2020.09.02 聖天山歓喜天境内(埼玉県熊谷市妻沼)
前回、聖天山歓喜天聖天堂について書きましたが、今回はその開創者となった長井の庄の司・斎藤別当実盛が最後の夜に髪と髭を墨で染めたと伝わる伝承地「鏡の池」
2013.04.22 多太神社表参道 斎藤実盛像
これまでにも斉藤実盛については悲劇の武将として幾つか旧跡を紹介していましたが、画像を撮ったものの伝承地の弱さと余りに小さな池でアップし損ねていた「鏡の池」を遅ればせながら、5年前のものですが。。やはり斎藤実盛の伝承地としては外せない地ですから
他に斎藤実盛の伝承地は幾つかアップしています。興味のある方はどうぞ・・・
少し長いですが、平家物語における斎藤別当実盛の篠原合戦の登場部の引用です。
源平盛衰記にも同じ場面があり結末も同じですが、だいぶ描写が違っています。できれば両方読んでもらった方がお薦めです。
平家物語と源平盛衰記は似た部分が多いのですが、表現や描写・記述が違っています。ご存知のように平家物語は琵琶法師によって語り繋がれてきたものです。それを口述筆記としてまとめられたもので語り物と呼ばれるものです。源平盛衰記は平家物語から派生したと思われますが(源平盛衰記が先という説あり)、改めて読み物・記録として書き直されたものと思われます。共にその後の書写で誤ったり、変更されて別物になってきたようですが。。。古事記と日本書紀の関係ともいえ、日本文化の特徴的な語り物と読み物・記録の二系統がはっきりした文学と言えます。
2012.04.07 実盛塚(斎藤実盛胴塚) 加賀市篠原町 篠原合戦の主戦場で実盛戦死の地と言われています。能の謡曲「実盛」の元となった遊行上人(14代太空)が実盛の霊を成仏させた地とされています。世阿弥は時宗関係から話を聞いて「実盛」を作品化、以降多太神社では時宗の遊行上人の代替わりごとに実盛供養が慣習化されています。拝殿に歴代供養の棟札が奉納されています。
平家物語 巻七 篠原合戦前段 ~ 原文+(現代文、説明・解釈)を加えています。
(木曽義仲)そこにては(中能登・親王塚前)、各地の神社に神領を寄せられ(寄進)けり。白山(白山本宮)へは横江・宮丸(ともに松任東北部)。菅生の杜(菅生石部神社・加賀市)へは能美の庄(現能美市・小松市)。多田の八幡(多太神社・小松市)には蝶屋の庄(旧美川町蝶屋)。気比の社(気比神宮・敦賀市)には飯原の庄を寄進す。平泉寺(白山平泉寺・勝山市)には藤島七郷(福井市東北部+旧吉田郡)を寄せられけり。
一年(先年)、石橋の合戦の時、兵衛佐殿(源頼朝)射奉つし者(敵対した者)共、都へ逃げ上って平家の方に侯ひける(仕えていた)。宗との(主な)者には、俣野五郎景久、長井斎藤別当実盛、伊東九郎祐氏、浮巣三郎重親、真下四郎重直。これ等は、しばらく軍のあらんまで(戦いがあるまで)休まんとて、日ごとに寄り合ひ寄り合ひ、巡酒(各陣を巡回集合)をしてぞ慰み(なぐさみ)ける。まづ、実盛がもとに寄り合ひたりける時、斎藤別当申しけるは、
「つらつら(つくづく)この世の中の有様を見るに、源氏の御方(みかた)は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給ひけり。いざ各々(おのおの)木曽殿に参らう(寝返ろう)。」
と申しければ、皆、「さんなう(そうだ)」と同じ(賛同)けり。
次の日、また、浮巣三郎がもとに寄り合ひけたりける時、
斎藤別当「さても昨日申しし事はいかに、各々」
その中に、俣野五郎進み出でて申しけるは、
