加賀本多博物館

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旧本多蔵品館跡地 現在は国立近代美術館工芸館の移築改装工事中R1秋完成予定

本多家の上屋敷地には平成27年(2015年)まで県立美術館と藩老本多蔵品館が建っていました。昭和48年(1973年)本多蔵品館は加賀八家で最大禄高5万石を誇った本多家と石川県が共同出資で財団法人を設立、旧金沢美工大の図書館建物を利用して、収蔵品2000点(内、初代政重・二代政長関連100点+当主夫妻火事装束2点が県文化財)は調度品や収集品は武家文化を伝える物から、北斎漫画や紀行文の庶民文化まで幅広いものがありました。
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DSC_5296.JPG上:県立歴史博物館・本多博物館共通入口 左二棟が県立歴史博物館、右一棟が本多博物館
中:入口前の辰巳用水導水管の復元モニュメント 午前10時から午後4時まで10分間隔で水が噴き出るようになっています。今回は4時過ぎで見られず。。
下:本多博物館入口
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藩老本多蔵品館時代の馬具一式展示(二代・本多政長使用)
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初代・本多政重画像 讃・沢庵宗彭(たくあんそうほう)筆 
平成27年(2015年)東京国立近代美術館工芸館(今秋完成予定)の移設工事で、赤レンガミュージアムに引っ越しています。それまでの手狭な展示スペースが広くなったおかげで常設展示はそれまでのまとまった一斉展示から個別展示が増えています。僕としては、2代政長所用の馬に合わせての馬具一式の展示は気に入ってたんですけどねえ。。それと、単独展示になった当主や当主夫人の火消装束は間近で見られるようになりましたが、周りが無地でイマイチ華やかさに落ちる展示になってしまったかも。。とはいえ、本多正信を含め初代・政重からの歴代当主の掛け軸画像は個別展示でじっくり見られ、詳細な部分まで見られるようになって、鮮やかな色彩や讃文までが読めるのはうれしいですねえ。。初代・政重の上段の讃文は沢庵和尚こと沢庵宗彭(たくあんそうほう)、紫衣事件で出羽流人時代(沢庵57~60歳)に書かれたものです。政重49歳頃が依頼したと云われます。政重の画像は以前に自筆の辞世の書かれたものがありましたが、今回は展示されていなかったようです。

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色々威腹巻胴丸 父・本多正信から譲り受けたもの、ほとんど修理を施しておらず、作製段階からの姿を保持しています。 
現在の常設展示(~9/9)の目玉は、本多政重使用の甲冑三種で室町作で父・本多正信から譲り受けた色々威腹巻・大袖・壺袖・喉輪、関ケ原で使用した色々二枚胴具足・頭形(ずなり)兜・面頬(めんぼお、尖鼻・銀牙付)、直江家時代使用の縹(はなだ)糸威二枚胴具足・黒漆桃型兜、太刀長光(戦場使用)刀槍類は圧巻です。コレクション資料展示はその都度変更され、訪れた際には金沢の詩人・相川俊孝の画帖が展示されていました。
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色々二枚胴具足・頭形兜 本多政重が関ケ原で使用したと伝わります。画像では解り難いですが面頬は烏天狗を模して口に牙があります。

画像は本多蔵品館時代の図録から転写しています。実は博物館には撮影禁止表示がなかったんですが、家に帰ってから確認にHPを観たら撮影は駄目なようです。 ⇒ 加賀本多博物館HP ちなみに、入館料は一般400円、歴史博物館との共通券は500円になります。

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前回は開祖・本多政重を中心に書きましたが、加賀八家老家・本多家について・・

慶長16年(1611年)本多政重前田利長に3万石で招かれて復帰、金沢に入り一家を構えています。慶長10年に利長は弟・利常(11歳)に藩主を譲り高岡に隠居して病気療養中。正式には前田利常に仕官した形になっています。利常が若いために政治運営は執政の横山長知・奥村栄明・篠原一孝が担っており、本多政重への対応もこの三人が見たと思われます。

本多政重の金沢入城にはこぼれ話が残っています。政重は船運で直接金沢に入ったのですが、心待ちにしていた前主・前田利長は病の床で知らされておらず、後に聞いて「なんで、わしに知らせないのだ!知っていれば迎えに出たものを!」と、奥村栄明に苦情の書簡を送っています。「早急に利光(当時の利常の名)に対面させ、政重のこともよく説明するとともに、屋敷・屋敷地を早急に準備するよう」に要求しています。この書簡は奥村家から家宝として本多家に譲られています。その後も政重の様子や屋敷の完成具合の確認の書簡を出しています。また政重自身にも屋敷の完成祝や、慣れぬ家中への慰めや厚情の書簡を何通も送っています。政重への利長の期待の大きさが窺えます。

とはいえ、前田家では新参者の本多政重ですから、前述の様に最初は奥村一門として遇されていたようですが、奥村栄頼(はるより、奥村永福三男、栄明の弟)による横山親子排斥事件や内部抗争には中立を保っていました。大阪冬夏の陣など徐々に実績を積み上げて、大きな実績として加賀藩に地歩を固めたのが、利長死後の越中・新川郡領有問題でした。

元々、豊臣秀吉時代、前田利家の能登・加賀半国とは別に、前田利長は松任城主から越中三郡(砺波郡・射水郡・婦負郡、約40万石)に国替えとなり守山城を主城としていました。その後、佐々成政が肥後に転封となり領地だった新川郡(約20万石)も利長に領有が許され越中一国を任されていました。関ケ原で東軍となった前田利長は加賀南部・越前に侵入、戦後褒賞として加賀全土の領有を認められていました。
問題だったのは新川郡に関してでした。豊臣秀吉からの領有許可には約定書も何もない口約束だったのです。このため、利長は新川郡を隠居領として富山城・魚津城を隠居城として幕府に届けていました。しかし、両城が火災で焼失、射水郡の高岡城を築いて隠居城として生涯を終えていました。慶長18年(1613年)当然と云っては何ですが、幕府は利長の死と共に新川郡の返上召上、更に高岡城の関係から越中三郡の返上も併せて要求してきたわけです。幕府の狙いとしては新川郡割譲が狙いだったと思われます。
これに対して、加賀藩は反論・陳弁に努めましたが、その最前線に立ったのが本多政重でした。この際には父・本多正信、実兄・正純が健在で、父が将軍側近、兄が大御所側近として活躍していたこともあり、これらの将軍・大御所家の人脈をフル活用して越中返上の取消しを勝ち取っています。この功により禄高が加増され、5万石となり加賀藩家中最大禄高となり、正式に加賀藩年寄格となっています。
本多家家宝 村雨の壺 DSC_5318.JPG
寛永8年(1631年)前田利常の金沢城修理、船舶購入・建造などが謀反嫌疑となり、利常・光高親子が江戸に出て弁明に努めた「寛永の危機」がありました。この時は横山康玄(やすはる、横山長知長子)が主導し、政重が従となりながらも、懸命の奔走で嫌疑を免れています。この時の褒賞で2万石加増で7万石となっています。この二大危機を乗り切った褒賞で更に5万石の加増を打診されながらも辞退。。この辞退には父の教えや兄の失脚が教訓になっていたようです。この時に利常から贈られた「村雨の壺」は「5万石の壺」として、本多家重代の家宝として、現在も博物館に展示されています。ちなみにこの壺は、当時はルソンの壺と呼ばれた茶壷の一種です。加賀本多家にとっては加賀藩筆頭家老の象徴と云えるものでした。

