野田山③ 前田利久 前田利家夫妻 篠原弥助長重

158158093226352967408.jpg
加賀藩主墓所の初めの埋葬は、家祖・前田利家の長兄・利久からと云われています。
天正11年(1583年)に能登に入った前田利久は天正15年(1587年)8月に亡くなり、利久死去の報を聞いて驚き色を成した弟で家祖・利家が自ら「いづみ野迄野おくり」、を行い当時はまだ名前のなかった泉野の山頂に葬っています。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が亡くなると、遺言により野田山利久墓所の下段に葬らせています。この二人の埋葬と墓所の造営が野田山の藩主墓所及び野田山墓地の始まりになります。この後には3代利常の意向によって7名の墓所を同高所の一角に葬ったのが初期前田家墓所になります。

加賀藩の系譜(過去帳)によれば、草創期の前田一族の野田山被葬者(利久・利家は利家指示、蕭は利長、利長遥拝墓以降が利常指示)を羅列すると
名前 読み   院号  続柄   没年年月     西暦    享年 
利久 としひさ 真寂院 利家長兄 天正15年 8月 1587年  ?  (生年不詳)
利家 としいえ 高徳院 初代家祖 慶長 4年閏3月 1599年 62歳?(生年不詳)
蕭  しゅく  瑞雲院 利家次女 慶長 8年11月 1603年 41歳
            中川光重正室
利長 としなが 瑞龍院 利家嫡男 慶長19年 5月 1614年 50歳  2代拝墓
保智 ほち   清妙院 利家九女 慶長19年 8月 1614年 20歳
            松平信吉婚約者・篠原貞秀正室
幸  こう   春桂院 利家長女 元和 2年 4月 1616年 58歳 
            前田長種正室
松  まつ   芳春院 初代正室 元和 3年 7月 1617年 71歳
福  ふく   高源院 利家八女 元和 6年 7月 1620年 34歳?
            長好連正室(死別)・中川光忠正室(離婚)・前田七郎兵衛家祖
利貞 としさだ 江月院 利家六男 元和 6年 8月 1620年 23歳 前田備前家
永  えい   玉泉院 2代正室 元和 9年 2月 1623年 50歳
豪  ごう   樹正院 利家四女 寛永11年 5月 1634年 61歳
            宇喜多秀家正室
千世 ちよ   春香院 利家七女 寛永18年11月 1641年 62歳
            細川忠隆正室(離婚)・村井長次正室
158158093226352967408a.jpg
初期藩主墓所 
注釈※利家次女・蕭姫中川光重に嫁いでいるため、中川家の墓域に光重との合葬墓で、横山家や土佐守家のある中割地区石廟(未見)があるそうです。初期段階では前田利家親族には石廟を使用していたことが窺われます。中川家は2代光忠が出奔したために、光重の甥長勝が次女の婿養子で入っています。なお、長女(亀姫)は高野山の前田利家の墓を建立した神谷守孝(人持ち組頭12000石)に嫁いでいます。詳しくは → 馬坂(献珠寺) 中川光重・蕭姫夫妻墓所の決定は2代利長の指示と思われます。  

注釈※利家八女・福姫(高源院・松寿院?は加賀八家老家・長好連との間に菊姫を生していますが死別、中川光忠(光重弟)と婚姻後2年で光忠が加賀藩を出奔したために離婚。熱心なキリシタン信者で娘・菊姫と共に一代謹慎として能登七尾の本行寺に入れられ生涯を終えています。
波乱万丈で名跡を継いだのが前田七郎兵衛家で、今枝家から直玄(今枝直恒四男)が養子として入り名跡・前田姓を継いでいます。野田山葬送の過去帳から墓所内のどこか、初期藩主墓所付近に墓地があると思われますが、行方不明。
DSC_6868 保智姫墓所.JPG
保智姫石廟 崖上右に見えるのが前田利家墓所正面鳥居 保智姫は利家九女 夫の貞秀は父親が芳春院の実家筋で松の兄・長重を継ぐ執政・篠原一孝、母親は利家の遺言で許可された利家次弟佐脇良之の次女で利家夫妻養女・圓智院という家臣団屈指の純血種。貞秀は後に流刑地(不明)で死去、二人の子・岩松も14歳で逝去。記録の改竄の試みもあり加賀藩でも三人の死は陰謀と謎が渦巻いています。
注釈※利家九女・保智姫は幼児期は松平信吉(武田信吉、徳川家康五男)婚約者となっていましたが、婚姻前の8歳で信吉(20歳)が死去したために婚約解消、執政だった篠原一孝の嫡子(次男)・貞秀(一由)に嫁いでいます。18歳(?)で一子・岩松をもうけますが、産後の肥立ちが悪く芳春院の心配する手紙が残っています。彼女も又熱心なキリシタンでしたが、産後の健康も良くなかったようで棄教はせず篠原家内で信仰に傾倒していたと云われます。夫・貞秀は当主(15000石)を継いでいましたが翌年、福井藩主の松平忠直を殴ったとか、保智姫の入信を讒訴されたとか様々云われていますが、詳細は不明で流罪となりそのまま早世。更に翌年には後を追うように保智姫、貞秀の父一孝が死去。二人の間には一子・岩松が居ましたが14歳で早世。篠原出羽家は断絶しています。
DSC_6869.JPG
保智姫石廟 篠原別家12代一貞寄進灯籠
加賀藩では名門・篠原家(芳春院実家)の一門最大家で忠臣・篠原一孝保智姫を罪人の家にするのを嫌い、書類上で貞秀の痕跡を消し、一孝を正室一人にしたり、保智姫を一孝三男・一次(篠原別家3000石)の継室にしたり、岩松を養子にしたりと記録の改竄を試みていますが、別家初代の一次は岩松10歳で亡くなっており、母は一孝継室(青山良次の娘)で、利家遺言に嫁にすることが明記されています。そうそううまく行くものではありません。結局、篠原出羽家(1万250石)篠原別家(3千石)は断絶しています。

