野田山② 村井長頼・奥村永福 利家の両輪

DSC_6790.JPG
野田山加賀藩主墓所から金沢市街 中央の大きなベージュの建物は金沢大学付属病院、その左端裏が菩提寺の宝円寺、右端手前が天徳院になります。その後ろの山稜は卯辰山稜、山稜の左端手前が金沢城になります。前田利家の墓所は金沢城本丸から南東の方角(辰巳の方角)で、鬼門(北東)に次ぐ不吉な方角と重視していた方角です。鬼門には利家の霊を祀った卯辰八幡宮(現宇多須神社)。重要方向に家祖・前田利家を祀っていたわけです。また、裏鬼門(南西)には小松天守台を3代・利常が築いていました。手前の大きなグラウンドは陸上自衛隊金沢駐屯地。
今年の2月にはじっこだけの画像に、長々と説明を加えた加賀藩主墓所。今回は初期の主要墓所群を訪れてきました。
今回は久しぶりに駐車場まで来ました。墓所までは狭い道を通らねばなりませんが、駐車場は広々としています。いつも平日に来ると寂しいくらいに誰もおらず静かな場所です。駐車場は前田利家の眠る墓所からはちょうど真下の下段に当たり、利家の目線と同じく金沢の城下町が一望に出来る位置になります。
158149805795173840142.jpg2020.01.18撮影 藩主墓所表参道石段 起点
江戸時代は前回紹介した表参道入口からひたすら登り続け、最後に長く急な石段を登ることになります。右の画像は表参道の石段となる前田家墓所の玄関口になります。
藩祖・前田利家の正室・松(芳春院)は慶長19年(1614年)に長い人質生活から解放され金沢に戻っていますが、晩年には足腰の衰えでこの石段を登ることが出来ず、麓の墓守寺に利家の遥拝墓を建て墓参としていました。その長い石段を登り切った墓所の入口がこちらになります。
DSC_6797.JPG野田山 藩主墓所表参道石段 到達点
この長い石段を登りきると、山上に最初に眼に入るのが芳春院(前田利家正室・松)の墓所。自身は僅かな期間しか登ることの出来なかった二百段に及ぶ墓参道石段を息を切らせながら登って来た墓参客を優しく迎えてくれているようです。


DSC_6802.JPG
表参道石段 踊り場 
奥が藩祖・前田利家墓所、右に登ったところが前田利家正室・芳春院(松)の墓所
DSC_6798.JPG
村井家祖(加賀藩八家老家)村井長頼の墓 墓塔は3m、南向きで後方に墳墓があります。
この石段を登りきる寸前の右手に門番のように立つ五輪塔と墓域があります。
藩主と同高度の墓域に墓所を持つのが奥村永福と共に始祖・前田利家の両輪と呼ばれた村井長頼の墓になります。石段を登る人に立ちはだかる様に建つ野田山墓所の守護神となる五輪塔

村井長頼(1543~1605)は13歳で荒子城の前田利久に出仕、すぐに前田利家付となっていました。
前田利家の荒子時代から仕えた部下として、利家が信長から追放処分を受けた際にも傍に従って同行しています。
利家荒子城を継いだ際に正式な家臣となり、その後も親衛隊長・先鋒隊長として、戦功を挙げ続けています。特に元亀年間の越前・金ケ崎城攻略での功績で織田信長から南蛮傘を拝領。前田家草創期の殆どの合戦に参加・活躍しています。
生活面でも前田利家夫妻と側近くで苦楽を共にしてきたと言って過言はありません。利家夫妻双方からも髭殿と呼ばれて信頼度抜群でした。
DSC_6799.JPG
村井家墓所 右が2代長次の墓:八家では二例しかない石廟(宝篋印塔内蔵) 左五輪塔の墳墓は不明墓 3代以降は100m弱ほど下段の別墓域(通路あり)
利家在世時代から、徳川家康を嫌い、反徳川の急先鋒でした。文禄元年(1592年)二代を長次に譲り隠居していましたが、芳春院が人質として江戸に向かう際に志願して、江戸屋敷に同行。屋敷では芳春院と共に人質となった利家五男・利孝の養育・指南をしていたと伝わります。慶長10年(1605年)に江戸屋敷で逝去、享年63歳。
副碑の名「村井又兵衛豊後守長頼」又兵衛の名は利家又左衛門)から通称の一字を取って与えられたもの。通称を与えるというのは珍しく、本人も自慢にしていたそうです。利家の信頼の厚さが窺われます。
DSC_6801.JPG村井長頼正室墳墓
名前など詳細不明、元和9年(1623年)没 墓石は明治に建立
江戸で死去したとはいえ、徳川幕府は将来までも不倶戴天の敵と考えていたようで、遺言により死骸に鎧兜を着せ、立った状態で江戸を向いて葬られたと伝わっています。まさに加賀前田家の守護神的存在。墓域には他に正室、2代長次、不明墓一基が葬られています。
DSC_6800.JPG村井家2代・村井長次墓所 石廟 
宝篋印塔を内蔵しています。軒先に「村井第二世」の刻印 門左右に蓮が陽刻されています。以前まで大きな五輪塔が側に建っていました。

