日本自動車博物館 外展示物

日本自動車博物館を運営するのは石黒産業という富山県小矢部市の石動駅近くに本社を置く会社になります。自動車博物館の広い駐車場の外辺には、小矢部市石動に関連する大きな鬼瓦や美しい疑洋風の建物、石黒産業が係わった遺物や日本庭園があります。画像は天気の良かった昨年のものです。
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旧聖泉寺御所瓦(大鬼瓦) 鬼瓦としては非常に大きく巨大なものです。
左文面 仏陀の道(鬼瓦の由緒)
この御所瓦(大鬼瓦)は、もと富山県小矢部市の名刹真宗大谷派の三笠山聖泉寺の本堂の棟の両端にあったものであります。
平成七年(一九九五年)に日本自動車博物館が小矢部市よりこの地に移るにあたり、二十七世住職小塩誠師の御厚志により、寄贈されました。
小塩師は、本館に隣接する大領村の勝円寺のご出身でありますが、さらに仏陀の道を極めんがため聖泉寺に入られました。この度、師のふるさと近くに移転することになった。その宿縁を慶ばれ本館発展の一助にもなれかしと下賜されることを思い立たれたのであります。
かつては、そびえ立つ甍(いらか)の両端より天地万物を見据えていた貴重なる記念物を、特に本館のために提供された師のご高徳に感謝し館員一同、崇敬の念をもってこれを、永久に保存すべくここに建立した次第であります。 平成七丙子年夏 日本自動車博物館 館長 前田彰三

右文面 製作の由来
この御所瓦(大鬼瓦)は、明治四十四年(一九一一年)九月、越中石動町笹川瓦工場で製作されたものであります。
笹川瓦工場の初代笹川竹次郎翁は、万延元年(一八六〇年)石動町(現在の小矢部市観音町)に生れ、生涯を瓦製造一筋に生きられた人であります。性来研究心旺盛な人物で、この地の原料が瓦製造に最適であることにいち速く着目され、業界の先駆者としてその業績は石動地方一円に及びました。
聖泉寺本堂の屋根瓦も、その笹川瓦工場が総力を挙げて納入したもので、裏面の翁自らが刻した文字に、製造者の自信と誇りが窺えるのであります。
明治四十四年九月 越中石動町 笹川瓦工場謹製
本館に鬼瓦を展示するにあたり、製作者の偉業を讃えここに記録した次第であります。 平成七丙子年夏 自動車博物館 館長 前田彰三

補足:小矢部市の聖泉寺(しょうせんじ)は真宗大谷派(東本願寺)の寺院で石動(いするぎ)地区にあります。
石動の北北西部に今石動城が築かれた城山があるのですが古くは白馬山と呼ばれていました。時期は明確ではありませんが15世紀後半に、能登の石動山(せきどうさん)から伊須流岐比古(いするぎひこ、石動彦)を勧請してユスルギ山と呼ばれていたと云われます。天正10年(1582年)能登領主だった前田利家が敵対する能登鹿島の石動山天平寺を焼き討ちした際に、和睦条件として本尊の虚空蔵菩薩像を人質として接収しています。天正13年(1585年)に対佐々成政として城山に築城する際に、この本尊を城山の愛宕神社に納め「新しい石動山」として今石動城と名付けています。城主として入った利家の末弟・前田秀継・利秀親子によって城下町・石動(いするぎ)そして小矢部が整備されました。明治の神仏分離により町名の由来となった虚空蔵菩薩像が預けられたのが聖泉寺で、石動を代表する寺院の一つで本堂も大きなものです。

大領村の勝円寺は真宗大谷派(東本願寺)寺院で、文では隣接となっていますが、小松市街地の小松市大領町の北陸最期の合戦地・浅井畷古戦場の200m程北のなかよし幼稚園の隣にあります。昭和42年(1967年)に幼稚園の場所にあったのが隣地に移って幼稚園を建てて運営しているようです。