篠原一孝は生前に家を残すために弟・長次に2500石を分与で篠原本家(3000石のち6000石)とし、長子が早世していたため嫡子・貞秀篠原出羽家(15000石)、三男・一次(2000石)、四男・重一(1000石)に分家させていました。貞秀の死去により三男・一次岩松を後継として出羽家を相続していましたが、10年後の岩松成人前に亡くなっています。当主となった岩松がわずか14歳でなくなり、一孝の思い通りにはならず嗣子断絶となっています。
DSC_6870.JPG
保智姫石廟前 崩落した右灯篭
左灯籠は原型を留めています。篠原別家12代一貞が明治に寄進したものです。
断絶後、改めて篠原別家を継承したのが一孝四男・重一になります。篠原別家では家祖を篠原一孝として、初代一孝→貞秀(一由)→2代一次→岩松→3代重一として明治まで12代(実質14代)を数え、歴代では年寄中(家老)・若年寄を多く輩出しています。ちなみに流罪死去した貞秀の墓所は不明のままですが、高野山の利長墓の後ろに芳春院内として、六基の五輪塔が貞秀・保智夫妻、一孝、長重(一孝養父)他が永姫奉納としてあるそうです。
保智姫の石廟前の対の灯篭は12代一貞が奉納したものです(一基は崩壊)。初代一孝、12代一貞の通称は同じ勘六で、一孝が加賀藩初代執政で一貞が金沢藩最後の副知事(知事は旧藩主・義寧)ということで「加賀藩は勘六に始まり、勘六に終わる。」という言葉が残っています。

保智姫の墓所は、家祖であり父・利家の墓所正面の崖下に長く隠されるようにありました。最初の墓所図で利家墓所の東に珠姫墓所までつながる細道がありますが(現在は不通)、この道は江戸後期に造られた新道で、保智姫の石廟も築道当時に認識されていたようです。記録では12代斎広では保智姫200回忌、13代斎泰が250回忌に篠原別家当主に香典を贈っています。しかし、現在は訪れる人や保智姫を認識している人は少ないようです。

野田山墓地は野田山山頂から斜面や尾根を経て麓までにかけて現在も7~8万基の墓があると云われていますが、その始まりになったのが前述のとおり、前田利家が兄・利久を山頂に葬り、自身をその下段の地の崖上の眺望の良い場所に遺言で墓所を置いたのが始まりになります。その後、歴代藩主や生母・子女墓が築かれ、その後は家臣の墓所が配置され、江戸期中期には庶民にまで門戸が開かれ、17世紀後半には警戒された浄土真宗にも許可され、巨大な墓地群が構成されてきました。明治以降、昭和以降には、正室墓が築造され、キリスト教などにも墓地が許され、宗派や一族による様々な形態の墓石や歴史に名を遺す有名人の墓所を見ることができます。
*******************************************************
前田利久(真寂院)墓所 野田山山頂部に当たる場所になります。12代斎広が東方に山谷を越えた同高度に墓所を構えるまで野田山墓地の最高所でした。とはいえ、この墓所を頂点に野田山墓地が北面斜面に広がって行きました。
DSC_6816 前田利久墓所.JPG
尾張の荒子前田家は前田利春の代に前田城から庄内川を挟んだ2.4キロほど西方の地に荒子城を築いて、海東郡(現名古屋市中川区)を扼していた前田与十郎家(下之一色城・前田城後に蟹江城を支配下)から分家独立したと見られています。利家相続時で知行2千貫(約4000石)。発足時は織田家・佐久間家の与力の国人領主でした。ちなみに本家・前田与十郎家は小牧長久手の合戦で敗れるまで本願の地を守っており、合戦後にただ一人の生き残り前田長種(墓所は野町玉龍寺)が能登に亡命、利家の婿養子(長女・幸姫室)として家臣となり前田対馬守家を起こしています。
DSC_6817.JPG
前田利久墳墓 削平された平坦部に基壇部が広く取られており堀が巡らされています。規模や形状も後の調査で歴代藩主の墳墓の基準になっていました。

国人領主ということもあり荒子前田氏の生年や詳細ははっきりしていません。前田利春(利昌)には6人の男子が居ましたが、父・利春の生没年も不明だし、利家も諸説バラバラ、兄弟も見事に生年不明です。要は発足時は無名の存在だったと思われます。
荒子前田家兄弟順位   利久(?~1587)-利玄安勝(?~1594)-利家(1536又は1539?~1599)-良之(?~1573)-秀継(?~1586)