加賀本多家は家祖・政重から分家した本多図書守家(1万1千石)・本多分家(4000石)など、それ以降の分家も合わせると約2万石以上の支家があり、本多宗家は江戸期を通じて5万石の家禄を保持しており、合わせると政重以来約7万石以上の家禄を幕末まで維持していたことになります。江戸期には12代の歴代当主を数えています。現当主は15代・本多政光氏、本多博物館の館長さんです。人懐こい柔和な方で、気軽に観客に接する蔵品館の頃は4回中3回お逢いして館内説明などしていただきました。今回は会えなかったなあ。。
こんな記事を見つけちゃいました ⇒ 本多正信末裔 転勤族なのにすぐに素性バレてしまう

加賀本多家5万石という禄高は加賀藩家中の最大禄高ですが、これを他藩と比べるといかに大きな禄高だということが解ります。
1万石以上の禄高・所領高を持つ藩主家を大名家と呼ぶと云われます。
江戸期前の豊臣末期には204家だったといわれます。江戸幕府発足時には204家のうち外様大名117家として存続し、新規取立ての譜代・親藩の大名家が68家、併せて185家(藩)が幕府発足時の大名数でした。徳川家康・秀忠・家光の武断時代の幕府政策で多くの大名家が廃絶された印象があると思いますが、実は元禄時代(1687~)には243家、宝暦時代(1751~)には254家、文政(1817~)264家、慶応元年(1865)266家。諸国三百諸侯と呼ばれる由縁ですが逆に増えて行っています。大藩が廃藩や国替えとなるとその家は当然ながら改易・転封となるのですが、所領地は幕府直轄地(天領)か、他家が転封されたり取り立てられて新藩が誕生していますし、加賀藩のように分割相続で富山藩・大聖寺藩が生まれたように分藩ということもあったからです。江戸期に元よりも大きくなったなどはほんの希少な例しかありません。禄高は米の収穫量ですから元はそうそう変わるものではなく、藩数に反比例して小禄の藩(家)が増えていたと思われます。

とはいえ各藩では新田開発や殖産によって、表高より実高を上げる努力を行っています。他産業を含めた実高が本当の実力ともいえます。
戦国末期、遅れた英雄と云われた伊達政宗の仙台藩は表高62万石でしたが、実高は明治の段階で100万石を越えていました。伊達政宗が20年早く生まれていれば天下を狙えたと云われる由縁は、戦闘能力もありますが、この経済能力にありました。
政宗・忠宗・綱宗は新田・土木・殖産の振興に努め、この表高の倍の実力を保持して東北の雄藩の実力を示し続けていました。しかし、残念な部分も多く、直臣で万石取が加賀藩と並ぶ12名を数え、直臣数は初期で7000名、中期以降には1万名を越えており、陪臣以下を含めた兵力は初期で3万、中期以降は3万5千を数えています。武家というものは統治や戦闘能力を示すものですが、多くは生産性のない職域で非生産職層になります。平時の場合は非生産部門を生産部門に回す必要がありますが、仙台藩の残念な所は更に悪いことには時代に逆行したことにあります。3代までの武断時代は兵力保持は必須でしたが、4代・綱村の浪費により財政破たんを起こし、5代・吉村の改革で小康を保っていましたが、幕末まで経済はカツカツで他藩に比べて多くの兵力を持ちながら、兵制改革や武器能力の向上や導入が遅れ(実際にはしたくてもできない経済状況で)戊辰戦争では列藩同盟を会津藩と共に主導しながら、目立った活躍もなく降伏、28万石に減俸されています。
減俸処分の際の明治政府の調査のおかげで仙台藩は実高の詳細がはっきりわかって、前述のことが書けたんですが。。

ここでは表高(禄高)で表しますが、文政13年(1830年)藩別禄高を参考にすると、藩(家)、大名家つまり1万石以上の数は264家。ただし、この中には例外と云える藩が2家あります。一つは蝦夷地を所領として稲作がなかった松前藩禄高はゼロ、家格は外様一万石格、幕末は三万石格でした。
もう一つが下野の喜連川藩5000石。禄高1万石にも満たず城もない陣屋大名ですが、別格の扱いを受けていました。。喜連川藩の藩祖は小弓公方家・足利国朝と古河公方家・足利氏姫の夫婦になります。実は名家を惜しむ豊臣秀吉の命令で両家が結婚合併して立藩したものです。ところがこの両家は仲が悪く領地は国朝の喜連川でしたが、氏姫は領内に入るのを拒否していて結婚生活の実態はなかったようです。国朝の死後に弟・頼氏と氏姫が再婚して喜連川姓を名乗っています。しかし、氏姫は頼氏との間に嫡子をもうけながら、喜連川の地には足を踏み入れず古河公方館で生涯を過ごしています。二人の先祖は遡ると足利尊氏の四男・基氏(鎌倉公方)になるもので、河内源氏直系(鎌倉将軍家)に繋がる名家でした。また氏姫は後北条家・北条氏康の孫にもあたります。小藩ながらこの高貴な家格から、大大名家格の十万石の格式を与えられていました。無位無官ながら江戸城の伺候場所は加賀前田家と同じ大廊下。明治に喜連川の姓を足利姓に復帰しています。この日本一小さな喜連川藩は家格が高く当初からお家騒動が頻発、殿様と正室の江戸住まい免除(つまり参勤交代免除、江戸屋敷支給無し)、不忍池傍に自前の江戸屋敷がありましたが殿様はいつも不在で屋敷の常駐は三人の使用人だけ。経済基盤が小さいけれど格式は十万石ということは大変な支出も伴うことで、支出を埋める最大の収入源は奥州街道の宿場町を生かした他藩の参勤交代へのたかり@@もとい藩主自らの接待収入^^;仙台藩が一番のカモでした。。まあこの藩も歴史やこぼれ話を書き出したらキリのない面白藩です。

