本行寺② 隠れキリシタンの寺

昨昨年(H29)2月、高山右近の列福式が大阪で行われ、福者の宣言がされた際に長々と3部作を書きました。

高山右近記念公園①  ②高山右近 前田利長時代 高山右近の碑③

画像 高山右近像と本行寺堂宇
高山右近像はレプリカだそうですが、作者は大正から昭和中期にかけて彫刻界の重鎮として活躍した彫刻家・吉田三郎。吉田三郎の作品としては長く金沢駅に飾られた杜若(かきつばた)像、台湾の烏頭ダムの八田与一像などが知られています。

ジュスト・高山右近は戦国武将として、清廉潔白で人徳に優れた賢者、戦略・戦術に優れた武将、教えのために大名としての地位や所領を返上するなど献身的な殉教者、更には利休七哲に挙げられる芸術性にも優れていたと云われ、現在でも人気の高い戦国武将です。
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キリスト教に殉じて大名の地位・所領の返上、国外追放によるマニラ客死などはよく知られています。この大名返上の際の年齢が33歳。マニラで客死が63歳。この間の30年は、3年間の細川・有馬氏などの庇護を受けた逃亡生活を経て、豊臣秀吉の特赦で前田利家の客将として迎えられて26年間の長きを加賀藩で過ごしていました。

利家在世中は、金沢・大坂間の往復と軍務に忙殺されていたようですが、利長の代には緊急時や高岡城の築城などの他は、家督を長子・長房に預けて半隠居として、文化面や自身の信仰に費やしていたようです。その中で右近は金沢・志雄・七尾に教会を建設したと云われます。

ちなみに志雄町(現・宝達志水町)は、羽咋郡と河北郡の境界に当たる地で、山岳で佐々VS前田の激戦地・末森城の西面に当たります。能登と加賀の実質的な境界で平野の一番狭くなる地になります。この志雄町と北の志賀町にかけてが右近に与えられた領地と云われています。

ただ、右近の志雄教会がどこにあったかは不明です。金沢教会は兼六園の北側の店舗が並ぶ紺屋坂の降りた大きな交差点・兼六園下にあったと云われています。七尾教会に関しては、本行寺と小丸山城内が有力地になります。ただ、右近の加賀藩での立場では城内は考えづらく、やはり隔絶された本行寺になると思われます。また右近と共に国外追放になった内藤ジョアンの封地もこの辺りや近くの田鶴浜ともいわれていますから、本行寺の方が有力です。
画像 右近谷 右近嘆きの階段

本行寺の境内を更に奥に進むと、現在は右近谷と呼ばれる奥まった地があります。地形的には砦の逆落としのような地です。この逆落としを降りた地に教会があったと云われます。
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  高山右近修道所跡

画像 高山右近修道所跡碑

しかし、その敷地は小屋一軒分くらいのスペースで教会のような規模は難しいと思われます。本行寺では右近の下寺屋敷跡と伝えていますが、せいぜい修道所や訓練所くらいで、もし教会というなら本行寺本堂そのものを転用していたと考えられます。本行寺でも修道所跡としています。
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                       右近谷 右近の井戸
寺伝によれば、右近はこの地で幕府からの召還追放の知らせと金沢出頭の命をこの地で深夜に受けたと云われ、翌早朝には暗い心を嘆きながら坂の階段を登って金沢に向かったと云われます。
寺院に「長刀」「渾天儀(こんてんぎ、天球器)」「音楽器」「地録」等を寄進し、住職から好物の塩漬柿4個を受けて、金沢に赴いたと云われます。本行寺には現在は伝右近短刀と直筆書簡が残されています。

中能登は昔から柿の名産地ですが、僕は渋柿の処理法には詳しくありませんが、塩漬柿は渋抜きの為に塩水に漬けたものと思われます。前回の右近像のある志賀町の名産は干し柿の「能登ころ柿」があります。

直筆書簡は細川家財団法人「永青文庫」所蔵の「日本訣別の書」と同文の下書きともいわれています。。「日本訣別の書」は右近がマニラ退去で出港する前月、細川忠興宛に書かれた別れの手紙です。本行寺の文には宛名が記されていませんが花押はしっかり残されています。下書きだったのか本当の手紙だったのかも不明です。

