押野高皇産霊(たかみむすひ)神社

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高皇産霊(たかみむすび)神社神社沿革

霊峰白山を源とする手取川の支流・木呂川の清流に恵まれ、周辺の何処よりも早く居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から四千年前の縄文式土器群が大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野荘地頭・富樫家善の館が建ち、大野荘湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。
押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期に多聞天社・国常立社・比咩社と改められている。明治期には旧高皇産霊神社と清水神社の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治四十四年に建立したものである。

旧高皇産霊神社 祭神 高皇産霊尊
押野山王社は当社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(押野霊園辺り)の国常立社を合祀したとみられる。
清水神社 祭神 天照大神
比咩社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村長が「宮前」姓を名乗る由来になった。
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押野居住の十村役後藤太兵衛(一六一四~一六七三)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。同用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ三十六万人が動員された。江戸初期の野田山や野田山麓は、持ち主の定まらない山地であったが、江戸中期に村々の飛地に細分されたことを示す絵図がある。これらは、長坂用水等の開発に従事した村々へ、動員数に応じて分譲が行われたと考えられ、同図の三小牛地区に、押野の飛地として押野山が描かれている。
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清水神社へ旧高皇産霊神社を合祀し高皇産霊神社に改称することの許可を得た氏子の村民は、明治四十三年十月に共有地の押野山を売却した。その売却益と村民からの浄財とを合わせて建設費とし、新設したのが現在の高皇産霊神社であり、敷地は、後藤於兎吉氏が寄進した。村内の融和を図るため、社殿を集落の東側に置く代わりに、向きを西にしたことが伝わる。新築工事は同年末から開始し、明治四十四年八月十八日に盛大に竣工慶賀祭を挙行した。
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荘厳な現社殿は、押野地区が幾星霜を重ねて歩んだ歴史の象徴であり、長坂用水開発等に従事した押野村民の労苦の結晶でもある。
平成の大修理を完了したのを機に、町内の平和と安寧を祈念しつつ、ここに改めて神社沿革碑を建立して永く後世に残すこととする。

平成二十七年十月十一日 高皇産霊神社奉賛会


画像    押野高皇産霊神社 狛犬 昭和48年(1973年)奉納

江戸期以前には押野の地には山王社(大山咋神)が現在地にあったと云われています。ただ山王社の正確な位置や詳細は解っていません。江戸初期に白山比咩神社が記して加賀藩に提出した式内社の存在を綴った「加賀式内等旧社記」に載っているだけです。
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現在の高皇産霊神社の祭神は、高皇産霊尊・国常立尊(くにのとこたち)・天照大神で大山咋神が含まれていないのも謎です。山王社の存在自体を疑う人も多いようです。ただ、平安・鎌倉期の押野庄は京都妙法院の荘園になっていました。妙法院は天台三門跡(青蓮院・三千院・妙法院)のひとつで、比叡山を主とする山王社や日枝社が在ったというのは不思議ではなく、在って当たり前ともいえます。
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江戸期には押野村は三集落に分かれていたようで、東の宮(観音社・比咩社、天照大神)西の宮(神明社・多聞天社、高皇産霊尊)南の宮(春日社、国常立尊)の三社に分立していました。
画像押野高皇産霊神社 
旧清水神社灯篭(春日式)


江戸後期に南の宮が西の宮に合祀されて旧高皇産霊神社、東の宮が清水神社と改称されて明治を迎えています。

明治20年頃に火災により清水神社が焼失。旧高皇産霊神社も同時期に焼失したために、現在地付近に移り、用水を挟んで東西で両立したと云われます。
画像     押野高皇産霊神社
     旧高皇産霊神社灯篭
            (神明式)


両神社氏子から別個に建設願いが出されていましたが、合祀令により明治44年(1911年)現在地の清水神社に旧高皇産霊神社を合祀する形で、社殿・境内・虫送り太鼓などを一新・整備して高皇産霊神社が竣工されています。
画像 高皇産霊神社 神殿
元々は単独で建つ神殿でしたが、平成20年に左の白壁、クリームのパネル土台の幣殿・渡り廊下が増設されて拝殿と繋がりました。