ちょっと横道に逸れちゃいましたが、264家の内の過半数が5万石未満163家5万石以上は101家。江戸城内での格式や扱いが変わる10万石以上49家、2割に満たない数でした。もちろん大藩の中には1万石超の陪臣はいますが、平均すると10万石に一人はいたと思われますが、それでも加賀本多家の5万石という数字は陪臣としては異例の数字になるわけです。

江戸期前の大名家や武将の位階や官途名は直接朝廷への依頼によって一部に下されていましたが、ほとんどが祖先の位階・官途名を勝手に名乗ったものも多く、ほとんどが自称とも云えました。江戸期の大名家の位階や官途名(武家官位)は禁中並公家諸法度によって朝廷から切り離され、幕府の許可の裁定・決定となり、幕府から改めて朝廷に推挙となり位記・口宣案の発給として勅許が行われていました。大名家に格式を持つ特別事案として宣旨として正式な勅許のスタイルをとっていました。
武家官位の位記・口宣案・宣旨の案件は年間100件を越えたといわれます。従五位下で金10両、大納言・中納言昇級で銀100両といった具合に大名家から朝廷に献金(礼金)され、この大きな献金額は朝廷の下部まで配給される朝廷運営の大きな収入源でした。

大名家は最初は一部を除き従五位下初認されます。その後に、一部には昇段が行われ四位以上に昇段されたりと2度3度と昇段を行う場合もありました。
前述の一部というのは最初から四位以上につけられる家です。(初認⇒極官位)内になります。一部個人で例外があります。官職も当然変わりますが割愛。。参考までに
徳川宗家(正二位⇒従一位)・御三家(従三位⇒従二位、水戸は正三位)・新御三家(従三位⇒従二位、清水は従三位)
加賀藩(正四位下⇒従三位)、近江彦根藩(井伊家)(従四位下⇒正四位上)、会津松平・越前松平(越前・津山共)(従四位下⇒正四位下)、仙台藩・薩摩藩・高松松平(従四位下⇒従四位上)、鳥取・熊本・広島・萩・佐賀・岡山・阿濃津・徳島・久留米・土佐・陸奥盛岡・松江・米沢・対馬・高須松平・西条松平・鷹司松平(従四位下⇒従四位下官職のみ昇級)、守山松平・府中松平・宇和島・松山・桑名・明石(従四位下官職なし⇒従四位官職位)
この他に従五位下から数年で四位に昇段するのが10万石以上の大名と親藩大名が居ました。前述の喜連川藩は無位無官ながら四位扱いでした。一部の歴史通や歴史好きの人で、大名家には石高での差はなかったなどという人はいますが、武家官位と江戸城での伺候場所によって序列に大きく反映されていたのです。

武家官位とは別に、官名(官職位)もありますが、長くなるのでまたの機会に。。一応、一般大名は諸大夫、国持大名が侍従、大藩では左近衛権少将・中将、加賀前田家は参議(宰相)、水戸が権中納言(黄門)、紀伊・尾張が権大納言(亜相)、、前述の喜連川藩は鎌倉公方・河内源氏由来の左兵衛督・左馬頭。。水戸光圀の水戸黄門は水戸中納言の漢名になるわけです。ドラマでは加賀宰相、島津中将とか細川少将、榊原侍従と官名で呼ぶことが多いですね。。

長々と武家官位に関して書きましたが、朝廷では殿上人という言葉がありますが、要は昇殿、天皇に拝謁できる人を呼びます。その条件は昇殿の許可を得た人を指しますが、その官位は従五位下(一部勅許で六位の例外あり)が最低条件でした。この朝廷に合わせた武家官位の有資格者(従五位下以上)は将軍拝謁の免許資格者でもあったわけです。本来、大名家当主のみにこの武家官位は与えられていて、一部(新旧御三家・加賀藩)では次期当主の御目見得(おめみえ)として嫡子に与えて拝謁をするというのはありました。その他の大名家の陪臣以下には官位は許されておらず、例え大藩の嫡子・身内でも藩主以外の将軍の前に御目見得というのはあり得ませんでした。ところが将軍に御目見得できる資格を持つ大名家の陪臣が存在したのです。その資格を持っていた大名家陪臣を陪臣叙勲を経た人物をいいます。陪臣叙勲は、藩主もしくは幕府・将軍からの推挙⇒幕府の許可という道筋ですが、大名と同じく前述の朝廷からの位記・口宣案・宣旨などを通した正式なもので、陪臣ながら大名格の扱いだったと云えます。

陪臣叙勲を行うことが恒常的に許されていた大名家は、加賀藩4人の他には駿府徳川家、甲府徳川家、館林徳川家、越前松平家、越後松平家があり、それぞれに定員が定められていました。また臨時的なモノでは親藩・譜代大名家で幕府の老中・若年寄・奉行に就任した大名の陪臣が随行・随伴者として叙勲されていました。あとは特別拝謁の為に将軍・幕府の叙勲指名が一部にはあったようです。

加賀藩での四人陪臣叙勲は加賀八家老家から選ばれていましたが、内二人は加賀本多家前田土佐守家の当主が江戸期を通じて選ばれており、残り二人は八家からその時の情勢から選ばれていました。加賀本多家は加賀藩最大禄高としての筆頭、前田土佐守家は加賀藩祖・前田利家、於松の方(芳春院)の直系男子の血を伝える格式筆頭の両筆頭と云える存在でした。この両家が対幕府、対朝廷工作、対策・政策の総指揮者となっていました。実際、対幕府は本多家、対朝廷は前田利政以来京文化に明るい前田土佐守家と分担していたようです。

