野田山墓地

今冬は雪が降らない降らないと云っていたら、ここ3.4日雪が降って、うっすらと積雪が道に積もって久しぶりに、雪道を車で走りました。。久しぶり過ぎて怖々ハンドルを握っていました。さすがに朝は凍結で、雪に慣れてる石川県人もそこここでスリップ事故や立ち往生があったみたいです。(2/10)しかし、その後は温かくすぐ溶けちゃいましたが。。。

コロナウィルス騒ぎも収まりませんねえ。。今週風邪をぶり返した嫁さんが医者に行ったら軽い肺炎で、一週間の絶対安静でドクターストップ、家でどんよりテレビ三昧の日々を送っています。時期が時期だけにインフルやいろんな検査をやられて、落ちこんどりました。。(
風邪をこじらしたで、チョン)。。クルーズ客船も日増しに陽性患者が増えてて心配ですねえ、、足留めを喰らったみなさんには頑張って欲しいものです。ダイヤモンド・プリンセスは昨昨年寄港した「MSCスプレディダ」が寄港するまで、金沢港の最大のクルーズ客船の記録を持っていた船で、僕も眼の前で見て思入れがあるんで、早く収束することを願っています。 
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加賀藩主墓所本参道 
ここから長い石段を登ると前田利家夫妻の墓所正面に直接向かえます。僕は車を左に進めて墓所手前から歩いてみました。
1.2月は雪がないとはいえ氷雨や冷たい雨降りが多く、遠出をほとんどしないのですが、この日も冷たい雨降りでしたが河北からの帰り道、久しぶりに野田山墓地に立ち寄ってみました。一応目的地は加賀藩主墓所のつもりだったのですが。。右の画像の分岐点から左折して藩主墓所の東を廻り込む道を進んで脇に車を停めて、しばらく歩いて7代宗辰(むねとし)の墓所から順番に見て行こうとしたのですが、、ここで携帯が鳴って突然の呼び出し。。結局、少し見ただけでUターン。。帰り際に鈴木大拙師の墓によって、、結局久しぶりの藩主墓所は端っこで終わり。。

それでも、加賀藩主墓所について、久しぶりに書いておこうと思います。藩主墓所の画像なしで申し訳ありません。改めて新しい画像を撮って再アップします。今回はお話だけで。。内容は江戸期(明治3年埋葬の真龍院(鷹司隆子、12代斉広正室)を含む)までの埋葬資料で平成25年玉川図書館夏季展の資料を参考にしています。

野田山墓地にはいくつもの入口がありますが、加賀藩主前田家墓所まで自動車で行こうと思うと、管理事務所から南に山上を登るか、長坂台小学校東の交差点から大回りで戦没者墓地の南を駐車場まで行くんですが、今回は久しぶりに表参道から登ろうということに。。車でも途中まで行けますが、擦れ違いもできず、駐車場もないので人のいない冬場でないと車は難しいですね。

河北から福井方向に山側バイパスを進むと野田山トンネルを抜けて200m程の「野田山参道」の信号を左に進むのが、野田山墓地の一番古い参道になります。広大な野田山墓地は標高175mから山裾に広がる43万㎡、兼六園の4倍、東京ドーム敷地の10倍の規模と云われています。墓の数も数万基に昇ると云われています。ちなみに参道は山側バイパスで分断されていますが、当時の起点は道路を挟んで少し先に行った桃雲寺になります。桃雲寺は前田利家の墓守寺として建立された寺院ですが、江戸期を通じて野田山住民と共に野田山墓地全体の墓地管理を行っていました。
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加賀藩主前田家墓所配置図 H24金沢市文化財保護課パンフから
野田山墓地は天正15年(1587年)野田山山頂に前田利家が兄・前田利久を葬った時から始まります。利久の埋葬時には野田山の名はまだなく当地一帯の泉野で呼ばれていたようです。その後、野端山と呼ばれた時代もあったようですが、慶長4年(1599年)3月3日前田利家が死去。遺言により利久の下段に自身の墓が造成されて葬られていました。利家の遺言状に明記された野田山が初出ですが、その時までには野田山の名が認知されていたようです。
ただこの起源説には反論が多く、江戸期の文献の多くが野田山は利家の埋葬を起源にするとしている。利久死去の報を聞いて驚き色を成した利家が自ら「いづみ野迄野おくり」したという記述のみの為、利家埋葬後に遺言通り上段に利久を泉野のどこからか移葬したと金沢市や学会は主張しています。ただこの主張は利家を際立たせたいという希望的主張にしか聞こえないんですが。。