次男・利玄は若年で戦死、妻は佐久間信盛に再嫁して正栄を産んだと伝わりますが、別説で越前攻略に名が散見し能登で没したというものもあり詳細不明。
三男・安勝は娘を利久の養女として慶次を婿養子としていたことから、利久と行動を共にしていたと思われ、天正2年(1574年)の越前攻略から奥村永福と共に弟に仕え、七尾城代・小丸山城主と利家の金沢入城後は能登を任されていました。末森城の戦いでは息子・利好と共に荒山砦(城)を攻略しています。13500石。2代利好が子が無く45歳で逝去、利家の三男・知好が前田修理家(6000石)を継承しますが養子・知頼が大槻伝蔵の舅となり加賀騒動で息子・頼久と共に処分。
五男・良之は幼少期に前田家の格上(将軍家外様側衆)の佐脇家に婿養子となり、利家と同時期に織田信長の赤母衣衆の一員として将来を期待されていましたが、信長の勘気を受けて勘当、徳川家康に従軍して長篠の戦で戦死。長女は京極家家臣室で淀君の乳母・大局。利家に養育されていた娘(次女)が執政・篠原一孝に嫁ぎ、妻が前田利次の乳母という関係で男子は富山藩士となっています。
六男・秀継は利春晩年の子で、戦国デビューも越前府中からですが、利家の信頼が厚く利家に対して唯一意見を言える立場として、その後の活躍が顕著で能登領有後や対佐々戦では前戦司令官として活躍、津幡城今石動城木舟城と当時の前田家最大知行5万石を得ていました。この5万石は当時、利家嫡子の利長(松任3.8万石から越中三郡移封で逆転)を一旦上回っていました。天正地震で夫妻共に木舟城で圧死、息子も活躍しましたが名護屋城に向かう際に早世で断絶。30代半ば、40歳にはなっていないのではと推測されていますが、彼が順調に生き伸びていれば前田家の重鎮として家康の後塵を拝することはなかった。。
DSC_6818.JPG
前田利久は永禄3年(1560年)に、父親利春(利昌)の死去により尾張荒子城の城主となっています。しかし永禄12年(1569年)織田信長の命令で荒子城主を利家と交代させられ、一族や奥村永福などを連れて浪人生活を続けることに、、利家が初所領を得て越前府中に居城を移した際に奥村永福を始め家臣団や兄弟が復帰、利久も天正11年(1583年)利家と和解して能登に入っています。当時はすでに出家隠居(通称・蔵人)しており養子の慶次を当主(5000石)として、隠居(2000石)ながら、利家不在時には七尾城小丸山城金沢城と城代を努めて政務をみています。
利家は終生、兄への謝罪と後ろめたさを持っていたようで、和解後は隠居している兄を立てていたようです。
利家野田山山頂を利久墓所として、自身は遺言で兄の下段に葬ることを命じています。ちょうど利家の墳墓の頂上が利久の墓所入口の高さになります。この辺りの人情の機微が、前田利家に二人の兄を含め兄弟たちが必死に従った要因なんでしょうか。ちなみに次兄・安勝の墓所は七尾の長齢寺に父母の墓所と共にあり、弟秀継は小矢部市の高徳寺跡にあります。佐脇良之は不明

利久の子・慶次(利益)は、利久死後の天正18年(1590年)小田原戦役に参加後、北陸道惣職となった前田利家に従い、陸奥検田使を無事に努めていましたが、金沢帰郷後に加賀藩を出奔しています。加賀藩では行状改まらず出奔としていますが、利家よりも利長との仲が修復不能なほど険悪で出奔したと云われています。一男二女は妻の実家・安勝に保護されていましたが、子の正虎は利常に仕え加賀藩士(2000石)となりますが、能登に移って後歿、子が無く男系は絶え、長女は足軽頭(350石)・戸田家、次女は加賀藩預かりだった後北条家の北条氏邦(小田原後に能登(七尾)配流、慶長2年(1597年)金沢で没)の末子で、父の加賀での遺領を継いで加賀藩士(1000石)となった北条正三郎(采女)に嫁いでいますが、共に後代に無子断絶。利久・慶次の血は絶えています。
*****************************************************************************************
DSC_6804.JPG
前田利家(高徳院)案内板・手水鉢
利久の四弟・前田利家加賀前田家・初代当主になります。詳細についてはこれまでにも何度も書いていますから、今回は墓所前にある案内板を写。。ちょっとピンボケですが案内板をアップすると、手水鉢の向こうに五輪塔が見えますが、前回ご紹介した村井又兵衛長頼の墓塔になります。案内板は芳春院の正面と利家墓所の西側入口になりますが、長頼が二人の門番であり守護神的存在というのが解ります。
DSC_6805 前田利家墓所.JPG
前田利家(高徳院)墓所 西側門 通路に敷石があるので正式な入口になると思われます。加賀前田家では藩祖墓所として墓参や祭祀はここから入って行っていたと思われます。僕たちのように柵外から墓参すると横向きになってしまいます。
DSC_6806.JPG藩祖 前田利家公の墓
高徳院、名は犬千代、後に孫四郎、永禄五年(一五六二)には又左衛門と改める。天文七年(一五三八)尾張国荒子城主前田利春公の第四男として生まれた。
利家公は、十四歳の時に織田信長に仕え、生涯四十数回の戦いに参加、数々の武勲をあげていた。なかでも初陣の海津の戦い(一五五一)、桶狭間、長篠、賤ケ岳の戦いや末森城(現石川県押水町)の激戦(一五八四)は有名である。また、「槍の又左」と異名をとるほど槍の名手であったという。
DSC_6815 前田利家墓所.JPG
天正十三年(一五八五)九月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られている。秀吉の天下統一の大業は、利家公に負うところが多大であったといわれている。
大名としては、元亀元年(一五七〇)近江国長浜で一万石を領したのにはじまり、越前府中(福井県武生市)で三万三千石余、ついで能登一国を領有し、加賀国石川河北両郡を秀吉から増封され天正十一年(一五八三)四月二十五日(新暦六月十四日)に金沢城(当時は尾山城)に入城した。利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。この日を記念して毎年六月十四日には封国祭と百万石祭りが盛大に行われている。
慶長四年(一五九九)大阪城で逝去。享年六十二才。金沢の尾山神社は公を祭神として祀っている。歴史博物館 重要文化財 成巽閣
DSC_6864 前田利家墓所.JPG
前田利家(高徳院)墓所 北側正面口 参道が1mほどと狭いので目立たず、しかも急な崖に面しているので、なかなか人が立たないのですが、こちらが正式には正面になります。
DSC_6865.JPG
前田利家(高徳院)墳墓 
藩主墓所の中では三段ピラミッドの形態が芳春院と共によく解る美しさ。
10数年前のお話ですが、利家の墳墓の頂上にはカモシカがつがいで何年間か愛の巣を作っていました。時たまですが、カモシカが頭を覗かせていました。TV画像では観たことあるんですが、実物は見れずじまい。。どうなったんだろう。。頭の上に愛の巣が、利家さんも苦笑いしてたかも^^;
注釈:文が古いのと誤りを一部訂正。前田利家の生年は諸説あってはっきりしていません。また文中の天文7年は西暦1539年海津の戦いも1551年ではなく、織田信長家督継承後の天文21年(1552年)の一般には萱津(かやづ)の戦い、海津の戦いはこの戦いの別名で間違いではありません。末森城の住所は平成の合併で現在は宝達志水町。越前府中の領地では府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)に合わせて10万石で、正確には3.3万石で分け合ったというわけではありません。百万石祭りは以前は6月14日に固定していましたが、平成に入って、現在は14日では雨が多いので6月第一週金曜に祈願祭・土曜にパレード・日曜に金沢城で祭事となっています。今年は利家を陣内孝則、於松の方を壇蜜さんの予定でしたが中止。来年はどうなるんだろう。。
DSC_6866.JPG
前田利家(高徳院)墳墓 
ちょうど、この日に墳墓の草刈り整備が行われて、綺麗な形状が見られました。
DSC_6803 芳春院墓所.JPG
前田利家正室 於松(芳春院)墓所 
夫妻の墓所は隣り合っており、玄関門も芳春院の正面、利家は西口と共有で、子孫は開祖夫妻を同時に訪れ祭祀を行っていたと思われます。
前田利家の正室と言えば於松の方(芳春院)於松は天文16年(1547年)に海東郡沖ノ島(旧海部郡七宝町、現あま市七宝町)で誕生したと云われています。同じ沖ノ島の郷士・林常信が実父で、篠原家への養女という説もありますが、父親は織田信秀の弓頭・篠原一計(かずえ)で母親は長齢院(利家の母)の妹(竹野氏)と云われています。兄には篠原本家(篠原織部家)・篠原別家(篠原監物家)と篠原家祖・篠原弥助長重がいます。父・一計は天文18年もしくは天文19年(1550年)に戦死。母親が高畠直吉(高畠定吉の祖父)と再婚したために、母の姉・長齢院の嫁ぎ先・前田利春(利昌)に引き取られ養育されます。利家と松は一緒に育った従兄妹になるわけです。

