加賀国石川郡の式内社10座の中で現在、場所はともかく由緒を伝える確定的な神社(式内社)は6座、幾つかの候補神社がある式内論社(比定論社)3座、行方不明が1座
※式内社 ・・・白山比咩神社・本村井神社・額東神社・額西神社・佐奇神社・笠間神社
※式内論社・・・御馬神社・楢本神社・神田神社
※行方不明・・・味知神社
となります。ちなみに行方不明の味知神社は創始の本宮の所在地自体が不明で、由緒や分霊を伝える神社として安江住吉神社・味知郷神社が候補として比定されています。
下柏野楢本神社 表参道入口 道路は旧北国街道で左(北東)に200mほどで柏野宿、右(南西)に4.5キロほどで手取渡し場

日露戦捷記念の記があるので明治37年(1905年)以降の建立
今回の楢本神社にしても、社殿が洪水で流されて本宮が消滅したと伝わっています。往時は手取川本流はこの辺りを流れていたために幾度も遷座分霊を繰り返したと云われます。また町村の集落にしても離合集散を繰り返したと云われます。このために、柏野・宮丸地区のどこかとされる楢本神社本宮の跡地も後継の所在も明確には解らなくなっています。
楢本神社の分霊遷座を受けた、社殿が流れ着いた地などと伝承する三つの神社(上柏野・下柏野・宮丸)が論社になっています。三社ともに名前は楢本神社なのですが、区別するために地区名を記させてもらっています。ちなみに当ブログではすでに二つの楢本神社を紹介しています。⇒ 2014.08.20 上柏野・宮丸 楢本神社
下柏野楢本神社 一の鳥居 昭和3年(1928年)建立
今回の楢本神社があるのが下柏野地区になります。
前回の上柏野からは国道8号を挟んで1.5キロ程西に行ったところになります。宮丸も上柏野に北1キロほど、宮丸・下柏野も2キロ弱で三社は近接しています。
前回の神田神社で少し意地悪で解り難い書き方をしてしまいましたが、明治期に式内社を主張する神社は我こそはという感じで本宮・本宮後継を主張しました。式内社になるということは古い歴史や権威を認められるだけでなく、国や県から例祭ごとに官幣を受けられます。要は国・県から援助・補助が得られるわけです。これは神社にとっては運営や維持には貴重な財源になるわけです。
御多分に漏れず楢本神社も三社が激しく争った歴史があります。神田神社は距離的に旧石川郡の南北で大きく離れており、文献や検証のみの争いでしたが。。楢本神社に関しては主張する三社が近接することもあって、特に明治における式内社の争いは、相手を貶したり誹ったりだけでなく、とても神を祀る神社とは思えないまさに抗争でした。地元議員だけでなく有力政治家を担ぎ出しての運動や、近隣の神社を無理やり合祀し神社を大きくしたり(祭神や伝承も考慮せず地元住民にひんしゅくを買ったものも)、、神社史だけでなく県政史にとっても汚点となっています。
下柏野楢本神社 表参道 表参道は入り口から60m以上と非常に長いのが特徴
問題の合祀の一例でいえば、、宮丸楢本神社は本宮流出で当地に遷座したと伝えますが、その後、子安観音と結びつき近在の民衆信仰に結びついた地域密着型の古社でした。しかし街道から脇に離れているため規模的に式内社を争う上・下柏野の二社とは資料では互角ながら規模で見劣りするものでした。この為、運動の過熱と共に近隣の神社を10ほども合祀して規模を増やし境内地を広げていました。
楢本神社の祭神(楢本神)は古に梅の木に眼を突かれて負傷し梅の木を嫌ったと云い伝えられ、菅原道真の後裔を自称し梅鉢紋を信奉した加賀藩では珍しく、梅の木を境内には植えてはいけないと云い伝えられてきました。ところが、この無理な合祀の内に免田の宮丸菅原神社がありました。また、米永町の菅原神社も合祀しようと計画されたとも云われています。ご存知の様に菅原神社は祭神が菅原道真で梅はシンボルになっています。梅の木厳禁に菅原道真を祭り神@@この掟破りには伝統を重視する県内でも大きな批判が起きていました。現在も宮丸楢本神社には菅原道真が祭神並立ですが梅の木は無く、米永町には梅の木がある菅原神社が鎮座しています。