「我等は、さすが(何といっても)東国では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。吉(勢いのある方)に付いてあなたへ参り、こなたへ参らう事も見苦しかるべし。(他の)人をば知ろ参らせず、景久においては平家の御方にていかにも(どのようにも)ならう。」と申しければ、斎藤別当嘲笑って(大笑して)
「まことには各々の御心どもをかな引き(気を惹き試そう)奉らんとてこそ申したれ。その上、実盛は、今度の軍(いくさ)に討死せんと思ひきつて候ふぞ。二度(ふたたび)、都に参るまじき由、人びとに申し置いたり。大臣殿(平宗盛)へも、このやうを申し上げて候ふぞ」
といひければ、みな人(全員)この儀にぞ同じける。
されば、その約束を違へじとや、当座にありし者ども、一人も残らず北国にて皆死ににけるこそ無慚なれ。
篠原合戦 以下省略
2013.04.22 伝斎藤実盛兜写寄進物
多太神社に奉納された実盛所用の兜を写したもの 奉納の兜は鎧袖・脛当と共に国重文指定を受けています。
実物は神社の宝物館で見られます。画像を観たい人は → 石川県文化財HP
平家物語 巻七 実盛
また、武蔵国住人、長井斎藤別当実盛、御方(みかた)は皆落ち行けども、ただ一騎、返し合はせ、返し合はせ、防ぎ戦ふ。存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作りの刀を佩き、切班の矢負ひ、滋藤の弓持って、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。木曽殿の方より、手塚太郎光盛、よい敵と眼をかけ(目をつけ)
「あなやさし(ああ、素晴らしい)。いかなる人にてましませば、御方(みかた)の御勢は皆落ち候うに、ただ一騎残らせ給ひたるこそ優なれ(素晴らしい)。名乗らせ給へ。」と詞(言葉)を掛けければ、
「かういふ吾殿は誰そ」
「信濃国住人、手塚太郎金刺光盛」とこそ名乗つたれ。
「さこそ、互ひによき敵ぞ。ただし吾殿を下ぐる(軽んじる)にはあらず、存ずる旨があれば名乗るまじいぞ。寄れ、組まう、手塚。」
とて、(馬を)押し並ぶる処に、手塚が郎等(郎党)遅れ馳せに馳せ来て、主を討たせじと中に隔たり(分け入り)、斎藤別当にむずと組む。
「あつぱれ、おのれは日本一の剛の者に組んでうず(組もうというのか)。なうれ(おのれ、なおれ)。」
とて、取って引き寄せ、鞍の前輪に押し付け、首をかき切つて捨ててんげり。
手塚太郎、郎等が討たるるを見て、弓手(左手)に廻りあひ(込んで)、鎧の草摺(くさずり)引き上げて二刀刺し、弱る処に組んで(馬から)落つ。斎藤別当、心は猛く思へども、軍にはし疲れぬ(戦いに疲れていた)。その上、老武者ではあり、手塚が下になりにけれ。また手塚が郎等(郎党)遅れ馳せに出で来たるに首取らせ、木曽殿の御前に馳せ参つて、
「光盛こそ奇異な曲者組んで討つて候へ。侍かと見候へば、錦の直垂(ひたたれ)を着て候ふ。大将軍かと見候へば、続く(軍)勢も候はず。名乗れ、名乗れと責め候ひつれども、遂に名乗り候はず。声は坂東声(坂東訛り)でひつる(でした)。」と申せば、木曽殿(源義仲)、
「あつぱれ、これは、斎藤別当であるごさんめれ(ちがいない)。それなれば、義仲が上野へ越えたりし時、幼目に見しかば、白髪の糟(白髪混じり)をなりしぞ。今は、定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢髭(ひんひげ、びんぴげ)の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎は、馴れ遊んで(親しく付き合う)見知つたるらん。樋口召せ(呼べ)。」と召されけり。
