の様に、能登畠山家は初代・2代と在京守護で能登の政務は守護代に任せていました。その守護代が遊佐氏でした。河内畠山家でも守護代は遊佐氏が務めていますから、畠山家内では一門衆・筆頭陪臣の家系の有力者だったと思われます。梅雪が能登を頼ったのは当然な流れともいえます。
遊佐氏は7代・畠山義総まで守護代を努めますが、温井(ぬくい)氏(旧越中守護・桃井直常系の国人)・長(ちょう)氏(鎌倉地頭・長谷部家の家系の国人)の台頭によって重臣の合議制となり、能登畠山家滅亡まで権力闘争を繰り広げています。
画像             本行寺 鐘楼堂

梅雪は文化人としての名声は堺・京都時代から知られていましたが、その人間関係もずば抜けていました。当時公卿の文化人としては当代一といわれた三条西実隆、またその教育を受けた連歌師・飯尾宗祇、侘び茶道の始祖とも云える村田珠光と並ぶ武野紹鷗など当代一流と呼ばれた人物たちを含め多くの人物と係わっていました。能登に下向する前にも、これらの人たちと能登七尾に何度か訪れていたようで、その際に同族の能登畠山家にも顔と名前が売れていたようです。文化創成・興隆に強い関心を持っていた6代・義元に招請され、7代・義総に重用されたわけです。その梅雪が担った文化面では庭園・建物などの様式美が窺われ、奥能登の松波城にも石を使った波の流れを表す庭園があるなど畠山家の文化面に大きな影響を与えていたようです。和歌にも精通していたようですが茶道に関しては注目すべきものがありました。

長壽寺の時に、茶道の本流は三千家、つまり千利休が創始の千家流茶道が本流としました。しかしそれ以前に武家内には、すでに喫茶の風習はある程度広まっていました。これに様式・格式を供えて広めたのが将軍家に仕えた町衆では前述の村田珠光・武野紹鷗が先駆者ですが、武家での創始はこの丸山(円山)梅雪になります。梅雪が七尾城内の住居に別棟として茶室「きく亭」を建てて、七尾城に茶の湯を導入しています。本行寺ではこのことから梅雪を殿中茶の湯の祖としています。

能登領主となった前田利家が七尾城に入城した際に、きく亭の佇まいに感動して山の寺寺院群に寺院を集積した際に、荒廃していた本行寺と共に茶室・きく亭も移設整備したと云われています。更に後年、能登の領地を受けた高山右近は本行寺の奥に修道所を建立した関係で、愛用していたと云われます。右近は利休七哲の一人として知られており、きく亭に愛着を持ったと云われます。

ここまでは、本行寺の寺伝や研究会のHPを参考に書かせてもらいましたが、、たしかに丸山梅雪が三千家よりも早い畠山文化の殿中茶を確立した功績は間違いなくありますが、武家の殿中茶の創始となると多少の異論も感じます。確かに梅雪の子が、千利休に殿中茶として挑んだという話はありますが、事の創始となると話は変わってくると思います。
個人的には佐々木道誉・足利義満・義政が当たると思っている僕。

参考として  茶の湯の歴史・・・以前も書いたと思いますが、茶の導入は判然としませんが、仏教伝来時には国内にも知られていた形跡があります。資料的に伝えられるものでは天平元年(729年)、聖武天皇が内裏で百僧に大般若経講義の際に振舞ったという平安期の記述が初見だと云われます。最澄・空海など遣唐使の持ち込みも伝わっていますが古代から平安期までは茶は貴重な舶来品の薬剤や薬膳として扱われていたようです。しかし遣唐使が廃止となると長らく喫茶の習慣は廃れてしまいます。

茶の湯の抹茶が伝わったのは鎌倉時代、臨済宗開祖の栄西と云われています。栄西は南宋留学後、建久2年(1191年)臨済禅と共に茶種と抹茶法を持ち帰り、自家栽培もおこなって茶を得ていたようです。喫茶が流行るきっかけは建保2年(1214年)暴飲暴食で二日酔いに悩んでいた鎌倉3代将軍・源実朝に一杯分の茶筅と「喫茶養生記」を献上して本復したことから始まります。喫茶養生記には茶の種類・抹茶の製法、桑の効能・用法が書かれた茶・抹茶のバイブルといえます。その後、禅関係の道元を通じて広まり寺院関係に儀礼として広まり、栄西から茶種を贈られた明恵によって京都栂尾・高山寺で日本初の茶畑栽培が行われ、その後、宇治でも栽培され、後嵯峨天皇によって本格的な茶園は作られ広まります。これが宇治茶の起源になっています。また同時期に醍醐の地でも栽培され醍醐茶と云われますが、今は宇治茶で一括り。。