本行寺にあるものは南禅寺のお守り札の裏に書かれたものです。どういうルートで七尾にもたらされたかは不明。ただ文面では長崎で書かれたと推察されます。別説では芳春院(前田利家の正室)に宛てたものとも云われています。お守り札の裏に書いたといっても、当時は紙は貴重品であり、隠密もしくは神文として送ったとすれば尚更です。

右近が金沢から長崎に送られたのが慶長19年(1614年)正月。翌月には盟友とも云えた横山長知・康玄親子が加賀藩を出奔。5月には主君だった前田利長が死去しています。この死去に伴って利常の実母・寿福院との交換で芳春院は金沢に帰郷しています。加賀藩にこのような書状が長崎から渡ったということは、世話になった加賀藩家中では、利家の正室かキリシタンとして親しかった豪姫、加賀藩を継いだ利常しか思い浮かびません。宛名を記さなかったことから後顧を考えれば、それまでの御礼と決別としては、大恩人の利家の妻の芳春院が一番有力と見られます。

日本決別の書(本行寺蔵)・・・

近日出舟仕候 仍此呈一軸進上候 誠誰ニカト存候志耳 帰ラシト思ヘハ兼テ 梓弓ナキ數ニイル 名ヲソ留ル 彼ハ向戦場命堕 名ヲ天下ニ挙 是ハ南海ニ趣命懸天命ヲ 流如何六十年之苦 忽別申候此中之御 礼ハ中々不申上候云々 恐惶敬白 南坊
九月十日 等伯 (花押)


現代訳・・・近日には出航することになりました。つきましては、この度一 軸の掛物を差し上げます。どなたに差し上げようかと思案しましたが、私の志(こころざし)ばかりのものです。
    帰らじと 思えば兼ねて 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる 
辞世を残して彼は戦場に赴いて、命を堕としました。この辞世によって天下に名を挙げました。
私は天命に命を懸けて南海に赴き名を流すばかりです。60年来の苦も何のそのです。
そろそろお別れの時です。これまでの御礼の言葉はなかなか筆舌に尽くせません。怖れかしこみて敬って申し上げます。 南坊 九月十日 等伯


補足・・・ 帰らじと。。。の詩は太平記における楠木正行(まさつら)の辞世になります。正行は楠木正成の嫡男で、正成の死後には楠木家を継いで北朝と闘っています。兵数の少なさからゲリラ戦術で渡辺橋の戦いなど多くの合戦で活躍しています。しかし、南朝首脳(特に北畠親房)の決戦方針に逆らえず、四條畷の戦で北朝の大軍に少数で全面対決を強いられ、父と同じ道を歩み23歳の若さで飯森山で散っています。父・正成の柏原の別れ、湊川の戦から12年の後の話です。四條畷神社は主祭神・楠木正行に弟の正時以下24将が祭神となっています。正成は大楠公と呼ばれ、対して正行は小楠公と呼ばれます。四條畷の戦に赴く正行は必死を覚悟して、後醍醐天皇の御廟に訪れ、如意輪堂の板壁に矢鏃で辞世と一族郎党143名の名を刻んで出撃したという太平記の故事になります。右近の文中の彼は楠木正行を指しています。
南坊と等伯は、共に加賀藩に来てからの右近の呼び名になっていました。


高山右近が在住の26年によって、その信望により、藩内の家臣団や家族には多くのキリシタン信者が増えていました。その数は1500とも2000名とも云われていました。加賀藩内では信者は加賀藩の家臣団関係者に限られたようで、一般民衆には浸透していませんでした。基本的にキリシタンに考え方が近い浄土真宗の勢力が浸透していたという事情が大きく、右近自身あくまで客将という地位で、国情に係わる民衆への布教は遠慮したようです。
高山右近・内藤ジョアン・宇喜多(浮田)休閑といった加賀キリシタンの首脳が加賀藩を退去後、藩内では信者に対して改宗を呼びかけ、強制執行を行なっています。その中には改宗を受け入れ隠れキリシタンとなった家も多かったようです。首脳中枢に近い加賀八家横山家、津田玄蕃家などは隠れキリシタンとささやかれ続けた家になります。
藩に努めるためには方針に逆らうわけにいかない武士たちだったわけです。

