玉泉院丸庭園① 玉泉院(永姫)

鼠多門を潜って石段を登ると広がるのが玉泉院丸庭園。江戸期に存在した殿様のプライベート空間の大名庭園を復元再現したものになります。
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玉泉院丸庭園 北西側遊歩道 右の建物は玉泉庵、中央上部石垣上に見えるのは三十間長屋。ちなみに玉泉庵は緑茶と上生菓子を呈茶(730円)する観光施設で茶室や休憩室から庭園を一望できます。藩政期には露地役所(庭園の整備管理をする役所)が置かれた場所でした。三十間長屋は安政5年(1858年)築造の多門櫓で石川門・鶴丸倉庫と藩政期の建築物として国重文。
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玉泉院丸案内図(石川県HPより、上が東、下が西、右が南、左が北)
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玉泉院丸庭園 北側水路船溜まり DSC_0031_3.JPGDSC_0034_3.JPG
上:紅葉橋址 右:北石垣沿い水路跡
様々な古図などによれば、往時の泉水は倍近くの大きさがあり、右の三の島から玉泉院丸口まで東西の谷間を縫うように泉水があり、玉泉院丸を囲むような内堀(宮守(いもり)堀から揚水を行っていました。南側水路を暗渠にしたのは幕末の13代斉泰が唐傘亭を築いた頃と推定されます。
逆に北側は象の鼻先のような船着場から北に石垣群に沿うように水路があり橋を潜って船上から石垣群を見られるようにしていました。北水路は前回紹介した丸の内園地の内堀手前までで、そこから内堀に排水していました。

天正11年(1583年)の前田利家の金沢入城から江戸初期にかけては西の丸の一部としての扱いでした。寛永の大火以前は、藩主及び家族は本丸御殿、利長が建てた鶴の丸別邸が藩主の住まい&政庁として使用され、家臣団は本丸以外の城内に住居していたのですが、二の丸及びこの西の丸及び玉泉院丸に重臣の屋敷が多くあったと云われています。
慶長19年(1614年)前藩主・前田利長が死去し正室だった永姫が金沢に戻るために、前田利常が屋敷を造営しています。永姫は剃髪して玉泉院となり、その後元和9年(1623年)鶴の丸別邸で亡くなるまで過ごしています。彼女の死後、屋敷は撤去されましたが、この地を玉泉院丸と称することになります。
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玉泉院丸庭園泉水 石垣上部に見える建物は三十間長屋
DSC_0061_2.JPG慶長19年(1614年)は、利長の後見を得た約10年の治世を経たとはいえ若き藩主・前田利常(20歳)にとっては非常に気を遣う年でした。大阪夏の陣の出陣の傍ら、身内にも気を配らねばならない時期でした。自身が一番感謝、尊敬する兄であり養父として後見人だった故・前田利長の妻であり、自身の養母でもある玉泉院(永姫、41歳)を迎えたのですが。。7年前には金沢に引き取った樹正院(豪姫、40歳)が西町(現黒門緑地)に住まい、この年には藩祖正室・芳春院(松、68歳)が金沢に戻り、本丸御殿に入っていました。自身の実母・寿福院とは犬猿の仲とはいえ、前田家内では女性筆頭で相当の気遣いだったと云われます。本丸御殿には前年長女を出産した愛妻の珠姫(15歳)
芳春院の娘たちも、次女・蕭姫は慶長8年(享年41歳)、三女・摩阿姫(34歳)は慶長10年に金沢で亡くなり、利常の育ての母ともいえる長女・幸姫(55歳)は前田長種室として小松城に在城と離れていましたが、七女・春香院(千世、34歳)は前年に伴侶を失っていますが、10歳の村井家当主の後見的存在で金沢城内に在住でした。当時、家臣団のほとんどが城内に屋敷があり、利家の娘(異母娘)で家臣団に嫁いだ後世にも名前を残す加賀藩の女性陣が金沢城に揃っていた華やかな時代でもあったのですから、同母弟妹を持たない利常は、単独で頭が上がらない女性陣に囲まれた時期でした。(年齢は慶長19年当時)
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一の島を繋ぐ欄干付の木橋 再現された泉水には三つの中島が浮かび、一本の木橋・二本の石橋・二本の土橋と計五本の橋で繋いでいます。残念なのは中島の景観保護のために橋から先には立入禁止、やはり泉水式庭園の醍醐味は橋上から池を観ることで、観光的には歩行OKを検討してほしいですね。護岸には戸室石と能登安山岩を使用。庭園や島に配された景石は戸室石・中能登の福浦石など19石が古図により配置。
ちなみに、江戸期に配されていた景石は明治の撤去時に、兼六園内の明治紀念之標(日本武尊の像)の石積み・台座に使用されています。庭園の石は新しく調達したものですが、像の石を参考に形を調整したそうです。
永姫については玉泉院丸屋敷、当時市内最大の寺院・野町の玉泉寺など利常の厚遇、野田山墓所の位置からも、加賀藩初期では最高待遇の女性ですが、その詳細ははっきりしない部分も多い女性です。織田信長の横死により織田家が衰退し、昔も現代も様々な資料や説話がありますが、逆に言えば説話が多すぎて確定するものがないという状態です。信長の正室の行方・側室の数・男女子の数も正確には不明状態。。永姫の生母にしても不明で、加賀藩や瑞龍寺の石廟、永姫が養女とした兄・織田信雄の娘二人などから生駒(吉乃?、信忠・信雄・徳姫の生母)とすることが多いですが、伝わる吉乃の没年永禄9年(1566年)と永姫の生年・天正2年(1574年)と合わない疑問が残っています。母の名としては春誉妙澄大姉という戒名が伝わるのみです。
高岡にあった大安寺(現鶴林寺)に永姫の母の墓と位牌が置かれたとも云われていました。永姫が金沢に移った後に彼女の希望で利常によって、金沢八坂(現兼六元町)に移されたとしています。ところが、現在の鶴林寺にその形跡がなく寺伝にも形跡がなく、移転時の寺院の混乱と現在の鶴林寺という名が利常の命による混乱収拾によるもので、加賀藩奥向きからの子安観音寄進や祈願所になったのも文政以降(1818~)になっています。また堀川新町(金沢駅北部)に永姫が久庵桂昌大禅定尼(生駒吉乃)を弔うために自費で建立した久昌寺が残されています。
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永姫は前述のように天正2年(1574年)、織田信長の四女(三女、五女説もあり)として生誕しています。天正9年(1581年)前田利家が能登領有を認められた際に、旧領となった越前府中3万3千石は織田信長の命令で長子・利長(19歳)に譲られました。利長が利家の監督下とはいえ大名デビューした年になるわけです。その際に永姫(7歳)を信長から正室として授けられています。