銅像の作者は帝展・日展作家、都賀田勇馬(1891~1981)。神社の神馬像、銭屋五兵衛像、安宅関の弁慶・富樫像など県内に多くの彫像が見られ、地獄巡りのはにべ岩窟院を創始したことで知られます。
樋口次郎(兼光)、ただ一目見て、「あな無慚や(あ~いたわしい)、斎藤別当で候ひけり」
木曽殿(源義仲)、「それならば、今は七十にも余り、白髪にこそなりぬらんに、鬢髭(びんぴげ)の黒いはいかに」
「さ候へば(その通りですが)、そのやう(訳)を申し上げんと仕り候ふが、あまりに哀れで不覚の涙のこぼれ候ふぞや。弓矢取りは、いささか(ささいな、いずこでも)の所でも思ひ出の詞(記憶に残る言葉)をば、かねて使ひ置くべきで候ひける物かな(予め用意して置くものと言います)。斎藤別当、兼光に逢うて常は物語を仕り候ひし。『六十に余って軍(戦)の陣へ向かはん時は、鬢髭を黒う染めて、若やがんと思ふなり。その故は、若殿ばらに争ひて先を駆けんもおとなげなし、また、老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし』と申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ」と申しければ、
「さもあるらん」とて洗はせて見給へば、白髪にこそなりにけれ。
2012.04.07 首洗池 篠原合戦で源義仲が本陣を張り、実盛の首を洗った池と伝わります。
(斎藤別当実盛が)錦の直垂(ひたたれ、大将軍の印)を着たりける事は、斎藤別当、最後の暇申し(暇乞い)に大臣殿(平宗盛)へ参つて申しけるは、
「実盛が身一つの事では候はねども、一年(先年)、東国へ向かひ候ひし時に(富士川の戦い)、水鳥の羽音に驚いて、矢一つだにも射ずして、駿河の蒲原(かんばら)より逃げ上つて候ひし事、老後の恥辱ただこの事候ふ(のみ)。今度、北国に向かひては、討死仕り候ふべし。さらんにとつては(それにつきましては)、実盛もと(元)越前国の者で、候ひしかども、近年、御領(宗盛の知行国の職、司)に付いて武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事の喩(たとえ)候ふぞかし。故郷へは錦を着て帰れといふ事の候ふ。錦の直垂、御許し候へ。」と申しければ、
大臣殿、「やさしう申したる物かな(殊勝なる申し出である)」とて、錦の直垂御免(御許し)ありけるとぞ聞こえし。
昔の朱買臣(前漢の会稽太守)は、錦の袂(たもと)を会稽山に翻し、今の斎藤別当は、その名を北国の巷にあぐとかや(挙げたと言えようか)。朽ちもせぬ虚しき名のみ留め置きて、屍は越路(北陸道)の末の塵となるこそ悲しけれ。
去りぬる四月十七日、十万余騎にて都を立ちし事柄は、何面を向かふべしとも見えざりしに(何者も立ち向かえると見えなかったのに)、今、五月下旬に帰り上るには、その勢僅かに二万余騎、
「流れを尽くして漁る時は、多くの魚を得といへども、明年に魚なし。林を焼いて狩る時は、多くの獣を得といへども、明年に獣なし。後を存じて少々残さるべかりける物を。」と申す人々もありけるとかや。
2012.04.07 手塚山 兜の宮 実盛戦死後は兜がこの宮に納められていました。時期は不明ですが多太神社に改めて納められたと云われており、現在は石膏の兜の写しが納められています。今はどうか知りませんが、訪れた当時は実盛の命日に巫女の舞が奉納されていました。
補足:源義賢(源為義次子、源義朝廃嫡後の嫡子、義仲の父)が源義平(源義朝長子)に大蔵館を襲われ命を落とした際に、次男・駒王丸(2歳、義仲)を救い出したのが畠山重能(しげよし、畠山重忠の父)。重能が駒王丸を託したのが斎藤実盛。匿って保護した後には、追及を避けるために信濃の中原家に保護養育を依頼したのも斎藤実盛でした。源平盛衰記では洗われて白髪となった実盛の首を見て、義仲は恩人を死なせてしまった後悔に声をあげて泣き、樋口兼光・手塚光盛と共に涙に濡れたと云われます。
