富樫家俊 館跡~押野後藤家 屋敷跡

平安中後期から戦国後期まで加賀国武士団の有力者の筆頭とされたのが、富樫氏でした。
野々市町小史の略系図によれば、藤原北家・藤原房前の五男・魚名の流れで鎮守府将軍・藤原利仁を祖にすると称しています。藤原利仁の諸流には、各地域で諸説ありますが、北信越の各国の武士団創始の祖とされています。

利仁は長男を越前済藤(斎藤)氏、三男を越中井口氏を起こさせ、次男・叙用加賀国守となり富樫姓を、それ以降は加賀介を世襲土着、小松国府に四代を住しています。利仁から七代目・富樫家国の代に野々市に富樫館を構え本拠を移し、石川郡・河北郡南部を領有したとされ加賀介から富樫介を名乗ったと云われています。この時に兄が林氏を起こして能美・小松郷を領しています。林・富樫両家は平安中後期から鎌倉初期に至って加賀を主導し両家から後の加賀武士団の各豪族が分家派生したとされています。承久の乱で林氏を含め加賀の多くの豪族が衰弱・没落する中、富樫氏は波乱の中を生き残り、戦国期を生き続け加賀の代表として600年以上に続いた名家でした。

ちなみに富樫氏当主が名乗った富樫「」について・・・
古代から中世にかけて、朝廷が派遣した国司(地方行政官)は、国の規模や格によって違いはありますが、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう、丞)、目(さかん)の四等官になります。職務が重なることもありますが原則的には守=地方国行政長官、介=副長官、掾=軍事・警察長官、目=記録・奏上などの書記官と思って頂ければ。。。

これとは別に重要地と見なされた西海道(九州+壱岐・対馬・多禰(大隅諸島))では諸国の上に別組織・大宰府が置かれ、帥(そち)、権帥(ごんのそち)・大少弐(すけ、に)・大少監(じょう、げん)・大少典(さかん、てん)の四等官が派遣されていました。また未開地・平定地とされた陸奥には鎮守府が置かれていました。古代の鎮守府の組織形態ははっきり解明はされていませんが、後には鎮守府将軍・軍監の二名が派遣されています。ちなみに征夷・征東将軍は鎮守府では対処できない反乱時に鎮守府将軍に取って代る臨時職にすぎませんでした。

実際には当国への入国が少なかった親王任国制度、奈良・平安初期には権○○守のように朝廷容認の名誉職としての在京国守も散見されていました。平安中後期には租税納入さえ果たせば国守の任国を免れる悪制度と言えるものが増えてきます。更に遣唐使廃止後には、朝廷は対外政策を放棄した形になり、都周辺以外には警察・軍隊を持たない国家になってしまいます。

国守が入国しないということになれば、当国での権限や実行は以下に移譲されることになります。介は当国を熟知・支配できる在地勢力に頼るか自身で武力を持たざる負えなくなっていきます。前述の様に警察・軍隊の役目を果たすためには、当地で武士団を作ることとなり、介以下は土着・在地勢力の武士団となっていきます。これは10世紀頃から親王任官になった大宰府にも言えることで、権限は権帥、更に大宰府が有名無実化すると、土着した少弐氏が台頭します。

武士団には臣籍降下から土着した源氏・平氏が別格として観られますが、この国司から派生した武士団が本来の主流だったともいえます。大宰府の少弐氏は別格として、国司の最上位だったからの土着武士団は草創期の別格の存在として、本貫地+介を呼称していることから八介と呼ばれています。。
八介を列挙すると・・・
大内介(旧官職・周防権介)・・・大内氏 ※富樫介(加賀介)・・・富樫氏 ※井伊介(遠江介)・・・井伊氏 ※狩野介(伊豆介)・・・狩野氏 ※三浦介(相模介)・・・三浦氏 ※千葉介(下総権介)・・・千葉氏 ※上総介(上総権介)・・・上総氏 ※秋田城介(秋田城主兼出羽介)・・・安達氏

室町前期までは任国が基本でしたが、戦国期の官途名は勝手に名乗ったものや、戦国で荒廃貧困の朝廷が官位を乱発し、重複したり配置換えで当国でないものが発生することになります。また、江戸期には重複は避けるようになりますが、自分の領国名を名乗ることは原則禁止されていて(大藩・国持などで例外あり)、重複にも例外の家があるなど拍車を掛けたわけです。

解り易い例では、八介を名乗った織田信長・信忠親子。織田上総介信長。八介の一つになりますが、この官途名は朝廷の認可もなく信長が勝手に自称していたもの。信長の長子・織田信忠の秋田城介は朝廷から下賜された名誉職、室町期は安東氏が名乗っていましたが、没落しており、そのどさくさに将来の東北平定の布石だったと云われています。後に安東実季が名乗りを許され、姓も秋田城介にならって秋田に改名しています。後に秋田氏は常陸宍戸、陸奥三春と移封を受けて明治まで続きます。出羽・東北では由緒高い官名ですが、実季が出羽を離れて以降は使用者はいません。

江戸時代の好例としては肥後の細川家。豊前小倉藩から加増移封され肥後熊本藩54万石の大藩となっています。それまでは細川家は和泉・京洛以来、代々、伝統的に越中守を使用していました。大藩を勝ち取った細川忠利は、他の大藩(特に薩摩藩(薩摩守)と肩を並べるために肥後守に変えたかったのですが、残念ながら先役が居ました。それも保科正之を祖にする会津松平藩。保科正之は徳川秀忠の隠し子(四男)で、家光の異母弟になります。バリバリの親藩。。奔走の結果、会津松平藩主の不使用の間だけという条件で息子・光尚に名乗りを成功させています。以降、会津藩主の未使用期間だけ拝借して熊本藩主は肥後守を名乗っていました(重複時は越中守)。