野田山を藩主累代の墓所にしようという考えは5代綱紀もしくは以降に決めたようで、万治元年(1659年)3代利常の墓所造成後、綱紀は寛文11年(1671年)祖母・天徳院(珠姫)の50回忌に天徳院から野田山に改葬しています。当時は二人の墓所周囲に他の墓所は無く、距離が離れていても同じ広場の中に長く二人だけの世界になっていました。その後、綱紀は自分の早世した息子二人、孫娘一人を同地に葬り、肝心の綱紀は利常・珠姫夫妻の間に墓所を置いています。江戸期の加賀藩を確定した三人がこの時期に並んでいたことになります。
5代綱紀の伝記「温故集録」に・・・説に云う、松雲公(前田綱紀)、野田山へ廟参したまいて、廟地より海上を見渡せる絶景を称美したまい、我、若し没したらば、此地を墳墓の地となすべし、と仰せになったという。近侍の人々も何とも答え奉る言葉が見つからず、基庸も外様ながら供奉して、其座にありけるが、取敢ず一首の詠歌を奉りける。 君ここに 千年の後の すみ所 二葉の松の 雲かかるらん
※基庸は山本源右衛門(百石取)の歌号 
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加賀藩主前田家墓所図 H24金沢市文化財保護課編集 公益財団法人成巽閣協力
ちょっと古いので醜く折れたりしてて申し訳ありません。
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補足:当主Ⓐ~Ⓟの内、4代光高Ⓓ・9代重靖(しげのぶ)Ⓘは小立野の天徳院に墓所墳墓があり、昭和27年(1952年)に小学校建設のために墓を撤去、野田山に改葬されています。同じく10代重教(しげみち)Ⓙの長子・斉敬(11代治脩Ⓚの養世子、18歳で早世)も光高・重靖と並ぶように天徳院に墳墓があったものを同時(昭和27年)に改葬しています。実父・重教Ⓙの墓所の入口右手にあります。
ちなみに天徳院にあった三基は高岡市の利家墳墓と同じ型式の外形を備えていたそうで、発掘調査で光高墳墓は利長の規模とははるかに譲るものの、堀に外内共に玉石垣が施され、利長墳墓以上の精緻を極めていたと云われます。
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前田斉敬墓所
前田斉敬(なりたか)・・・10代藩主・重教の長子11代治脩の養世子
7代から続く兄弟相続を終わらせる次代の世嗣と期待されていました。13歳で将軍拝謁・偏諱授与・武家官位授与も済ませていましたが、藩主就任寸前の18歳で急死しています。
墓柱 正四位下左近衛権少将 佐渡守菅原朝臣斉敬之墓
補足:13代斉泰Ⓜ以降は明治から平成の墓所になります。ちなみに18代の墓所も10年以上前から用意されています。明治以降の墓所は多少の型式の違いはあるものの、小さな円墳造になっています。16代利為(としなり、侯爵・陸軍大将)は、旧七日市藩前田家から15代・利嗣Ⓞに婿養子として入っています。東京の前田侯爵邸を建てたことで知られますが、公益法人前田育徳会を設立して現在の前田家の膨大な財産・資料を守るなど、名君の再来・当主とされながら、戦時中にボルネオ守備軍司令官として飛行機事故死(戦死扱)で英霊扱いで当主墓所内で唯一の墓所不在の当主。17代・利建Ⓟは利為の長子になります。
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10代藩主重教Ⓙと正室千間姫⑧の墓所
10代重教は4人目の兄弟相続の藩主(6代吉徳七男)。治世は17年ですが、前半は加賀騒動の後始末、金沢史上最大の宝暦の大火、銀札発行のインフレによる一揆の発生、天明の飢饉と苦労の連続で、疲れ果てたように30歳で弟・治脩(はるなが)に藩主を譲り隠居しています。しかし、隠居後に出来た斉敬・12代斉広が治脩の養嗣子となり加賀前田家の次代を繋いでいます。
正室・寿光院(千間姫)は紀伊藩7代徳川宗将長女。墓は近代になって重教と8代重煕の境界地に造成改葬されたものです。左隣に重煕の墳墓があります。
補足:藩主正室4~11代(④~⑨)は江戸屋敷で死去しており江戸期は江戸の寺院に墓所がありました。これまた近代に造成されたものです。8代重煕(しげひろ)・9代重靖(しげのぶ)は未婚。つまり、江戸期には4代以降の正室は前田家墓所には存在しませんでした。
12代正室・真龍院(鷹司隆子)⑩は明治3年(1871年)6月に埋葬されています。加賀藩として4代以降の正室として仏式で野田山墓所に埋葬された最初で最後の人物になります。13代正室・溶姫⑪は金沢、14代正室・崇姫⑫、継室・通姫⑬は江戸期に江戸か金沢かは不明ですが夫より先に亡くなっていますが、江戸期の野田山の過去帳に名が無く、宝円寺・天徳院から改葬・分葬されたのではないかと思われます。
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6代吉徳Ⓕ側室
10代重教Ⓙ生母の辻流瀬子墓所
補足:藩主側室・藩主生母で江戸期から前田家墓所内にあるのは6代吉徳Ⓕ側室・10代重教Ⓙ生母の辻流瀬子が重教墓所前の参道突き当りに、10代重教Ⓙ側室・11代世子斉敬、12代斉広Ⓛ生母・山脇喜機子が10代重教・斉敬の参道を挟んだ正面空き地に、12代斉広Ⓛ側室・13代斉泰Ⓜ生母・小野木八百子が12代斉広の正面、正室隆子⑩と並んでいます。
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10代重教Ⓙ側室
11代世子斉敬・12代斉広Ⓛ生母
山脇喜機子墓所
14代義寧Ⓝ側室・15代利嗣生母・前田挺秀(筆)が15代利嗣と珠姫③を挟んだ入口脇に早世した子女と並んでいます。側室・生母は伴侶の藩主より長く生きていた者が前田家墓所内への埋葬、他の側室はたとえ生母でも天徳院・宝円寺に埋葬との不文律だったようです。例外は6代吉徳Ⓕ側室・7代宗辰Ⓖ生母・上坂伊与子が吉徳の墓所前に改葬されています。