村井長次(1568~1613年)は天正18年(1590年)に関東の役に従軍、2年後に家督を相続し、慶長6年(1601年)に人持組頭(加賀藩の軍団長、後の八家老職)に就任していました。
慶長10年(1605年)に前田利家七女・千世姫を正室としています。8年後に長次が亡くなり、二人に子はいませんでしたが、前田家親族級として扱われたようで、長頼と同じ墓域に葬られています。次回に紹介しますが、八家老家では前田対馬守家(前田長種墓所)の一基と長次の墓だけが石廟を有しています。石廟は初期の加賀前田家の墓所だけに有していたと見られています。正室の千世姫・幸姫(前田対馬守長種室)・前田利貞(利家六男)・保智姫の墓所に残されています。
146813140092434190177_DSC_2559_20160710151641.jpg

DSC_6794.JPG

上:前田対馬守家墓所石廟(玉龍寺)
右:幸姫石廟(前田長種室・前田利家長女)
下:千世姫石廟(村井長次室・前田利家七女)

DSC_6812.JPG

DSC_6838.JPGDSC_6868.JPG
上:前田利貞石廟 (前田図書家祖・前田利家六男)
右:保智姫石廟(篠原貞秀室、前田利家九女)上部の柵は前田利家墓所の正面、崖下に隠されたようにあり、手前の灯篭は明治に篠原一貞(篠原別家当主、金沢藩副参事)によって建立されたもの。前田家草創期の謎の部分を表す石廟です。。以前から石廟が崖上から見え気になる存在でしたが、入口参道もなく、案内にも載っておらず、今回初めて前に立ちました。保智姫の石廟がこんなところにあったとは@@

江戸期までは加賀藩主墓所の多くは墳墓の前祭壇・石廟・灯篭を建て、墳墓上墓塔もしくは五輪塔を建てていたと云われています。ところが明治になって加賀前田家神道に改宗したために、石廟・墓塔を取り払って鳥居を前面に建て、墳墓前面に標柱を建てたようです。

家臣の家や他家に嫁いだ幸姫千世姫・豪姫などの墓所は大きくは触られておらず、参道を隔てた奥村支家の墓所と樹木に隠された前田利貞・崖下で入口が解りにくい保智姫の墓所は撤去を免れたようです。

ただ、いつも思うのは、家自体が改宗したからと言って、ご先祖様の墓や菩提寺までを改修や変更するという行為はどうなんだろうと思います。加賀前田家の場合は国の政策の国家神道統一に協力するという意味が強かったとはいえ、それを先祖の墓や菩提寺にまで影響を及ぼすというのは。。
まあ、自分は改宗したことがないので、祖先の信仰を壊す行為は理解できないですが。。
DSC_6851.JPG
奥村永福(ながとみ)夫妻合葬墓 奥村永福は奥村宗家の家祖ですが、後に墓所域を得た奥村支家(次子・易英家祖)の墓所内にあります。夫妻を合葬した基壇状の墳墓の前に傘付位牌型板碑を設けています。板碑の裏には事蹟を記載しています。左右に次子・易英夫妻、易英長子・和忠(3代庸禮父)夫妻を中心に歴代当主の墓所が同じ形態を踏襲して続いています。