永姫の姉妹としては、長女(次女?)・徳姫が徳川信康(徳川家康長子)、次女(長女?)・相応院(名不明)が蒲生氏郷、三女・秀子(藤?)が筒井定次、五女・報恩院 (名不明)が丹羽長重(丹羽長秀長子)。錚々たるメンバーですが、同盟国・徳川家は別格として、尾張以来の家臣では家老格の丹羽長秀の長子・長重(利長より2年先に婚約中)が初で、それに次ぐ信長の娘を正室にしたわけで、前田利家・利長親子への信長の期待が高かったのが窺われます。そう見れば六角氏の旧陪臣だった蒲生賢秀の長子で人質だった氏郷に娘を娶せた信長の期待は特筆ものですが、、ちなみに蒲生氏郷と相応院の娘・籍姫が利長の次弟・利政の正室になります。

加賀藩草創期を支えた利家長男・利長、次男・利政、四男・利常、歴史好きの人にもよく勘違いや錯覚を持って見られていることが有ります。
利長と利政は16歳違い、更に利常は利政とは16歳違い、利長と利常では32歳も違うのです。この三兄弟は実は親子孫ほども歳の違う三世代と見ないと歴史観が錯覚や混乱をもたらします。蛇足ですが加賀前田家藩主の相続は兄弟が短い期間の半数近くを占めるのは途中に子作りに頑張った?藩主と長寿の藩主がいたということ。。兄弟藩主を輩出したのは初代・利家、そして5人もの兄弟藩主を輩出したのが6代吉徳。兄弟断絶を終わらせた10代重教は11代治脩に長子を世養子を当てていましたが急死、次子を提供して難を逃れています。長寿(82歳)だけでなく藩主在位(78年)も最長なのがなんといっても5代綱紀。ちなみに、父の4代光高が31歳で急死、3歳で祖父・利常の後見の元に5代藩主になった経緯があります。光高が亡くなった際に正室・大姫は妊娠中で、次弟・万菊丸は光高死後に誕生していますが5歳で夭逝。もし彼が子を生さないうちに亡くなっていたら、まだまだ厳しかった江戸初期、嗣子断絶の危機だったわけです。実際苦労していて長男・次男・三男は一年満たずの早逝、37歳の時に四男・吉徳が誕生して成長したのです。
綱紀・吉徳・義教が居なかったら加賀藩は途中で終わっていた?
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玉泉院丸庭園北西部 奥の石垣は色紙短冊積石垣と呼ばれる意匠を凝らした借景の石垣 石垣下から高低差7m四段の段落ち滝が泉水に流れ落ちています。
結婚の翌年、織田信長の招請で利長夫妻は京都へ向かう途中、近江瀬田で本能寺の変に遭遇。利長は山中を放浪、安土の信長側室群と共に避難した義兄の蒲生氏郷を頼って日野城に立て籠っています。その際に幼な妻の永姫は本領・尾張荒子に避難させたと云われています。
賤ケ岳(天正11年)後には加賀松任4万石(松任城)に転封、この辺りから父とは別の軍団を持っていたようです。越中平定(天正13年)後は越中三郡32万石(守山城)と移り、佐々成政転封後は新川郡(20万石)も領有、父とは別個の独立大名格になっています。。永姫がどの時点で利長の元に戻ったかは不明ながら、賤ケ岳前というのが有力と云われていますが、史上に永姫が上がるのは守山城以降になりますが、その後は利長の死まで共に過ごしています。関ケ原でも芳春院と共に江戸に送られる予定を、過剰な要求で反旗を翻されたら困る幕府から撤回されています。
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玉泉院丸庭園部全景 石垣が少ないアングルです。玉泉院丸庭園は借景となる石垣の重要性が解ると思います。
