芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。

先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。
画像 石川県立美術館広坂別館
大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。


翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、美術館内で繊細な修復までは行き届いていませんでした。別館・新技術の導入で新設されたものです。他県からの要請も増え高技術で復元された修復作品が蘇っています。
画像 本多の森 県立美術館裏手

写真撮影は禁止なので修復作業はご紹介できませんが、訪れた日には大絵馬と木造狛犬の修復が見られました。観光客の皆さんは兼六園・美術館に多く訪れますが、大正期の建物や加賀八家の本多家上屋敷跡の貴重な自然林・本多の森など、観る価値のものがあります。近いうちにアップしますね^^/

で、今回は山科や兼六園にも関係するというより、金沢の名に深く係わる芋掘り(いもほり)藤五郎について。。。
画像 県立美術館前・百万石通り
左にあるのが兼六園管理事務所(津田玄蕃邸)・・・金沢城大手堀前から移築された藩重臣1万石の屋敷であり、明治には金沢大学病院の発祥の建物でもありました。玄関・式台は武家様式の典型として必見。初代・正妻海津夫人は敬虔なキリシタン武士の典型で、軒瓦の十字紋はそれを伝えるとも云われています。
右の朱色の鳥居が金沢神社の一の鳥居。旧津田玄蕃屋敷と鳥居の間の道が、兼六園の隋身門口になります。

画像 金城霊澤(きんじょうれいたく)
県立美術館の前に兼六園の入り口の一つ隋身口があります。広坂を登った道路に面した赤鳥居「金澤神社」と江戸期の旧津田玄蕃邸の兼六園管理事務所が目印です。
この鳥居から右手に鳳凰山の影に湧水の水盤を祀った社があります。「金城霊澤(きんじょうれいたく)」が内部天井部に架けられています。この「金城霊澤」が金沢(金澤)の地名の由来になります。
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金城霊澤は金沢神社の境内地内の神泉という扱いです。金沢神社は寛政6年(1794年)に11代藩主・前田前田治脩(はるなが)によって、藩校・明倫堂、経武館の鎮守社として金城霊澤の畔に創建されたものです。当時は鳳凰山から流れる水と湧水池だったと云われています。政治改革に失敗して趣味嗜好に逃避した12代藩主・斉広が明倫堂を移転させ先主夫人の隠居所・竹沢御殿を大改造・大増築を行ない自身の趣味嗜好をとり入れた自身の隠居所・竹沢御殿の鎮守社にしていました。この竹沢御殿の庭園として造成されたのが霞ヶ池を中心とした広い千歳台で、兼六園の名もこの時、老中・松平定信から贈られたものです。元々の江戸初期(5代綱紀)からの兼六園の前身は瓢池の周りと宝暦の大火以前の蓮池庭(茶屋街の並ぶ傾斜地)のみと云えました。
画像 金城霊澤の天井画
金城霊澤の覆い堂の天井には水神としての龍神が描かれています。金沢神社の祭神は前田家の祖神・菅原道真とされますが、本当の主祭神は白蛇竜神になります。江戸期には江戸屋敷にも祀られ、奉斎は藩主正室の勤めとされていました。神社拝殿天井画も迫力満点です。


ちなみに竹沢御殿は建坪4000坪・部屋数200を数え、隠居所と云いながら奥向きまで備えたもので藩政務・藩主奥向を備えた二の丸御殿を凌ぐものでした。藩財政を傾けた贅沢品に斉広の死後に、13代 藩主・斉泰の命で、すぐに取り壊され部材は江戸屋敷や金沢城他に回されています。跡地には木を植え、江戸末期には門塀を取り払って現在の形になっています。意味も欠片もない言い方をすれば、兼六園は12代・斉広の趣味と嗜好の夢の跡というわけです。
竹沢御殿は跡形もありませんが、その豪華さや緻密な造りは、斉広の正室・真龍院(隆子)のために竹沢御殿の部材を移築し建てられた巽御殿(成巽閣)に受け継がれ、その華麗さと芸術性が窺われます。

