津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。
そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。
というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。
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まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。
実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。

前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。

江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃して扶持米制度に切り替え、家臣団を大都市圏に集め、身分の固定化がなされていきます。
また江戸期の長期間においては断絶や処罰での減俸、分家による割譲などで変遷が起こります。草創期の高山右近(1万五千~2万石前後)・中川光忠(17000石)のように加賀藩を去った人物や、利家の末弟・前田秀継・利秀親子(木船・今石動40000石)が無嗣断絶、利長時代にも高山右近と双璧とされた篠原一孝(15650石)のように無嗣断絶(篠原本家(織部家)4000石は弟・長次(実は利家の隠し子)が相続していました。)が、利家時代に大名格として叙爵を受けた高畠定吉家・神谷守孝家のような分家減俸、山崎長徳家の様に罰則的な減俸処分を受けたものなど様々、、とはいえ、それでも藩政を主導した人持組主要家が多数残っていました。
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(「諸頭系譜」「加賀藩組分侍帳」(文化年間(1804年~))の数値を参考)
加賀藩は表高102万石(実勢130万石)の大藩だったため、殿様とは別に一種の合議制組織を持って対応していました。
加賀藩の家臣団と言えば執政とされた八家(年寄中)が挙げられます。元禄3年(1690年)に制定された人持組頭とも称されますが、加賀藩八軍団の長だったと云えます。石高順(江戸期間で変動があります)で本多家(50000石)・長家(33000石)・横山家(30000石)・前田対馬守家(18000石)・奥村河内守家(奥村宗家17000石)・村井家(16500石)・奥村内膳家(奥村分家12000石)・前田土佐守家(11000石)になります。この八家の組下の1000石以上の人持組68家から当時の能力・家格などによって家老職数名を選出して、共同合議体制を持って藩政を進めていました。
人持組の下に、役職に就く平士1202家(1000石以下、役職で100~300石)、平士以上が上士になり、その下に下士として与力291家、御歩(かち)432家・御歩並397家、足軽約4000家の家・土地持および藩士分5319家が存在しました。更にその下に小人・中間が1000家程いました。ちなみに御歩並というのは儒者・医師・算用者・料理人・大工など非戦闘員になります。これだけの家が金沢を中心に、役職(城代・代官・奉行・火盗改など)によって小松・七尾・高岡・富山・魚津などに配されたわけです。

八家の詳細
本多家(5万石)・・・家祖・本多政重。徳川家康の参謀として有名な本多正信の次男になります。17歳で徳川秀忠の乳母・大姥局の息子を斬殺して徳川家を出奔しています。その後、大谷義継・宇喜多秀家・福島正則・前田利長・直江兼続・前田利常と転々としていました。西軍主力の家を転々としたせいか、スパイ説が飛び交っています。しかし、父・正信、兄・正純とは違い武辺・実直豪胆の評価が高く諸大名から引く手あまただったと伝わります。本多政重の詳細を書き出すとブログ記事が2.3部作れるほどですから、またの機会に。。。前田利常草創期からの活躍は加賀藩臣では3万石に始まって加増により7万石を領しており、寛永の危機回避の加増6万石は辞退しています。受けていれば陪臣では異例の10万石越えになっていました。
長家(3万3千石)・・・家祖・長連竜。長家は以仁王の挙兵にも参画した長谷部信連を祖にする国人領主で、能登畠山氏の家臣でした。連竜は上杉謙信の七尾城攻めにおける唯一の長家の生き残りで、戦後は織田家に仕え、前田利家の与力大名として戦功をあげてきた家柄で、利常時代まで加賀藩では唯一の所領地持ちの大名格の家柄でした。綱紀時代に一揆により所領を藩に召し上げられ、同額の知行米と屋敷地を得て金沢に移っています。
横山家(3万石)・・・家祖・横山長隆。長隆は越前府中時代に前田利家に旗奉行として仕官。しかし賤ケ岳で討ち死。実質の家祖は、父と同時期に前田利長に仕えた、子の長知(ながちか)になります。長知は利家死後の徳川家からの圧力に奔走し、東軍加担に方針を固めたことで知られます。明治維新後、尾小屋鉱山開発などで北陸の鉱山王として一時代を築いた家です。
前田対馬守家(1万8千石)・・・家祖・前田長種。長種は前田与十郎家という前田総本家の血筋になります。利家が能登領有後も尾張の蟹江城・下之一色城を本拠としていましたが、小牧長久手の役で敗れ、能登の利家を頼り家臣団となっています。利家は長女・幸姫を娶せて厚遇しています。利長の城代として守山城・小松城代を歴任、利常を養育したことで知られます。元々、前田家本家筋ということで、八家では唯一野田山以外に墓所・菩提寺を置く特権を得ていました。
奥村宗家(1万7千石)・・・家祖・奥村永福。荒子前田家に代々家老として仕えた家柄で、織田信長に依る前田利久から前田利家への家督交代では、利家の荒子城入城を拒否し、利久と共に退出した硬骨漢。対佐々戦では末森城を死守。利長・利常初期の混乱期には藩の最長老として活躍。
村井家(16500石)・・・家祖・村井長頼。荒子時代から前田利家の最側近・護衛隊長・先鋒として活躍。大の家康嫌いでしたが前田利家死後、芳春院が江戸屋敷に赴いた際には同行しています。野田山墓所では前田利家と同高度に建つ家臣墓は前述の奥村永福と村井長頼のみ。
奥村内膳家(1万2千石)・・・家祖・奥村易英(やすひで)。奥村永福の次男で末森城の合戦から数多くの戦功を立てています。1000石の分家から戦功を重ねて7500石、大阪冬の陣で真田幸村に名を挙げさせた真田丸の戦いで唯一の戦功をあげた人物。戦後、家老になり、父の死後に3300石を相続して万石取りになっていました。
前田土佐守家(1万1千石)・・・家祖・前田利政。関ケ原不参加で改易された前田利家の次男。浪人後は京都で悠々自適、孤高で生涯を終えています。実質の家祖となる息子の直之は、幼少期から利政の母・芳春院に引き取られ養育されていました。元服後、前田利長に2千石で仕えています。芳春院の死後、芳春院の化粧料(7500石)を相続しています。加賀前田家の創業者である前田利家・松(芳春院)の血を引き継ぐ唯一の男子直系の家として、八家としては最少の家禄ながら、筆頭重臣(八家筆頭)の家柄とされていました。