後に加賀藩初の執政となる篠原一孝を輩出する篠原家。ちなみに篠原弥助長重には実子はありませんでしたが、高畠家(青木家とも)から養子・篠原一孝を長子とし、篠原出羽家から篠原別家へと繋げています。更に於松と利家、篠原長重の三者会談で利家が手をつけてしまった於松付侍女を生まれた男子ごと引き取り実子としています。それが後に篠原本家を継ぐ篠原長次になります。利家の末妹(津世姫)を娶り側近・前線隊長として活躍した高畠定吉の高畠家、利家次弟の佐脇良之の次女で利家・松夫婦に養育された円智院を正室にし、加賀藩草創期を支えた執政・篠原一孝を輩出した篠原家は、二重三重の意味で於松の実家筋になるわけで、利家にとっても母方の実家筋になるわけです。

利家と松が結婚したのは永禄元年(1558年)松は11歳利家は20歳前後だったと思われます。二人の間には翌年長女・幸姫(前田長種室)が生まれ、3年後には嫡子・利長が誕生しています。その後、松が32歳で次男・利政を産むまでの21年間で11人の実子をもうけています。実際には千世姫は利家が外で作った子を松の実子にした事実もありますが、松が閨房を離れてからも利家は10人の子供を作っています。おかげで、利家の跡を継いだ利長・利政・利常兄弟の歳の差が16歳ずつと親子孫ほどにはなれ、三人の関係は兄弟よりも親子と見ないと情勢を見間違う錯覚をもたらしてしまいます。

戦国期は子だくさんとはいえ、一夫婦の実子とされる11人(二男子九女子)は戦国大名夫婦では伊達晴宗(政宗の祖父)・久保姫夫婦と並ぶタイ記録。ちなみ伊達夫婦の馴れ初めもぶっ飛んでいます。元々久保姫(岩城重隆の娘)は結城家と婚約が成されていたのですが、奥州一の美女と云われた久保姫20歳に伊達晴宗22歳が横恋慕。結城家への婚礼行列を襲って強奪、無理やり自分の花嫁にしています。岩城家には二人に男子が生まれたら後継男子のいない重隆に養子を入れる約束で事後承諾で和睦しています。久保姫にとってはとんでもないことで婿が入れ替わったのですが、その後の夫婦仲は良かったようで、約束通り長子・親隆は岩城家に次期当主として養子に入っています。次男が輝宗で伊達政宗の父になります。二人には六男五女で利家夫妻と並ぶタイ記録ですが、前田家では女性陣の活躍が目立ちますが、伊達家の男子は三男留守政景、四男石川昭光、五男国府(伊達)盛重、六男杉目(伊達)直宗とその後の伊達家を支えた重臣になります。二人は37年間晴宗の死まで連れ添っています。