竣工当時は、神殿と拝殿が独立する分離型でしたが、その造り・門扉や光背の彫刻の精緻さ、拝殿・神殿の外壁の彫刻装飾の種類も多種多様です。鬼瓦の巨大さや逆さ狛犬を軒先に配するなど、旧両神社の名残を配したようで、これだけ凝っていると相当な高額な造りと想像されます。町の神社としては不釣り合いなくらいの神社彫刻の集合体、神社好きにはたまらない造りです。まだ、拝殿内を観たことが無くて、一度は見たい拝殿の一つ。。
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境内用地は村長であり、11代押野後藤家当主の後藤於菟吉(おうきち、幸貫)が自宅敷地の一部を寄進提供していました。そしてこの豪華な社殿造りに投入されたのが土地売却益でした。

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前回ブログ押野後藤家3代・太兵衛(家泰)が開削した長坂用水に起因します。長坂用水の開削には延べ36万人の人員が投入されています。この土木事業に従事したのは近在の住民たちが従事し、十村役の後藤太兵衛の押野村からも多くの人員が従事していました。この用水によって多くの村が誕生したのです。また前田家や金沢住民の墓所の野田山の奥地は未開地であったために、各村の従事者の人数によって、報酬として土地が分譲されていました(飛地)。押野村は三小牛地区の押野山20.7haが押野村籍となっていました。この押野山と周辺の土地を売却した金でこの神社の社殿を建てたわけです。
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画像 高皇産霊神社 拝殿彫刻
上:向背懸魚の鳳凰 画像にはありませんが左右に花柄が配されています。
中・下:向背正面妻透かし彫り 表裏 画像では解り難いですが、表が龍、裏が獅子が描かれています。。


押野山周辺の押野村領、面積は20.7haで買取先は陸軍省、地価は9269円(現在価格で1.8億~2.3億円位?)、この押野山の土地平面図面と土地台帳が法務局や県立図書館に残されているそうです。現在の押野山は陸上自衛隊金沢駐屯地演習場内の真ん中辺りと云われますが、位置・詳細ははっきりしていません。
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画像 高皇産霊神社 拝殿彫刻
上:向背木鼻の象頭嵌
右:拝殿四隅 唐獅子頭 竜頭 木組細工


それにしても、山一つを売って神社の社殿を作ったなんて、なかなか聞かない話ですねえ。。
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左:高皇産霊神社 拝殿北側 縁側
左下:高皇産霊神社 拝殿南側 縁側
下:高皇産霊神社 拝殿前面
拝殿扉の神紋は「八角鉾輪宝」。ちなみに輪宝はインド発祥の投擲武具が起源で、その後転輪聖王の七宝の一つとして「四方を転がり大地を平定する武器、人の迷いや悪の根を断つ武器」、仏教では法輪と呼ばれ「説法が心の煩悩を破ることの譬え」として日本に伝わり、説法を転法輪と呼ぶ由来になっています。
扁額は旧高皇産霊神社の扁額を引き継いで使用しているそうです。扁額や奉納額に新しい額ふとんを使用しているのは神社では久しぶりに見ました。

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江戸時代、野田山を含めその奥地の権限を持っていたのが大乗寺。永平寺を去った徹通義介(永平寺三世)を迎え野々市に大乗寺を開創させたのが富樫家14代・富樫家尚。その後、富樫家は大乗寺を菩提寺とし供田や献金などの保護を与え、大乗寺の基礎を築いたと云えます。家尚の次子・家方は能登の永光寺本堂を建立しており、曹洞宗総持寺派にとっては富樫家は開祖・寺院共に大恩人ともいえる存在でした。そもそも徹通義介は富樫家の出だとも云われています。

子孫の後藤太兵衛の長坂用水の開削。押野村村民の開削参加。野田山を墓所にし、加賀藩が重視した曹洞宗寺院・大乗寺に係わる水路の整備は、大きく評価されていたようで、前述の労働人数割とは異なる面積が押野村には分譲されていました。
御先祖様が残した大きな遺産がこの神社の社殿になったのです。神社の総工費は1万余円だったと伝わります。押野山の売却益全てをつぎ込んだ押野村の心意気が伝わります。
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表参道の道幅に沿って、狛犬の手前に橋の欄干があります。
通常は神社にある池や川に架かるアーチ形の石橋は太鼓橋・神橋と呼ばれています。橋が人間界と神界の分かれ目で、この橋を渡ることは日常からの離脱を意味しています。
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高皇産霊神社の橋は、元は本当の橋でした。社務所側は平坦に見えますが、道路側の方は蓋石を施した用水路(小川)の暗渠だというのが解ります。黒田用水と呼ばれた水路・小川で押野村を東西で二分する境界線だったそうです。元々、旧来からの押野村は西側にあり、東側は戦国末期以降から開発された新興地だったと云われます。
黒田用水が出来たのがいつかははっきりは解りませんが、西の宮に南の宮が合祀された江戸後期あたりではないかと思われます。神社というのは一部落に一社というのが部落・地区の目安になりますから。。。

