土山(どやま)御坊跡① 石楠花の庭園

画像10連休直前の26日
なんとかぎりぎりに仕事を切りの良いところまでこぎつけて、、、最終日の訪問先3軒。。お昼前に1軒目の国道304号沿いの三谷地区に、、、次の訪問先の野々市市・白山市には時間があったので、県境越えで福光から八重桜の並木がある27号で遠回りの金沢大学経由で戻ろうと思ったのですが、県境で土山の文字に思わず方向転換。。お花見ついでに久しぶりに山城散策をしようと。。しかし、日頃の行いが悪いのか、山間に入ると雨がポツポツ。。
帰り道の金沢井波線・県道27号線の八重桜の並木     一向宗時代は瑞泉寺と本泉寺を繋ぐ連絡路、江戸期には加賀藩主13代・前田斉泰の参勤交代の帰路とされていて、別名「殿様街道」と呼ばれていました。
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土山の御峰山の頂上に着く頃には本格的な雨模様。。山の天気は変わり易いとはよく言ったものです。雨が降ってしまうと、山城への道はぬかるみになってしまいます。とても山の中には入れません。。長靴は常備してますが、服は仕事途中のネクタイ・スラックス姿では無理。。今回はあきらめて、、、
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画像またまた変更で土山御坊跡の庭園のお花見に変更。。
土山の石楠花の庭園は土山の村民に大事に手入れをされている庭園。山深く隘路を登るため、真宗関連の人以外にはあまり知られていない存在ですが、隠れた石楠花の名所になります。
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石楠花の庭園はちょうど満開でしたが、雨のせいか花が下を向いているのがちょっと残念。。
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一週間後に家族を連れて再訪したんですが、晴天に近かったけど盛りを過ぎた感じ、ついでに石楠花の花に蜂が飛び回っていて、ギャアギャア叫んで嫁娘は逃げ回ってるし^^;、花の盛りに合わせるのは難しいですねえ。。そんな二人をほったらかして土塁メインの僕、あっ、しっかり山城の天辺にも登ってきましたよ^^V でも。。。。
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実をいうと、この土山の尾根筋(麓高186m、標高261m)には戦国時代に佐々成政が加賀・前田利家に対する国境防御として築いた土山城(御峰城)がありました。頂上付近の集落地は南面の外郭に当たると云われます。。佐々成政が御峰城を築く一世紀前、この外郭の地には土山御坊という浄土真宗(一向宗)・八代法主・蓮如によって築かれた越中布教の拠点が置かれた地でもありました。つまり、御坊の古塁と御峰城の古塁が重なるわけです。
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土山御坊跡 蓮如像
庭園の中央に立つ蓮如上人像、後方の低木は植樹された伽羅木の群生


土山御坊案内板 

土山御坊跡と古塁 市文化財指定(史跡) 昭和三十六年八月三十日

文明年中(一四六九~八六)本願寺八世蓮如は吉崎御坊から叔父の如乗が創建した二俣本泉寺を頼って来錫し、医王山西麓一帯を一向宗(真宗)布教のため巡錫されたが、越中にも足を伸ばし、蟹谷郷の豪族である杉浦万兵衛宅に逗留され、ここを土山御坊として教化に当たった。
始めて越中の地へ足を踏み入れた土山は、蓮如にとって思い出が深く、土山御坊をこよなく愛したという。
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この御坊は、やがて勝興寺といふ寺号を頂戴した。蓮如は次男の蓮乗を後継として残し越中国河上の里へと巡錫に向われ、本願寺五代綽如が創建された井波瑞泉寺の復興に当られた。また、蓮乗は本泉寺、瑞泉寺を掛け持つという立場にあり、四男蓮誓を土山御坊に住し蟹谷郷一帯の布教に当たらせた。
御坊は明応三年(一四九四)高木場(高窪)に移ったが、永正十六年(一五一九年)火災のため小矢部市未友の安養寺に移り栄えた。
天正十二年(一五八四)一向宗徒の拠点となった勝興寺は佐々成政の命で、伏木古国府にあった神保氏張の居城を勝興寺とし現在に至っている。