石廟の方に方向が行ってしまいましたので、前田利家以下の墳墓は次回にということで。。
前田利家の両腕・両翼・両輪と云われた村井長頼の墳墓をご紹介したので、もう一人の左腕と呼ばれた奥村永福(ながとみ、1541~1624年)もまた藩主墓所と同高度に置かれていました。
奥村永福の墓所は前田利貞墓所の前を通った奥村支家(加賀八家老家・奥村内膳家)の中心部で、千世姫・前田利貞と隣接する前田利家と同高度(約標高150m)の位置になります。
DSC_6850.JPG
奥村永福 傘付位牌型板碑 
表文:故朝散大夫予州刺史奥村君 配加藤嬬人(夫人) 墓
奥村永福(ながとみ、家福)と書くと、ほとんどの人にはピンとこない名前ですが。。漫画「花の慶次」における奥村助右衛門といえば解る人も多いかも。。歴女たちに人気のある人物で、加賀前田家の武将で人気投票をすると、女性票を集め上位に来るだろうと云われている人物です。僕個人も加賀藩の武将・政治家では好きな人物ベスト3に入ります。「花の慶次」や、その原作の隆慶一郎の「一夢庵風流記」に描かれた奥村助右衛門永福は、例え親友・慶次や主君・利家でも持ち上げながらも筋の通らないことを許さず、清廉潔白を地で行く人物としています。彼の言動は正道で誰もが指針として見習い、敵対を避けたと云われます。実際の事蹟や行動を見ても、その通りと頷くことの多い人物で、加賀藩草創期から地盤を確立させた第一人者になります。
DSC_6857.JPG
奥村永福板碑裏面 予州君姓平氏奥村諱永富号助右衛門世為前田氏家臣攻城守戦屡功績豊相国時叙爵任官遂賜豊臣姓歴任三君恩遇優渥必需而終平生事蹟及生卒子孫戴在碑文 内子加藤氏諱某配予州君有子男三人女一人天文乙巳之歳某月某日生干尾州某邑寛永四年丁卯二月二十有二日歿千賀州金沢寿八十有四合葬予州君之瑩 寛文十三年歳次癸丑六月十二日
(訳)伊予守は、姓は平氏奥村、諱は永福、号は助右衛門、前田家家臣として攻城・守戦と数々の功績を挙げ、豊臣秀吉からは豊臣姓を授与され、叙爵・任官を授かっています。三君(利家・利長・利常)に仕えて必須の者として厚く遇されました。子孫としては事蹟と生死を碑文(亀趺碑文)として残すものです。
伊予守内室の加藤氏は伊予守男子3人女子1人を産んでいます。天文14年(1545年)に尾張に生まれ、寛永4年(1627年)2月22日に加賀金沢に84歳で没し伊予守の墓に合葬した。  寛文13年/延宝元年(1673年)6月12日
奥村永福は寛文11年(1541年)尾張中島郡(現一宮市奥町)で生まれています。
奥村家は代々前田与十郎家に重臣として仕えていたと云われ、永福も元服後には荒子城(当時海東郡4000石(2千貫))の前田利春(利昌、利家父)に出仕、次代の利久(利家長兄)の時には若いながら城代家老となっていました。永禄3年(1560年)家督を継いだ前田利久には子が無く、三弟・安勝から養女を迎え、妻の縁戚の慶次(滝川家出身?諱は利貞・利益・利太他諸説多々)を婿として迎えて養子としていました。慶次の生歿年が不明ですが永福とは同年生まれとも云われ、二人の仲もこの時(19歳)からとなります。
DSC_6848.JPG
奥村永福亀趺碑文 永福夫妻墓所の板碑に書かれた子孫が残すと記した碑文に相当するようです。永福の墓所を示す貴重な存在です。
DSC_6849.JPG
亀趺(きふ、贔屓(ひき、ひいき))は、亀の形をした台石(趺)の上に墓碑や顕彰碑を載せたものになります。中国後漢時代(25~220年)に発祥したと云われています。贔屓(ひき)は中国の伝説の竜が生んだ9匹の子(九生竜子)の一子で形状が亀に似て、重きを負うことを好み、文章の読み書きを好むとされています。ちなみに九生竜子には竜に似て吠えるのを好み梵鐘の頭にある蒲牢(ほろう)、獅子と同型で火と煙を好み魔除けや墓の門番とされた狻猊(さんげい)がいます。重きを負う贔屓は主君や皇帝を支えるものとして、中国では高位高官や寺院の石柱台のみに設置が許されてきました。
DSC_6860.JPG
DSC_6847.JPG

