御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。
御坊碑奥の土山城道標
事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。
林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。
御峰城(土山砦)登山口
実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。
御峰山頂 物見跡?
現在は土山集落の貯水タンクが置かれている場所で、御峰城(土山砦)と書かれた鉄柱が一本あるだけ。。確かに御峰山の最高点で樹木や丈の高い草を切り払えば四方の眺望は非常に良いものがあります。
しかし、頂上部の広さは10坪もないように思われます。福光町や南砺市は本丸・主郭と云いますが、贔屓目に観ても物見・監視の櫓を建てるのが精々で、軍勢を多く置くスペースはありません(地図上:G)。
ということならば、麓になる御坊の跡が主郭部だったと思われます。土山御坊の古塁を利用改良したという方が説得力があると思われ、杉浦家屋敷を本丸屋敷としたと思われます。屋敷周りから御坊跡周りの土塁の大規模さがそれを表していると思われます。本来の主郭と思われる旧土山御坊跡は☑部分で、Gが杉浦家屋敷跡になります。屋敷跡の右の道が庭園部で、逆ト字の横道が屋敷の北端で、北に御壺庭がありました。この立道右の広場及び家屋などは近年のものです。登城道は右に谷間を観るように高低差60m程を逆時計回りで御坊に向かうようになっていました。屋敷跡南面の道は近年になって整備されたもので、当時は人がやっと歩ける程度の広さだったそうです。御坊・御峰在城当時の主郭部の広さは約80X100m程。
地図写真、右下◎を南側道路から撮影したものです。右はその反対側の主郭外部。自然を利用した土塁とはいえ、内側にこれだけの高さを持たせるというのは珍しいですね。主郭の重要部となる杉浦家屋敷を中心に周りに空堀を施し、登城道側を高くした土塁が築かれた形跡があります。
御峰城の防衛は杉浦屋敷跡の東面・南面の土塁が高く上部に犬走のような兵士の移動が十分可能な規模が目に付きます。南外面の土塁下の斜面は急斜面、南東に向けて幾つもの土塁・削平が施され、南から南東に向けて重視していたことが窺われます。南面の土塁の高さは非常に高く集落を包み込むように囲んでいます。
能登・加賀と越中の間には高山は無いものの、小中規模の山が連なり、多くの谷があり、進撃路は旧街道沿いに、ある程度限定されていました。加賀・越中間の往来は金沢・井波線は起伏が激しく道が狭いため大軍は進めず、現在の国道359.304号線の間を通った小原道、倶利伽羅峠越えの北国街道。宝達山稜を越える三国峠・宝達山越えの能登・加賀国境に出る経路。当然、両者はこの経路や街道の要所に城や砦を築いていたわけです。小原道の越中側最前線、防御地としての役割を御峰城は担っていました。
内側の構造が解り易い部分、右の納屋も家屋の二階建て並の高さですから、いかに高いか解ると思います。
合戦当初は、前田利家は加賀一向宗の残党対策もあり、安定できておらず、羽柴秀吉の援軍を期待して、防御に徹した面がありました。前田軍の越中進出は利家の末弟・前田秀継が今石動(いまいするぎ)城に進出して佐々軍を撃退したくらい。これに対して佐々成政は、小牧・長久手の徳川家康・織田信雄の善戦で、秀吉の援軍の来ないうちにと積極攻勢に出ています。
前田家に寝返った菊池家の氷見・阿尾城攻め、能登・加賀国境の分断を狙った宝達山稜の末森城攻めには自身が出陣しています。これは前者は前田慶次などの奮戦に野戦で敗れ、後者は奥村永福の奮戦で攻めあぐみ、落城寸前での前田利家の援軍参戦で撤退しています。しかし撤退時に宝達山稜の南端、津幡城の付城・鳥越城を城兵の流言混乱に乗じて占拠して金沢まで20キロに迫っています。