話が伊達家に行ってしまいましたが、於松は前田利春・長齢院夫妻に養育されたこともあり、前田利家とは夫婦ながら兄妹的存在で、父方の実家筋と言える前田家の兄弟たちも親しい仲、家内の当主夫人の地位は非常に高く、加賀前田家では男女の当主が並び立っていたと云えます。
結婚には二人が仲人にもなり、結婚後には味噌醤油の貸し借りをするほど仲良しだった羽柴秀吉(豊臣秀吉)夫妻にも言えるのですが、躍進の内側には奥向きや子飼いの武将を育て上げた於松や寧々の努力と献身が大きく働いていました。二人に言えることは旦那の周囲を固める重臣たちがこの子飼いの武将たちで、旦那の死後に良し悪しは別にして自分の方針に重臣たちが素直に従った所にあります。

これは運不運だともいえますが、松が14歳で跡継ぎの利長を産みながら、長い間次男子に恵まれなかったのですが、30歳で次男・利政を得た間、16年間、前田利家は外に男子を作らず(実は。。はありますが。。)、直系の跡継ぎ候補二人を残せたのが大きかった。。対して豊臣秀吉は正室との間に子を生せなかったとはいえ、養子・秀次を後継としながら、鶴松・秀頼が出来ると秀次を排斥しています。これでは人は離れますし、この事件の実害を受けた黒田・細川・伊達・最上のその後の行動を見れば一目です。。本来、側室からの跡継ぎ候補は正室に預けて実子とするものです。ところが秀吉は淀君に秀頼を任せ正室扱いで正室・寧々を遠ざけています。これでは自分の後に秀頼・淀君派閥と子飼い武将の北政所派閥の分離の火種を残すようなもので、実際、豊臣家の致命傷になってしまっています。

北政所(寧々)・芳春院(於松)ともに徳川家康に肩入れして、多くの豊臣恩顧の武将や自家を導いており、後には時代を見る、情勢判断があった優れていたと云われていますが、あくまで勝ち馬に乗っただけともいえます。二人には申し訳ありませんが、足軽や国人領主の妻として家を残そうという家妻感覚は解りますが、結局は米経済中心主義で田舎庄屋的な保守の徳川家康に家を導いたと云えます。日本を幕末に200年は世界から遅らせてしまったのはこの二人の女性の責任だったとも云えます。

二人に共通するのは戦国を生き抜いてきた家康と、経験不足な利長・秀頼子飼いの武将たちを過小評価しすぎたところにあります。現状最強の保守勢力にばかり眼がいき、子供たちの将来性に目を背けてしまっていました。よく見ていれば、家康が年長で現状で最強とはいえ、徳川の次代を担う秀忠や秀康もまだまだ育ち切っておらず欠点だらけ、大きな違いはなかったのですから。。北政所の失敗は淀殿に遠慮して秀頼を手放し、子飼いの武断派と官僚の対立を招き、自身が家康の後ろ盾に祭り上げられ武断派を敵に味方させる大失敗にあります。また芳春院も初代を失い二代目として家臣団の分裂を招き、苦労する利長を見放すような、自身を江戸人質などは愚策だったと僕は思います。冷たい言い方ですが、誰を置いてもこの二人は家臣団を2代目に一致協力でまとめる力があったのに、それを肝心な所で放棄したのは現状ばかりを見過ぎた成上がりの妻としての狭窄さにあったと思います。ただ、芳春院が加賀藩を勝ち馬に載せたのは確かで、利常以降の国力保持と対幕府政策の巧みさが融合したのも事実です。

とはいえ、於松の夫・利家や家族を思う強さは江戸屋敷にあっても強いものがありました。
京都紫野の大徳寺塔頭・芳春院があります。この寺院は慶長12年(1607年)に芳春院(於松)が師事していた春野宗園の縁で、甥で弟子の玉室宗珀に依頼して翌年開基して慶長15年に伽藍を整備しています。
この寺院には、歴史に埋もれ日陰の存在になった二人の実子の墓があります。慶長10年(1605年)に金沢で亡くなった三女・摩阿姫(加賀殿、豊臣秀吉側室、万里小路充房側室(共に離別)享年34歳)、寛永10年(1633年)に京都で亡くなった次男・利政(元能登太守、享年55歳)。
摩阿姫は秀吉とは醍醐の花見後に申し出て離縁、万里小路充房と再婚して男子(2~7歳?)を産み離別して金沢に戻っていました。男子は母の死後に高岡の利長に召し出されて5000石家臣で前田利忠となっていました(次々代寛文年間に嗣子断絶)。前田利政芳春院が奔走した大名(10万石)復帰話を拒否して京都の商家・角倉家(長女の嫁ぎ先)で死去しています。嫡子・直之芳春院に養育され後に2000石で利長に仕え前田利家・松の男子直系の一門衆で前田土佐守家(加賀八家老家筆頭)を起こしています。
135292095733513116993_19231a5281-thumbnail2.jpg
2007.08.19撮影
芳春院 石川県輪島市門前
於松の院名・芳春院を冠する寺院は大徳寺とは別に能登輪島の門前にもあります。総持寺祖院の山門前にある寺院です。
天正年間、前田利家が能登領有後に、利家・松夫妻は能登の有力寺院として曹洞宗本山だった総持寺に寺領400石を寄進しています。その後、金沢に前田家が移った後も、曹洞宗・総持寺は前田家の菩提寺になる宝円寺天徳院の移転や創建に大きく関与しています。
その伝手もあり芳春院(於松)は、利家死去の翌年、慶長5年(1600年)に寺領30石を寄進、象山徐芸(金沢宝円寺初代住職・利家葬儀導師)に境内内に伽藍を建立して利家と自身の位牌を納めて私的な菩提寺としています。於松は芳春院としてすでに戒名も用意していたことになります。後に象山は寺院名を芳春院としています。
135292110444713117014_1906846cd9-thumbnail2.jpg
2007.08.19撮影 総持寺祖院山門
撮影時は能登沖地震直後で、山門にも大きな被害を受けひび割れや傾きがありました。昨年まで曳山工法で場所をずらして修理を施されていました。現在は完成して元位置に戻っています。 
利家12回忌には現在も総持寺祖院の顔となる山門を芳春院を建立者(棟札あり)として寄進しています。利家・松夫妻にとっては初めての領国であり、六女菊姫(7歳で早世、近江西教寺に墓所、金沢西方寺が菩提寺)が豊臣秀吉養女で近江長浜、利長が越前府中にいたものの、子供たち全員が揃っており、後には利久親子・前田長種などが能登に入国しており一族が勢揃いしており、一番充実した思い入れの強い地だったことが窺われます。輪島門前の総持寺境内地・芳春院は明治の火災で焼失、昭和7年(1932年)に再建された山門前の現在地に再建されています。
ちなみに象山徐芸は利長が開創建立した野田宝円寺(後の桃雲寺)の初代住職を務めています。