八家は石高を見ればわかるように万石取ばかり、他藩でいう大名格の知行取になり、実際に幕府や朝廷からは陪臣としてではなく大名並として遇されていました。この八家の組下ながら加賀藩人持組について前述で1000石以上と大雑把に書きましたが、八家に対しても家格や石高でも見劣りしない家がいくつも存在しました。
石高が1万石を超える有力家としては、幕末まで続いた家としては今枝内記家(民部家14000石)・津田玄蕃家(10000石)・本多刑部家(図書10000石)・横山蔵人家(10000石)などが挙げられます。これまた他藩では大名格並として待遇されていました。

人持組で1万石を越える家も多士済々です。

今枝内記家(14000石)・・・家祖は今枝重直(宗二)。美濃出身の重直は17歳で織田信長旗下として姉川の戦いで戦功をあげて台頭、長島・本願寺の合戦でも戦功をあげています。小牧長久手では織田信雄方として参戦していますが、池田恒興軍への偵察時に池田軍中の妹婿・日置(へき)忠勝に狙撃を受けていますが、親交は変わらず。。今枝家と備前の日置家は江戸期の間、親密な婚姻関係を続けています。ちなみに跡を継いだ直恒も日置忠勝からの養子になります。豊臣政権では豊臣秀次に5000石で仕えていましたが、秀次切腹後に浪人、前田利長に請われて北陸に7千石で移っています。
明智光秀を始め、親交のあった武将も多く、茶の湯・謡曲・和歌にも造詣が深く、将軍・秀忠・家光にも直接呼出しを受けて大名陪臣ながら目通りを許されています。芸術面の高さは金沢随一と定評があり、金沢に謡曲が流布されたのも秀忠との親交から重直が広めたと云われています。ちなみに今枝重直の屋敷は金沢文化の発信源・金沢文化ホールの地になります。京都左京の蓮華寺は重直(宗二)の隠居所で、重直死後に今枝家が草庵跡に寺院を建立したものです。
また後継の直恒は4代藩主・光高、5代・綱紀と親子二代の守役を務めたことで知られています。

本多図書家(10000石)・・・家祖・本多政冬。八家・本多宗家二代・本多政長の四男。5代藩主・綱紀に3千石で仕えていましたが政長死去の際に8千石を相続しています。後に、政冬の末子・政行が本多宗家6代を継いでいます。