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金沢入部以来、加賀本多家は最大所領を誇り、加賀藩における貢献度の高さは突出しています。家祖・政重は新参者として派閥抗争には中立を図っていますが、後代には八家筆頭の一角として、幕府・他藩交渉・対策などの外交面での貢献は高く評価されます。新参者の家柄でもあり、基本的には江戸期を通じて藩内の抗争などには中立的立場と融和を取り続けていました。しかし、幕末から明治にかけて混乱する藩政治を担って先頭に立ったのが11代・本多政均(まさちか)でした。例外と云えば、8代政礼の次男・連弘が長家に養子となり当主となった長連弘が黒羽織党の盟主になったくらい。。ちなみに後述する政均の家老・本多弥一政得は連弘の弟・政醇(本多伊織家500石)の長子になります。
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本多政均写真画像 本多政均(1838~1869)石川県史より
この肖像写真は慶応元年(1865年)撮影 本多政均26歳時 本多家臣が横浜で写真技術を学び帰国後に撮影を試みたもので、加賀藩初の肖像写真と云われています。
ちなみに加賀藩では非公式記録では、大野弁吉が撮影した嘉永2年(1849年)妻・うのを自作湿板撮影、嘉永5年までに撮った銭屋喜太郎と弁吉のツーショットがあります。 

ペリー艦隊の浦賀来航により越中海防担当となっていた兄・政通(10代)と共に行動を共にしていましたが、政通の急死によって11代を弱冠23歳で継ぐと、藩主・前田斉泰(なりやす)の信任を受けて城代家老に就任します。対策や政策ごとに本多家の当主が藩の先頭に立ったことはありますが、藩の全権を受けてトップに立ったのは史上最初で最後でした。本多政均は西洋軍制の導入を始め、軍備の増強を図ると共に藩内の引き締めを強めていきます。元々、火薬保有は質量ともに全国一で加賀藩の帰趨は、幕府・朝廷・薩摩・長州には大きな関心事になっていました。

佐幕派の前田斉泰に変わって藩主となった前田慶寧は尊王攘夷派に近く、斉泰が実権を持ち続けたこともあり、加賀藩内部の方針の対立が佐幕・朝廷の両派に立つ姿勢となり日和見ととられ、新政府樹立後の主導権を握れなかった一因になってしまいました。
尊攘派の大きな狂いは、慶寧が尊攘派を率いた禁門の変において、病気と称して京都を撤退して近江海津で様子見をし敗退すると(陰で長州支援をしたとも云います)、幕府・朝廷双方に弁明する羽目になり、斉泰の指示で慶寧を謹慎させ尊攘派を弾圧・粛清します。慶応2年(1,866年)からは外交担当も兼ねて薩摩藩との交渉を主導していました。これにより、新政府側へと立場を変える端緒となっており、慶応4年の鳥羽伏見戦後には、新政府側を表明して新政府樹立後の参画への藩内断行を行っています。慶寧を復帰させた後、版籍奉還を行い金沢藩とし新政府から巡察使を入れると共に慶寧を藩知事に任命させるために朝廷工作に政均は奔走します。

加賀藩から金沢藩移行の藩政改革が断行されれば、、藩主・慶寧藩知事となり、その下に藩行政を担う大参事が置かれ、更にその補佐として執政が何人か置かれる予定でした。加賀藩末期の執政は本多政均(加賀本多家)・前田直信(前田土佐守家)・奥村栄通(てるみち、奥村宗家)・村井長在(ながあきら、村井家)であり、上席は本多政均で改革の先導者であり大参事は彼が最有力でした。ちなみに執政四人の中では本多政均が改革派、前田直信が保守派、残り奥村・村井は改革中立派とみられていました。藩主・慶寧は復帰後は藩改革には積極派に変わっていましたが、閨閥・側近には以前の保守派閥が多く残っていました。本多政均は実権を握る斉泰、藩主・慶寧の後見を受けて改革を断行していました。実際に明治2年(1869年)6月には加賀藩は金沢藩となり、大参事となった政均は金沢城を出た義寧を本多家上屋敷に迎え、自身は現在の本多町の中屋敷に移ります。そして新組織としてこれからの正念場を迎えるところとなっていました。

本多政均の急激な改革は世上での評判は非常に芳しくありませんでした。
政均の上席を皮肉った『花を見たけれや お席へ御座れ 今は南瓜の 花盛り』 、保守派の前田直信との交代を願う『土佐さん 早うら(はよらと)と 出ておくれ 安房餠や 次第に 手に合はぬ』といった謡が流布していました。ちなみに土佐さん(前田土佐守家)は前田直信、安房餅(本多安房守家)は本多政均をさします。

短期間の急進的な改革は、世論を背景に尊攘派の保守派の憤激を買い、明治2年(1869年)8月、本多政均は金沢城二の丸御殿で尊攘保守派の刺客(実行犯・井口義平、山辺沖太郎)によって暗殺されます。享年32歳。金沢藩は新政権との交渉を一手に担っていた指導者を失い、歴史の渦に飲み込まれ実力を持ちながら、北越戦争の先兵とされ多くの犠牲と共に、新政府要職に参画できず埋没してしまいます。

暗殺からの後日談になりますが、取り押さえられた実行犯が持っていた犯人グループの斬奸趣意書から、連累者4名が捕縛され、帰国した1名が後に自首しています。斬奸趣意書を書いた土谷茂助は事件翌日に捕吏が来る前に自宅で自刃していました。ちなみに決行5日前の集会に実行犯の選抜は逮捕者と自刃した土谷を含めた7名の籤引きで前述の実行犯が決められたそうです。斬奸趣意書には逮捕者以外に集会日に参会しなかった名が4名あったと云われます。

件の斬奸趣意書に書かれていた本多政均の罪状は…
※政均は自己の権力をかさに、藩主・斉泰、慶寧の考えを無視するだけでなく、慶寧に謹慎を強いた。
※政均は金沢藩内に高岡藩(富山ではなく金沢市高岡町周辺)を起こし、自分が藩知事になろうという風聞有。
※政均が元治甲子の変(尊攘派の粛正)における志士の極刑を行ったのはやむ負えなかった。しかし、彼らは憂国の士であり、やり方を誤っただけである。王政復古の際にはその子孫には寛典を施すべきである。ところが、政均は重職にありながら何の処置も行っていない。
※政均は西洋風を模倣し、古来から武器の中心たるたる弓矢剣槍を廃し、この為に士気を貶めた

