延喜式神名帳

久しぶりに式内論社神社を書こうと思ったのですが、そういえば、ここのところ一般神社ばかり書いていたのと、現代(戦後)は伊勢神宮を除いてすべての神社は同格として、神社庁が一部を特別な存在として別表神社としているくらいです。式内論社と云われても、一般人には縁が薄いというより、何のことともいえます。
式内論社 神田神社 標柱には「式内郷社神田神社」 白山市吉田町 2020.3.25撮影
画像をよく見ると郷社は後で書き直しているのが解ります。元は小社或いは論社となっていたと思われます。たぶん論社が有力だと思います。神田神社は位置的にも式内社・神田神社の有力地なのに、神田神社の歴史を綴る宮司家の資料の年号誤りなど確実性を疑問視され、他の候補神社も名乗りを上げていて論社に甘んじているという思いの強い神社です。どうにも論社という文字が我慢できなかったようです。
郷社は明治の近代社格制度の一環で定められたもので、府県社>郷社>村社という諸社の分類によるものです。ちなみに府社は東京・大阪・京都。北海道は県社になります。神社によってはこの諸社下位の村社を削ったり、書き直しているものもいます。それほど神社にとっては表札以上の意味が込められています。
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あまりに久しぶりなので、まずは復習の意味でご説明を。。古い由緒ある神社に行くと、古い標柱や案内板に誇るように旧位階の他に、式内・式内社・式内論社・論社・式外社・国史見在社(国史現在社)・国幣大(小)社・官幣大(小)社などと表記しているものがあります。明治の近代社格も同じ名称(国幣・菅幣、大・中・小社)を用いていますが、ここでは平安中期に定められたもので、古い歴史を朝廷から証明されたものを表しています。
DSC_4575a.jpg神田神社 一の鳥居横の標柱石 
神社の顔とする標柱の神社名の頭に戴くほどに誇っているのですが、これらの名称というのは古い由緒のある神社の証明ということで、通用する社格として現在も取り扱っています。「我が神社は1000年以上続くことを国も公認していた由緒正しき神社なんですよ。」とアピールしているわけです。

国司から報告(国内神名帳)を受けて、神祇官が祈年祭や祭祀に幣帛を贈る神社(官社)を選定し、纏めたものを式(内)神名帳と言います。国(朝廷)が公に記載していた神社(官社)の戸籍謄本ともいえます。
この神名帳で最も古く権威があるとされたのが、延長5年(927年)に作製された延喜式の内の九・十巻にあたる延喜式神名帳になります。全国の郡別に官社となっていた神社名を記載していました。

日本の政治形態は次代によって大きく変化してしまったものの、大宝令の施行以来、幕末に至るまで形式的には一貫して律令(刑法と行政法)による法治国家を根幹としていました。律令を修正・補完する法令(副法)・詔勅が、律令の施行細則を記したのが。二つを合わせて格式(きゃくしき)という律令の法令集としていました。身分・地位・規範・作法を表す格式(かくしき)はこれを語源にしています。

後にまで規範とされた三代格式の一つとなる延喜格式醍醐天皇藤原時平に命じて編纂させたもので、貞観格に続く延喜格として延喜8年(908年)に施行されています。延喜格を補う延喜式は延喜5年から編纂を開始して、前述の延長5年(927年)に完成し、康保4年(967年)に施行、全50巻。格式の内、格は現存しませんが延喜式50巻の詳細全てが残っており、律令の歴史を知る基準になっています。三代格式は前段に弘仁(嵯峨天皇)・貞観(清和天皇)がありますが添削や訂正、更には紛失・消失で完品として残っているのは延喜式のみになります。後世まで朝廷の式目として規範とされていました。

