尾山神社③ 本殿・金谷神社・東神門

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尾山神社の本殿は明治6年(1873年)建立。古式に則ったという三間社流造・銅板葺屋根、拝殿と本殿の高さを合わせ間の低い位置に幣殿代わりの庭面(石の間)が置かれた権現造の様式になっています。本殿は拝殿との高さを合わせるために底部を懸け造の木組みで支えています。
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今年9月、以前までは緑青などで緑がかった屋根色でしたが、真新しい明茶色屋根に変わりました。20X36.5㎝の銅板4000枚を使用し、屋根面だけでなく鬼瓦・千木・鰹木にも銅板を巻いたり覆ったりで処理が施されています。
本殿前の守護神? 遠目には狛犬?龍?身体は蛙? ピンボケで申し訳ありません。。
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本殿は尾山神社境内でも一番の神域で、勝手に中に入れないのと、観ようと思うと最奥の東出口に向かうため、金谷神社と木々に隠れて暗がりで観光客もほとんど居ない場所ですが、注目に値するものが一つ。本殿を囲む塀垣で、神社などでは玉垣と云います。
拝殿・石の間と金谷神社の境界には銅板葺柵塀垣ですが、本殿南面には銅板葺レンガ塀が玉垣として重厚な守りとなっています。等間隔で梅鉢紋透かしを施されています。神社でこれはなかなか見られない代物です。
ちなみにこのレンガ塀は、金沢で最初のレンガ建築になります。以前、金沢の代表色の一色としてレンガ色を紹介しましたが、代表となるのが赤レンガミュージアム(旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫)としましたが、それよりも40年近く古い建築物で、金沢の代表色の原点と云える建築です。
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金谷神社 上:拝殿 
     中:拝殿・幣殿・神殿 
     右:金谷神社境内
尾山神社に隠れるように南隣にあるのが摂社・金谷神社になります。神社規模としては決して小さなものではないのですが、なにせお隣の尾山神社がでかすぎて小振りで地味に見え、しかも鳥居からは森のお堂のように見えるため、観光客が立ち寄ることもほとんどありません。
また、金谷御殿は加賀騒動で真如院が幽閉・縊死された地であり、息子の八十五郎も宝暦の大火まで12年間幽閉されていた地でもあり、薄暗く不気味に感じる魔所として金沢市民には昭和、平成初期まで忌避されていた地でもあったのが影響していました。
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上:拝殿内 御鳳輦(ごほうれん)百万石まつりで神霊が乗る蓮台です
中:幣殿内 
右:神殿 拝殿は瓦葺 幣神殿は銅板葺
金谷神社は尾山神社創建後、明治12年(1879年)に創建、摂社とされたものです。北陸に多い拝殿・幣殿・神殿が一直線に並ぶ神明造になります。加賀前田家の前田利家以降、正確には加賀藩歴代藩主13人と正室を祀った神社です。
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金谷神社拝殿内 格天井と桟の間に掛けられた額は8~14代藩主
ちなみに、8~12代は肖像画で、右から8代前田重煕(しげひろ)・9代重靖(しげのぶ)・10代重教(しげみち)・11代治脩(はるなが)・12代斉広(なりなが)、13代斉泰(なりやす)・14代慶寧(よしやす)は肖像写真になります。
13代斉泰金谷御殿最後の住人で廃藩置県令の2カ月後まで住んでいました。退去を2カ月も伸ばした頑固そうな顔をしているでしょ^^;
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尾山神社・東神門 東表面 
案内板より・・・有形文化財 第一七-〇〇七〇号 平成一五年七月一七日指定 
        尾山神社東神門 (旧金沢城二ノ丸の門)
        桃山風御殿様式の唐門で宝暦九年(一七五九年)の大火で金沢城の大半が焼失するも、彫刻された二頭の龍が水を呼び類焼を                       
        まぬがれたと言い伝えられている。
        彫刻は一本の釘も使用せず名工の作とされるも作者不詳
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尾山神社 東神門 西裏面
建築年は不明ですが桟瓦使用から江戸後期、宝暦元年頃(1751年~)ではないかと推測されています。ただ瓦だけ葺替えたとすると桃山様式の強さからもっと遡るかもしれません。そうすると何度も火災に見舞われた金沢城内の建物としては尾崎神社社殿に匹敵するかもしれません。
古くから金沢城二ノ丸御殿の唐門として使用されてきたと伝えられています。
金沢の町を焼き尽くしたとされる金沢史上最大の災厄、宝暦9年(1759年)の宝暦の大火では全焼した金沢城では二ノ丸舞楽殿(現・中村神社拝殿)と共に焼け残った貴重な唐門でした。桃山様式を優先すれば明治を迎えた金沢城の建築物では最古のものになります。ちなみに現在のところ、金沢城内に残った最古の建築物とされる尾﨑神社社殿旧東照三所大権現社・神護寺として4代藩主・前田光高が寛永20年(1643年)に金沢城のはずれとなる北ノ丸に建立したものです。