補足:5代綱紀Ⓔは早世した子女・孫娘を前田家墓所内の珠姫③の横に埋葬していましたが、11代治脩Ⓚ長子・12代斉広Ⓛ養世子・利命6歳㉑の墳墓の規模が際立ちます。。早世した子女を明治以降にも改葬しており、前田家墓所の一つの特徴になっています。

補足:3代利常に殉死した6名、4代光高に殉死した2名の殉死墓があります。4代光高は昭和27年に野田山に改葬されており、同時期に殉死墓も改葬されたと思われます。

加賀藩初期の家臣団は中途採用が多いことで殉死の意識が薄く、更に歴代藩主が殉死を禁じたり避けたりしていますから、他藩に比べれば殉死者は少ないようです。しかし、利常に殉死した中には品川左門(小松天満宮十五重の石塔に由来)などのように、主人の意思に反して、寵臣として他の家臣や世間から強要された者もいます。利長の元で200石から大出世し後に加賀八家老の横山家を作った横山長知がいますが、利長晩年、利長は自分の死後に長知が周りから殉死を強要されることを心配して、奥村栄頼讒言事件を契機に長知を出家出奔させ、改めて利常に再仕官させたと云われます。

4代光高殉死した2名。父・利常は殉死を厳禁していたのですが、特別に許可したのがこの2名です。
加賀藩としての藩主殉死者の初出はこの2名になります。
江戸から金沢に光高の遺体が到着した際に、殉死者が一人もいないという事態に噛みついたのが、浅井一政(今木源右衛門、年齢不詳、老齢は間違いなし)という光高の傳役兼側用人。祖父が浅井亮政(長政の父)の娘婿で浅井氏の後裔になります。大坂夏の陣(当時は今木姓)では淀殿助命の為に常光院(初姫・淀殿の妹・徳川秀忠正室江(小督)の姉)の使者として向かうも京極忠高・井伊直孝に拘束され、夏の陣では側近くに仕えながら秀頼と共に死ねなかった経歴があります。大阪陣での大阪方の詳細が伝わるのは一政の著述を残したことによります。
淀君・初姫(常高院)の姪となる珠姫(3代正室)が大きく係わっていたようで、3代利常に1000石馬廻役として仕官しました。先の秀頼に続く主君・光高の死に特別許可を得て殉死しています。
もう一人は小篠(笹)善四郎(150石取)。かつて光高に犯した罪を許された経歴を持っていました。光高の死を聞いて殉死を広言したのですが、同僚から非難を浴び、上司の本多政重に直訴すると「お前のような下っ端が一人だけ殉死などしたら、加賀藩には人がいないと外から笑われるじゃないか」と諌止されます。「ならば、上位の方が殉死を許されたら、私が殉死してもよろしいですね」そこまで言われたら政重も渋々OK..そして前述の浅井一政が利常から殉死許可を受けると、一政の本宅に行き殉死の真意を確認、政重の許可を改めて受けて、同日、一政の後を追ったという逸話があります。二人は天徳院の光高墳墓側に葬られていました。
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高徳山 桃雲寺 2012.03.19撮影
慶長5年(1600年)前田利長によって、前田利家の墓守寺・野田宝寺として開基。
元和元年(1615年)火災で全焼したため芳春院(於松)によって再建、桃雲寺と改めています。
江戸期には野田山の管理権を持ち、墓地代・墓地管理を一括管理して栄えた寺院。
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慶長4年(1599年)3月3日大坂屋敷で死去した前田利家は遺言状に従って衣装用の長持で金沢に運ばれ、4月6日には宝円寺(当時は現在の兼六園内、石川門から正対の位置)で葬儀が行われ、8日には野田山の現在地・図Ⓐに葬られていました。翌年には2代利長が墓所に廟を築き、麓地に野田宝円寺を墓守寺として建立しています。利家の葬儀に導師を努めた宝円寺2世象山徐芸を隠居させ初代住職としています。元和元年(1615年)に火災で全焼しましたが、前年に金沢に帰郷していた芳春院於松、前田利家正室)が再興し、高齢で廟所に登れなくなったために利家の遥拝墓を寺院に建立。寺院名も利家の法名・高徳院殿桃雲浄見大居士から高徳山桃雲寺と改めています。桃雲寺は加賀藩からの保護、野田山墓地の墓地料や管理によって栄え、広大な敷地を有していましたが明治2年(1869年)に再び焼失し、野田山墓地の上知令も相まって規模が縮小されましたが、寺宝に前述の遥拝墓の他に、利家・芳春院の対の肖像画があります。芳春院の画像は長谷川等伯筆と伝わっています。⇒ 絹本著色前田利家・同夫人画像
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桃雲寺入口
元和年間には3代・利常によって金沢城から野田山の往還道路(寺町通)が整備されています。
寺町通を南東にひたすら真っすぐ進み、野田町交差点を越して桃雲寺門前(ここからが本来の野田山参道)を右に見ながら石材店前を右折してまっすぐ進むと、前述のバイパスの野田山参道の交差点に至ります。