菅原道真左遷の黒幕として評判の悪い藤原時平ですが、醍醐天皇のブレーンとして、政治の向上を目指した官吏としては非常に有能だった人物だったと云えます。延喜格式を編纂実行し、天皇親政を実行したということで、後世の朝廷内では、実情はともかく醍醐天皇(延喜の治)の治世は、醍醐天皇を継いだ村上天皇(天暦の治)の治世と共に、王朝政治・王朝文化の理想形としていました。史上唯一、生前に自分の諡号(天皇号)を自ら決めて、幕府打倒・建武の親政を行った後醍醐天皇。そして南朝として北朝に抵抗した後醍醐の子・後村上天皇。南朝が目指したのが何だったのかはこの名前から窺えます。
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式内社 笠間神社 白山市笠間町 2015.11.21撮影
石川郡では白山比咩神社に次ぐ位階を誇る神社です。総国風土記(713年、元明期)には名前が挙がっていたと云われます。同年に奉幣と神田を受け神家と巫女家が存在したことが記されています。そん海に近いことから始めは住吉大神を祀っていましたが、後に大宮比咩神を勧請して主祭神として、住吉三前神(表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命・底筒男命)を祭神としていました。また神社の古図によれば往時には猿田彦名神の別殿。本殿脇には少彦名神の別殿が置かれていました。猿田彦名の所在は不明ですが、少彦名の殿舎は昭和のジェーン台風(1950年)による倒木で崩壊し跡地が祀られています。
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笠間神社 公示札
また源義仲の手取川渡河時の奉賛を受けて八幡神を加えています。往時には現在の倍の社地を持ち、舘屋敷・三郎屋敷・源右衛門屋敷・坊子薮・大門大御堂経塚の遺名があり社家・社僧が多数が奉仕したと云われます。江戸期にも繁栄していたようで、僕の知る限りでは赤戸室石の大岩を加工使用した江戸期の手水鉢が奉納されている唯一の神社です。
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笠間神社 手水鉢
ちなみに大宮売(比咩)神は一般的には稲荷三神の一柱とされますが、笠間神社では大宮比咩神はアメノウズメと考えており、前述の古図の猿田彦名神の存在がその証左としています。猿田彦名の奥さんは舞踏の女神・アメノウズメですからね。ともかく、石川郡の神社の第一位・二位が女神というのは面白いですね。
延喜式以前の社格(天津社・国津社)が示すように、古代から天皇祖先神の信奉だけでなく、地域に土着する八百万の神への信仰・鎮魂による民心安定のために国家・朝廷は神社や祠堂を保護・信奉してきました。
律令制の創始ともいえる天智天皇の頃から、毎年の五穀豊穣を祈念する祈年祭(旧暦2/4、現在は2/17)に、全国の神社の祝部(はふりべ、神主・禰宜につぐ神道三位格)を朝廷に集め、神祇官から幣帛(へいはく、班幣)を受けさせていました。幣帛は元々は神に奉納する布・依り代を意味していましたが、延喜式では布帛・衣服・武具・神酒・神饌を広義に指すようになっています。とにかくこの幣帛を受けていた神社を古代から官社と言います。明治に制定された近代社格制度も延喜式を規範にして国(官)幣社を大・中・小社としていました。

しかし遠国からの祝部の来訪が大変だったこと、朝廷領(国衙領)収入の頭打ちによる経済事情によって、延暦17年(798年)からは畿内を中心にそれまで通りの神祇官から幣帛を渡す官幣社、畿外のほとんどの国司から渡す国幣社に、官社を二つに分けています。延喜式からは更に神社の重要度や社勢で大社・小社に分けており、前述と合わせて官幣大社・官幣小社・国幣大社・国幣小社としていました。これらと重なりますが、別に幣帛を贈る大社として明神祭を行う明神大社、2月・6月に幣帛を贈る月次幣帛社、新嘗祭前に幣帛が贈られる相嘗幣帛社、新嘗祭に贈られる新嘗幣帛社が併記されます。その数は2861社(神社数)・3132座(祭神数)になります。

この2861社・3132座が、延長5年(927年)に朝廷から公認された神社(官社)というわけです。少なくとも延長5年(927年)より以前から存在している官社として国が公認しているわけです。これらを延喜式内社と呼びます。
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笠間神社 表参道 八字鳥居 永正年間(1504年~)の奉納鳥居と伝える残骸 この鳥居伝承のおかげで、鳥居は笠間神社の神威には叶わぬとして長く鳥居は置かれてきませんでした。でも、昭和の鳥居が。。罰が当たるよ~~
ところが国司から提出された報告書(国内神名帳)、国書や風土記によって官社と現存認定されていながら、又正式な由緒などから当時の存在が確実ながら記載されていない神社があります。このあたりは政治的な部分が垣間見られますが、当時の朝廷勢力圏外(主に東北・関東の一部など)・独自勢力として独立した存在(熊野那智大社・吉田神社など)・神仏習合(修験道含む)により寺院になったもの・僧侶の管理する神社(石清水八幡宮など)・正式な社殿を持たない神社・祭神が朝廷神でない一部などになります。これらをまとめて式外社(しきげしゃ)と呼びます。
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笠間神社 狛犬 県内では珍しい体形、独り獅子舞を連想しました。それにしても爪が鋭い@@ 
延喜式神名帳に記載された神社(官社)は国司からの報告書(国内神名帳)を基に様々な文献(風土記等)と照合したと思われますが、特に国の正史(国書)とされる六国史(りっこくし、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録)が中心となっていたと思われます。ところが六国史に記載されながら神名帳には記載されなかった神社があります。それらの神社が式外社の中でも国史見在社(国史現在社)と呼んでいます。61ヶ国391座といわれます。
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国史見在社 白鳥(しらとり)神社 
2010.6.18撮影 津幡町加賀爪
白鳥が捕らえられた地に仲哀天皇(日本武尊の子)の命で創建されたと伝わる。