源義仲追討などの功で、12代・富樫泰家(安宅関の富樫介で有名)が守護職となったものの、逃亡時の源義経に同情的だったと解任(解任後には泰家は奥州に赴き、義経に再開を果たしたと云われます。)。。更に承久3年(1221年)の承久の変では、加賀の武士団は後鳥羽上皇の北面の武士団となっていたために、林氏を含めた多くの豪族が衰亡する中、上皇方として唯一の残党として不遇ながら地元有力者として、赴任の守護・地頭と協力・反目しながらも実績を残しています。建武の親政で加賀守護に復帰、南北朝では終始、足利尊氏に協力、九州西下にも17代・高家が同行、多々良浜の戦においても奮戦しています。観応の擾乱では尊氏方として直義方の桃井上洛軍と戦っています。その後も室町戦国期を加賀の守護大名として生き抜いていました。

富樫家に大きな陰りをもたらしたのは応仁の乱に絡んで、兄弟が東西に分かれて富樫家当主の相続争いも絡んで戦ったあたりから。。24代・政親と弟・幸千代は加賀南北に分かれて戦ったのですが、応仁の乱の影響もあり一進一退。ここで政親は当時勢力を伸ばしていた真宗教団の協力を得て幸千代軍を撃退します。真宗法主・蓮如には戦後の教生への守護の保護を約束していたのですが、教生の勢いにビビった政親は約束を反故にして真宗弾圧に乗り出します。先鋭化した真宗集団は反発し、長享2年(1488年)大叔父・泰高(18.20.25代)を擁して政親を高尾城に攻めて自刃に追い込んでいます。

一般にはここで加賀守護・富樫家が滅んだと思われていますが(野々市町小史でも略系図の富樫当主の代数を止めています。)、実際には25代守護には泰高が復帰して富樫館に入っています。長く真宗による傀儡政権と思われていましたが、たしかに真宗の発言力や領地が広がったものの、泰高自身が荘園の押領に乗り出して富樫家強化を図り、真宗門徒・住民からも守護家の敬意を持ってその後も扱われていました。ただ年を経るごとに真宗教団が強化され傀儡となっていたことは確かです、富樫家の危機感と不満は強まっていたのは確かです。

その不満は享禄4年(1531年)、富樫泰高の孫で加賀守護・植泰・泰俊親子の挙兵として爆発します。しかし、この挙兵は失敗に終わり親子は朝倉氏を頼り、越前金津城(溝江氏館)に逃亡しています。植泰が客死した後の天文4年(1536年)に加賀守護となった晴貞(泰俊弟)は長期政権の中、真宗支配からの脱却を狙っていましたが、元亀元年(1570年)足利義昭の御教書により朝倉攻めの織田信長に加担して旗幟を鮮明にします。しかしこれが早すぎた判断で、信長に反旗を翻した浅井・朝倉、更に本願寺の蜂起で孤立無援の状態に。。富樫館・大乗寺で真宗軍団に敗れ、伝燈寺で子の晴友を越中に逃し(後奥州(現福島に子孫あり)に逃亡)、自身は自刃しています。ここで実質富樫守護家は滅亡のはずだったんですが、前述の兄・泰俊が野々市に戻って挙兵、加賀守護を宣言しています。しかしこの挙兵も敗退に終わり金津城に撤退後、真宗と和睦した朝倉氏に見放され、孤立状態で金津城を攻められ討ち死に、完全に富樫守護家が終焉しています。
伝燈寺の富樫晴貞の墓所は昭和になって押野村の最後の村長・12代押野後藤家当主・後藤義賢によって整備されたものです(非公開)。また妙隆寺(現・福井県あわら市市姫)には富樫植泰・泰俊を含む一族の供養塔があります。
ちなみに金津城攻めを行った総大将は前に土山御坊・杉浦家で紹介した杉浦壱岐守玄任(げんにん)になります。
画像           押野高皇産霊神社
富樫家俊(後藤弥右衛門)が逃れ、移り住んだとされる地です。


この金津城落城の際には城主・溝江景逸・長逸父子他郎党30余名を含め客将の富樫泰俊、長子・次子が共に討ち死にする中、三男・家俊(宗俊、当時9歳)だけが家臣団に守られて落ち延び、富樫家の準本拠地だった押野村清水の地(現・押野高皇産霊神社地)に後藤弥右衛門と変名して郷士となって押野村の村民から旧領主としての保護と尊衆を受け、自身も農耕に従事すると共に押野村開発に従事したと伝わります。ちなみに後藤姓の由来は富樫家の出自・藤原氏を意識したとも云われますが、資料が欠落して不明状態。