画像              土山御坊石碑
この石碑は御峰山を登り切った集落で、自販機がある小広場の一角にあります。この小広場と奥の納屋・家屋地、写真外の右の家屋地に土山御坊の堂宇があったと伝わっています。

また天正十二年(一五八四)越中の城主佐々成政が隣国の前田利家と争った折、ここに城を築き御峰城として防戦に備えたという、加賀藩政期に入ってからは、争乱もなく豪族杉浦万兵衛の屋敷として栄えていた。   南砺市教育委員会 南砺市文化財保護委員会

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先にお詫びを書いておきます。。。。浄土真宗絡み、特に蓮如関係となると複雑でどうしても長々書いてしまう傾向があります。中世には浄土真宗には戒律がなく、肉食妻帯が許された宗派でした。また宗教特有の収入源だった加持祈祷を排除した特殊な宗派でもありました。他宗では考えられない血の世襲というものが存在したわけです。しかし、浄土真宗内でも仏光寺・専修寺(他宗も含む)などは宗旨の継承として師から弟子へと伝承・継承が重視して行われていました。仏光寺の歴代法主の姿・名・経歴を示す画系図が解り易い事例です。
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本願寺も建前は血脈と法脈を分けて継承するとしています。とはいえ、実際には親鸞の墓守を自称して、親鸞の血脈を重視していました。初期は一般にはこれは受け入れがたいものでした。阿弥陀仏でもない親鸞という唯の人を信仰するわけではないのです。あくまで坊主は伝導者であり、解説者なのですから。。そもそも、親鸞自身は法然の終生の弟子だと自慢しており、自分の宗派、集団は作るな、墓も要らないと広言していたんですから。。本願寺が蓮如以前、他宗派や同宗他派、一般民衆から無視されたのは、教義よりも親鸞の血筋や墓所が逆の意味で敬遠されたのです。浄土真宗の教義自体は一般に受け入れられ、同じ真宗でも前述の仏光寺・専修寺派は隆盛を極めていたのですから。
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蓮如が本願寺を隆盛に導き後世に残した要因は講を基盤にした組織作りと、講で披露される親鸞・蓮如の御書による広範囲の教義伝承の広域・速達にあります。講によるその頂点の法主の権威づけに成功したことです。これは、蓮如だけでなくその子供たちの活躍によって、やはり親鸞の血を引く特別な存在と、信者に植え付けて行ったということにつきます。更に江戸期の檀家制度で、民衆が寺院・宗派に縛られ、現代になって他宗でも寺院の子孫相続・継承につながり、上座部の東南アジア諸国、他国の仏教関係者。僧侶が驚く現代日本仏教になったわけです。
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僕個人としても教義に関しては、浄土真宗の教義を否定するものではありません。でも浄土真宗の自分の家が通う寺院が本願寺なのか、東なのか西なのかも解らない家が多いことを考えれば、そもそも今の法主が誰か言える人はいないのじゃないかと、いくら自由が根底にあるとはいえ、馬鹿でもチョンでもお経さえ読めればの僧侶・寺院が浄土真宗に多いことを物語っていると思います。
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横道に行きすぎましたが、活躍した蓮如の子供達ですが、とにかく多いのです。しかも似たような名前が続々。。。前に書いた二俣本泉寺で、僕が書いた文章を、お詫びの言い訳として引用すると。。。
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蓮如は、日本史上でも傑出する精力家としても知られています。生涯で5度の結婚をし、その全ての相手と単独で添い遂げています。(つまり、4人の妻と死別、最後の妻は自分より生きたということ)、側室や妾は持たないということで奥さんも重なっていません、つまりかあちゃん一筋^^;そして5人の妻全員に自分の子を産ませています。その数、男子13人・女子14人の計27子(早世したのは女子二人のみ、残り全員が成人しています。)。まあ、これだけ多く、しかも全員の名が「蓮・如・妙」だらけですから、もうたいへんTT
画像日本記録は僕の知る所では別名、オットセイ将軍・徳川家斉の53人ですが、この人の場合、大奥内に16人の妻妾を抱え(要はとっかえひっかえ)、成人したのは28子と約半分。
蓮如の場合、いつも側に女性がいるわけではなく、単身赴任・旅行出張が多かったのですから、、更に生まれた子供の成人率の高いことは当時の出生・生存率から考えると驚異的です。いかに蓮如が凄いか解ろうというものです