国史見在社はけっこう全国に点在していて有名神社が多くありますが、北陸に関しては少なく、石川県には一社だけで、津幡町の白鳥神社。この神社は僕の生まれた場所から道路一本隔てたところで、子供の頃よく遊んだ産土神・氏神の神社になります。祭神は白鳥に姿を変えて舞い降りた日本武尊で白鳥伝説の後伝事件に繋がる地で、県内では雨乞い伝承の神社で知られています。 
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式外社 脇子八幡宮 奥宮 2017.7.15撮影 富山県朝日町 源義仲に保護された北陸の宮(以仁王の子)がこの神前で還俗式を行ったと伝わります。
画像は城山山頂の旧社地(奥宮)、現在の本宮は城山の東、泊地区にあります。
延喜式神名帳にも六国史にも記載が無いですが、当時には確実に存在していたとみられる神社は、約十数社存在するそうです。。
有名所では島根県雲南市の須我神社・京都の八坂神社・茨城県つくば市の飯名神社・宮城県塩竃市の鹽竈(しおがま)神社・神奈川県平塚市の平塚八幡宮・大磯町の六所神社・富山県朝日町の脇子八幡宮など他が、国史見在社にも含まれない純粋な?式外社になります。とはいえ、国幣帛が行われていた官社だと云われています。
式内社・式外社(国史見在社ほか)を合わせた約3000社・約3500座が1000年以上の歴史を刻んでいる官社だと見られているわけです。
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論社 春日神社 金沢市増泉 2015.08.08撮影
石川郡の式内社・神田神社の比定社、最初の画像の白山市吉田町の神田神社のライバルになっています。国史見在社の春日社の比定社でもあり、古い歴史を誇っています。金沢城下町の南入口の広小路から西に坂を下ったところにある商業地帯にあるので、訪れる人が多く氏子も多い神社です。本殿横の摂社・出世稲荷社があるんですが、実はそちらの方が人気が高いと云われています。
ところが1000年以上の歳月を経ると、神社にも栄枯盛衰があって、衰退したり災害で消失したり、遷座するものが出てきます。また、本宮から勧請・分霊を行っているものがあり、どれが本宮か解らなくなったもの。名称を変更したり改称もありますから更に難解になってきます。
前述のように、多少の場所の移動はあっても連綿と続いてきた神社でも後裔と確実な資料で確認できるものが延喜式内社となるのですが、中には遷座を繰り返したり分社によってどれが本社か解らなくなったものがあります。同一もしくは後裔と推定される神社が存在しながら確たる証拠資料が散逸したり消失する場合があります。。それでも当然ながら、神社側にすれば我こそが式内社だと主張するわけです。しかし、それでは支障を来しますし、争いの元になりますから、未確定や複数の候補神社などを比定社あるいは論社とするわけです。
論社とはいえ、歴史の古さを誇っており、式内社の由緒を連綿と綴ってきていますから、貴重な神社であるわけで、神社の箔付けになるわけです。
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国内神名帳 加賀国石川郡記載神社・春日社比定社 中村神社拝殿
金沢市中村町 2015.08.08撮影
上記の春日神社のすぐ近くにある神社になります。江戸初期までは犀川対岸にあったとも云われています。前述の春日神社とは神仏混交の関係で、元は一つで春日社と寺院(宝久寺)だったと云われています。但し、どちらがとは判明していません。
この神社の見どころは、拝殿が金沢城の舞楽殿を再利用したもので、金沢城内の遺構で宝暦の大火(1759年)に焼け残ったのが、唐門(現・尾山神社東神門)とこの舞楽殿になります。格天井の紋様、民山作の欄間など当時の物がそのまま見られます。
延喜式では前述のように、国郡別に神社名と、国官幣の別、大社・小社の別、幣帛の祭祀のみが羅列されていますが、国内神名帳は国司の管国・祭祀に係わるものの為に前記の他に位階・神名などが記されています。しかし、古くから書き継がれてきたものの、現状で加筆・訂正が行われており、中世の総社制や一宮制の影響が反映されています。国府の衰退・廃亡と共に失われたものが多く、現在残っているのは18ヶ国と云われています。加賀国では石川郡だけが残っています。