ちなみに朝倉家の年寄衆だった溝江家でも長逸の子・長澄が脱出、織田信長・豊臣秀吉に仕え金津城と所領を再興しています。長澄の子・長晴が関ケ原戦で所領没収、後に彦根藩士となって復帰しています。富樫泰俊一族・溝江家の菩提寺・妙隆寺は溝江長逸の弟・辨栄が住職の寺院でした。
画像      旧押野村に向かう往還道
押野村は現在の野々市市の押野・押越・野代・御経塚、金沢市の八日市・新保本・矢木・荒屋・森戸などが当たります。金沢平野の扇状地では最も古く、新保本のチカモリ遺跡、押野2丁目の大塚遺跡といった縄文遺跡があり、古くから集落地として発展していたと見られています。富樫関係では300m南の舘野小学校南面に17代・高家の末弟・家善(押野殿、南北朝期、室町初期?)の5000坪近くに及ぶ館跡が発掘されています。この館跡は稲荷山とも呼ばれ、祠堂が後藤家に移され信奉されてきました。
現在は東北部にJR西金沢駅、東部に石川線・押野駅、中央に国道8号、北西に金沢西ICを抱える県内屈指の商業集積・住宅密集地ですが、当時は原野の多い地で、後藤家が入部以来切り開かれ前述の地区村11ヶ村(太郎田(現西金沢)・八日市出含む)が誕生して行ったと云われます。昭和31年(1956年)金沢に編入されましたが押野・押越・野代・御経塚は富樫家・後藤家との所縁が深い野々市への編入を希望して再編入を果たした経緯があります。

初代となった後藤弥右衛門(富樫家俊)は織田軍の進攻によって佐久間盛政が金沢城に入部すると家臣となり、鳥越城攻略などで戦功を挙げて、感状と300石の所領を与えられています。
加賀藩になると子の藤右衛門が大阪陣での戦功を認められ、元和2年(1616年)に押野村十村役肝煎(37村)となっています。3代・藤兵衛は金沢では辰巳用水寺津用水に次ぐ三番目の長坂用水の開削を完成、泉野地区での新田開発に貢献しています。この飛び地の泉野新田を含め十村役としては加賀藩最大の十村役(52村)となっています。ちなみに、前田利常の2代・藤右衛門・藤兵衛親子への信頼は厚く、小松城において農政改革の諮問に何度も呼んでいます。またこれに関連して参勤交代時には金沢・越後間に随伴させ街道筋の農地説明役としています。

寛文11年(1671年)長坂用水完成は前田利常は見ずに世を去っていますが、5代藩主・綱紀はこの功績に800石を扶持増を与えています。この加増により後藤家の扶持石高は1000石を越え、更に後に1000石加増、生産余剰石高を加えれば概算10万石以上、実質八家老以上の見入りだったと窺われます。
先述しましたが5代・安兵衛も独力で中村から高畠にかけての犀川左岸(現在の新橋から犀川・伏見川合流点まで約6キロ区間、現金沢市中村町から高畠、現在7町)を開発して更に60ヶ村に迫るものがありました。安兵衛はこの功績で1000石の加増を受けています。寛文10年の加賀藩の村数は836村と云われ、約1割に迫る村落を治めていたことになります。

十村役について書き始めると、とても一度の記事に収まり切れるものではありませんが、名前の通り10ヶ村以上を総括する他藩でいう所の大庄屋、兼大地主兼軍務・目付兼行政官兼農業監督者兼土木・新田開発としての村長・領主といえる多岐の権限を持っていました。前田利常が創始した改作法推進の現地遂行者だったのです。

創業期の加賀藩にとっては大きな事情がありました。戦国期において、守護富樫家があったとはいえ真宗門徒(一向宗門徒)が根づいた能登・加賀・越中は、織田勢力(佐久間盛政・前田利家)によって徹底的に制圧弾圧され、恨みは深いものがありました。当然ながら加賀前田家が統治者となっても、戦乱での荒廃は民衆の不信感をぬぐいされないものがありました。農村では逃散・逃亡が相次いで人口減少に拍車をかけ、生産力(国力)も挙がっていませんでした。利家・利長も民衆慰撫・農地政策を施していますが、外征や外政に追われて、国内整備は追いついていませんでした。

利常が執った政策は大胆なもので、藩士に所領を与えても民衆が従わないのでは話になりません。そこで藩士を集約して所領を取り上げ大聖寺・小松・金沢・七尾・高岡・富山を中心に住居させ政務・軍事に専念させ、見合った石高を給米・給金としてサラリーマン化したわけです(地元大名だった加賀八家老・初期長家3.1万石(実質5.5万石)は除外、綱紀の代に召上げ)。そして所領の現地には農民の代表を十村役として、現場指揮者としたわけです。もちろん藩出向の相談役や指導役の代官はいますが、現場責任者としての権限は十村役に委譲したわけです。名字帯刀と館を構えさせ、弓・槍・鉄砲の軍備まで持った十村役になった地域の代表者の多くは後藤家を除けば、ほとんどが一向宗を主導した門徒指導者でした。農民たちにとっては元々の指導者で、外様の領主よりも気兼ねをせずに従えたわけです。

改作法を定めた前田利常は最初に農民の借金取消、種もみ・農機具の借入金の貸付、十村の人口調整をおこない作柄変動制から定免制に転換しています。窮民救済を行ったうえで逃散・逃亡には厳罰をもって対処しています。厳罰は鼻削ぎ耳削ぎ・打ち首と凄惨を極めたと伝わります。監視責任者も十村役とし、納税厳守も十村役に課したわけです。利常の気性の荒さが現れています。