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戦国期の中で天下掌握寸前まで進んだ織田信長に対して、最大の障壁としてたちはだかったのが浄土真宗(一向宗)でした。その最大勢力となったのが一向宗、門徒宗と呼ばれた本願寺でした。
 土塁上の山躑躅 石楠花と躑躅は判別が解り難いですね。
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いずれの戦国大名も宗教勢力、特に一向宗・真宗対策には苦慮しています。徳川家康・上杉謙信などは領内布教禁止で対抗しています。有名な所では南九州の人吉藩の佐良氏、薩摩藩の島津氏などは江戸期を通じて禁教・弾圧を加えています。隠れキリシタンと共に隠れ念仏として知られています。                          季節遅れの椿の木
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禁教ではなく宗教の武装解除と政治への従属を強いて正面からぶつかったのが織田信長でした。死闘とも云える信長VS石山本願寺・北陸一揆衆は10年以上にも渡るものでしたが、一面ではその後の政教分離・政教一体が掛かった戦いでもあったのです。もし信長があっさり敗退していれば、世界と同じ政治に宗教が絡む世の中が続いたでしょう。曲りなりに、政教分離を成し遂げたのは信長が延暦寺・一向宗を屈服させ、豊臣秀吉の刀狩りによる寺社の武装解除、徳川家康の諸社禰宜神主法度・寺院諸法度の徹底と寺社の補償となる氏子・檀家制度による民衆統制が出来たことによります。
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一方、信長台頭以前の北陸では朝倉氏と越前・加賀勢力が覇を競い、越中では、僅か22歳で越後を統一して、その後の戦績では戦国最強の軍事の天才・上杉謙信は般若野の戦で敗死した祖父・長尾能景の復仇と能登・越中(畠山家)への介入によって、何度も侵攻しては、その重層的な越中の真宗勢力に跳ね返され続け、能登・越中を勢力下に修めたのも、本願寺との講和後のことで20年以上を費やし晩年になっています。
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上杉謙信を跳ね返し続けた越中真宗勢力を指導していたのが井波・瑞泉寺と小矢部の安養寺御坊・勝興寺でした。越中一向一揆を主導した勝興寺は戦国期には天文8年(1539年)・長尾能景(よしかげ、謙信の祖父、)、天正4年(1576年)上杉謙信、天正9年(1581年)石黒成綱(木舟城主)と三度に渡って落城焼亡しています。天正12年(1584年)に越中支配の佐々成政の民衆慰撫政策によって、伏木の古国府城址に移されています。
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画像 現在の伏木勝興寺上;唐門右;本堂
伏木の勝興寺は30年掛かりの平成の大修理の真っ最中、現在、12棟の重文建築の内、外観が観られるのは、唐門と本堂のみになります。完成予定は来年ですが、その後に総門の引きや修理があるのでまだまだ掛かりそうです。地元ではいつまでやってるんだと陰口も聞かれる今日この頃。

※唐門・・・明和6年(1769年)建築。明治26年(1893年)京都・興正寺から移築譲渡されたもの。興正寺は明治35年に鐘楼を除いて火災で全焼していますから、江戸期の大伽藍の興正寺を伝える貴重な門でもあります。
※本堂・・・寛政7年(1795年)建立。西本願寺阿弥陀堂を模して建築されています。桁行39.4m・梁間37.5mと巨大建築。修理時の梁・柱模型があります。