於松の兄とされる篠原弥助長重は表に立つような人ではありませんでしたが、前田利家・松夫妻にとっては身内(実家当主)として良き相談相手でした。息子となった一孝にも逸話には事欠きませんが、逸話や功績は父・長重の存在が大きかったと云えます。前田家の成長における戦略はもちろん家内の秘事に係わる機会が多かったと云われています。その中では何といっても前田利家が家内の侍女に手を出した事件が有名です。
2月に書いた中でも紹介していますが、抜粋すると。。。

江戸幕府の大奥以上に奥向きの規律の厳しかった加賀前田家では、表向きの殿様が利家なら、奥向きの殿様が芳春院(於松)でした。利家は、単に家臣の娘に手を出したのではなく、同格の殿様の直属の家来に手を出したことになるのです。これはドラマのような言い訳を言えるようなものではなく、下手をすれば、利家と千代保は二人纏めて、於松にたたっ斬られても文句は言えない状態でした。
利家のこの危険な浮気行為は初犯ではなく二度目でした。懲りてなかったんですね。。
初犯の時には相手は不明ですが、相手に男女の双子を産ませていました。この時は相当のすったもんだのあげく、最終的に利家と於松、於松の実家筋である篠原長重(於松の実兄)の三者会談が行われています。
男の子は篠原長重の実子(次男・長次)として引き取り、女の子は利家と於松の実子(七女・千世)とすると決め、内密で処置しています。長重の長子・一孝は有能で、すでに独立していて篠原出羽守家17000石を構えていました。後に長次は長重の家督を継いで篠原織部家(篠原本家)6000石を相続、明治まで繋いでいます。篠原家墓所は芳春院生家として、藩主墓所域の北面下段にありますが、真新しい墓碑標に芳春院生家はともかく、高徳院実子などとでかでかと表記しています。江戸期は公然の秘密とされ、公にしたのは近年になってからです。

僕も今回これをまた書くのかと調べ直していたらおまけがありました。利家が手を出した女性(侍女)の行方ですが。。。
篠原長重はこの時に利家が手を出した妊娠中の侍女を篠原家に引き取り長重自身の正室にしていたそうです。長重にはそれまで妻の記録がなく子もなかったために窮余の策だったようです。当時長重は60歳の老齢で正室を迎え、そして誕生した双子の男子を「将来の禍根になる」として長次として実子(次男)とし、もう一人の女の子・千世姫を於松の実子(七女)としています。江戸期には公然の秘密として、公になったのは明治以降になります。
DSC_6897.JPG
篠原弥助長重の供養碑「篠原弥助長重 千字碑」 
宝永元年(1704年)に建立されたと云われています。石材は加賀藩留石の青戸室石。野田山墓所では「篠原弥助の墓」としていますが、本墓は麓の芳春院建立の利家遥拝墓のある桃雲寺。篠原本家三代(長重・長次・長経)の遺徳碑になっています。裏面に顕彰文1500字、側面に正室の法名が刻まれており長重の正室名と思われるのは🔲性院🔲榮尚🔲盛大姉、没年も十月以外読めず。。
篠原長重は前田家内の暗部や秘密を知る人物ですが、その分自身の栄達や表に立つことは望まない影に徹した人物で、、自身の所領4000石でしたが、5000石の加増話が来た際には断りつつ「今後、加増や褒賞がある場合は、すべて一孝に譲り渡して欲しい。」、この時の加増は言葉通り一孝に与えられています。一孝は父長重を尊敬していたようで前田家内の闇を知る篠原の家として口が堅く、高山右近護送の扱いでも信義に厚い人物として藩内では武士の鑑と呼ばれており、主君利家からも「若いながら堅口なる頑固者」と遺言に事細かに書かれています。篠原出羽家(17000石)を建てて独立しています。後にはいったん断絶で四男が継いだ篠原別家(3000石)が復活しています。
長重は跡を継いだ長次は加増で6000石となった篠原本家となっています。生前から兄の家として目上への対応を取れと指示し、長次の穏やかで誠実な言動もあって、子孫にも教示され本家と別家は対等な立場として続いてきました。
DSC_6898.JPG
篠原弥助長重千字碑 側面
芳春院(於松)にとってはわだかまりの対象だったはずの長次・千世弟姉に対して、芳春院が江戸屋敷から村井長次(村井家2代・千世姫夫)に宛てた手紙が前田土佐守家資料館に残されています。織部(篠原長次)のこと、良い縁談でもあれば、出羽(篠原一孝)と相談して世話をしてやってください。いくらでも取り立ててやってください。肥文字(前田肥前守利長)へも私からよく言っておきます
芳春院が一番親しく接し、心配りを置き、江戸からの書簡が最も残したのは、数多い子供たちの中で千世姫が最多というのが興味深い所です。