喫茶が寺院から宮廷そして武家・一般にと流行ってくると、薬剤から仲間内での喫茶という遊興の場の素材になって行きます。その中で香道と並んで茶道として茶の味や香りで産地などを当てる闘茶が流行します。
最初は貴族間の遊びでしたが、それは一般民衆を巻き込んで大流行します。前述の栂尾の茶が本茶、醍醐・宇治が非茶といった具合でしたが、徐々に産地が増えてくるとどんどん複雑化していきます。更に単なる当てるだけが賭けになり、鎌倉後期から南北朝にかけて家・屋敷・土地果ては官位・権利まで賭ける社会問題にまで発展していました。

しかし、このような闘茶に興じながらも、茶席を設けて茶碗や絵画などを並べ立てて、自分の趣味を見せびらかすものも出てきます。代表者としては太平記にも主要登場し、足利尊氏のライバル・同僚として謀略師・婆沙羅大名として名をあげた佐々木道誉高氏。太平記内にも屋敷内に名物と呼ばれる中国の磁器や絵画や珍品を並べ立てて、客をけむに巻くシーンがよく出ています。

太平記には道誉が都落ちの場面・・・思の外に洛中にて合戦なかりければ、落る勢も入勢も共に狼籍をせず、京白川は中々に此間よりも閑なり。爰に佐渡判官入道々誉都を落ける時、「我宿所へは定てさもとある大将を入替んずらん。」とて、尋常に取したゝめて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取副て置く。
十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸双べ、三石入許なる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、「誰にても此宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細を申置にけり。
楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、「定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候。」と、色代してぞ出迎ける。道誉は相摸守の当敵なれば、此宿所をば定て毀焼べしと憤られけれ共、楠此情を感じて、其儀を止しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖をも不失。
剰遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置て、郎等二人止置て、道誉に畳替して、又都をぞ落たりける。道誉が今度の振舞、なさけ深く風情有と、感ぜぬ人も無りけり。例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。


(現代文・補足) 予想したほどは洛中で合戦がなかったので、落ちて行く軍勢も、進入してきた軍勢も共に不法な乱暴を行うことなく、京白河周辺は最近よりむしろ静かでした。ところで、佐々木佐渡判官入道道誉が都を落ちられる時、「私のこの宿所には、きっとそれなりの大将がお入りになるであろう」と言って、見苦しくないよう片づけて、六部屋ある集会所には、大きな家紋のついた縁つきの畳を敷き並べ、本尊、脇絵(三幅一組になる絵の両脇の絵)、花瓶、香炉、鑵子(かんす、湯沸かし)、盆に至るまで全てを整え、書院には王義之(東晋、書家)の筆による草書(経典中で詩句の形式をとって、教理や仏、菩薩を褒め称えた言葉)を偈かげ、韓愈(かんゆ、唐文学者、思想家)の文集、寝室には沈香(じんこう)を焚きしめた枕に、緞子(どんす、絹の紋織物)の夜具を添えておきました。
十二間の遠侍(警固武士の詰め所)には鳥、兎、雉、白鳥を三本の竿に架けて、三石(約541ℓ)が入るほどの大筒を酒で満たし、遁世者(世捨人)二人を其処に残しおいて、「この宿所に来られた人には、誰であっても酒を一献すすめるように」と、何くれとなく細かいことまで言い残して行きました。
やがて楠木正儀が一番最初に踏み込むと、遁世者二人が出向き、「きっとこのあばら家にお入りになられるでしょう。その時一献おすすめするようにと、道誉禅門が言い残して行かれました」と、挨拶して出迎えました。道誉は細川相模守清氏にとって一番の敵なので、怒ってこの宿所は必ず燃やし尽くすつもりでしたが、楠木は道誉の風情ゆたかな行為に感心し、屋敷の破壊などを止められたので、庭先の池の木一本さえ折られることなく、客間の畳一畳たりと紛失しませんでした。
そればかりか、遠侍の酒肴も用意されていたもの以上に揃え直し、寝室には秘蔵の鎧に白太刀(柄・鞘など全て銀製太刀)一振りを置き、家来二人を残して、道誉と交替するように都を落ちられました。道誉の今回の振る舞いは、人間味あふれ趣きのあるものだと感じない人はいませんでした。
いつもの古狸(道誉)に引っ掛かって、楠木は簡単に太刀や鎧を取られたと、笑う連中も多かったのでした。