前田利長は生涯においては、公的には側室・側妾は一人も置いておらず、当然ながら跡継ぎとなる嗣子はいませんでした。いろいろな推論はあるものの判然とはしていません。
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とはいえ、まったく艶聞がないということではなく、高岡には唯一の実娘の伝聞が残っています。高岡高校の近くに満姫の墓所と伝える墓碑がありました。明治に墓石は金沢野田山に移されて現在は住宅の角に慰霊塔が建っています。当時この辺りは高岡城の北東隣りで中川村と呼ばれた地でした。鷹狩に出た利長が二塚村の庄屋・大坪助左衛門の娘を見初め、中川村の寺院で逢瀬を重ね娘を生したと伝わっています。生まれてすぐ亡くなったと伝わっていたのですが(慶長16年没)、同年に一時危篤にまで陥った重病を患った利長にそんなこと可能だったかという疑問がありました。
平成に入って、満姫の葬儀の導師を努め、菩提寺となっていた本陽寺から坐像と書上げが発見されています。坐像に「蓮成院殿妙侃(みょうかん)大姉 慶長十六年二月二十一日」と満姫の法名と没年月日が書かれ、書き上げには「羽柴肥前守息女七歳 御俗名御石(万?)様」これにより7歳死亡説が急浮上。逆算すると満姫は慶長10年生まれとなり、利長が家督を譲って富山城に移った年で、まだまだ元気な43歳でした。

隠し子があったとはいえ、永姫との間には子はできず、公の実子はいませんでした。現代とは違い妻としては非情な自責の念が永姫にはあったようです。一時は鬱病にもなったと云われ「どのような女でも構わない。利長様の実子を残したい。」悲痛な言葉が残されています。気を引くために奥向きにわざわざ若い女中衆を増やしたとも云われますが、利長には手を出した形跡がありません。残る話では金沢城中での太田良知粛清事件に絡む醜聞異聞ですが、これはまさに後づけ異聞で眉唾物、またの機会に。。
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玉泉庵から一の島への石橋
とはいえ、殿様に子がないのは大問題、後継者はもちろん後継的な忠臣・さらには他家との婚姻による同盟関係も築けません。幼い弟の利常を順養子の跡継ぎとして夫婦は愛情を注ぎこんでいます。利長・永姫夫妻はその他にも豪姫の娘・冨利姫・おなぐの方牧村利貞の娘・おなあ(古那、後の祖心尼)、寺西九兵衛松秀の娘・永寿院(名不明、青山吉次室)、長連竜の娘・竹姫。他には織田信雄の娘二人(名不明・不詳)など七女を養女としていました。ちなみに名を挙げた5人の女性も歴史の上で、波乱万丈でなかなかの歴史的位置を占める女性陣です。
その他にも、宇喜多秀家が文禄の役の戦災孤児として連れ帰り豪姫が養育していた金如鉄(キム・ヨチョル)を引き取って養育しています。ちなみに金如鉄は加賀藩士・脇田家(450石)に養子で入り脇田直賢となり脇田家を幕末まで繋いでいます。永姫の名を冠した玉泉園庭園(西田家庭園)を創始しています。脇田家四代に渡る作庭ですが玉泉院・樹正院(豪姫)・芳春院に由来すると思われるものが残されています。庭園は金沢屈指の武家庭園と云われますが、庭園内には青戸室のキリシタン灯籠・芳春院所縁のノウゼンカズラが絡む朝鮮五葉松。裏千家始祖千仙叟宗室指導の灑雪亭など見どころ満載です。 ⇒ 西田家庭園 玉泉園
前田家では芳春院以来戦災孤児を養育したことで知られますが、その典型的な話になります。