ちなみに篠原長次の正室は高岡の前田利長家臣で奏者番・奥村長兵衛(700石)の娘が嫁いでいます。長次の影の経歴を考えれば低い身分とも見られます。長次は9歳で利長に100石で出仕、利長が2代当主就任で500石。年齢予測や嫡子・長経の誕生から500石の段階で嫁取りをしたと思われます。その後、大阪の役両陣に参して冬に真田軍から首級を挙げ、夏でも槍功を記録。兄・一孝の死で2400石を分与で3000石、篠原本家を継ぎます。
前田利家33回忌で法事奉行を努め実績を積んでいましたが、この後に初めての不祥事で同僚(石野讃岐)と諍いを起こして、河北郡田之島(現金沢市田島町、医王山麓旧医王山村)に蟄居流罪を喰らっています。大阪陣で長次の活躍を見ていた紀州藩・徳川頼宣から6000石での勧誘を受けますが「「御厚志、感激に堪えませんが、落ちぶれようと父母の国を去ろうとは思いません」と断り、この話を伝え聞いた利常が僅か3カ月で謹慎を解き、3000石を加増6000石として側近衆として、兄弟と呼んで厚遇しています。これ以降、長次の言動は前述のように改めら加賀藩の模範とされ篠原本家を幕末まで繋ぐことになります。
DSC_6899.JPG
篠原弥助長重 千字碑 裏面
右の石は供養碑上部の笠石になります。
長重の墓所は野田山の墓守寺だった桃雲寺長次は藩主墓所下の中割地区の最上段の篠原家墓所にありますが野田山藩主墓所に向かう表参道の石段(明治以降墓所に向かう脇道の辺り)の途中に宝永元年(1704年)に建立された戸室石製の供養碑「篠原弥助長重 千字碑」があります。1500字に及ぶ篠原本家三代(長重・長次・長経)の遺徳碑(供養碑)が表参道にあることが、篠原家の加賀藩での重さを表しています。供養碑は長い年月で笠部が崩落していますが、碑の文字は摩耗で読めませんし、2/3が長重の事蹟と云われていますが、どこかに文の資料があると思うのでいつか全文を見たいと思っていますが、その中では長次芳春院縁故とされているそうです。

文が何度も重複してしまいましたが、篠原家は加賀藩成立時に篠原一孝が最初の執政を努め人持組頭を努め、篠原出羽家17000石を有していましたが、次代の貞秀が派閥抗争に巻き込まれて流罪死去、次々代の岩松が八家老家成立直前に14歳で急死で断絶。加賀八家老家にはなりませんでしたが、出羽分家(1000石後、2000石加増)の重一(一孝四男)が再興した篠原別家からは年寄中・若年寄(家老職)を多く輩出しています。加賀藩・金沢藩最後の大参事(副知事)として活躍し、保智姫石廟前の灯篭を寄進したのも篠原別家の12代・一貞になります。

旅行日 2020.10.02 10.11 


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 43

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

  • yasuhiko

    加賀前田家の墓所巡り、墓の主の名前を
    拾うだけでも、歴史の教科書を紐解くような
    興味の尽きないものがありますね。
    その中で、キリスト教の信仰を貫いたという
    保智姫の石廟に、私は心惹かれるものを感じました。
    夫が流罪になったというのも、自身の信仰と
    何か関係があったのかどうか。忘れ去られたように
    たたずむその姿に、色々と想像が膨らみます。
    2020年10月26日 12:34
  • がにちゃん

    側室当たり前の時代に やるじゃん於松さんですね
    頭上がらなかったんだ でも 於松さんは千世姫をかわいがってられたようですね 子供に罪はない・・・子供の多いことも一族繁栄のための財産でしょうから
    伊達家のお墓群もすごいと思いましたが、前田家はそんなものではないですね 初代夫婦の人徳でしょうか
    2020年10月26日 14:28
  • つとつと

    yasuhikoさん
    今回久しぶりに2週に分けて藩主墓所周辺を巡ってきましたが、改めて歴史の大きな事件や出来事に由来や関わった人物に出会ってきました。藩主墓所内や野田山墓地にはまだまだ知っていながら、という人物が眠っているようです。
    前田家内でキリスト教に殉じた人では、福姫と保智姫が挙げられるんですが、石廟はいつも遠目に見えていたんですが、今回は崖を滑り降りて初めて前に立ちました。江戸期の初めから後期までこんな隠された場所にあったというのは興味が尽きません。高山右近が加賀退去した半年後に亡くなっており、キリスト教を保護した利長も同年、そして夫は翌年、現在は禁教令の中で讒訴されたのが有力です。
    福姫も七尾本行寺で娘と共に一代謹慎で亡くなっていますが、過去帳に名があるので宗教とは関係なく家族とともに野田山に葬られていることにはホッとします。
    2020年10月27日 08:58
  • つとつと

    がにちゃんさん
    於松さんは旦那の利家とは同格ともいえる殿様扱い^^;というより、ある意味では利家よりも格上だったかも。。利家は兄弟や親族には非常に大事に対処していました。於松も子どもたちや各家庭の面倒をこまめに見ていたようで、やはり加賀藩内の初代の結束は二人の人徳だと思います。特に松さんは自身や利家の子だけでなく、家臣の子供たちの世話もよく見ていたようですよ。
    まあ、その分、息子の利長や利常は、派閥化してしまいがちな家臣団の対処には苦労したようです。
    2020年10月27日 09:08
  • tor