話が逸れてしまいました。金城霊澤も12代・斉広が鎮守社とした時に(文政年間、1818年~)、丸い石の枠 と覆屋に整備したと推定されています。

一般に県内に伝わる金城霊澤にまつわるお話は・・・日本昔話「芋ほり長者

「芋掘り藤五郎」
昔、加賀の国の山科ちゅう村に、藤五郎という若者が住んでおった。親を早く亡くし、山へ行っては山芋を掘って暮らしておったんで、誰いうとなく"芋掘り藤五郎"と呼ばれておった。

ある日のことじゃった。粗末な藤五郎のあばら屋に、上品な老夫婦と美しい娘が山のような花嫁道具を下人に持たせて訪ねてきてな、こういうて頭を下げたのじゃそうな。
「私は大和の初瀬村に住む生玉方信(いくたまほうしん)と申します。突然ではございますが、どうかこの娘をもろうてくだされ」

あまりのことで、面食らった顔をしとる藤五郎に、方信はなおもいうたと。
「実は、私どもは村一番の長者ですが、長い間子宝に恵まれませなんだ。で、長谷観音様にお願いして、ようやっと授かったのがこの娘でございます。和子と名付け、そりゃもう大事に育ててまいりました。そして、、日本一の花婿をと再び長谷観音様に願を掛けましたところ、あなた様の名前を告げられたのです。ですから、どうか‥‥‥」
画像                    芋堀藤五郎夫婦像 山科町

そういわれても、気ままな貧乏暮らしが気に入っとった藤五郎は、なかなか「うん」とはいわなんだ。が、あまりしつこく頼みこむもんで、仕方なくいっただ。
「おらあ、貧乏が性に合っとるだ。だから、せっかくの荷物も近所の貧しい人たちにあげてしまうつもりなんじゃが、それでもええか」「むろん、嫁にもろうてもらえれば、あなたさまのもの。ご自由にお使いください」
こうして娘と結婚した藤五郎は、約束通り花嫁道具を近所の人たちに分け与えたあと、相変わらず山へ芋掘りに入ってはその日の食い扶持を稼いでくると、残りは人にあげてしまい、貧乏生活を楽しんでおった。最初は戸惑っておった娘もそのうちに慣れ、藤五郎と同様、貧しい生活を苦にせんようになっただ。

何ヶ月か過ぎたある日、藤五郎のもとへ大和の方信から、娘が不自由な思いをせんようにと砂金の一杯詰まった袋が送られてきたのじゃ。しかし砂金の値打ちを知らん藤五郎はふと通りかかった田圃に雁が遊んでいるのを見て 捕まえてやろうと手にした砂金袋を投げてしもうたのじゃそうな。
「なんともったいないことをなさる@@」その話を聞かされた娘は、あまりの無頓着さにあきれ、砂金がいかに大切であり、貧しい人たちに喜ばれるかをこんこんと藤五郎に説いたんじゃと。藤五郎は、「あんなもの、芋掘りに行けばなんぼでもとれるだ」と得意そうにいい、翌朝娘を山へ連れて行っただ。なるほど、山芋を掘ると、根っ子のところに無数の砂金がキラキラと輝いておった。

それからというもの、二人はせっせと芋を掘っては近くの沢で洗い、砂金を集めたんでたちまち長者になったが、決してひとり占めにはせず貧しい人たちに分け与えたため、暮らしは少しも変わらなんだ。それでも二人は十分に幸せで、人々からは"芋掘り長者"と呼ばれてたいそう敬われたという話じゃ。
 
それとじゃな、金沢という地名も、この藤五郎が砂金を洗った沢、つまり"金洗い沢"というんでついたんじゃそうな。兼六園の一角に"金城霊沢"という名の場所が今もあるが、ここがその砂金を洗った沢の跡じゃといわれる。  「加賀金沢の昔ばなし」より


画像           大桑化石層と甌穴
望遠があれば解り易いんですが、中央の岩の横筋線。苔や笹の落ち葉で解り難いですが、貝化石が固まって筋に堆積しています。急流で見られる甌穴ですが、長い年月で更に浸食を受けた姿が山科の甌穴群です。