はっきり言って、この文では中途半端な予測と不満だけしか伝わってきません。事前に政均の登城日を確認していた暗殺者二人は凶行前日を決行日として金沢城からの帰り道を狙っていましたが、政均が屋敷を出ることなく登城しなかったために延期しています。翌日、仲間から政均が屋敷を出て金沢城に登城することを確認、石川門から本丸経由で侵入し広い二の丸御殿に侵入して潜み、議事堂に入るための廊下で待ち伏せています。暗殺時、二人は廊下の左右から挟み撃ちの形はとったものの、剣を突き込む際に政均に対して一礼してから凶行に及んでいます。綿密な計画と冷静な凶行の割に、あまりに曖昧で短絡的な趣意書や後述から後ろに黒幕が居たという推測が疑われていました。わずか一日で色々な名前が挙がっていました。

これらの噂話を打ち消したのが藩知事・慶寧の言葉でした。慶寧は親翰を執政に下し、「政均が行って来た政治的改革が決して政均一人の意見より出たのもでなく、藩知事の意を受け執政の協議からのものである。今後も改革の方針は変わらず続けていく。皆は偏執を捨てて、改革を遵奉するように。」 

慶寧親翰の全文(石川県史より)
大政御一新に付而は、朝命を遵奉いたし追々改革に及候處、中には祖宗以來の舊法を無謂相改候樣存違候者茂有之哉、既に昨日本多從五位を及暗殺候始末、全前後の次第をも辨へず、 右從五位己の了簡を以好而新法を行候樣存込候故之儀に候。 今般藩知(慶寧)事被仰付、列藩の標的とも可相成樣別段厚蒙叡旨候上者、乍不肖此末右御趣意を奉じ大變革も可申出筈之處、一人たりとも左樣心得違之者有之候而は先以對天朝不相濟儀、 且者此方之意を不體政事向之手障に相成、心外至極之事に候之條、此段厚く相心得、心得違無之樣一統へ可被申諭置候也

【訳文】大政御一新になって、朝命を遵奉し、多くの新しい改革を推し進めてきた。中には開祖・前田利家公以来の古法を変えたり無くしたりで様子が違うとする者もいる。この為に昨日、本多従五位(政均)が暗殺されてしまった。しかしこれまでの改革変える気はない。元々この改革は本多政重からの意見をいれて新法として儀典に当ててきた。今般、藩知事(慶寧)はこの事件により一言いつける。天子の意向に無知なままでは列藩の標的になってしまう。不肖ながらこの天子の趣意を奉じ、大変革に出たものである。この一義に馴染まず天朝に対して心得違いをする者を一人も出してはならない。そのような者は礼政事の障りとなり、私にとっては心外至極のものだ。このことを皆は厚く心得え、心得違いの無いように一堂に申し渡す。

藩内的にはこれで落ち着いたのですが、治まらないのは主人を殺害された本多家の家臣団でした。
本多家家老の本多弥一政得の屋敷に家臣団300人が集まり気勢を上げたと云われます。藩知事(慶寧)からは、本来、理由に係わりなく横死者の家断絶が藩の決まりを覆し、後継・資松7歳(12代・政以(もちざね))の5万石相続を許し「主家と資松に累を及ぼすような真似はするな」と本多弥一に念押しをしています。藩知事(慶寧)は本多家への気遣いと共に暴発の監視を強めたわけです。

刑が確定したのは明治4年(1671年)2月で実行犯二人は刑獄寮(現・金沢地方裁判所の地)収監後の自刃命令、残りの4名の内、首謀格の菅原輔吉が3年の自宅禁固、残り3名(多賀賢三郎、岡田茂、岡野悌五郎)は70日間の自宅禁固、脱藩していて自首してきた1名(石黒圭三郎)が、事件とは関係なしとして脱藩の罪で90日閉門となっています。家老暗殺事件としては軽い処分といえます。当主を暗殺された本多家では本多家家老職・本多弥一を中心に140名が連著で藩庁に嘆願書を10度に渡り提出、「実行犯の下げ渡しもしくは処刑人を本多家から」と藩庁に要求しますが受け入れられませんでした。このため、刑獄寮襲撃を図りますが、時すでに刑が執行され、偵察の報告で暴発は未然に終わっています。

この時にも藩知事・義寧からの警告と集会を禁じられています。弥一も屋敷庭園に家臣団200名を集め、藩知事の厳命を伝えています。金沢藩移行後、藩主(藩知事)は金沢城から本多家上屋敷に移っており、その崖下になる本多家下屋敷地は厳重な監視下に置かれていました。ちなみに、藩庁も金沢城二の丸御殿から長家屋敷(現玉川図書館の地)に移っていました。明治4年7月、廃藩置県が発布、金沢藩が消滅、金沢県が発足します。加賀前田家も免官となり東京本郷移転を命じられ、正式に加賀前田家は北陸から去っています。

太政官御沙汰書 今般藩を廢し縣を被置候に付ては、追而御沙汰候迄大參事以下是迄之通事務可致事。辛未七月(明治四年)【訳文】今般藩を廃し県を置かれ候については、おって御沙汰候まで大参事以下これまでの通り事務いたすべき事。

政均暗殺の共犯者とされ禁固刑に処された岡野悌五郎多賀賢三郎は刑を終え、県の役人小属に任用されていました。脱藩していたために閉門となった石黒圭三郎は漢学者・桂正直と変名して東京に潜伏していました。3年自宅禁固の菅原輔吉は自宅で句読の教授を行っていました。

しかし、本多弥一の執念は消えるものではありませんでした。。屋敷内で読書会と称して、同志を集め満を持していたと云われます。その際の読書会の教材は赤穂義士を称賛した室鳩巣の「赤穂義士録」などで、「第二の義士として、主君の仇敵を討つ」という意思を固めて行ったと云われます。しかし、金沢藩・金沢県の厳しい監視と金沢市井の噂により読書会も開催できなくなり、弥一も同志を厳しく選別したこともあり15人と大きく減っていました。しかし15名は行動を起こします。