瓦工・笹川竹次郎個人については知らないのですが、子孫は小矢部市観音町(石動地区)に笹川昇瓦店として健在です。石川県や全国の瓦工事業にも言えるのですが、明治時代は瓦やレンガを自前や地元工場で製造したところが多かったと云いますが、現在は小松製瓦・三州瓦など瓦製造は大手瓦メーカーに頼り、瓦工事・瓦葺替・屋根業を専業とするのがほとんどで、小中規模企業や個人事業が多いのが実情です。明治期にこれ程の大寺院の屋根瓦を自前で製造から施工まで行ったというのは、個人としては大事業だったと推測されます。石黒産業も当時はレンガ・ブロック・瓦製造の石黒商店として一種の同業として仲間内だったと推測されます。江戸・明治の寺院・神社の瓦は地場で焼いたものが多く、境内に改築後によく以前の鬼瓦が飾られていますが、厄除けや大きさを見せる意味の他に、地場や瓦工事者の誇りと努力の証明にもなっています。
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その横に立つ白い建物、和洋折衷の館が建っています。日本自動車博物館では明治記念館と称しています。公開するときもあるそうですが、まだ中を見たことがなく、いつかは見たいと思っている建物です。

明治記念館は明治中期の建築と云われ、当初は富山県東礪波郡油田村(現砺波市油田(あぶらでん))の屋敷田と思われますが、野松医院の建物として建築されています。昭和11年(1936年)西砺波郡水島村(現小矢部市水島)に移築されて水島村役場、戦後は水島村公民館となっていました。昭和57年(1982年)に小矢部市芹川の旧自動車博物館に移築、平成7年(1995年)に自動車博物館の移転と共に現在の地に移築されています。都合三度の移築を経て総距離75キロの現在地に落ち着いているわけです。北陸の疑洋風建物として貴重な存在になっています。
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建築を手がけたのは藤井助之焏(すけのじょう1860~1934)。砺波郡大田村(現砺波市太田)の生まれで、井波の宮大工・4代目松井角平恒広に弟子入り、恒広から洋風建築の技術も学んだと云われています。他にも福野の厳浄閣(旧富山県立農学校本館)・砺波郷土資料館(旧中越銀行本館)・旧東般若小学校校舎などが残されています。
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松井角平恒弘瑞泉寺本堂再建に携わったことで知られますが、洋風建物への勉強も行っていたようで明治9年(1876年)に瑞泉寺境内に擬洋風の得智小学校を建てたことが記録されています。北陸最大の寺院本堂を井波大工・彫刻師を指揮して完成させたのはその後の明治18年(1885年)になります。ちなみに本堂横の太子堂は大正7年(1918年)5代目松井角平恒信によるものです。