本来、仲裁すべき石川県令も、資料(古文書)の提出をさせたものの結論を出せず、最期には神饌という神社言葉つまり占いか籤引きで決めろと投げ出す始末。さすがにこの決着は三社ともに納得するはずもなく、県は三社全てに例祭の幣帛を出すということで、三社を県社に引き上げて神饌幣帛料供進神社に列して結局は三社の論社併立としてしまっています。おかげで戦後まで柏野・宮丸地区の分断に尾を引いてしまいました。
戦後の近代社格によって県社・郷社・村社が消え、式内社の認識が一般からは長い年月のうちに薄れ、三社ともに過去の争いが嘘のように静かな佇まいを保っています。
下柏野楢本神社 二の鳥居 平成3年(1991年)建立
現在の下柏野は、楢本神社三社の中では最大の社地に社殿を有するのですが、当時の標柱に式内の文字はあるのですが、社伝などには式内社のことにはあまり触れていません。当時は宮丸と下柏野が特に争ったそうなんですが、それを感じさせないどころか由来などでも上柏野や宮丸とは違ってその辺を避けているように感じます。このことが柏野・宮丸の分断を逆に感じさせます。
下柏野楢本神社境内地 右にあるのが二の鳥居、左の建物は神輿舎
江戸期までは狛犬や灯篭の 配置からこれが本来の境内及び参道だったと思われます。同じ面積地の右手は旧青蓮寺の境内地だったと思われます。
柏野の地は膳(かしわで)部から変じて古代から続き、江戸時代には北国街道(北陸道)の街道上で下柏野地区は柏野宿という宿場町になっていました。正確に言うと神社の表通りをさらに300mほど進んで川を渡ったあたりと云われています。荒屋柏野の白山神社と合わせて、この柏野宿の産土神だったということが大きかったようです。宿場町からの信奉を受けて境内地も大きく反映していたことが窺われます。案内板では式内社よりも白山信仰と神仏習合の方を強調しています。
下柏野楢本神社拝殿 左の寄進灯籠は明治36年(1903年)
楢本神社の由来 北陸街道
近郷には珍しい大きな神社で、上柏野・小上・荒屋柏野を合わせて四ヶ村の総社で有った。由緒は不明では有るが天台宗青蓮寺なるもの其の別当として、寛元年間(一二四三)頃より、神勤したと伝えられている。室町時代からの説もある。
祭神は、いざなぎ(男神)・いざなみ(女神)命をお祭りしている。由来をひもといてみると
天文年間(一五三二)頃には、兵火に遭い社殿を焼失したが、数年もたたない間に社殿を復興した。
元和元年(一六一五)頃には、江戸幕府の巡検上使が当社に参拝したと云う。
寛文年間(一六六一)頃には、四ヶ村総社を分離し、村の南端に仮宮を作り、仮宮から本宮までお祭りには、神輿渡御の列を作ったが、寛政七年(一七九五)十一月には仮宮を焼失した。神輿渡御は、現在でも秋の祭事には執り行われている。
明治四年(一八七一)に、楢本社が楢本神社と改称し、明治三十九年(一九〇六)には神饌幣帛料共進神社に指定された。
昭和四十年(一九六五)には、本殿・幣殿が改築され、平成十六年(二〇〇四)には、拝殿を大改修し現在に至っている。
平成二十年三月 下柏野町楢本神社 氏子
この神社に一つ重要な存在があります。青蓮寺の面影を残す「十一面観世音堂」になります。
十一面観世音堂の由来
一.養老二年(七一八)泰澄大師が北越の地巡杖の折、下柏野青蓮寺に本持仏十一面観世音・聖観音を納めたと伝えている。天台宗白林山青蓮寺は下柏野南端に位置し、念持仏として十一面観世音を護持していた。