明治4年11月23日本多弥一以下4名(他1名は連絡役として同行)、長町の県庁からの退庁を待ち伏せ、岡野悌五郎襲撃斬殺。そのまま県庁に自首しています。同日後刻、7名(2名が門前の見張役から参戦、変わって長町からの連絡役・清水金三郎が見張役)が菅原輔吉宅を急襲、輔吉も槍の名人と云われ反撃、激闘の末に輔吉は首を落とされています。そのまま7名も県庁に自首しています。
24日、事前に関西出張の多賀賢三郎を追った2名が長浜で刺殺。これまた彦根県に自首、金沢に移送されています。
石黒圭三郎を追っていた島田伴十郎・上田一二三は発見できずに断念、帰郷後、共犯として自首しています。
ちなみに桂正直と改めた石黒圭三郎は江戸で漢学者として名を高め、明治17年に金沢に帰郷、金沢学校教員となり、明治38年の廃校と共に隠棲、大正元年(1912年)12月小野慈善院(現陽風園)で死去74歳。墓所は野町本覚寺と云われています。

15名は刑獄寮に収監され刑を待つことになります。江戸期には主の敵討ちは義勇を重んじた武家時代には壮挙とされ、義士として持て囃されましたが、明治政府の時代には逆に殺人罪として裁かれることになります。しかしまだまだ武士の気風の残る時代、県幹部の中にはこの仇討ちには同情した者も多く、刑獄寮では15名は特別待遇を与えられていました。さすがに面会は厳禁でしたが、文通や差入れの授受は黙認、審問・後述書作成以外は自由で定期的な庭での散策が許可されたと云われています。

刑が確定・判決が下されたのは翌年11月1日。この時には金沢県は石川県と改められ建都も金沢から美川に移されて9カ月。わずか5年間の内に加賀藩・金沢藩・金沢県・石川県(美川県)そしてその1年後には県都が金沢に戻っています。わずか5.6年の間にこれだけの変革が起きたのは石川の激動期を象徴する時代で、この事件はそれを象徴する事件と云えました。

判決は、実行犯12名自裁(切腹)世襲俸禄は子孫にそのまま相続、長町(当時の県庁、現玉川図書館)・小立野与力町(菅原輔吉宅、現金沢大学病院構内)双方の連絡・見張役となった清水金三郎禁固10年、未遂犯の島田伴十郎・上田一二三禁固3年となっています。週末ということで刑の執行は翌週の3日後に執行され、遺体は即日家族に引き渡されています。この執行日より彼ら12人は十二烈士(義士)と呼ばれることになります。
本多家十二義士墓所 野田山・大乗寺境内
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彼らの墓所は本多家菩提寺の大乗寺にあります。本多家歴代当主の墓所を守るように墓石表面が当主墓所に向かい、十二基の墓標が一列に並んでいます。その傍らには五基の墓標が殉じるように建っています。五基は大正3年(1914年)に建立されたものになり、十二義士に準じる人物として建立されたようです。うち三基は仇討ちに参加し禁固刑となった清水金三郎・島田伴十郎・上田一二三になります。残りの二基は、、十二義士の処刑の翌日朝、本多政均の墓前で追い腹を切っていた本多家小将(小姓)組・竹下卯三郎直久、政均暗殺後、本多弥一に同志加入を懇願したが、直久が本多家家臣の竹下家に養子になって日が浅く弥一は断っていました。ちなみに十二士の埋葬前を狙った追い腹の際に介錯・進藤珍治郎と介添に河合八十之助の二人が協力したそうです。もう一基は十二士の処刑一か月後に自害した元本多家家臣で准中尉・諏訪八郎師文、十二士から石黒圭三郎探索を依頼され江戸で探索しながら東海道に逃げられ島田伴十郎・上田一二三に追討を断念させ自責の念から自害したと云われています。

新渡戸稲造の武士道は義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義という語で表していますが、時代や場所によって比重は当然ながら変わっています。加賀藩の武家社会では特に江戸後期には義・勇を重んじる傾向がありました。正義を守り、死すべき時に死に、討つときには討つ、これがはっきり表れたのが、本多播磨守政均暗殺であり仇討ち事件でもありました。そして本多十二義士が明治の忠臣蔵と呼ばれ日本最後の仇討ちと云われる由縁です。

明治新法規では天誅はもちろん仇討ちは単なる殺人罪となっていたのです。明治4年7月の廃藩置県によって完全に藩が消え武家は士族となったとはいえ、武家意識や気風・不満の抜けぬ明治初期に起きた仇討ち事件は大きな衝撃を明治新政府に与え、法規だけでなく明治6年2月には正式に太政官布告として復讐禁止令が発布されています。

人を殺すは、国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは、政府の公権に候処(そうろうところ)、古来より父兄の為に、讐(あだ)を復する以(も)って、子弟の義務となすの古習あり。右は至情不得止(情において留めることができないの意)に出ると雖(いえども)も、畢竟(ひっきょう)私憤を以って、大禁を破り、私義を以って、公権を犯す者にして、固(もとより)擅殺(せんさつ、ほしいままに殺すの意)の罪を免れず。加之(しかのみならず)、甚(はなはだ)しきに至りては、其事の故誤を問わず、其の理の当否を顧みず、復讐の名義を挟み、濫りに相構(あいかまえ)害するの弊往往有之(往々に崩れることが見られるの意)、甚だ(はなはだ)以って相不済事(事が済むことではない)候。依之(これにより)復讐厳禁仰出され侯。今後不幸至(にして)親を害せらるる者有之於ては、事実を詳(つまびらか)にし、速(すみやか)に其(その)筋に訴え出づ可く侯。若し其儀無く、旧習に泥(なじ)み擅殺するに於いて相当の罪科に処す可(べ)く候条、心得違い之無き様致すべき事。
明治9年3月には帯刀禁止令(廃刀令、大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件)が太政官布告として発令されています。この時点では所有・所持までは廃止していませんが、帯刀という武士・士族の特権の象徴を廃止し、同年には秩禄処分が発令され実質的に士族特権(家禄・土地所有など)が消滅したことにより、士族自体が否定されたわけです。士族が廃された=武家・士族の仇討ちが消え去ったと云えます。
特権・報奨を奪われた旧士族の不満がその後の士族反乱の頻発、更には紀尾井坂の変に繋がったのは否めない副作用になったのも事実です。

日本最後の仇討ちに関しては、主張するものは、本多十二義士の他にも何件かあります。それぞれに主張の長短はありますが、ここに僕の知る最後の仇討ちを主張する事件を記しておきます。