画像        古国府城址 土塁跡
勝興寺東南部になります。土塁上には800本の椿の群生があります。







 
勝興寺は加賀藩時代には民衆・宗教政策として、越中の浄土真宗の中核寺院として保護を受け続け、中後期には6代藩主・前田吉徳の十男・治脩(はるなが)が、勝興寺に10歳で入り、17歳で得度出家するまでに重視されていました。ちなみに加賀前田家は7代・宗辰(むねとき)以降、藩主の短命が続き、異常な兄弟相続が続き、十男・治脩も24歳で還俗、26歳で藩主となっています。勝興寺は藩主出身の寺院として発展し、広大な境内と近世寺院建築として、北陸では次代の国宝建築候補とも云われています。
画像        土山御坊伽藍跡推定地

越中の真宗教生の中心地・瑞泉寺と並ぶ勝興寺の発祥地がこの土山御坊になるわけです。
浄土真宗の中でも親鸞の廟所と血脈をもって本家を唄う本願寺派ですが、親鸞死後は多くの宗派閥に分かれ、15世紀には専修寺派・佛光寺派などにおされて、延暦寺の末寺となっており埋没寸前でした。この状況から国内仏教の信徒数最大にまで引き上げたのが、北陸で教生を広め、山科・石山に一大本拠を築いて本願寺中興の祖と呼ばれる蓮如でした。
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案内板には初めて越中の地に足を踏み入れたとしていますが、実は蓮如にとっては二度目の越中になります。蓮如の事蹟については混乱したものがありますが、文安4年(1447年、32歳)、父・存如(7代)に従い、関東から北国へと赴き、始祖・親鸞の所縁の地を巡っています。その帰り道は北陸道を通り、瑞泉寺(井波別院)の叔父・如乗に面会し、同じく如乗が住職を務める二俣本泉寺に3年間寄寓したと云われています。瑞泉寺・二俣本泉寺は蓮如の曽祖父・綽如(5代、しゃくにょ)が開基した寺院で、後年には瑞泉寺は勝興寺と共に越中一向宗を主導し、本泉寺は加州三固寺の一つとして加賀一向宗を主導していきます。

綽如は34歳で5代法主に就任して間もなくで、長男・巧如に6代を譲ると北陸に移って布教に努めます。しかし、それなりの知名度と基盤となる寺院を建てたものの、43歳の若さで亡くなっています。彼がもう少し長く生きていれば、本願寺の凋落はなかったとも云われています。頭脳明晰で知られ、明の難解国書の読解と返書作成で名を知られ、宮中講義を行って、後小松天皇から周圓上人号、聖徳太子二歳像・絵図八幅を贈呈しており、瑞泉寺の寺宝として二歳像は太子堂、絵図は宝物殿で観ることができます。一寺建立の勧進状(勅許状)を与えられており、瑞泉寺の名も後小松天皇から贈られたものです。

6代・巧如の長男が蓮如の父・存如で、四男が如乗になります。この時には本願寺は延暦寺青蓮院の末寺となっており、如乗は青蓮院で修行の身となっていたのですが、この時に門跡となっていたのが、足利義満の子・義円でした。どうもこの二人は相性が悪かったようで、何度も衝突を繰り返したようです。その後義円は延暦寺座主となり、更には4代将軍・足利義持(5代・義量は在位2年、18歳で早世。)が後継者を決めぬまま死去したために、籤引きで6代将軍・足利義教として還俗。この義教は急進的な軍事・政治政策を推し進めます。その手法は後の織田信長が踏襲しています。とにかく、敵対勢力は徹底的に潰しにかかった人物で、籤引きの際の対抗馬の兄弟も殺害、抵抗した古巣の延暦寺も情け容赦なく焼き討ちしています。延暦寺焼き討ちは信長の専売特許ではなく、前例がチャンといたわけです。その急進的な軍事行動・宗教対応は信長の先生・教科書とも云えます。義教の別名は籤引将軍と共に悪将軍・恐怖将軍・万人恐怖^^;

