砂子坂道場跡(光徳寺跡・善徳寺跡)

金沢大学のキャンパスを巻くように迂回して、富山県の福光駅まで行く県道27号線。金沢から向かうと県境の地、右手に殿様街道直売所があります。地元砂子坂だけでなく土山など近在の金沢・南砺の農家から作物や加工品が集まっています。殿様街道の謂れは、加賀藩13代藩主・前田斉泰が参勤交代に使用した道という所から。。
加賀藩主の参勤交代の経路は当時の状況によって、いろいろと経路を変更していました。この県道27号は越中から加賀に入る道としては古くから使用されていたようで、現在では整備も進んで通りやすく、福光・城端・井波そして五箇山に向かうには便利な道路になっています。しかし、殿様街道は正確に言うと医王ダムを過ぎたあたりから山中に入り、直売所の南の山中の砂子坂集落を通って100m程先の坂道から県道に戻る経路でした。

しかし、この街道も古代には山間の険しい山間地で、相当の山道だったと云われています。この街道が整備されたのは浄土真宗本願寺派(東西分裂以前)法主5世・綽如が北陸下向後ですから至徳元年(1384年、南朝・元中元年)以降になると思われます。綽如は明徳元年(1390年)越中の本山として瑞泉寺(杉谷山)を開基していますが、越中に入る前には加賀二俣(二俣本泉寺)に仮寓居として庵を置いて越中への足掛かりとしていました。優れた先人とはいえ、まだまだ北陸では新興宗教の時代で次代で二俣本泉寺を開基した如乗もしくは土山御坊に入った蓮如・蓮乗の時代、15世紀中~16世紀初頭ではないかとも思われます。戦国から江戸期にかけては浄土真宗信仰の道でした。
ともあれ、前述の二俣に因んでこの険しい山越え道は二俣越道と呼ばれて、現在の国道359号と304号線の間の山岳路・小原越の小原道、森本から朝日を経由して国道359号に接続する田近越道と共に、加賀・越中間を繋ぐ北国街道の脇間道として重要路になっていました。
DSC_5465.JPG砂子坂道場跡(光徳寺跡)案内板 蓮如たたら道 道標
以前ご紹介した土山御坊に本願寺8代法主・蓮如が入った頃、同時期に越中側から入った砂子坂集落の入口に、当地の豪族・高坂四郎左衛門の協力を得、四郎左衛門の弟・治部尉を帰依させ道乗と名乗らせて砂子坂道場を築いたと云われています。
宗教施設としての道場は、周辺の門徒を集めて講話や法話を行った施設になります。時期的にはそう大規模なものではないと思っていたのですが、県の発掘調査では尾根筋に伸びる遺跡群と800メートルに及ぶ堀が確認されており、道や平坦地を囲む山壁も土塁を思わせるものもあり、思ったよりも大規模な寺院群があったのではないかと云われています。

現在は見る影もありませんが、越中の浄土真宗の大寺院、光徳寺善徳寺の発祥地にもなっています。
案内板や伝承から砂子坂道場から奥に入ったたたら場が光徳寺となり、善徳寺は地元豪族の高坂氏の堂屋敷に置かれたと伝わっています。しかし、光徳寺の焼失、更に真宗の教生が広がり、高坂氏が東西、加賀河北の二日市に移住した際に光徳寺も移動、善徳寺も福光・山本にと東西に分かれていったようです。
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上:蓮如上人たたら道 
右:鎮場跡(たたら場跡)阿弥陀如来像を鋳造した場所。鋳造は土山を去る蓮如が発案したとも、道乗(高坂治部尉、光徳寺始祖)が願い出たとも云われています。石碑は光徳寺14代住職が建立、台座は昭和30年建立。石碑周りの平坦地に光徳寺があったとされています。
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その後、落雷による火災で光徳寺は全焼しますが、その際に件の阿弥陀像が本堂から飛び出し、つつじ株を飛び越して落ちたということで躅飛山が光徳寺の山号になったと云われます。
蓮如砂子坂道場開基に協力してくれた住民達への御礼として、光徳寺跡の地でたたら窯を築き、自ら住民達と鞴(ふいご)を踏んで、黄金の仏像を鋳造したと云います。鞴と聞くと鍛冶屋や刀工での作製や焼入れで、手で押すフイゴを思い浮かべる人が多いと思いますが、大規模なたたら窯の場合、多人数で足で踏んで大きな送風を行う鞴が中世に考案されたと云われています。蓮如が鋳造した黄金の阿弥陀像が砂子坂の善徳寺光徳寺に納められて本尊として両寺に伝わっています。