※本多家十二義士仇討ち 被害者:加賀本多家当主・本多政均(明治2年(1869年)8月7日金沢城二の丸御殿廊下) 加害者:本多政均反対派 仇討者:本多家家臣団15名(明治4年11月23.24日) 場所 金沢・近江長浜 処分:仇討実行犯12名切腹、3名禁固刑・・・この事件発生で復讐禁止令更に帯刀禁止令を政府に発令させた。

※臼井六郎仇討ち事件 被害者:秋月藩重臣・臼井亘理(死亡)、亘理妻(死亡)、亘理娘つゆ3歳(負傷)(明治元年(1868年)5月23日白井亘理邸) 加害者:干城隊(尊攘派)・山本克己(後名・一瀬直久、東京上等裁判所判事)他数名 仇討者:臼井六郎(臼井亘理長子)(明治13年12月17日) 場所:東京三十間堀(現東京新宿) 処分:終身懲役(明治23年帝国憲法発布で特赦)

※石貫の仇討ち 被害者:肥後藩士・下田平八・中津喜平(文久6年(1861年)4月6日肥後細川藩江戸藩邸) 加害者:入佐唯右衛門 仇討者:下田田鶴(平八妻)、恒平(平八長子)、島崎真八(平八弟)・中津寿乃(喜平妻)(明治4年4月16日) 場所:肥後石貫うつろぎ谷(現玉名市石貫) 処分:家禄復活・褒賞

※山中渓境橋の仇討ち 被害者:土佐藩士・広井大六(安政2年(1855年)土佐国(現高知市?)) 加害者:棚橋三郎 仇討者:広井磐之助(大六長子)(文久3年(1861年)6月2日) 場所:山中渓境橋(現大阪府阪南市、紀伊・和泉境) 処分:無罪・家禄復活

※高野の仇討ち 被害者:赤穂藩(森家)家老・森主税、儒学者・村上真輔(天谷)、村上長子、次子他2名(文久2年(1862年)12月9日赤穂藩?) 加害者:尊攘派7名(明治4年2月9日)仇討者:村上四兄弟(天谷子)・天谷弟子3名 場所:紀伊高野山神谷(現和歌山県紀伊神谷)処分:一審全員死罪判決後、西郷隆盛の斡旋で懲役10年・准流10年に減刑

以上が僕が知る日本最後の仇討ちを主張するものです。それぞれに主張理由はあるのですが。。簡単に。。

※本多家臣は長々と説明したので割愛。。

※臼井六郎・・菊池寛の「遺恨あり‥」を始めとして多くの小説・ドラマ・映画になっていますので、最期の仇討ちとしては一番著名。仇討ち日時が明治13年と5件では一番最後になります。

※石貫の仇討ち・・明治期に処分決定の公的機関の藩府が裁定を翻し激賞・褒賞を施した唯一事例

※境橋の仇討ち・・5件の中で唯一、藩から仇討ち許可状の出ていた正式な仇討ち ちなみに仇討ち許可状の斡旋は坂本龍馬・坂本直(龍馬の甥、高松次郎)の要請で勝海舟が土佐藩に斡旋したもの

※高野の仇討ち・・この仇討ちによって復讐禁止令の草案が開始された。審議中に本多家家臣団の仇討ちで禁令が決定。

加賀本多家が越中返上回避・寛永の危機回避で江戸期の加賀藩を確立させ、終末の加賀藩・金沢藩における最期を象徴する事件に係わった事実は興味深いものがあります。


旅行日 2019.08.18



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この記事へのコメント

  • tor

    大作が続きますね。
    とてもこのような長文私には書けません。
    加賀本多家についてはあまりなじみがなかったのですが
    家老にまでなる力と家訓もあってのことですね。
    「村雨の壺」実物を見てみたいです。
    最後の仇討ちは熊本にもあったなと思っていたら
    しっかり書かれてましたね。
    「日本最後の仇討ち報謝塔」が市内の路地に有り
    玉名市石貫の仇討の地とあわせて
    ブログで紹介したいと前々から思っています。
    2019年09月03日 19:21
  • つとつと

    torさん
    最初は本多博物館の展示品を紹介する記事にしようと思ったんですが、写真撮っちゃったのに。。で、すっかり取り留めのない記事になってしまいました。来年の夏には工芸館も開館しますから、文化面の一大スポットになりそうですが、本多蔵品館時代から好きな資料館で、とにかく保存状態が良く銘品が多いんです。見る価値は十分ありますよ^^
    石貫うつろぎ谷の仇討ちは色々聞いていますが、護送役人の協力が無ければ、実現しなかったでしょうねえ。報謝塔には田鶴が10年通った観音堂があったそうです。ただ肝心の観音様は後の作で、本物は水前寺の個人宅にあると聞いています。いろいろなトラブルがあったようです。
    そうそう九州といえば、一番有名な臼井六郎氏は特赦後は妹の嫁ぎ先の縁でお団子屋を営み、鳥栖駅前で八角亭(やすみてい)という駅待合所を営んで生涯を終えたそうです。いろんな小説やドラマでは後半生は苦労の連続のように書かれたり描かれていますが、穏やかな生涯を送ったようです。
    2019年09月04日 11:57
  • がにちゃん

    明治に入ってからも敵討ちは行われていたのですね。
    判決の中には、無罪や報奨まで出ていたものもあったのですね

    21世紀美術館や博物館 一度じっくりと見てみたいと思っています
    色々回っていくとどうしても時間が足りなくなります

    前田家もすべてが一致団結とはいかなかったようですね


    2019年09月05日 14:34
  • つとつと

    がにちゃんさん
    明治新政府が出来て仇討ちは禁止となっていましたが、正式な政令にはなっていませんでした。とはいえ、正式な仇討ちは一件もなかったんです。
    無罪になった境橋は、仇討ち免許状が発行された江戸期最後の正式な仇討ち事件でしたし、褒賞の出た石貫は新政府を無視した肥後藩庁の独断の結果でした。復讐禁止令・帯刀禁止令の切っ掛けと決断になったのがこの本多家臣団の仇討ち事件だったということです。
    加賀藩は家老協議制で、藩主・家臣の独裁を禁じて来たのですが、歴史を見ると幾つかの独裁断行が見られます。特に経済破たん時や幕末の混乱期は仕方がなかったのかもしれません、
    金沢も狭いようで広いし、日数が無いと廻り切れないと思いますが、面白い場所はまだまだありますよ^^