こんな人物に楯突いた如乗も相当鼻っ柱が強いのですが、相手が悪かった。。。義教は如乗の追捕令を発し指名手配に、如乗は全国を逃亡する羽目になります。そして、最終的に逃げ込んだ先が瑞泉寺だったわけです。綽如を失い荒廃した瑞泉寺でしたが、ここで綽如の娘・勝如と結婚して婿として転がり込んだわけです。その間に、義教は嘉吉の乱であっけなく赤松満祐に暗殺され、自由になった如乗は綽如の地盤を引き継ぎ、加賀の本泉寺も再興して本願寺派内の発言力NO1にのし上っていました。そんな如乗に存如・蓮如親子は顔繫ぎと助力の約定依頼を果たしていたわけです。如乗の方も3年間の逗留で蓮如の類まれな天賦の才をこの時に確認できたのでした。このことは後年に生きてきます。

長禄元年(1457年、蓮如42歳)父・存如が死去します。問題となったのは継承問題でした。
蓮如の幼名は布袋丸、母親の出自は詳細不明ですが河原者だったともいわれ、本願寺では存如の給仕をしていた女性で、存如が手を出してできたこと言うわけです。正式な婚姻を結んでいたかも不明ですが、どうも正式な結婚には至っていなかったようです。蓮如が6歳の時に、存如が後妻の如円尼を迎えた際に本願寺を退去、その後は行方不明です。
つまり世間的には蓮如は長子ですが、立場的には庶子というわけです。正式な継母・如円尼が生んだ弟・蓮照(応玄)も決して愚鈍ではなく、法主の資格は十分あったわけで、周囲(延暦寺も含む)も蓮照が次期法主とみていました。

ここで登場するのが越中瑞泉寺の如乗でした。存如が望んだ次期法主は才気がある長子の蓮如だ、北国来訪の際に聞いていると主張したわけです。衰退中の本願寺の中で唯一と行っても良い分限者とも云える如乗の発言は重い裁定となり、一転、八代法主の座が蓮如に転がり込んだわけです。越中・加賀での如乗との邂逅が生きたわけです。
本願寺法主の継承には、前法主から新法主への指名となる譲り状が残されるのが通例でしたが、一切そんなものは残されておらず、蓮如・如乗が握り潰して、クーデターを起こしたと見られています。

当然ながら、継母・如円尼、蓮照は納得いかず、本願寺の寺宝を持ち出し、加賀大杉谷に退出しています。幼少時から蓮如と、如円尼・蓮照の仲は悪くはなく、蓮如は如円尼を実の母と慕っており、如円尼も分け隔てなく育てたと云われ兄弟仲も悪くありませんでした。
如円尼は大杉谷移住直後に亡くなっていますが、13年後、蓮如が北陸下向時に蓮照と再会して和解、兄弟の協力関係が復活しています。大杉谷の蓮照応玄と開基の圓光寺については、ブロ友のgoさんが、旧寺地2カ所をUPしています。 ⇒ goさんのブログ 蓮如上人お杖の名泉と圓光寺発祥の地

しかし、継承問題は大きな災厄をもたらします。寄親だった延暦寺は本願寺を破却し、これに抗議した蓮如は上納金を拒否、延暦寺は蓮如を仏敵とします。蓮如は順如(蓮如・長子)と共に近江を放浪することになり、この間に同門の仏光寺の末寺を引き抜いたために、絶縁状態に陥り、四面楚歌の状態に陥ります。10年の抗争の末、窮状に陥った蓮如親子は延暦寺と和解しますが、条件として蓮如の隠居・順如の廃嫡がつけられていました。

蓮如の転機となったのが、延暦寺と敵対していた三井寺の庇護で近江別所(皇子山競技場南面?)に仮の本拠地・顕証寺を建立したあたりから、、旧師・経覚(法相宗・興福寺大乗院門跡)から大乗院荘園の河口庄(細呂木近辺)での雌伏と布教を勧められています。経覚は父・存如とは親友で、異なる宗派ながら葬儀行事にも参加しています。
蓮如との関係も、師弟の枠を越えたもので、窮地に陥った蓮如が真っ先に相談に行ったのも、経覚の元でした。前述の三井寺への接近も経覚の助言だったと云われています。