松井組は青海神社社殿・椿寿荘(越後豪農の館離れ)・小樽別院本堂他など江戸期から県外の建築を多く手掛けていましたが、大正12年(1923年)松井角平恒茂東京出張所を開設、昭和9年(1934年)に築地本願寺を竣工させて全国に名を広げて昭和14年(1939年)に松井組を会社化、昭和23年(1948年)に名称を松井建設としています。
松井組の歴史は古く天正14年(1586年)初代・松井角右衛門が前田利長の命を請け、越中守山城(富山県高岡市)の普請に従事したのが始まりで、文禄2年(1593年)伏見城普請・瑞泉寺再建と宮大工の道を進んでいきます。この事から一部上場企業として最古の歴史を持つ企業と云われています。また、江戸後期から当主は松井角平を代々名乗ることになっており初代から数えて16代目の現会長が松井角平を名乗っています。
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江戸城建築時の献上石
石の由来 この石は昭和59年(1984年)6月、東京都中央区佃島(現・佃1丁目)の海浜埋立地である。パークサイドウィンクスのボーリング工事中に発見、掘り出された物を、(株)山久石材造園社長・横山純一が入手、保管していたものである。縁あってこの度、橋田工学博士(東京都)のご支援により当館へ提供されたものであります。
石種は真鶴産小松石で、現在真鶴で搬出しているものより幾分軟度がある。石は石垣用に加工されたもので、石を切り出すときに使われた木の楔を打ち込んだ跡がある。これは、鉄矢が作られる前に使われていた石を割る古い工法で、石に切り込みを入れ、楔状の形を作り、その中に堅木を打ち込み水をかけて木を膨らませ石を割ったものである。
一部の石に十の字が刻まれていたことから、薩摩藩が担当していた江戸城の石垣の石が、船で運搬中に沈没したと推測される。当時は其様に幾多の難関を乗り越えて外様大名から江戸城への品々が献上されました。石の運搬は船の船縁にロープでつるし、水中に浮かせた形で荷重を少なくして運ぶ方法がとられていた。
尚、この▮▮▮石は非常に貴重な遺産である事は言うまでもないことであります。 日本自動車博物館 館長 前田智嗣
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補足:江戸時代、佃(つくだ)島隅田川の河口にあった二つの島(佃島・石川島)を指します。埋め立てが進み河口は3キロほど先になっていますが、昭和59年(1984年)に高層賃貸マンション・パークサイドウィングスの建設前調査で発見された石になります。江戸城の石垣石として加工済みの状態で埋まっていたものです。

真鶴産小松石は神奈川県の相模湾の西部の真鶴半島先端から産出される石で本小松石と呼ばれています。香川県高松市庵治町の庵治石・岡山市北区万成から産出し、桜御影と呼ばれる万成石と共に三大銘石とされています。箱根からの噴火で溶岩が海に流れ込んで急速に冷却されて固まった安山岩になるそうです。通常より軟らかいということで、良質で硬質とされる岬先端でなく岬中央もしくは陸地よりからの産出と思われます。源頼朝・北条氏による鎌倉の建設、徳川氏では江戸城や墓石として使用されています。江戸城石垣の石として搬出・納入経路、石垣石の形態確認にも貴重な存在と云えます。
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日本自動車博物館外縁 和風屋敷門 案内板を写したはずなんですが、残っていなかったんで。。記憶では能登高浜から移築したものだったと思います。能登の高浜地区で間違っていたらごめんなさい。門は四脚門で塀垣も柱や桟を細かくして頑丈にして、上部に瓦を載せても耐えられるようにしています。海辺に観られる門塀垣で前面を板張りにして海風による腐食や老朽の際には交換が簡単にできるようにしています。板塀には隙間を設けて夏場は冷風が通るのが利点。
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本岡家住宅 裏土塀菰掛け
2019.01.29撮影 金沢市本町
内陸部になると潮風を受けないために板が土塀に替わります。但し、北陸では冬季に雨雪を受けるため、風の少ない裏側、武家屋敷に観られるような冬場には菰(こも)掛けや板囲いが見られます。