定免制というのは表高に対する税率を定めたもので地区によって多少違いますが、標準生産高の4割を税額と定めてしまったわけです。加賀藩の表高は100万石のうち40万石を豊作不作に関係なく国庫財源に定めたわけです。ちなみに利常の初期は表高85~89万石、それまでの藩収入は25~30万石、100万石は将来性を含んだ過大数値で、この辺は利常のずっこい所。。そのかわりに税額を納めた余剰分は村・十村の総どりとしたわけです。検地で1万石とした十村があったとしたら、不作で4千石の収穫でも全部藩に納めねばならないかわり、もし豊作で2万石の場合、十村には1万6千石が残るというわけです。要は重い鞭と甘い飴を見せたわけです。実際の結果は施行6年間で、実高は120万石で農民・藩共にこの改革は大きな成果を上げたのです。これには十村役の大きな働きがあったのです。

戦国期・江戸期初期までは小作比率は江戸期中後期以上のものがあり生産性にも支障を来していました。そこへもってきて一向宗VS織田勢の争乱で農業人口は激減。。前田利常の人口調整は平均化するだけでそうそう変わるものではありませんでした。十村役にとっても、生産性を上げ、逃散・逃亡を防ぐには自作農家の増加が喫緊の課題でした。村の自作農家を増やそうにも現状からは地主や自作農家から土地を取り上げる訳にも行かず、肝心な田圃が無ければどうにもなりません。

押野後藤家を含め十村役が必死に新田開発や用水路確保を図ったのはこの課題に挑んだためでした。利常も新田・用水開発は欲するところで、基準の表高を変更することなく生産を重視しています。また十村役は農業地籍・人口把握も担っていましたが、農業関連では田畑整備の他にも農業技術・機械の開発など幅広い仕事をこなしていました。
十村役屋敷は県内にも幾つか残っていますが、見学して貰えば解りますが、中には屋敷というよりは蔵や作業場を持った館で、武具・武器・甲冑も保持していたために下手な武家屋敷以上の広さ規模に高塀、中には土塁を配したものまであります。そして多くが現代でも町村の名士でもあります。
画像  後藤家屋敷跡西側 押野川(押野用水路)
鶴来の七ヶ用水でも一番古い富樫用水は、野々市の新庄で分岐して木呂川として押野の西を流れて伏見川に合流しています。木呂川の水を引き入れて整備したのが押野川になります。この用水路には後藤家が用地を多く提供していました。左のフェンスが後藤家屋敷跡

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押野後藤家も屋敷地の江戸時代全盛期には加賀藩の歴代藩主の鷹狩りの際に休憩接待を行っていた記録が残されています。広かった領地は明治以降には病院・公民館・学校・用水など供用地として提供して建設したもので、村の発展に貢献しています。現在屋敷地横の神社も明治期に境内地を後藤家が領地・屋敷地を寄進したものになります。

ちなみに押野後藤家は江戸期に因縁浅からぬ浄土真宗に改宗しています。この辺りの事情は解りませんが、菩提寺は金沢市白菊町の金沢瑞泉寺になります。瑞泉寺は安土桃山期までは押野村にあり上宮寺としていました。慶長8年(1608年)に真宗の東西分裂の余波で移転しています。寛永10年(1633年)井波瑞泉寺から入寺した宣心の代に瑞泉寺に改めています。専光寺(金沢市本町)と善福寺(金沢市橋場町、江戸中期に追加)と並んで石川郡・河北郡の浄土真宗の触頭の大寺になります。ちなみに専光寺には俳人・千代女の墓所、善福寺は豪姫が逃亡中の宇喜多秀家との間に作った次女・富利姫(先勝院)が配嫁しており、洗礼を受けていた富利姫所縁と囁かれるキリシタン灯籠(キリシタン灯籠では最古級)があります。

ちなみに、上宮寺は新田義貞三男の開基と云われ、押野村には特別な存在だったようで、移転前は現在の八日市1丁目の南東端(寺跡碑あり)にありましたが、昭和57年(1982年)に200m程南東の押野霊園横に再建されています。
真宗に改宗したとはいえ、富樫家の八曜紋を引き継ぐ後藤家家紋「亀甲に七曜」が示すように、稲荷山(押野館)所縁の祠を屋敷内に移し、代々稲荷信仰に篤信していたと云われますが。。。
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画像 押野後藤家 屋敷跡地
      上:岩蔵  中:屋敷跡地
  
押野後藤家は十村役として江戸期を過ごし、明治から昭和中期まで押野村村長を歴任していました。旧押野村(富樫組)はもちろん、長坂用水によって出来た泉野(富樫含む)、新田開発によって出来た犀川左岸(米丸組)などでは後藤さんの名は知れ渡っています。昭和期まで金沢・野々市で一番有名なお家でした。
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後藤本家直系は昭和末期(昭和50年代)に絶えており、広大で大きな屋敷地は更地となり、岩蔵と呼ばれた納屋が一軒残るだけとなっています。管理は金沢の後藤家親戚筋が行っているそうです。

建武元年(1334年)銘、後醍醐天皇綸旨、佐久間盛政直筆知行状を含む富樫家資料、江戸期十村役としての慶長3年(1598年)から明治40年に渡る詳細書類、農業図解など1805点が寄贈された後藤家文書は県文化財指定を受け、県立歴史博物館に所蔵されています。

更地の横にあるのが高皇産霊神社。明治期になって合祀創建されたこの神社は押野後藤家が屋敷地の一部を寄進したものになります。次回はこちらを…

旅行日 2019.04.18


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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    富樫=勧進帳 安宅関 義経・弁慶の場面が思い浮かびますが、この富樫と関係はあるのですか
    前田家の栄えたのは、ここにも訳があったのですね 
    飴と鞭  子育てにも共通しますね
    ただし 良い飴と良い鞭でないと・・・ですが
    前田利常は、やり手だったのですね
    2019年06月19日 14:39
  • tor

