野田山墓地

今冬は雪が降らない降らないと云っていたら、ここ3.4日雪が降って、うっすらと積雪が道に積もって久しぶりに、雪道を車で走りました。。久しぶり過ぎて怖々ハンドルを握っていました。さすがに朝は凍結で、雪に慣れてる石川県人もそこここでスリップ事故や立ち往生があったみたいです。(2/10)しかし、その後は温かくすぐ溶けちゃいましたが。。。

コロナウィルス騒ぎも収まりませんねえ。。今週風邪をぶり返した嫁さんが医者に行ったら軽い肺炎で、一週間の絶対安静でドクターストップ、家でどんよりテレビ三昧の日々を送っています。時期が時期だけにインフルやいろんな検査をやられて、落ちこんどりました。。(
風邪をこじらしたで、チョン)。。クルーズ客船も日増しに陽性患者が増えてて心配ですねえ、、足留めを喰らったみなさんには頑張って欲しいものです。ダイヤモンド・プリンセスは昨昨年寄港した「MSCスプレディダ」が寄港するまで、金沢港の最大のクルーズ客船の記録を持っていた船で、僕も眼の前で見て思入れがあるんで、早く収束することを願っています。 
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加賀藩主墓所本参道 
ここから長い石段を登ると前田利家夫妻の墓所正面に直接向かえます。僕は車を左に進めて墓所手前から歩いてみました。
1.2月は雪がないとはいえ氷雨や冷たい雨降りが多く、遠出をほとんどしないのですが、この日も冷たい雨降りでしたが河北からの帰り道、久しぶりに野田山墓地に立ち寄ってみました。一応目的地は加賀藩主墓所のつもりだったのですが。。右の画像の分岐点から左折して藩主墓所の東を廻り込む道を進んで脇に車を停めて、しばらく歩いて7代宗辰(むねとし)の墓所から順番に見て行こうとしたのですが、、ここで携帯が鳴って突然の呼び出し。。結局、少し見ただけでUターン。。帰り際に鈴木大拙師の墓によって、、結局久しぶりの藩主墓所は端っこで終わり。。

それでも、加賀藩主墓所について、久しぶりに書いておこうと思います。藩主墓所の画像なしで申し訳ありません。改めて新しい画像を撮って再アップします。今回はお話だけで。。内容は江戸期(明治3年埋葬の真龍院(鷹司隆子、12代斉広正室)を含む)までの埋葬資料で平成25年玉川図書館夏季展の資料を参考にしています。

野田山墓地にはいくつもの入口がありますが、加賀藩主前田家墓所まで自動車で行こうと思うと、管理事務所から南に山上を登るか、長坂台小学校東の交差点から大回りで戦没者墓地の南を駐車場まで行くんですが、今回は久しぶりに表参道から登ろうということに。。車でも途中まで行けますが、擦れ違いもできず、駐車場もないので人のいない冬場でないと車は難しいですね。

河北から福井方向に山側バイパスを進むと野田山トンネルを抜けて200m程の「野田山参道」の信号を左に進むのが、野田山墓地の一番古い参道になります。広大な野田山墓地は標高175mから山裾に広がる43万㎡、兼六園の4倍、東京ドーム敷地の10倍の規模と云われています。墓の数も数万基に昇ると云われています。ちなみに参道は山側バイパスで分断されていますが、当時の起点は道路を挟んで少し先に行った桃雲寺になります。桃雲寺は前田利家の墓守寺として建立された寺院ですが、江戸期を通じて野田山住民と共に野田山墓地全体の墓地管理を行っていました。
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加賀藩主前田家墓所配置図 H24金沢市文化財保護課パンフから
野田山墓地は天正15年(1587年)野田山山頂に前田利家が兄・前田利久を葬った時から始まります。利久の埋葬時には野田山の名はまだなく当地一帯の泉野で呼ばれていたようです。その後、野端山と呼ばれた時代もあったようですが、慶長4年(1599年)3月3日前田利家が死去。遺言により利久の下段に自身の墓が造成されて葬られていました。利家の遺言状に明記された野田山が初出ですが、その時までには野田山の名が認知されていたようです。
ただこの起源説には反論が多く、江戸期の文献の多くが野田山は利家の埋葬を起源にするとしている。利久死去の報を聞いて驚き色を成した利家が自ら「いづみ野迄野おくり」したという記述のみの為、利家埋葬後に遺言通り上段に利久を泉野のどこからか移葬したと金沢市や学会は主張しています。ただこの主張は利家を際立たせたいという希望的主張にしか聞こえないんですが。。