日本には寺院の石柱や塔の土台(京都東寺など)として入り、亀趺碑は儒教思想が流入した江戸期直前から初期に武家社会に広まったと云われています。江戸期前も一部散見されますが、有名所では毛利家藩主墓所、会津松平藩主墓、徳川光圀(黄門様)墓所があります。

ちなみに諺に「依怙贔屓(えこひいき)」「判官贔屓」「贔屓の引き倒れ」というのがありますが、「贔屓し過ぎると逆にその者を不利にしてしまう、却ってその者の為にならない。」の意味ですが、やはり贔屓から来ていて、柱の土台の贔屓を引っ張ると柱が倒れることから由来になっています。
「贔屓する、贔屓筋」などは江戸時代から明治にかけてに相手に深く肩入れするということで、贔屓を自分にあてはめることです。「ご贔屓に。。」はその逆で、どちらもこの土台の亀さん(亀趺・贔屓)から由来しています。
DSC_6861.JPG

奥村支家墓所に入ると最初に眼に入る奥村永福の亀趺碑は基壇・亀趺合わせて高さ3.68m、贔屓は完全に亀さんで甲羅の六角形も繊細に刻まれています。碑文は天海の後継者に望まれながら儒学の道に進み、後に幕府や各藩で活躍した木門十哲(新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祇園南海・榊原篁洲他)を育て上げた木下順庵。木下順庵は天和2年(1682年)幕府の儒官となるまで加賀藩に仕えていました。亀趺碑は全国に新旧250ほどあると云われますが、その中でも戦国武将としては最古級のものと言われています。
建立者は「曽孫」のみで下が破損して不明ですが、中華の様式に儒教・朱子学の思想の強さから、撰者の木下順庵を始め、幕府儒臣・林鳳岡(ほうこう、湯島聖堂学問所初代大学頭)、水戸徳川家客儒・朱瞬水を師とした奥村支家3代・奥村庸禮だと思われます。文体は全文漢文で刻まれています。長いので今回は割愛^^;興味のある人はアップして読んでください。

永禄12年(1569年)前年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、家臣団強化の目的で前田利久に対して実子が無く病弱だと「武者道少御無沙汰(武士道を疎かにしている)」と、難癖ともいえる理由で四弟・利家との家督交代を命じます。

荒子前田家は織田旗下の林秀貞(通勝)の与力とは言え独立国人領主で、たとえ大名とはいえ家督に口出しは越権行為でした。荒子城受渡しに来た前田利家(30歳?)に対して、城代家老・奥村永福(28歳)はこの措置に反発。「主殿(利久)からは何も聞いていない」と荒子城を開城拒否で立て籠り利家を立ち往生させています。利久からの開城勧告の報状によって開城しますが、利久親子に従って浪人となり諸国放浪となります(慶次の伝手から滝川一益を頼ったとも云われます。)。

奥村永福前田家に復帰したのは4年後の天正元年(1573年)、前田利家が柴田勝家の与力として越前侵攻を始めた頃からになります。その後は数々の戦場に参加して功績を挙げています。利家としても大名昇格目前で家内組織整備として、兄弟不和の解消と重臣復帰は必須であったこともあり、再三、勧誘・懐柔を行っていたと云われています。利久との和解も10年以上掛かったものの、利家が能登領主23万石となった天正11年(1583年)。利久が利家に仕える形で七尾に入っています。支給された所領7千石は当時の前田家家臣では最高額で、名義上は当主の慶次が5千石、隠居領として利久2千石となっていました。この和解には利久が頼った滝川一益の衰退が大きかったですが、肥大化した前田家の組織対応必須に加え、永福の裏からの運動も大きかったようです。その後、利久は利家不在時の能登の七尾城や加賀の金沢城の城代としてだけでなく政治も滞りなく観ており、慶次も末森城に続く氷見阿尾の城外戦で佐々軍に大勝するなど活躍しています。要は織田信長が無能呼ばわりした利久も、慶次も有能さを持ち合わせていたということです。