山科は兼六園の真南の急峻な山稜地帯と山裾に当たります。山岳の斜面に広がる高尾・窪・山科住宅団地の東端部で、野田山の大乗寺丘陵の隣の山岳地になります。貝殻の化石を多く含む砂岩・石灰層の新生代地層として年代の標準地層・大桑層(おんまそう)として知られ、当時は日本海に面する海岸線だったと云われる場所です。石灰層を侵食する伏見川の流れによって河岸・川底に出来る甌穴の成れの果てとともに国天然記念物・地質百選に選出されています。
画像       伏見川 山科山間部上流

山稜の満願寺山頂には縄文高地集落遺跡、古墳が確認されており、戦国期には富樫氏の強力な勢力圏として高尾城が知られており周辺に重臣が諸領地を構え、現在の町名にも窪・額・富樫など残っています。江戸期には野田山の前田家墓所、大乗寺丘陵が近く、人口や作地の多いことでも知れていました。古くから栄え続けた地でもあったのです。
画像 国有形文化財 金沢市元町 本岡家住宅
金沢市でも最大の大きさと云われるアヅマダチ住宅と云われる元町の本岡家住宅は、元々はお隣の富樫の窪村から明治35年(1902年)に移築されたものです。他にも長坂用水や泉野村を開墾した富樫氏の末裔で十村役・後藤家。古くからの加賀の有力者出身の多い土地柄でした。
画像  芋堀藤五郎神社前から金沢市街
以前は閑静な雰囲気でしたが山側環状バイパスが通り一変。沿線には元々古くから多くの住宅街が立ち並ぶ場所だったのですが、伏見川の源流に沿って300mも山側に進むと閑静な山岳地になっています。一歩道を外れると山深いという言葉通りの場所になります。
とはいえ、山肌には住宅地があり、芋ほり藤五郎を祀る神社も住宅の並びにあります。山科町会の私的な神社の為か神社庁には登録されていません。。
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芋掘り藤五郎神社由来

藤五郎神社は昭和六年四月(1931年)、山科青年団の一部の人達が、山科神社にあった碑をここに移し、小祠の祭神とした。近年老朽化が目立ち始めいたので昭和六十三年六月(1988年)社殿、鳥居、灯籠、狛犬、手洗い、玉垣等全てを新しく造営した。
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鍬かけの松は芋掘り藤五郎ゆかりの伝承で、藤五郎がその松の枝に鍬をかけて一服したと言い伝えられていた老松(おいまつ)三本がこの辺りにあったのだが、明治二十五年ごろ(1892年)根の下に黄金があると噂が広がり、人々が掘りおこしたため明治三十七年頃枯れ(1904年)、その松で十三個の米搗臼(こめつきうす)を作り、山科村の旧家に保存していたが、内1個を昭和六十二年四月一日(1,987年)、石川県立歴史博物館に搬入、保管展示されている。神社右手の鍬かけの松は二代目である。
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学問好きの加賀藩十三代藩主・前田斉泰(まえだなりやす)は、学者の津田鳳卿(つだほうけい=加賀金沢藩士・藩校明倫堂の助教)に命じ、鋳物師採鉱者によって言い伝えられていた炭焼き長者の話をもとに説話を作らせた。それが兼六園西の隅にある宝形造り四阿の下清水が湧きでている金城霊澤(一説には金洗澤とも)の碑文である。
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画像奈良時代初期、養老の頃(716~717年)、山科村・枝村の伏見村(伏見の里)に山芋を掘り生計をたてていた藤五郎という若者が住んでいた。一方大和の国初瀬の里、萬の長者・生玉右近萬信(一説には生玉方信)は観音様に祈願して、娘の和五(一説には和子とも)を授かりし後、夢枕にたった観音さまが「娘和五の婿となる者は加賀の国山科伏見の里の藤五郎である」と告げられ、遥々この地を訪ね詳細を説明して執拗に懇願、二人は夫婦になったのである。藤五郎は邪欲なく澄んだ目で茫洋として奢らず、近郷の村人に金銀を分け与え人望もあり、後地頭になったとか。
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藤五郎が山芋を洗ったと言われるのが兼六園内西の隅にある金城霊澤(一説には金洗澤)で水底に砂金がキラキラ光り輝いたと言い伝えられており、それから現在の「金城霊澤」という地名がつけられたとされている。
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この辺りには芋掘り藤五郎ゆかりの伝承が実在している。尚藤五郎夫婦を葬ったとされている二五塚(一説には二子塚)は大乗寺の裏から西へ約一八〇米にあり、そこを昔は寺地山と言った。塚発掘の際出土した剣等は寺町五丁目の藤五郎ゆかりの伏見寺に保存されている。
   平成元年六月吉日(西暦一九八九年) 日本民俗学会 加能民俗の会 本光他雅雄