この助言によって、顕証寺と朝廷・幕府交渉の対応を順如に任せ、北陸布教に乗り出します。
ちなみに、本願寺中興の立役者は蓮如の北陸布教も大きいですが、順如のこの時からの働きの比重は重く影の立役者といえます。酒宴の席で、足利義政の要請で裸踊りをしたのは有名な逸話です。また、幕府・朝廷・有力者の間を駆けずり回り、近畿での布教・寺院建立の許認可を得たのは、彼の大きな功績です。教如が蓮如よりも長く生きていれば、兄弟の反目も無く、後年の後継問題の絡んだ大小一揆も起らなかったと思われます。

越前の河口庄についた蓮如は、経覚の代官・蓮光の協力と帰依を得て、信者を増やすと共に吉崎に拠点(吉崎御坊)を築いていきます。それと並行して、吉崎を蓮光や近江衆に任せ、北陸で教生を広げていた加賀・越中の国境付近の二俣本泉寺に赴き、更なる教生の発展と教化を目指します。

蓮如を法主の座にのし上げた如乗は寛正元年 (1461年)頃に死去しており、蓮如の次男・蓮乗が如乗の娘・如秀の婿として入って跡を継いでいました。15歳で入った蓮乗は如乗夫人・勝如の後援を得て井波から二股にかけての山間地を固めており、加賀・金沢・富山にも教生を伸ばしつつありました。蓮如がこの地に訪れたのは、更なる強化と領域の拡大が大きく望めたためと思われます。実際に、蓮如が逗留した約4年間で、越中三郡・加賀では一気に教勢が広がり、一大勢力となっていました。

後年の話になりますが、加賀で守護・富樫政親が高尾城で一向宗に自害に追い込まれた衝撃は大きく、越中では石黒氏を始めとする古くからの在地豪族による、一向宗弾圧が行われました。この時に蓮乗も本泉寺を放棄して、瑞泉寺に退いています。蓮乗の主導した越中一向宗が蜂起反抗して旧領地だけでなく、越中全土を席巻することになります。

土山御坊②に続く。。。

旅行日 2019.04.26  05.02

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この記事へのコメント

  • tor

    石楠花は偶然にも私もGWに見に行きましたよ。
    こちらも椿の花が残っていました。
    ソメイヨシノの花が長く楽しめた気候が影響したのでしょうね。
    美しい石楠花の中の蓮如像から
    蓮如につながげるところは
    つとつと様ですね。
    私はシャクナゲの後
    数日に分けて寺院の紹介をしてしまいました。
    2019年05月06日 19:17
  • yasuhiko

    県道の八重桜の並木、
    土山御坊跡の庭園の石楠花、
    どちらも見事ですね。
    雨に濡れた後の石楠花など、
    「水も滴る何とやら」で、
    また一段と趣深い気がします。
    この土山御坊跡をこよなく愛したという
    蓮如の話も興味深いものがありました。
    一応、我家も真宗(なんちゃって真宗)なので、
    へ~と感心する事ばかりです。
    2019年05月06日 22:10
  • go

    つとつとさん、こんにちは、私も大杉の奥城山に登山した折に園光寺跡やお杖の名泉を知り何回か大杉の地に行っています。
    蓮照広玄法師の母如円尼は「我が子こそ本願寺の敵子」と蓮照広玄法師の八世就任を信じていましたが、実際は異母兄弟の蓮如が八世になりました。
    北陸での蓮如さんの足跡はつとつとさんの記事でよりつぶさに知る事ができました。石川県~富山県にまたがる地方には歴史的に見て興味深い所があるようですね、見事なシャクナゲですね、シャクナゲの木を見ても歴史の深さが分かります。
    2019年05月07日 13:59
  • がにちゃん

    シャクナゲ 満開ですね シャクナゲ求めて比良山歩いたのは、もうⅹ十年前 こんなところにシャクナゲの園があったのですね
    我が家の宗派は法然さんです
    蓮如さんは、ある意味親鸞様よりすごい!
    天皇家に同様に脈々と続いている家系ですね
    2019年05月07日 17:22
  • 家ニスタ