【寺院名】躅飛山 光徳寺【宗派名】真宗大谷派 【本尊】蓮如上人作 黄金阿弥陀如来【開基】道乗
【由緒】本願寺第8代蓮如上人が文明3年(1471)越前吉崎御坊に滞在のとき、加賀・河北郡砂子坂(金沢市砂子坂町)に住む高坂四郎左衛門という武士の弟、治部尉が上人の弟子となり、道乗と賜った。そのとき本尊として阿弥陀如来の御絵像をいただいた。その後上人が砂子坂に来られて一宇を建立され、先の御絵像を手本として、自ら阿弥陀如来の黄金像を鋳造した。御丈一尺二寸のこの阿弥陀如来像が同寺の本尊である。5世一雲のとき砂子坂の道場が雷火のために焼失したが、本尊は自ら躑躅(てきちょく)株の上を飛んでいたと言われ、以来山号を「躅飛山(ちょくひざん)」と称した。その後、河北郡二日市村に移り、慶長19年(1614)に現在地に移転し、現在20代を経る。多くの文人が集まる寺として有名で、特に版画家棟方志功は、第二次大戦中一家で同寺に疎開していたこともあり、多くの作品を残している。また、現住職が集めた河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉氏等の作品と世界民芸品を展示公開している。
【寺宝】蓮如上人真筆/棟方志功襖絵画等500点/河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉陶器など民芸作家作品500余点
※河北郡二日市村は旧国道8号線の北金沢・二日市交差点以北の町になります。交差点を東に行くと生姜の神を祀る波自加弥神社があり、その奥の院のある四方高坂山は高坂氏から由来されていると思われます。

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砂子坂 善徳寺跡碑(堂屋敷跡)開基は蓮如、綽如の曽孫・蓮真が入寺し寺号・善徳寺は次代の実円に許下と云われています。しかしそうなると、年代的には半世紀以上後になり、善徳寺がこの地を離れてからになります。この為に、砂子坂道場・光徳寺・善徳寺は先の光徳寺跡或いは堂屋敷跡の一カ所だったという説もあります。
【寺院名】廓龍山 城端別院 善徳寺【宗派名】真宗大谷派 【本尊】蓮如上人作 阿弥陀如来【開基】蓮如
【案内文】室町時代の文明3年(1471年)加賀国河北郡井家の庄砂子坂に創建されました。その後越中石黒の庄・山本村、福光村へと移り、永禄2年(1559年)城ヶ鼻城主荒木大膳の招請により城ヶ鼻(城端)へ移り、城郭に寺域を定めました。江戸時代には加賀藩の庇護のもと、越中国の真宗寺院の触頭役として隆盛を来し、今日に至っています。山門・本堂・太鼓楼・鐘楼の4つが県の文化財に指定されています。
善徳寺では、古文書など、1万点以上の宝物を所有しています。それらの一部を、虫干を兼ねて7月22日から1週間にわたり一般公開するのが虫干法会です。加賀藩前田家より拝領の宝物など、約9百点が座敷・御殿に展示され、それらについての解説や絵解きが行われます。(南砺市HP)

現在の光徳寺は県道27号線をまっすぐ進んで法林寺温泉を過ぎて、平地に出る最初の交差点を左折したところにあります。ちなみに右に曲って1キロほど行くと、永禄2年(1559年)もしくは元亀3年(1572年)まで善徳寺のあった山本地区になります。
光徳寺は寺院としてはそう大きなものではありませんが、浄土真宗の寺院としては重要寺院の一つになります。8代法主・蓮如の所縁が深く御物を多く保管しているそうです。興味のある方は御忌(毎年4/25.26)に公開されていますから狙い目です。