交差点には緑濃い林の墓所と覚尊院という曹洞宗寺院がありますが、覚尊院は釈迦牟尼大仏堂として、桃雲寺創建時の敷地内の一角でした。往時の桃雲寺が大規模で江戸期を通じて野田山墓地全体の管理を住民と共に管轄してきた寺院ということが解ります。明治の上知令で墓地の所有管理権が石川県・金沢市となり、所有・墓守管理の継続を主張する野田山住民との長い係争になってきました。この係争は昭和41年(1966年)まで解決に要しています。現在は戦没者墓地石川県前田家墓所が金沢市から成巽閣財団豪姫墓所大蓮寺冨姫(八条宮智忠親王妃、前田利常四女)宮内庁所管、野田山墓地全体を金沢市の野田山墓地管理事務所が管理・代行ですが、野田山住民が山林・墓地清掃などの多くに係わっています。 
この辺りの事情は以前に触れています。 ⇒ 2012.3.19 桃雲寺(とううんじ) 前田利家の墓守寺

野田山の山頂部にあるのが初期の加賀前田家の墓所で前述の前田利久⑮・前田利家Ⓐ。前田利長(遥拝墓)Ⓑ・芳春院(於松、利家正室)①・玉泉院(永姫、利長正室)②、同じ敷地内には春桂院(幸姫、前田長種正室、利家長女)⑯・樹正院(豪姫、宇喜多秀家正室、利家四女、豊臣秀吉養女)⑱・春香院(千世、元細川忠隆正室、村井長次正室・利家七女)⑲・前田利貞(江月院、利家六男)⑰などが山頂部を占めています。前田利貞は区画的には外れ気味ですが、どちらにしても、先の8人が加賀前田家草創期の主要人物になります。

前田利久・利家が最初期で、前田利長遥拝墓以降は3代利常の選考で配置されたと考えられています。それにしても、戦国期に全国的に知名度の高い女性が目立つのが加賀前田家の特徴ですね。通常は利家室・利家女・利家娘と表記されることが多く諱名(いみな)が外に出されることは稀少ですが、加賀藩では諱名が解る女性が多いですねえ@@;
この初期の墓所の特徴は方辺19mの方墳のような造りで、三段の段丘になっており四周に堀が施されていました。墓前に四角の基壇が造られ石廟(幸姫墓に一基残されています。)もしくは遥拝廟が置かれていたようです。そして左右に灯籠が建てられていたようです。

3代利常が係わった墓所位置選定2代前田利長以降、他に清妙院(模知姫、篠原貞秀(篠原一孝長男)正室、利家九女)、墓所不明の高源院(福姫、利家八女)を含めると9名の選定に係わっています。
さて、ここで皆さんに問題です。最初期の利久・利家を含め、利常の係わった9名の内、一番高い地位にある墓所は誰の墓所でしょうか?解りますか? そんなの家祖・利家だろという人は普通の人、利家の兄・利久という人は、利家の遺言で兄の下の地は利家と指定したのを知る歴史通^^でもね。。
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8代藩主・前田重煕(しげひろ)の墓所Ⓗ
7代で兄・宗辰が藩主在位1年半で死去したために兄弟相続で17歳で8代を継いでいます。まさか、この兄弟相続が5代に渡る(長子~十男)とは誰も考えなかったでしょう。。加賀藩を混迷に陥れた加賀騒動は就任2年目、延享5年(1748年)に江戸屋敷の藩主茶室に毒薬が置かれたのが発端です。
話は前後しますが、以前に書いたブログで加賀藩主墓所の藩主の墓の規模は、後代で小さくなっていると書いたのですが、大きなまちがいでした
その後の実地調査によって規模が判明しています。利常選定までの初期は前述のとおりですが、3代利常の墓所以降は敷地の大小はあるものの、いずれも墓の方辺16m四方の方墳に統一、四周に堀が施されているのも共通です。実際には土砂が積もったりで隠れているものが多いようです。地図の説明に書いてあるように江戸期からある側室墓・子女墓、明治以降の墓所や改葬・移葬の墓は多くは円墳となり小型になっています。現在の墳墓の外観を見ると簡易なものに見えますが、実はとんでもない費用と手間がかかっていました。