しかし、表向きの改宗・転宗そのものを拒否した人も多く存在しました。その中でも一門衆・重臣の妻女・娘が多く存在したのです。その数22名。まさか一門衆・重臣の妻女・娘といった女性陣を処刑するわけにいかず、ここ本行寺に集団で入れ一代謹慎として生涯を幽閉で終わらせています。当然ながら上級武家の妻女ですから外出は許されませんが、屋内や山上は自由と格式を持った生活が窺われます。表向きは本門法華宗の寺院ですが、17世紀後期まではキリスト教の尼僧院と化していたわけです。生活状況などを窺うものは残されていませんが、家を離れても棄教・転宗をしなかった熱心なキリシタン女性22名の共同生活だったことが窺われます。

この中でも名の知られた女性には前田利家の八女・福姫(高源院・松寿院)とその娘・菊姫。 福姫に関しては以前に書いています。⇒ 2018.12.11 馬坂
そして、本行寺のメインといって良い海津夫人(全寿院)。海津夫人は加賀藩重臣の津田玄蕃守正勝(3000石)の正室になります。
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津田正勝は加賀藩初期の歴代当主や家臣の履歴の書かれた「加賀藩史稿」では、父は尾張守護家最後の当主・斯波(津川)義近。織田信長の叔父・織田信次の孫にあたると云われます。兄弟には中川重政、津田盛月、木下雅楽助がいます。元は織田姓を名乗り、後に津田姓に変わっています。津田姓は織田一門の傍流の名前になります。江戸期、加賀藩人持組・津田玄蕃家の開祖になります。ちなみに明治に津田家は姓を正勝の父姓の斯波に変えています。

津田正勝は前田利家が府中時代に家臣(2000石)となり、昇進と共に加増を受け大阪の陣では冬は金沢城、夏は富山城の留守居の城代を努めています。ちなみに息子の正忠が大阪陣で活躍。相続後に更に加増を受け、利常時代は執政を努めて1万1千石で明治にまで家を残しています。正勝は横山長知と共に高山右近と親交を持ち、本人もキリスト教に入信、金沢のキリスト教布教の中心人物とも云われています。
改宗後も津田家はキリスト教を信奉していたと伝わっています。正勝の墓所の伝燈寺には隠れキリシタンの祈祷所と伝わる内部が十字の洞窟があります。また津田家の屋敷は大手堀前のKKRの隣(現・金沢総合健康センター)でした。明治には藩医学館となり、金沢大学医学部の発祥の建物として使用されていました。つまり金沢大学発祥の建物になるのですが、現在は兼六園の随身坂入口・金城霊沢前に移築(大正12年)され兼六園管理事務所になっていますが、軒瓦の先端に十字紋が刻まれていることが知られています。
画像 ゼウスの塔(海津夫人の墓)
津田正勝の家格の経歴も高いものがあるのですが、正室の海津夫人の祖父は能登畠山一門衆の畠山家俊になります。家俊の双子の姉は蓮能といって、真宗八代法主・蓮如の最後の妻になります。また叔母には内大臣・万里小路惟房の正室がいます。家格としては夫以上に高いものがあり、加賀藩内でも有力な家柄で人望も厚かったと云われます。名は小百合姫と云われたようです。
海津夫人は寺伝によれば幽閉後の寛永19年(1642年)に亡くなったと云われますから、寺伝が正しければ約20年の幽閉生活を過ごしたことになります。