加賀藩内で奥村永福の名が大きく台頭したのは末森城主となって、佐々軍の猛攻を支えた時からになります。末森城は羽咋郡宝達志水にある城ですが、加賀と能登の実質的な分岐点となり境界の狭い平地のくびれ地帯を扼する重要な城でした。
元々は越中氷見の地頭からの係累で越中国衆と云われた土肥親真が築城した城です。氷見出身の土肥親真は上杉謙信の七尾城攻めでは上杉方として活躍、末森城の地を与えられ土着したのが始まりと云われます。その後、前田利家が能登領主となった際に与力領主(与力大名格)として末森城主を安堵されていました。利家は正室・松の姪(末守殿、篠原長重娘?)を嫁がせ重要地領主として優遇していましたが、土肥親真が賤ケ岳で戦死、能登・北加賀を領した利家は重要地となる末森城奥村永福に与え守らせていました。
156812389702134787740.jpg
金小札白糸素懸威胴丸具足 
天正12年(1584年)越中の佐々成政が朝日山城(城主・村井長頼)攻めで金沢東方に前田軍の眼を惹きつけ、能登・加賀の連絡路断裂を狙って、末森城(約1500)に大軍(約15000)を率いて押し寄せ包囲攻城を行っています(末森城の戦)。前田利家津幡城を経由して海岸線の今浜から佐々軍を背後から奇襲して退却させています。佐々軍は宝達丘陵伝いに撤退、誤報で前田軍が退去した津幡鳥越城を占拠しています。
この合戦では末森城は二の丸まで落とされ、本丸のみに追い詰められ、永福の正室・(松樹院(永福没時に剃髪))が薙刀で武装し糧食を配って歩き士気を高めたと伝わります。

前田利家も臨終まで生涯最大の危機と忘れえぬ合戦と語った戦いでしたが、合戦後には奥村永福末森城死守を功績第一として着ていた鎧・兜を与えています。この鎧・兜が前田利家の代名詞と云われる黄金の鎧兜金小札白糸素懸威胴丸具足。後年、5代藩主綱紀の時代に奥村宗家から献上されて前田家に所蔵されてきた前田家の至宝の開祖の鎧。現在は前田育徳会が所蔵しています。
DSC_6839.JPG

前田利家死後には遺言に逆らって隠居出家(58歳、法名は読みを変えてえいふく)。藩内が派閥抗争で落ち着かぬために、2代利長の再三の要請で筆頭家老として復帰で藩内を押さえ込んでいます。改めて老齢による隠居として70歳で改めて隠居。利常時代にも大坂の陣では夏冬共に金沢城代など主要事件では登場して藩随一の重鎮として粛正に努めていました。

特筆されるのは三男・奥村栄頼(はるより、孝行)が起こした出奔事件。栄頼は利常の信頼を受けて家老職として中心的存在として遇されていましたが、本多政重の上杉家からの再登用問題で、反発する横山家一族と対立しこりを残します。この時も永福によって奥村家が政重の後見人になるということで収拾しています。
しかし栄頼と横山一族の対立は深まる一方で、横山長知・康玄親子が利長病中に比叡山出奔は、栄頼の陰謀から逃れるためと言われています(暗殺計画を察知した利長の計らいとも)。大坂冬の陣への途次に横山親子が復帰すると対立が再燃。功を焦る栄頼は大坂の陣では無謀な突出で真田幸村に名を成さしめた敗戦の元凶をつくり、藩内政策でも利常との対立から見限られ加賀藩出奔を計画します。
家老まで務めた栄頼の出奔に追随しようという臣下や同僚が多数続出したと云います(一説では家臣団の半数)。更に原因となって苦悩した本多政重も加賀藩を去る覚悟を決めています。
この時にも永福が登場、各家臣団の家を廻って説得し栄頼のみの出奔で事を納めています。永福は3代前田利常の治世の安定を確かめたように、寛永元年(1624年)前田家当主5代に仕えた人生を閉じています。享年84歳。