野田山を藩主累代の墓所にしようという考えは5代綱紀もしくは以降に決めたようで、万治元年(1659年)3代利常の墓所造成後、綱紀は寛文11年(1671年)祖母・天徳院(珠姫)の50回忌に天徳院から野田山に改葬しています。当時は二人の墓所周囲に他の墓所は無く、距離が離れていても同じ広場の中に長く二人だけの世界になっていました。その後、綱紀は自分の早世した息子二人、孫娘一人を同地に葬り、肝心の綱紀は利常・珠姫夫妻の間に墓所を置いています。江戸期の加賀藩を確定した三人がこの時期に並んでいたことになります。
5代綱紀の伝記「温故集録」に・・・説に云う、松雲公(前田綱紀)、野田山へ廟参したまいて、廟地より海上を見渡せる絶景を称美したまい、我、若し没したらば、此地を墳墓の地となすべし、と仰せになったという。近侍の人々も何とも答え奉る言葉が見つからず、基庸も外様ながら供奉して、其座にありけるが、取敢ず一首の詠歌を奉りける。 君ここに 千年の後の すみ所 二葉の松の 雲かかるらん
※基庸は山本源右衛門(百石取)の歌号 
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加賀藩主前田家墓所図 H24金沢市文化財保護課編集 公益財団法人成巽閣協力
ちょっと古いので醜く折れたりしてて申し訳ありません。
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補足:当主Ⓐ~Ⓟの内、4代光高Ⓓ・9代重靖(しげのぶ)Ⓘは小立野の天徳院に墓所墳墓があり、昭和27年(1952年)に小学校建設のために墓を撤去、野田山に改葬されています。同じく10代重教(しげみち)Ⓙの長子・斉敬(11代治脩Ⓚの養世子、18歳で早世)も光高・重靖と並ぶように天徳院に墳墓があったものを同時(昭和27年)に改葬しています。実父・重教Ⓙの墓所の入口右手にあります。
ちなみに天徳院にあった三基は高岡市の利家墳墓と同じ型式の外形を備えていたそうで、発掘調査で光高墳墓は利長の規模とははるかに譲るものの、堀に外内共に玉石垣が施され、利長墳墓以上の精緻を極めていたと云われます。
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前田斉敬墓所
前田斉敬(なりたか)・・・10代藩主・重教の長子11代治脩の養世子
7代から続く兄弟相続を終わらせる次代の世嗣と期待されていました。13歳で将軍拝謁・偏諱授与・武家官位授与も済ませていましたが、藩主就任寸前の18歳で急死しています。
墓柱 正四位下左近衛権少将 佐渡守菅原朝臣斉敬之墓
補足:13代斉泰Ⓜ以降は明治から平成の墓所になります。ちなみに18代の墓所も10年以上前から用意されています。明治以降の墓所は多少の型式の違いはあるものの、小さな円墳造になっています。16代利為(としなり、侯爵・陸軍大将)は、旧七日市藩前田家から15代・利嗣Ⓞに婿養子として入っています。東京の前田侯爵邸を建てたことで知られますが、公益法人前田育徳会を設立して現在の前田家の膨大な財産・資料を守るなど、名君の再来・当主とされながら、戦時中にボルネオ守備軍司令官として飛行機事故死(戦死扱)で英霊扱いで当主墓所内で唯一の墓所不在の当主。17代・利建Ⓟは利為の長子になります。
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10代藩主重教Ⓙと正室千間姫⑧の墓所
10代重教は4人目の兄弟相続の藩主(6代吉徳七男)。治世は17年ですが、前半は加賀騒動の後始末、金沢史上最大の宝暦の大火、銀札発行のインフレによる一揆の発生、天明の飢饉と苦労の連続で、疲れ果てたように30歳で弟・治脩(はるなが)に藩主を譲り隠居しています。しかし、隠居後に出来た斉敬・12代斉広が治脩の養嗣子となり加賀前田家の次代を繋いでいます。
正室・寿光院(千間姫)は紀伊藩7代徳川宗将長女。墓は近代になって重教と8代重煕の境界地に造成改葬されたものです。左隣に重煕の墳墓があります。
補足:藩主正室4~11代(④~⑨)は江戸屋敷で死去しており江戸期は江戸の寺院に墓所がありました。これまた近代に造成されたものです。8代重煕(しげひろ)・9代重靖(しげのぶ)は未婚。つまり、江戸期には4代以降の正室は前田家墓所には存在しませんでした。
12代正室・真龍院(鷹司隆子)⑩は明治3年(1871年)6月に埋葬されています。加賀藩として4代以降の正室として仏式で野田山墓所に埋葬された最初で最後の人物になります。13代正室・溶姫⑪は金沢、14代正室・崇姫⑫、継室・通姫⑬は江戸期に江戸か金沢かは不明ですが夫より先に亡くなっていますが、江戸期の野田山の過去帳に名が無く、宝円寺・天徳院から改葬・分葬されたのではないかと思われます。
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6代吉徳Ⓕ側室
10代重教Ⓙ生母の辻流瀬子墓所
補足:藩主側室・藩主生母で江戸期から前田家墓所内にあるのは6代吉徳Ⓕ側室・10代重教Ⓙ生母の辻流瀬子が重教墓所前の参道突き当りに、10代重教Ⓙ側室・11代世子斉敬、12代斉広Ⓛ生母・山脇喜機子が10代重教・斉敬の参道を挟んだ正面空き地に、12代斉広Ⓛ側室・13代斉泰Ⓜ生母・小野木八百子が12代斉広の正面、正室隆子⑩と並んでいます。
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10代重教Ⓙ側室
11代世子斉敬・12代斉広Ⓛ生母
山脇喜機子墓所
14代義寧Ⓝ側室・15代利嗣生母・前田挺秀(筆)が15代利嗣と珠姫③を挟んだ入口脇に早世した子女と並んでいます。側室・生母は伴侶の藩主より長く生きていた者が前田家墓所内への埋葬、他の側室はたとえ生母でも天徳院・宝円寺に埋葬との不文律だったようです。例外は6代吉徳Ⓕ側室・7代宗辰Ⓖ生母・上坂伊与子が吉徳の墓所前に改葬されています。

補足:5代綱紀Ⓔは早世した子女・孫娘を前田家墓所内の珠姫③の横に埋葬していましたが、11代治脩Ⓚ長子・12代斉広Ⓛ養世子・利命6歳㉑の墳墓の規模が際立ちます。。早世した子女を明治以降にも改葬しており、前田家墓所の一つの特徴になっています。

補足:3代利常に殉死した6名、4代光高に殉死した2名の殉死墓があります。4代光高は昭和27年に野田山に改葬されており、同時期に殉死墓も改葬されたと思われます。

加賀藩初期の家臣団は中途採用が多いことで殉死の意識が薄く、更に歴代藩主が殉死を禁じたり避けたりしていますから、他藩に比べれば殉死者は少ないようです。しかし、利常に殉死した中には品川左門(小松天満宮十五重の石塔に由来)などのように、主人の意思に反して、寵臣として他の家臣や世間から強要された者もいます。利長の元で200石から大出世し後に加賀八家老の横山家を作った横山長知がいますが、利長晩年、利長は自分の死後に長知が周りから殉死を強要されることを心配して、奥村栄頼讒言事件を契機に長知を出家出奔させ、改めて利常に再仕官させたと云われます。

4代光高殉死した2名。父・利常は殉死を厳禁していたのですが、特別に許可したのがこの2名です。
加賀藩としての藩主殉死者の初出はこの2名になります。
江戸から金沢に光高の遺体が到着した際に、殉死者が一人もいないという事態に噛みついたのが、浅井一政(今木源右衛門、年齢不詳、老齢は間違いなし)という光高の傳役兼側用人。祖父が浅井亮政(長政の父)の娘婿で浅井氏の後裔になります。大坂夏の陣(当時は今木姓)では淀殿助命の為に常光院(初姫・淀殿の妹・徳川秀忠正室江(小督)の姉)の使者として向かうも京極忠高・井伊直孝に拘束され、夏の陣では側近くに仕えながら秀頼と共に死ねなかった経歴があります。大阪陣での大阪方の詳細が伝わるのは一政の著述を残したことによります。
淀君・初姫(常高院)の姪となる珠姫(3代正室)が大きく係わっていたようで、3代利常に1000石馬廻役として仕官しました。先の秀頼に続く主君・光高の死に特別許可を得て殉死しています。
もう一人は小篠(笹)善四郎(150石取)。かつて光高に犯した罪を許された経歴を持っていました。光高の死を聞いて殉死を広言したのですが、同僚から非難を浴び、上司の本多政重に直訴すると「お前のような下っ端が一人だけ殉死などしたら、加賀藩には人がいないと外から笑われるじゃないか」と諌止されます。「ならば、上位の方が殉死を許されたら、私が殉死してもよろしいですね」そこまで言われたら政重も渋々OK..そして前述の浅井一政が利常から殉死許可を受けると、一政の本宅に行き殉死の真意を確認、政重の許可を改めて受けて、同日、一政の後を追ったという逸話があります。二人は天徳院の光高墳墓側に葬られていました。
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高徳山 桃雲寺 2012.03.19撮影
慶長5年(1600年)前田利長によって、前田利家の墓守寺・野田宝寺として開基。
元和元年(1615年)火災で全焼したため芳春院(於松)によって再建、桃雲寺と改めています。
江戸期には野田山の管理権を持ち、墓地代・墓地管理を一括管理して栄えた寺院。
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慶長4年(1599年)3月3日大坂屋敷で死去した前田利家は遺言状に従って衣装用の長持で金沢に運ばれ、4月6日には宝円寺(当時は現在の兼六園内、石川門から正対の位置)で葬儀が行われ、8日には野田山の現在地・図Ⓐに葬られていました。翌年には2代利長が墓所に廟を築き、麓地に野田宝円寺を墓守寺として建立しています。利家の葬儀に導師を努めた宝円寺2世象山徐芸を隠居させ初代住職としています。元和元年(1615年)に火災で全焼しましたが、前年に金沢に帰郷していた芳春院於松、前田利家正室)が再興し、高齢で廟所に登れなくなったために利家の遥拝墓を寺院に建立。寺院名も利家の法名・高徳院殿桃雲浄見大居士から高徳山桃雲寺と改めています。桃雲寺は加賀藩からの保護、野田山墓地の墓地料や管理によって栄え、広大な敷地を有していましたが明治2年(1869年)に再び焼失し、野田山墓地の上知令も相まって規模が縮小されましたが、寺宝に前述の遥拝墓の他に、利家・芳春院の対の肖像画があります。芳春院の画像は長谷川等伯筆と伝わっています。⇒ 絹本著色前田利家・同夫人画像
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桃雲寺入口
元和年間には3代・利常によって金沢城から野田山の往還道路(寺町通)が整備されています。
寺町通を南東にひたすら真っすぐ進み、野田町交差点を越して桃雲寺門前(ここからが本来の野田山参道)を右に見ながら石材店前を右折してまっすぐ進むと、前述のバイパスの野田山参道の交差点に至ります。