画像 芋堀藤五郎神社 狛犬
元あったものは祠堂の扉前にある小型のものと思われます。古狛犬(昭和初期?)はお茶目な顔をしています。古狛犬の方がこの神社には合いますね。この獰猛な狛犬は昭和63年奉納の狛犬になります。


由来碑にあるように、芋掘り藤五郎の民話は、13代藩主・前田斉泰の命で藩士分学者・津田鳳卿(ほうけい)によって、山科・富樫地区を中心にした民話伝承(芋掘長者伝説)を、金沢霊澤に結び付けてまとめ上げた話(藤五物語)ということが解ります。その後、年代を経るごとに変化しながらも、金沢の名称発祥の元として語られてきたものになります。
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変化したものと言えば、僕たちの子供の頃は芋を沢で洗ったら金塊だったと語られていました。この為に一時期は芋=サツマイモだと思われていた時代がありました。能登の伝統菓子「泉谷のいも菓子」を真似した芋菓子を黄金芋として金沢で販売もしていました。

今は芋は自然薯(じねんじょ)・山芋が定説です。実際、山科を含む金沢の山麓地は筍の産地として有名なのですが、山麓の芋掘りと云えば自然薯や山芋になりますからね。ですから、金塊も砂金にと戻り僕らの頃と話が変わっています。
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芋堀藤五郎神社 鍬掛の松
藤五郎が芋掘りの合間に一服する時に鍬を掛けたと伝わる老松がありました。昭和6年(1931年)その松の傍らに、山科神社祠堂の碑と小祠を建てたのが芋掘り藤五郎神社の始まりになります。暫く後に鍬掛の松の下に金が埋まっているという噂が流れ、不覚者によって掘り起こされ松は枯死しています。藤五郎の伝承をちゃんと知っていれば貯め込んだ金などあるわけがありません。掘るなら山中の山芋を探さねばなりません。二代目の松も残念ながら平成に枯死。今は苗木の三代目です。朱色の棒が添え木になっています。


元々は芋掘り藤五郎を祀った場所は、山科村でも山裾にある山科神社(山科1丁目)の地に、年代不明の石像を祀ると云われた祠堂があったものです。山科町の芋掘り藤五郎神社は昭和6年(1931年)に芋掘り藤五郎の鍬掛松の伝承地に藤五社として建てられたものになります。現在の境内の社殿、鳥居、灯籠、狛犬、手洗石、玉垣等全て(大黒天祠堂は後年と思われます。)を、昭和63年新造営したものです。昭和11年付祠標の後ろに社殿寄付者(平成元年)の碑があります。裏面に奉賛会の役員8名・・僕の知る人では、顧問・江川昇(当時・金沢市長)、名誉会長・梶谷忠司(芝ずし創業者)、副会長・小野木裕(建築設計デザイナー)。。
画像山科神社 社殿と芋堀藤五郎祠堂
山科1丁目の山科神社は山側バイパス沿いにありますが、幹線道路沿いとは思えぬほどの巨樹の生い茂る神社です。創建年代は不明ですが古社の趣きのあるところです。
江戸時代までは八坂社でしたが、明治40年に八幡社を合祀して、現在の山科神社と改名されています。本殿の築年は不明ですが、大正14年(1925年)に改築、幣拝殿も同年に新築されたそうです。その横にある祠堂が芋掘り藤五郎を祀ってきたと伝わっています。

藤五郎・和子夫婦は砂金を集めて山科の住民に分け与え、村落を発展させ、地頭(庄屋)になったと云われています。前述した山科・窪・額・高尾・四十万・長坂・円光寺・富樫・寺地などが山科の地としてその伝承を伝え、恩恵を受けた地域と伝わります。これは野々市と共に、富樫氏の基盤となっていた地域に重なり、津田鳳卿が藤五郎を藤原氏(富樫氏)の末裔(藤原氏の五男)としたのもこの事例からと考えられます。