加賀藩草創期の武と剛の村井長頼と共に、治と正義の奥村永福前田利家の両輪であり、利長・利常の執政となった篠原一孝と共にその後の加賀藩の基盤を固めた忠臣と言えます。二人が藩主墓所の周辺地に開祖・利家と同高度で葬られるほど加賀前田家から信頼と尊敬を集めていました。
DSC_6855.JPG
奥村支家墓所 
左手前が奥村永福 右手前から8代煕殷(ひろたか)・7代易直(やすなお)・4代明敬(あきよし)、左奥2代父、和忠・最奥2代庸礼(やすひろ)
奥村永福夫妻の墓所は前述のように千世姫と前田利貞に隣接する奥村支家(奥村内膳家)のど真ん中にあります。
なぜ奥村宗家ではないのかと不思議にも思われますが、奥村宗家(奥村河内守家)は家祖はもちろん奥村永福ですが、2代栄明(はるあき、永福長子)は元和6年(1620年)に永福より先に亡くなり、奥村宗家墓所として前田土佐守家の下段、横山家の上段と八家老家の上位として野田山墓所の東側に設定されていました。永福は死後に顕彰の意味もあり、単独で現在地(藩主墓所西側)に墓所を造成されていたと見られます。野田山の家臣団の墓所の配置を見れば、各家の加賀藩内での家格がなんとなく解ります。
DSC_6853.JPG
奥村支家祖・奥村易英夫妻墓碑 正室は横山家祖・横山長隆の娘。易英は横山長知の妹婿になります
奥村支家の家祖は永福の次男・易英(やすひで)ですが、末森の戦いを父兄と共に戦った後に前田利常付として1000石で分家独立しています。八王子城・大聖寺城攻めで功績を挙げ、大坂冬の陣で弟・栄頼の突出をフォローして救出して加増、栄頼出奔事件では父・永福により出奔を思い留まり夏の陣は留守居役を努め、合わせて7500石に累進。父の死後に3300石を相続、その前後にも賞賜で14450石取と累進して家老職へと独力で上り詰めた逸材です。寛永20年(1643年)逝去、享年73歳。
DSC_6854.JPGDSC_6852.JPG
奥村支家祖・奥村易英墓所
易英の墳墓は、永福の南隣に築かれています。
伝書や諸書では野田山に葬られたとされていますが、夕日寺の伝燈寺の奥山裾に五輪塔が墓所として祀られていることから、すぐに野田山葬送というわけでなく、利常晩期から5代綱紀時代に八家老家に確定した時点で、奥村支家墓所が野田山の奥村永福の地に設定されてから移葬したと思われます。

5代まで加賀藩執政を輩出した奥村宗家は6代有輝に嗣子が無く、支家の3代悳輝(やすてる)の七男・有定が享保年間に養子となって7代を継いでいます。この時点で宗家と支家が同格もしくは立場が逆転となったわけで、以降も後嗣が続かない宗家に対して養子を送り込んでいます。
永福夫妻を中心に左右に易英夫妻和忠(二代父、易英長子)夫妻を合葬したのは、推測期間が長いですが寛永22年(1645年)から有定が亡くなった元文2年(1737年)だと思われます。そうでなければ、長子を差し置いて宗家の祖・永福を次子の支家の祖・易英と合葬するなどは宗家が認める訳がありません。

前述のように奥村支家の当主墓所奥村永福夫妻・奥村易英墓所を規範にして、墓碑・墳墓の形態・夫妻合葬を同じにして代々継承されて来ています。子女墓は当主墓所の西北の区画に大きな墳丘を築き、墳丘と墓所を囲む山裾に笠付き墓標を置いています。近代の奥村家子孫は北側高所を整地して、二基の五輪塔(永福・易英)を高祖墓として中央に置き墓地としています。

*******************************************************

※追記となりますが、加賀八家老家(人持組頭、前田対馬守家・前田土佐守家・本多家・奥村宗家・奥村支家・横山家・長家・村井家)は江戸期を通じて、常備の軍団長であり家老職。更に人持組68家から人材を何名かを選出して家老職として加え、その中から執政(筆頭家老)を選出し加賀藩最高首脳団を組んでいました。月番制輪番で半数が行政役職となり、残り半数が加判となって合議・全員一致制で藩行政を運営していました。執政に関しては、前田利長奥村永福を指名就任させてから5代に渡って奥村宗家から輩出していました。

4代藩主・前田光高が早世し、5代に綱紀が就任しましたがまだ3歳の幼君のために、隠居していた3代利常が復帰・後見役となります。しかし将来を見据える利常は加賀藩の行政運営のために、この家老合議体制の整備を進めていました。利常の構想では一門衆(前田対馬守家・前田土佐守家)に加えて荒子以来の譜代衆(奥村家・篠原出羽守家)に利長の側衆(横山家)、最大扶持の本多家。これに有能者・家を選別して加えようと考えていたと思われます。
利常死後、綱紀もこれを踏襲しようと考えていたようです。ところが篠原出羽守家が嗣子断絶で消え、33000石の長家が与力大名から完全に臣従することで加え、七家までが決まっていました。実をいうと当初、村井家はこの構想には含まれていませんでした。その大きな要因が、2代長次には子が無く、3代は美濃野村藩・織田長孝(織田有楽斎長子)の四男・長家(長光)を養子として当主としていたという事情がありました。
しかし、加賀藩草創期の伝説の人物ともいえる村井長頼、父に代わって加賀藩の重鎮だった2代村井長次の功績は大きく。長次亡き後、9歳と幼い当主を育て上げ、薫陶したのが長次正室で養母となった前田利家七女・千世姫で、これまた加賀藩では伝説的な女性で、結局、村井家を除外無視できず、最終的に村井家を加えて加賀八家老家が成立したのは貞享3年(1686年)の事でした。
ちなみに美濃野村藩は2代で無子断絶となっています。織田長孝の次男・三男はそれぞれ加賀藩・大聖寺藩に移り家臣となっています。

