野間神社

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金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。

一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。
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野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座

一.御祭神 草野(かやの)比賣大神
   配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命
比咩(ひめ)大神

一.境内地 壱千八百拾四坪

一.由緒
   本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。
   その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。

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 表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。

主祭神の草野(かやの)比賣大神は聞き馴染みの少ない神様だと思いますが、一般には草野姫と呼ばれ、古事記では鹿屋野比売神・日本書紀では草祖草野(くさのおやかや)姫とされています。



イザナギ・イザナミの国土の島々を誕生させた国産みの後、二神は自然・万物の神々を産んだ神産みを行いました。家や建物を示す家宅六神、様々な自然を司る自然神が誕生しています。この自然神には男女の神のカップルが兄妹(火の神の様に単独神もいます。)として生まれています。草野姫の兄が山の神・大山祇(おおやまつみ)こと、古事記では大山津見(おおやまつまみ)神になり、この兄妹は夫婦となって四組八柱の神を産んでいます。                  画像

ちなみに、この四組のどれに当たるかは不明ですが、後にスサノオが出雲に降りてヤマタノオロチを退治して得た妻・クシナダの父母はオオヤマツミの子と名乗っています。天孫降臨の際にオオヤマツミは二人の娘を嫁としてニニギに贈っていますが、ニニギは妹の木花開耶姫(鹿葦津姫、花の咲くように繁栄するの意)だけを娶り、間に生まれたのが海幸・山幸になります。山幸の孫が天皇家の祖・神武天皇になるわけです。醜いと云って送り返された姉・石長姫(岩のように長寿を保つの意)を受け取ったオオヤマツミは激怒。我の心も解らぬとは何事かというわけで、人間(天皇家)の寿命が縮まる呪いを掛けたと云います。
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ちなみに、その後の石長姫(いわなが、磐長姫)はスサノオの長子・国津神・ヤシマジヌの妻となって、木花知流比売(このはなちるひめ)を産んでいます。名前の通り、妹の木花開耶姫が満開の桜を表し、娘は桜の花の舞い散る姿を表すと対照をなす美姿と云われます。
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別の話ですが、木花開耶姫は富士山の浅間神社の主祭神ですが、全国の浅間神社では木花開耶姫単独もしくは石長姫が並列していますが、大室山の浅間神社だけは石長姫が単独の主祭神になっています。大室山で木花開耶姫や富士山の話題を話すと怪我や不幸になると古くから言い伝えられています。ご注意を^^;

画像 野間神社 摂社・稲荷神社
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ともかく草野姫は出雲系の祭り神といえます。野間神社の論社二つが対照的な大和・出雲系の主祭神というのは興味深いですね。小坂の野間神社には稲荷神社が摂社としてありますし、立派な祠堂が建てられていることから、対抗しているとは思えませんが。。    野間神社 摂社・稲荷神社祠堂内
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草野姫は夫の山の神に対して草木の神とされています。野間神社はこの為か草深い山岳を背に社豪が豊かなことでも知られています。金沢市指定の保存樹林として高さ17mの真榊を始めとして社豪が保護されています。草野姫の名は「かやの」とされることから、茅(萱)に繋がるとして屋根の守り神ともされています。

また、オオヤマツミが蛇神とされることから、草野姫も蛇の化身とされ別名に野椎・野槌(のづち)神とも呼ばれています。ちなみに妖怪の名で知られる野槌はツチノコの別名でもありますね。
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草野姫がいつ頃から崇敬を受けていたかは分かりませんが、野間神社の裏山山頂には10基の古墳群(野間神社裏古墳群)があり、野間神社の位置からこの古墳群との関係が強いことが考えられます。古くから古墳の守り神的存在の産土神がいつしか草野姫に成り代わったと思われます。

草野姫と共に配祀の四神は春日大社に祀られる春日四座と呼ばれる神々です。小坂村は平安期には春日大社の荘園が置かれた地で、現在、卯辰山に登る山の上町にある金沢五社の一つ・小坂神社は江戸期までは春日神社と呼ばれていました。春日大社領になった際にこの四神が合祀されたと云われます。
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また、金沢市本多町の石浦神社、津幡町北中条の三輪神社が論社として主張する河北式内社の三輪神社があったのですが、歴史的には文禄元年(1592年)他藩なら取り潰しものですが。。二代・前田利長の家臣団が越中守山城で100名の斬り合い衝突に発展した事件がありました。発端となった原因の闇討ち事件の主犯が待ち伏せた現場が三輪神社境内と云われます(二ツ屋事件)。時代が下って三代・利常の正室・珠姫の信仰を受けて社殿が整備されたと云われています。場所的には現在の津幡の三輪神社周辺が有力です。この三輪神社が焼失した際に避難的に疎開遷座したのが野間神社で、そのまま春日四座が居残ったとも云われています。
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 野間神社境内 手前右が水神社 奥が稲荷神社

