七ヶ用水大水門

前回の加賀一の宮駅舎から、金名鉄道線路だった真新しいサイクリングロードを二人で歩いて、古宮公園の方に
以前は、大回りしないと古宮公園の奥に行けなかったんですが、整備されたおかげで目的地には一直線。。

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ちょうど曲がろうとしたところで、嫁さんが@@「ねえねえ、あのガラスのピラミッドみたいのは、な~~に?」「えっ、あ~前に来た時、教えてあげたじゃん・・」「覚えてない。。わたし見てくる~~」
嫁さんが見に行ったのはこれです。
149250353180684048179_DSC_2877.jpg古宮公園 瓦笥発見保存地 2017.04.14撮影
白山本宮(白山比咩神社)が、この地にあった時代の1700に及ぶ大量の瓦笥(かわらけ、土師皿)が発掘されたもので、そのほとんどが神事に使用されたもの。まあ、白山本宮のゴミ捨て場。

白山本宮がこの安久濤(あくど)の森に文明12年(1480年)まで、長い期間あった伝承が証明されたものです。
白山本宮はこの年に火災で焼失、白山三の宮(現在地)に仮遷座していましたが、世紀を跨いだ前田利家の修復で現在地に固定されました。おかげで本来の三の宮が消失、白山比咩神社の町名・三宮町としてだけが残っています。
後で思い出しましたが、昨昨年、家族で来た時に何があるとは教えたけど、あっちウロウロこっちウロウロで佇むお父さんを無視して二人はそそくさと先を歩いていて、その時は見なかったようです。
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曲がった先にある建物は「手取川七ヶ用水土地改良区白山管理センター」という長い名称の建物。
白山市・能美郡川北町・野々市市・能美市更に金沢市・小松市の一部に広がる加賀平野の農業用水や生活・水力発電などに活用されている七ヶ用水の調整を管理する司令塔や案内所になる建物です。

七ヶ用水(しちかようすい)の名の由来は、富樫・郷・中村・山島・大慶寺・中島・砂川(現、新砂川)の七つの用水路からと云われています。
手取川本流と安久濤ヶ淵 対岸の緑の屋根は道の駅・しらやまさん
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手取川は古代からの暴れ川で、氾濫で流れが行くたびも変わっており、近世に入っても本流が直角に曲がる能美だった和佐谷が大きく浸食されおり、道の駅が飛び地で能美市になるのも手取川の氾濫と浸食によるものです。元々は手取川の本流は北方の山岳寄りに流れていたと云われ、古代から繰り返された氾濫によって、本流が八度も流れを変えたと云われ、前述の用水路は手取川本流の跡だと伝承されています。

現在とは違い古代から中世にかけてはこれらの用水路は手取川から取水はしていたものの、あくまで小川でしたが、江戸時代までは貴重な水源として農業用水はもちろん飲料水としても重視されていました。この為に汚物を捨てることはもちろん、川で汚物を洗うことも禁じられ、農民にとっては生まれてから死ぬまでの霊水であると教え伝えられてきたものです。
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左:小山良左衛門・枝権兵衛顕彰碑
右:七ヶ用水完成碑
白山本宮が古くにあった安久濤の地は岩盤地帯で前述の和佐谷の浸食前には直角に曲がる手取川本流がぶつかる地(安久濤ヶ淵)でした。この豊富な水を取り込もうと考えたのが、加賀藩産物方・小山良左衛門、地元の肝煎・枝権兵衛になります。
元々は最上流の富樫用水の改修工事に紛れたものですが、江戸晩期から25年の歳月をかけた明治2年(1869年)安久濤ヶ淵から岩盤を掘り抜いて300mの洞門を貫通させて、七ヶ用水の基礎を築いています。その間には小山良左衛門は藩の御用金を横流し、枝権兵衛は財産をすべて注ぎ込んだとも云われています。
七ヶ用水 大水門 給水口
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七ヶ用水 上:隧道排出口 
右:下流幹線水路 2008.06.12撮影 
加賀平野を潤した枝権兵衛の導水でしたがあくまで富樫用水に限られたもので、その後も七つの用水は独自に堰や水門を築いて手取川から直接川水を取水・導水していました。当然ながら、洪水や冠水には苦労していたようです。
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七ヶ用水大水門入り口
明治になって用水事業の合同化が進み、明治31年(1998年)に水害対策と用水の安定供給のために七つの用水の為に導入路となる大水門と3本の隧道・7.8キロの下流幹線水路が着工、明治36年に完成しています。同年には手取川七ヶ用水普通水利組合(手取川七ヶ用水土地改良区の前身が発足しています。
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明治の大改修と呼ばれた難工事は、オランダから招聘された土木技師、ヨハネス・デ・レーケの指導により進められ完成しています。レーケは国内の数多くの治水・砂防・治山を数多く手掛け、体系づけた功績から「日本砂防の父」と呼ばれています。
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現在も現役として稼働し、高い石柱を持つ大水門と煉瓦巻きアーチの給水口の美しい姿から、平成21年(2009年)土木学会により土木遺産に選奨されています。これは平成16年選奨の白峰甚之助谷の甚之助谷砂防堰堤群に次ぐ二例目の選定でした。
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県内の土木遺産は、前回紹介した手取川霞堤(能美市・能美郡川北町、平成24年選奨)、辰巳用水関連施設群(金沢市、平成30年度選奨)など四件が選定されています。