旅行日 2020.10.02/10.11
DSC_6792B.jpg

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 45

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

  • tor

    山全体が墓所のように感じますね。
    藩主を守るように
    利家の両輪と言われた二人も眠っているのですか。
    遺言により
    「死骸に鎧兜を着せ、立った状態で江戸を向いて葬られた」
    宮本武蔵も藩主の参勤交代を見守りたいとの遺言で
    豊後街道沿いに鎧を着て立ったまま街道を向いて葬られています。
    同じだなあと思いました。
    それと亀趺ですが
    菊池一族の最盛期の武光の墓もですよ。
    奥村助右衛門のオリジナルコースター良いですね。
    人気がでますね。
    最近は歴女も多くなりましたね。
    2020年10月16日 19:42
  • ミクミティ

    墓所で、これだけの記事が書けるというのが凄いですね。まだ前半ですね。とはいえ、加賀藩主の墓所ですから、戦国時代から江戸時代の歴史が詰まっていますよね。
    前田利家の両輪、村井長頼・奥村永福のことはあまりよく知りませんでした。こういう運命共同体とでもいうべき家臣がいたことが、利家を出世させたと思いますし、大藩の重鎮として家や藩を支えたことがうかがえます。その証が、墓所に残っているのですね。
    大名の墓所として、亀趺碑は特徴的ですね。私も会津でじっくり見た記憶があります。石柱も巨大ですよね。
    今回の記事でも、加賀藩においては重厚な家老家の存在が実に大きかったのだなと感じました。
    2020年10月16日 23:21
  • つとつと

    torさん
    まさに野田山は墓所の山なんですよ。頂上付近に加賀藩主墓所で周辺の尾根から山裾まで墓の集積地^^ 全部で数万基と云われています。
    加賀藩関係だけでなく、宗派も関係なくてけっこう有名人のお墓もあるんです。嫁さんなんかは墓地巡りなんて><と言いますが、これだけ多いと逆に変に慣れちゃいます^^;もちろん手は合わせてきてますが。。
    武装して埋葬というのは聞きますが、宮本武蔵もそうだったんですねえ^^亀趺、菊池武光は墓石にそのまま使用していると聞いていました。南朝は中国文化に興味が強かったようで、色々取り入れていたようですね。
    歴女が増えたのはここ10年ほどでしょうか。だれも来ないような山城や神社や寺院で、ばったり出くわして、こちらがドキッとする機会がたまにあります。
    2020年10月17日 10:50
  • つとつと

    ミクミティさん
    加賀藩主の墓所は16代を除けば全員揃ってますから、一基ずつ見て回ってもそれぞれに歴史があって興味は尽きませんねえ。。ただ、良いことだけ書いていればいいんですが、けっこう悪口も書いてますから。。怒られそうですが^^;
    加賀藩は藩主の対外的には存在感が強いですが、藩の成立や運営には大身の部下やそれをまとめる家老たちが動いていましたし、その中でもこの二人が加賀を代表する武将・重鎮と言えますね^^
    この二人が居なかったら利家もいなかったと思いますし、加賀藩自体まとまらなかったと思います。江戸期に出て来た亀趺碑は儒教色が強くて重厚で興味は尽きませんし、読んでみるといろいろ触発されます。
    2020年10月17日 11:02
  • yasuhiko