二.青蓮寺は寛元年間(一二四三)頃から累代楢本神社の別当職を神勤(神仏習合)し、宝暦十年(一七六〇)に至ってもその職にあったので青蓮寺村とも呼ばれた。
三.享保十二年(一七二七)青蓮寺の十一面観世音を一時常願寺に預けられたが報恩講になると必ず天候が荒れ”常願寺崩れ”といい、その後影顕寺に納めたが同様な事が起こった。
四.青蓮寺、寛政七年(一七九五)類焼に罹り、仏殿及び宝物を焼失し規模が衰退。明治維新(一八六八)の神仏分離令(純正神道思想)による廃仏毀釈の際廃寺となり住職柏木徳重は楢本神社の神職となった。青蓮寺十一面観世音を当時別当であった楢本神社の神職に預けた。
五.明治三十七年(一九〇四)に旧能美郡吉田村吉光八幡神社の旧社殿を購入して移築し、ここを「観世音堂」とし、毎年八月十六日に観世音祭を営み現在に至っている。
六.本持仏十一面観世音のみ現存し十三センチの金仏で、この他、前立に文化十三年(一八一六)作の、十一面観世音・聖観音・不動明王が安置されている。又、楢本神社祭記には本持仏十一面観世音も神輿に乗せられ渡行したと伝えられている。
平成二十年八月 下柏野楢本神社氏子 十一面観世音堂
補足:由来の伝承によれば、白山開山登頂の翌年の養老2年(718年)、泰澄上人が十一面観音像と聖観音像を納めたのが始まりとしています。事実はともかくとして十一面観音という白山信仰から派生したようです。
青蓮寺が成立したのははっきりしませんが、流失・分霊による楢本社と一体となり神仏習合として史上に現れたのは、鎌倉期寛元年間(1243~1247年)には天台宗寺院・青蓮寺として近在には認識されていたようです。寛文年間(1661~1673年)には下柏野の南端に仮宮遷座(楢本社)として青蓮寺を本宮として旧宮を境内に残したものの現在地は青蓮寺になっていたようです。寛政7年(1795年)に仮宮(楢本社)が類焼して縮小しています。楢本社が当地に戻されたのは19世紀に入ってからと推測されます。
理由は解りませんが寺院の本尊(十一面観世音)の仏像が、享保12年(1727年)から常願寺・影顕(ようけん)寺に預けられています。ところが預けられて以来、報恩講(11/21~28)の週間に嵐になるということで、江戸後期には青蓮寺に戻されたようです。ちなみに報恩講は浄土真宗寺院で行われる最重要年中行事で、開祖・親鸞の祥月命日に阿弥陀如来と親鸞へ報恩謝徳として行われる法要を云います。親鸞の命日(旧暦11/28、新暦1/16)で、西本願寺と真宗高田派は1/16、浄興寺派10/28、その他の寺派が11/28に行われています。両寺は共に楢本神社表参道入口の街道の向かいの住宅地に並ぶようにあり、真宗大谷派(東本願寺派)の寺院として健在です。
明治になると神仏分離令で青蓮寺を廃寺として、住職が神職に転身して楢本社に一本化。明治4年(1871年)に楢本神社と改称しています。
この時に仏像は神職の元に秘匿となっていました。聖観音像は不明。
三社による式内社争いの最中の明治37年(1904年)に旧能美郡吉田村(旧能美郡寺井町吉光、現能美市吉光町)の吉光八幡神社の旧社殿建替えの際に社殿を購入移転し、十一面観世音堂として神社内に仏像を納めた御堂を建立しています。堂内には十一面観世音を本尊に、文化13年(1816年)作製の十一面観世音・聖観音・不動明王像が前立として安置されています。ちなみに十一面観世音・聖観音・不動明王は白山三山の御前峰・大汝峰・別山を表す本持仏になり白山信仰の寺院だったことを示しています。廃仏毀釈を逃れた貴重な仏像たちです。
上:下柏野楢本神社狛犬
文久3年(1863年)寄進年 列記とした江戸幕末期の狛犬になります。風化の為に、耳や子獅子の顔などが溶けています。
右:下柏野楢本神社灯籠 上の狛犬と同石材の寄進灯籠