ちなみに、畠山と聞くと終始源氏のイメージがありますが、重能が源氏に属したのは北関東を制圧した源義平の僅かな期間で、保元・平治も平家方で平家の都落ちまで平家に尽力しています。平家の都落ち後は帰郷して重忠に当主を譲り隠居、重忠は頼朝に仕えたと見られます。義賢の嫡子で義仲の兄・仲家は京で源頼政(摂津源氏)に保護され養子となって、以仁王の挙兵に従い討死しています。義仲が以仁王の令旨にいち早く呼応し、遺児の北陸宮を旗頭にしたのは亡き兄の遺志を継いだと考えられます。
斎藤実盛を討ち取った手塚光盛は名乗りから解るように諏訪神社下社の祝部(神社三等官)の金刺氏の一族。後に源義仲が討死した粟田口で最期まで同伴して討死しています。兄は藤原秀郷流弓術の継承者と云われた金刺盛澄。盛澄は幼少の義仲の修業を指導し、義仲旗揚げ・進軍に参加したものの諏訪社神事の為に帰郷中に義仲が敗亡。捕縛されて鎌倉に送還されたものの梶原景時の保護と助命により、頼朝からの助命条件の鶴岡八幡宮流鏑馬神事で頼朝の難題を2度まで神技でクリアして、郎等共々に開放、帰郷、御家人となっています。手塚光盛の後裔を主張したのが幕末の蘭学者・医師の手塚良仙。漫画「陽だまりの樹」の主人公・良庵の父になります。良庵は後に良仙の名を継いでいますが、作者で医師のの手塚治虫の曽祖父になります。
樋口兼光は源義仲を託された中原兼遠の次男。弟の今井兼平・根井行親(ねのいゆきちか、滋野・海野姓の祖)・盾親忠(根井行親の子)と共に義仲四天王と呼ばれています。子孫には戦国武将で有名な樋口与六兼続・後の直江兼続、樋口与七実頼・後の大国実頼、樋口与八景兼・後の樋口秀兼の樋口三兄弟。ちなみに樋口家は三男・秀兼から米沢藩士として幕末まで続いています。
ついでに姓名について、金刺→手塚、中原→樋口・今井、根井→滋野・海野・盾 といった具合に姓名が変更しているのが多いのが解ります。平家物語の文中でも手塚光盛の名乗り「手塚太郎金刺光盛」。このように名前や親子・兄弟関係が解りづらくなっています。
日本の相続関係を見てみると、古代から時代によって末子・兄弟・親子・長子相続など様々な相続の変遷が見られます。これに更に嫡子・養子・猶子・庶子が絡んで複雑なものになっています。武家は平安後期からの派生ですが、鎌倉後期までは直系男子兄弟(一部女系も含む場合も、庶子を除くことが多い)の均等分割相続でした。つまり兄弟が5人いたら、5等分に分けて均等分割相続にしたわけです。一応、一軒を本家(長子が多い)として、残り四軒は分家独立したわけです。当然分家は独立したわけで、新しい家を立ち上げ姓名も新しく名乗り直したわけです(地名姓や本家姓の文字を変える)。それでも本家の名前は尊重や誇りを表すもので、手塚光盛の名乗りは手塚家の太郎(当主)で、手塚のみでは一代で重みが無いので出自は本家姓・金刺だとしたわけです。また斎藤実盛の斎藤姓は祖を藤原利仁から派生した越前斎藤氏からのもので、実盛の生誕した河合家も武蔵斎藤家もその流れを引き継いだ分家になるわけです。同じ藤原利仁を祖にする加賀斎藤氏を分家相続したのが林・富樫氏というわけです。燧城の戦いで斎藤実盛と林光平が一騎打ちした際に、実盛が「彼も斎藤、我も斎藤」と言ったのはそういう同族だと認識していたわけです。
この均等分割相続を繰り返すうちに姓名が加速度的に増えて、世界に類を見ない姓名の多い国になったわけです。しかしこの相続は土地の細分化をもたらし、鎌倉幕府・御家人の弱体化をもたらすことにもなります。