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外縁には北陸の木々が植林されて、遊歩道になっています。木の間から自動車博物館の建物が見られます。樹間から見ると派手な建物も少しは落ち着いて見えますね。遠目にすると建物が東京駅中央駅舎を模したというのが解ると思います。
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日本自動車博物館 正門 
石黒産業が造成した小矢部のメルヘンランドスケープという住宅団地の入口にも同じ門が使われています。メルヘンランドスケープ ⇒ http://www.marchen-ls.jp/town.html
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日本自動車博物館
DSC_5606.JPGDSC_5607.JPG見た通り東京駅中央駅舎を模したと思われます。駐車場は自動車のイベントが行なえるように広く取られています。正面には毎回変わる屋外展示車やちょっとおしゃれな電話BOXやタイルも。。さすが、レンガやセメントからハウスまで手掛ける総合メーカー@@
自動車博物館なのに今回は自動車が居ないと云われそうなので。。
まずは昨年10/30の正面入り口展示ですが、ここではみんなが名前は聞いたことが有る名車が展示されています。
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日本自動車博物館 正面玄関 展示スペースDSC_5609.JPG 
ロールスロイス・シルバーシャドウサルーン(イギリス)
ロールスロイスはメーカー名自体が高級車の代名詞になっていますが、シルバーシャドウは1965~1980年にシルバークラウドの後継車として生産されたもので、シリーズではロールスロイス史上初のモノコックボディ(フレームレス)で一番生産されたシリーズ。それまでの丸みのある物からの先駆けで形とサルーンの名から70’年代?アメリカのキャデラックはこのシリーズの影響が強く受けているそうです。
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リンカーンコンチネンタルタウンカー(アメリカ)
元々はリーランド(キャデラックの創業者の一人でもあり)が創業したリンカーンモータースカンパニーというメーカーが始まりでしたがフォードが買収してフォードの高級車部門リンカーンとしたものです。リーランドが尊敬していたリンカーンが冠されています。展示車は1981~1989年まで製造販売された初代型。この型は41代大統領ブッシュが専用車に採用していました。
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ニッサン 
スカイラインGTR R32
奥に観えるのはアストンマーチンV8
GTRでは3代目に当たるスカイラインの最上級車。1989~1994年。
フェアレディ・インフィニティQ45と共に最高出力300㎰超のトリオカーとして計画されていましたが馬力規制で断念。280㎰に抑えられた経緯があります(フェアレディ・インフィニティの輸出車は300㎰)。しかしモータースポーツの世界では国内外のレースを席巻。スカイライン史上、最高の成績と評価、そして人気を受けています。市販車ではカラーも8色発売されていますが、イメージカラーはガンメタリックグレー。
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アストンマーチンV8
(イギリス) 
5340cc・V8気筒エンジンの高出力のスポーツカー。1979~1989年。
007第15作「リビング・デイライツ」に登場する車として知られています。
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日本自動車博物館 外展示 ダイムラー・ウニモグ 
自動車博物館案内板より引用 世界一の走磁性能を誇る多目的作業用トラック。福島県南相馬市を中心に、NPOによる支援物資の輸送やガレキ搬出に使用された。燃料、段差、水深をものともしない卓越した性能を持つ。横倒しになった重量物などを引き出すこともできる。四輪駆動。乗車定員:2人・総排気量:4,800cc・長さ:6.500m・幅:2.500m・高さ:2.900m・車両総重量:13800kg