その後、この夫婦の死後は、現在の大乗寺の門前もしくは西180mに葬られ瓢塚(双子塚)とも二五塚とも呼ばれていたそうです。後年には寺地山とも呼ばれたと伝わります。
寺町にある伏見寺は、平安期(貞観(859~877))の金銅仏・阿弥陀如来坐像(重文)を伝える古い寺院ですが、元々は山科にあり、藤五郎が建立・行基の命名と伝わっています。元和元年(1615年)に現在地に移っています。この寺院が古くから芋掘り藤五郎の墓所を伝え、移転の際に二五塚から発掘した遺物を寺伝物として残してきたと伝わっています。本堂内には藤五郎夫婦像も安置されています。
画像            寺地八坂神社
本来の墓所ははっきりしませんが、伏見寺のあった場所(山科村)、大乗寺近辺、丘陵公園、長坂台公園など候補が多いのですが、名称から寺地山の名を伝える寺地にある八坂神社は富樫家尚(いえひさ、野々市大乗寺建立者))が勧請建立したものですが、主祭神は元明天皇ですが、別称として牛頭天王・寺地天皇の名称を用いています。八坂社ですから牛頭天王(スサノオ)は解りますが、そもそもなぜ元明天皇かは不明、たしかに和同開称絡みで秩父の聖神社の祭神(元明金命)として有名ですが。。意味不明。。寺地天皇も同じく。。そもそも、由来自体が創建年を正徳元年(1711年)として鎌倉時代の富樫家尚を並べている時点で信用できません。ただ、寺地の名を冠して、芋掘り藤五郎を祀る山科神社の前身・八坂社と同じというのが寺地山の名称と共に有力候補になるかも。。

         兼六園 金城霊澤 鳳凰山
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金城霊澤に戻って、、、鳳凰山をくり抜いた穴に石碑が納められていますが、天保15年(1844年)13代・斉泰の命で、お抱え学者・津田鳳卿が本文、渡辺栗が銘文、書家・市河三亥が書記。碑文では湧水量の豊富なこの泉が永く庶民に親しまれてきたことのほか、芋堀藤五郎についても書かれています。通常の芋堀藤五郎伝承とは違って藤氏(富樫氏?)の末裔で京都から兵乱を逃れて来た藤五という世捨て人としています。
画像 金沢霊澤碑 ⇒ 金城靈澤碑銘並叙 全文(漢文)
石川県史(日置謙の紹介文)では・・・金洗澤と藤五郎とに關する傳説の文に作られたるは、藤五物語を以て最初とすべしといへども、口碑としては尚それより以前に行はれたるべく、而してその普く喧傳せらるゝに及びて、世人は漸く藤五郎を以て實在の人物なりと信じ、史蹟としての金洗澤も亦生じ、天保十五年藩主前町齊泰の命によりて堂々たる金城靈澤碑を樹つるに至りたりき。今兼六園に存するもの即ち是なり。石川郡大乘寺門前に在りし古墳が、瓢塚の一名たる双子塚を以て呼ばれたりしを、藤五・和子二人を葬れる地なるが故に二五(フタゴ)塚といひしなりとするも亦附會なり。

日置謙(へきけん)の著作・石川県史は、僕が郷土の歴史を書く際に、同著の「加能郷土辞彙」と共にいつもお世話になっているものです。県史では芋掘り藤五郎は民話上の架空の人で金城霊澤碑の建立と共に、民話の主人公から実在の人になったとしています。日置謙は石川県史という体系づけた歴史観から、県内の歴史好事家には神様的存在ですが、これをもって藤五郎は架空の人と切り捨てる方が多くいます。

しかしながら、戦国期以前の時代から語られてきた黄金伝説はともかく、藤五郎のモデルは実在したのではないかと思います。そこは歴史の伝承は得てして実話というのも多いのです。山科の里の金沢でも特異な発展や実力者の出現は見逃せないものがあります。