野間神社の由緒書に、往古の河北潟は広大にして小坂の地辺まで湖沼や大湿地帯であったので、国土生成の祖神である草野比売大神の神霊を鎮斉して、この土地の守護神と仰いで今日に至ったのであります。近年に至るまで小坂地内に一の津、二の津、三の津、前波などの地名の存したことや、沖、磯部等の町が現存することなどその証左と云えましょう。又、河北潟の周辺には、神谷内町の野蚊神社など、草野比売神を鎮斉した神社が点在しております。
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国土生成の祖神とか土地の守護神とかにはちょっと異論を感じますが、、河北潟というのは野間神社から西北にある湖ですが、江戸後期の銭谷五兵衛の干拓事業の試みから始まって石川県の農業政策によって戦後、干拓が大規模に行われ、昭和46年(1971年)に干拓事業が完了しています。現在は干拓前の汽水湖から淡水湖となり往時の1/5(4.2㎢)になりましたが、自然豊かな野鳥の宝庫になっています。神社の由緒書きによれば、古代には河北潟は往時より大きく現在の国道359号(旧159号)まで広がっていたと云われます。文中のように湖岸のような地名は確かにありますし、地形的にも湖の後というのもうなずけます。野間神社には画像のような水神社も祀られているのは、湖岸時代の証左と言えると思われます。
画像画像 野間神社拝殿前 狛犬像

稲荷神社への脇参道前の灯篭や拝殿前にある狛犬と灯篭の奉納年は明治38年(1905年)。以前、書いたように逆さ狛犬の最盛期の物ですが、野間神社の物は逆立ち前の踏ん張り状態ですね。頭が大きいものは加賀では珍しく、加賀獅子頭を想起させる顔をしています。緑色に苔むした姿は草野姫を守る姿としては似つかわしいかも。。


小坂町の獅子舞は野間神社の秋の祭礼として町内を練り歩きますが、白木造・重量13キロの大型と10キロの二つがありますが、文久3年(1863年)大野弁吉作と伝えられています。大型は傷みが激しく祭礼の展示に置かれるだけですが、小型は現在も現役で使用されています。訪れた日が祭礼で獅子舞を観たんですが画像が残っていませんでした(TT)
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幕末の北越戦争遠征、明治になって第七連隊が金沢城に入城して日清戦役、日露戦役の主力となり、日露戦役後は陸軍第九師団が入城して、金沢は北陸の軍都と化していました。
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小坂村は北陸道上にあり、倶利伽羅越えの北陸道と砺波・福光への小原越道の分岐点の手前で重要な兵站地でもありました。
野間神社の境内地の奉納品や整備の多くは明治38年(1905年)前後の銘が多く目立ちます。
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表参道も以前は東口にありましたが、国道から真っ直ぐ拝殿に行ける広い新道と石段の表参道が造成されたのもその当時と思われます。明治30年代から昭和20年まで野間神社は軍都・金沢の象徴的な神社となっていました。
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右:旧表参道一の鳥居 左;日露戦役戦勝記念の奉納灯籠
 
このため参道脇には忠魂碑の他に軍馬記念碑があります。以前訪れた時には忠魂碑の横に舞鶴総督府から奉納された三十糎被帽型演習弾(30.5X96.0㎝)の大きな砲弾もありました。そういえば今回は見なかったような。。。近年、神社や寺院などの砲弾に信管や火薬が入ったものがあり、撤去が図られましたからその影響かも。。

   野間神社表参道右脇手前の石碑は河北一郡総社の碑
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忠魂碑及び軍馬記念碑の由来

忠魂碑及び軍馬記念碑は、昭和二十年大東亜戦争終戦近くまで野間神社参道入口左側国道に面し、高さ十二米余りに達する勇姿で、我々は日夜仰ぎいたのであるが、戦争終結に近づくや之を破壊され、誠に感慨無量のものがあり、英霊に対し真に申訳なく、依って軍恩連盟小坂分会の発起のもと忠魂碑は昭和四十一年に、軍馬記念碑は昭和四十五年に、各々この神域に遷したものである。
茲(ここ)に各戦役で国家の為、赫々(かくかく)たる功績を残し、遂に殉死したる英魂及軍馬の霊を祀る