    2019年09月05日 18:35
  • 藍上雄

     加賀本多博物館、本多家の家宝実際に使われていたリ、功労の品だったりで、それぞれに色々なエピソードはあるのでしょうね。鎧兜や刀類(ネットで少し拝見しました。)戦の用品ですが、美術品と言っても差し支えないほど洗練されたものだと思います。
     「仇討ち」の話は興味深い物が有りますね。もともとは戦と敵討ちの線引きは難しいと思います。(或いは規模の違いか・・・。)現在では、個人が個人を処罰することを禁じていますので、大人しくするしかありませんね。
     
    2019年09月05日 20:48
  • つとつと

    藍上雄さん
    本多博物館の展示品は入替があるので、訪れた問いには多少の当たりはずれはありますが、当主・当主夫人の火消装束の刺繍は間近で見ないと和解難いですが細かい意匠で素晴らしいものがあります。初代の鎧や刀剣類は実際に使用したもので実践的ですが、非常に装飾にこだわっていたのが窺われます。仇討ちというのは法治国家では難しいですねえ。。江戸期は仇討ち免許状の発行が、歯止めになっていましたが、やはり負の連鎖は免れませんねえ。。ただ、凶悪・陰湿な事件に遭遇すると考えざる負えませんねえ。。それと警察能力と法の整備が時代に合わないとまたゾロそういう話が蒸し返されるのかもしれません。
    2019年09月06日 10:29
  • yasuhiko

    本多家の15代目ご当主は、今は本多博物館の
    館長さんを務められてるんですね。
    かつてサラリーマンだった頃、どこに転勤しても
    素性を知られてしまうというエピソードに
    思わず微笑んでしまいましたが、地元でこのような
    名誉職に就かれる事は、いかにも相応しい気がします。
    前田家の現ご当主とは、今でもさまざまな形で
    お付き合いがあるんでしょうか。博物館には、
    本多正信ゆかりの鎧兜が展示されていたりして、
    さすが歴史を感じさせますね。
    2019年09月08日 14:33
  • ミクミティ

    加賀本多家の始まりから、各時代での活躍や浮き沈み、凄く中身の濃いレポートですね。加賀本多家の大作と言えますね。
    前田家がどうして本多政重を受け入れ、本多家が藩内で重要な位置を占めていったかがよく分かりました。中央へのパイプは何より藩の存続に大事だったのでしょうね。
    その本多家が幕末にも藩内で様々なかかわり方をしたのですね。あまりに重臣が多く加賀前田藩が藩論を統一して行動するのが大変だったのだろうということが伺えます。やはり時代の変動期には、カリスマ藩主が必要だったのですかね。
    2019年09月08日 14:50
  • つとつと

    yasuhikoさん
    以前までは本多正信=陰謀家で怖いイメージが強く、社内ではどこか敬遠される存在になっちゃったようです。実際にあって見ると穏やかで人の良い方ですよ^^向こうは憶えていないでしょうが、蔵品館に行くと何故か出会っちゃうって、、ゆっくりお話をしてくれるんですよ^^でも来館者にはだれでもみたいで、いつもニコニコした良い方ですよ^^
    正信使用のものは袖とかはハコに保管されていますが、400年以上前とは思えない色スカイが解る品で貴重な存在です。初代使用の鎧兜は補修が施されてピッカピカです@@みるかちはじゅうぶんにありますよ^^
    2019年09月08日 21:48
  • つとつと

    ミクミティさん
    幕藩体制が定まってしまうと、有力藩といえども、幕府との折衝は必要ですし、パイプは絶対条件ですねえ。。その点で政重は自分の勤めた主家には尽くすタイプで最適だったんでしょうね。。しかも、加賀藩には先に努めた宇喜多家の正室豪姫が居ましたから尚更ですねえ。豪姫以下本多政重を含め宇喜多家出身家臣団は利常の重要な後援者になっていました。
    本多政重の凄い所は父が死に、兄が失脚してパイプを失いながらも、貢献しているところで、実兄の死後には利常と共に保科正之と親密な関係を構築しているところです。寛永の危機では正之の助言が利いたと云われています。臨機応変に動いたところ、武辺ばかりでないことを証明しているところですね。
    加賀藩は八家や万石取が12家あり、政策には合議制と全員賛成の条件がありました。しかし、急激な改革には革新派のカリスマが必要でした。
    加賀藩の急進的な改革時には、大槻伝蔵・前田直躬・奥村栄美・長連弘そして幕末明治の本多政均と指導者が登場しています。これは必須条件ですね。
    2019年09月08日 22:24
  • まだこもよ

    使わなくなった時点で 一時的には「ごみ」になっていたのでは?
    と 思ってしまいますが 大事に保管した人のおかげで 今の時代に 見ることができるんですよねぇ~
    2019年09月10日 17:26
  • つとつと

    まだこもよさん
    確かにそうなんですが、やはり原本は大事ですねえ。そのために、日本には写本という伝統もあるし、特に江戸期はリサイクル世界で物は必ず取って置く世界。。今のように全てをデジタルに頼るのは危険です。
    2019年09月10日 22:52
  • 家ニスタ

    えっ、国立近代美術館の工芸館って、金沢に移転するのですか?
    ぜんぜん知りませんでした。
    赤レンガミュージアムには県立歴史博物館と本多博物館・・・。
    これは見のがせない美術館・博物館の一大集積地になりそうですね。
    僕もこんど北陸をおとずれるときには、絶対にわすれずに寄りたいと思います。
    2019年09月21日 11:56
  • つとつと

    家ニスタさん
    今年の秋には建物改装が済んで、来夏には開館予定になっています。国の地方分散の第一弾になるようです。来夏には金沢城玉泉院丸と尾山神社(出丸・金谷御殿)の間に鼠多門と鼠多橋が復元されます。来夏から秋にかけて、楽しみなことになりそうです。
    県立美術館・広坂別館工芸館・歴史博物館・本多博物館と並ぶことになります。出品物だけでなく外観は明治・大正の旧陸軍建物で外側だけでも見る価値が大きいので楽しみにしています。
    向かいの県立伝統工芸館の老朽と取り扱いが今の課題ですが中身はお薦めです。巽御殿もあるのでこの一帯は来夏以降は注目の場所になるでしょうね。
    2019年09月22日 08:15

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