倶利伽羅峠の北国街道では砺波口の源氏ヶ峯砦、加賀竹橋口の龍ヶ峰城に進出。街道を抑えています。
直接金沢に侵入できる小原道では、朝日城・松根城に進出して小原道の加賀口を占拠しています。これに対して前田軍は不破直光(府中三人衆の一人・不破光治の子)の切山城を整備して村井長頼が援軍として入り対峙しています。
小牧・長久手の役は、巷間では羽柴秀吉VS徳川家康に注目が集まりますが、、、天正12年(1584年)3月の織田信雄が秀吉寄りの三家老を処断したことから開戦になったのですが、織田信雄を後援する形で徳川家康・佐々成政・長曾我部盛親・北条氏政・紀州雑賀根来が後援する形で秀吉包囲網で対抗するもので、伊勢・尾張・美濃を中心に近畿・北陸・関東・中部・四国にまで波及した大規模な合戦になっていました。
織田旗下の有力武将も両陣営への後背を迫られ寸前まで佐々成政や池田恒興などは苦慮したと云われます。結局、越後の上杉景勝と対戦中で秀吉陣営とみられていた佐々成政は信雄と養子話が進んでいたこともあり織田信雄陣営に、美濃大垣・岐阜城の池田恒興は尾張との隣接関係で当初は信雄方と見られていましたが秀吉方についています。残念ながら、この役で二人は悲劇と苦汁をなめることになります。
約8カ月に及んだ合戦は突然の終焉を迎えます。それなりの成果を挙げつつあった一方の旗頭・織田信雄が単独講和を秀吉と突然講和を結んでしまいます。北伊勢の侵攻を受けたとはいえ、全体的には五分以上の戦いを見せていた陣営を置き去りにした形になっています。五分以上の講和なら解りますが、伊賀・伊勢の過半の割譲という屈辱条件、信雄が得たのは衰退に向かう織田家当主の座だけでした。今もって、歴史小説などでは馬鹿殿として扱われることが多い織田信雄。安土城放火と共にその元凶になっています。
他の地域を観れば、長曾我部は四国をほぼ統一していますし、徳川家康は御存じのように、白山林で羽柴秀吉を撃退、池田恒興・森長可を戦死させ、美濃平定に乗り出したところ、佐々成政も、対上杉・対前田の二正面対策を強いられながら、前述の様に攻勢で金沢に迫っています。紀州では雑賀・根来衆が頑強に抵抗、北条も上野への進出を狙っていました。苦戦を強いられていたのは織田信雄だけでした。この単独講和を聞いた瞬間はあの徳川家康が家来の前で「なぜだ~~~!!」と叫んだと云われます。家康の凄い所は即座に和平の祝いの使者を送り、即時停戦を行ったところ。。
名目上とはいえ、旗頭の総大将の離脱で梯子を外された信雄陣営の有力武将・大名は孤立することになり、後に個別制圧・降伏・恭順を余儀なくされてしまいます。信雄の離脱は多くの武将や大名を窮地に追い込んだのです。雑賀・根来衆は秀吉の侵攻に降伏、長曾我部は四国平定から暗転、土佐一国に減俸されています。
佐々成政も孤立状態にに対応するために、風雪の冬季、立山・北アルプス越えとなるサラサラ越えを行って、自ら三河に赴いて家康の挙兵を要請したのはこの時の出来事です。この暴挙とも云えるアルプス越えでも成果を得られなかった佐々成政は、傷心のまま越中にまたしてもアルプス越えを敢行して越中に戻っています。
天正13年、羽柴秀吉の援兵が期待できるようになった前田利家は一気に攻勢に転じ、北国街道では前田秀継が龍ヶ峰城を攻略、小原道では村井長頼は朝日・松根城を攻略して越中侵攻の足掛かりを作っています。更に羽柴秀吉の援軍が進軍するに及んで、佐々成政は、富山城へ敵勢を引き込む決戦を決意して諸城の兵を撤収集中します。
ところが、前田利家軍を加えた羽柴秀吉軍の数が10万に迫ろうかという軍勢で富山城が包囲され、佐々成政はそれ程の抵抗もなく、剃髪して降伏しています。この時の成政が剃髪して降伏を申し入れた地が、勝興寺があった安養寺御坊の下安養寺(下屋敷的存在、現・富山市安養坊(呉羽山))で「佐々成政剃髪の地跡」の碑が同地に残されています。富山城にはその時の歌碑が・・・ 何事も かはりはてたる 世の中に 知らでや雪の 白く降るらん