昭和四十五年五月 石川県軍恩連盟小坂分会


軍馬記念碑の寄贈者名・勲二等男爵・大島(嶋)久直から明治31~35年(1902年)の建立と思われます。大嶋久直は明治31年から9年間、第九師団の初代師団長を努めています。日露戦役では激戦の乃木希典の第三軍に所属、旅順・奉天戦の勲功で勲一等旭日大綬章、陸軍大将昇進。後には近衛師団長、教育総監、軍事参事官を歴任しています。
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この忠魂碑軍馬記念碑は戦前までは国道沿いに建立されていました。軍馬像は台座を含め12mの高さを誇っていたと云われます。しかし終戦間際に終戦処理を図ったためか軍馬像の台座を破壊、少し奥まった直線の表参道横に移されて昭和45年まで現在の私有駐車場に移されていました。その後現在地に移されたそうです。それまでは砲弾の他に浮標水雷缶(機雷)も忠魂碑前にあったそうですが、現在は所在不明。

本来、自然の草木を司る神社ですが、戦争によって社域が整備されていますが、終戦直前後には負の舞台になっています。終戦直前に軍馬像が破壊されたのもこれに関係していると推測されます。

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ここからは戦時の負の遺産の話になります、あまり気分の良い話ではないので、嫌悪感を感じる方は読まない方がいいかも。。。

第二次大戦で悪名を噂された731部隊(正式名:関東軍防疫給水部本部)。正式名が示すように軍隊の防疫と給水の常備改善を主目的としましたが、裏面では細菌戦に使用する生物兵器や毒ガス兵器の研究・開発機関でもあったと云われ、現地人・犯罪人・捕虜の生体実験、生物・ガス兵器の実戦使用を行ったと云われます。731部隊は終戦間際のソ連参戦で放棄を決定、ハルピン本部の徹底した人体標本を含む証拠隠滅(焼却・埋没・投棄)と本部建物破壊を行って、急遽帰国しています。それはポツダム宣言受諾の5日前の出来事でした。その後帰国した731部隊は資料の取り纏めや残務処理を1カ月弱ながら行ったのが野間神社だったと云われています。

部隊の創始者・責任者・石井四郎中将が第四高校(現・金沢大学卒業後、京都大学医学部卒)の出身だったこと、軍都として軍人が歩ける地の利を知っていたためと云われています。また実家の千葉芝山にも自分の偽の葬式まで出して資料を保管隠匿したとも云われています。
軍馬像の破壊がこの部隊資料に係わると推測するのは、単なる軍馬像の撤去なら終戦後で十分であること。731部隊の前身が防疫部と軍馬防疫廠(100部隊)だったことにあると思われます。つまり軍馬像の破壊は前身の軍馬関係である自分たちの存在を隠そうとしたと見られます。ソ連・アメリカなどの連合軍の731部隊追跡は戦後熾烈を極めていました。

当時、第一次大戦における毒ガス・細菌兵器による悲惨な後遺症により、毒ガス・細菌兵器の使用は禁じられていましたが、所有・保管は禁じられていなかった。731部隊の研究成果と資料は後年の医学には大きく貢献したという人もいますが、人として人類としてやってはいけない領域があります。それを犯すことは人類ではなく単なる鬼畜にしかなりません。

731部隊の資料は日本政府・進駐軍によって闇に隠されていますが、関係者の多くが医療界に散らばり、日米に全面的に裏取引がなされ、医療関係や軍の研究施設に流されたと云われます。満州で拘束されハバロフスク裁判に掛けられシベリア抑留となった一部幹部を除き、帰国していた石井四郎など幹部は戦犯訴追を免れています。石井四郎は新宿で人道的開業医として67歳(1959年)で没。本人は老後に至って後悔を深めたようで無償医療やキリスト教改宗など、、、どう取り繕っても贖罪にはなりません。731部隊が暴走した時の二代目部隊長ながら厚生省に居座った北野政次・石井の右腕と云われた内藤良一は罪を石井に擦りつけて逃れたあげく、二人の起こしたミドリ十字(日本ブラッディバンク)が朝鮮戦争の兵員用輸血剤に始まり、血液製剤でのずさん管理や製造でどれだけの犠牲者が出たか、731の研究成果を利得に利用しただけでなく、再び悲惨な決幕を招いた行為は許されるものではありません。

731部隊の詳細な研究資料が平成3年(1991年)アメリカの悪名高いダグウェイ細菌戦実験場からダグウェイ文書として発見されています。資料が裏取引でアメリカに流された証明になりました。
731部隊で一番有効だったと評価された炭疽菌の流出事件がダグウェイで起こった際にも、アメリカおまえもかと思ったのは僕だけでしょうか。。シリアの化学兵器使用もコラ!!ロシア!!