下柏野楢本神社は昭和期の本殿・幣殿の大改築、平成に入っての拝殿の改修によって、大きく真新しく見える伽藍が目に付きますが、表参道や拝殿前の寄進物には古くからの信仰を受けていたことが窺われます。
式内社の楢本社・楢本明神についてですが、楢本社の起源については宮丸が旧村名「楢本一村」と境内に2丈(3.6m)を超す楢の木があったことからと記す程度。だからと言って宮丸が有力というわけでなく、その後、本宮が比楽河(手取川)の氾濫で館址という地に遷座したとしています。宮丸ではこの館址は旧館藪の地でそこから現在地に戻ったのだと主張していますし、上柏野は館址は現在地の旧名だとしています。下柏野は手取川の流れが現在より北としても、地形的にも流されるとしたら現在地だし、そもそも当社は分霊遷座地としています。
下柏野楢本神社 神橋
上:拝殿前 右:社務所前
名前の由来にしても古代には貴重な食料源のドングリを産し、薪として燃料源ともなっていた楢の仲間でも主要なコナラの和漢名は小楢、そして楢柏になります。要は柏野にも繋がってしまい、いずれにも確定できないのです。
拝殿前狛犬 平成7年(1995年)寄進
楢本神(明神)と伝えながら主祭神は、下柏野は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の両祖神、宮丸は伊弉諾、上柏野は日本武尊(やまとたける)とバラバラです。その割には三社とも別というか本来の楢本神の存在をほのめかしています。
他県にある楢本神社で有名なものは愛媛県西条市の楢本神社。ただこの神社は戦後に、地元出身の神風特攻隊の敷島隊の隊長・関行男以下五軍神を祀ったことから有名になったもので、主祭神は大国魂神というのですが、この名は各地方国の代表神の総称になります。山頂に楢本神が大蝮を大石で封じ込めたという伝承があるそうです。
というわけで加賀とは関連はなさそうです。

十一面観世音堂横 境内園地
各論社の主張も一長一短で確定できず、長い年月で謎となってしまった楢本神社の本宮は不明な謎に包まれたままです。。
旅行日 2020.06.27
この記事へのコメント
tor
先日フライングで予告編を拝見しました。
どういうまとめ方されるのかと楽しみにしていました。
神社間の抗争すさまじいですね。
神仏混合の名残があったり
加賀の神社史を知ることができました。
梅の木厳禁の楢本神社に菅原神社を合祀とは
何とも…
ところで先月水害にあった人吉も
相良三十三観音巡りで有名です。
春と秋のお彼岸のには
一斉開帳が行われています。
水害で二体の観音様が流され
一体は下流で見つかり観音堂の賽銭箱の上に置いていたら
何と誰かに持ち去られたそうです。
火事場泥棒いや水害泥棒
信じられないですね。
つとつと
PC無事修理完了で帰って来たんですが、バックアップ用に取り込んだUSBに書き込んでいたら、そっちが不能で、その間のデータを書き込む羽目で嵌っちゃいました。
明治に多くの合祀が行われて、集落の改定が成されたんですが、そんな混乱に翻弄された神社が幾つかあります。三つの楢本神社も今改めて回ってみると、静かでそれぞれの良さがあります。
えっ@@ そんなことが有ったんですか@@ 思わず検索したら人吉球磨ガイドというのがあって、一体一体の画像がありました。いずれも大事にされていたようで金箔が残って美しいお姿でした。35体あるんですねえ^^
そんな大事な仏像を持ち去るなんて、是非返して欲しいですねえ。。
がにちゃん
ご近所の町名と一緒 つい うん 何処に
本当に京都と金沢は同じ名前の地名が多いですね
下柏野楢本神社狛犬さん かわいい なんか わらっているのうにかんじますわぁ
それに引き換え 拝殿前狛犬さんは、厳ついですねぇ
守ってます感がいいですねぇ
つとつと