    前回から間があいたのでまだ御多忙なのかと思っていました。
    超大作ですね。
    富樫氏登場で
    前回コメントしていただいた
    「芋掘り藤五郎」か…?
    と思ってしまいました。
    いつもとても参考になります。
    肥後細川氏は越中守として有名で
    細川忠興が考案した「ふんどし」を
    「越中ふんどし」という説があるほどですが…
    肥後守を名乗ったこともあるのですね。
    2019年06月19日 18:52
  • つとつと

    がにちゃんさん
    勧進帳の舞台での富樫のモデルは12代・富樫泰家になります。泰家は富樫家でも初の加賀守護になったのですが、義経を無事通したということで解任されています。
    義経記などでは実際には安宅関はすんなり通っていて、大野湊神社で待つ一行と離れて弁慶が単独で野々市の富樫館に乗り込み、勧進帳を読み上げて泰家の歓待を受け、正体を読んだ泰家は一行に酒樽や品を贈ったと云われています。高岡伏木の如意の渡し(渡し船)で、渡し守の不審で弁慶が義経を扇で殴ったと云われ、、これらが合わさって、勧進帳「安宅」の舞台になったようです。解任直後、泰家は平泉にまで出向き、義経と旧交を温めたと云われています。
    加賀藩の繁栄は武家を金沢に集め、開発・収税の農業地帯を十村役に任せたのが大きかったようです。ただこの政策は、都市と周辺地帯の温度差を強めたともいえます。金沢が周辺町村から合併を何度も拒否されたのは、その辺りに深層心理にあると云われています。
    2019年06月20日 07:33
  • つとつと

    torさん
    やはり、例の10連休の影響があって、ちょっと仕事が詰まってしまいました。来月は楽をできそうです。
    長い文になってしまいましたが富樫家については、元々興味があるのでついつい・・
    こちらでの芋掘り藤五郎のモデルはまちがいなく富樫家になると思います。さらに後藤家による長坂用水の大事業によって、ますます強まったのだと思います。芋掘り藤五郎の舞台の泉野・高尾地区にはしっかり富樫町の地名が残っていますから
    そうそう越中と言えば「越中ふんどし」がありましたね。起源説で一番古いのが細川忠興の考案説ですね。細川家は越中守として知られていますが、肥後熊本藩に移った際に、島津氏の薩摩守に対抗したかったようです。光尚だけは通年使用していますが、他の藩主は短期・臨時使用だったようです。肥後守については加藤清正の印象が強いですが、会津松平以外に本多忠勝の流れの播磨山崎の本多家が別枠の家柄で継承していて人気が強かったようです。
    2019年06月20日 08:03
  • yasuhiko

    藤原房前という名前、ちょっと
    懐かしい気がしました。以前、
    四国・香川の志度寺にお参りした際、
    都から来た藤原不比等と、土地の海女との
    間に出来た子が房前で、彼を藤原氏の跡取りに
    する事を約束させる代わりに、海女は
    竜王から貴重な宝物を取り返しに海に潜り、
    命を落としたという土地の伝説を知りました。
    伝説は伝説として、その房前の末裔が、
    加賀の土地で活躍してたんですか。
    そう言えば、歌舞伎の勧進帳に、
    重要な役で関守の富樫が登場してましたね。
    2019年06月23日 09:07
  • つとつと

    yasuhikoさん
    志度寺には行ったことは無いのですが、謡曲「海人」の舞台というのは聞いていました。13歳の房前が昔物語を聞いて母親の法要を行った物語と記憶しています。
    長屋王の変に係わった四兄弟としての印象が強いのですが、そういう純粋な思いを持った人という印象もあります。末裔の藤原利仁を開祖とするのは、越前・越中・加賀いずれも当たっています。とはいえ、富樫家の影響は加賀に色濃く残っています。
    歌舞伎の勧進帳の富樫は、ずばり富樫家12代当主・泰家がモデルになっています。小松では弁慶とともに人気の高い人物です。勧進帳では義経は完全にわき役ですね^^;
    2019年06月23日 11:51
  • ミクミティ

    加賀の富樫氏というとやはり勧進帳を思い浮かべますね。その後もずっと富樫家自体は守護として存在したのですね。とはいえ、室町時代から激動の入り組みがあって浄土真宗の勢力もと衰退していったのですね。
    その後も加賀支配の移り変わりの中、前田氏の加賀藩に組み込まれいったのですね。
    その加賀藩の裕福さが少しわかったような気がしました。
    2019年06月23日 20:00
  • つとつと