文化財データベース・・・もと金沢城二ノ丸唐門と伝えられる。卯辰山招魂社神門として移されていたものを昭和38年(1963年)現在地に移築。1間1戸の向唐門で,屋根は桟瓦葺。主柱は円柱,控柱は角柱で,両開き桟唐戸をたて,頭貫上は蟇股と波彫刻,桁上は大瓶束と雲竜彫刻をあしらう。
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向唐門の桁部の彫刻のアップ
この二匹の雲竜には伝説が残っています。金沢を焼き尽くした宝暦の大火では金沢城にも延焼し、城内でも隔絶された地の北の丸の東照三所大権現社・神護寺(現・尾崎神社)を除いて、すべてが灰となるほどの大火でした。その火災の最中、二匹の雲竜が水を呼び寄せ自らを守り、傍にあった舞楽台を守ったと伝わっています。

その後、再建された金沢城でしたが、慶応4年(1868年)14代前田慶寧は北越戦争戦死者の忠魂として顕忠社(後・旧卯辰山招魂社、護国神社)を創建、舞楽台を拝殿として改造移設しています。明治になって加賀藩が金沢城を退去し陸軍歩兵第七連隊が入城、徳川関連となる権現社を城外の現在地に遷座し、唐門を前述の招魂社の門として移設しています。ところが、明治14年、平氏の火の不始末から火災が発生、石川門・鶴丸倉庫・三十間長屋などを残して金沢城建築物を全焼をさせています。この事態に金沢では唐門を移した祟りだと噂したと伝わります。

昭和38年(1963年)卯辰山から現在地に移設され、尾山神社の守護門となっています。東神門・尾﨑神社社殿中村神社拝殿は宝暦以前の金沢城を伝える貴重な存在になっています。

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宝暦の大火については金沢の今昔でみても最大級の災厄でした。このブログでも何度か書いていますが、一番詳しく書いた「加賀騒動」から抜粋すると。。

そして、もう一つの大きな災厄、宝暦9年(1759年)4月10日午後4時に発生した宝暦の大火です。

金沢という町は冬は落雷、春夏のフェーン現象の突風によって江戸期には何度も大火に見舞われていますが、江戸期を通じて100戸以上が焼失した大火は50回以上、500戸以上が20回と云われています。その中でも最大の被害を出したのが宝暦の大火になります。

以前紹介した野町(寺町)の玉龍寺の塔中(たっちゅう)舜昌寺から火災が発生、折からの強風で燃え広がり、金沢城を含め10500余戸が全焼。金沢の8.9割を焼き尽くすという大惨事が発生したわけです。

この時の藩主が加賀騒動の余波を引きずる前田重教(10代)。重教はこの時、江戸屋敷に在府中。。

あまりの惨状と金沢城の焼失に、失火元の本寺が菩提寺で御城方御用・前田孝昌(八家・前田対馬守家)は「復興の目途もつかない程町が焼け、城も守れなかった。。あまりに責任が重い」辞職願を提出して慰留されています。城が焼失したため政庁は加賀八家・長家屋敷に移されています。政庁が城外に出たのは史上初ではないかと思います。ひっ迫状態にあった藩財政では復興が難しく、江戸在府の重教は蔵米放出と倹約令を命令すると共に、被災状況を幕府に提出して5万両の借り入れを行って急場をしのいでいます。

この大火の被害は10500戸全焼の規模は、石川県内でいうと現在の輪島市や内灘町が一ついきなり消えたことになり、被害総額は40万石に達するとされ、現在価額で2.5~3兆円にはなると云われています。更に復興予算や借財が加算されるわけで加賀藩は大きな負債を抱え込んだわけです。

ついでながら、この時は加賀騒動の影響で関係者の処分が続けられていた時代でした。

また間の悪いことに、火災の翌日は加賀騒動の一方の被害者・前田重熙(8代)の七回忌法要日で、その準備の真っ最中の出火でした。この為に、当初は大槻一派の腹いせの放火説、果ては非業の死を遂げた大槻伝蔵・真如院・浅尾の怨霊説が流布されたと云われます。実際には、火災は寺の火の不始末でしたが、、

しかし、火災の災害規模があまりに広範囲で悲惨な状況で、そのような噂も消し飛び、加賀騒動自体もこの火災で消し飛んで収束しています。政争や家督争いもへったくれもすべて消し飛んだというわけです。

ここから加賀藩は復興に向けて官民一同で動かざる負えなかったのです。否応なしの重大事の負の遺産となる歳出は幕末まで藩財政を苦しめることになります。

復興が落ち着いた頃、ふと振り返ってみれば、藩主様の若死にの連鎖、考えられない五兄弟相続。祟りとしか思えない宝暦の大火。。すべてが加賀騒動に繋がってくるのです。小説・講談・浄瑠璃・浮世絵・錦絵に脚色や妄想が加わって、加賀史上最悪の反逆の徒・大槻伝蔵が誕生したわけです。おかげで大槻伝蔵や真如院・利和の関係先は一種の魔所として昭和戦後しばらくまではあまり人が立ち寄らない場所になっていました。今回紹介した尾山神社の裏門になる東神門や金谷神社、中央公園西端などは金沢市民にはちょっと避けられてきた場所です。見直しと共に人が訪れるようになってきています。まだ他にも大槻伝蔵の屋敷から移築された門や金沢のシンボルとなっている対の椎の木、五葉松など機会があればまたご紹介します。