本行寺墓地に建てられた宝筐印塔が海津夫人の墓石と伝えられています。(本堂前の墓石はレプリカですのでご注意を)
同じく本行寺の紹介によれば、百合石越前式宝筐印塔(石質凝灰岩、高さ、2米80センチ、幅1米50センチ、基礎の上端段形、正面上方左右に竪連子、下方左右に格狭間と塔身の正面中央に蓮座を添えた蓮弁円相を刻む格子紋と格挟間を巧みに応用し大きな十字を浮き上げている)
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宝筐印塔の越前式とか百合石などは僕は知りませんでしたので不明。
この海津夫人の墓石塔には「全寿院殿妙安日玄大姉」の法名が刻まれています。全寿はラテン読みで「ゼウス」になり、宝筺の中に十字に刻された聖霊体が納められたと伝えられたことから、この後、このゼウスの塔は加賀藩内の隠れキリシタンの巡礼本懐とされ、この墓石に触れるのが憧れとされていたそうです。また毎年5/26に墓前でデウス祭(霊魂祭、アニマー祭)が行われ続けてきたと伝わっています。
以前訪れた20数年前には墓所は自由に入れましたが現在は住職の許可や随行でないと見られなくなっています。ご注意を

本行寺は前述の様に、江戸期を通じて直接連絡を禁じられた寺院でした。藩からの御触れも一般からの連絡も山下にあった昌柳寺 (現・金沢寺町)を通すもので、明治になるまでは実態は隠された存在でした。しかし明治以降、キリシタン儀式が行われる寺として長く異端の眼で観られてきたため、現住職の個人的な調査や資料に頼らざる負えず、高山右近の列福によって脚光を浴びて来たのも近年の話です。

ちなみに昌柳寺は金沢寺町に移転しており、現在は江戸末期に成立して昭和戦後に法華宗から一宗独立の本門仏立宗の寺院で、今は面影も薄い感じです。前田利家が能登領主となった際の七尾城代・富田(とだ)景政が母の菩提寺として創建したものです。景政は朝倉一乗谷で中条流(富田流)道場の祖の兄・富田勢源を継いで中条流二代(この時期の弟子には佐々木小次郎などがいます)でした。朝倉家滅亡後、前田利家に仕官しています。景政が三代当主に養子として迎えたのが重政(20歳)で、養父の薫陶を受けて名人越後の別名を受けており、末森城の合戦での一番槍を皮切りに大阪冬夏陣までほとんどの主要合戦で従軍・功績を挙げています。ちなみに大阪夏の陣は隠居後の出陣で郎党共に首級19を挙げたと云われます。隠居前の禄高は13670石。北陸最強の武芸者と云われていました。
重政没後に当主の若死が続き、人持組・富田主計家3000石まで減俸が続きました。ちなみに金沢では東茶屋街と共に観光の人気を集める主計町は、富田主計家の名から付けられた町名です。

話が横道に逸れましたが、前述の様に小丸山城の防衛の出丸的存在であり、防御拠点として山砦の構造で最奥にあったのが本行寺でした。
また藩ぐるみの密貿易の事務所的存在だったとも噂されています。日本海に突き出した能登半島、そして波静かな七尾湾は多くの漁港や良港が存在していました。ちなみに、日本海では現在韓国と係争問題になっている竹島(独島)は鎖国中の日本・朝鮮・中国と諸外国の密貿易の目印・邂逅点になっていたのは有名なお話。
画像 本行寺秘仏の新聞記事 山門に貼られていたもの
17世紀以降も隠れたキリスト教の聖地的存在として、藩ぐるみで隠匿していた本行寺。それを示すように変わった像があります。この新聞記事はH20.5月の北国新聞の「アニマ-祭」後の報告記事です。製作年・作者共に不詳ですが、この像はそれほど大きいもの(体高約10㎝)ではありませんが、普段は両手を合掌しているのですが、両袖を左右に引っ張ると胸が開いて中に木の十字が現れるというものです。彩色や顔の造りから18・19世紀以降の近世の物と思われます。僧形の姿は日蓮上人がモデルではないかと云われます。本行寺にはこの他に和製のマリア像などが観られます。
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しかし、明治以降に寺宝の散逸があり、集め直したものも多く、寺伝も史実との食い違いも多いので、今後の調査は必須だと思われますが、、九州の民衆に広がった隠れキリシタンとは違った武家・商家階層に広まった隠れキリシタン信仰。宗教史に異なるページが灯されるかも。。