加賀国を形成した四郡の内の一つ・石川郡(手取川以北・浅野川以南)は国司が記した国内神名帳(出城八幡神社蔵)が残っていて、延喜式神名帳と双方が残る県内唯一の郡になります。国内神名帳では17座延喜式内神名帳では10座。国司と朝廷の間で7座の開きがありますが、国司の方では事務的要素が強いことから延喜式成立後の神社、朝廷が前述のように除いた神社があると推測されます。

国内神名帳の17座を羅列すると(位階・神名・式内社・神社名・現神社名・住所(旧地区))・・・論社は下段表示

※正一位  白山比咩明神 式内社 白山比咩神社 白山比咩神社 白山市三宮町 (旧鶴来) 
※正三位上 笠間明神   式内社 笠間神社   笠間神社   白山市笠間町 (松任)
※正三位下 村井春日明神 式内社 本村井神社  本村井神社  白山市村井町 (松任)
※正四位上 御馬明神   式内社 御馬神社
             論 社        御馬神社   金沢市久安  (富樫)
             論 社        御馬神社   金沢市間明町 (西部)
※従四位下 中村神田明神 式内社 神田神社
             論 社        神田神社   白山市吉田町 (山島)
             論 社        神田神社   金沢市神田  (中村)
※正五位上 額谷明神   式内社 額東神社   額東神社   金沢市額谷町 (額郷)
※正五位上 薮田明神   式内社 額西神社   額西神社   金沢市額乙丸町(額郷)
※正五位上 山王明神       山王社 
※正五位下 國玉明神       不明
※従五位上 拝師明神       不明
                        林郷八幡神社 野々市市末松 (林郷)
                        拝師神社   白山市菅波町 (山島)
※従五位上 大兄明神       不明     大兄八幡神社 野々市市末松 (林郷)
※従五位下 春日明神       春日社    
※従六位下 味知明神   式内社 味知神社
             論 社        安江住吉神社 金沢市北安江 (安江)
補足:式内社延喜式神名帳に記載されている神社で、10社中6社現存・比定しています。不明となっている四社にも論社が存在します。
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上:論社 上柏野・楢本神社 
右:論社 宮丸 ・楢本神社
楢本(ならもと)神社は後年に洪水で流されたのですが、分霊されたと思われる同じ名の三社が近隣にあるのですが、いずれが本宮かは判明しておらず資料も判然とせず、三社ともに式内社を主張しており、いずれも論社となっています。

味知(みち)神社は完全に行方不明でそもそもどこにあったかも不明。ただ以前紹介したように旧北国街道沿いの福留地区に往古、味知の森(味知郷神社)があったことから山島郷近辺。古くから歴史学者が拠り所とする白山記記載の「味知郷に名山有。白山と号す。」、豊臣秀吉の制札の文「みちの郷七村」から旧山内庄の手取川以西を有力と見ています。ただ前者は森の名前のみで北陸道の道の変換と見られ、後者は加賀国成立から近世までその多くが能美郡に属しており、広域には石川郡でないという弱みがあります。どちらにも決め手はなく不明状態です。

神田神社は次回に譲ります。御馬神社は名前からして現在の金沢市三馬(みんま)に関連するとは思われますが、詳細はまだ勉強中。。伊勢外宮の神国造兼大神主の祖先神・大若子命が越国討伐で大幡主の名を獲た際の北陸の子孫の名乗った御馬に由来すると聞いています。