光徳寺という名称ですが、徳が光るという目出度い言葉で仏教各宗派の寺院名に多く観られ、寺院名としては最多の部類かも。。真宗の光徳寺が全て同じとは言いませんが、特に北陸(加賀・越中・砺波関連)では、加賀真宗寺院最古ともみられ加賀平野最大の激戦地・木越光徳寺跡から退去した真宗寺院・光徳寺(現七尾市・金沢市)、新潟糸魚川市の光徳寺は天正年間に砺波から移住した門徒によって開基されたものです。これは僕の推測ですが、少なくとも砺波・加賀の光徳寺、各地の光徳寺の一部名称は、本願寺5代法主・綽如の幼名・光徳丸に由来しているのではないかと推測されます。越中真宗・本願寺派の開創者として特に越中砺波・加賀河北では重要視・尊称されています。光徳寺の由緒書では蓮如の時に開基と云われますが、それ以前から砂子坂光徳の坊舎があったとも考えられます。

ちょっと古い記事ですが、境内だけの画像の記事をアップしています。 ⇒ 2011.04.29 光徳寺
現・光徳寺 山門
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光徳寺は浄土真宗の歴史よりも有名なものがあることで知られています。戦時中、近辺に多くの芸術家が疎開していたことで知られていますが、特に有名なのは棟方志功になります。昭和20年(1945年)5月戦時疎開として福光町に移住し、翌年住居「愛染苑(アトリエ・鯉雨画斎)」を建て昭和29年まで過ごしています。疎開後1年程、自宅が完成するまで寄宿していたのが光徳寺になります。河井寛次郎(陶芸家・民芸家)、富本憲一(人間国宝・陶芸家)、濱田庄司(人間国宝・陶芸家)、バーナード・リーチ(陶芸家・7代諌山)他など多くの文人・芸術家が自宅や光徳寺に集まり住職を交えて歓談したと伝わっています。
現・光徳寺 本堂前境内
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先々代住職(18代)・高坂貫昭は白樺の愛読者で、柳宗悦(日本民藝館創始者)の文章に感銘を受けて、民芸活動に傾倒して参加し、国内外の民芸品を蒐集、伽藍内に展示するほどに芸術に嵌り込んでいました。この民芸活動への参加によって民芸活動の主要メンバーだった柳宗悦と前述の三名と深く親交があったそうです。昭和13年(1938年)河井寛次郎の紹介によって棟方志功と親交が始まり、棟方自身、何度も福光の光徳寺に足を運んでいたと伝わります。戦争の激化によって棟方一家6名が招きによって福光に疎開し光徳寺に入ったわけです。最初は出征中だった分家の家屋だったと言われており、しばらくして分家が戻ってから光徳寺に住んだようですが。。

芸術家たる棟方志功には悪い癖がありました。インスピレーションで創作する彼は、思いつくと壁と云わず襖と云わず絵を描き込んでしまいます。当然分家の家は絵や文字の殴り書きで真っ黒けで、帰ってきた分家さんはあまりのことにビックラコ、すぐに新品に張り替えたそうです。
現代人にはなんともったいないと思うでしょうが、当時の棟方志功は画壇で名を知られ始めたとはいえ、田舎では無名に近い存在でしたから
さすがに寺院での落書きはできなかったようですが、多くの作品が残されており、大作としては二間半襖四枚・三尺襖二枚に描かれた「華厳松」、胴回り八尺の梵鐘などは必見です。棟方志功以外にも前述の当時の民芸作家の作品500点や先々代住職の蒐集品などが生活や寺院に置かれており、先々代住職は陶芸、先代は書画・版画に造詣が深く、堂内には書画・民芸品だけでなく境内にも様々な焼き物壺が置かれ、寺院というよりは美術館と化しています。拝観料500円。