現住職は8歳で本行寺の養子となり、れっきとした京都で修業した本門法華宗の僧侶です。正式な本行寺住職就任は10年チョット前ですが、本行寺歴代住職がキリシタン儀式を行って来たことから、散逸していた寺宝を集め直し七尾学として本行寺や七尾の歴史研究と共に、調理師免許も持っていて寺伝のレシピを研究してデウス祭(霊魂祭、アニマー祭)にはキリシタン料理を再現して振舞っています。「僧侶であり司祭であり、祈る心は一緒」という別名・ジーパン住職 ⇒ 七尾学HP


旅行日 2018.08.18



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この記事へのコメント

  • yasuhiko

    高山右近が金沢の地に残した
    キリシタン信仰の話、大変興味深く
    読ませて戴きました。本行寺には、
    彼が日本を離れるに際して認めた直筆の
    書簡(又は下書き)が残されてるんですね。
    男たちが家のため、一族のため、表向き
    信仰を捨てたふりをする一方で、
    絶対に信仰を捨てなかった女性陣がいた事も、
    成る程そういうものかも知れない
    という気がしますし、心打たれる話ですね。
    本行寺が、彼女らの存在を世間から隠す
    幽閉所になっていたという事情もよく分りました。
    2019年02月02日 11:37
  • つとつと

    yasuhikoさん
    加賀藩のキリシタン信仰は武家の一家内でくすぶったまま、永い眠りについていたというのが現実です。大多数を占めた真宗の中で生き残るのは一般民衆には難しかったと云えます。また、武家の中でもキリスト教布教に係わった横山家・津田家も宗門奉行としてキリスト教を取り締まる形になり、加賀藩内の資料はこの時に多くが削除されており、知る由もない状態です。ただ、本行寺の存在はわずかな残照として残っている貴重な存在ともいえます。現在は個人的レベルのものですが、今後の研究や検証が進めば、長崎浦上とはまた違った信仰の形態が解るかもしれません。
    2019年02月02日 18:19
  • 藍上雄

     本行寺が右近の修道教会であったという話は本当のようですね。幕府の芽から逃れるために色々な細工を施しての信仰興味深い物が有ります。ゼウスの塔の隠し十字もそうと言われなければ気が付きませんね。
     加賀藩の隠れキリシタン信仰は、本当に信仰していたのか、或いは家紋に梅鉢紋を使っているだけに、単に色々な文化との接触を試みていたのではと思いたくもなります。(九谷焼など、豪華な物はどこかバタ臭い感じもしますね。)「隠れ」と言うキーワードに、個人的にですが、道真を感ぜずにはおれません。
    2019年02月02日 19:07
  • tor

    高山右近は優れた武将であり秀吉、家康の時代でも
    重要な地位を得られる人物なのに…
    多くが棄教する中、信仰を貫いたのは凄いですね。
    彼を客分として庇護した前田利家、利長も凄いと思います。
    長く暮らした地ならではの内容ですね。
    加賀藩でのことは知らないことばかりで
    興味深かったです。
    2019年02月02日 20:00
  • つとつと

    藍上雄さん
    加賀藩のキリシタン信仰は、過激な真宗の影響もあって広がることは無く、公には武家としても公表できませんから、陰の一部に埋没していたとしか言えません。
    それと、幕末から明治にかけての浦上信徒への扱いに、加賀藩内にキリスト教信徒の影は感じられません。17世紀で藩内は一部を除いて完全に除去されていたとも感じられます。
    九谷焼に関してはあれは単なる意匠でしかないと思います。古九谷の発祥は島原後ですから、よく話題なるハートに見える文様も大聖寺萩の紋様ですから。。ただ、海外の意匠を取り入れようとしたのは古九谷も再興九谷も確かに影響はあります。明治以降は海外輸出で海外の目を気にしていますから
    隠れに関しては本行寺に合わせましたが、基本表に出さないというのが本当の意味になるんでしょうね。
    2019年02月02日 22:36
  • つとつと

    torさん
    石川や富山では、高山右近やキリスト教に関してはその多くが削除や償却で、僅かな者しか資料がなく辛い所です。
    本行寺には誇張されたものも多く、中には利家も芳春院も受洗していたなどと主張しています。利長はわざわざ宣教師を迎えるくらい熱を入れていますが、その後の弔いや埋葬地を観れば、その事実はありません。ただ二人とも右近には信義と忠誠を大きく受けて、大きな信頼を寄せていました。
    秀吉の許しで、身元引受は利家と家康の二者択一で、利家の勧誘と本人の希望で加賀に迎えられていますが、もし家康の元に行っていたらどうなっていたんでしょうね。
    2019年02月02日 22:50
  • 家ニスタ