    墓所から金沢市街を眺め渡した
    景色が素晴らしいですね。永眠された後まで、
    ずっとこの町を見守り続けたいという
    藩主一族とその関係者の思いが伝わるようです。
    鬼門、裏鬼門、巽の方角などに、
    この町を守る宗教的、精神的な重要施設を
    置いてるのも、なるほどという気がしました。
    江戸の町も、同じような設計になってますよね。
    町を見下ろす場所という点が大切なんでしょうけど、
    お墓参りするのに、この坂は大変そうですね。
    2020年10月17日 12:44
  • つとつと

    yasuhikoさん
    旧金沢の城下町を望むなら、この場所が一番きれいに見える場所だと思います。卯辰山と野田山は加賀藩にとっては神聖な山だったと思わされますね。
    野田山の頂上部に墓所があるために、見晴らしは良いのですが、とにかく登りがきついんですよ^^;
    歩きだと健常者でもフウフウ云うほどです。実は一度目は主要藩主墓所だけを見て帰ったんですが、この記事を書き始めたら奥村永福の墓所を目指して再訪したんですが、欲が出て藩主墓所を全部廻ったんですが、こんなにきつかったかなあというほど、昇り降りで筋肉痛になりました。
    まあおかげで、保智姫墓所も見つけられてラッキーでした。
    2020年10月18日 19:09
  • 家ニスタ

    末森城は以前行ったことがあるんですが、ヤブだらけでほとんど遺構を見ることができず、残念な思いをしました。
    最近では、もっと整備されているでしょうか。
    成政関係の城では、今年おとずれた松根城が、非常によく整備され見学しやすく、楽しめました。
    2020年10月18日 23:05
  • つとつと

    家ニスタさん
    末森城には僕も10年以上前に登ったのが最期でしたが、本当に草木がぼうぼうでしたねえ^^;冬枯れを狙って登った時には何とか土塁の後が見られた位でした。
    末森城の建物類はけっこう立派なものだったそうで、金沢城の鶴丸門(利長休息所)や津幡の御旅屋(おたや、藩主の休息所)にされていたそうですが、明治に焼失してしまったそうです。面積の広い建物でしたから、結構整備されていたんだろうと推測はされるんですが。。
    松根城は国史跡に指定されて整備が進んでいるので、草刈りや道の整備が進んでいますから。。切山城に行こうと思っていたんですが、近辺にクマの出没が多くてちょっと断念しています^^;
    2020年10月19日 12:20
  • 藍上雄

    前田家の墓所石段を上って行く感じ、厳かで、凛とした空気伝わって来ます。でも、この石段足腰に堪えそうですね。やはり、金沢市街を一望できるのは、良いですね。遠くに見えるのは能都湾ですか?
    亀趺碑とても威厳が有りそう、漢文で刻まれているのも格式を感じます。
    金小札白糸素懸威胴丸具足、豪華ですね。流石、お金持ちの加賀藩だと思います。レプリカと成っていますが、本物は何処に有るのでしょうね。
    前田家に仕えた家系の墓も周辺に造られて居るのは流石だと思います。
    2020年10月19日 17:38
  • がにちゃん

    一族の結束の固さがうかがわれますね
    2020年10月19日 17:43
  • つとつと

    藍上雄さん
    この石段は200段ほどですが、木々に囲まれて雰囲気はありますよ。でも傾斜がきつくて足腰にはきついですねえ。。於松さんが登れなかったのはよく解ります。墓所は傾斜地にあるので、他にも階段や坂道が多いので、墓所を全部廻ると登ったり下りたりで本当にきついです。
    金小札白糸素懸威胴丸具足は前田利家が金沢入城にも使用したといわれて、百万石まつりでは利家役の俳優さんが着用して馬で闊歩しています。来年は見られるといいなあ^^
    実物の甲冑は袖・脛当てが失われたりしていますが、前田家の財団が所有していて、年に1.2回、美術館で展示されています。レプリカは豪華ですが実物も風合いがあって素晴らしいですよ。
    2020年10月20日 09:48
  • つとつと

    がにちゃんさん
    前田家は藩主一門の結束は高い一族だと思います。それでも、草創期は大名や豪族の寄せ集めで、多くの派閥争いや暗闘がありました。
    そんな中で利家の娘たちも、一人一人を見ると、時代に翻弄された人生の女性ばかりで、名前が売れている分苦労していて気の毒なほどです。
    2020年10月20日 09:52

最近のコメント

「雑記 前回の補足」- by つとつと (06/14)

「雑記 前回の補足」- by つとつと (06/14)

「金沢大学 フレスコ画」- by つとつと (06/14)

「雑記 前回の補足」- by tor (06/13)

「雑記 前回の補足」- by がにちゃん (06/13)