毎年、9月から3月にかけては農業用水の需要が減る時期で、この期間は大水門・隧道などの点検や整備に当てられています。更にこの期間に1~3度、隧道内の一般見学が行われています。今年は10/19に行われていました。長靴必須。行きたかったなあ。。

白山頭首工(しらやまとうしゅこう)2019.10.20撮影
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白山頭首工 昭和12年(1937年)に水力発電の取水・導水路、水害対策として竣工されました。農業用水も計画されましたが戦時で中断され、昭和27年に50㎝嵩上げされ、農業用水の取水・導水路が竣工しました。
上:通路右が農業用水路、左が発電用水路 中:右から右岸固定堰・魚道・土砂吐ゲート 下:右から魚道・左岸固定堰・中央固定堰・右岸固定堰
白山頭首工は平成26年(2015年)から5カ年計画で70年ぶりの全面改修・改造工事の真最中、春に完成予定でしたが2年ほど工事が遅れています。農閑期しか工事が出来ないことと今年は雪不足で水不足で用水が4月からフル稼働で。。秋になって待ちかねたように工事が再開されています。現在、奥に堰を設けて遮断、土砂吐ゲートを一門新設しています。まだ取水口の補修がありますから2年は掛かりそう。
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水力発電用水路 山からの排水も多いのが解ります。
昭和9年(1934年)手取川大洪水による和佐谷の浸食、逆に安久濤ヶ淵が土砂で埋まり掘り起こしたものの、本流も大幅に変わってしまい、淵に流れが来なくなり大水門への入水に支障を来す事態に追い込まれてしまいました。
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更に水災対策と白山水力発電所の建設計画によって発電所用の取水堰堤現・白山頭首工)が昭和12年に築かれ、下流の水量が下がり七ヶ用水・宮竹用水取水口に支障を二重にきたしていました。手取川左岸・能美市の水源を一括で担っていた宮竹用水天狗壁の岩盤に穴をあけて取水を行っていたのですが、水位の降下で穴を掘り下げることになりましたが、地形の変化には追い付けないものがありました。
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白山水力発電所水門 2017.04.14撮影
左の作外が七ヶ用水路
終戦後の農地改革に続き昭和27年に土地改良法が制定され、水利組合は土地改良区にと改組されています。違いが解りにくいと思いますが、戦前の組合は地権者(地主)や堰・水門の権利者といった限られた特権階級が組合員で、土地改良区は戦後に増えた自作農を地権者として組合員にしたところに大きな違いがあります。名称が土地区画みたいに思えますが、農業協同組合と並ぶ農業団体になります。農業団体は前述二団体以外に、農用地の売買賃借の許認可などの活動の農業委員会、農災害に対する保険事業の農業共済組合、林業者の協同組合の森林組合が主要農業団体になります。

