江馬氏館跡庭園・下館跡

飛騨はまさに山の国で戦国期には目安となる米の石高では一国で5万石に満たない国でした。しかし、山国ならではの豊富な木材と鉱山があり、白川郷の内ケ嶋氏などは豊富な金の産出で室町期の経済・文化を動かしていました。一例では足利義満の金閣寺に使われた金は内ケ嶋氏の供出したものでした。富山の役で佐々成政に味方した飛騨勢力を金森長近に討滅させながら、豊臣秀吉が黄金採掘と財力を見込んで唯一許した一族でした。高原郷の江馬氏もさらに古くから知られた神岡鉱山を持っていて大きな潜在能力を持っていました。
しかし前者は、前述の許しを得た祝いの宴会の夜に、天正地震で城も人も痕跡も残さずに一夜で消滅 2010.07.18 幻の帰雲城 帰雲城~長滝
後者は戦乱の中で上杉・武田・織田と巨大勢力に翻弄され消えていますが、発掘された屋敷跡が文化的に高度なことから、それなりの実力が見直されてきています。
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東町城址から北方向の神岡町風景
画像をアップして貰うと解り易いですが、中央を流れるのが高原川。中央の西里橋を渡ると現在の神岡町の中心街になります。
奥の右側の禿山が神岡鉱山の中心地で神岡鉱業があります。その向こうの水色の船津橋を渡ると国道41号線(飛騨街道)に合流します。飛騨街道は山裾にガードレールが見えますが左が古川・高山、右に富山となります。高原川による河岸段丘が天然の堀と城壁になっているのが解ります。
飛騨国司として派遣された姉小路家小島家・古川家・向家がそれぞれ宗家を主張、小島姉小路家が本来の本家と云われています。)が土着した国司大名。室町幕府の四識(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)の京極氏が幕府からの守護となっていました。ちなみに四識は3代将軍・足利義満が制定したもので、三管領家(細川氏・斯波氏・畠山氏)に次ぐ家格として幕府宿老になる家柄になります。
姉小路家のルーツは村上・冷泉天皇期に活躍した左大臣、藤原北家の藤原師尹の次男・済時(なりとき、大納言)が京都・姉小路に居を構えた所から子孫が姉小路を名乗ったと云われ、建武の親政で姉小路高基飛騨国司として下向したところから始まります。高基の長子・綱元が小島家、尹綱が古川家、三男向ノ綱が向家のそれぞれの家を建てたと云われます。戦国期の位階や冠位を僭称する大名たちの中で列記とした位階と官位を持った公家出身、国司の戦国大名でした。

南北両朝が国内を2分して戦乱に明け暮れた南北朝時代。建武3年(延元元年、1337年)南北朝が出来てから半世紀以上が経った元中9年(明徳3年、1392年)、足利義満(南朝から北朝に移った楠木正儀の功績とも)による明徳の和約によって両朝が合一した際。朝廷では南朝4代・後亀山天皇から北朝6代・後小松天皇に譲位し、10年程で後小松退位後は南朝系の天皇が就任するという鎌倉期後期の後深草・亀山の天皇の交互交代の蒸し返しの条件でした。また三種の神器はそのまま南朝が保持するという条件でした。
しかし、足利義満はこの約束を無視して強引に北朝系天皇の継続をして一朝合一を策し、南朝系は奥吉野や十津川に籠って敵対関係になっていました。南朝の抵抗はそれなりに激しかったものの、往時の勢いは失って神器を持ったまま隠れ住んだ状態でした。長禄元年(1457年)赤松正則による南朝後胤の強殺と三種の神器を強奪した長禄の変で南朝は息の根を断たれます。
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東町城址からの西側風景
神岡町は住宅の屋根に瓦葺がほとんどなくカラー金属板葺がカラフルですねえ@@豪雪地帯では金属板葺がほとんど、道路や隣家・歩行者を守るために滑り落ちないように屋根に雪を残すので、瓦葺では圧雪が重くて家が潰れちゃいます。柱も鉄骨造か太平洋側の人が驚くような太い木柱・木骨になります。
南北朝合一後の旧南北朝の後始末による混乱は飛騨の覇権にも及んでいます。合一条件では小島姉小路家・師言在京として幕府に奉仕し、仲介を向姉小路家・向ノ綱古川姉小路家・尹綱飛騨国司となっていました。しかし室町幕府は小島家を国司扱いとして優遇して古川家を冷遇したのです。更に山科家領(荘園)の古川家による押領問題が重なります。この横領問題は長期化し、度々、停止・返還命令が古川姉小路尹綱に下されています。
怒った古川尹綱は挙兵し小島家(小島城)・向家(向小島城)を攻めます。これに対して幕府は守護の8代京極高光(有名な佐々木道誉(京極高氏)は5代)に古川尹綱追討命令が出されますが、高光は病中で弟・高数を派遣、更に越前から甲斐・朝倉氏(共に当時は斯波氏の被官)、信濃守護・小笠原氏が幕命を受けて総勢5000が派軍されます。応永18年(1411年)飛騨の乱と呼ばれます。
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江馬氏館跡 北東端の紅葉
飛騨の乱国司・古川尹綱は討たれ乱が収束し、国司は小島師言姉小路師言として就任、江北を地盤にする京極家からは三木氏が派遣され政務をみること(守護代)になります。北飛騨では国人領主の江馬氏・松ヶ嶋氏(白川郷)が台頭、江馬氏は古川家に代わって山科家領を押領して勢力を伸ばしています。この三家(姉小路(あねのこうじ)・三木(みつき)・江馬(えま))がこの後に飛騨の覇権をかけて争うことになります。