    ミクミティさん
    戦国大名の富樫より勧進帳の富樫の名が売れていますねえ^^;
    モデルの富樫泰家は、義経と共に義仲追討軍に加わったことから同情心が強かったようです。義経通過後は守護解任を受けて、変名・出家をして福島まで赴いたと伝わります。息子も承久の変で越中の北条軍を阻んでおり、兄弟・子どもたちも出羽・野音・三河に散っています。鎌倉期は役職に就けず不遇をかこっています。
    しかし、加賀で命脈を保ち続けた富樫家には加賀での潜在的な支持が高かったようです。
    加賀前田家はやはり地元から観れば、やはり外様で、住民のほとんどが真宗信徒で、親の仇とみられていました。やはり、金沢のみに籠った政策は在地勢力の協力なしではありえず、前田利常・綱紀の施策が功を得たと云えますが、富樫家の地を引く後藤家の存在は大きかったともいえます。
    現在はそうでもありませんが、能登、河北、加賀の一部は金沢を潜在的に嫌う傾向がありました。それを曲がりなりにも江戸期を通じて、三国を明治まで繋げたことは注目に値します。組み込まれたというより、前田家は遠慮しつつ金沢に存在したというのが正直な所です。前田家が明治に東京に去っても、さほどの混乱が無かったのは、解り易い証左です。
    2019年06月24日 02:25
  • 家ニスタ

    富樫氏は関東の人間からするとよくわからず、謎の大名ですね。
    一向一揆にあっさりやられちゃう人(笑)という、ばくぜんとしたイメージはあります。
    そのあとも家は存続していたんですね・・・、知りませんでした。
    信長は上総が親王任国であることを知らず、一時「上総守」を名乗っていたというのは、知られた笑い話ですね。
    2019年06月29日 15:02
  • つとつと

    家ニスタさん
    富樫家の末裔や広がりは奥州や東海にわずかにあるようですが、やはり加賀の名族といえます。上皇方として鎌倉幕府に睨まれ鎌倉期は不遇ですが、600年以上を加賀を主導した家柄はやはりただものではありません。
    一向一揆をただの農民一揆とみると痛い目に合いますよ。本願寺内部の紛争となった大小一揆は石山本願寺が後ろ盾となった北越前・加賀南の一向門徒・山之内衆(大一揆)VS加州三箇寺(小一揆)の戦いですが、能登・越中守護の畠山氏、越前守護・朝倉氏、加賀守護・富樫氏はこぞって小一揆に加担しています。それでも大一揆の勝利に終わっています。信長との抗争も10年以上、、それだけの力が無いと、、その真っ只中で孤立すれば富樫家も抗いきれなかったようです。
    信長の上総守・介に関しては、当時それだけ知らなかった田舎大名だったともいえますね。ただなんであんなに上総にこだわったかは興味がありますね。
    息子の信忠に秋田城介を名乗らせた辺りから、日本統治の先を見ていたように思います。信長末期の軍団長的存在だけでも、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀の日向守、丹羽長秀の越前守などはそう見えますね。柴田勝家の修理亮、滝川一益の左近尉・将監は令外官として侵攻する武将として観ていたようです。
    2019年06月30日 14:36
  • 藍上雄

     兎に角、つとつとさんの文章を読んでいて。感じる事は、富樫氏は、かなりのツワモノであるという印象です。功績を挙げては、敗者への手加減から地位を奪われたり、しているんですね。でも周囲が滅んでゆく中、生き残って行くというのは、かなりしたたかな武将だと思います。
     義経との関わりは、興味深い物が有りますね。やはり一緒に戦った経験のあるものに対しては、それなりの忠義を払うのでしょうね。
    2019年07月02日 23:04
  • つとつと

    藍上雄さん
    家ニスタさんが書かれていましたが、戦国期に一向宗にやられた大名としての印象が強く、全国的には無名に近いですが、その歴史は長く特に加賀の小松以北に行くと、富樫の名残が多く見受けられます。
    しかし、栄枯盛衰を地で行くような家でもありますね。
    2019年07月03日 18:25
  • 巣鴨介

    初めまして。戦国時代が好きな巣鴨介と申します。

    久し振りに余裕が出来て、ちょこちょこと調べている中で冨樫家の新しい記事が有ることに気付き訪問させて頂きました。私自身、出身でも無いのですが、戦国期の冨樫家に強い関心があります。守護として殆どが源平に由来する大名の中で異色の出自を持ち、日本史ではどうしても「百姓の持ちたる国」の元に終わったと思われがちな存在。
    つとつとさんは丹念に調べられ、解りやすい記事で感服しました。押野後藤家は結局、藩士としての身分にはならず、復姓されることもなく続いた訳ですね。しかし、その立場を考えれば、ある意味上級家臣並みの存在であり、十村肝煎として地域に根差していたことがよかったのかもしれませんね。いつか、野々市を訪れたいものです。

    ご存知かと思いますが、冨樫家に関しては畠山義綱さんが運営される『加賀冨樫氏野々市の歴史』が数少ない冨樫氏専門サイトと思います。なかなか新情報が出てこないのですが、情報交換などお世話になっています。よければ立ち寄られて下さい。
    http://nanao.sakura.ne.jp/kaga/t-top.html
    2019年09月11日 13:57
  • つとつと