江戸期の野田山墓所の詳細は、10代重教以降の火屋や棺桶・石郭などの詳細図面はあるものの、墓所外観は次節の「野田山御廟図」のような略図しか残っておらず、野田山加賀藩前田家墓所は明治初期の前田家の神道改宗によって仏式から神式に変更されています。石廟や墳墓上にあったであろう宝塔(宝篋印塔又は法華墓塔)が取り壊され、山門が無くなり鳥居と墓柱・灯籠の簡素なものにに変わっています。
ちなみに、火屋は埋葬時に建てられる五間四方(一辺9m)高床式の2層建物で、石郭が最深部で地下5~6m、その上の地下部に高床式の滑車付き脚部柱3~5m、上部の床建物が4m。棺は三層構造で滑車で石郭の中に納められ、三層の間ごとに木炭・石灰が詰められています。火屋には装飾や水引が3代正室・珠姫(天徳院)の50回忌改葬の際には施されたという記述が見られますが、以降は装飾は竹垣以外は詳細不明。とにかく火屋は埋葬の日の儀式用として一日だけの使用で分解撤去され、墳墓を埋め塚を築いています。その場で焼却されていました。

さて先ほどの答えですが、2代利長正室永姫(玉泉院)になります。 加越能文庫「野田山御廟図」(金沢市立図書館近世資料館蔵、年代不詳)を見ると一目瞭然です。敷地の関係もありますが、芳春院の墓所・利長の遥拝墓所が門番のように両脇になり参道を構成しています。玉泉院の墓所はその参道を通って上段地になり利久と同格の高度になります。そして左右に利久・豪姫の間の中央に位置します。

永姫の父は織田信長で、四女(母は不明、生駒氏が有力?)になります。。家祖・前田利家にとって信長は尊敬してもあまりある主筋であり、死ぬまで信長との関わりを自慢、尊敬していた神のような存在です。前田利常は子のない長兄・利長の養子となっており、永姫は利常にとっては義理の姉であり養母になります。そして利常藩主就任の最大の推進者でした。

以前にも書いていますが、朝鮮役の際に名護屋城滞在中の前田利家が正室(芳春院、お松)付の侍女・千代保(寿福院)に手を付けてできた子供が利常でした。大河ドラマ「利家とまつ」では、於松が千代保を説得して派遣したように描いていましたが、とんでもない話です。
江戸幕府の大奥以上に奥向きの規律の厳しかった加賀前田家では、表向きの殿様が利家なら、奥向きの殿様が芳春院(於松)でした。利家は、単に家臣の娘に手を出したのではなく、同格の殿様の直属の家来に手を出したことになるのです。これはドラマのような言い訳を言えるようなものではなく、下手をすれば、利家と千代保は二人纏めて、於松にたたっ斬られても文句は言えない状態でした。
利家のこの危険な浮気行為は初犯ではなく二度目でした。懲りてなかったんですね。。DSC_5969.JPGDSC_5970.JPG篠原家墓所 篠原織部家墓所
初犯の時には相手は不明ですが、相手に男女の双子を産ませていました。この時は相当のすったもんだのあげく、最終的に利家と於松、於松の実家筋である篠原長重(於松の実兄)の三者会談が行われています。
男の子は篠原長重の実子(次男・長次)として引き取り、女の子は利家と於松の実子(七女・千世)とすると決め、内密で処置しています。長重の長子・一孝は有能で、すでに独立していて篠原出羽守家17000石を構えていました。後に長次は長重の家督を継いで篠原織部家(篠原本家)6000石を相続、明治まで繋いでいます。篠原家墓所は芳春院生家として、藩主墓所域の北面下段にありますが、真新しい墓碑標に芳春院生家はともかく、高徳院実子などとでかでかと表記しています。江戸期は公然の秘密とされ、公にしたのは近年になってからです。