また師言尹綱の遺児・昌家を引取り、嫡子と兄弟同然として育て古川家を再興させています。数代後に、古川家が大きくなって小島家を凌駕して、古川家に小島家が臣従する形で宗家が変わっています。向家は5代で断絶し古川家から養子が出ていますが2代で断絶。
姉小路家は古川昌家から5代後・済俊が死去後、混乱状態で断絶します。この混乱に乗じて姉小路家を僭称したのが守護代・三木良頼で、朝廷・幕府に名跡継承を認めさせ後には小島家も臣従させて姉小路氏(本来の姉小路家との区別で呼ばれています)としています。
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三星一文字紋の幟
江馬氏の軍旗の紋と言われています。明治に発行された斐太後風土記の挿絵に描かれた八日町の戦いの江馬輝盛の軍旗として描かれていたのが拠り所。他では江馬氏に係わる図画がなく正確には江馬氏の紋所は判明していません。飛騨市ではこの紋を最有力にして、他に江馬氏が開基した瑞岸寺の社紋「浮線蝶(ふせんちょう)紋」、北条氏の三つ鱗紋を候補に挙げています。この二つの紋は後述の出自からで平家・北条氏の代表紋。紋所さえも不明の江馬氏は謎の一族ともいえます。
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江馬氏は山国の飛騨でもさらに山間の神岡や城宝などの高原郷を地盤にした国人領主から発展した上に、戦国末期に滅亡したためにはっきりした詳細は不明な点が多い一族になります。そもそも、江馬氏館跡に林立する旗印の紋所「三星一文字」もはっきり確定しているわけではなく、出自も業績も謎や不明の多い一族になります。
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江馬氏祖 江馬輝経
肖像の所蔵・円城寺は下館跡の東南隣地にある曹洞宗寺院。本城の高原諏訪城の搦め手の登口になります。輝経の開基建立と云われ、輝経の墓もあるそうです。江馬氏滅亡後、金森家2代可重の室・桂松院が再興したそうです。桂松院は江馬輝盛の娘と云われています。
江戸時代に30年間飛騨奉行だった長谷川忠崇が退任後に著した飛州志では、系図の中で初代・江馬輝経・・・「平経盛(平清盛三弟)の庶子、伊豆で北条時政に養育され、その土地名により江馬小四郎」「江馬家祖」としています。
しかし、鎌倉幕府2代執権・北条義時が兄・宗時が石橋山で戦死し嫡子(17歳)になるまで名乗っていた名前が同じ江馬小四郎(分家扱?)、義時の次弟・時房の後裔に江馬姓継承して名乗った人物がいるそうですが常陸流罪で行方不明。
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江馬氏館跡公園 西北入口 江馬氏館跡案内図
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北条の流れを汲んでいるのかは不明ですが、鎌倉期初頭に江馬姓を名乗って飛騨高原郷に入部していますから伊豆の江馬の庄に因む一族なのは少なくとも確かなようです。
初出となる伝書では、康永元年(1342年)天龍寺造営式典で小侍所の武士として京極高氏(佐々木道誉)の馬を引いたと見られ、京極守護家の配下或いは支配下として仕えていたと見られます。その後に勢力を増して北飛騨の有力勢力にのし上がったと見られます。

ちなみに飛州志を著した長谷川忠崇(1694~1777(1728~1745在任))は、歴代飛騨奉行(代官)が江戸在住の中では現地(高山陣屋)に赴任在住した最初の人物で、代官業務の傍ら飛騨の史跡の保護と啓蒙に努めたと云われ、史跡や橋梁に石碑を多く残しています。先代を努めた忠国と共に飛騨代官として天領・飛騨の基礎を固めたと云える人物です。家禄は400俵(約80石)ながら美濃の一部も含め5~10万石を差配・支配していました。その功績から幕府より退任後に礼物が贈られています。
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DSC_7055.JPG江馬氏館跡 
上:北端外郭部 右:館前郭部 
江馬氏館東の山麓を背景に西・北・南に空堀を配し、その外側に河岸段丘上を削平して大きな郭を配していました。戦闘用ではなく生活および政務の要素が強く、館前には馬房・護衛武士の宿直所を併せ持った居館でした。戦闘・監視時の本城・副本城は南の高原諏訪城、西正面に見える観音山上の傘松城になりました。ちなみに傘松城は国史跡から外れていますが、立地が飛騨街道・上宝道(信濃街道)を見渡せ、江馬氏館・高原諏訪城を見通せる好立地で、発掘調査では江馬氏の山城11の中で高原諏訪城に次ぐ規模が確認されているそうです。
神岡・城宝といった高原川に沿った高原郷には大きな財源が二つありました。ひとつは養老年間からと云われるほどの神岡鉱山からの金銀産出。もう一つが山間地の豊富な木材の供出でした。山間地の国人領主ながら江馬氏が大きく進捗できた経済基盤の要因となっていました。
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江馬氏館跡 西堀(北側) 館部分を囲むように会所裏東面に板塀、南面・西前面・に土塀を配し会所と庭園を隠すように配し、北面・南面・西正面に空堀を配していました。西正面の堀は正門前と南側が薬研堀(V字、逆三角形堀)、北側は箱堀(逆台形堀)、西・北堀は造成時は3m近くの深さだったようですが、両翼は壁面の崩れをそのままに利用して1.5mほどの深さで使用していたようです。北堀は西堀北面と同じ箱堀になっていました。