ちなみに、浄土真宗が根強く生活に入り込んでいた南砺地区・福光の法林寺近辺で、福光在住時に棟方志功は近辺を散策し、住民たちと触れ合い、法講話にも欠かさず出ていたと云われ、これ以降に阿弥陀図に代表されるような宗教色や田園的な作風に変換して名を高めていきます。福光在住の10年に満たない期間に残した作品は1万点を超すと云われています。
光徳寺から移った棟方志功に自宅建物・土地を提供し、版画作品の刷り方を任された石崎俊彦。石崎俊彦死後に所蔵の棟方作品多数・建物が福光美術館に寄贈され分館となっています。分館は棟方志功記念館「愛染苑」、棟方の自宅だった「鯉雨画斎」、石崎俊彦が刷り方の作業兼住居を民藝館とした「青花堂」の三施設で構成され、隣地に棟方志功資料館があります。

新田次郎原作「劒岳 点の記」で知られる陸軍測量隊(柴崎芳太郎隊)剣岳初登頂(明治40年(1907年))ですが、一般人の初登頂は2年後の明治42年7月に石崎光瑤・河合良成・吉田孫四郎・野村義重になります。この時の案内人は柴崎隊と同じ宇治長次郎でした。ちなみに歴史的というか遺物的というか、伝承では弘法大師も登頂に失敗したと伝わる難峰・剣岳でしたが、柴崎隊登頂時に山頂で、銅錫杖頭と鉄剣焚火跡が発見されています。形式・年代測定から奈良後期から平安初期と弘法大師と同時期か少し前と云われています。現在は立山博物館に所蔵されています。⇒ とやま学遊ネットHP

一般人初登頂の一人、石崎光瑤は福光出身で当時25歳ながら画壇で名を知られ始めていた画家でした。写生から描く写実的な花鳥図を得意としており、金沢・南砺を巡り写生に明け暮れていたと云われ、剣岳登頂もこの一環だったと云われています。晩年、金剛峯寺貴賓室の障壁画・奥伝襖の作製前には雪のヒマラヤ登山を行っています。
話が横道に逸れてしまいましたが、石崎光瑤の遺族から作品450点が福光町に寄贈されたのが平成6年(1994年)南砺市立福光美術館の始まりでした。平成16年に前述の石崎俊彦所蔵の棟方志功作品と建物が加わっています。福光美術館では棟方志功・石崎光瑤の作品が常設展示されています。福光在住前後の棟方作品も取り入れ所蔵数は国内屈指と云われています。
福光美術館は山上にあって景色も美しく、我が家では嫁さんが一番お気に入りにしている美術館で、何度か訪れています。
もし棟方志功ファンで、南砺市福光町に来られた際には福光美術館・分館棟方志功記念館・光徳寺は必見の三施設です。

民藝活動の創始者ともいえる柳宗悦は、棟方志功の作品が福光に移る前後の違いに驚愕、それまでの力強さと我の執念ばかりが目立ったものが、柔らかさというか我の濁りの無さを感じたと云います。実際、棟方志功も昔は頭浮かぶ絵の創造や材料が湧いてきていましたが、それは自力で捻り出したものと思っていたそうです。福光の地に住んで、素朴な人情に触れ、それを長年育んだ浄土真宗に惹かれていきます。特に真宗特有の他力本願ということにも魅了されます。困ったときには相互に助け合う人情や、発想は同じでもそれは神仏からもたらされるものであるという他力に魅了されます。他人や神仏がもたらす創造を自分は眼と手で再現している。そう思えばありがたみもあり、謙虚にもなれます。
超のつく近眼と集中力で創り出されるため逸話も多く残ります。ある人から作品を見せられて大絶賛したら、自分の作品だったという逸話がいくつも残されています。福光で培った板画や肉筆画は棟方志功を大きく変え、福光から去った翌年にサンパウロ・ヴィエンナーレで版画部門最高賞、その翌年にはヴェネツィア・ヴィエンナーレで日本人初のグランプリと世界のムナカタとなって行きます。