このために於松を畏れた利家は、その後は身重の千代保を能登羽咋に送り返し、生まれた利常と千代保を日陰の存在として顧みず、見ない、忘れた存在にしようとしたわけです。千代保は田舎家もしくは寺院で利常を産み、生活も苦しんだと云われます。
これに同情したのが越中守山城代だった前田長種・幸姫(春桂院)夫妻。二人を引き取り、利常親子を養育していました。当時、守山城主は前田利長で、永姫も在城で両夫婦からの愛情も受けたと云われています。利家死去の前年に利長の仲介で5歳で実父との対面を果たし、翌年小松城人質の経験後に利長夫妻の養子となり、徳川秀忠の次女・珠姫(3歳、結婚は5年後、天徳院)を妻に迎えています。慶長10年(1605年)に利長隠居で当主・藩主に11歳でついています。日陰の子から一躍・藩主にまで登り詰めたわけです。DSC_5971.JPG
DSC_5973.JPG前田土佐守家墓所 入口 墓所
前田土佐守家は家祖は前田利家・お松夫妻の次男・利政
大名復帰を拒否した利政の子・直之がお松(芳春院)に引き取られ養育され、伯父・利長に2000石で家臣となり、芳春院死後に化粧領の近江塩津7500石相続、加賀八家老の筆頭格となっています。
しかし、この藩主就任にはすったもんだがありました。日陰の子・四男・利常の当主抜擢には当然ながら反対者が多く存在しました。利家三男・知好(七尾小丸山城主)、芳春院と共に江戸屋敷に幼児から人質となっていた五男・利孝、また幼児ながら六男・利貞がおり、更には芳春院が次男・利政の子・直之を引き取り養育していました。それなりというか、実母の血筋では上のライバルが多くいたのです。浪人となった利政の子とはいえ、直之に至っては前田利家・於松という加賀前田家創業者二人の唯一の直系男子でした。

反対急先鋒で存在感抜群だったのが芳春院(於松)。女の意地も絡んでいて芳春院と、過去の冷遇を恨む利常の実母・寿福院(千代保)の関係も最悪で、二人は利常誕生後は生涯言葉を交わさなかったと云われています。
利家亡き後の前田家の影の最高位だった芳春院説得に奔走してくれたのが、前田家内でも名前を知られる女性陣でした。芳春院から見ると主筋の家の娘で長男の嫁・永姫、前田本家筋の嫁となった長女の幸姫、幼い頃これまた主筋・豊臣家に養女に出した四女の豪姫、一番可愛がっていた自身の末娘・千世。そして長男である利長自身、江戸屋敷で自身が養育した五男・利孝(七日市1万石藩祖)。これだけのメンバーに説得されては芳春院も折れるしかなかったようです。利常が大事な山頂部に恩人たちを祀った気持ちが解ると思います。

特に自分を養子にした上に藩主にまでしてくれた養父であり兄の利長には高岡に戦国江戸期武将では最大の敷地墓所・墳墓と北陸唯一の国宝建物・瑞龍寺という菩提寺を造営。養母で義姉の玉泉院には生前は金沢城内に贅を凝らした庭園と屋敷の玉泉院丸を造成して居住させ、永姫晩年には信長・利長を祀る玉泉寺を建立、死後には野田山の前田家墓所内では開祖・前田利家夫妻以上の最高の位置を贈ったと推測されます。初めて前田家墓所に訪れて、案内板を見ずに、廻ると野田山の主役は玉泉院(永姫)だと思ってしまいます。周りが全て引き立て役に見えてしまいます。

その後に下段の山頂・山腹部に歴代藩主に正室・生母・子女・殉死者の移葬もあって御廟所内に約80基超が葬られています。前田家墓所の敷地面積は8.6ha(86000㎡)、84基の内、江戸期に埋葬年代・埋葬者がはっきりしているものが29名、野田山埋葬ながら墓所不明8名(縁組関係者の為に藩主墓所外の家臣団の区域と思われます。)。更に利常の殉死者が6名がいました(光高殉死者2名は天徳院から移葬)。
明治以降死去の当主や婦人、親族の埋葬の他に、近代になって天徳院・宝円寺から移葬されたものが半数以上になるそうです。現在は高岡の前田利長の墓所と合わせて国史跡「加賀主藩前田家墓所」に指定されています。
山腹に下がるように周囲に家臣団の墓所、後には町人墓も許され、真宗信徒の墓も許され、現在の一大墓地集積地・野田山墓地として現代に続いています。