朱買臣は前漢の人で、会稽郡呉県出身でしたが、40代までは薪売りで生活していました。士農工商が示す日本もそうですが、中国では生産業に従事しない人(官吏は別)は最下層民としていました。作業に従事しない朱買臣に妻も何度も意見しますが改めることはなかったと云われます。ついには離婚を申しだされ、離縁を認め去られたほどです。
朱買臣は常識外れの勉強家で、農業従事をしなかったのも勉強に専念するためで、作業に従事する間も厭ったわけです。薪を背負っては書を読み続けていました。明治に幸田露伴が若い頃苦学した二宮尊徳と朱買臣が薪を背負い書を読む姿を描いた画像を結び付けたのが、昔、小学校に多くあった二宮金次郎像の発祥と云われています。
50歳になって上計使(官吏)の卒(召使い)となって長安に移り、皇帝(武帝)に上奏文を提出していますが、見られることもなく長く連絡なし。。期間がだいぶ経ってからですが、上奏文を見た同郷の侍中・荘助の推薦で武帝の面接を受け、侍中に登用されます。登用後は実績を上げ続け、福建省の閩越(びんえつ)鎮定が採用され、会稽太守となって故郷に戻ることになります。朱買臣はボロ着のまま、懐に錦の太守印綬を入れて宴会に紛れ込み、印綬を垣間見た部下たちに寄って大騒ぎとなり、庭園に部下たちが整列したと云われています。この故事が実盛の錦と準えているわけです。
「故郷に錦を飾る」の元となった故事は、秦の都・咸陽を破壊・炎上させた後、項羽が言い放った「富貴にして故郷に帰らざるは、錦を衣て夜行くが如し、誰かこれを知るものぞ(いくら富貴になっても地元に帰らなければ、錦を着ていても暗夜を行くようなもので、私の雄姿を誰も知らないのだから見せに帰るんだ)」が語源と云われていますが、項羽の惰弱と暗愚を蔑んだものですが、人全般の思いを代弁するものであり、後代の三国時代に「錦を着て昼行く」「錦を着て故郷に帰る」にと良い意味で変化したようです。
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鏡の池 昭和37年(1962年)加賀市指定文化財 9月上旬に池の清掃で水抜きを行い、年に一度、銅鏡の姿を見ることができます。
文中にあるように、斎藤実盛はこの時すでに72歳の高齢でした。仲の良かった中原家の樋口兼光に語っていたように、60歳を越してからは年寄りの冷や水、老武者などと侮られるのを恐れて、髭と鬢を墨で染めて出陣していました。
最期となった篠原合戦の前夜は、愛用の鏡と筆で野営地とした深田と呼ばれたこの地で、翌朝の準備を行ったと伝承されています。更に明日は確実に討死する身で、鏡を使うのもこれが最期として池に鏡を沈め、民人に形見とせよと言ったと伝承されてきました。
以来、鏡の池と呼ばれ、斎藤実盛伝承地とされた来ました。深田の地は海岸線に近く低いながらも山岳地で、地元では涸れない池として当時から生仏池とも呼ばれて大事にされてきたと伝わっています。
加賀市指定文化財(史跡)鏡の池 指定年月日 昭和三十七年一月十一日
広さ十二㎡の小池で、そこに凝灰岩製容器に入った直径八・五㎝の柄の無い銅鏡がおさめられており、裏に鶴亀の文様がある。夏の渇水期にも清水は涸れることがない。
伝説によれば、篠原合戦の折、斎藤実盛が髪を染める時に用いた鏡 をこの池に沈めて出陣したというが確証は無い。
この池の冷泉は常に湧出しており、飲料水にも用いられたり、日照りの時にはこの鏡を祀って雨乞いをすると効験があるともいい、水に対する民間信仰の対象になっていた。
鏡の年代は平安時代後期以降と考えられる。 鏡の池中の銅鏡(案内板より)
昭和六十一年十二月 加賀市教育委員会