横山式部家(10000石)・・・家祖・横山正房。実質は正房の父・長治。非常にややこしい相続の果ての家。。藩祖・前田利家の近習を努めていた神谷守孝(12000石)が元になります。神谷守孝は前田利家の近習を務め、利家死後には末子・利貞の守役。隠居後には高野山に入り利家の墓を建てたことで知られます。正室も前田利家の外孫・亀姫(次女・簫姫と中川光重(23000石)長女)と加賀藩重臣でも重要な家でした。守孝と亀姫の娘・海元院に入り婿して3000石を継いだのが神谷長治(横山長知三男)でした。ところがヤヤコシイのは長治は、伯父・横山長秀の死去の際に、横山家分家として7000石を相続していたのです。要は名門二家を相続したわけで、どちらも捨てられず神谷・横山両家の姓名を独りで使い分ける二家当主となったのです(正確には神谷家は正室と両相続)。長治死後に嫡男が横山姓、弟が神谷姓を継いでいます。

そして、この屋敷住宅の主人だった津田玄蕃家(10000石)
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津田玄蕃家の家祖は津田正勝。正勝の父は斯波義銀(津川義近)で尾張国最期の守護になります。兄弟には小牧長久手の合戦の原因となった織田信雄が斬った三家老の一人・津川義冬、信濃飯田城主・毛利長秀(秀頼)がいます。津川義冬・毛利長秀は斯波義銀の弟として津田正勝とは叔父・甥の関係とも云われています。この別説では、兄弟には中川重政・津田盛月・木下雅楽助が兄で四男とされています。どちらにしても元は尾張守護家の直系になるわけです。
加賀藩開祖の前田利家の主君はもちろん織田信長です。織田信長の家は尾張守護代の陪臣の家柄。守護代・織田信友を守護家反逆の名目で滅ぼし、後には斯波家を追放して(後に和解)、守護・守護代を尾張から排し、織田信長は尾張統一を果たしたのです。後に斯波義銀は織田信長と和解条件として、娘を信長の弟・信包(のぶかね)に嫁がせ、織田親族となり名を津川義近と改めて臣下となり、織田親族の貴種とされていました。

ちなみに津田姓は織田家では庶家の有力家に与えられる姓と云われています。

こちらは信長公認の伝承になりますが、織田家の発祥地(現・福井県丹生郡越前町織田)⇒ 織田劒神社

織田家は平氏を名乗り、家祖は越前に逃れて神官家に養子となった平親実(平重盛の孫・資盛の子)としています。親実の子孫・常昌が斯波家家臣となり、同地の名をとって織田姓を名乗ったとしています。ですから、織田の読みは「おだ」ではなく、正確には「おた」になります。ですから、織田信長の読みは「おたのぶなが」が正確な読みなんだそうです。

平親実が京都から越前に向かう途中、しばらく隠れ住んだのが近江国津田庄(現・近江八幡)で、ここで変名として津田姓を一時名乗ったとしています。一応、織田家では由緒ある姓になります。
代表的な所では、織田信長の実弟・信行の子・津田信澄がいます。信行は何度も兄・信長と対立、謀反の兵を三度も起こしています。最後には信長自らの手で暗殺しています。信長にとっては初期の宿命のライバルであり、自ら手に掛けた実弟になります。

ところが信長は、この信行の嫡男・信澄の才幹を愛し、京での御馬揃えでは実子の信忠・信雄・信孝の次に据えており、後継候補第四位に置いていたのです。津田正勝が津田姓を名乗ったことは、信長の評価が高かったことを示します。
立場が逆転したとはいえ、津田正勝から見れば織田信長は家臣筋の陪臣からの成り上がり、利家はそのまた陪臣になるわけです。加賀前田藩の中では利家の本家筋・前田長種の前田与十郎家(前田対馬守家)がありますが、前田家から見れば斯波家は雲の上の存在。。明治後期になりますが、津田家は男爵号を得た際に由緒ある斯波姓に変名しています。

とはいえ、没落した家の哀しさ、豊臣治世では豊臣秀次に5000石の家老職でしたが、秀次切腹後は浪人となり、同格で仕えていた前述の今枝重直の紹介によって、前田利長に2000石(後に利常時代に3000石)で仕えています。正勝死後になりますが、跡を継いだ嫡男・正忠は前田利常の信任を得て、利常隠居後の復帰時には小松城での執政三人衆の一人に抜擢され、家禄を11700石に加増され、後の子孫も家老職に5人も選抜されています。

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津田玄蕃屋敷絵図

津田正勝は利家・利長時代に加賀藩で活躍した高山右近の第一の協力者でした。正室・海津夫人との関係から、キリスト教に入信しており金沢武士団布教の最大の協力者になっていたと云われます。ちなみに正室・海津夫人の墓は、能登の本行寺にありますが、加賀藩隠れキリシタンの聖地とされてきたと伝わっています。以前アップしています。 ⇒ 本行寺② 隠れキリシタンの寺