農業政策の発展・反映には大きく寄与した農業団体ですが、政策や農業者への発展にはこの団体機能民主的運営団体相互の連携が不可欠だったのですが、ここにきて団体法人自体の利益・収益優先の肥大化によって、農業者への機械や農作物の押しつけや囲い込み、本来農業者の共済が一般人に対する一般保険業になるなど、本末転倒や農業停滞・農業未継承他の弊害の原因にもなっており、昭和末以降、組合解体や見直しが叫ばれるようになったのはこの為です。
白山頭首工からの農業用水路
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また余分なことを書いてしまいましたが、国や県と連動した手取川七ヶ用水土地改良区・手取川宮竹用水土地改良区が戦後に果たした役割と実績は大きいものがあります。昭和の大改修がスムーズに進んだのも土地改良区の存在が大きかったと云えます。
白山水力発電所からの農業用水路 左は発電所からの放水路 2017.04.14撮影
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農林省直轄事業として枯渇する七ヶ用水の取水口を780m上流の水力発電用水路と同じ白山頭首工(しらやまとうしゅこう)として、水量増量の為に堰堤の高さを50㎝嵩上げ、780mに渡る大水門・入水口までを導水路で繋いだわけです。更に幹線水路(新砂川用水)を整備して各七ヶ用水に配流する形式になり、この時に旧富樫用水が野々市などを流れる高橋川になり、新富樫用水は郷用水と取水口を共有して、後に富樫用水を引き継いだ流れになっています。対岸の能美市には幹線水路から天狗橋近くから逆サイフォン管によって、七ヶ用水3:宮竹用水1の割合で分水されています。昭和27年から37年頃には140キロに及ぶ加賀平野を潤す用水路が完成しています。更に昭和42年大日川ダム、昭和54年手取川ダム、昭和57年水路の大改修・補修によって安定供給が実現して、現在の水に満ちた姿が現出しています。平成に入ってからは用水路の老朽化改善・雨水排水・水辺公園化などの改修が進んでいます。

白山頭首工から780mの導水路大水門と入水口、更に排出口幹線水路は白山市・能美市・川北町に広がる加賀平野の源となる象徴といえます。
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ついでに前回紹介した手取キャニオンロードはこの交差点を右に行って終点でしたが、ここから真っ直ぐに加賀一の宮まで新しいロードが新設されています。左に建つ高圧線鉄塔は全国でも珍しい大河を越える高圧鉄塔です。また用水路を見ながら水力発電所、いろんな風景や眺望が観れますし、春には桜並木も観られる好コースです。
旅行日 2019.09.01 10.20




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この記事へのコメント

  • 藍上雄

    白山比咩神社の移転によって、地名が決まっているのですね。分かりやすいです。(古宮・三ノ宮)と言うことは、
    二ノ宮もあるのですね。
    七ヶ用水と言うのは、基本的には、農業用ダムとも、ちょっと違って、流を分岐させているのかな?大水門が出来たのは、明治なんですね。現在の味気ないコンクリート製とは、違ってちょっと粋な、雰囲気です。
    江戸時代に
    小山良左衛門氏や枝権兵衛氏のような、用水土木に情熱を持った方が、江戸時代に居たことは、素晴らしいことですね。
    2019年10月21日 17:51
  • がにちゃん

    明治時代の建物は、重厚で趣あるものがありますね
    この大水門なんかいいですねぇ
    農業用水路は京都の疎水を思い浮かべますね
    2019年10月21日 18:00
  • tor

    こんばんは。
    富樫用水はつとつと様のブログに何度か登場していますよね。
    暴れ川の手取川の治水と灌漑。
    まさに自然との闘いですね。
    それは現在も続いていますが
    千曲川の堤防決壊による被害をみると
    自然との闘いは大変ですね。
    千曲川も名前のように曲がりくねっているのでしょうね。
    七ヶ用水大水門すばらしいですね。
    見学してみたいです。
    ダムも何度か見学しましたが
    昨年の愛媛の水害はダムの放流が原因と言われていますし
    管理も大変かと思いますね。
    ちょっとブログの内容と外れて長くなりました。
    つとつと様の獅子頭に刺激されたわけではないのですが
    唐津市の曳山展示場へ行ってきましたよ。
    2019年10月21日 19:19
  • つとつと