    加賀や能登にも潜伏キリシタンがいたというのは、一般にはあまり知られていないと思うので、興味ぶかいですね。
    信者がすくない分、長崎あたりとくらべると信仰を守り通すのには困難がともなったとは思います。
    細々とはいえ、ずっと続いていたとするとすごいことです。
    2019年02月02日 23:31
  • がにちゃん

    映画やドラマでの印象で超イケメン・・・(笑)
    潜伏キリシタン=九州・長崎方面・・・と思ってしまいますが、加賀や能登にもおられたのですね 苦難を乗り越えて守った信仰 本当に大変だったのでしょうね 
    2019年02月03日 15:10
  • つとつと

    家ニスタさん
    加賀藩のキリシタン弾圧は右近が追放された年に宇喜多休閑を始めとして約70名が津軽に流刑になり10年程の地に一般人の信徒が発覚した程度で、全体には懐柔策で自然消滅を図ったようです。宗門奉行が元信徒の横山・津田ですから極端な弾圧策は取らなかったようです。民衆には特異な仏教の一派的にしか理解されていなかったのと、階層にかたよりがあって、個人より家や藩を優先させた政策、キリスト系資料・痕跡の削除によって自然消滅的に消えてしまったようです。しかし、微かな痕跡は本行寺や古屋敷内の灯籠・屋根などに僅かに見かけられる程度です。どこまで深く残ったかは不明です。
    それにしても、加賀藩は草創期の右近の滞在、幕末の浦上信徒の預かり・諸外国からの告発とキリスト教とは縁が強いようです。
    2019年02月03日 17:04
  • つとつと

    がにちゃんさん
    そうなんですよね。高山右近はドラマや映画ではイケメンに描かれていて、とても悪口が入る余地がない人物として描かれています。大名の地位を捨てた時は33歳でまだまだ若い武将で、更に悲劇性が強調されています。でもその後の半生が加賀や能登にあったことは本当に知らない人が多くて、逆に驚いてしまいます。
    若くて細面の銅像や絵が知られていますが、カトリック金沢教会の前の銅像を観たらがっくりするかも^^;なんと、おじさん丸出しの像です。でも金沢教会には右近のステンドグラスや列福式の聖福のチョッキの切れ端があるんですよ^^広坂の金沢市役所の側にあるんで、観光ついでに機会があったらお勧めです。
    2019年02月03日 17:14
  • ミクミティ

    高山右近は晩年、加賀前田藩あずかりであったのは知っていましたが、26年もの長い間であったと知って驚きました。その間、やはりキリシタンの普及活動を行っていたのですね。もちろん対外的には目立たない形でしょうが。
    その流れが閉ざされた世界でかなり長い期間続いていたのですね。宗教の信仰の深さと長さをあらためて感じました。まさに知られざる歴史で興味深かったです。
    2019年02月06日 21:45
  • つとつと

    ミクミティさん
    加賀藩の26年の痕跡はほとんどといって良いほど消されていて、右近の26年の状況は窺うほどしか残っていません。更に家臣団に限定された布教のために、裾野が広がらずに埋没したという感じです。しかし、加賀藩のその後の文化には茶道・菓子など独特の振興を遂げていますし、土木事業も引き継がれているように大きく貢献したのは窺われます。
    宗教というのは一概には言えませんが、共有する仲間が多くいてこその物で、一個人や家族ではなかなか浸透しないということが言えますから、一種の自然消滅に近いものがありますね。ただ、現代はキリスト教会や文言など街に溶け込んでいますから、右近や22名の女性の事蹟は多少の影響をもたらしているともいえます。
    2019年02月07日 13:58

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