加賀藩の禁教令と共に津田正勝は臨済宗に改宗したと云われ、横山長知・康玄(やすはる、横山家三代、高山右近の娘婿)親子と共に宗門奉行になって、禁教令施行を行っています。しかし、他国とは違って加賀藩では、民衆には思想的に近い浄土真宗が浸透、団結化されており、キリスト教信者は藩士関係者に限定されていたこともあり、地区によっては過酷を極めていますが、武門や武家勤めに係わる問題として割とスムーズに表面的には禁教が進められたようです。

頑として受け付けなかったのが当時の武家の女性陣で、、横山家では康玄の正室・ルチアは離婚、高山右近と共にルソンに渡っています。津田家でも正室・海津夫人は改宗を拒否して、加賀藩重臣子女20数名と共に、能登本行寺で一代謹慎となり終生を終えていますが、墓は「ゼウスの塔」と呼ばれ、加賀藩隠れキリシタンの聖地とされてきました。

加賀のキリシタン信徒は1500人と云われていますが、それを主導流布したのは高山右近ですが、自身も入信して布教に係わった主要な協力者は横山康玄・宇喜田休閑・内藤如安・長好連・津田正勝・豪姫などが当主格、入信はしていませんが藩主・前田利長も大々的に後援を行っています。つまり長崎浦上信徒とは違って上から下へという広がり方でした。

このために入信者の多くは武家内の家族や家来関係者に限られていました。武家というものは、特に家を預かる当主は信仰の前に家が優先されます。家の為には信仰を捨てるという下地がありました。これに従ったのが横山康玄・津田正勝・豪姫など。。
これを曲げる者は家を去るか、世を捨てることになりますが、それが高山右近・内藤如安のルソン退去、宇喜田休閑の東北流罪だったのです。長好連は金沢キリスト教全盛の慶長16年(1611年)に30歳の若さで亡くなっています。未亡人となった福姫(高源院、前田利家八女)は中川光忠(17000石、後に加賀出奔)再婚後2年で離婚、棄教せずに娘の菊姫と共に本行寺謹慎となっています。
横山康玄は帰国した高山右近の妻ジュリア、自身の元妻ルチアと長男に再会の記録があり、匿ったとも云われています。志賀町には高山家が残っています。真実は横山家譜では康玄の多くの部分が削除を受けており不明です。筑前福岡藩の黒田家譜でもキリスト教関連は削除され、黒田孝高・長政の信徒時代の詳細は不明です。これと同じ状態ですね。

家内だけの信教は続けられた形跡もいくつか残っていますが、禁教令以降宣教師・指導者が追放され、加賀藩内では宣教師の訪れは禁教令後は一度だけ。。他宗でもそうですが信教が続く条件として、常に信仰を強める 努力、神の助けを求める努力が続かなければ、信仰は冷えて衰えてしまいます。例えば浄土真宗では日々、報恩の念仏を唱え、月々報恩講を開く寺院に集まって信心を確かめ合うという行為を慣習化していました。。キリスト教でも毎週ミサを行い、聖書の御言葉を聞き、信仰の宣言と共に聖体に触れるという行為がこれに当たります。金沢では家庭内に留まり、ミサ・司祭・教会を奪われ、全村が組織だった浦上のような奇跡は起きなかったと思われます。
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前述のゼウスの塔や津田正勝の墓所(伝燈寺)近くの隠れキリシタン洞窟など古くから津田玄蕃家は横山家と並んで、隠れキリシタンにとってはシンボル的存在として認識されていました。当然ながら横山家も津田家も肯定も否定もしていませんが。。。通常、屋敷の軒瓦には家紋を配するのですが、津田玄蕃家は片喰(かたばみ)紋を家紋としていますが、この屋敷の軒瓦には十字紋が配されています。津田家でも加賀キリシタンのシンボル的存在を公に肯定していませんが、代々誇りには思っていたようです。

この津田玄蕃屋敷は金沢城大手門前、大手堀通にあるKKR金沢の場所にあったものです。金沢城大手門前という好立地が加賀藩において5人の家老を輩出した津田玄蕃家が重要視されたのが解るというものです。ちなみにこちらは当然、上屋敷地で、下屋敷や家臣団が住んだ家中町は大手町から東方の浅野川南岸、現在の並木町の清泉幼稚園の近辺に明治まで玄蕃町として残っていました。