この文は康安元年(正平16年、1361年)新将軍京落事になります。この時には太平記の主要人物だった北朝・足利尊氏も3年前に南朝・北畠親房も7年前に亡くなっています。北朝は三上皇と皇太子が南朝に拉致(正平6年)されていたため、後光厳天皇、新将軍・足利義詮(よしあきら)の時代になります。南朝では後村上天皇は後醍醐の遺言によって京都奪還をもくろみますが、目立った武将は楠木正儀(正成・三男)くらい。足利直冬(ただふゆ、直義養子・尊氏庶子)の乱を乗り切った足利義詮は南朝掃討に専念します。北朝優位は動かず、南朝掃討も時間の問題と思われたのですが、過去何度も繰り返すように北朝内の政争で敗れた執政・細川清氏が南朝に寝返り、楠木正儀と共に京都を占拠した事件を顕しています。南朝の占拠は僅か1カ月で、義詮が巻き返して京都を奪還、南朝は住吉御所に撤退しています。

殿中の茶の湯の創始は資料上では佐々木道誉になるのかも。。ただし、道誉の場合は本人は宮廷作法や知識にも通じていましたが、茶席は単なる遊興と対談の場だったようですが。。

更に時は流れ、宇治茶を保護し、広めたのが室町幕府3代・足利義満。将軍としてだけでなく朝廷での地位も求め、室町幕府の全盛期を造り上げましたが、内心は天皇に獲って替わって頂点を目指していたとも云われます。北山第の金閣寺舎利殿の三層は一階が貴族の寝殿造、二階が武家の書院造、三階は自身を表す禅宗寝殿造。朝廷の上に武家を置きその頂点に自分が立つということを示しているとも云われます。そんな政権の頂点に立とうとした義満は武家・公家の作法や祭事に通じていたと云われ、公家の独占的だった茶事にも通じていたと云われ、茶道という流儀を最初に武家・庶民に広めた人物ともいえます。

しかし、公家文化の主流は歌道・和歌に置かれており、それまでの喫茶の亭と呼ばれた茶室に関してもこの頃は会所と呼ばれていました。この会所は歌合せや連歌の会所の転嫁と思われ、主流も闘茶でまだまだ余興の域だったと思われます。この時期に流行った淋汗茶も名の通り風呂上りに催される闘茶でした。とはいえ、名物の書画骨董を茶室に並べ立て自己の権力や名誉を見せる場というのには変わりませんが、これが徐々に一般にまで広めたものです。

この金閣寺に対抗するように銀閣寺を建てたのが8代・足利義政でした。義政は義満とは対照的に政治の頂点を目指すどころか、自分が引き起こした戦乱と混乱から逃避するように東山殿に籠って自身の趣味と言える芸術趣味の世界にのめり込んでいます。将軍・政治家としては史上最低とも云える人物ですが、芸術面や技工・作法に関しては至高とも云え、その後の芸道や風習、建物・部屋に至る多くが現代にも受け継がれる起点となっています。
北山文化と東山文化を比べれば、見た目には地味に見えますが、小さなものにまで最新の機能と美を求めた義政は凝りに凝ったものになっており、その費用面でも施術面でも上を行っています。日本人の作品を作り出す手先の器用さや、所作の繊細さが話題になりますが、その多くは芸術・趣味の前には身分さを置かない義政の功績と云えます。

茶事にも現代の侘び・寂びを取り入れた最初の人物も義政と云えます。それまでは他者に見せつけるという要素が強かったところに、個人もしくは対人として孤を取り入れたのが義政の功績と云えます。前述したように義満が市井の猿楽師の観阿弥・世阿弥を同朋衆に抜擢したように、義政は自分の芸術面に差別は置くことがなく多くの市井から同朋衆に抜擢しています。東山山荘を作庭した善阿弥親子は河原者出身と云われています。茶道に関しても能阿弥・善阿弥・毎阿弥・清阿弥などの同朋衆の名がみられます。この義政が茶の宗匠として抜擢したのが能阿弥が推挙した僧侶で遁世者・村田珠光で、珠光はその後に続いた茶道の主流となる侘茶の創始者と呼ばれます。その侘茶の源流は義政の東山山荘を観れば一目ともいえます。