たしかに金沢の地名は大小を別にすると、全国に50以上あると云われています。名の知られているところでは横浜市金沢区・金沢文庫・横手市金沢など。。。金沢の名の由来の源・金洗沢(金城霊澤)となれば、三戸・石巻・仙台・鎌倉など多数に上ります。この地名の共通点は河川からの砂金の発見になります。だからといって、長者伝説そのものは創作だと簡単に否定できるものでもありません。金沢の古くから栄えた山科地区を育て上げた源泉となった人物がいたのは確かで、それが芋掘り藤五郎という民話の主人公の逸話になっていたのだと思われます。津田鳳卿は富樫家の末裔、十村役・後藤家を念頭に置いているようですが、これもまた一理ありと云えます。

加賀で金沢という名の文献の初見は、一向宗の金沢御堂建設時、「金沢の庄に仏寺を建立する。」という書簡があるそうです。金沢御堂の建立は天文15年(1546年)ですから、その少し前から金沢という名が上下階層で使われていたことが予想されます。富樫家は鎌倉期から山科を地盤にしていたようですから第一候補に挙げられてしかるべきです。僕も富樫家でありその後の後藤家の祖先だと確信に近いものがあります。

ちなみに加賀守護家だった富樫家は長享2年(1488年)、長享の乱で高尾城の落城で加賀守護14代・富樫政親の自刃で百姓の持ちたる国として、滅亡したように教科書などでは教えられています。実際には長享の乱は富樫家の派閥争いに一向宗が加担したもので、乱後の実権は加州三箇寺が握ったものの、守護家は政親に敵対し総大将に祭り上げられた叔父の泰高(8.10.15代)が継ぎ、独自に荘園の横領などで力を温存、一向宗との協調を図って守護家として尊重を受けていました。享禄4年(1531年)大小一揆では16代・稙泰、泰俊親子は小一揆(加州三箇寺)に味方して大一揆(本願寺)に敗北、越前朝倉氏を頼って逃亡。次男・晴貞が17代となっています。晴貞は守護として本願寺からそれなりの待遇を受けていましたが、元亀元年(1570年)足利義昭の教書で織田信長と呼応、本願寺と敵対します。ところが早すぎたこの処置で、浅井・朝倉が信長と敵対し、朝倉氏が本願寺と協調するに至って、本願寺勢力の真っ只中で孤立、富樫館を攻められ敗走、伝燈寺で敗死しています。
この時に嫡子・晴友は越中に逃れ流浪の果てに福島に逃れています(福島富樫家)。守護家は越前の晴貞の兄・泰俊が襲名宣言して一度は野々市に戻り挙兵しますが越前に敗走。朝倉・本願寺の休戦により孤立。天正2年(1574年)越前金津の戦で稙泰・泰俊、泰俊の長男・次男が討ち死に、完全に加賀守護富樫家は滅亡します。

泰俊の三男・家俊は当時9歳で討ち死を免れ家臣団に守られて、野々市押野に後藤弥右衛門と変名して隠れ住み、加賀に侵攻してきた佐久間盛政に仕官しています(300石)。しかし賤ケ岳で佐久間盛政が敗死後は、後藤弥右衛門として押野の郷士となっています。
家俊の子・藤右衛門が元和2年(1616年)押野村(現野々市押野(清水))の十村役・後藤家を改めて名乗っています。三代・太兵衛は内川から長坂を流れる長坂用水を造り、泉野の新田を開いたことで知られています。9代・安兵衛の時代には52か村の十村役として加賀藩内最大所領を誇っています。長坂用水による泉野を開墾した功績は高く、隣接する山科・円光寺・富樫と合わせて泉野・長坂地区更に野々市・押野地区での富樫・後藤様の名は非常に強いものがあります。

ちなみに家俊の隠れ住居であり、その後の十村役後藤家の押野屋敷は江戸期を通じて家俊(弥右衛門)から昭和まで十村役・村長12代が押野屋敷に続きました。その敷地は現在の押野1丁目の西部中央を流れる木呂川の東部全体だったと云われています。明治以降に神社・保育所・集合会館・住宅など共用施設になって平成16年に最後の屋敷が撤去されています。現在は高皇産霊神社の横に広大な更地と蔵が広大さの面影を残しています。
後藤家に残された資料は鎌倉末の後醍醐天皇綸旨から守護家時代の資料、佐久間盛政唯一の自筆知行状もあり、十村役時代の1800点。県立博物館に寄贈保管され、後藤家文書として重要視されています。