江戸期ながら加賀藩に多くの木材が供出された記録もありますし、江馬時代にも加賀・越中に木材を供出していた記録があるそうです。前述の長谷川忠崇の父・忠国は代官業務に優れ、生野・越後・陸奥・出羽・飛騨と全国の天領支配として渡り歩いていましたが、7代飛騨代官では江馬氏・金森氏時代から蓄積された秘匿榑木26万挺(くれき、建築用定規格用材)を発見。これを原資に3年の木材伐採の中止・不用材の売却益で10万両の利益を拠出しています。飛騨の木材の価値と重要度が解ります。ちなみに忠国は功績に幕府から1割の報奨金の打診を受けていますが固辞しています。当時の1万両=4億円の報奨金、もったいない話@@;忠国死去後に忠崇を幕府が異例の2世代代官にするわけです。
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江馬氏館跡 西堀(南側)薬研堀
西堀は正門と脇門の前を土橋を配して3分割されていました。深さは16世紀初頭(南1.8m・中央1.5m・北1.3m)に合わせたそうです。江馬氏館は移転時に堀を埋め立てて、建材などの出土も少なく、移転先に再利用目的で運び出したと見られます。
造成時の発掘規模は・・・
南:薬研堀、長さ約24m・上幅約4.1m・深さ約2.8m
中:薬研堀、長さ約19m・上幅約4.1m・深さ約2.8m
北:箱堀、 長さ約22m・上幅約2.5m・深さ約1.3m

横道に逸れますが、7・8代長谷川親子の功績は大きく、幕府は飛騨郡代にもう一組の2世代奉行を置いています。12代飛騨代官となった大原紹正は忠国の真似といえますが、原資なしで元伐休山(木材の伐出・搬出停止)を行いながら、3年後には飛騨国内に3000石の御用金を請求して庄屋から百姓まで分担請求。翌年も御用金を画策して明和騒動(百姓一揆)を引き起こしています。更にその3年後には新田に2厘増し検地をおこない、旧田にも検地を強行して2厘増しを上乗せして安永騒動を引き起こしています。2度の百姓一揆を引き起こしながら幕府への年貢・御用金と拠出を大きく伸ばして代官(奉行)を郡代(郡奉行)へと引き上げています。しかし昇進後の悪評に耐え切れず妻が自害、本人はショックで病気失明で辞職、翌年に死去しています。飛騨では鎮圧され犠牲となった一揆衆の祟りと囁かれていました。
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DSC_7086.JPG江馬氏館上:南堀跡 右:南西部郭 
土塀横の敷石の中央が造成時の旧南堀、右にずらして新堀が新設されていました。南堀は深さは0.6~0.8mと深いものではありませんが旧堀は長さ約83m・上幅約3.8m、新堀は旧堀を一部使用していますが上幅が5.8mと広がり、長さも106mと伸びて西郭の段丘まで伸びていました。発掘画像を観ると防水加工のようにも見え、飛騨町では堀としていますが、用水路もしくは排水路となっていたと見られます。
南堀に遮断された南西郭からは掘立柱の大型建物4基・竪穴式建物2基が確認され、建物の間に塀があったことが確認されています。カラミ(金属くず)・小札(こざね、鎧製作時の鉄板)が出土しており工房群だと推定されています。

成績しか見ていない幕府が13代を継がせたのが息子の大原正純でしたが、これが最悪人事。。初年度は取り過ぎた年貢を返還せずに、逆に足りないとして庄屋三家に618両を徴収し懐に入れています。翌年には天明の飢饉の発生を予測した幕府が指示していた免除分を、百姓に知らせずに全額徴収で減免分は懐に。。当然飛騨では多数の餓死者が発生しています。更に不平百姓を虐めるだけでなく、不平諌止する部下は即解雇、まさに悪代官を地で行ったわけです。2年に渡って不平庄屋・解雇役人から老中・松平定信に駕籠訴・捨て訴(門に訴状を貼る訴え)が何度も繰り返されます。2年に渡る訴えにやっとこ動いた定信は陣屋本締・田中要助を召喚吟味、庄屋からは留めの駕籠訴が行われ、白洲で本締対庄屋の対決も行われ、郡代・大原正純も召喚され、田中と他一名が打ち首・正純は八丈島遠島・8名が追放処分となっています。これ以降、懲りてしまった幕府では代官・郡代職の世襲は行っていません。18年に渡って飛騨騒動が起こった飛騨では大原親子は悪代官の代名詞になっています。
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江馬氏館跡 主門 土塀には柱跡は残されていたものの、主門の礎石は残されておらず14尺(約4.2m)の隙間と凹みだけでした。しかし脇門が敷地側に控え柱があることから、脇門より格式を高めた四脚門として復元。瓦も発掘されていないために主門は板葺き。土塀は建設時の柵跡が残っており規模が推測され、高さ3m、上げ土屋根様式(グラスファイバーネット使用)にしています。主門は東寺の灌頂院東門を模した模擬門、土塀は中世期の絵巻を参考にした模擬土塀になります。但し工法や材料(土塀屋根除く)は当時と同じ道具・材料を極力使用しています。
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土塀の高さは堀外から、会所建物や園庭の置石をちょうど隠す高さで、主門を潜って迎賓館となる会所を大きく見せる効果と園庭の借景効果をもたらしています。
江馬氏は豊富な経済基盤を背景に神岡を中心に越中国境の土城から古川間にかけての飛騨街道沿い、神岡から城宝を経由して信濃に抜ける上宝道信濃街道沿い11の山城で北飛騨の守りを固め、山科家領や北野領の荘園管理の税集めや輸送の肩代わり、更に押領で勢力を伸ばし姉小路家・姉小路氏(三木氏)への圧迫・南下を狙っていました。今回の復元された江馬氏下舘跡・庭園はその江馬氏の安定期ともいえる15世紀後半から16世紀半ばにかけて築造・使用されていたものになります。南東の山上には本城・高原諏訪城があり、平常時は館に執務し緊急時には高原諏訪城に籠る態勢を整えていたと思われます。
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この地は長らく山麓の平坦地として田園地帯になっていました。昔から江馬氏(殿様)の邸宅があった殿段丘と言い伝えられてきて、田園の中に大きな石が5個突き出すようにあったと云われています。
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江馬氏館跡 会所建物 会所は来客を迎え、庭園や借景を愛でながら、遊技を楽しみ、集会や来客の接待を行った施設になります。江馬氏当主の迎賓館と云ったところ。建物敷地面積としては江馬家当主が過ごした常御殿と同等の規模、庭園を含めると6倍近い敷地を要しています。
絵図・資料を参考に庭園遺構を生かすために、三井寺光浄院客殿を主体に慈照寺(銀閣寺)東求堂の廂・縁側・書院、江馬氏が創建した神岡の小萱・薬師堂の工法や装具を採用しています。