戦後に出てくる資料や証言、関連する医療・軍医関係者の事故やミドリ十字事件などの事件、森村誠一の悪魔の飽食や青木富貴子などのノンフィクションなどが出て読んだり観たりすると反吐が出るほどの嫌悪感を感じます。

森と緑に囲まれた静寂感の漂う野間神社を負の行為の取り纏めの舞台にした行為に草野姫は嘆いていると思います。今、静かな佇まいと地域の崇敬を受けて、祭礼の賑やかさを受けて姫の心が慰められていれば良いですね。

旅行日 2018.09.16






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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    海幸・山幸 懐かしいですね 小学校の時の学芸会の演目でした
    ものすごく記憶にあるのは、主役の山幸の人が病気で二日前に出られないことになり、代役の人がながぁ~いセリフをしっかり覚えられて、代役とは思えない演技振り 感動モノでした  
    女姉妹で美人と不美人はやはりつらいのぉ~
    大室山行きましたよ 富士山の話してたっけ・・・こわぁ~いですね
    苔むした狛犬 雰囲気だしてますねぇ  
    2019年02月13日 15:01
  • tor

    こんばんは。
    今回も興味深く拝見しました。
    まさか最後に731部隊になるとは思いませんでした。
    苔むした逆さ狛犬も歴史を感じますね。
    姉妹で美醜が分かれると…
    石長姫単独で祀られている神社では
    浅間神社だからと
    富士山登山の安全祈願はできないですね。
    2019年02月13日 19:08
  • yasuhiko

    大山祇命を祀る神社の名は、
    幾つか頭に浮かんで来ましたが、
    草野姫を祀る神社の事は、初めて
    知りました。神の名前通り、どちらも
    山川草木すべてに神の存在を感じる
    古代人の心が息づいてるようです。
    そんな神聖な場所と、あの悪名高き731部隊が
    関係しているとは! お話しを伺いながら、
    どうしようもない怒りが込み上げて来ました。
    2019年02月13日 20:49
  • 藍上雄

    平成の狛犬(吽)が踏みつけているのは、邪鬼でしょうか?見た目にも格がありそうです。
    後述の逆さ狛犬(当時の流行?)獅子舞では、このようなポーズとるのを良く見かけます。
    草野姫なる神様は、聞いたことがありません。はじめて聞きました。
    野間神社も先の大戦によって、色々な傷を、抱えているのでしょうね。731部隊の実験の全容は、進駐軍にもって行かれた。と聞いていますが、実際はどうなんでしょうね。
    札幌にも、戦時中の遺品置いてある、神社有りますよ。
    草野姫と戦争は不釣り合いですよね。
    2019年02月14日 19:05
  • つとつと

    がにちゃんさん
    海幸・山幸彦のお話、子供の頃よくお話を聞きましたねえ^^僕自身は学芸会や劇というのは苦手でひたすら読むほうや強いて朗読位でした^^;
    どの年代にも演技やセリフのうまい人がいて、そういう場に出会うと本当に羨ましかったです。
    美人・不美人とはいっても、家が繁栄する健康で長く過ごせる二人なのに、あ~~もったいない^^;ニニギ君^^;それでも、磐長姫を娶ったヤシマジヌの家系は大国主を後に出した家系で、けっこう幸せだったようです。
    そうそう、逆に顔が変わっても初志貫徹したのが、来年の大河の明智光秀君。。期待してます。
    別伝承では磐長姫はショックで大室山に引き籠って、姉妹の仲までひびが入っちゃったそうです。それでも、姉が心配で探し続けた妹は背伸びして探し続けて、あんなに高くて美しい山になったそうですよ^^
    2019年02月14日 20:27
  • つとつと

    torさん
    最後のはちょっと余計だったかなとも思っていました。せっかく忘れかけた記憶を掘り返すみたいで迷ったのが正直なところで、苦情が来たら削除しようかと思っていました。
    逆さ狛犬の最盛期の物ですが、足が跳ねあがらずに踏ん張っているのが面白いですねえ。もう一つの玉鉾の野間神社は跳ね上がってるんですけどね^^
    緑に染まった姿はさすが草野姫を祀る神社ですねえ^^
    後で調べたら実はもう一つ磐長姫だけの浅間神社が伊豆の先端にあるそうなんですが、そちらは集落でも富士が禁句なんだそうです。磐長姫単独の浅間神社は富士登山の安全祈願は厳禁のようですね。
    2019年02月14日 20:58
  • つとつと

    yasuhikoさん
    大山祇の神社と言えば、愛媛の大山祇神社と伊豆の三嶋大社が有名ですね。全国には1000~2000以上あるそうですよ。
    草野姫の野間神社は四国や九州にもあるそうですが、別名の萱津神社なら名古屋の東の蜂須賀小六の生誕地近くで、昔たまたまですが、近くで見つけてしまいました。なんと漬物の神様になっていました。
    そんな素朴な神様の神社で、邪悪な資料の取り纏めを行うなんて最悪です。