前述のように加賀藩主前田家墓所・野田山墓地は天正15年(1587年)野田山頂に前田利家が兄・利久を葬った時から始まります。続いて慶長4年(1599年)利家自身の遺言により利久の下段に自身の墓が造成されて葬られていました。翌年に利家墓の墓守寺として桃雲寺を2代・利長その後元和時代に3代・利常によって、金沢城から野田山の道路(寺町通)が整備され、芳春院を始めとする初代・2代正室・子女の御廟所への埋葬が進められています。5代・綱紀に至って祖母・天徳院(珠姫)の移葬から御廟所への埋葬ルールが定められていったようです。しかしこのルールも完全に解明されているわけではなく、まだまだ研究が必要なようです。
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9代藩主・前田重靖墓所Ⓛ
昭和27年(1952年)まで天徳院の墓地に、4代光高・11代世子・斉敬と並んで墳墓が建てられていました。現在の小立野小学校のプールからグランドバックネットにかけてが跡地、同年に築造・改葬されたものです。
疑問に上げられているのが、藩主では遥拝墓があるものの2代・利長(高岡)、4代光高(天徳院)・9代重靖(天徳院)、12代に内定していた斉敬(天徳院)が江戸期には野田山には葬られていないこと。。2代利長の正室(玉泉院・永姫)②が高岡(瑞龍寺に石廟が有)に墓が無く、野田山では利長と隣接するとはいえ上段に位置すること。
4代から11代の正室は江戸で死去したとはいえ、そのまま江戸で埋葬されて野田山に墓所がなかったこと側室が生母とはいえ、正室不在の中で、野田山に多く葬られていること。子女にも幼児の墓が多いのに成人後は独身でも天徳院や宝円寺に多くが埋葬されていること。いろいろ理由を考えても例外も見られ、この辺りが不明の大きな要点。これについては、長くなるのでまたの機会に。。一応、前述の藩主は2代利長を除き急死した人物で、9代・重靖に至っては金沢を見ずに亡くなっています。2代利長には実は自殺説が根強く伝えられています。。。。

旅行日2020.01.18

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この記事へのコメント

  • yasuhiko

    今夜から明朝にかけて、北陸地方は
    大雪に見舞われるという予報が出ています。
    車の運転など、十分お気をつけ下さい。
    奥様の病状も心配ですね。
    それにしても、野田山墓地の規模の大きさには
    驚きました。私の場合、歴代の前田家当主の中で
    一番身近に感じるのは、駒場の旧前田侯爵邸の主、
    16代利為氏です。士官学校で同期の東条英機とは犬猿の仲で、
    東条が大嫌いだったという利為氏。その彼が、唯一
    前田家の中で墓所不在だとは、なんて皮肉なというか、
    お気の毒な話なのかと思ってしまいました。
    2020年02月17日 22:46
  • つとつと

    yasuhikoさん
    昨晩は冬の稲妻で朝はどうなるんだろうと思っていましたが、うっすら白い程度で。。今のところは太陽まで見えています。昨昨日は春一番が吹いたのに翌日は雪が舞うんですから日一日と天候が変わっています。
    約10日ほど、家で籠ったおかげ今日から仕事だと出かけて行きました。まだ本調子ではないですが、動けないのは辛かったみたいでうきうきしてました^^;
    そうなんですよ。加賀藩の資料や文化財が散逸しなかったのは利為氏の功績が大きく、昔から墓所がないのには残念な気持ちが強くあります。
    前田家には支藩(富山・大聖寺・七日市)と地方所領(近江塩津)がありますが、唯一藩庁跡を見ていないのが七日市で、いつか富岡をのんびり参画したいなあと思っています。現在の前田家当主は七日市からやってきた利為氏の血筋が本家と大聖寺に受け継がれています。
    2020年02月18日 10:14
  • がにちゃん

    京都も昨晩は雪が降りました
    今年2度目 うっすらと積もっていました
    今は青空が見えてます
    野田山墓地  代々の墓地がここまで揃っている所は初めて知りました
    すべて回ったら1日掛かりますね
    前田家の結束の固さがみられたような気がします
    大きなお墓ではなく 土葬そのままの墓所なのですね
    2020年02月18日 11:13
  • つとつと

    がにちゃんさん
    昨晩は凄い稲光と風で雪が舞っていましたが一夜明けてみると、うっすらといった感じでした。やはり2月は天候がコロコロ変わって油断できないですねえ^^;
    藩主墓所も広くて半日係になるんですが、こと野田墓地全体になると2万ほどあると云われているので一日かかってもタイヘンかも。。
    この日は藩主墓所と鈴木大拙の鈴木家墓所にも立ち寄ってきました。鈴木大拙の奥さんはベアトリス・レインというアメリカの宗教学者さん、日本名が琵琶子さん。大拙夫妻・琵琶子さんの母、女中の関口このさんが並んでいました。仲は良かったようですねえ。。
    2020年02月18日 12:35
  • 藍上雄

    前田家の墓所、とても複雑です。誰を何処に埋葬するか、埋葬された方々の家系図等とにらめっこしながら、推理すると面白いかもしれません。其れにしても、お金持ちの加賀藩の歴代の藩主の死や継承に、こんなに色々なミステリーが存在するとは・・・。個人的には、名誉と富の関係かも・・・と考える次第です。
    2020年02月18日 19:34
  • tor

    こんばんは。
    こちらも昨日は待望の?
    初雪が短時間ですが降りました。
    今朝の積雪が心配されましたが
    白くなっていたのは阿蘇の山々だけでした。