旅行日 芋掘り藤五郎神社 2019.03.28 
      金城霊澤    2019.03.30








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この記事へのコメント

  • tor

    金沢の地名のおこりとなった金城霊澤。
    その「金城霊澤」にまつわる
    「芋掘り藤五郎」の話。
    読んでいて「あれっ?どっかで聞いたような?」
    熊本県玉名市「疋野神社」に祀られる
    「玉名温泉」発見につながる疋野長者伝説。
    雁に砂金を投げたのではなく
    白さぎに金貨を投げつけるのですが…
    不思議ですね。
    2019年04月07日 19:24
  • つとつと

    torさん
    よく似た話でしょ。実を言えば炭焼長者伝説という全国に広がる黄金伝承の一つとも云えるんですよ^^変形の伝承を入れれば幾つあるか解らないほど。肝心なのは主人公のモデル。。
    炭焼長者の話は疋野長者のままと思ってもらえば、、発祥の元がどこかは不明です。種類的には幾つかに系統が分かれるんですが。。まずお嫁さんは初婚か再婚か、父親が神仏のお告げで娘の嫁ぎ先を決めるのと、アコギな長者の奥さんが神仏のお告げで別れて主人公に再婚する、で旧夫は不幸貧乏のどん底に、疋野はお嫁さんが一人で来ますが金沢は前者ですね^^;それと炭焼きと芋掘り他もあるんですが、炭焼きは山の中の金塊、芋掘りは河や沢で芋を洗った砂金といったパターン。前者が疋野で後者が金沢。。
    ただ面白いのは、この伝承の面白いのは主人公が長者になって、一帯の実力者の祖先と云われているところです。torさんがアップしていた疋野神社・玉名温泉の長者が日置氏の祖と云われるように、金沢山科は富樫氏の強力な地盤で、他の伝承もほとんどが地元豪族や土豪の発祥地や地盤に当たる所です。温泉の白鷺が絡むのもこちらでは山中・湯涌温泉に伝わっています。確かに共通ですね^^
    2019年04月07日 21:07
  • がにちゃん

    昔話 金沢の地名由来  いいですねぇ  幸せはみんなで分けて・・・今の政治家に聞かせたい   
    金沢の地名は本当に京都の地名と同じものがたくさんありますね つい読んでいて錯覚しますわぁ  山科・伏見・八坂 等々  
    方言で聞いてみようと思ったら・・・なぜかフリーズ???
    2019年04月08日 13:57
  • つとつと

    がにちゃんさん
    YOUTUBEが駄目みたい。。金沢弁が良いと思ったんですが。。仕方ないから標準仕様に。。
    金沢は江戸時代に京都・大坂から多くの文物や技術を導入していますから、京都の名残が非常に多いんです^^他にも京都の地名と同じ場所がたくさんありますよ^^がにちゃんさんには位置関係がややこしく感じるかも^^
    確かに上に立つ人には、分け隔てなく幸せを享受するという気持ちが欲しいですねえ。。このお話と富樫・後藤家のおかげか野々市は金沢とは一線を画する思いが強いようです。
    2019年04月08日 18:13
  • 藍上雄

     芋ほり藤五郎と金沢の地名の由来、興味深く拝見いたしました。藤五郎氏のお話は本当かどうかは分かりませんが、面白い話ですね。(個人的には前田家と結びつかない所が、実際の話だったのではと推測してしまいますね。根拠はありませんが…。)
     金沢神社と藤五郎神社も直接的なつながりはないように見えます。金沢はいたるところから、砂金が採取されたのかな…。「山芋=金」という事を伝えたかったのかは、一寸不明瞭です。
     でも加賀藩のお金持ちぶりを見ていると、砂金が大量にとれたことは間違いないと思います。
    2019年04月09日 20:59
  • つとつと