茶道の殿中茶の創始ということならば、佐々木道誉(鎌倉末~南北朝)・足利義満(室町初期)・足利義政(室町中期)が源流にあると僕は思っています。
しかし、混乱期の戦国時代に花開いた能登の畠山文化の一翼を担った丸山梅雪(室町中後期)も、荒廃しきった京の文化を引き受けて殿中茶の創設に寄与したことは間違いなく、一方の流れを造ったと云えます。

※夏にこの文を中途まで書いていたのですが。。最初は本行寺の七尾学のHPや茶湯の歴史本を参考に自分の知識を入れて書いていたんですが、まとまらずに四苦八苦、、いずれもつじつまが合わなかったり異説が多すぎる傾向が。。同じ県内ながらまだまだ能登のことになると知らないことも多すぎますねえ^^;勉強不足を痛感、、

本行寺②も苦戦しそう。。次回は法華宗寺院の本行寺は、江戸期は隠れキリシタンの日本のメッカだったというお話。のつもりですが、苦戦は必至、いつになるやら。。

旅行日 2018.08.18


この記事へのコメント

  • tor

    本行寺残念でしたね。次回の楽しみですね。本行寺②私も楽しみにしています。
    つとつと様の大作の苦労の一端を知ることができました。
    2019年01月23日 19:28
  • つとつと

    torさん
    山の寺寺院群は小丸山城の防御地という側面を持っていたために、有事の際には要塞化できるように区割りされています。その中でも本行寺はその中核地なっており、城でいう本丸の位置になります。江戸期を通じて触れ頭は前田利家の父母の菩提寺・長齢寺ですが、本行寺だけは藩直接介入の寺で他とは連絡や侵入も厳しく制限されていました。この為に、様々な伝承や実際にさまざまなものが残っていて興味深い寺院です。 ただ、通説とはあまりにかけ離れて、公説とかけ離れたものもあってなかなかまとめられないものでした。それで関連を調べようとすると変な方向に迷い込んで、にっちもさっちも行かなくなって、、今回のように冷却期間を置いて書くこともたまに。。。それと、この時期からなかなか書く時間が取れなくなる二重苦に
    2019年01月23日 23:02
  • がにちゃん

    こちらも空振りの記事が・・・残念でしたね 
    妙蓮寺さんの末寺だったのですか・・・
    由緒ただしいお寺なのですね
    次回のつとつとさんの渾身の記事期待してます
    2019年01月24日 11:12
  • つとつと

    がにちゃんさん
    本行寺は妙蓮寺の末寺になるんですが、実は独自の運営のお寺です。
    由緒は書かれたように古い歴史のある寺院ですが、特殊事情の寺院で長く一般からは隔絶されていた寺院なんです。その辺を次回には書こうと思っています。
    以前、というかずいぶん昔に訪れているんですが、当時はまだ発見されていなかった仏像もあって、今回期待して行ったんですが、、、是非再訪したい寺院の一つです。
    2019年01月24日 22:05
  • ミクミティ

    梅雪と言うとつい穴山梅雪を思い浮かべてしまいますが、丸山梅雪は能登では有名な室町時代の文化人なのですね。畠山氏の歴史や文化的な貢献がよく分かり参考になりました。更には、茶の湯文化の勃興の考察まで。とても深いですね。
    私は松江でその一端に触れてきましたが、それは江戸時代の後期ですからね。時代はだいぶ違います。
    2019年01月26日 12:17
  • つとつと

    ミクミティさん
    畠山氏は能登の守護として一時代を築いた功績があり名家として残りましたが、やはり派閥抗争が元で多くを失っています。事蹟がどうしても挫折していますから、なかなか諸説が多いのですが、七尾城の規模を観ると往時の繁栄が窺われます。梅雪に関しては、僕も何年も前に能登にすむまで知らない人物でしたが、調べてみるとその交際範囲に驚いたものです。
    松江といえば茶道では松平不昧が起こした不昧流が有名ですねえ^^松江藩を慢性赤字から脱却させて蓄財まで増やした名君としても知られていますねえ^^時代は全く違いますが江戸時代には茶道は確立した身近の物になっていたようです。加賀藩は裏千家が主流で、久松今治藩に裏千家が金沢から赴任したために同じ流れの影響が強いようです。
    2019年01月26日 14:30
  • yasuhiko