味知神社の論社となる安江住吉神社についてですが、由緒によれば、創建は神亀4年(727年)の味知神社としていますが、それだけで、式内社の主張や証明を強くは打ち出していません。それが論社に甘んじている一因にもなっています。その後の味知神社、安江住吉神社の詳細が解らず、安元年間(1175年~)に富樫一族の安江次郎盛高によって再興されてから発展しています。元々、富樫郷から安江に移る際に勢力圏の山島郷・白山麓から安江盛高が味知神社を分霊・勧請もしくは遷座したのではないかと推測されます。

上記の式内社・式内論社・論社はもちろんですが、国内神名帳記載神社を受け継ぐもしくは候補という現神社は、いずれも地場に根付いており、信仰を厚く受けていて、神社としての由緒を保ち風情や発展を残しています。神社巡りをするならば神名帳記載神社は憶えておくと便利です。そして、式内社・式内論社・式外社・国史見在社という旧社格を把握して置くと便利です。

気をつけて欲しいのは官幣・国幣大中小社は明治の近代社格制度の名称を用いている神社が多いことですが、つまり延喜5年以降の神社も含むことになります。しかし明治も基本的には延喜式を引き継いでいるのですが。。。

国内神名帳の記載は中世以降に及ぶものがほとんどです。その為に以降の社格制度の影響を強く受けて加筆・訂正が加えられています。前述で少し触れましたが、例を挙げれば、、下記の主な制度の影響で衰亡したり淘汰された神社があります。

総社制度・・・延喜以前から存在しますが、国司が祭祀を司るために令制国内の神社の祭神を集めて合祀した国府の為の神社(総社)。国営中央神社ですから、ほとんどの場合は総社は事務管理用の神名帳には記載されないものがほとんどでもあります。加賀国では石部神社(小松市)がこれに当たります。
総社に関連して後に登場してきますが、本来は惣社と表記すべきなんですが、総社と表記しているところが多く見られますが、荘園・郡・郷・村内の代表神社や同領内の合祀神社が9世紀頃からでてきます。この総社・惣社に飲み込まれた式内社が多々あるし、惣社・総社が発展したために衰亡して消滅した式内社・式外社もあります。

一宮制度・・・現在でもよく聞くと思いますが、加賀一宮・二宮・三宮令制国内の神社のランク付けになります。当初の一宮は前述の総社を指していたのですが、その後の栄枯盛衰で位階の高い神社や盛況な神社が台頭して、国府という後ろ盾を失った総社に成り変わって行きました。地域によっては加賀国のように位階・盛況一位の白山比咩神社が台頭して、石部神社と共に加賀一宮を主張しあうことになります。時代の隆盛や変遷で一宮が変遷したり、お隣の越中国のように総社が行方不明になり、一宮が四つの神社(気多・高瀬・射水・雄山神社)で主張しあうことにもなります。後には人気を獲た有力神社が二宮・三宮と増え、人気を失った有力神社が時代に淘汰されていきました。

二十二社制度・・・祈年祭を始め定例の祭祀に幣帛が行われていたのですが、国家の重大事変や天変地異の発生時には、特別奉幣が行われていました。律令当初は全国的に奉幣が行われたようですが、朝廷の勢力圏が広がると畿内に絞り、畿外は国司に任せるようになってきます。
平安期になると兵装の放棄が行われ、組織的には朝廷の武装・警備能力は検非違使庁と大宰府・鎮守府のみと言ってよい状況でした。さらに荘園制度が確立して来ると律令制の原則の中央集権が崩れ、地方では自衛団的な武士層が台頭してきます。10世紀半ばには平将門・藤原純友の乱が発生します。これらの平定も朝廷の正規軍でなく在地勢力に頼ったもので、畿外では国府だけでは抑えられず荘園領主・在地勢力の各々の武力に頼ることになってしまいます。朝廷の権限が及ぶ範囲は畿内に限定されたと云えます。平安期における特別奉幣はこのような状況の中で行われていったわけです。