毎年9月上旬の白山神社の秋祭りの前に、池の水抜きと清掃が行われるのですが、その時に鏡を見ることができ、多くの人が見に来ています。残念ながら今年はコロナ渦で中止になったようです。僕も毎年観たいと思いながら、まだ一度しか見たことが有りません@@ 石の器で固められていますが、8.5㎝と小さなものですが古風な銅鏡の裏面が見られ、観た時にはやはり斎藤実盛の物語を思い起こされました。
鏡の池由来碑 平家の武将實盛は 戦の道途白髪を染め 形見の鏡ここに鎮め 身は篠原で塚となる 🔲歳寿永二年(一一八三年)初夏 斉藤別当實盛は七十弐没す
とはいいながら案内板にあるように、実盛の鏡、鏡の池と確定しているわけではありません。
僕も疑念に思うのが、その地理条件になるわけです。斎藤実盛が討死した篠原合戦の主戦場は柴山潟から海に流れる新堀川南岸の湿原・草原地帯になります。逃げる平家軍にとっては新堀川や柴山潟を渡河する源氏軍を迎え撃ち・足留めするには好条件な場所と云えました。ここで足留めすれば、最終的に大軍の進軍には向かない山岳の細道で、北潟湖の細道を越せば、平家の勢力圏の越前に抜けられます。
ところが斎藤実盛が野営したと云われる深田の地は前述のように、篠原から約5キロ南西(越前方向)に離れ、低いながら山岳路を入った地になります。この道は橋立港を経由する狭隘な道で北国道の回り道で越前に向かう脇道経路になります。待ち伏せをこの地でするならともかくも、5キロも戦地となる篠原まで逆戻りするものだろうかという疑問がわきます。そもそも迎撃戦なら、川や湖岸の手前で対陣するのが常識です。これもあって僕がアップを避けた言い訳の一つになります。
真偽はともかくとして、古くから加賀では斎藤実盛の染黒・鏡の池として語り継がれてきたのも事実です。
池までは狭い道で車を停める場所がありません。近くにある白山神社や深田称名寺近くにある駐車場から歩いて行かねばなりません。ご注意を
旅行日 2015.04.25

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この記事へのコメント
tor
聖天山歓喜天聖天堂を訪問された訳が分かりました。
なるほどですね。
今回はちょっとあわただしく
流し読みなので
(申し訳ありません)
後日じっくりと読ませていただきます。
つとつと
なかなか、北陸で知られた人物を他県どころか、遠く離れたところで触れるという機会はなかなかありませんから、是非ゆっくり観たかったんですが、残念な結果になってしまいました。
斉藤実盛は加賀では有名な人物で、小松市や加賀市、越前には由緒の多い人物ですが、本拠地が北関東という珍しい存在です。
お暇な時にゆっくり読んでみてください。。
がにちゃん
古文 ( ̄∇ ̄;)ハッハッハ
実盛さんの古武士の雰囲気 いいですね
銅像を頭に重い浮かべながら・・・
白髪を墨で黒髪に・・・
若い者に負けてたまるか・・・精神が
70歳とは長生きされたのですね
又 訪問します
藍上雄
かつての主の子息(義仲氏)に、討ち取られる事で、その忠誠を平家と源氏に示したのでしょうか?武士の実盛氏としては、納得の行く最期だったかもしれませんね。
イータン
斉藤実盛の奉納された兜からは体格が想像されるのでしょうかね。
変な質問ですね(笑)
手塚山の兜の宮 当時立派な場所に保管されていたのですね。
つとつと
(笑)たしかにたまに古文を読むと、解らない言い回しや今と意味が違ったのが出てきて、戸惑うときもありますねえ^^
平安後期から戦国初期は、刀や槍での戦いが多いですから、気概が強かったようです。実際實盛は何度も一騎打ちを行っていますから