    七尾の本行寺は、キリシタンの
    隠れ寺なんですか。マリア像などが
    残されていて、しかも、現在デウス祭が
    行われているとは、驚きのお寺さんですね。
    高山右近の書状の草稿があるという事は、
    やはり、彼の信仰を受け継いでるのでしょうか。
    住職さん御不在で残念でしたね。
    携帯に電話して、見学をお願いしても
    良かったのでは…なんて思ってしまいました。
    2019年01月26日 15:15
  • ゆらり人

    日本全国に隠れキリシタンのお寺はどれほど有るのでしょうね。
    さて私の興味を引いたのは鐘楼堂に掛かっている丸い輪切りにした木は何を表しているのですか。
    お金のようにも見えますが・・・。

    2019年01月27日 10:19
  • つとつと

    yasuhikoさん
    次回に書く予定なんですが、実質的には非公式に隠された藩公認の隠れキリシタンの寺院になっていました。明治以降には仏教寺院なのにキリスト教の儀式を行う寺だと、非難も浴びていたようです。この寺院に右近の思いと加賀藩の信者の思いが残っていたのだと思います。
    やはり、遠慮が出ちゃいました。もっと早めの時間なら連絡したんでしょうが。。帰宅時間を考えると嫁さんが早く行こうという顔をしてましたから、またの機会を狙うつもりです。
    2019年01月27日 14:37
  • つとつと

    ゆらり人さん
    隠れキリシタンの信仰はやはり九州に多いのですが、加賀の地も高山右近のおかげで隠れた信仰が続いたようです。ただ加賀藩の場合は武家層に信仰が広まったために、九州のように民衆に根付くという面では弱く、限られた家に限って続いたというのが特徴のようです。そのために九州と比べれば広がりは薄かったようです。
    鐘楼堂の木の輪っかでしょう。僕たち夫婦も何だろうと興味津々でした。海が関係する能登の寺院関係には、軒先などに浮き(ガラス管や木製浮き)をぶら下げるのでその替りの飾り、鐘楼は時を司るので時計を表すのかとも想像しました。次回窺ったときには住職さんに聞いてみようと思っています。
    2019年01月27日 14:56
  • 藍上雄

     丸山梅雪と言う人は初めて聞いた名前です。茶人なのですね。(能登畠山文化?)戦国時代の武将たちが、戦乱の中、能登に赴き茶道などの遊びに興じていた。と言う事だったのでしょうか…?茶道の原点なんでしょうか…?
     「玄関門の上にいた猫の造り物」ネットに掲載されている写真には猫の姿は見当たらないですね。
     本行寺は、表向きは法華宗のお寺なんですね。いろいろ仕掛けが有るようで、日連上人像から十字架が出て来るとか…。不思議な感じです。
    2019年01月28日 18:45
  • つとつと

    全国的には無名なんですが、能登畠山家の文化面を担っていたようです。
    戦国末期に滅ぼされたこともあって、マイナーに思われていますが元々、能登・河北・越中は畠山家の所領でした。戦国期は混乱と焦土と化した京都から多くの公家や文化人が疎開していたんですが、能登畠山家もその大きな受け入れ先で発展していました。五大山城にも数えられる七尾城の規模、松波城の石で作った波の泉水跡を観ると全盛期が窺われます。
    文の中に武家の先鞭となった人たちを挙げましたが、梅雪も殿中茶を確立した点では特筆されると思います。他の戦国大名もそうなんですが、文化の向上は、他の国や民衆の支持を得たり、自国の発展にはなくてはならないもので、単なる力のみでは他国の支持を得られません。力が先行すると現在のロシアの様に孤立しちゃいます。
    猫は遊びに置かれているようですが、なかなか可愛いでしょ^^ちょっとピンぼけですが。。以前は確かになかったと思います。
    高山右近が修道所を置き、17世紀後期まで家臣団のキリシタン妻女の謹慎所になっていたので、日蓮宗の寺院ですがキリスト教の影響を半世紀以上えた寺院なので、陰からの藩や重臣からの保護でこういう不可思議な寺院になったようです。5/26にアニマー祭りがあるんですが、その日は住職は司祭になる日です^^;
    2019年01月31日 11:02

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