(笑)本当に多いですねえ^^旧町名などもよく似た物がありますよ^^ついでにそちらと同じく、中柏野もあるんですよ^^
柏野の由来は膳(かしわで)氏からという言い伝えがあります。文中の舘址は膳氏の館だったと言い伝えられています。
江戸期から明治初期の狛犬は愛嬌のある顔が多くて面白いですねえ^^明治から昭和初期は変わった姿態が多いし、昭和後期から平成の狛犬はどっしり型が多いですねえ^^
y&m
正直今まで考えた事が無かったです。
でも十分有り得るお話ですねぇ。
格式と補助金の有る無しは大きな問題ですもんね。
つとつとさんちに来ると、世間知らずの私には
驚く事ばかりですよ。(^^♪ 世の中、事実は一つだけ
ですが、切り口をを変えて見ると楽しいですね。
藍上雄
鎌倉時代に現れた青蓮寺も不思議ですが、現在で言う、豊川稲荷みたいな物かもしれませんね。大雑把ですみません。でも、立派な仏像が残っていたりして、埋もれて仕舞うのは勿体ないと思います。
つとつと
江戸期以前は神社は一部を除くと朝廷や幕府・藩から多くの補助や土地を受けていたんですが、明治になると財政難の政府から合祀や神領の召し上げで、頼れるのは地元氏子だけになってしまって存続が難しかったんです。式内を得るというのは大きな財源確保で魅力的だし、絶対に譲れない条件。一宮争いも同じようにいかに権威を持つかにかかっていました。
つとつと
楢本社は927年までには存在が確定している神社で、遷座や分霊されたとしても歴史は保証されていたと云えます。白山信仰は8世紀には確定していましたから、神仏習合の余地は強かったと思います。
神仏習合が本格化したのが鎌倉期ですが、寺院の僧侶の方が、寺社仏閣や神域を維持しやすかったのかもしれません。
確かに稲荷神と並べると面白いですね。稲荷神は豊穣の神として平野部の神様で、白山神は白山という山が象徴するように、森と水の神で山岳の神とも云えて対極の神とも見えますね。
ミクミティ
こうやって拝見していると、今残っている神社も激動の歴史や災害などを経験して、たくましくて生き残ってきたことを感じます。
特に明治になって神社の権威が高まると、権力や政治的な争いにも巻き込まれたりしたのでしょうね。その中でも、ひたすら信仰や文化財を守り抜こうとした方々もたくさんいたはず。不明になってしまったこともあるとは思いますが、現在は平和的かつ冷静に調べたりお参りできることはいいことだなと思えたりします。
yasuhiko
巻き込んで、醜い争いにまで発展するんですね。
人々の素朴な信仰とは何の関係もない
権威主義的なものは、迷惑以外の何物でも
無いような気がします。洪水で本宮が流された
という伝承が真実なら、その跡地を特定する事は
もはや不可能でしょう。跡を継ぐ形で三つの神社が
生まれた訳ですから、どこが本家という事では無く、
お互い共存共栄を図るのが、神様の意思に
きっと一番近いような気がしました。
つとつと
神社を訪れるとその多くが静かな境内と大きな木々に包まれて静かな佇まいで、ホッとすることこの上ない存在です。
次代の端境期には神社は大きな影響を受けてきています。特に明治の変革は多大の影響があったのは確かで、黒歴史も多かったと思います。
でもその神社に合祀された摂社も含めて、地元を語る大きな証人でもあるんです。
つとつと
確かに、余程の資料が出てこない限りは本宮をどこが引き継いだかなどは、証明するのは不可能だと思います。それでも明治以降は国や県の管理からは切り離されて民間信仰に投げ出されたような状態で、少しでも維持管理費を捻出したいという気持ちは解らないでもないと思います。
神社は地元の中ではいろんな意味で大事な存在で、正月や祭りの際の賑いを見るごとに、言われるように共存共栄、そして整備存続をつなげて欲しいと思います。