玉泉院について書いていたら、長くなってしまいました。おかげで玉泉院丸庭園の作庭の話にも辿り着けませんでした。残りは分割して②ということで。。

旅行日 2020.7.27

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この記事へのコメント

  • tor

    見事な庭園が復元再現されましたね。
    今は文化財の復元は
    当時の姿を忠実に再現しないといけないので
    大変な工事だったと思います。
    それを見る私たちは当時の姿を見る事ができるわけですが。
    素晴らしいですね。
    金沢観光といえば兼六園のイメージが強く
    私も石川門と石川櫓しか見ていないです。
    たっぷりと金沢城楽しめそうですね。
    2020年08月22日 18:08
  • つとつと

    torさん
    20年ほど前までは石川門くらいしか見られなかったですから、金沢大学が出て、国から県に金沢城が移譲されてから復元や整備が進んだという感じですから。。復元年代を一にするかという議論もあるのですが、当時を再現した姿が目の前に見られるのはうれしい限りです。でも、全部を廻ろうとすると一日では足りない感じです。。
    玉泉院丸庭園は殿様のプライベート空間で、加賀藩主の趣味嗜好を知る格好の場所になります。
    2020年08月22日 19:54
  • ミクミティ

    玉泉院丸庭園、緑が美しくていい雰囲気ですね。優雅な泉水式庭園、こういう大名庭園、大好きです。その玉泉院の物語にも非常に深い逸話があるのですね。前田家初期の女性の人間模様を想像してしまいます。
    金沢城へは30年以上前に訪れたきり。あまり記憶が無いのです。
    やはり近々、行きたいですね。
    2020年08月22日 22:22
  • がにちゃん

    良いお庭ですね  是非見に行かねばです
    そんな時代とはいえ 子だくさん・・・ですね
    一人で産んだわけではない・・・ですが
    男子も女子も私でも知っている方がたくさんおられますね
    前田家の繁栄はここにある・・・のかな
    2020年08月23日 12:58
  • つとつと

    ミクミティさん
    30年前だと石川門や大手堀など外殻のみで金沢城内には入れなかったと思いますから、来られると全く違った世界になっていると思います。
    鼠多門の完成が予定通りになって県知事も鼻息荒く、コロナ騒ぎの初めに「どんどんいらっしゃい」なんてトンデモ発言をしちゃってました^^;ついでに次は一番復元が大変な二の丸御殿だあ^^/とぶち上げてます。う~んもうちょっと周りを固めてよ^^辰巳櫓が先だろ、二の丸御殿は西の丸の扱いもあるし、どれだけ時間と費用が掛かるか見当もつかない広さですからね。。でも自慢したくなるほど出来は素晴らしいですよ。
    二の丸工事前に観光客がほとんど来ない西の丸辺りは散策お薦めですよ^^/
    2020年08月23日 12:59
  • つとつと

    がにちゃんさん
    庭園には枝垂桜もあるんで四季それぞれでまったく違う雰囲気になります。尾山神社の神門から橋と門を通って庭園に入ってみてください。ついでに北の丸経由で石垣の間を登ると木陰の中の、女性陣が住んだ二の丸の西殿に行けます。金沢城内で一番静かで綺麗な場所ですよ。
    (笑)今回の名が出たのは永姫と珠姫以外みんな松さんの娘。松さんは12歳で長女の幸姫に始まって32歳で七女・千世まで二男九女の実子をもうけています。これ戦国夫婦の最多タイ記録なんだそうです。一応、千世には養女説がありますが、それでもとんでもない数ですね。そして、娘たちはみんな有名人。。加賀藩はこの女性陣のおかげで江戸期初期を確立できたと思います。しかもほとんどが利常を支持してるんですから^^まあこれだけ実力者揃いの女性陣に囲まれたら、頭は上がらなかったでしょうね。。次回も何人か出てきます。
    2020年08月23日 13:26
  • y&m