    おおっ、御峰城!
    ぜひ行ってみたいです。
    成政時代の遺構は土塁ぐらいしか残っていないのでしょうか?
    鉄道では行きづらい場所なのでしょうね。
    浄土真宗のことについては詳しくなく、正直今まであまり興味がなかったのですが、つとつとさんの解説を読み、もし現地へ行ったときには土山御坊のことについても考えてみることにします。
    2019年05月11日 08:24
  • つとつと

    torさん
    一週間後にも、行ったんですが、雨に濡れていた方が花が元気でした。
    僅かな日にちで花は変わってしまいますねえ^^;
    浄土真宗が現在の隆盛を誇る最初の切っ掛けを造ったのが、八代・蓮如は中興の祖として真宗では親鸞の画像と並べるところが多くあります。
    越中布教の拠点は、この土山と本泉寺になります。
    2019年05月17日 11:12
  • つとつと

    yasuhikoさん
    我が家もなんちゃって真宗ですよ^^ 教義としては制約を置かないという素晴らしさはあるんですが、親鸞の血を重視するというのは、教義とは相いれませんね。
    とはいえ、法主の中には蓮如のように宣伝と組織づくりの天才の輩出があるのも事実です。以降の相続や継承を観るとがっくり来ます。
    最初は曇りながらも天気は持っていたんですが、山に入ったとたんに雨になってしまいました。確かに石楠花には恵みの雨だったんでしょうが、山の中なのでぬかるみだらけで四苦八苦でした。
    2019年05月17日 11:20
  • つとつと

    浄土真宗も蓮如や蓮照の時代には、埋没寸前の存亡の危機でした。身内争いが起こること自体に宗派の葛藤があったと思います。
    鎌倉仏教の多くが北陸を飛躍の地にしていますので、少し行けば、重要地がある土地柄です。ただ、蓮如の吉崎・土山、蓮照の大杉谷など、初期段階の地は山奥の地ばかり、いかに布教が困難だったかが偲ばれますねえ^^
    そのかわりに、遺構もそうですが静かに歴史を振り返ったり、想像を膨らますことができます。県境の辺りには当時の往来の道程はある程度限定された道になるので、興味深い場所が多くあります。goさんが以前よく紹介していた城端の善徳寺や棟方志功障壁画を持つ光徳寺などの真宗の大寺院も、27号線の直売所の近くの砂子坂が発祥地になります。医王山が見える美しい場所です。
    2019年05月17日 11:37
  • つとつと

    がにちゃんさん
    比良山も綺麗ですねえ。。滋賀にいた頃に行ったくらいで、僕こそ20年以上行っていませんが、すごく気に入った場所でした。
    がにちゃんさんが行かれた雨晴海岸のすぐ近くの伏木に越中国府があったのですが、その地に大伽藍の勝興寺という越中真宗の中心地があります。この土山はその発祥地になります。真宗の発展のきっかけとなった地ですが、訪れる人も少ないですが、歴史的にも、石楠花を観るにも良い場所です。
    親鸞は自分の身内が教団を作るなどとは思いもしてなかったようです。あくまで、自分の師は法然だと死ぬまで思っていたそうですよ。
    2019年05月17日 11:54
  • つとつと

    家ニスタさん
    土山に行くなら福光駅になるんでしょうが、ちょっと厳しい場所になります。金沢大学か福光駅から井波金沢線でバスでぬくもりの里から2.3キロあるいて行くのがベストかも。。
    加賀・越中の国境の佐々成政の城は、ほとんどが土塁のみが多いのですが、松根嬢や龍ヶ峰城は遺構が多く残っていてお薦めです。
    真宗は寺院と一体型が多いので、城郭は少ないですが山城は、険しいものが目立ちます。この後に紹介する勝興寺は越中国府・古国府城の跡地で土塁は見るものがありますよ^^
    2019年05月17日 12:20

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