二十二社について・・・六国史を抜粋したと云われる日本紀略によれば、最初の特別奉幣は事由は記されていませんが、天徳4年(960年)3月に、上七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日)と大原野・大神・石上・大和・住吉の計12社に奉幣を行ったの初出になります。事由は推測になりますが、一週間後に後の歌合会の模範とされた村上天皇主催の 天徳内裏歌合が行われています。当時、歌は神(天)の波長が下りて言の葉・言霊となって降りるもので、神への奉納ともいえますから。。7月には先の12社の伊勢を除き、広瀬・竜田の中七社、丹生・貴布禰に例祭を名目に御礼の奉幣を行っています。合点がいかないのは同年9月に災害が襲っているのに何もしていないんですね。平安京内裏が全焼するという大事件。内裏の全焼は遷都以来初の出来事だというのに、、そもそも、出火の原因は歌合会が夜を徹したもので、以降、内裏の夜行事が増えて火の使用が増えたための火の不始末説が有力なのにね。
その後、事変ごとに数を増やして長徳元年(995年)に21社、永保元年(1081年)に一世紀かけたすったもんだの末に最後の日吉大社を加えて22社、有事の勅願特別奉幣明神二十二社(上七社・中七社・下八社)が確定したわけです。ちなみに後年に平清盛が厳島神社を加えようとして失敗断念しています。22社の内訳別格の伊勢大神宮・式内社、明神大社16社・国史見在社2社・式外社3社。年数を経るごとに朝廷の神社行政が22社に偏り、権限や威勢が強くなりすぎて畿内での他の神社を衰退・併呑させてしまったのです。

古い神社を見る時には繰り返しになりますが、延喜式内社・式内論社・論社・国史見在社という朝廷と関わりの深い神社(官社)、延喜以前からの官社扱いながら朝廷から一線を隔した独立した存在としての式外社と分けて見てもらえると、1300年以上の由緒、又見た目が変わると思います。実はややこしいですが、寺院にも同じことが言えるんですが。。





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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    神社はみんな神社としか思っていませんでした

    違いはあるんだろうなぁくらいの認識でした

    神社自体結構こだわっていたのですね

    2020年05月25日 15:01
  • つとつと

    がにちゃんさん
    京都は由緒のある寺院・仏閣が多いですから、いずれも歴史が長いですからねえ。あとは由緒の長さと朝廷との距離感が、神社の特徴を表しています。
    がにちゃんさんがいつも紹介してくれる神社や寺院を見ては確認させてもらってます^^;いつも羨ましく見させて貰ってます。
    2020年05月25日 16:09
  • tor

    神社巡りの参考書として使いたいと思います。
    個人的には各式にはあまりこだわらないのですが。
    一の宮とかだとお詣りしても
    気分的に高まりますね。
    こうして知ってしまうと見方が変わりますね。
    時々読み返そうと思っています。
    最近は近場の神社を巡っていますが
    意外と発見があって楽しいです。

    中村神社拝殿の天井は実物を見てみたいです。
    2020年05月25日 19:29
  • ゆらり人

    昔々若い頃は神社など興味が無い頃、そう遠くはないところに式内社と書かれた神社 桜井神社があり初めて見た時、わざわざ式内社と書いてあり、その意味が分からず読んで始めて知りました。
    神社自体は小さく派手さも無くてね、どうしても絢爛豪華な神社に目が行きがちですが、そんな目で見ると一味も二味も違う深さがわかりました。そこに神様が降臨された石が行かれており祀られ、その当時は降臨と言う事も分からず素通りしていましたよ。
    只ここの神主が丁寧な人で聞けば事細かく教えてくれる方でかなり興味を持たされました。
    ここも格調高い雰囲気が溢れていますね。
    2020年05月26日 10:19
  • つとつと

    torさん
    とっても若かりし頃、神社巡りをしているとどこの神社に行っても由緒や縁起にとんでもない年代が書かれていて@@;いつもホントかな~~と思っていたんですが、学生になってから延喜式の神名帳を見る機会があって、なるほど~~その後、自分の生まれた側の神社が県内唯一の国史見在社と知って、式外社はその後になっちゃいました^^; あくまで国の官社ですから、地場の本当に古い神社は解らないんですけどね。
    torさんの肥後にはなんといっても名高い一宮・阿蘇神社がありますからね。阿蘇神社は都から遠いですが列記とした大社。しかも一社で二座の式内社でもあるんですから、修理と復活が待ち遠しいですねえ。
    2020年05月26日 20:08
  • つとつと

    ゆらり人さん
    桜井神社@@ もしかして和泉の。。そうとしたら、僕、学生時代に行っています。たまたまバイト(電化製品の運送助手^^;)の帰りに立ち寄った神社です。こちらでは見たことも無いような拝殿の真ん中が通り抜けになる造りでビックリ@@しかも国宝で二度ビックリ@@今でも通れるんでしょうか。
    僕は案内板見ただけで、それ以来行けていませんが、あの辺りも変わったんでしょうねえ^^
    2020年05月26日 20:50
  • ミクミティ