川や山稜は部落・集落の境界となることが多いものです。押野村も例にもれず、この小川を境に東西に部落が分かれて、何事にも東西に分かれ反目・係争や問題が多かったようです。

明治20年頃に両神社が焼失して川を挟んだ位置に仮屋・祠堂が置かれたわけですが、現在の社殿位置に清水神社が東向きに、旧高皇産霊神社が遷座してここからすぐ近くで西向きになっていたわけです。実際、焼失後の両神社は国・県に同じ場所で別々の社殿建築の計画書を提出し、建築許可を求めていました。国にして見れば、神社の統一を進める神仏分離、合祀令を推し進めている状況ではウンと言うはずがありません。10年以上を掛けた協議の末に両神社の合祀が決定されたわけです。神社西側に押野川が新設されたことも大きかったようです。

前述の様に後藤家が境内地を提供し、広い境内地に前述の売却益をもって高皇産霊神社として清水神社跡に社殿を建立したわけです。祭神を三柱としながら、高皇産霊尊を名に冠した理由は不明です。推測の域を出ませんが、古事記などから読み解けば天地開闢前に現れた造化三神(アメノミナカヌシ・タミムスヒ・カミムスヒ )の一柱・高皇産霊尊、天地開闢時に姿を現した神代七代の最初に現れた国常立尊、神代七代では最後に現れたイザナギから生まれた天照大神。この順序を重視したのかも。。ただ別説では伊勢神道は根源神(天之御中主(アメノミナカヌシ)神・国常立尊・豊受大神)の一柱、吉田神道ではアメノミナカヌシ=国常立尊で、大元尊神としていますから、一概にはそうだとは言いづらいのですが…

とはいえ、やはりしこりがあったために・・社殿は東側の地に立て、表参道は西向きにするという処置が施されていました。また、旧高皇産霊神社・清水神社双方の名残を残すために、走法の装飾が施され、他の神社よりも重厚ながら派手な神社に仕上がっています。
神社が一つになり立派な社殿となって、二日間に渡る祝賀式は巫女舞など多くのイベントが行われたと云われ、村民の結束が深まり、一つの村にまとまったと伝えています。

昭和以降、神社北側の押野の横断道路が拡張されたために、一車線分、境内が削られ創建当時より狭くなっていますが、境内地はよく整備されており、住民の信奉を窺えます。

高皇産霊神社境内に入ってすぐ左手にある顕彰碑「東京相撲 東関脇 響升市太郎

野々市市展示資料より抜粋
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東京相撲で活躍した押野出身の力士

響升市太郎(ひびきます いちたろう) (安政6年(1859)~明治41年(1908)?)

響升市太郎は、東京相撲で活躍した力士です。本名は清水市太郎といい、1859年(安政
6年)押野村に生まれました。
身長172㎝、体重114㎏の恵まれた体格をもっていたことで、相手の胸に右手を当てての強烈な押し切りを得意としました。豪快な性格のうえ酒を好み、酒量は6升(約10.8 ㍑)にも及んだとされています。
1892年(明治25)には関脇まで昇進しましたが、1899年(明治32)に引退しました。顕彰碑の碑文では38歳で病死とありますが、1912年発行の『加越能力士大鑑』では、「4年前に50歳で死亡」と記しています。

関脇 響升顕彰碑
響升が亡くなった後、押野村の有志や消防組が、郷土出身の力士を後世まで残すために建てた石碑です。石碑は、長年の風雪などによって損傷が著しくなったため、1972年(昭和47)押野地区の有志によって、新しい顕彰碑が建てられました。この両石碑は、現在押野の高皇産霊神社境内に並んで建っています。