この会所でもてなされた人物としては、延徳元年(1489年)に訪れた禅僧・歌人の万里集九が東国旅行記の梅花無尽蔵第三巻(未見)で「満盤の風味 江湖に置く」と書いているそうです。
ちなみに万里集九は相国寺の禅僧として名を成し、途中還俗して千里・百里という子を生しています。文明17年(1485年)太田道灌に招かれて江戸城に滞在中の翌年に道灌が暗殺され、暗殺した上杉定正に留められるも美濃に帰国、その途上に立ち寄っています。ちなみにその前に下呂温泉にも滞在して同じ梅花無尽蔵で「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」という漢文詩を残しています。史上最初に草津・有馬・下呂を全国の三霊湯と讃えた人物になります。これを参考にして三名湯としたのが江戸時代の林羅山
DSC_7062.JPG江馬屋敷跡 常御殿跡 会所の左に渡り廊下で繋がるのが常御殿、江馬氏当主が平常を過ごした邸宅跡、会所と常御殿の共有する空地も庭園だったと思われます。
神岡鉱山は金森長近治世から金銀だけでなく銅鉛も産出するようになっており、天領となった江戸期を通じても銅鉛を中心に産出していました。その当時から河川への汚染が問題化していましたが、明治になって三井組の進出で飛躍的に産出量が増加して精錬屑や廃棄物の捨場となったのが、殿段丘から観た高原諏訪城がある地元で呼ばれる一本松山の山向こうの渓谷になっていました。昭和46年(1971年)8月イタイイタイ病判決が原告勝訴で確定したことにより、渓谷からの水を使用していた殿段丘の田園地も調査が行われ、カドミウム汚染が確認され土壌処理と土地造成が決定していました。
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江馬屋敷跡 会所前広場
建物を表す左の板敷は台所、右が対屋(たいのや、当主の子女の住まい)で右に常御殿と渡り廊下で繋がります。
昭和48年(1973年)土地造成工事に伴って広範囲の遺構が確認され、昭和53年(1978年)までの調査で周囲に馬場工房を持つ庭園付館跡と確認され、翌翌年には国史跡指定を受けていました。平成6年(1994年)から整備発掘調査が開始され、西堀・土橋・門・土塀・会所建物・庭園の復元整備が平成22年(2010年)に完了。
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江馬氏館跡庭園 平成29年(2019年)に国名勝に指定されています。中央の立石が傾きながらも田園の中に立ち続けて来たそうで、庭園の基礎石になっています。その先端は後方の山上の本城・高原諏訪城を指し示しています。
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残存していた景石は約半数、周囲の畦地に利用されていた原石を元位置に戻し、放り込まれていた石を除去、一部現代石を再利用して復元して往時の姿を蘇らせています。室町期の庭園の中でも秀逸で江馬氏の文化度の高さが窺われます。
泉水も配されていたと見られますが、池部には底部に版築の加工を施していますが、水源が無く断念したとのこと。
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月見台からの眺め 会所の西端部に月見台が設けられていますが画像が、これしかありませんでした。この場所から左を見ると高原諏訪城から登る月と傘松城に沈む月を見られるようにしていました。太陽も同じですが西日でまぶしい*_*
DSC_7078.JPG復元した庭園が平成29年(2019年)に、会所から眺める庭園が、室町時代の庭園文化の地方伝播と多様性を目の当たりにできることが、芸術鑑賞上の価値があると評価を受け国の名勝に指定されました。一応、殿段丘の遺構地全体国史跡、会所から眺める庭園国名勝になっています。
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江馬氏館跡 出土品 珠洲焼 館跡は江馬氏自身の手で廃棄移転しているために、建築部材の出土はほとんどありませんが、焼き物の皿や壺の破片が多く出ています。上記は奥能登の珠洲焼、釉薬を使わない素焼きが特徴で、大きな壺や甕が主流です。越中守護の畠山氏は能登を本拠としています。
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江馬氏館跡 出土品 
左:青磁 右・美濃焼 
美濃焼も青磁も釉薬(ゆうやく)を使用した光沢のある物で、茶器や花瓶の芸術品、食器に多く用いられました。注目すべきは青磁が思ったより多く、当時は舶来の中国産が主流ですから、文化芸術度の高さと購入できる財力が窺われます。
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江馬氏館跡 会所 主人の間 室町時代に発祥した書院造を再現しています。右の障子から常御殿に出られます。また左の四分割されている壁に引き戸の帳台構え(武者隠し)を施しています。違い棚・押板・畳敷きを施した典型的な書院造ですが、書院造を武家社会に流行らせたのは足利義政(1436~1490年)で年代的に江馬氏館には早すぎるように思えます。また、会所は月見台や縁側を除く室内は8室を全面畳敷きで復元していますが、当時は一部の大寺院くらいで、これまた足利義政が自身のために使用したもので、武家への普及はだいぶ後になります。これまた時代考証的には早すぎると思われます。会所の外観や構造は素晴らしいですが、内部の室内装飾に東求堂を模した時代考証は無理があるかも。
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江馬氏館跡出土品 墨書瓦笥(かわらけ) 複製
土地や建物を造成建築・棟上げする際にまじないとして、水神名や益神名などの文字を書き込んだ皿を東西南北に埋めたと見られています。江馬屋敷跡では脇門(西)・庭園(南)から発掘されています。