    実に興味深く、勉強にもなる記事ですね。
    私も各地の神社仏閣を訪ねますが、かつての社格をさりげなく標榜している神社がありますね。やはり、それが神社の由緒や格式を高めるものなのでしょう。
    日本の歴史を振り返ると、寺社が大きな勢力として政治や権力者に影響を与えることが多かったわけですよね。よって、そういった寺社をいかに管理し統制するかが、世の中を治める大事な要素だったことを強く感じます。
    その手段として、社格や官位が使われたのですよね。もちろん、その手段が歴史となり重みとなり、尊い価値も生んだのだと思います。
    戦後、そういうことに頓着しなくても、よくなったのは、やはり社会の成熟であり西洋的民主主義の浸透もあったのだろうと、いろいろと考えてしまいます。
    2020年05月26日 21:24
  • つとつと

    ミクミティさん
    標柱に関しては明治の近代社格制度で、神饌幣帛を施す郷社・村社が明治まつに一気に増えたせいで、府県社・郷社・村社が多く見られるのですが、戦後のGHQ政策によって式内の表示金糸が促されたこともあって、一時影を潜めた時代があったようですが、やはり由緒の古く延喜式の古い由緒を持つ神社は、そちらを強調する機来があります。
    今とは違って政教一致の世界ですから、寺社の数も尋常ではありませんから、朝廷が寺社を統制や管理するには社格や位階によって、認可を与えるのが一番だったのでしょうね。
    日本は政教分離が曲がりなりにも確立した珍しい国ですから、それは良いことだとは思いますが、運営上、いつまでも高額篤志に頼るわけにはいきませんから寺社もどこかで広報的な自己主張をしなければならないですから、こういう確実な由緒は有効なんだと思います。
    2020年05月27日 08:52
  • 藍上雄

    中国の律令制の影響で、社格が重んぜられてきたのでしょうね。論社と言うのは、神社の歴史に疑義があると見られているからなのでしょうか?それでも、歴史的な価値には変わりがないように思います。
    中村神社拝殿なんか、天井や欄間の彫り物立派ですね。
    個人的には、余り制度に拘るとろくな事が無い様に思います。
    2020年05月28日 17:22
  • つとつと

    藍上雄さん
    東アジアの律令制度は固いイメージで貴族政治のように感じると思いますが、実際には行政に係わる法律と基準となる細目の事で、運用は時代で変わっていますが、大きな意味では現代も律令を基準にしています。現代は憲法・法律・行政細目で動いているのは変わっていないのです。西洋よりも早い段階で成立したのは誇るべきことだと思ってください。逆に拘らないと混乱を招くし、かといって今の内閣のように読み替えや解釈の変更などを言う方が後進的です。当然、時代によって法律は変更して対処すべきものでもあるのは確かです。
    正確に言うと律令と社格の関係性は意味を持っていません。朝廷が場所と神社名だけを記載していたのが良い例で、令制国の方が地方政治の為に身近な神社の詳細把握は外せないものでした。
    社格に関しては、前代や明治には祭政一致という現実がありますから、国としても統制や協力を得るには官位や位階による寺社に順位付けは必要だったと思います。現代には必要ないかもしれませんが、政治から離れた分、神社は自立しなければならず、そのための資金や人集めには工夫を凝らさねばなりません。その為には逆に前代の神社の歴史や由緒・推移を確実に知るべきで、その材料としては神名帳は貴重な存在なんです。
    中村神社の拝殿は250年以上前に存在した金沢城の生き残りなんです。1759年の宝暦の大火で金沢城は全焼しているんですが、焼け残った数少ない建造物で、尾山神社東神門・尾崎神社と共に全盛期の金沢城を伝えるものとして是非見て頂きたいものの一つです。
    2020年05月28日 20:40
  • y&m

    つとつとさんの記事はいつも下調べ十分ですね。
    式内社については私も少し、理解していたつもりですが、
    こちらの記事を読むと殆ど分かって無かったですよ(笑)。
    熊野那智大社が式外社とは思いませんでした。
    気になって本宮大社と速玉大社のHPを見てきましたが、
    何処にも式内社の言葉が有りませんね。ええ?!~~。(^^♪
    何か理由が有るのでしょうかね。今度熊野の友人に聞いてみます。
    笠間神社の狛犬さん、変わってますよ。(^^♪
    なんか東南アジアの匂いがしますね。足長いし、爪が凄いし(笑)。
    神社も長い年月の間、勢力?を維持するのは大変だと思います。
    街道筋に新道が出来たりしたら、それだけで大打撃を
    食らうんですからねぇ。一気に廃れて、最後は合祀なんてのを
    幾つか見てきました。