以前にも書きましたが、石川県は相撲が昔から盛んで、数多くの興行相撲や神事相撲や相撲大会が行われてきました。現在でも金沢卯辰山で開催される高等学校相撲金沢大会は103回を迎え5月に盛大に行われていました。他にも古代から行われてきた羽咋神社の唐戸山神事相撲、明治から続く宝達志水の蓮華山大相撲、七尾愛宕山の明治記念相撲などの神事相撲も続いています。最盛期に比べれば減りましたが公式相撲は年に30の大小の大会が開催されています。大相撲の人気も高く郷土力士への応援も熱いものがあります。現在の関取、遠藤・輝・炎鵬に熱い視線が集まっています。各市町村には名力士の顕彰碑が存在します。関脇・響升顕彰碑も押野村の郷土出身力士の顕彰碑になります。

古代からいろいろな形態を辿り、江戸後期に職業相撲が開催されるようになり、明治には大阪・名古屋・東京相撲などという勧進相撲組織が置かれていました。しかし文明開化、裸体禁止令により伝統興行が不振で採算が取れず、天皇上覧が行われた東京相撲・大阪相撲が後期にはかろうじて生き残ったという状態でした。大正14年(1925年)東京・大阪相撲が合併して現代の大相撲となって人気が復活して来たという経緯があります。
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響升(響舛)は23歳で京都相撲で初土俵、東京相撲に移り相撲界混乱の中、30歳で新入幕、34歳で東関脇に昇進、40歳で引退しています。幕内在位20場所。文中の38歳死去説は、待遇不満から長期休場したためと思われます。
同時期の有名力士には、番付に地位として初めて載せられた16代横綱・西ノ海、17代横綱・小錦(初代)、大関・朝潮(初代)など後に四股名が受け継がれる名力士がいました。

野々市の展示資料は、平成24年(2012年)に野々市市郷土資料館(旧魚住邸住宅)の企画展「近世・近代の野々市の人物」で展示されたものです。その際には現役当時の錦絵が展示されていました(石川県立博物館蔵)。

旅行日 2019.04.18

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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    彫刻も立派な神社ですね
    カールクリクリの狛犬さん 素敵です
    江戸時代~明治にかけて172cm 114kg この時代にはとても大きな方だったのですね
    関脇まで行かれたのですね  38歳と50歳では死亡時期が相当ずれていますね

    2019年06月25日 17:13
  • tor

    立派な神社ですね。
    私もがにちゃんさん同様
    ゴツゴツ瘤のような巻毛に目が行きました。
    まだ新しいですね。

    神社といえば「千木・鰹木」のイメージですが
    最近私も屋根で逆立ちしている狛犬や鯱に出会います。
    不思議に思っています。

    彫刻も立派ですね。
    2019年06月25日 19:13
  • つとつと

    がにちゃんさん
    石川の昭和期から平成の狛犬はこの形が多いんですよ。確かにカールでクリクリ^^;
    響舛は当時は大型力士になるそうです。現代は大型力士全盛で、小さく観られますが。。でも、得意技はウッチャリ、待った博士の異名があるほど、器用系だったみたいです。38歳の時に部屋から脱走して1年以上行方不明で死亡説が流れたようです。実際には復帰して40歳まで関取だったようです。ちょっと個性的な力士のようです。本名が清水さんで神社の近くの生まれのようです。
    2019年06月26日 09:44
  • つとつと

    torさん
    この狛犬は昭和47年奉納のものですが、県内の昭和から平成にかけての狛犬はこの形態が多いようです。昭和初期まではスマートなものが多いんですが、戦後はこの形が主流のようです。県内には子供を押さえる姿は少なくて、逆に珍しいかも
    逆さ狛犬と同じくらいの明治後期の屋敷や門塀では見かけるんですが、神社の屋根に置くというのはこちらでも珍しいですねえ^^この神社も明治後期のものですから、逆さ狛犬の影響は強かったと思いますが、逆さ狛犬の製造禁止の後ですから、河原で代用したのかもしれません。
    2019年06月26日 09:54
  • yasuhiko