柳宗悦福光の長年に渡る信仰風土と精神風土が、醸し出される福光の土地柄・人柄に触れたことで棟方志功の心を開いたとし、福光には土徳があると彼特有の言葉で語っています。その土徳に惹かれ魅了された彼自身も福光だけでなく砺波・五箇山に触れ、城端の善徳寺に逗留。代表作となる「美の法門」を執筆しています。善徳寺では彼が執筆した部屋はそのまま保存されています。柳宗悦はこの地を気に入り、昭和24年(1949年)地方初の日本民藝協会第3回全国協議会を善徳寺で開催しています。
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砂子坂 善徳寺跡(堂屋敷跡)
戦国期、善徳寺越中三ヶ寺(瑞泉寺・勝興寺・善徳寺)の一つとして越中真宗門徒を主導した大寺でした。加賀の鳥越・山之内衆と並び称される南砺・川上衆を率いて活躍しています。永禄2年(1559年)或いは元亀3年(1572年)、城端城主・荒木大膳が福光城に移る際に請い、城地と大手門の寄進を受けて現在地に移っています。ちなみに荒木氏について解るのはこれだけで、戦国の争乱に消えてしまい文書その他も出てこないため謎の一族ですが、当時の状況から真宗門徒内の豪族・武将だと見られています。
善徳寺が移った城端の地は山田川と池川に囲まれた三角の河岸段丘上の丘陵地にありました。城端城の城郭をを利用して造られたと云われており北東の三角の頂点は出丸とされています。また太鼓堂城端城の櫓の遺構と伝えられています。
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佐々成政が越中支配から豊臣秀吉の平定時に廃城になったと云われ、善徳寺と城端城が併存していたことが窺われます。佐々成政の支配時には家臣・河内才右衛門を入れたという記述や、文化2年(1805年)に加賀藩に献上された文献には善徳寺の南・南東に主郭があったとなっています。
善徳寺は城端城の城塞の中にあったと思われますが。何せ城の遺構がほとんど残っていないので想像の範囲でしかありません。荒木氏が寄進した大手門と云われる門は、長く善徳寺の大門として使用されていましたが、砺波ICの近く、万福寺(砺波市苗加)の藥医門となっています。
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江戸期になると加賀藩から重視される寺院となり、越中浄土真宗の触れ頭となっています。江戸後期には宝暦年間に加賀前田家から住職が入っているとも云われますが氏名などは不明で現在勉強中で真偽はまたの機会に、、宝暦9年(1759年)に現在の本堂が上棟されています。
幕末の 嘉永2年(1849年)加賀藩13代・前田斉泰の九男・ 亮麿(亮麻呂)が2歳で入寺、16代住職・達亮となりますが僅か4歳で夭逝。亮麿の入寺の際に現在の式台門が築かれ、門前にあった太鼓堂が位置を変えています。

江戸期を通じて加賀藩の保護が入り、住民の厚い信仰を受けたこともあり、江戸期を通じて火災に遭っていない数少ない寺院であるため、寺宝や資料が1万点以上と多く残っており、越中浄土真宗を知るには格好の大寺院であり、東本願寺の別院として城端別院と呼ばれています。
寺院内、宝物館の拝観もできますが、毎年2/14涅槃会、7月下旬に宝物の虫干し会の際には山門が公開され天井画が見られますし、貴重な宝物類が見られます。
善徳寺には何度か訪れているんですが、画像が見当たらなくて申し訳ありません。。

往時、城端は砺波平野の中心地として栄えましたが、中心地が高岡・富山になると徐々に衰退していきます。
明治30年(1897年)に開業した旧中越鉄道は、翌年には高岡・城端間が開通しています。富山最初の鉄道になります。大正元年(1912年)には氷見まで開通して、現在の氷見線、城端線の基礎が出来ました。昭和47年(1972年)に廃線となった同時期に開通した加越線(石動・青島間)と共に砺波平野を十字に走る鉄道線でした。当時は貨物路線が主要でしたが、現在では高校生たちの貴重な生活路線になっています。現在でも全線無電化で、現在も汽動車が主戦力ののどかな鉄道です。沿線に広がる砺波平野の散居村やチューリップ畑を眺めながら単線を走るラッピング姿はのどかそのものです。金沢・津幡から能登への七尾線も無電化で、河北・能登の石川県人、砺波の人たちが電車とは言わず汽車という源泉になっています。