    芋掘り藤五郎の話はあくまで伝承とは思いますが、モデルになった人物はいたのだと思います。それが富樫氏が最有力だと僕は思っています。
    金沢の金山としては犀川上流に倉谷金山、伏見川上流の坪野の当たりにあったと云われています。鉱脈としては大規模なものではありませんが、砂金の算出は河川であったのではないかと思われます。ただ加賀藩の中期以降は金の算出は激減しています。
    硫黄や塩など産業創出に頼った面が強いようです。百万石という大藩は収入が多くても、体裁を整える支出は膨大で赤字財政で大変だったようです。
    藩の支配者層はほとんどがサラリーマン的存在で、収入源の原動力になっていたのは後藤家のような十村役(大庄屋)に頼っていましたから、人気実力ともに十村役は大きい存在でした。現在も残る十村邸はいずれも大きなお屋敷です。
    2019年04月10日 08:57
  • yasuhiko

    それは知りませんでした。
    金澤という地名は、湧水の社の
    「金城霊澤」から名付けられたんですね。
    「芋掘り藤五郎」の昔話との関係も
    大変興味深いものがありました。
    「芋掘り」の「芋」は何だろうと思ったら、
    やっぱり山芋でしたか。そうでないと、
    芋掘りが生業として成立しないですもんね。
    話自体も、欲のない者に幸運が訪れる
    といった感じの安心できるパターンのもので、
    昔話の懐かしい匂いが感じられます。
    金澤は昔から「金」に縁の土地柄なんですね。
    2019年04月14日 10:35
  • ミクミティ

    兼六園の歴史や金沢の名前の成り立ちなど、興味深いお話です。実際は、様々な人や時代背景が絡み合っているのですね。加賀藩主の気質や興味も関連しているのですか。その中で、芋掘り藤五郎という昔話が神格化して祀られるなんて。更に黄金伝説の真偽はいかに。非常に面白いですね。
    2019年04月14日 19:37
  • つとつと

    yasuhikoさん
    金沢の地名の由来ですが古くから金沢という地名は語られていたんですが、正式に言われるようになったのは江戸期に入ってからのようです。
    こちらではだれもが知るお伽話なんですが似た話も全国に多いようです。そして金城霊澤も知っていながら、地元民でも意外なほど訪れる人が少ないんですよ。観光の人も気づかずに通り過ぎるところです。金沢の兼六園や県立美術館や博物館に来られた際には、水盤を覗いてみてください。透明感のある水盤です。
    僕の子供の頃はサツマイモで語られていましたが、それでは年代も合わないし、たしかに生業になりませんね。今は山科を含む金沢の東は屈指の筍の里。今年は裏年で不作ですが、来年は心置きなく食べられると期待しています。
    犀川上流には金山があり、下流で砂金が昔は取れたと云われていました。
    2019年04月15日 12:09
  • つとつと

    ミクミティさん
    現在の兼六園の規模や拡張は金沢のシンボル的存在です。素晴らしい遺産なのですが、政治改革に失敗した斉広の逃避場所でもあったんです。室町期の東山文化を築いた足利義政に似ていますが、文化の基礎を造った点では評価されますが、政治・経済の面では取り返しの聞かない混乱を引き起こしています。
    芋掘り藤五郎のモデルは存在したと思いますが、さすがに黄金伝説は難しかったと思います。ただ砂金が取れたのは確かで金洗沢の名や上流の金鉱山が存在しましたから、だからと言って神社を掘り起こすというのはちょっと。。富樫家最後の地の伝燈寺でも隠し金騒動で明治から昭和にかけて大騒ぎで穴ぼこだらけ^^;でも何も出ずで。。黄金伝説はちょっと無理がありますね。。
    2019年04月15日 12:22
  • まだこもよ

    兼六園って 見る機会が あるのだろうか??( 最近こんなことばかり 考えてしまいます・・・歳を取るのは 嫌ですね)
    2019年04月22日 09:18
  • つとつと

    まだこもよさん
    10.20代の頃は、大人になったら、余裕が出来たらひたすら旅をしたいと思っていたんですが、今になってみると、なかなか県外に出られないし、お金もないTT
    ままならないものですね。。行きたいところは山ほどあるんですが、なかなかうまくいきませんTTたまに知らない土地に行っても、あそこにも行けばよかった。。こんなとこもあったんだと後で知ったり、それでも憧れをもっているのは良いと思うし、いつか行けるとも思い続けるのも、大事なのかもと思っています。
    2019年04月22日 11:25

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