江馬氏の安定期を妨げたのが飛騨を取り巻く国外の強力な勢力でした。甲斐から信濃に勢力を伸ばした武田信玄、越後から越中へと一向宗との抗争を繰り広げた上杉謙信、後には尾張から美濃を制した織田信長。戦国期でも最強を競う三者が伸長して勢力を伸ばし、信濃・越中・美濃から飛騨を囲んで争奪戦の舞台になったわけです。

甲斐から信濃を侵食した武田信玄と北信濃に勢力を残したい上杉謙信がぶつかった第一次川中島合戦(天文22年(1552年))以降5度に渡って衝突しています。第四次の激戦で八幡原近辺が有名になり過ぎてみんなに場所が限定されてイメージされていますが、川中島四郡(更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡)つまり越後と信濃の国境一帯、北信濃全域を指しています。広いとはいえ、同じ地域内で5回も大軍がどうしてぶつかったかといえば、両者が大軍同士で戦える緩衝地帯がここしかなかったから、空白地帯の奪い合いだったわけです。永禄7年(1564年)を最後に小規模戦闘を除いて、両軍は和睦を行っています。

永禄3年(1560年)に桶狭間で今川を破った織田信長は三河で独立した松平(徳川)家康と同盟、永禄8年(1565年)には尾張統一を成し遂げています。武田信玄の眼は勢いを失った今川への駿河侵攻、尾張・三河へと移っていました。武田軍の駿河侵攻は甲駿相の三国同盟の消滅を意味しており、武田は北条と対立することになり、逆に上杉・北条の越相同盟をもたらします。それでは上杉軍を自由にしてしまうので、和睦を結ぶ裏で本願寺顕如と連携して越中一向宗を上杉軍にけし掛けています。更には越中西部(新川郡)の上杉方勢力の寝返りまで画策しています。この為、上杉謙信は元亀3年(1572年)の越中完全制圧を達成するまで忙殺となります。
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江馬氏最後の当主 江馬輝盛
強国に翻弄されながらも、本能寺の変後には広瀬氏と協力して古川郷も手中に入れ、江馬氏勢力圏を最大に広げています。姉小路氏との決戦となった高山の八日町の合戦も優勢に進めながら、一発の銃弾に倒れ軍団が崩壊、飛騨の覇権奪取寸前で潰えています。墓所は高原諏訪城麓の円城寺と八日町戦死地にあります。

上杉・武田の激突は飛騨の豪族たちにも大きな影響を与えました。永禄4年(1561年)第4次川中島合戦以降にも上杉・武田双方から飛騨の豪族に対して勧誘や脅迫が行われていました。飛騨の有力者たちも武田・上杉どちらに付くかで離合集散し、抗争が複雑化していきます。全盛期とも云えた江馬氏でも当主・江馬時盛は武田方に恭順の道を選び、嫡子・江馬輝盛は上杉方を選び姉小路を乗っ取った三木(姉小路)良頼と共闘して対立、国内戦闘に陥ります。江馬氏館が放棄、移転されたのがこの辺りの時期とみられています。対峙のみに終わった永禄7年(1564年)第5次川中島合戦の原因は、時盛の恭順武田信玄が飛騨侵攻の軍を準備したのに対して、それを阻止しようと上杉謙信が川中島に侵攻したことに依ります。

江馬時盛・輝盛親子の意見が割れたのには、武田・上杉の統治方針の違いが大きく影響しています。武田信玄は信濃の領土拡大・直接統治のために南信濃の諏訪や戸石などで相当無理な侵攻を行っています。「人は城・石垣」の言葉通り東信濃・上野には、時間をかけた懐柔・融和政策で進めていたのに対して、南・北信濃に対しては正反対の急進的な方針で諏訪氏をだまし討ち、その後も1カ月の短期間で20以上の国人領主を滅亡、廃亡させるなどまさに行くところ焼け野原という強烈な侵攻だったのです。要は最初から降伏すればよしで武田に取り込み、抵抗するものは完全につぶして領土にする、戸石崩れなど北信勢力の小笠原・高梨・村上氏が最期まで抵抗を挑む結果になっています。
対して越後国人領主の連合体に上杉謙信という戦国期では突出した変り者の当主をカリスマにする上杉軍は、侵攻後は降伏した国人領主にそのまま自由裁量の統治を安堵するパターンが多く、その分反乱が多発、裏切られれば討つの繰り返し。
江馬時盛はすぐにでもやってくる武田の侵攻前に恭順してそれ以上の拡大は無理でも家を保とう、輝盛は上杉恭順によって後ろ盾が出来、自由裁量で領土を伸ばす余地があると見たと思われます。