終着駅という寂しくのどかな印象ですが、毎年9月の敬老の日の前の土日二日間、城端の町は賑やかな熱気に包まれます。城端麦屋まつり
五箇山発祥と云われる民謡、麦屋節・こきりこ節・古代神(五箇山小代神)・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節などが踊りと共に城端を含む南砺波に伝わり、昭和26年から民謡踊り・民謡流しとして連綿と続いているお祭りです。各団体の競演、街並みの総踊りと伝統と新規が混ざった賑やかな祭りです。富山県は民謡民舞と呼ばれる民謡踊りが盛んな県ですが、八尾のおわら風の盆、越中五箇山麦屋まつりなどと並ぶ大規模なものです。 
城端麦屋まつりの踊り会場となる競演会場のメイン会場が、善徳寺の本堂前にステージを設けています。各町会・団体の長年に渡る妙技が見られます。毎年、ブロ友のgoさんがこの麦屋まつりで善徳寺を訪問しています。興味のある人はこちらをどうぞ ⇒ 城端むぎや祭り2019

旅行日 2019.09.26

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この記事へのコメント

  • tor

    こんばんは。
    盛りだくさんの内容ですね。
    全て大好きなので
    あとでもう一度じっくりと読もうと思います。
    街道については、私もいろいろと街道歩いていますが
    こんなところをと思うようなコースだったりで
    不思議に思ったりします。
    光徳寺には超有名作家の作品が揃っていて
    ぜひ見たいものです。
    今日福岡で刀剣展を見てきた同僚と話したのですが
    刀剣女子の会話が鋼の組成についてだったと…
    「劒岳点の記」も読んで山頂に立ったら
    銅錫杖頭などがあったところには驚きました。
    再度じっくりと。
    2019年10月31日 19:17
  • つとつと

    torさん
    このブログのアップ寸前に、歴史の道百選の追加選定が発表されました。この二俣越の道もその中の一つで驚かされましたが、まだ正確な道筋も確定していないのにというのが正直な所です。福光美術館は周りに何もない山上で、全国的にはあまり知られていないのですが、他では特別展示になる棟方志功と石崎光瑤の作品が多数常設展示されています。
    女性はいったん好きだとなるととことん追求しますから、触らぬ神に祟りなし^^;
    相変わらず取り留めない文章で申し訳ありません。。
    2019年11月01日 21:14
  • ミクミティ

    殿様街道という名前から、藩主に対する親しみがあったのかと感じます。実際はどうだったのか。こちらは、様々な歴史の舞台となった道だったのですね。とりわけ、蓮如による浄土真宗の信仰の高まりは地域に大きな影響を与えたことでしょう。
    光徳寺は現在でも立派な伽藍で、非常に文化的でもあるのですね。棟方志功が絵をところかまわず描きまくったとのエピソードは微笑ましいですね。ずっと加賀藩の加護があったことは興味深いです。
    2019年11月02日 21:05
  • go

    27号線がそんなに歴史あるルートだとは知りませんでした。
    富山方面へ下道を利用して行く場合に昔は森本から国道304号線を
    通っていましたが27号線ができてからもっぱら山環経由でそちらを通っています、沿道に蓮如の里の案内看板がありますがまだその辺を
    探索したことがありません。
    先日、細尾峠の紅葉をブログをアップしましたが、行き帰りは27号線を利用しました、私のつたない城端の麦山祭りのブログを紹介していただいてありがとうございます。
    2019年11月03日 11:09
  • 藍上雄