    2020年06月01日 21:38
  • つとつと

    y&mさん
    神社に行くと式内や式内社という文字があって、いろいろ調べたことが有ったんです。また一般神社や摂社でも、たとえ論社でなくても、これらの式内社に繋がるものが多くて深みに嵌ってしまいました。
    熊野の本宮大社と速玉大社は式内社だったと思います。歴史は古い那智大社は三社の中で社殿が一番新しく成立という歴史があることと。他の二社にも言えるんですが社僧集団が独立運営していて朝廷との関係が距離を置いて疎遠だったということが有るようです。過去を振り返れば、二十二社に壱の一番に入らねばならない神社なのに外れているのが良い例だと思います。その中でも那智大社は修験道が主体で自然崇拝が強かったためと思います。更に他の二社にも言えるんですが出雲系の主祭神が上位で四殿・五殿以降の皇室関連の祭神は後世のつけたしですから、朝廷とは離れた存在だったようです。
    長い年月で自然消失や廃亡、災害での消滅、言われるような交通路の変更や村落の衰亡も影響したと思います。今は独立採算ですから氏子の維持は存続にかかわると思います。文内の笠間神社も県内でも最上位に近い社格だったんですが、分村によって区画や街道が変わって、衰退してしまったようです。
    笠間神社の狛犬は本当に変わっていて、平安末期の作風に似ています。こちらではなかなか見ない姿態なんです。しばらく立ち寄ってないんで、又訪れたいと思っています。
    2020年06月02日 08:48
  • 家ニスタ

    僕の地元の近くにも笠間稲荷神社がありますので、石川の笠間神社とのつながりをちょっとだけ調べてみましたが、よくわかりませんでした。
    こちらの祭神は大宮売神とのことですが、これは茨城の笠間稲荷の祭神ではないようです。
    もしつとつとさんが両者のつながりをご存知でしたら、お教えいただきたく思います。
    2020年06月07日 15:04
  • つとつと

    家ニスタさん
    笠間と云えば、名字にしても地名にしても元祖は常陸の笠間が元になっていると聞いています。
    こちらの笠間地区には北陸本線の加賀笠間駅があるんですが、頭に加賀をつけたのは笠間市の笠間駅が先にあったためと云われていますから。。
    なんといっても笠間稲荷は日本三大稲荷で有名ですからねえ。地名についても笠間市の笠間は常陸風土記(奈良時代)に由来するほどの古さで、村落の形が菅笠に似てることから由来しているようですが、残念ながら、こちらの笠間はそれとは関係ないようです。往古の笠間郷は平安期から漁村として名前が観られるようで、近在には江沼の海辺の石立などと同じ名を冠する地名が多いことから、南端にある加佐の岬があるように、加佐が笠に変じたのではないかと思います。別説では狭い海辺の村から大和の小迫間が笠間に変じた由来に近いというのを聞いたことが有ります。
    2020年06月07日 19:15
  • yasuhiko

    比定社、論社というのはそういう事でしたか。
    証明できない場合に、候補地という事で、
    そうした名称を使うのは分かりやすくていいですね。
    宮内庁管轄の機内の古墳などでも、せめて
    「比定○○古墳(学術的な古墳名)」などの表記を
    採用してくれると、歴史と神話の安易な混同を
    避けることが出来るんですけどね。
    2020年06月13日 11:52
  • つとつと

    yasuhikoさん
    管轄の違いだとは思うんですが、古墳に関しては幕末から明治にかけてのもので、確証があるわけではなく、あれこそは墳墓の調査が必要だと思います。
    とにかく宮内庁官吏というものを外さないと、古墳の被葬者が、僕は違うと地中で叫ぶだけになってしまうと思いますね。最大の古墳も昔は仁徳稜としていましたが、今ではみんな違うととして呼び方が変わっていますが、宮内庁では仁徳稜ですからね。
    神社の種類や由緒を見るには神名帳は貴重な資料で、古墳にも資料はどこかにあると思うので、資料調査と現地調査は是非行ってほしいですね。
    2020年06月14日 09:38

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