    今は静かな場所でそんな面影は感じない美しい神社です。このまま名前の通り緑の中の神社のままでいて欲しいと思います。
    2019年02月14日 21:33
  • つとつと

    藍上雄さん
    狛犬が踏んでいるのは実は子獅子でして、獅子の子落としや子供への継承を表す厳しさを表すと云われて、嗣子孫々が栄える意味があると云われています。対の踏んでいるというか、実は守っているんですが宝珠になります。加賀地方ではこれが変化して加賀手毬のような刺繍玉になったりしています。
    この逆さまになった狛犬は古くから加賀から発祥したと云われるんですが、明治の後期が一番多く作製されていました。明治後期の物は後ろ足を跳ね上げているものが多いんですが、ここのはこれから跳ね上げようとして踏ん張っている感じ^^この格好のは少なくて珍しいんですよ。
    なかなか目立った神様じゃないんですが、草や木の神様なんですよ。旦那さんの大山祇なら山や自然の神様として大山祇神社・三島神社の名で北海道にも多かったと記憶しています。大山祇には武運長久のご利益もあるそうですが、草野姫はまったく戦時にはあいません。そんな神社にこんな黒歴史を僅かな期間でも許せませんね。
    部隊の資料は原本はアメリカに持って行かれましたが、主要メンバーの多くは医療界や学府に散らばって重鎮になっていますし、研究資料の多くは受け継がれたと国や大学組織に受け継がれたと云われています。近年、部隊名簿が開示されて、その人々がそういう所に散っていて、学長や大病院の院長になっていて驚かされます。
    2019年02月14日 22:08
  • ミクミティ

    野間神社のことは全く知りませんでした。古い歴史の中で様々な人間の活動に触れてきたのですね。裏に古墳群があるとのことですから、古代から神聖な場所だったのでしょう。そこに草木の神様として草野姫が祀られるようになったのですね。
    戦時中の731部隊にも関わっていたと聞くと驚きです。負の歴史ですが、後世のためにもっと表に知られるようになった方がいいのだろうなと思ったりします。
    2019年02月16日 16:38
  • つとつと

    ミクミティさん
    野間神社裏古墳群は10基ほどの円墳と方墳で構成され、山に沿って階段状に造られているそうで、まだまだ発見される可能性があるようです。山側バイパスのトンネルが通る山岳地で御所町から小坂町の尾根は多くの古墳が点在しているようです。
    年代的には5世紀中期とみられていますから、出雲・大和の端境期になるようです。
    そんな場所に延喜式内社の候補になる古い神社ですから、神聖な場所だったんでしょうね。。
    731に関しての資料開示が徐々にアメリカから出始めてきています。ただそれによって戦々恐々としている大学・病院関係が多いようです。それでも闇は早々に開いた方が後世にもつながると思います。
    2019年02月16日 18:08
  • 家ニスタ

    やはり神社の祭神は2つか、せいぜい3つくらいのほうがすっきりしていいですね。
    茨城に188の祭神を祀ってある神社があるそうなのですが、
    (まだ行っていないのですが・・・)
    どの神様にお祈りをしたらいいのか目移りがしますし、節操がないような気もします。
    731部隊については、以前『悪魔の飽食』を買ったのですがまだ読んでいないので、こんど読んでみようと思っています。
    最近の政府が、臭いものには蓋という考えなのか、旧日本軍のしたことを隠そう隠そうとしているらしいのが気になります・・・。
    2019年02月21日 23:36
  • つとつと

    家ニスタさん
    日立市の御岩神社ですねえ^^ほんの数日前、TVの情報番組で最強の神社と紹介されています。とんでもない神様が祀られているのかと主ttら188柱の祭神^^;
    確かに誰にお願いするか迷っちゃいます。それと仲たがいしてる神様も一緒じゃないのと変に心配しちゃいました。で、ついつい検索したら、とんでもない山奥になりそうで、こりゃ大変そうなどと。。
    戦争に紛れた本当に影の部分です。全てを明るみに出させるには、問題も大きすぎるように思いますが、日本は当事者責任があるんで、隠す隠そうというは問題ありだと思います。
    2019年02月22日 09:52

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