交差点には緑濃い林の墓所と覚尊院という曹洞宗寺院がありますが、覚尊院は釈迦牟尼大仏堂として、桃雲寺創建時の敷地内の一角でした。往時の桃雲寺が大規模で江戸期を通じて野田山墓地全体の管理を住民と共に管轄してきた寺院ということが解ります。明治の上知令で墓地の所有管理権が石川県・金沢市となり、所有・墓守管理の継続を主張する野田山住民との長い係争になってきました。この係争は昭和41年(1966年)まで解決に要しています。現在は戦没者墓地石川県前田家墓所が金沢市から成巽閣財団豪姫墓所大蓮寺冨姫(八条宮智忠親王妃、前田利常四女)宮内庁所管、野田山墓地全体を金沢市の野田山墓地管理事務所が管理・代行ですが、野田山住民が山林・墓地清掃などの多くに係わっています。 
この辺りの事情は以前に触れています。 ⇒ 2012.3.19 桃雲寺(とううんじ) 前田利家の墓守寺

野田山の山頂部にあるのが初期の加賀前田家の墓所で前述の前田利久⑮・前田利家Ⓐ。前田利長(遥拝墓)Ⓑ・芳春院(於松、利家正室)①・玉泉院(永姫、利長正室)②、同じ敷地内には春桂院(幸姫、前田長種正室、利家長女)⑯・樹正院(豪姫、宇喜多秀家正室、利家四女、豊臣秀吉養女)⑱・春香院(千世、元細川忠隆正室、村井長次正室・利家七女)⑲・前田利貞(江月院、利家六男)⑰などが山頂部を占めています。前田利貞は区画的には外れ気味ですが、どちらにしても、先の8人が加賀前田家草創期の主要人物になります。

前田利久・利家が最初期で、前田利長遥拝墓以降は3代利常の選考で配置されたと考えられています。それにしても、戦国期に全国的に知名度の高い女性が目立つのが加賀前田家の特徴ですね。通常は利家室・利家女・利家娘と表記されることが多く諱名(いみな)が外に出されることは稀少ですが、加賀藩では諱名が解る女性が多いですねえ@@;
この初期の墓所の特徴は方辺19mの方墳のような造りで、三段の段丘になっており四周に堀が施されていました。墓前に四角の基壇が造られ石廟(幸姫墓に一基残されています。)もしくは遥拝廟が置かれていたようです。そして左右に灯籠が建てられていたようです。

3代利常が係わった墓所位置選定2代前田利長以降、他に清妙院(模知姫、篠原貞秀(篠原一孝長男)正室、利家九女)、墓所不明の高源院(福姫、利家八女)を含めると9名の選定に係わっています。
さて、ここで皆さんに問題です。最初期の利久・利家を含め、利常の係わった9名の内、一番高い地位にある墓所は誰の墓所でしょうか?解りますか? そんなの家祖・利家だろという人は普通の人、利家の兄・利久という人は、利家の遺言で兄の下の地は利家と指定したのを知る歴史通^^でもね。。
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8代藩主・前田重煕(しげひろ)の墓所Ⓗ
7代で兄・宗辰が藩主在位1年半で死去したために兄弟相続で17歳で8代を継いでいます。まさか、この兄弟相続が5代に渡る(長子~十男)とは誰も考えなかったでしょう。。加賀藩を混迷に陥れた加賀騒動は就任2年目、延享5年(1748年)に江戸屋敷の藩主茶室に毒薬が置かれたのが発端です。
話は前後しますが、以前に書いたブログで加賀藩主墓所の藩主の墓の規模は、後代で小さくなっていると書いたのですが、大きなまちがいでした
その後の実地調査によって規模が判明しています。利常選定までの初期は前述のとおりですが、3代利常の墓所以降は敷地の大小はあるものの、いずれも墓の方辺16m四方の方墳に統一、四周に堀が施されているのも共通です。実際には土砂が積もったりで隠れているものが多いようです。地図の説明に書いてあるように江戸期からある側室墓・子女墓、明治以降の墓所や改葬・移葬の墓は多くは円墳となり小型になっています。現在の墳墓の外観を見ると簡易なものに見えますが、実はとんでもない費用と手間がかかっていました。

江戸期の野田山墓所の詳細は、10代重教以降の火屋や棺桶・石郭などの詳細図面はあるものの、墓所外観は次節の「野田山御廟図」のような略図しか残っておらず、野田山加賀藩前田家墓所は明治初期の前田家の神道改宗によって仏式から神式に変更されています。石廟や墳墓上にあったであろう宝塔(宝篋印塔又は法華墓塔)が取り壊され、山門が無くなり鳥居と墓柱・灯籠の簡素なものにに変わっています。
ちなみに、火屋は埋葬時に建てられる五間四方(一辺9m)高床式の2層建物で、石郭が最深部で地下5~6m、その上の地下部に高床式の滑車付き脚部柱3~5m、上部の床建物が4m。棺は三層構造で滑車で石郭の中に納められ、三層の間ごとに木炭・石灰が詰められています。火屋には装飾や水引が3代正室・珠姫(天徳院)の50回忌改葬の際には施されたという記述が見られますが、以降は装飾は竹垣以外は詳細不明。とにかく火屋は埋葬の日の儀式用として一日だけの使用で分解撤去され、墳墓を埋め塚を築いています。その場で焼却されていました。

さて先ほどの答えですが、2代利長正室永姫(玉泉院)になります。 加越能文庫「野田山御廟図」(金沢市立図書館近世資料館蔵、年代不詳)を見ると一目瞭然です。敷地の関係もありますが、芳春院の墓所・利長の遥拝墓所が門番のように両脇になり参道を構成しています。玉泉院の墓所はその参道を通って上段地になり利久と同格の高度になります。そして左右に利久・豪姫の間の中央に位置します。