石川県指定文化財 平成3年4月11日指定

もと金沢市内大手町にあった禄高1万石の加賀藩家老津田玄蕃邸の遺構で、宝暦の金沢大火後に建てられたものと伝える。この建物は、明治3年(1870)に加賀藩が津田邸に医学館を創立して以来、石川県金沢病院、金沢医学校、第四高等中学校医学部、金沢医学専門学校附属病院の一部として使用され、明治45年以後は「乃木会堂」として維持された。大正12年3月に現在地に移築された後は「兼六会館」となり県が多目的に使用し、現在は兼六園事務所となっている。こうした経緯から、建物は内外とも度重なる改造を受けてはいるが、旧態を残している玄関式台や建物外観の一部に高禄の武家邸宅の様式を窺うことができる。入母屋造、大破風、妻入の母屋正面に突出する玄関は、殿舎車寄形式の唐破風造で、正面に飛貫を用い荒い菱格子欄間を入れ、天井は格天井とする堂々としたもので、現在県内に残る1万石以上の高禄武家邸宅の玄関遺構としては唯一のものである。なお、母屋は改造されているとはいえ、玄関と一体化して武家屋敷の姿をしのばせる貴重な建物であり、かつ、本県近代医学発祥の記念碑的建物としても、その歴史的・文化的意義は高い。加えて、玄関の文化財的価値を維持する上で欠くことのできないものであり、母屋を含めた建物全体を保存する必要がある。

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県の説明に依るように玄関の威容を示す上部の唐破風造や菱格子欄間が注目されますが、武家屋敷の玄関で重要なのは地面となる式台石になります。殿舎車寄形式とはいえ、牛車や蓮台を使用することはまずありません。上級武家の正玄関の式台石は大きな石材を張り合わせて敷かれていますが、この上を歩ける人物は限られていました。当主はもちろんですが、格上同格の外来者および使者位に限られます。条件としては白足袋を履いた人となります。たとえ殿様でも式台石から先は土足厳禁。。このために、画像手前の切れ目に草履などの履物が置かれ、外来者は、自分の履き物を脱ぎ、用意の履き物を履いて玄関階まで歩かねばなりませんでした。時代劇などで殿様や当主、医師などがこの式台石の上に輿を置いて乗り込む姿をみんなで迎えたり送ったりがありますが、実はあり得ない姿になります。

この建物は明治初頭には金沢医学界にとっては記念碑的な存在ともなっています。
石川県というより加賀藩の医学校の始まりの起源は、文久2年(1862年)、壮猶館(加賀藩洋学校)での蘭方医・黒川良安による医学講義の開始、彦三(ひこそ)種痘所(武蔵が辻交差点、彦三郵便局前)の開設と云われています。彦三郵便局前にはこのことから金沢大学発祥の地碑が建てられています。
慶応3年(1867年)には卯辰山養生所という北陸初の西洋式病院を作り、壮猶館の医学機関の学生・教師を移しています。養生所は北越戦争の戦傷者の搬入により手狭となり、医師養成を担った医学教授所を医学館として新たに設立の必要に迫られました。
明治3年(1870年)2月、その医学館が置かれたのが津田玄蕃邸の建物というわけです。更に12月には医学館に病院を創設して診療を開始しています。翌年にはオランダ医スロイスを招聘して充実を図っていました。明治5年の廃藩置県で一時閉鎖されましたが、翌年には石川県金沢病院として再発足。その後、名称や組織を変更しながら続き、明治20年に第四高等中学の発足で医学部として移管されます。明治45年まで四高医学部本校舎として続き、宝町に医学部校舎の完成と共に役目を終えています。この津田玄蕃邸は現在の金沢大学医学部及び金沢大学病院の正式な発祥の建物となるわけです。

明治45年からは乃木会堂として続き、、、乃木会堂に関してはたぶん乃木希典に係るものと思いますが解らないのでまたの機会に、、、大正12年(1923年)に現在地に移設、兼六会館という多目的催事場として使われ、現在は兼六園管理事務所となっています。

兼六園事務所となる津田屋敷玄関の脇に展示されている辰巳用水導水管
DSC_4682.JPG寛永九年(1632)に約11キロメートル上流の犀川から取水し、ここから城内へ木管により通水された。その後、天保十五年(1844)にこの石管に取り替えられた。石管の継ぎ手は松脂・樹皮などを用いて漏水を防止していた。