    最初に配置図があれば
    おおよその位置関係がつかめますね。
    そうそうたる歴代藩主さんたちですね。
    こちらをお参りするだけで
    加賀藩の歴史が分かりそうです。
    墳墓も特徴があって管理も行き届いていますね。
    大河ドラマ「利家とまつ」を思い出しました。
    2020年10月27日 19:25
  • ミクミティ

    今回も読みごたえがありました。凄いです。
    前田家の歴史を紐解く物語、壮大だと思いました。
    野田山という場所を選んだこと、利家が利久を立てていたこと、墳墓の形を決めたこと、それぞれに当時の前田家の強い思いが伝わって来るようですね。やはりここは前田家の聖地ですね。
    芳春院にしても、北政所にしても、旦那を盛り立て、子飼いの家臣を引き寄せて家を盛り立てる人間的魅力と知性を十分に持っていたと思います。厳しいご指摘もありましたが、時代の変化と安定を見据えた判断だったのではないかと思ったりもします。
    そういうことを想像するのが楽しいですね。
    2020年10月27日 21:22
  • つとつと

    torさん
    墓所や墓地を歩いていると、墓石や墓標が古いものは風化や摩耗で読めないものが多くて、配置図や地図があると便利ですねえ。。野田山墓地などは下手をすると自分の墓地も解らないくらいに混雑していますから。。たまたまなんですが二度目に行ったときには墓地の草刈り作業をしていて、クマの出没もあまり気にせずに歩けました。なんといっても墳墓も見やすくなってました。
    それにしても改めて歩いてみると、昇り降りや広さにはいい運動でした^^;
    2020年10月28日 11:11
  • つとつと

    ミクミティさん
    まだ前田家墓所の発掘や調査が行われていなかった頃は墳墓の大きさがバラバラに見えて、藩主の力関係とか後代になると小さくなるのかなどと思っていたんですが、実際には江戸期を通じて大きさや形、堀などほとんど変更していないのには驚かされました。まさに前田家の想いが籠った場所ですね。
    次回にも続きを書こうと思っていたんですが、利家や秀吉が自由に思い通りに励めたのは、松と寧々の存在が大きかったのだと思います。まさに内助の功で周りの人たちが団結していたんですから、、ただ前田家が北陸で加賀藩を確立する前段階では人口が半減するほどの抵抗の下地があったことを考えると、逃げの方針は何をいまさらと思った住民が多かったのも確かだと思います。
    墓所内を歩くとその時々の姿が目に浮かんで色々な思いが浮かびますね^^
    2020年10月28日 11:22
  • 藍上雄-

     野田山、一族の墓所として宗派を問わず埋葬されているのは、とても興味が有ります。こういう場所造るだけでもすごい事だと思います。史跡になっているのですね。
     埋葬されている方々は、それぞれ歴史の中で大なり小なりの役割を果たしてこられた方々ですので、調べ始める大変な事に成りそうです。
    2020年11月03日 19:51
  • つとつと

    藍上雄さん
    前田家墓所は野田山山頂で、その周りの山裾に家臣団、そして一般民衆にまで墓地が解放されたので、数は正確には把握されていないのですが7.8万基はあると云われています。現代のもまだまだ広がってますから、一体幾つあるんだろうと。。見たら驚くと思いますよ。。
    宗派は問わずというのは、全国でも珍しい存在だと思いますよ。その墓所にはだれもが知る人物から無名の方まで、さまざまな階層に広がっていて、明治以降に詳細を調べようと挑んだ人が何人もいるんですが、とても調べきれずに終わっているようです。
    2020年11月03日 22:11
  • 家ニスタ

    利家が兄に気を使っていたというのは、水戸光圀が兄に気を使い、兄の子を養嗣子にしていたのを思い出しますね。
    賤ヶ岳のとき勝家方だったのに、ほとんど敵前逃亡といっていいやり方で戦線離脱しますよね。
    それなのに「裏切り」といった悪評があまり立っていないのは、やはり人徳のおかげなのでしょうか。
    ピラミッド型の墓がこうした形で並んでいる図を見ると、なんだかエジプトか中米の遺跡の地図を見ているような気分になりますね。
    2020年11月03日 23:14
  • つとつと

    家ニスタさん
    そのとおりですね。やさしさと真っ正直が人に伝わるようです。その辺りが周りの人たちが支えた理由になるんでしょうね。利家の行動を見ていると究極の選択の際には中途半端などっちつかずになってしまうようです。なのに、誰からも恨まれない不思議な人ですね。秀吉とは家族ぐるみの付き合いの親友、利家が織田家を離れた時も周りから消えていく友人たちの中で森可成と共に親身につきあってくれた勝家。。それがあの選択になったようです。なのに勝家は府中城に立ち寄って文句どころか励ましています。この辺りは不思議な人徳なのかも。。
    前田家の墳墓の形は、利家から始まっているんですが、何故にこんな形態になったのかは、正直解らないですねえ^^;本当に異空間に来たような雰囲気があります。
    2020年11月04日 08:31

最近のコメント

「江馬氏館跡庭園・下館跡」- by つとつと (11/25)

「江馬氏館跡庭園・下館跡」- by アルクノ (11/25)

「伝燈寺 富樫守護家・終焉の地」- by つとつと (11/25)

「江馬氏館跡庭園・下館跡」- by つとつと (11/23)

「江馬氏館跡庭園・下館跡」- by 藍上雄 (11/23)