    藍上雄さん
    いやいや、ちょっとややこしいのですが、元々は白山比咩神社は白山本宮(しらやまほんぐう、もとみや)と呼ばれていたんです。本宮が古宮の地にあった頃、尾添に中宮、現在地に三宮があったんです。本宮が焼失したために三宮に仮遷座したんですが、前田利家が本宮再建時にそのまま現在地で再建したために三宮は消滅して地名だけになってしまったんです。なので、正式な二宮は白山麓にはないんです。本宮(古宮・本宮の跡地)・中宮・三宮・剣宮・別宮・佐羅宮・岩根宮が加賀白山本来のの主要神社(白山七社)になります。
    大聖寺(加賀市)の菅生石部神社が加賀二宮を称していて、白山比咩神社と石部神社(加賀総社)が加賀一宮を主張しています。けっこうややこしいでしょ。
    七ヶ用水は分流というより、取水で本当の意味で用水路と云えますね。白山頭首工がダムの役割で分岐させて発電・農業用・本流に分けています。
    確かに明治・大正のこういった構築物は味わい深い構成にも残る雰囲気をまとっています。単なるコンクリや金属では出ない雰囲気ですね。
    2019年10月21日 21:32
  • つとつと

    がにちゃんさん
    本当に明治・大正期の建物・構築物は味わいがありませねえ。七ヶ用水の大水門の給水口と排出口では全く違った顔があるんですが、用水路に沿って歩くと水の流れには、安心感と誘惑、水量と早い流れの怖さ、様々な思いを感じます。
    滋賀に住んだおかげで、京都に流れる琵琶湖疎水は意外に身近に感じましたが、取水口の浜大津の三保が崎、蹴上発電所のレンガ建物、たまらなく美しい疎水の風景は水あってのものですねえ。。まだ、三保が崎から御陵、後は飛び飛びで、いつかすべてを歩いてみたいと思っています。


    2019年10月21日 22:11
  • つとつと

    torさん
    台風19号の災害で河川の怖さを改めて思い知らされましたが、治水・治山対策に目が向けられていますが、ダムや堰には自然を捻じ曲げる功罪もあることは忘れないで欲しいですね。安易な構築は山村を沈め、自然を破壊することを忘れて欲しくありません。やはり荒れてしまった山林の整備が先だと思います。ダムは許容を越せばそれまでですから。。
    長野を流れる千曲川、新潟を流れる信濃川が一つの川だと初めて知ったという人が多くおられたと思いますが、千曲川だけで見れば、高低差は北陸の川に匹敵します。その上、高低差が激しく曲がりくねった川で、川幅も水量も多い、間近で見ると怖いくらいで氾濫を繰り返す川なのに、治水に関しては正直遅れていると思います。
    七ヶ用水の用水路や水門内の隧道は秋から春先には特別公開で隧道内が見られますが、その時に間近で見られます。普通は僕みたいに足がすくむような崖の縁からしか覗き見れないんです。何度も近くまで一緒に行っていながら、高所恐怖症の嫁さんは未だに大水門の姿を見たことないんです。
    お~~唐津くんちですねえ^^曳山というと北陸では京都のような曳山なんですが、唐津くんちは全く違いますからね。特に鯱は獅子頭にしか見えませんからねえ^^;そうそう今日ニュースでこちらで流れたんですが、唐津の曳山修復を輪島塗が手掛けるのが決まったそうです。明治までは輪島塗が施されていたそうです。昔に戻そうという試みらしいです。しかし明治まで輪島塗が係わっていたとは思いもしませんでした。
    2019年10月21日 22:49
  • イータン