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津田玄蕃屋敷と百万石通りで挟んだ反対側にあるのが石川県立美術館。正面玄関を右の方に入って行くとあるのが本多の森と呼ばれる八家・本多家の上屋敷があった地になります。ここに建つのが県立美術館広坂別館になります。
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大正11年(1922年)陸軍第九師団長官舎として金沢城内に建てられたものです。建築当時には洋館と和館が併設され、敷地内に副官官舎、厩が建てられていたと云われています。戦後は米軍将校官舎となり、昭和34年(1959年)からは金沢家庭裁判所、県児童会館、野鳥園などに使用されてきました。昭和63年(1988年)には集会所、兼六園来園者休憩所となっていました。平成20年(2008年)に現在の県立美術館別館として、地元展示や集会施設として使用されてきました。平成28年に国登録有形文化財の指定を受けています。
長期間の内に用途が違う施設として改装・修理にと手を加えられ、現在は洋館のみが残っています。
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金沢市文化財保護課 案内~~ 兼六園の南方に、旧陸軍第九師団長官舎の洋館部分が残っています。正面妻壁や玄関部分に張り出した車寄せにみられるハーフティンバー調の意匠が目を引きます。半切妻の大屋根を架け、平側に切妻破風を突出させた様式が特徴的です。内部では応接室や師団長公室の暖炉飾りなどに、建築当初からの意匠が残っています。大正期の軍官舎の通例を示す遺構です。

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登録有形文化財 石川県立美術館広坂別館(旧陸軍第九師団長官舎)
石川県立美術館広坂別館は旧陸軍の師団長官舎として建てられた貴重な近代建造物であり、平成28年(2016)に国の登録有形文化財となりました。
第九師団長官舎の歴史 石川県立美術館の建物は、大正11年(1922)に旧陸軍第九師団長の官舎として建築されました。かつては和館を併設し、敷地内に副官官舎、厩舎なども建てられていました。金沢では明治31年(1898)に陸軍第九師団が編成され、当時、金沢城の周辺では金沢陸軍兵器支厰兵器庫(現いしかわ赤レンガミュージアム)など、陸軍関連施設の整備が進められていました。
戦後は、米軍将校の官舎、金沢家庭裁判所、石川県児童会館、野鳥園、兼六園広坂休憩館と様々な施設として使われてきましたが、平成20年以降は県立美術館広坂別館としてギャラリーや茶会等、県民の文化活動の場として使用されています。平成27年、文化財保存修復工房の移転に伴い耐震補強工事が行われ、平成28年4月にリニューアルオープンしました。

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建物の特徴 【外観】 急勾配の瓦葺屋根と、正面に張り出した大きな三角破風が印象的です。柱や梁の骨組を露出させたデザインとして北ヨーロッパでよく見られるハーフ・ティンバー様の意匠が取り入れられています。
【内装】 洋室や廊下の壁部は漆喰塗りです。天井は格天井などの板張りで、意匠は部屋ごとに異なります。また、暖炉の内側はふさがれていますが、見事なマントルピース(暖炉飾り)が残されています。
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確かに外部の幾カ所や内部は改造の手が多く加えられていますが、玄関周りは建築当時のまま、内部は白漆喰の多用による統一感、各部屋の独立性、部屋ごとに天井を変える凝り方は注目です。
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広坂別館に隣接するように、県立美術館の文化財保存修復工房が新築移転して、廊下をつなげてガラス越しに修復作業の一部が見られるようになっており、旧応接室では修復のガイダンスが映像や説明会に使用されています。

本多の森公園西端部 左端の建物が県立美術館の文化財修復工房の建物です。
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旧日本軍師団長は中将クラス。明治後期からの中将クラスの官舎事情がうかがえる遺構になります。現在、全国的には陸軍6(第2(仙台)・第8(弘前)・第10(姫路)・第13(上越高田)・第15(名古屋)・第18(久留米))・海軍2(呉・横須賀鎮守府)の官舎が現存しています。その多くが改装や改造の手が加えられていますが、いずれも目に出来るようです。観光施設としては広坂別館以外にも第13師団長官舎は上越市大町で保存建築の博物館に、呉鎮守府は入船山記念館、横須賀鎮守府は田戸台分庁舎として桜の名所だそうで特別公開で見られるそうです。

旧陸軍関係の建物と言えば、金沢城址公園の二の丸西に明治31年(1898年)建築の旧陸軍第六旅団司令部庁舎がありますが、この他には県立美術館の東側に赤レンガの旧第9師団兵器支廠兵器庫は石川県立歴史博物館・加賀本多博物館に利用されています。加賀本多博物館はそれまで県立美術館と歴史博物館の中間に本多蔵品館としてあったのですが平成27年(2015年)に移転・リニューアルしています。その空き地に明治31年築で金沢城二の丸から石引に移築されていた旧第9師団司令部庁舎旧金沢陸軍偕行社を移築して、建物外観の原型復帰と渡り廊下での接合など大規模なリニューアル工事が行われています。