    巣鴨介さん
    コメントありがとうございます。能登・加賀・越中を歩くとどうしても長い歴史に介在した富樫氏は外せない存在となって、僕のように訪れた場所から書き始める人間にとってはおぼろな姿で立ちはだかります。おかげですっかり富樫家には興味津々で資料を見るごとに読みふけることが多くなります。
    巣鴨介さんや戦国世界に興味を持つ方にはマイナーな富樫氏や一向一揆に興味を持たれるとは嬉しい限りです。
    ところが、戦国末期に武家としての姿が消えたこともあり、なかなか資料が少ないですし、かすかな所縁の地も点在しながらとんでもない場所ばかり。。本拠地の富樫館もまだまだ推定の地から脱出できていません。何せ金沢工大や住宅密集地の下ですから、いつ再発掘できることか。。奇跡のような堀の発見で場所の特定は近づいていますが。。
    押野後藤家も含めると富樫家は加賀地区に根付いた存在ですから、各地に所縁を残していますが、地名としては金沢南東部に集中しています。こちらへ来られる機会がありましたら、野々市ふるさと歴史館に立ち寄られてから、野々市・金沢の山間部や山裾を巡ると富樫家の幻影を追うには良い助けになると思います。
    畠山義綱さんのHPは、やはり数少ない富樫家や一向宗を取り扱っていて僕も大いに参考にさせてもらっています。自分が迷ったり、見逃している部分を再発見させてもらえる貴重な存在です。
    僕は白山市の松任地区でも東よりに住む関係で、野々市・金沢が複雑に入り組んだ場所で、これまた一向宗・富樫家、その後の丹羽・前田が複雑に絡み合って興味深い地です。ぜひ足を延ばしてみてください。
    2019年09月12日 20:19
  • 巣鴨介

    丁重な返信、ありがとうございます。

    元々、中学生時分、『信長の野望』のFC版をプレイしてから戦国時代にハマったありがちなファンです。いろいろ調べていく過程で注目は信長、秀吉、家康と言ったメジャーな武将ではなく彼らによって滅ぼされたマイナーな武将達へと移っていきました。
    その中で地元島津家と同じく守護大名からどれだけの家が戦国時代に生き残れた(家臣となって生き延びているのも含め)のかが特に関心を持った点でした。
    調べる中で一番関心を引いたのが冨樫家。教科書では政親を持って滅亡と書かれながら、実はその命脈は途絶えておらず、最後は信長との関係まであったと知った時は驚きました。『もしも』は歴史ではタブーですが(笑)、もう少し時期が恵まれていれば、小さいながらも織豊大名として残れていたものをと悔やまれます。当時畿内周辺含め、信長包囲網が形成されている中で数少ない信長支持を掲げていたのは特筆すべき点だと思っています。包囲網の一翼を担う本願寺との関係、加賀の支配権回復を考えれば、信長側に立つしかなかったとは思います。ただ、様々な状況を検討し、信長に賭けた晴貞の分析はなかなかだと思います。ちょっとファンゆえの肩入れが過ぎますが(笑)

    義綱さん(冨樫家サイト管理人)にも失礼かと思いましたが、つとつとさんのブログを紹介させて頂きました。一部ですが、私も以下のようなやり取りをさせて頂いております。
    https://531.teacup.com/97e1055/bbs/?page=13&

    今後とも、どうかよろしくお願い致します。
    2019年09月13日 16:49
  • つとつと

    巣鴨介さん
    巣鴨介さん鹿児島なんですねえ^^ちなみに僕の祖父は鹿児島の薩摩半島の先、枕崎の近くから出て来たのだそうです。僕の血の1/4は薩摩の血が流れているんですよ^^祖父は家を飛び出した挙句に分家問題でもめて実家とは疎遠だったようですが。。手紙や葉書のやり取りはしていたようですが、おかげでどんな所かは解らないんですが、、、若かりし頃、一度だけ近くまで行ったことはあるんですが、当時は場所も知らなかったので通り過ぎてしまってました。
    僕の歴史好きはといえば、、、元々、小中高校と学力は下から数えた方が早い劣等生でしたが、何故か地理だけは好きだったんです。こどものころ地図帳をいつも飽きずに見ていたようです。おのずと人並(以上ですかね^^;)に歴史も好きになって社会科だけは強かった高校時代を卒業して県外の学生時代に過ごした場所が、大阪の南河内の近つ飛鳥という二上山の西麓だったんですが、聖徳太子、敏達・用明・推古・孝徳の天皇陵、河内源氏の八幡太郎義家、西行法師の墓所が歩いて行ける範囲に、足を延ばせば、葛城・金剛で楠木正成の首塚の観心寺なども、おかげで学業ほったらかしで歴史好きに火がついちゃいました。前職が販売系の店舗管理で転勤(北陸四県+滋賀)が激しく移動ごとに土地の歴史や地理を調べていくのが習性で、今は逆に地元に縛られていますが、地理・歴史は今も変わらず好きが高じています。

    富樫晴貞が、一向宗による抑圧の不満がたまっていたのは確かですが、それでも強調しようと図ってはいたようです。
    織田信長に呼応したのは足利義昭からの御教書によることが大きかったようです。義昭は信長を頼る前は朝倉の一乗谷に住んでいましたから、朝倉氏と敵対関係でない時代、隣国の富樫家では当然ながら知る仲だったと思われます。そうそう一乗谷は田園が広がることもあって当時の地形のままですから、ある程度の発掘や復元が適度に進んでいてお勧めのスポットですよ。義昭の御所跡も特定されています。
    信長の第一次越前侵攻に合わせて挙兵したのはそれなりに辻褄や意義が合うと思います。実際、目と鼻の先の敦賀まで侵攻していましたから、浅井長政の裏切りが無ければ、十分勝算はあったと思います。ただ、浅井の裏切りで信長が撤退したために、当然攻められていた朝倉は敵になるし、本願寺も信長の衰退とみて信長打倒の旗を挙げています。真宗が嫌いでない僕にしても顕如の節操のない旗揚げは門徒を戦乱に巻き込む暴挙と思っています。この浅井・朝倉・一向門徒の共闘を策したのが義昭なんですから、晴貞にとっては完全に嵌められたという思いだったでしょうね。