永禄7年(1564年)江馬時盛VS江馬輝盛、姉小路(三木)良頼・自綱親子の戦いは、武田信玄山県昌景・甘利信忠時盛の援軍として送り込んだことで時盛軍が勝利輝盛は降伏姉小路氏は衰退しながらも美濃に接近を図ります。この時に東町城(神岡城)山県昌景の命令江馬輝盛が築城したと云われ、江馬氏館も廃棄され当地に移ったと見られています。飛騨侵攻を睨んでいた武田信玄ですが、前述の上杉謙信が北信に侵攻した第五次川中島で断念しています。
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瑞岸寺表参道 瑞岸寺は初代・江馬輝経が観音山東麓に母親の持仏・聖観音像を納めて開基していたもので、天文5年(1535年)に江馬時正(輝盛の曽祖父)が江馬氏の菩提寺として現在地に再興したと云われています。現在は臨済宗妙心寺派の直末寺院。
降伏した江馬輝盛は武田軍と共に越中松倉城攻めに参軍、功を得て常願寺川上流の中地山城を与えられています。永禄11年(1568年)上杉方の越中松倉城・椎名康胤武田信玄の策謀で一向宗に加担して離反、上杉謙信は飛騨への進路と越中侵攻の要所を失い、越中一向宗鎮圧に忙殺されます。

越中松倉城椎名康胤ですが、椎名氏越中畠山家の守護代家で神保氏に圧迫を受け東越中に逃れ、畠山家では守護代職を椎名氏から長尾氏に移譲した経緯があります。謙信の長尾家の前の守護代の家柄になり、その後は長尾氏の又守護代と格下げになっていました。
長尾氏越後守護代家だったとして認識されていますが、元々は三条長尾家が越後守護代家の本流で、越中守護代を譲られた上杉家傍流の5代長尾重景(謙信の曽祖父)が三条長尾家を引き継いで府中長尾家として上越に本拠を置いた経緯があります。この時から長尾氏は形式上では、越中(畠山家)・越後(上杉家)双方の守護代家だったわけです。謙信(長尾景虎)の祖父・父が何度も越中に侵攻し、父・為景が砺波平野の般若野で討死(祖父・能景とも)したのは越中守護代という名目を実行する為でした。

椎名康胤上杉謙信不在時には春日山城の城代を努めるほど信頼を置かれていましたが、この裏切りには謙信は激怒。翌年には越中松倉城を攻めていますが、越中三大山城(増山・守山・松倉城)でも堅固さでは屈指の城に攻めきれず撤退しています。その後、和睦して上杉傘下に戻ったものの再び離反。元亀4年(1573年)武田信玄死去により援軍の望めぬ中、さすがに二度の裏切りで降伏帰順も許されず落城、消息不明とも、砺波・蓮沼城(加賀越中国境)に逃れ、翌年に上杉軍に攻められ自害したとも云われます。ちなみに松倉城近辺は越中一の堅固さとは別に豊富な金山を有していました。謙信は松倉城を直接統治することになり飛騨への進路の足掛かりと越中平定の経済基盤を手に入れたことになります。江馬輝盛が守る中地山城は元々は越中松倉城の支城で、立山登山道の中間点で飛騨への狭い通り道(山之上村経由)の入口に当ります。
134986231919713132655_36454_3 2011.11.06.jpg
飛騨に向かう小口川添いの間道 
現・小俣ダム湖、有峰湖周遊道路への入口)2011.11.06撮影
中地山城は撮影場所から左対岸にありました。
中地山城は立山の登山駅から南の山裾道を10キロ程西に進んだ常願寺川に小口川が合流する台地上にありました。現在は遺構はほとんど残っていませんが、近くの有峰口駅の名が示すように、小俣ダムを経由して現在は有峰ダムの有峰湖を経由して飛騨の神岡に抜ける間道がありました。大軍の移動は難しいですが、越後から飛騨に進軍するには立山連峰に阻まれた上杉軍にとっては重要な経路になりました。松倉城を占拠された江馬輝盛はここで上杉謙信と国境を接することになったのです。
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瑞岸寺入口 今回は境内整備中で車両が入っていて入れず残念。。
元亀4年(1573年)武田信玄の死の情報を最初に上杉謙信に伝えたのは江馬輝盛でした。越中松倉城に情報を伝えると共に上杉謙信に詫びを入れ恭順を申し出ていますが、そう簡単に許されるはずもなく、その後も何度も詫び状を出していますが、父・江馬時盛は武田に次子・信盛(時盛からの当主継嗣の打診を拒否、後に武田勝頼の武将となって高天神城で戦死)を人質に入れたままで、対立は継続していたものの両属状態になっていたようです。
天正4年(1576年)上杉謙信の侵攻を受けて、江馬輝盛姉小路自綱と共に降伏、飛騨は上杉支配下となります。

天正6年(1578年)には対立していた父・江馬時盛を殺害、前述の弟・信盛を当主にしようとしたのが発覚したとも云われます。輝盛が長年奮闘した割に人気がないのは父殺しの汚名が付きまとったのも一因です。武田との関係を破棄、上杉恭順を鮮明にし、ともかく輝盛江馬氏当主に正式に就任しています。ところが同年には上杉謙信が急死。天正10年(1582年)織田信長に依って武田氏が滅ぶと、越中に柴田勝家軍が占拠したこともあり、飛騨全域はそのまま織田信長に臣従します。

ところが僅か3か月後に本能寺の変が起こり、混乱の中、江馬輝盛は江馬氏最大領土を獲て飛騨の統一を狙い、姉小路自綱・小島時光を攻めますが、逆に高山の八日町・荒城川で決戦を優勢に進めながら銃弾で戦死、余勢を駆った姉小路・小島軍によって神岡の諸城を落とされて江馬氏・広瀬氏など神岡の有力国人が追放一掃され、その後、身内の不満分子も粛清した姉小路自綱・小島時光によって飛騨は統一されます。