     参勤交代、見方を変えると、道路整備の一面も有るように思えますね。(そこが現在で言う官僚の腕の見せ所だったのかもしれません。)
     光徳寺には、蓮如上人の記録が沢山あるようですね。たたら窯、大型の鞴も蓮如上人の知識があってこそだったのだろうと思います。金も鋳造出来たのですから、きっと鋼なども鋳造出来たのだと思います。こういう事が宗教が力を持つ一因に成ったのかもしれませんね。
     「城端麦屋まつり」の雰囲気どこか「おわら風の盆」に似ていると思います。
    2019年11月03日 15:13
  • つとつと

    ミクミティさん
    親しみというより実際は藩主独裁を狙った斉泰は富山藩に自分の子を婿養子にし、善徳寺にも子を住職として入れて強化を図っていました。それまでは北国街道をコースに指定いたんですが、越中深くに入るこのコースを選んだと云われています。
    光徳寺は寺院というより、もう美術館という雰囲気です。なかなかこういった寺院は他では見られないと思うんで、是非拝観されると宗教観が変わって見えると思います。
    浄土真宗の多い越中の中でも砺波地方は熱心な浄土真宗門徒の多い所で、加賀藩は民衆安定のために越中でも有力だった真宗寺院の善徳寺・瑞泉寺・勝興寺には大きな保護を行っています。本願寺に匹敵する伽藍の巨大さは驚くほどです。
    2019年11月03日 22:10
  • つとつと

    goさん
    10年ほど前まで地滑りで通行止めや規制が多かった27号線も整備されて走りやすい道になって、僕もこの時は304号沿いの用事の後に、こちらから帰ろうと立ち寄りました。でもこの砂子坂に寄り道したおかげで、久しぶりに医王山を巻くように善徳寺跡から真っ直ぐ百万石道路を走ってきました。
    蓮如の里は温泉施設ですが、手前の県境の土山や砂子坂が蓮如ゆかりの地でちょっととんでもない山中に入り込むことになります。
    また勝手にリンクを作ってしまいました。麦屋まつりはまだ一度しか見ていなくて、善徳寺も画像が見つからなくて。。ずいぶん長く善徳寺に行ってないのだと再確認。。是非来年は行きたいと思っています。
    2019年11月03日 22:22
  • つとつと

    藍上雄さん
    確かに相当の事前確認や整備が行われたようです。でも参勤交代は豪勢な行列を想像すると思いますが、加賀藩は正装で仰々しい格好になったのは金沢城と小坂宿(北金沢)、板橋の手前だけだったそうです。
    たたら踏みは山の民が考案して、仏教や神道と結びついて考案されたと云われています。ちょうど蓮如の時代から始まったと云われていますが、なかなか詳細不明なようです。
    麦屋まつりは五箇山から伝わったと云われていて、平家の落人から派生したと言われています。風の盆は江戸時代に地鎮祭がきっかけで盆踊りで広まったそうですが、元々は五箇山や南砺と同じく八尾で受け継がれた踊りだったようです。品を重んじるところは相通じていて、底辺は同じ流れではないかと思いますねえ。このような歌と踊りは越中の山間部に多く分布してますから。。
    2019年11月03日 22:36
  • 家ニスタ

    僕も2016年の4月に、城端城の跡を見ようと思い、善徳寺まで行ったのですが、まったく城の痕跡らしきものは見つけられませんでした。
    地形的には、それっぽいな、と思う部分はあったのですが・・・。
    大手門が残っているのですね。
    列車で行きづらくないようでしたら、こんど探してみたいと思います。
    北陸には、できれば来年の夏ごろに再訪したいと思っています。
    2019年11月14日 23:18
  • つとつと

    家ニスタさん
    僕も初めて善徳寺に行ったのは城端城の跡地ということで行ったんですが、城の跡には全く見えませんでした。北の出丸から見ると崖面がそれらしく見える程度でしたね。大手門が移築された先は城端線・東野尻駅から3.4百m程北西に行ったところです。まあ、そんなに立派には見えないんですが。。来夏には金沢城の鼠太門と鼠太橋がが完成してると思います。先日、尾山神社に行ったらだいぶ出来上がっていました。
    2019年11月16日 10:00

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