    掲示板拝見しました。。僕は立ち寄る場所から、場当たり的に調べていくタイプで、うろ覚えを記録してしまう面が強いので再確認の参考で義綱さんのHPも立ち寄らせて頂いていました、、石川・富山県内を廻ると畠山家・富樫家・真宗・総持寺曹洞宗は避けて通れませんから、義綱さんほど専門的ではありませんが機会があれば僕もお仲間にさせてください。
    2019年09月14日 10:46
  • 巣鴨介

    晴貞の動向についての解説、痛み入ります。その後は唯一逃れた晴友を祖とする小杉家が前田家の家臣(100石クラスの藩士)として続いており、後藤家と共に江戸時代になっても血脈は繋がっていたことは興味深いです。時の運とは言え、大きな流れの中で翻弄される冨樫家は自分にとって強い関心の対象となり続けると思います。これからもいろいろお教えいただければ幸いです。

    ≫鹿児島の薩摩半島の先、枕崎の近くから出て来た
    そうだったのですか!私の父方は枕崎の出です。今は鹿児島市の谷山と言う地区に住んでいます。北方謙三『武王の門』にも登場する南朝方の谷山隆信が治めていた地域で、先、枕崎の近くから出て来た
    そうだったのですか!私の父方は枕崎の出です。今は鹿児島市の谷山と言う地区に住んでいます。北方謙三『武王の門』にも登場する南朝方の谷山隆信が治めていた地域で、懐良親王が九州上陸後最初の拠点とした場所が御所原として残っています(現在火葬場となっていますが…汗)。また伝承として豊臣秀頼が薩摩に逃れ隠れ住んだいた集落は木下と呼ばれ、伝豊臣秀頼墓もあります。
    もし父祖の地を訪れられる機会があれば、是非お声掛け下さい。

    以前のコメントにも書きましたが、以前より義綱さんとのやり取りで「なかなか冨樫家に興味を持つ人が少なくて残念…」と話していました(苦笑)。もし差し支えなければ、義綱さんのサイトにもコメント頂き、熱く(笑)冨樫氏について語り合える日を楽しみにしております!
    2019年09月16日 01:41
  • 巣鴨介

    追伸
    上記コメント、同じ文が被った状態でアップしてしまいました。
    大変失礼致しました。
    2019年09月16日 01:44
  • つとつと

    巣鴨介さん
    祖父が出てきた地は野間半島の笠沙になるそうです。祖父は10代で故郷を離れたせいか、あまり鹿児島の話をしなかったので、全くどんなところかしらないんです。ただ地図でみるとえらい距離を辿ってきたんだと思わされます。
    谷山城や谷山御所の懐良親王は、中国から日本国王と認められた最初の人物ですねえ^^足利義満は日明貿易のために、国王号を貰うのに四苦八苦、懐良親王の敵とみなされて、親王の死後まで目的が果たされなかったそうです。南朝として最後まで抗い続けた人物として、太平記好きな僕にもなじみの多い名前です。南北朝と云えば富樫高家が尊氏の九州落ちに同行したと云われています。
    豊臣秀頼の谷山の隠れ家はこぼれ話では聞くのですが、たしか真田幸村も一緒に落ち延びたと云われていたような。。真偽は解りませんが島津家は宇喜多秀家を匿っていましたから、否定しきれませんねえ。。宇喜多秀家は加賀前田家の豪姫の旦那さんで前田家は明治まで八丈島に援助米や金を送り続けていました。ついでに、二人の間の男子は秀家と八丈島に送られていますが、娘二人は金沢の豪姫と共にいましたが、妹の方は秀家逃亡中の逢引で出来たこと云われています。
    是非寄らせて頂きますねえ^^/

    2019年09月16日 13:13
  • 巣鴨介

    書いて頂いたとおりです!つとつとさんが、いかに歴史がお好きなのか強く感じます。ただ、鹿児島も廃仏毀釈を強烈に実行した地域。島津家の菩提寺すら破壊してしまったぐらいですから。現存する史跡が少ないのが残念ですが、

    僕も野々市を訪れ、じっくり冨樫家を感じる旅がしたいものです!
    2019年09月17日 19:28
  • つとつと

    巣鴨介さん
    確かに明治の廃仏毀釈はいろいろな影響を与えていますねえ。。こちらでも、山岳信仰の白山や石動山では多くの石仏や寺院が破壊されています。石動山の天平寺などは墓まで破壊されて今でも廃墟のようになっています。
    そうでしたか、鹿児島は戦国から江戸期は真宗を排除していましたし、宗教には敏感過ぎたのかもしれませんねえ。。少し事情は違いますが、前田家は明治に神道に宗旨変えをしたので、墓上の墓標や仮屋、灯篭などが全て取り払われています。おかげで土饅頭のような古墳系に入り口に鳥居が建つだけで、一人で歩くと不気味なものがあります。
    富樫家の遺跡はあまり多くはありませんが、目ぼしいものは険しい山中が多いので、それなりの草叢や洞窟に入れる格好が必要なので、かくごしてください^m^
    そうそう、6月にアップした光徳寺跡も富樫家が絡んでいます。富樫政親を滅ぼした一向宗勢力の中核の一つになった光徳寺も富樫家の血が始まりと伝わっています。よかったら読んでみてください。https://72469241.at.webry.info/201906/article_40a4c9ca64.html
    2019年09月18日 10:07

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