永姫の父は織田信長で、四女(母は不明、生駒氏が有力?)になります。。家祖・前田利家にとって信長は尊敬してもあまりある主筋であり、死ぬまで信長との関わりを自慢、尊敬していた神のような存在です。前田利常は子のない長兄・利長の養子となっており、永姫は利常にとっては義理の姉であり養母になります。そして利常藩主就任の最大の推進者でした。

以前にも書いていますが、朝鮮役の際に名護屋城滞在中の前田利家が正室(芳春院、お松)付の侍女・千代保(寿福院)に手を付けてできた子供が利常でした。大河ドラマ「利家とまつ」では、於松が千代保を説得して派遣したように描いていましたが、とんでもない話です。
江戸幕府の大奥以上に奥向きの規律の厳しかった加賀前田家では、表向きの殿様が利家なら、奥向きの殿様が芳春院(於松)でした。利家は、単に家臣の娘に手を出したのではなく、同格の殿様の直属の家来に手を出したことになるのです。これはドラマのような言い訳を言えるようなものではなく、下手をすれば、利家と千代保は二人纏めて、於松にたたっ斬られても文句は言えない状態でした。
利家のこの危険な浮気行為は初犯ではなく二度目でした。懲りてなかったんですね。。DSC_5969.JPGDSC_5970.JPG篠原家墓所 篠原織部家墓所
初犯の時には相手は不明ですが、相手に男女の双子を産ませていました。この時は相当のすったもんだのあげく、最終的に利家と於松、於松の実家筋である篠原長重(於松の実兄)の三者会談が行われています。
男の子は篠原長重の実子(次男・長次)として引き取り、女の子は利家と於松の実子(七女・千世)とすると決め、内密で処置しています。長重の長子・一孝は有能で、すでに独立していて篠原出羽守家17000石を構えていました。後に長次は長重の家督を継いで篠原織部家(篠原本家)6000石を相続、明治まで繋いでいます。篠原家墓所は芳春院生家として、藩主墓所域の北面下段にありますが、真新しい墓碑標に芳春院生家はともかく、高徳院実子などとでかでかと表記しています。江戸期は公然の秘密とされ、公にしたのは近年になってからです。

このために於松を畏れた利家は、その後は身重の千代保を能登羽咋に送り返し、生まれた利常と千代保を日陰の存在として顧みず、見ない、忘れた存在にしようとしたわけです。千代保は田舎家もしくは寺院で利常を産み、生活も苦しんだと云われます。
これに同情したのが越中守山城代だった前田長種・幸姫(春桂院)夫妻。二人を引き取り、利常親子を養育していました。当時、守山城主は前田利長で、永姫も在城で両夫婦からの愛情も受けたと云われています。利家死去の前年に利長の仲介で5歳で実父との対面を果たし、翌年小松城人質の経験後に利長夫妻の養子となり、徳川秀忠の次女・珠姫(3歳、結婚は5年後、天徳院)を妻に迎えています。慶長10年(1605年)に利長隠居で当主・藩主に11歳でついています。日陰の子から一躍・藩主にまで登り詰めたわけです。DSC_5971.JPG
DSC_5973.JPG前田土佐守家墓所 入口 墓所
前田土佐守家は家祖は前田利家・お松夫妻の次男・利政
大名復帰を拒否した利政の子・直之がお松(芳春院)に引き取られ養育され、伯父・利長に2000石で家臣となり、芳春院死後に化粧領の近江塩津7500石相続、加賀八家老の筆頭格となっています。
しかし、この藩主就任にはすったもんだがありました。日陰の子・四男・利常の当主抜擢には当然ながら反対者が多く存在しました。利家三男・知好(七尾小丸山城主)、芳春院と共に江戸屋敷に幼児から人質となっていた五男・利孝、また幼児ながら六男・利貞がおり、更には芳春院が次男・利政の子・直之を引き取り養育していました。それなりというか、実母の血筋では上のライバルが多くいたのです。浪人となった利政の子とはいえ、直之に至っては前田利家・於松という加賀前田家創業者二人の唯一の直系男子でした。

反対急先鋒で存在感抜群だったのが芳春院(於松)。女の意地も絡んでいて芳春院と、過去の冷遇を恨む利常の実母・寿福院(千代保)の関係も最悪で、二人は利常誕生後は生涯言葉を交わさなかったと云われています。
利家亡き後の前田家の影の最高位だった芳春院説得に奔走してくれたのが、前田家内でも名前を知られる女性陣でした。芳春院から見ると主筋の家の娘で長男の嫁・永姫、前田本家筋の嫁となった長女の幸姫、幼い頃これまた主筋・豊臣家に養女に出した四女の豪姫、一番可愛がっていた自身の末娘・千世。そして長男である利長自身、江戸屋敷で自身が養育した五男・利孝(七日市1万石藩祖)。これだけのメンバーに説得されては芳春院も折れるしかなかったようです。利常が大事な山頂部に恩人たちを祀った気持ちが解ると思います。

特に自分を養子にした上に藩主にまでしてくれた養父であり兄の利長には高岡に戦国江戸期武将では最大の敷地墓所・墳墓と北陸唯一の国宝建物・瑞龍寺という菩提寺を造営。養母で義姉の玉泉院には生前は金沢城内に贅を凝らした庭園と屋敷の玉泉院丸を造成して居住させ、永姫晩年には信長・利長を祀る玉泉寺を建立、死後には野田山の前田家墓所内では開祖・前田利家夫妻以上の最高の位置を贈ったと推測されます。初めて前田家墓所に訪れて、案内板を見ずに、廻ると野田山の主役は玉泉院(永姫)だと思ってしまいます。周りが全て引き立て役に見えてしまいます。

その後に下段の山頂・山腹部に歴代藩主に正室・生母・子女・殉死者の移葬もあって御廟所内に約80基超が葬られています。前田家墓所の敷地面積は8.6ha(86000㎡)、84基の内、江戸期に埋葬年代・埋葬者がはっきりしているものが29名、野田山埋葬ながら墓所不明8名(縁組関係者の為に藩主墓所外の家臣団の区域と思われます。)。更に利常の殉死者が6名がいました(光高殉死者2名は天徳院から移葬)。
明治以降死去の当主や婦人、親族の埋葬の他に、近代になって天徳院・宝円寺から移葬されたものが半数以上になるそうです。現在は高岡の前田利長の墓所と合わせて国史跡「加賀主藩前田家墓所」に指定されています。
山腹に下がるように周囲に家臣団の墓所、後には町人墓も許され、真宗信徒の墓も許され、現在の一大墓地集積地・野田山墓地として現代に続いています。