    あまり詳しくないんですが、
    高皇産霊を祀る神社って、そんなに
    多くないですよね。複数の神社が一つに
    なって生まれた神社という事ですから、
    主神として祀るようになったのは、
    そんなに古い事では無いかも知れませんが、
    その辺りの経緯に興味を持ちました。
    というのも、最近の研究によれば、7C以前の
    大和朝廷では、天照大神で無く、高皇産霊が
    皇祖神だったのではないかと推測されてるからです。
    狛犬、石橋、顕彰碑など、神社に残された
    遺物から、色んな歴史を明らかにする事が出来ますね。
    2019年06月29日 11:35
  • 家ニスタ

    炎鵬って石川県出身だったのですね。
    大型力士全盛の時代に、これだけの小型力士が活躍するのはすごいことですね。
    舞の海さんらが活躍したころより、さらに難しくなっていると思いますが・・・。
    2019年06月29日 15:09
  • つとつと

    yasuhikoさん
    よくご存じですねえ^^;造化三神は古事記などではちょこっとしか登場しませんからね。どうしても、少なくなってしまうんでしょうね。三神が民間で信仰を受けるのは近世になってからのものが多いようです。ただ三神では天地開闢や天孫降臨など大事な場面に登場するのが高皇産霊で、天孫降臨では天照大神に命令してますから上位に置かれます。逸話を読むとゼウスに似た行動が見られます。
    天孫降臨のニニギの妻は高皇産霊の娘ですから、直接的に皇祖神といって良いと思います。古代から中世に天皇家に祀られた八神殿にカミムスビと並んで上位神ですからね。個人的意見ですが、伊勢神宮に祀られている天照大神が伊勢に落ち着くまでの遷座の経緯を観れば、皇祖神とは見えませんし、、崇天皇家の天照大神への扱いも、崇神天皇の大物主への扱いと同じ、ちゃんと祀らないと祟る神様なんですねえ。大国主・大物主・天照に共通する言葉に和魂(にぎたま)と荒魂があるように、善と悪の顔を持つ別系統(別系統)の神で、鎮魂の神(豪族)だと思われます。
    神社には地元の信仰場所であり、集会所でもあるなど、地元誌を知るには最適な場所になります。
    2019年06月29日 19:53
  • つとつと

    家ニスタさん
    炎鵬は元大関・出島以来の金沢出身の幕内力士、七尾から移った輝と同学年で同じ金沢の西南部中学出身。この二人の代に中学相撲で団体優勝しています。中卒と大卒、体格の違い、まったく対照的な二人ですが、、、、面白い経歴ですねえ^^;
    炎鵬の体格は、明治の頃なら十分大きな体格なんですが、今はこの身体で小さく観えちゃうんですから。。。相撲世界も隔世の感がありますねえ。でも、炎鵬の太腿を観たら物凄い@@下半身があれだけ鍛えないと幕内などとてもとても何でしょうが、あんな凄い脚は若の花以来かも^^;
    2019年06月29日 20:26
  • まだこもよ

    「酒を6升飲む」・・・・どう考えても無理!
    2019年07月01日 07:11
  • つとつと

    まだこもよさん
    僕にもとても無理ですねえ^^;コップ一杯で真っ赤化ですから
    実際問題、飲み過ぎで身を崩したと云われています。やはり、酒はほどほどに。。
    2019年07月01日 12:21
  • 藍上雄

     押野高皇産霊神社の狛犬は、石獅子との両方の特徴持っているような気がします。顔は参拝に来る方を向いていますね。
     歴史はそれほど古くはないようですが、龍や象・鳳凰の彫り物は、秀逸ですね。
     相撲、少し前は、北海道出身の力士沢山いましたが、最近はすっかり少なくなりました。(もしかしたら、相撲をやる人は、不良との評判が広まっているのではと思います。)力士さん早死にする人割と多いですね。
    2019年07月02日 23:24
  • つとつと

    藍上雄さん
    石川の昭和期後期や平成の狛犬には、筋肉型が多く見られますが、全体に似た物が多くなります。僕としては明治大正の物が好きなんですが、、、
    僕らの年代にとって横綱と言えば、北海道出身が多かったですねえ、覚えてるだけでも大鵬・北の富士・北の湖・千代の富士・北勝海・大乃国、、一時代を築いた力士ばかり、、学生力士が増えてきたせいか、たたき上げが減った影響かも
    2019年07月03日 18:17

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