    つとつとさま こんにちは〜
    台風19号での水害 改めて水に対する対策を考えさせられました。
    過去の災害の度に見直されてくるのでしょうが、対策がまに合わないというのが実情でしょうか。
    明治からの七ヶ用水大水門 素晴らしく歴史を感じます。
    「七ヶ用水門」の入り口から高い石柱とレンガ巻きアース給水口には魅了されます。
    土木遺産に頷けます。
    2019年10月22日 15:50
  • ミクミティ

    治水工事は、昔から人々の暮らしにとって非常に大事なものだったはずですね。それだけ、手取川が重要な川であったことがしのばれます。
    七ヶ用水大水門も、当時の最先端の技術を使いお金をかけて工事したのですね。レンガ造りの柱も重厚感があって味があります。
    こういう基礎があって、その後の農業や工業用水の施設が発展し、発電へまでつながっていた歴史を感じることができます。
    2019年10月22日 17:26
  • つとつと

    イータンさん
    2度の台風でイータンさんのお家が無事で安心いたしました。治水対策は残念ながら災害が起こった後に重点的に見直すというのが現状になってしまっています。北陸と関東では河川の特性が違うので河川対策は全く違っています。北陸と違って太平洋側の河川は長くゆっくり流れています。その為に河川を深く広く取っています。その分限界を過ぎると今回のように恐ろしいことになってしまいます。もちろん護岸対策やダムや分水路も大事ですが、中上流の林や森による地盤強化と水分吸収が優先されます。今のような河川の周りが荒れたままの木も無いような状態では、繰り返されてしまいます。人口の構築物はあくまで溜めたり、止めたりで水量を減らすことはできません。安易なダム建設は自然環境を破壊して逆に自然災害を誘発してしまい、難しい問題になってしまうでしょうね。
    加賀平野は手取川によって出来た扇状地ですが、用水路は農業や生活用水だけでなく手取川の水を減らすための水路にもなっているんです。
    石川の土木遺産は2件が治水対策で2件が用水・分流です。北陸が河川といかに深く係わるか示している証明ですね。。
    2019年10月22日 20:17
  • つとつと

    ミクミティさん
    手取川と犀川の治水は古くから、石川県にとっては大きな命題でした。災厄も漏らせましたが、その水が多くの幸や生活を支える水でもありました。県名に由来するほど重要な河川でした。
    この大水門は加賀平野の顔ともいえる施設なのですが、その姿は位置的になかなか見られない場所にあって、その姿を見たことのある人は県民でも少ないと思います。それでも、恩恵は多くの人が受けていますから。。大事な顔と云えますし、用水路周辺は農閑期の清掃・整備は多くのボランティアが参加しています。
    下流域では七つある発電の多くは農業のみで売電にはあまりつながっていません。、これからが課題にもなっています。
    河川は今回のように恐ろしい面も有りますが、上流から下流までを歩いてみると、先人の苦労の跡が多く見られ、これからの課題も見えてきますねえ。用水路も農業の縮小で周辺が荒れてきており、整備が急がれています。
    2019年10月22日 20:59
  • 家ニスタ

    大水門、趣きのある美しい門ですね。
    もう十分に史跡といっていいレベルのものですね。
    僕は近代の史跡を見にいくことはほとんどないんですけれど、これからは機会があれば近代のものも見ていくようにしたいと思いました。
    まあ、城跡や考古遺跡を見るあいまに、ということになりますので、頻度はそれほど行けないと思いますが・・・。
    2019年10月26日 10:55
  • つとつと

    家ニスタさん
    レーケは30年以上60件近くに渡って国内の河川改修に貢献した砂防の父そのものなのですが、大水門の完成の年に離日していますから、最期の作品の一つと云えるものです。明治・大正期の建造物は西洋技師の計画や図案の為に西洋の雰囲気が多く見られます。
    残念ながら、西洋からのお抱え技師は記念碑などにはほとんど記銘されていませんが、石川・富山は彼の関わったものが多く残されています。
    近代の構築物は平城の近くや河川に多く残るので、城跡や遺跡のついでというときにけっこう出会えると思いますよ。
    2019年10月26日 13:13

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