    これは随分と立派な庭園ですねぇ。
    石垣からの段差が面白いです。
    前田家に信長の娘が入ってるんですね。
    主従の関係から有って当然のように思いますが、
    これは知りませんでしたよ。しかし織田家も
    子沢山ですよね。(^^♪
    2020年08月23日 14:06
  • つとつと

    y&mさん
    5年前に完成して公開されていたんですが、現在の正門になる石川門からは正反対の場所でなかなか人が集まらない場所だったんですが、今回の鼠多門と橋の完成で気軽に立ち寄れるようになりました^^V
    殿様のプライベートな庭園で、三人の殿様の趣味がふんだんに取り入れられています。石垣にも色違い・大きさの大小をつけて借景にしていて、おしゃれな雰囲気です。お城の庭園ならではの造りです。
    戦国時代のお殿様の大事なお仕事には、明日はどうなるか解らない世界、後継者となる男子とスペア、お嫁に出す御姫様はいればいるほど良いので、子作りは絶対条件です。子供どころか女も寄せ付けなかった上杉謙信みたいのは珍しいですね。
    2020年08月23日 19:10
  • yasuhiko

    素敵な庭園ですね。殿さまのプライベート庭園が
    再現公開されて、兼六園とは違った魅力を、
    金沢の街に加えてくれる気がします。
    中島には渡れないようですが、池を中心にした景色が
    楽しめて気持ちよさそうですね。庭の話を
    もっと知りたいと思ったんですが、それは次回ですか。
    続編を期待しています。
    2020年08月24日 22:54
  • 藍上雄

    玉泉院丸庭園って、資料をもとに、再現されたものなんですか?写真で見る限りですが広々として、ブライベートな庭園には見えませんね。中国庭園を日本風にしたような感じします。
    永姫、信長の四女なんですね。でも、信長は、たしか、次男だったのでは、当時の武家の家系、政略やらで、複雑ですね。
    鼠多門が完成して、庭園とセットでの見学、新たな観光名所に成りそうですね。
    2020年08月25日 16:52
  • つとつと

    yasuhikoさん
    県立体育館時代を知るだけによくぞここまで再現したものだと思います。なかなか機会が無くて3年も来てなかったので正直新鮮な眼で見られました。
    玉泉院丸庭園は利常がベースを作り綱紀が完成形にして、斉泰が最後の手を加えた庭園ですが、綱紀時代に出来た兼六園の蓮池亭の落ち着いた感じと違って、庭園美の中に派手さが加わった感じです。夏場は緑が濃いですが、桜や紅葉も植栽されているので春秋に訪れると更に美しいと思います。次回は石垣も^^
    2020年08月25日 19:30
  • つとつと

    藍上雄さん
    玉泉院丸庭園は古地図と絵図を中心に再現されたものです。明治に陸軍によって徹底的に埋められて平場になっていましたから。。確かに泉水庭園で泉水と中島を繋ぐ橋は中国風にも見えると思います。ただ玉泉院丸の重要なのは東面と北面の石垣や木々を借景にしたところで、水路や泉水を巡る醍醐味もありますが、玉泉庵や唐傘亭から全体を見ることに主眼を置いていると思います。
    武家の家ではよく見られることなんですが、正室もしくは継室(正室に子のない時や正室不在の場合は継室の子が優先、筆頭側室がその次)との子供が実子とされるんです。織田信長の兄・信広は信秀が独身時代に外に作った子で庶子になるわけです。武家の嫡子・跡継ぎは正室もしくは継室からの子が優先されるわけです。戦国期は実力主義も勘案されるので、織田家の場合は継室・土田御前の実子だった信長と信行が候補になったわけです。前田家の場合は利家の嫡子・利長に子が無かったので、実弟を候補にしていたのですが次弟・利政が改易されてたために、庶子ばかりで候補が乱立した中で利長が選んだのが庶子の三男・知好でなく四男・利常だったというわけです。実は5.6人候補がいて、藩内では大混乱だったんです。
    2020年08月25日 20:00

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