前述のように加賀藩主前田家墓所・野田山墓地は天正15年(1587年)野田山頂に前田利家が兄・利久を葬った時から始まります。続いて慶長4年(1599年)利家自身の遺言により利久の下段に自身の墓が造成されて葬られていました。翌年に利家墓の墓守寺として桃雲寺を2代・利長その後元和時代に3代・利常によって、金沢城から野田山の道路(寺町通)が整備され、芳春院を始めとする初代・2代正室・子女の御廟所への埋葬が進められています。5代・綱紀に至って祖母・天徳院(珠姫)の移葬から御廟所への埋葬ルールが定められていったようです。しかしこのルールも完全に解明されているわけではなく、まだまだ研究が必要なようです。
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9代藩主・前田重靖墓所Ⓛ
昭和27年(1952年)まで天徳院の墓地に、4代光高・11代世子・斉敬と並んで墳墓が建てられていました。現在の小立野小学校のプールからグランドバックネットにかけてが跡地、同年に築造・改葬されたものです。
疑問に上げられているのが、藩主では遥拝墓があるものの2代・利長(高岡)、4代光高(天徳院)・9代重靖(天徳院)、12代に内定していた斉敬(天徳院)が江戸期には野田山には葬られていないこと。。2代利長の正室(玉泉院・永姫)②が高岡(瑞龍寺に石廟が有)に墓が無く、野田山では利長と隣接するとはいえ上段に位置すること。
4代から11代の正室は江戸で死去したとはいえ、そのまま江戸で埋葬されて野田山に墓所がなかったこと側室が生母とはいえ、正室不在の中で、野田山に多く葬られていること。子女にも幼児の墓が多いのに成人後は独身でも天徳院や宝円寺に多くが埋葬されていること。いろいろ理由を考えても例外も見られ、この辺りが不明の大きな要点。これについては、長くなるのでまたの機会に。。一応、前述の藩主は2代利長を除き急死した人物で、9代・重靖に至っては金沢を見ずに亡くなっています。2代利長には実は自殺説が根強く伝えられています。。。。

旅行日2020.01.18

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この記事へのコメント

  • yasuhiko

    今夜から明朝にかけて、北陸地方は
    大雪に見舞われるという予報が出ています。
    車の運転など、十分お気をつけ下さい。
    奥様の病状も心配ですね。
    それにしても、野田山墓地の規模の大きさには
    驚きました。私の場合、歴代の前田家当主の中で
    一番身近に感じるのは、駒場の旧前田侯爵邸の主、
    16代利為氏です。士官学校で同期の東条英機とは犬猿の仲で、
    東条が大嫌いだったという利為氏。その彼が、唯一
    前田家の中で墓所不在だとは、なんて皮肉なというか、
    お気の毒な話なのかと思ってしまいました。
    2020年02月17日 22:46
  • つとつと

    yasuhikoさん
    昨晩は冬の稲妻で朝はどうなるんだろうと思っていましたが、うっすら白い程度で。。今のところは太陽まで見えています。昨昨日は春一番が吹いたのに翌日は雪が舞うんですから日一日と天候が変わっています。
    約10日ほど、家で籠ったおかげ今日から仕事だと出かけて行きました。まだ本調子ではないですが、動けないのは辛かったみたいでうきうきしてました^^;
    そうなんですよ。加賀藩の資料や文化財が散逸しなかったのは利為氏の功績が大きく、昔から墓所がないのには残念な気持ちが強くあります。
    前田家には支藩(富山・大聖寺・七日市)と地方所領(近江塩津)がありますが、唯一藩庁跡を見ていないのが七日市で、いつか富岡をのんびり参画したいなあと思っています。現在の前田家当主は七日市からやってきた利為氏の血筋が本家と大聖寺に受け継がれています。
    2020年02月18日 10:14
  • がにちゃん

    京都も昨晩は雪が降りました
    今年2度目 うっすらと積もっていました
    今は青空が見えてます
    野田山墓地  代々の墓地がここまで揃っている所は初めて知りました
    すべて回ったら1日掛かりますね
    前田家の結束の固さがみられたような気がします
    大きなお墓ではなく 土葬そのままの墓所なのですね
    2020年02月18日 11:13
  • つとつと

    がにちゃんさん
    昨晩は凄い稲光と風で雪が舞っていましたが一夜明けてみると、うっすらといった感じでした。やはり2月は天候がコロコロ変わって油断できないですねえ^^;
    藩主墓所も広くて半日係になるんですが、こと野田墓地全体になると2万ほどあると云われているので一日かかってもタイヘンかも。。
    この日は藩主墓所と鈴木大拙の鈴木家墓所にも立ち寄ってきました。鈴木大拙の奥さんはベアトリス・レインというアメリカの宗教学者さん、日本名が琵琶子さん。大拙夫妻・琵琶子さんの母、女中の関口このさんが並んでいました。仲は良かったようですねえ。。
    2020年02月18日 12:35
  • 藍上雄

    前田家の墓所、とても複雑です。誰を何処に埋葬するか、埋葬された方々の家系図等とにらめっこしながら、推理すると面白いかもしれません。其れにしても、お金持ちの加賀藩の歴代の藩主の死や継承に、こんなに色々なミステリーが存在するとは・・・。個人的には、名誉と富の関係かも・・・と考える次第です。
    2020年02月18日 19:34
  • tor

    こんばんは。
    こちらも昨日は待望の?
    初雪が短時間ですが降りました。
    今朝の積雪が心配されましたが
    白くなっていたのは阿蘇の山々だけでした。

    さすが前田家墓所ですね。
    規模の大きさに驚きました。
    ただ後でこちらへ改葬された方もいらっしゃるのですね。
    それにしても凄いです。
    何も語らない墓がつとつと様により
    前田家の歴史を語ってくれてますね。
    千代様もこちらに眠られているのですね。
    それといまワイドショーを賑わせているような話。
    そういう歴史を思い浮かべながら回ると
    とても1日では無理ですね。

    肥後細川家は2か所に分かれていますが
    私にはここまでの紹介はできそうにないです。
    2020年02月18日 19:57
  • つとつと

    藍上雄さん
    加賀藩は収入も多かったんですが、それ以上に支出も物凄かったんです。8代以降は慢性赤字で、10代以降には巨額赤字になっていました。それでも江戸期を過ごしたんですから、時々に執政に有能な人材が出て凌いでいたようです。
    加賀藩主の墓と位置を見ると、なかなか面白い推測が成り立ちますから興味は尽きません。また近いうちに訪れてみたい場所です。藩主で自分の場所を決めていた人物はやはり名前を残した藩主というのは良い意味でも悪い意味でも存在感があったのは確かです。
    2020年02月18日 20:26
  • つとつと

    torさん
    昨昨年の豪雪も2/10頃だったんですから、やはり油断してはいけませんねえ^^;中途半端な積雪で凍結したためにあっちこっちでスリップ事故や、弱っていたバッテリー上がりが頻発していたようです。
    前田家墓所も改葬があったりで藩主が揃っています。この改葬にも意味はあったようですが。。これで16代の墓所や遥拝墓もあればいうことなしなんですが。。
    千世姫は熊本の細川家とは深い関係にありますが、こちらでも大きな存在です。でも出生から細川家と因縁と二度も翻弄されていますが、金沢では尊敬を集めて穏やかな生涯を過ごしたようです。
    前田家の墓所は基本的には一族がまとまっているので歴史散策には非常に向いています。富山藩は藩主の宗旨の関係で近くで2カ所に分かれていますが。。まだ見たことのない七日市藩には是非訪れてみたいと思っているところです。ただ残念なのは開祖の利孝は顕彰碑で、本墓は吉祥寺が大火で移転したためにないのが残念ですが、いつかは行ってみたいと思っています。
    2020年02月18日 21:06
  • ミクミティ