天正13年(1585年)豊臣秀吉佐々成政の富山の役では飛騨は佐々成政に味方したために、その後の仕置きとして秀吉の指示を受けた金森長近飛騨に侵攻、その先鞭を果たしたのが江馬輝盛の嫡子・時政を始めとした追放を受けていた広瀬氏など北飛騨の元国人領主でした。この侵攻で姉小路自綱・小島時光共に消息不明。江馬時政は神岡の地に所領を得ますが、後に金森氏に反抗して一揆を先導し敗退。八日町の江馬輝盛の戦死地墓所前で自刃しています。時政の死により江馬氏は滅亡しています。
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瑞岸寺門前前 地蔵堂

平成22年(2010年)に江馬氏館跡の発掘調査から下館跡・庭園跡の復元が成されたことはニュースで知っていたのですが、当時は前を何度も往復していたのですが、(前と言っても河岸下の道路をですが)夜中ばかりに通り過ぎるだけでした。たまたまですが高原諏訪城は登ったことはありましたが(円城寺から登ったのでまさに登山)、江馬氏館跡がどういうものかはほとんど解っていませんでした。今回訪れて規模の大きさには驚かされました。

平成25年(2013年)に家ニスタさん飛騨の山城を巡っていて、残念ながら東町城江馬氏館跡も冬季休館で閉まっていて、見られなかったと外観だけ紹介していました。美しい復元の門と遠目の会所建物を見て、いつかは見てやろうと狙っていたんですが、やっと果たされました。

この記事の(4)~(7)は、今回の江馬氏にも深い関係にある場所で、参考にさせてもらうのに読み直させて頂きました。非常に勉強になり感謝です。それにしても家ニスタさんのフットワークには、いつも驚かされます@@

次回は家ニスタさんが入れなかった東町城(神岡城)の天守へ。。。

旅行日 2020.11.03








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この記事へのコメント

  • tor

    飛騨堪能されましたね。
    私も行きたいと思っているのですが・・・
    たぶん同じように巡ると思うのですが
    ここまでは書けません。
    いつも感心しながら読ませていただいてます。
    2020年11月18日 19:30
  • つとつと

    torさん
    前々から訪れたいと思っていたんですが、やっと訪れることが出来ました。それにしても広大な敷地で、車で通った時も認識してたんですが、想像以上でした。会所や門・土塀は時代考証を重ねた想像の物ですが、雰囲気は十分出ていました。なんといっても庭園は見る価値は十分にあると思います。機会があったら是非立ち寄ってみてください。僕もここに来るまで傘松城の存在を知らなくて、また再訪したいと思っています。
    飛騨は加賀藩や白山関係で深い関係にあるので、けっこう覚えていましたから。。いきなりの未知の土地だと、こうは行きません^^;
    2020年11月18日 22:13
  • がにちゃん

    息子の同級生にご小松天皇の子孫とゆう家がありました
    家系図も見せてもらったことがあります
    まぁ 京都では、よくあるのですが 家系図まで見せてもらったのは初めてでした
    江馬屋敷  残っていれば立派なものだったのでしょうね
    2020年11月19日 15:09
  • つとつと

    がにちゃんさん
    後小松天皇の子孫@@ まさか一休さんの子孫@@
    そういえば一休さんは、お坊さんでしたが、妻も子もいましたからねえ^^もしやですね。
    江馬屋敷跡の敷地は訪れると、凄く広くて、建物も立派だったろうと想像されます。なんといっても材料に関しては豊富な所ですから^^;
    2020年11月19日 16:51
  • yasuhiko

    飛騨といえば「飛騨の匠」。豊かな木材資源と、
    その加工技術で知られた土地柄とばかり思ってましたが、
    いや、鉱物資源も重要だったんだという事を、
    先日の「ブラタモリ」で教わりました。
    しかも、つとつとさんのブログでお馴染みの
    神岡鉱山と結びつくと分かって、色々と納得できた
    ような気がしたものです。江馬氏という一族が、
    その中心にいたんですね。その繁栄ぶりを思わせる
    立派な庭園跡には、目を見張る思いがしました。
    お城のある山を借景にしてるんでしょうか。
    石が残るだけになっても、庭としての美しさはさすがです。
    2020年11月20日 22:41
  • つとつと

    yasuhikoさん
    飛騨の木製品は有名ですからねえ^^神岡もそうですし、西の白川郷にも日本一と言われた金保有の松ヶ島氏がいましたし、鉱物資源の宝庫だったようです。
    江馬氏館の復元された庭園は見事な雰囲気でした。
    そうなんですよ。江馬氏の主要な山城の諏訪高原城と傘松城が見事な借景になっています。会所の縁側や月見台からは美しい姿で、月の出から月が沈む位置がちょうど両城の上になるように工夫されていました。
    2020年11月21日 08:33
  • GAKU

    はじめて来ました。史跡を詳しく紹介、そして知識の深さと丁寧な記事作成に感動です。すごいです。
    2020年11月22日 11:41
  • つとつと

    GAKUさん
    はじめまして、単に好きなだけですよ^^;
    ついつい、不定期で書き始めると記録用に長々と書いてしまうのが悪い癖になっています。
    仕事の関係で、なかなか地場から出られなくて、近場ばかりになっていますが、よろしければ、またお寄りください。僕もご訪問させてください。
    2020年11月22日 18:48
  • 藍上雄

     江馬氏とは誰ぞや・・・?室町から戦国初期の間飛騨を治めていた武将なんですね。武家屋敷にしては、庭園などお公家文化的な感じもします。きっとお手本がお公家様のお屋敷だったからなのかもしれませんね。庭園に置かれた石も枯山水を思わせるような景色ですね。
     門や会所、復元された物のようですが、京都に近いせいかもしれませんが、それらしい雰囲気に見えます。
     でもしっかり発掘された館の跡、観光名所と言う訳ではありませんが、歴史マニアには、興味をそそられる館跡だと思います。
    2020年11月23日 19:45
  • つとつと