この年齢で馬で駆け回って、一騎打ちまで超人ですね。
つとつと
そうでしょうね。しかも自分の生まれ故郷の北陸路ですから、その思いが強かったんでしょうね。
息子たちも成長していますから、隠居しても良かったんでしょうが、根っからの武将だったんでしょう
納得は言っていたと思いますが、後の謡曲、実盛では討ち取られたのが悔しくて成仏できなかったと云っていますから、義仲と一騎打ちしてみたかったようです。
つとつと
實盛の兜は源義朝から拝領したもので、自前で作ったものでないので体型までは解らないようです。
鎧も残るのは肩や脛当の一部で、、、でも70歳を越して四人張りの弓を弾いていますから、年齢よりも頑強な体を持っていたようですよ^^
兜の宮はちょっと寂しい場にありますが、なかなかの趣きがありますよ・
ミクミティ
死後も語り継がれるにはそれなりの理由があったことでしょう。
実盛塚、首洗池、兜の宮、染黒の鏡の池などなど、今でも加賀地方にこんなにも実盛伝承の史跡があるとは、驚きでした。
それが本当がどうかは分かりませんが、この地で躍動していたことは間違いないですよね。
yasuhiko
文体のリズム感が心地よかったです。
斎藤実盛のドラマティックな人生が、
平家の名文によって蘇るような気がしました。
手塚光盛は、平家物語の『木曾最期』に「手塚別当」
の名で登場してたように思いますが、彼の子孫を名乗る
人物の子が、『陽だまりの樹』の主人公のモデルであり、
手塚治虫の先祖にあたるとは、もうびっくり仰天。
手塚つながりにワクワクするものを感じました。
つとつと
斉藤実盛は北陸で名の知られる英雄の一人ですね。
更に倶梨伽羅合戦の源義仲も知られた存在で、二人の過去は重なり合っていますから、なおさら人気があるのだと思います。そうそう、松尾芭蕉は義仲の大ファンでお墓も義仲の側にあるほどですが、そんな芭蕉が義仲の大恩人の実盛の旧跡を見逃すはずもなく、これらの地を廻ってくれたおかげで後世の僕たちにも残されたようです。残念なのは菩提寺町の田園にあった首塚がなくなったことで、墓石が那谷寺にあると聞いているんですが、まだ未見でいつか見たいと思っているんですが。。
つとつと
平家物語は僕も久しぶりに読み直しました。僕は学生時代にアナウンスメントの朗読の練習には平家物語は教本の一つで、よく詠んだものの一つで、懐かしい本の一つです。木曾最期の最後の主従五騎、今井兼平・巴御前・手塚太郎・手塚別当ですね。この手塚別当が誰なのかずっと不明のままです。一部では光盛の甥とも云われていますが、巴御前と同様に生き延びたようですが、でも郎等の間違いか、別当ですから領主並みの人物だったのかは全くわからない人ですねえ^^;
歴史のロマンですね。。加賀市には手塚町や帝塚山の名で光盛の名前が実盛と共に残っています。
ゆらり人
何時の時代も姿形に思いをもっているのですね。
髪や髭を染めて若く逞しく見せたかったのでしょうね。
その頃は直ぐに落ちたのでしょうから面倒くさかったでしょうね。
鏡池は出かける前の身だしなみを見たのか、戦の前に気合を入れる為に自分を映していたのでしょうか。
この小ささだから波風が立たず綺麗に見えたのでしょうね。
つとつと
初めて見た時は義仲が首を抱えていて、ギョッとしましたが、何度か見ているとやはり良い作品だなあと思います。都賀田氏の作品は県内で多く見られますが、やはり地元の小松にはあっちこっちで見られます。安宅関の弁慶と富樫は特に秀逸です。
やはり、戦場は若い人が多いですから、髪や髭が白いと年寄りの冷や水とか言われたようで、本来なら隠居しているのが当たり前の年齢ですから。。小さな池ですが、木々に囲まれてとても静かな場所です。