    野田山墓地のレポート、とても興味深く拝見しました。
    私も幾つかの大名家に墓所を散策したことがありますが、そこには大名家を守ろうとした強い思いや畏怖、更に当時の時代や政治的な背景、家中の人間模様などあったことが見えてきますよね。
    それぞれのお墓が巨大であること、その中でも玉泉院が広い墓域に手厚く葬られていること、葬られた場所や並び方など、興味は尽きません。
    薩摩の島津家の墓所と比較すると、前田家の墓所の広大さに驚かせられます。
    2020年02月18日 21:26
  • つとつと

    ミクミティさん
    野田山には藩主墓所の他に家臣団の墓所、更に平民墓所そして近年の一般市民の墓所など、数万基に登り、室生犀星や鈴木大拙など全国に知られた人物の墓があったりで見て回るだけで相当の労力が必要になります。でも人それぞれに歴史があり興味は尽きないですねえ^^
    藩主のうち何人かは改葬されたもので、4代光高・9代重靖、12代世子斉敬は小規模な墓所ですが天徳院時代の墳墓は高岡の利家墳墓に似た精緻なものだったそうです。加賀藩の藩主の墓所の統一感を見ると血縁と伝統を守る前田家の模様が窺えます。惜しむらくは明治の改修で仏式を廃したので往時の姿が不明な点が多いのが残念な部分です。
    藩主墓所にはいつも冬場に来るので、寂しく寒々しいですが、次回は若葉の頃に来たいと思っているんです。興味は尽きないですねえ^^
    2020年02月19日 11:57
  • 家ニスタ

    雪に慣れた金沢の方でもスリップしてしまいますか。
    僕も昔は車でスキーに行ったりしたことがありますが、チェーンしてるのに軽くブレーキを踏んだだけで一回転したりしたことがありました(笑)。
    若かったからできたことで、今ではもっぱら列車でしかスキーへは行きません。
    チェーンすら持ってないので、家の近所で1~2センチ雪が積もっただけで、車を出せなくなります。
    2020年02月21日 01:30
  • つとつと

    家ニスタさん
    12月の頭に雪が降った時に多くの人がタイヤを交換していたんですが、その後積雪が無く2月になってタイヤを変えた人も多くて、けっこうノーマルの人が多かったようです。やはり北陸では2月は油断禁物ですね。昨昨年の豪雪も2/8でしたから、油断しちゃいけませんねえ。。
    2020年02月21日 12:21
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    いつも興味深く読ませていただいております。
    日陰の子・四男・利常の当主抜擢には当然ながら反対者が多く存在する中、芳春院説得に奔走してくれたのが、前田家内でも名前を知られる女性陣、永姫、幸姫、豪姫、千世。利孝(七日市1万石藩祖)とありますが、母まつが豪の夫と息子二人のために八丈島の見継などに奔走してくれております。そんな母に説得ができるのかと思いました。
    あと利孝も江戸でまつの英才教育を受けて育ったとか。説得できるものかと思いました。もう少しそこのところ詳しく知りたくて。
    というのも確かに利常はかなり豪に対して感謝の思いが強いと感じるので不思議に思っていたのです。単純に考えれば、豪は異母姉で
    キリシタンで罪人の妻なので利常の厄介者に感じられるのに不思議に思うのです。お教えください。
    2020年07月09日 11:09
  • つとつと

    kekoさん
    確かに関ケ原後の芳春院は江戸にありながら、宇喜多秀家の助命、前田利政の大名復帰、前田利孝の大名格上げに奔走しています。秀家には諸大名からの嘆願もあり遠島処分、利政自身の復帰拒否、利孝は据え置き。はっきり言って、芳春院の加賀藩における発言権は強いものの、加賀・京都大阪在住の頃に比べれば、低下していたと云わざる負えません。また、反幕府を粛正したとはいえ、その後の対幕府からの待遇には反駁するものが多かったようです。利常就任についてはやはり、利長の意向が大きかったと云えます。
    実際には加賀藩内では、徳川の下風に貶めた元凶ともいえる芳春院は関ケ原後の権威は落ちていたと云わざる負えません。
    豪姫は幕府との関係から表立つことはできませんでしたが、宇喜多時代の豪姫との直接の主従関係だけでも、加賀八家老最大所領の本多政重、加賀から宇喜多家に派遣された中村刑部・一色主膳、関ケ原後に移った宇喜多久閑。又キリシタン関係では休閑もそうですが、他家ながら洗礼を勧めた内藤ジュリアの兄・内藤ジョアン、高山右近も頼っていたと云われます。受信した津田家・横山家などがいます。この人脈の広がりは加賀藩内でも一大派閥で内政には大きな発言権を持っていたと云えます。芳春院が金沢に戻って死去して後も10年以上金沢城の側に屋敷を構えていました。棄教したかは不明ですが、この10年以上は前田家ではNO1だったと云えます。野田山墓所内の初期墓所の中では千世と共に寛永年間まで生存しており、金沢では重い存在だったわけです。
    宇喜多家の没落とはいえ、関ケ原での勇戦は敵方からも称賛されています。島津が秀家を匿ったのも利長が助命嘆願したのも、他の大名家や幕府首脳が評価したのもその一点にあります。ですから罪人の妻どころか、尊敬すべき勇戦の将の妻として尊敬の的とされていたと云えます。
    利孝に関しては芳春院が大名取立てに奔走したように、その方針から自身でも独立志向が強かったようです。七日市藩に関しても加賀藩の分配でなく、大阪陣の活躍で自身の力で勝ち取ったものです。それでも本藩の加賀前田家の安定は重要で利常と共に兄になる知好や弟の利貞を説得した技量は高く、加賀藩成立の陰の立役者だと思います。
    現在の前田家当主は七日市藩からの血筋ですから、利孝の存在は大きいですねえ^^吉祥寺が焼失して墓所がないのが寂しいですね。
    2020年07月10日 08:16
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    貴重なお話ほんとうにありがとうございます。
    本多政重が前田家に仕えたのは豪姫の働きによるとどこかのブログで詠んだことがありましたが元宇喜多家家臣でしたからね。とはいえ本当かしらと思ってました。つとつとさんのお話で納得しました。
    そういえば玉泉園の作庭者金如鉄も大阪の陣で功を立て御算用場奉行となったと読んだことがあります。なるほど豪は厄介者ではなかった…うれしいです。
    その割に豪は金沢ではあまり知られてませんね。
    金沢の右近屋敷にあった茶室が今現在京都にあるのは右近がマニラに去るとき豪に託したと言われて現存しているのに。その茶室のこともあまり石川では話題になりません。ちょっと寂しいです。
    2020年07月13日 10:09
  • つとつと