次回は神苑に。。。。
旅行日 2019.11.12




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この記事へのコメント

  • tor

    こんばんは。
    更新が早い!
    大作なのにこのスピード驚きます。
    銅板づくしの尾山神社には驚きです。
    今金ピカでも緑青が出てくれば落ち着きますね。
    金ピカなら加賀の金箔を思い浮かべますが。
    梅鉢紋といえば天満宮が浮かびます。
    前田家の家紋なのですね。
    東神門石垣に囲まれて神社の入口らしくないですね。
    彫刻もすばらしく
    この龍なら火災からも守ってくれそうです。
    2019年11月27日 19:51
  • つとつと

    torさん
    やはり、何度も行ってる神社ですし、昔からよく知っていますから、これまでのように後チェック入れてませんから^^;
    屋根も葺き替えたばかりでピカピカですが、少しすれば銅板も色が変わりますからね。。陽が神門も本来は御殿の入口門ですから、雰囲気は全く変わってしまいます。それと今は東側は工事の最中でバリケードもあって、でも鼠多門が完成するとますます寂しい場所になりそうです。せっかくの金沢城の中心にあったもんなんですがねえ。。
    2019年11月27日 21:37
  • がにちゃん

    尾山神社は、屋根の色が変われば、以前とはかなり感じが変わったのでしょうね
    火事騒動 災い転じて福となす  今の日本も災害転じて福となすになればよいのですが、一致団結 復興には一番の力かもですね
    彫刻も立派なものですね  
    この辺りは、未だ行ってないですね  
    行きたいところがどんどん増えてきますわぁ 
    2019年11月28日 14:13
  • つとつと

    がにちゃんさん
    屋根が葺き替えられたのは本殿なので、たぶん訪れた人のほとんどの人は見えない部分です。1年程で色は落ち着きますから、来夏の鼠田橋の開通の頃には違和感なく見られると思います。
    逆に心配なのは、観光できた人は拝殿から真っ直ぐ橋に向かうので、ますます東神門を見なくなるかもしれないこと。。神社から金沢城に入る前にはちょこっと立ち寄って欲しい神門です。重厚な彫刻と二本の円柱と四本の角柱を組み合わせた門は見る価値あると思いますよ。
    2019年11月28日 19:32
  • 藍上雄

    藍上雄さん 尾山神社の陰にひっそりと建てられた金谷神社、前田家の霊廟のようにも見えます。明治に成ってからの神社ですが様式にのっとった作り、 小さいけれど、コンパクトに中身の詰まった神社と言う印象でしょうか・・・。レンガ塀の梅鉢紋もレトロな雰囲気が有りますね。
     向唐門の桁部の彫刻は、手の込んだ立派な堀だと思います。きちんと梅鉢紋もついていますね。(前田家はそう言う所とても拘っているように思えます。)
    2019年11月28日 22:36
  • つとつと

    藍上雄さん
    前田家は明治になって曹洞宗から神道に宗旨替えしたために、それまでの宝円寺・天徳院などは名ばかりの菩提寺になってしまいました。この金谷神社は仏教でいう藩主の菩提寺兼位牌所であり、藍上雄さんの言われるように公式な霊廟と云えます。
    透かしの梅鉢紋のレンガ塀は神社の玉垣というだけでなく、金沢・石川県内でも最古のレンガ建築で、金沢の代表色レンガ色の原点と云える代物です。
    そして東神門は金沢城最古の建築物というだけでなく、金沢城中枢の二の丸御殿の表玄関・唐門ということで、本来裏門ではなく表門の価値がある代物です。尾山神社はある意味、加賀藩の残照を色濃く残した宝庫なんですよ。
    2019年11月29日 02:49
  • 家ニスタ

    変わっているのは門だけかと思ったら、塀まで変わっているんですね!
    レンガ塀ですか。
    ちょっとこれも見たことないですね。
    最後の藩主・・・廃藩置県後2カ月も居座るとは、相当肝がすわっていますね。
    2019年12月22日 19:38
  • つとつと

    家ニスタさん
    金沢に来て尾山神社に訪れる人もこのレンガ塀の存在は意外に見ていない人が多いのですが、明治初期のレンガ造りで珍しい存在です。神殿を見ようと思ったら金谷神社との間に入らないと見れないんですが、そこにあるんです。家ニスタさんも来夏以降に訪れる際は覗いてみてください^^
    斉泰は頑固でわがまま、おかげで独断専行が多くて、幕末にも朝廷・幕府の間で揺れ動き過ぎて、開明派の弾圧をし過ぎて、明治政府に乗り遅れた原因を作っています。まあ、頑固さのおかげで金谷出丸の敷地が残されて面白い神社が出来たんですが。。
    2019年12月23日 09:35

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