この歌を詠んで、屈辱の中、五福(太閤山)の白鳥城で降伏を申し出ています。ちなみに、この白鳥城には先陣として入っていたのが織田信雄でした。降伏の仲介・減刑の嘆願も信雄が行って倶利伽羅陣中の豊臣秀吉の元に同行しています。成政には二重・三重の屈辱だったはずです。
その後、佐々成政は越中三郡を没収され新川22万石に減俸され、天正15年(1587年)九州征伐の武功で肥後に転封となり、急進的な検地によって肥後国人の一揆を抑えられず、責任を問われ処断されています。病中で家臣が勝手に動いたとか、二重検地を行ったのがバレたという説や秀吉陰謀説が飛び交いますが、肥後では、とにかく悪主・愚か者として嫌われています。
逆に越中国内では、統治間もない越中を硬軟両策(常願寺川改修、勝興寺保護など)でまとめ上げ、サラサラ越え、前田利家・上杉景勝と名勝負を演じた手腕・武勇は高く評価され、今なお敬愛を受けています。前田利家との数々の確執を噂されますが、利家は事あるごとに成政を評価しています。豊臣秀吉は佐々成政の武勇を惜しみ、成政の馬印・三階菅笠を、小田原征伐戦での奮戦した蒲生氏郷に恩賞として継がせています。戦国期末期に育った後陽成天皇から成政死去に対して、哀悼の御製色紙が菩提寺・尼崎法園寺に贈られています。たぶん天皇から哀悼色紙を受けた唯一の武将だと思われます。
佐々成政の撤退と降伏によって、御峰城は戦闘もなく放棄され、そのまま廃城となっています。その後、杉浦家が戻り、集落が構成され本来の主郭部は大きく手が加えられていますが、山肌の土塁や切岸などの遺構が、破壊されることなく残った山城です。
旅行日 2019.05.02
この記事へのコメント
yasuhiko
それは大変でしたね。しかも、フェイクの
道案内まであって…。まさか道標が、
熊や猪を騙す罠だという訳でも無いでしょうが。
越中の国で今も高く評価される佐々成政が、
肥後の国ではボロクソに言われてるという話も
興味深かったです。現代の職場でも、
似たような話がありますね。ある分野の
仕事で大活躍した人が、期待されて別の部署に
抜擢されると、新しい環境に馴染めず、
すっかり影が薄くなったというような話が…。
今も昔も、世の中は難しいものです。
がにちゃん
山歩いていても 初めてのところは、信用するものが無いし・・・
こんなところで、熊さん今日はは困りますもんね
まさかの水道メーターですね
出も行きつけて良かったですね ぶらぶら歴史散歩 いいですね
tor
もともと城は敵を欺く工夫をしているので
それにやられちゃいましたか?
佐々成政の子孫で佐々友房さんは
西南戦争で薩摩軍について戦ったりしていますが
済々黌高校の創設者として人気がありますよ。
お孫さんは浅間山荘事件を指揮した佐々淳行氏。
成政が肥後統治に失敗して処分された後も
肥後で子孫は実績を残しているようです。
ミクミティ
ここにも、前田家を含む様々な武将の紆余曲折の歴史が渦巻いていたのですね。
よくぞまとめられたレポートです。
藍上雄
佐々成政氏は、風見鶏的なところ有って、好きにはなれない武将です。この時代は、秀吉と家康の2強時代なんでしょうね。どちらかが動かないと、どの武将も行き詰まって行くように見えます。
家ニスタ
必ずしも山頂が主郭とはかぎりませんし、こうした例はけっこう多いように思います。
信雄が本当に暗愚だったのかどうかはわかりませんが、行動を見るとそう取られても仕方のない部分はありますね。
信玄、義昭らと包囲網を築き、信長をあと一歩まで追いつめていながら撤退した、朝倉義景を思いだしますね。
あのときも信玄はたしか、「なぜだっ」と叫んだのじゃなかったでしたっけ?