    豪姫さん
    本多政重については関ケ原後は豪姫のおかげと云われていますが、二度目の復帰は藤堂高虎の斡旋だと云われています。特に利長の意向が尊重されたようです。 この辺りは僕も触れています。https://72469241.at.webry.info/201908/article_1.html
    玉泉園の金如鉄、脇田直賢のことですね。確かに三代かけたとはいえ兼六園に先駆けた庭園は、本多家の下屋敷跡の松風閣庭園と共に貴重な存在ですね。尚賢を引き取った豪姫、育てた永姫への思いは庭園名や灯篭に色濃く残っていますね。
    脇田家は明治に東京に移っていますが、後に脇田勇が東京テアトルの社長、その次男は脇田和といって現代洋画家として活躍しました。軽井沢に脇田美術館があります。http://www.wakita-museum.com/
    そうなんですよ。加賀前田家関係では金沢では玉姫の人気が高いですねえ。。松にしても豪姫にしてもちょっと影が薄いですねえ。芳春院が金沢で花は通っていますが、尾山神社に祀られたのは大河ドラマの後でしたから。。
    えっ@@ 右近屋敷の茶室が京都にあるんですか@@しらなかったあ。。たぶん、石川県人は誰も知らないと思いますよ^^;是非教えてください。 右近が茶室にしたと云われて現存しているのは、七尾の本行寺のきく亭くらいだと云われていますから。。高山右近が金澤追放の報を聞いた場所と云われています。https://72469241.at.webry.info/201901/article_2.html
    https://72469241.at.webry.info/201902/article_1.html
    2020年07月15日 15:59
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    いつもたくさん教えていただきありがとうございます。
    藤堂高虎…わかりました。脇田家は大久保利通暗殺で加賀藩を去り
    和さんはそれを背負って生きていたのでしょうね。県美で和さんの展覧会見ました。私にはちとわかりません汗 お兄さまのことは知りませんでした。ありがとうございます。
    皆如庵の歴史
    明治26年(1893年)に、西行庵復興と同時に皆如庵を久我大納言家別邸(北野天満宮付近)より初代西行庵々主宮田小文が移築し現在も観光名所として利用されています。桃山時代を代表する名席です 
    saigyo-an.jimdofree.com/茶-室/皆如庵/
    お知らせ→西行庵の歴史・宗旨→その1~8に詳しく書いてあります。私は平成27年(2015.2.21)高山右近帰天400年記念茶会でその茶室に入らせていただきました。
    2020年07月16日 10:36
  • つとつと

    豪姫さん
    西行庵にあるんですねえ@@まだ未訪地で、いつか行ってみたいと思います。それにしても 皆如庵の事は不勉強でまったく知らなかったです。改めて右近や豪姫、そして宇喜多家が深く係わっていたのは興味深かったです。通常は貴人口と躙り口は別方向にあるのが多い中で並んでいるというのは珍しいですねえ。ここで茶会に出られたんですか@@緊張しそ~~
    西行法師については、学生時代に南河内の河南町に住んだこともあって、弘川寺に訪れています。その印象が強かったせいでしょうか。弘川寺には伝承と共に西行の墓と伝わるものがありますが、西行庵と同時期に発見されたようです。西行の辞世句と同じく春に訪れると美しい場所ですよ。
    豪姫関連には金沢だけでも再訪したいところが多くあります。近年、八丈島から分骨(土)した秀家を豪姫の菩提寺の大蓮寺に二人が並ぶように慰霊碑が建てられています。豪姫の塔の横には「金沢豪姫」という新種の椿があります。まだ本堂内に入ったことがなくて、格天井の宇喜多家紋も豪姫の念持仏も未見になっています。
    https://72469241.at.webry.info/201505/article_2.html
    2020年07月18日 09:39
  • 豪姫

    何からお話してよいやらと思うほどありますが。改めてつとつとさんには感謝申し上げます。
    実は2017.10. 8にウエブ検索で金沢豪姫という椿が陽風園と大蓮寺あることを知り、さらに詳しく検索していたらつとつとさんが2015に書かれたブログに行き当たり…その勢いでわたくし平成の豪姫は戦国の豪姫が果たせなかった夢を抱いて2017.11.19八丈島入り致しました。翌年2018.5.23豪姫の命日にツバキの枝を切り取り現在わずかですが成長し、八丈島への記念植樹を何とか実現させたいと計画しているところなんです。
    前年度はいろいろあり豪姫のこと忘れていたのですが、再び今年2020.5,23に豪姫のお墓と浮田鎮さんが造った豪姫公園を訪れ、心新たに調べ直しているところです。
    大桑斉著書の「おふり様と豪姫」では豪姫亡き後ふり姫が八丈島の父秀家からの手紙を受け取っていることが記されております。
    川島蒼軒氏の口伝と合わせ、大桑氏の著書は必見ですね。
    2020年07月20日 09:52
  • つとつと

    豪姫さん
    「おふり様と豪姫」に関しては未見だったので、古本でも良いから検索して探して読んでみようと思っています。大桑斉さんといえば善福寺の住職さんだったんじゃないでしょうか、まったく別件で真宗関連を調べた時に著述を読んだ記憶があります。次男の秀継が豪姫の絵姿を金沢から受け取って大事に身近に置いていたという話は聞きかじっていたんですが、冨利姫が秀家の手紙を受け取っていたというのは知りませんでした。逃亡中の秀家と豪姫が密会した時の子と云われていますから、秀家には見たことのない娘で様々な思いがあったんでしょうねえ。父親としての思いが正直興味深いです。
    金沢豪姫をすでにご存じだったんですねえ、しかも説ブログをすでに読まれていたとは^^;感激です。しかも育てていらっしゃるとは^^;八丈島に植樹されるといいですねえ^^
    僕が最初に知ったのは陽風園の玄関脇に植樹されているのを見たのが初見でしたが、その後に大蓮寺を訪れた際に豪姫の供養塔の横にあるのをみました。可憐な花でしたねえ^^金沢と八丈島双方の二人の側に咲く花を想像すると、ほんわかとした絵が頭に浮かびます。
    大乗寺や豪姫墓所、丘陵公園も何度もバイパスで通っているんですがすっかりご無沙汰中なので、機会を見て再訪したいと思っています。
    2020年07月23日 09:01
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    「おふり様と豪姫」に書かれているふり姫は54歳で7代目の善福寺の住職に再稼しますが、ふり姫のことを利常が「お見捨てならせられざる御方」と表現し無理やり住職に押し付けております。なぜここまで利常は豪家族へ思い入れがあるのだろうと、つとつとさんへ今回初のコメントをさせていただきました。利常が亡くなる3年前のことです。利常がどれほど豪に感謝してたかが「お見捨てならせられざる御方」に込められていることをつとつとさんの返信で改めて感じました。感謝です。
    また皆如庵のことも、口伝では人に伝えにくいと思っておりましたが、平成24年6月18日発行淡交会の別冊愛蔵版№61「利休七哲」や淡交会テキストの表紙になったこともあるので機会があるときにはお伝えしてますが反応してくださる方は今のところつとつとさんお一人です。
    2020年07月27日 09:29
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    年号がいい加減ですみません(-_-;) 改めて確認しました。
    1656年に冨利姫は善福寺に利常の命で縁組、再嫁したので
    利常が亡くなる2年前ですね。改めて利常の気遣いを感じました。
    その他:平成の豪姫→訂正→ 昭和の豪姫 まだまだありそう(;^_^A
    2020年07月27日 18:07
  • つとつと