    さすが前田家墓所ですね。
    規模の大きさに驚きました。
    ただ後でこちらへ改葬された方もいらっしゃるのですね。
    それにしても凄いです。
    何も語らない墓がつとつと様により
    前田家の歴史を語ってくれてますね。
    千代様もこちらに眠られているのですね。
    それといまワイドショーを賑わせているような話。
    そういう歴史を思い浮かべながら回ると
    とても1日では無理ですね。

    肥後細川家は2か所に分かれていますが
    私にはここまでの紹介はできそうにないです。
    2020年02月18日 19:57
  • つとつと

    藍上雄さん
    加賀藩は収入も多かったんですが、それ以上に支出も物凄かったんです。8代以降は慢性赤字で、10代以降には巨額赤字になっていました。それでも江戸期を過ごしたんですから、時々に執政に有能な人材が出て凌いでいたようです。
    加賀藩主の墓と位置を見ると、なかなか面白い推測が成り立ちますから興味は尽きません。また近いうちに訪れてみたい場所です。藩主で自分の場所を決めていた人物はやはり名前を残した藩主というのは良い意味でも悪い意味でも存在感があったのは確かです。
    2020年02月18日 20:26
  • つとつと

    torさん
    昨昨年の豪雪も2/10頃だったんですから、やはり油断してはいけませんねえ^^;中途半端な積雪で凍結したためにあっちこっちでスリップ事故や、弱っていたバッテリー上がりが頻発していたようです。
    前田家墓所も改葬があったりで藩主が揃っています。この改葬にも意味はあったようですが。。これで16代の墓所や遥拝墓もあればいうことなしなんですが。。
    千世姫は熊本の細川家とは深い関係にありますが、こちらでも大きな存在です。でも出生から細川家と因縁と二度も翻弄されていますが、金沢では尊敬を集めて穏やかな生涯を過ごしたようです。
    前田家の墓所は基本的には一族がまとまっているので歴史散策には非常に向いています。富山藩は藩主の宗旨の関係で近くで2カ所に分かれていますが。。まだ見たことのない七日市藩には是非訪れてみたいと思っているところです。ただ残念なのは開祖の利孝は顕彰碑で、本墓は吉祥寺が大火で移転したためにないのが残念ですが、いつかは行ってみたいと思っています。
    2020年02月18日 21:06
  • ミクミティ

    野田山墓地のレポート、とても興味深く拝見しました。
    私も幾つかの大名家に墓所を散策したことがありますが、そこには大名家を守ろうとした強い思いや畏怖、更に当時の時代や政治的な背景、家中の人間模様などあったことが見えてきますよね。
    それぞれのお墓が巨大であること、その中でも玉泉院が広い墓域に手厚く葬られていること、葬られた場所や並び方など、興味は尽きません。
    薩摩の島津家の墓所と比較すると、前田家の墓所の広大さに驚かせられます。
    2020年02月18日 21:26
  • つとつと

    ミクミティさん
    野田山には藩主墓所の他に家臣団の墓所、更に平民墓所そして近年の一般市民の墓所など、数万基に登り、室生犀星や鈴木大拙など全国に知られた人物の墓があったりで見て回るだけで相当の労力が必要になります。でも人それぞれに歴史があり興味は尽きないですねえ^^
    藩主のうち何人かは改葬されたもので、4代光高・9代重靖、12代世子斉敬は小規模な墓所ですが天徳院時代の墳墓は高岡の利家墳墓に似た精緻なものだったそうです。加賀藩の藩主の墓所の統一感を見ると血縁と伝統を守る前田家の模様が窺えます。惜しむらくは明治の改修で仏式を廃したので往時の姿が不明な点が多いのが残念な部分です。
    藩主墓所にはいつも冬場に来るので、寂しく寒々しいですが、次回は若葉の頃に来たいと思っているんです。興味は尽きないですねえ^^
    2020年02月19日 11:57
  • 家ニスタ

    雪に慣れた金沢の方でもスリップしてしまいますか。
    僕も昔は車でスキーに行ったりしたことがありますが、チェーンしてるのに軽くブレーキを踏んだだけで一回転したりしたことがありました(笑)。
    若かったからできたことで、今ではもっぱら列車でしかスキーへは行きません。
    チェーンすら持ってないので、家の近所で1~2センチ雪が積もっただけで、車を出せなくなります。
    2020年02月21日 01:30
  • つとつと

    家ニスタさん
    12月の頭に雪が降った時に多くの人がタイヤを交換していたんですが、その後積雪が無く2月になってタイヤを変えた人も多くて、けっこうノーマルの人が多かったようです。やはり北陸では2月は油断禁物ですね。昨昨年の豪雪も2/8でしたから、油断しちゃいけませんねえ。。
    2020年02月21日 12:21

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