聞きなれない旧陸軍偕行社(かいこうしゃ)は、戦前に帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された組織で、建物はダンスホールや娯楽施設などの親睦・交流施設や軍装備品を一手に担っていました。他にも地域によってはテーラーモード、クラブ、学校、など幅広く手を広げていました。戦後は元陸自OB・現陸自関係を中心に同法人名で活動しています。

東京国立近代美術館工芸館をご存知でしょうか。。近代美術館の明治以降の工芸・デザイン作品3700点ほどを展示する国立美術館になります。実は国の地方への移転事業の提案物件として、平成28年に金沢移転が決定され、その後の調整で、作品の7割が移送・移転されて、来年オリンピック期間にオープン予定になっています。名前もそのまま東京国立近代美術館工芸館。これは国の事業とオリンピックへの宣伝のためのようですが。。。せこっ、、、、いずれは名を変えるでしょう。。   東京国立近代美術館工芸館(現在)HP 
現在、東京にある工芸館は明治43年(1910年)建築の近衛師団司令部庁舎を改修して、昭和52年(1977年)に開館したものです。

建物のコンセプトを崩さないように旧陸軍師団司令部庁舎と偕行社を移築して工芸館の建物としようとしています。内部構造の修繕復元も工芸館・乃木会館(香川、旧第十一司令部庁舎)といった似た構造を参考材料にしているそうです。
ついでに、戦後に切除されていた両翼や屋根も増設復元で元の姿にしようと突貫工事で今年秋には完成予定、建物を作品保存や展示のために慣らす為のからし期間を1年置いて開館予定です。古く外観も年代を感じさせた建物がどういう風に姿を見せてくれるか、作品群と共に期待しています。

金沢の美術館と言えば21世紀美術館が県外に知られています。この為に百閒堀通から続く本多町通り、香林坊からの広坂通りに観光客が集中しますが、、、金沢市街屈指の緑の木々が織りなす本多の森公園エリアは意外な穴場になります。森を散策しながら軍都の一端を感じる建物群を巡るのも面白いと思います。昔は軍施設でしたがその多くは、戦後は大学施設や児童館、県事務所など学術の建物として機能してきたものです。

旅行日 2019.03.30


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この記事へのコメント

  • tor

    こんばんは。
    あいかわらず御多忙のご様子ですね。
    そのような中、今回も大作ですね。
    興味深く拝見しました。
    加賀藩も大藩ゆえに藩の運営は大変のようでしたね。
    ちょっと意味合いは違いますが
    佐賀鍋島藩を思い出しました。
    またキリシタンについては
    肥後細川藩も似たような感じでしょうか?
    武家屋敷として旧細川刑部邸が
    移設保存されているのですが
    震災で被害を受けて公開されていません。
    玄関どうだったかな?
    2019年08月05日 22:38
  • つとつと

    僕も歳のせいでしょうかね。。頭と手がなかなか思ったようにパッパと処理したり、モノを書くのが遅くなってしまっています。おかげでその場しのぎの仕事やブログになってしまって、自己嫌悪になっています。
    あげくに夏風邪で先週は半分ダウン状態で、こんなことではいかんとどこかで活を入れねばと思っています。
    鍋島藩も実質的には鍋島家が竜造寺家を乗っ取った形で、本来同格や上の家格が居ましたから、相当運営には苦労したんだと思います。葉隠れなどはその典型的考えですねえ。
    戦国期にはキリシタンだった大名家が多く存在しました。その為に入信時代のことは多くは記録を消し去っています。細川家でも玉姫の関係でキリシタンだった関係者が多く、その後の資料を抹殺しています。それが日本でのキリシタン史にとっては大きな障壁になっているんでしょうね。それでも隠匿資料の発見がわずかでも風穴を開けることは戦国期・安土桃山・江戸期の事情を探る事由になってくると思います。
    2019年08月06日 10:46
  • がにちゃん

    「おだのぶな」が「おたのぶなが」だったら・・・なぁ~んかよわっちく感じますね  締まらない感じがしました
    前田家がこれほどキリストにかかわっていたことは、あまり知りませんでした。
    屋敷の軒瓦が・・・まさしくの感がしました  信仰心もすごく深かったのでしょうね
    2019年08月07日 14:31
  • つとつと

    がにちゃんさん
    (笑)確かに強そうには感じませんねえ。。福井県越前町の織田町は山の中ですがなかなかの場所ですよ。ちょっと足を延ばすと越前海岸。カニのメッカですよ^^
    前田利長も入信したかったようですが、そこまでの気ままは許されなかったようです。津田家と横山家は江戸期を通じてキリスト教のうわさがささやかれ続けていたようです。一部には川柳にまで歌われていたようです。
    2019年08月07日 17:01
  • 藍上雄