    豪姫さん
    富利姫については出生の伝承などは聞いているのですが、詳しいことにはまだまだ不勉強で詳しくないんですが、善福寺には富利姫所縁と云われるキリシタン灯籠が伝えられていますし、富利姫が嫁いで以降はそれまで専光寺・瑞泉寺のみだった触れ頭に格上げされていますから加賀藩でも重要視されたのは間違いないと思います。ただ、何故浄土真宗だったのかはこれから勉強しなきゃと思っています。まだ戦国遺風の残る利常時代は真宗はまだまだ警戒される存在でしたから。。
    僕も豪姫さんに教えられるまで皆如庵については、全く頭にも知識にもなかったですから^^
    平成に入った頃からの傾向なんですが、昭和期までは小京都と自画自賛した金沢なんですが、平成以降は武家文化の象徴として金沢は金沢として、京都会議からも脱退して京都を避けている傾向があるようでここ30年で京都が少し遠い存在になった気がします。
    歴史的にも古代からの影響があり、地名も京都に似ています。金沢文化の下地となった利常の導入も京都を中心にした職人や文化人を招いているんですが、、
    2020年07月28日 12:53
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    玉泉園にある灑雪亭も貴人口と躙り口が並列にあり皆如庵と同じです。当時、京都でもないのに貴人口があるのは宣教師のためと言われております。善福寺にあるキリシタン灯篭は玉泉園にあったものだと大桑氏の本に書かれております。そういえば大桑斉氏は今年4月にお亡くなりになっていたのですね。2年前?大雪の年にキリシタン灯篭見たさに善福寺を訪ね、大桑氏とお話いたしました。図々しい昭和の豪姫です(;^_^A
    10代伏見宮貞清に嫁ぎ11代邦尚を生んだのは「おなぐの方」で秀家の娘と言われておりますが豪の実娘かどうかは知りません。おなぐは1615か1616に亡くなっており、すぐに冨利姫が嫁ぎ梅子を生んでおります。梅子は久我家ヘ嫁ぎ皆如庵を伝承させたのだと思います。
    おなぐの子伏見宮邦尚は後水尾天皇猶子で高台院ねねの力なのでしょうね。利常の娘富姫が1642年に八条宮智忠親王に嫁いでますから利常は「ねねを養母に持つ豪姫」には感謝しているのでしょうね。歴史を少しかじりながらつなぎ合わせているのでとりとめもないお話になりましたがつとつさんの返信まとめで少しずつですがお勉強しております。感謝しております。
    2020年07月30日 15:53
  • つとつと

    豪姫さん
    豪姫さんのご説明を聞いていると、まだまだ僕の知らなかった部分が多くあるんだと実感させられてしまいます。善福寺の灯篭は僕も何年か前に観たんですが、玉泉園から移されたものなんですか。。知らなかった。。伏見宮家からは将軍家にも輿入れ(4代家綱)していますから、幕府との関係重視は命題だったと思われます。
    僕は昔から不思議に思っていたのは、御所第一の文化牽引者とはいえ、八条宮家に桂離宮の後援者になったり、娘を嫁がしたりと、幕府とは微妙な関係の八条宮家への過大な肩入れが、解らなかったんです。野田山の富姫の墓所も広い敷地ですから、決して娘を愛していなかったと思えませんし、、真剣に一度調べてみようと思いつつ、なかなか手を出せずにいます。
    2020年07月31日 12:36
  • 豪姫

    つとつとさんへ
    以前のつとつとさんのコメントで
    「歴史的にも古代からの影響があり、地名も京都に似ています。金沢文化の下地となった利常の導入も京都を中心にした職人や文化人を招いているんですが、、」
    まったくそうですね!!!国宝:仁清の色絵雉香炉が金沢にある
    石川県立美術館 故 嶋崎 丞館長の思い入れが感じますね。
    以前、昭和43年に建てられた能楽堂別館茶室「対青軒」について調べたことがあります。宝円寺にも対青軒という名の茶室があるので宝円寺住職にお電話でお尋しました。県内に同じ名前茶室があるなんて紛らわしい!という思いでした。もともとあった宝円寺の茶室の名前で昭和43年時点で倒壊していた茶室の名前を嶋崎さんに「譲ってもらえないか」と言われたとのこと。あとに再建した茶室にはやはり本家として「対青軒」を使用しっとのこと。そのとき嶋崎さんから「宝円寺対青軒」と名乗ってくださいと優先権はこちらにありと姿勢を崩さなかったのには仁清も宗達も光悦 他たくさんの芸術家を呼び寄せ、今日に残る加賀百万石の文化、美術工芸品は全てここに端を発しているという意味で「対青軒」が金沢には2つあるんだということを思い出しました。
    京風文化(寛永文化)の影響を受けて金沢文化(加賀ルネサンス)があるんですね。
    利常と後水尾天皇は義兄弟。ともに徳川幕府に屈従を強いられた者同士、「文化で勝負をかけた」のですね。ありがとうございます。

     
    2020年08月04日 10:53
  • つとつと

    豪姫さん
    加賀は加賀藩以前の林氏・富樫氏にしても藤原北家魚名流の藤原利仁の末流ですし、曹洞宗・一向宗にしても京都を逃れて新天地を目指した後の流れです。能登でも畠山氏という京文化を尊保した影響は大きかったと思います。連綿と京都の風を受けていたと思います。
    桃山・江戸時代というお国柄が出てしまう閉鎖的な武家社会でも、幕府に恭順したとはいえ、決して負けないぞということで、文化で対抗しようとした利常(一部には軍備にも手を出そうとしたようですが)は、今の金沢には様々な財産が残された先鞭になってくれたと思います。その後の綱紀時代に加賀藩の地位を固め、集めた文化財や書架類も見逃せないと思います。
    金沢文化を伝える物は幾度も散逸の危機を迎えていますが、育徳会を公益法人として創設した前田利為。県立美術館を守り続け、発展させた 嶋崎 丞。頭が下がるほどの頑固者が救ってくれています。
    建物の移築や改装も完了した工芸館がオープンを待つだけになっていますが、完成を心待ちにしていた島崎館長が亡くなったのは、本当に大きな損失だと思います。出羽町の一連の文化ゾーンはあの人の説得力と実行力あったればこそだと思います。この実行力と見識を持ち合わす県人の登場に期待しています。今日ニュースを聞きましたが、工芸館の館長が中田英寿氏に決まったようですが、興行的なモノにならなければ良いがと少し心配していますが、金沢の雰囲気に斬新さ加える期待もありますが、金沢の風は残して欲しいと思います。
    宝円寺の「対青軒」は外観しか見ていませんし、能楽堂の「対青軒」は未見ですが、、その話は聞いたことが有ります。島崎氏のような強さがないと文化は守れないし、広げることも難しいでしょうね。 
    2020年08月04日 21:47

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「金沢城 鼠多門・鼠多門橋」- by 家ニスタ (08/13)

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