戦国期の独立した大名同士の連合は意思の統一がとれていない場合があり、連絡にかかる時間なども考えれば、なかなか難しかったのでしょうね。
つとつと
この土山の辺りは山が深いせいか尾根伝いにクマさんが毎年、里家にも出て騒がせています。
フェイクではないのですが、道路からの入り口の表示がないので、ついついまっすぐ歩いてしまうんで。。。事前に地図を観といてよかったです。こんなに来るはずはないで引き返しましたから・・
佐々成政については、自分のために動くのは得意ですが、人に指図を受ける部署だと変な欲を出すタイプのようです。なんとなく、そういう人はいますよね。
越中では隣国の前田利家との連携が履かれれば良かったんでしょうが、やはり、織田柴田を裏切った感が許せなかったようです。やはり、武勇とプライドが強かったようです。組織勤めでは、破綻か孤立に陥る人のようですね。
つとつと
山に入る所にも看板が欲しかったですねえ。。最初は全く解りませんで、順番にがけ下を探してやっと道桁登り口でした。こんなところに水道メーター@@登ってみたら頂上に貯水タンクがあって納得^^;まさかそこが目的地とは最初は思わなかったんですが。。
歩て観ると、山並みが綺麗で、ホントに山の中というのは実感できました。
つとつと
登城口が草や雑木に隠されていて解り難い状態でした。登ってみれば見晴らしのの良さと狭さから監視砦、、主郭が御坊と城郭が共用したためにどちらの物か判別が効きませんが、けっこう行こうと解るものが多く残されていました。
子孫の方は活躍されているんですねえ。。
こちらでは純朴・頑固一徹のイメージで観られていますが、妙に人気のある武将です。融通が利かなくて、織田・柴田という思いが強かった分、次の時代の豊臣への乗り換えには抵抗が強かったようです。
つとつと
難しい織田家中でも、鉄砲集団運用にも優れ、築城に関しても地形を利用した越中の佐々成政の城は街道を訳すものが多いのが特徴のようです。それだけ、軍団の移動に対する対処には秀でていたようです。
佐々成政は優柔不断に見られますが、織田信長・柴田勝家と上司との関係を引きづっていたようで、隣の前田利家の動きにはついていけないと感じて、黙ったままで頑固者として抜き差しできない関係に陥るという感じです。その辺が泥臭く感じさせるのかも
つとつと
平野部に近いような平城・平山城と違って、山城というのは山岳地帯や尾根筋を利用しているために、攻める方も大軍勢というのは難しいものです。谷や尾根が多いということは逃げ道も多いということです。欠点は政治拠点や大軍の駐留には向きませんから、監視や関所的な要素の強いものになってしまいます。越中・富山の国境は低山の連続地帯で谷も深く起伏が激しいの山城は意外に重要性が高かったようです。
この時代は秀吉が台頭して、織田家乗っ取りに動いていた時代です。織田家を筋にすれば信雄を重視するのは間違ってはいなかったと思います。でも、東西更に南部と敵を抱えた状態で、孤立するという選択は苦難の道だったと思います。
個人意見ですが、風見鶏というのは佐々成政には当てはまらないと思います。織田家に殉じて、信雄に裏切られたというのが真相だと思います。情勢も大事ですが人を見る眼が無かったというのが真相だと思います。
つとつと
山城は街道の監視が大きな役割になりますから、加賀方向の二街道を観ようとすると、この物見台が一番のロケーションでした。土山の登城口からの複雑さに比べ、この頂上までの簡素さはそういう風に感じさせました。主郭に関しても、土塁の形状は御坊の跡を佐々の城用に整備したものと見た方が良いようです。
言われるように大名間の連絡は難しかったと思います。それを差し引いても、信雄の単独講和は問題が大きすぎました。せめて、徳川に相談・承諾は取らねば。。。結局信雄の家は100万石から5万石に激減。。子孫は1・2万石ですから、、、家康の怒鳴る気持ちはよく解ります。まあ、連合軍の動きは各人個別だったのも確かですが。。さすがに総大将が勝手に降伏してしまっては、後に残された人たちは堪ったもんじゃないですね。家康の立ち回りを成政が出来ていれば立場は変わっていたと思います。