     武家社会は縦社会なので、その階級と石高、いろいろな兼ね合いで決められるのしょうね。江戸時代は戦が無かったので、さらにその決め方は、政治力でしょうか…?とても難しいと思います。
     式台石の話は初めてでした。そうなんですね。津田家の功績、早くから西洋医学を学んで取り入れたからでしょうか・・・?それもキリシタンとの関係によって得たものかもしれませんね。
     陸軍第九師団長官舎のハーフテェンバー、こちらで見る物とはちょっと雰囲気が違って、とても和風建築の香りがします。内装の漆喰白壁は、洋館らしいですね。
    2019年08月08日 18:40
  • ミクミティ

    記事を読むにつれ、加賀前田藩の規模の大きさをしみじみと感じました。本当に大身の家臣が大勢いたのですね。彼らを含めて大藩を統治するのには、様々な制度や仕組みが必要だったのでしょう。その中で津田玄蕃家は数奇な運命を辿ったのですね。非常に興味深いです。
    金沢の知られざる名所、是非いつか参考にさせてもらいたいです。
    2019年08月08日 21:52
  • つとつと

    藍上雄さん
    武家社会で解り易いのは武功になるのですが、戦争のない時には政治力や役職の正確さや功績が大きくものを言ったようです。加賀藩で最大所領を誇った本多家は、利家死後の越中返上問題で幕府交渉で越中保持を認めさせたことが最大の功績でした。津田家では2代目が小松城執政の一人になったのがとにかく大きかったようです。
    陸軍の師団長舎は上越高田しか見たことがないんですが、上越高田は木彫を際立たせた洋風建築で、金沢のような漆喰を多く施したのとは全く違っていました。明治30年に発注が行われているんですが、建築の設計や建築者は全く不明状態です。ただ元々が金沢城内にあったものですから、白漆喰を多用したのは周りとの構成からとも思えます。
    2019年08月09日 22:13
  • つとつと

    ミクミティさん
    加賀藩は一門衆を除くと、非常に多士済々で、直に書く本多家などは越後・会津・米沢出身者が半数以上になる特殊な寄り合い所帯です。
    幕府もそうですが、藩主を代表にしながらも重臣の合議制、しかも全員賛成でないと可決しないというものでした。欠点は即応性にかけ、独断専行が必要な時に停滞し、突出を許さない閉鎖性が生じてしまいました。明治に後塵を拝した原因です。
    5代綱紀以降、この問題に挑んだ藩主が2名ほど出ていますが挫折しています。加賀藩が即断したのは大火などの大事件の時に限られてしまいました。
    2019年08月09日 22:24
  • yasuhiko

    兼六園管理事務棟は。加賀藩の重臣屋敷だったんですか。
    それは全く知らない事だったので驚いてます。
    津田家とキリシタン信仰の関係も興味深いものがありました。
    津田玄蕃屋敷の屋根瓦に十字の文様が残っているのも、
    実に面白い事ですね。陸軍第九師団長官舎の建物も
    非常に魅力的だと思いました。前に金沢旅行した時は、
    子供が小さくて、色々回れなかったのが残念です。
    2019年08月10日 20:04
  • つとつと

    yasuhikoさん
    どちらも観光パンフなどには載っていない建物になります。観光で訪れた人も直前を真っ直ぐ歩いていくような場所になります。
    来年夏には工芸館が完成して、第六旅団司令部を除いて金沢の明治建造の旧軍施設がこの本多の森に勢ぞろいします。来夏までには金沢城と尾山神社を繋ぐ鼠太門と鼠太門も完成しますから、兼六園や金沢城周りも充実してきそうです。機会があったら奥さんを誘ってみてください。
    2019年08月11日 13:52
  • 家ニスタ

    1万石以上の家臣が20数家とは、すごいですね。
    これだけの大家臣団を統率するのは、大変だったでしょうね。
    特に本多家とかクセが強そうですから、難しそうですね。
    2019年08月25日 21:32
  • つとつと

    家ニスタさん
    前田利家・利長時代には20数家あったと云われています。確かにこれでは藩主独裁は難しかったと思います。加賀藩は合議制になったのは仕方なかったかも。。加賀藩と同じ数を誇ったのが伊達政宗の仙台藩。。幕末はこの大禄が藩財政を苦しめたそうです。
    本多家は利長末期に金沢に来た家で、新参者として遠慮も強かったようですが。。でも本多出羽守家の父兄が暗い官僚系ですが、ちょっと性格は違ったようです。でもけいれきは父そっくりですが。。
    2019年08月27日 20:58

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