    藍上雄さん
    飛騨という山国のマイナー武将ですから、知らない人が多いと思うんですが、鎌倉初期に地頭として入部して国人領主から200年以上を高原郷に地盤を置いていましたし、江馬氏館跡の規模の大きさや山城の保有数からもそれなりの実力を持っていたようです。江馬氏館跡は戦闘用ではなくて、平素の生活や来客対応の館だったと思われます。復元された門や会所は室町期の武家屋敷を模したもので、一部贔屓目で見なければなりませんが武家館の参考にするには良い手本だと思います。武家の庭園としては非常に参考になると思います。
    2020年11月23日 21:15
  • アルクノ

    飛騨高山から下呂温泉へ二泊三日の旅をしましたが。
    飛騨はとにかく山だらけな事をガイドさんが言っていました。
    鉱物資源があるので幕府からの守護となっていたわけですか。
    更に、こんな山だらけの飛騨でも群雄割拠があった訳です^^;
    長閑で平和な感じでしたが^^;
    歴史の面白さを感じました。

     5年前に記した、二泊三日の最初の記事を見ると、
    飛騨国は岐阜県最北端の飛騨市として今にその名を残すが、人口は24,774人(2015.05.01)で面積は792.53km²。
    平成の大合併により2004年に吉城郡の4自治体が合併し誕生したこの市の命名については、飛騨地方のKingである高山市との激しい対立があった。
    一方、高山市は翌年2005年2月1日に周辺9町村を編入合併したことにより面積が合併前の139.57㎢から2,177.67㎢と非常に広大な市域となった。
    人口は89,993人で(2015.05.01)飛騨市の3.6倍。
    高山市の面積は香川県や大阪府よりも広く、東京都とほぼ同じ。
    府県の面積よりも広い市町村は全国で唯一ここだけ!
    ただし、山林が市域の92%あまりを占めている。
     とあります^^;
     更に↓
    高山市の気持ちとしては、飛騨高山市になりたかったのでは?と思う。
    吉城郡の4自治体が合併する際に高山市の同意を得ず、勝手に飛騨市と命名した事についてはかなり腹立たしい思いがしたのでしょう。
    その翌年、うっぷん晴らしに、合併前の15.6倍に所領を拡大させました。
    Kingとしての自負が、とてつもない広大な編入合併に走らせたようです。
    と、勝手に推察した^^)
    と、追記しています
    2020年11月25日 16:54
  • つとつと

    アルクノさん
    確かに飛騨は山また山の国ですね^^;平成の合併では簡単に合併してくれましたが、隣の市町村に行くのがどんなに大変か^^;飛騨市と白川村などは隣り合ってますが、東西はとんでもない山道ですから。。高山などは昔の地名を行ってくれないと解らない所だらけ^^;でも、やはり同じ飛騨でも今の4市1村は全く違った地域です。やはり昔からの争いや兼ね合いがありますから。
    共通するのは木と鉱山が豊富で、意外に文化が豊富な所で僕は好きな国です。
    平成の合併では大事な地域名が消えて大変でしたが、それぞれの地区で悲喜こもごもの戦いがありました。やはり飛騨では飛騨という名は譲れないですから獲ったもの勝ちですね^^合併で当時全国一だったいわき市をどこが破るかと思っていましたが、まさか高山が倍以上になるとはビックリでした。たまたま高速道が延伸したのが幸いしたようですし旧高山市は相当頑張ったようです。。たぶん拒否するだろうと思った吉城郡や白川村・郡上八幡はやはりという感じでした。ともかく北・西飛騨・郡上は高山が根では嫌いなんですよ。郡上も多少ですが、まだ越中や加賀・越前に親近感があるようです。
    石川では金沢市は意外に嫌われ者で、合併を持ち掛けた相手には悉く拒否されて平成の合併で編入のなかった数少ない都市で面積で白山市に抜かれる体たらく。加賀とか百万石などという言葉は金沢だけで、他市町村は百姓の持ちたる国なんです。譲れないのは能登と越前という名で、飛騨どころか、乱立でややこしいくらいありますから。
    2020年11月25日 20:34
  • 家ニスタ

    江馬氏館跡は目の前まで行ったのですが、中には入っていないんですよね。
    3月の末に行ったんですが、冬季休暇で閉まってました。
    3月末は春という感覚で行ったのですが、飛騨はまだ冬だったんですね。
    会所の建物が復元されているのですか。
    立派な庭園もあって、辺鄙なところにしては(失礼)文化度が高そうですね。
    これはもう一回行ってこないといけませんね。
    2020年12月04日 23:27
  • つとつと

    家ニスタさん
    同じ年に2回も行ったのは初めてでしたが、久しぶりの神岡をのんびり散策出来てよかったです。
    飛騨は白川街道の方が頻度が高いんですが、それでも3月では飛騨と美濃では大違いで冬と春が混在してる感じです。
    江馬氏館跡は門前に立つとちょうど館建物・庭園が見えないように演出しているようです。会所建物はちょっと想像を膨らませ過ぎとは思いましたが、庭園は見るべき価値があると思います。青磁が多く出てきているようで、江馬氏は思ったより文化度が高かったようですよ。
    国史跡になる際に、江馬氏や姉小路氏の山城の調査も進んだようで、江馬氏の傘松城は高原諏訪城に匹敵する規模なんだそうです。館跡から西に見える高い山ですが、大きな観音像も近くにあるみたいなので、僕も再訪したいなと思っています。
    2020年12月05日 10:18

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