今年(2020年)1月には、チリのオホス・デル・サラード(6893m)に2台が頂上付近、うち1台が山頂まで自動車での登頂世界記録を樹立しています。車名のウニモグ(Unimog)の名は「「Universal-Motor-Gerät」を略したもので直訳で「多目的作業車

平成23年(2011年)3月東日本大震災には国内外から多くの支援が成されましたが、被災地で活躍した車両も展示されています。
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DSC_5618.JPGダイムラー ゼトロス 
超大型でありながら四輪駆動を備える。日本初上陸のトラック。アタッチメントのクレーンは宮城県気仙沼でさんまの水揚げなどにも活躍した。クレーン付でダンプ機構を備えるためガレキ等の収集廃棄を自己完結できる。四輪駆動。乗車定員:2人、総排気量:7,201cc、長さ:9.000m、幅:2.550m、高さ:3.000m、車両総重量:18,000kg

日本に寄贈されたゼトロスは、四輪ダンプ2台・四輪トラック4台・六輪ウィンチ付2台(六輪駆動)でしたが博物館の展示モデルは四輪ダンプクレーン付、ちなみにクレーンはワイヤレスリモコン使用、貨台は三転式で後方だけでなく左右にも貨台を傾けられます。水深1.2mの走行可能。ドイツ軍でも採用されているダンプ・トラックになります。
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ダイムラー Gクラス
四輪駆動で小回りも利くジープタイプ。日本では宮城県山本町にて、仮設住宅へのボランティア輸送や見回り用として使用された。雪の登坂走行など冬場の東北の峠道にも強い。幌付きの人員輸送型で、物資だけでなく6人程度の人員輸送が可能。四輪駆動。乗車定員:10人、総排気量:2,987cc、長さ:4.645m、幅:1.775m、高さ:2.090m、車両総重量:3,560kg
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メルセデスベンツGクラスとして高級SUVで知られますが、このGクラス純粋作業用モデル。車上作業のために車体は凸凹滑り止め塗装、車輛を取り巻くモールはゴム素材。渡河用シュノーケル装備。直噴ディーゼルターボエンジン。寄贈されたGクラスはステーションワゴン6台・ピックアップトラック、ソフトトップ各1台。博物館モデルはソフトトップ。
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東日本震災の復興支援車 左からゼトロス・ビューティーバス・Gクラス
平成23年(2011年)4月にドイツダイムラー社から支援車両が寄付提供されていました。車両は三菱ふそう「キャンター」30台、メルセデスベンツの「ゼトロス」8台、多目的作業車「ウニモグ」4台、オフロード「Gクラス」8台の計50台が寄贈先・日本財団を通じて被災地に送られました。キャンター以外のベンツ車両は短期間で日本に送るために、欧州各地のデモ車両をダイムラー本社のシュットガルトに集め、日本向け改造・ドライバートレーニングを行い空輸、海外仕様の為、公道の排ガス基準などの諸手続きを日独政府の協力で簡略化、2年間限定での公道走行の許可で超短期間で実現しています。この他の寄付として、車のメンテナンスなどのアフターサービス作業はダイムラーの日本法人の三菱ふそう・メルセデスベンツが行ない、別個にドライバートレーニングダイムラーから派遣されていました。

平成25年(2013年)8月、被災地の応急整備と公道走行期限の終了によって、キャンターを除くゼトロス・ウニモグ・Gクラス各1台が財団から自動車博物館に寄贈、その他が三菱ふそうや本国に送られています。
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ローレルジャパン・ビューティーバス
美容師の力」プロジェクトは、被災地・気仙沼の避難所での地元美容師・日本ロレアルが地域の被災住民のヘアカットにロレアルフランス本社が共感。日本ロレアルに日産自動車(車両寄贈)とタカラベルモント(内装・設備)が協力して動く美容室としてビューティーバスを製作して、地元美容師が参加巡回した車です。車内には広いスペースにシャンプー台、2面のカット・セット台、ロレアル商品を豊富に積載、地元美容師により最大60人のカットやセットが可能となっていました。被災した女性の心を癒すには髪と化粧から。。継続サポートの為に、南は福島南相馬から北は岩手宮古まで15の市町を巡回しました。外装の塗装には、美容の施術姿と共に「希望」が花言葉であるガーベラを女性の髪の毛として表現し、明るいイメージを持つオレンジで表しています。オレンジのキーカラーとしたロゴは、ロレアルがフランス生まれの企業であることを象徴し、日本語と英語とともに仏語でのプロジェクト名も記載しています。平成25年(2013年)からは活動内容を見直しました。「1dayヘアスタイリング&メイクアップ」というコンセプトで、美容師と共に仮設住宅を回り、ヘアメイク施術をし、その後に記念撮影を行う活動を実施してまいりました。(日本ロレアルHPより引用)

ビューティーバスに使用されたニッサンのマイクロバスは「シビリアン
平成11年(1999年)のフルモデルチェンジ発売から数々の改良やマイナーチェンジを施されながら、現在に至るまで、自衛隊の人員輸送車からキャンピングカー、保育園・幼稚園の通園バスなど幅広い用途で使用されているニッサンのベストセラーカーになります。日本ロレアルから支援・復興の啓蒙として自動車博物館に寄贈された車です。

博物館に外展示されている復興支援車は前述のように急遽の空輸搬送されたために国内基準に合わないために許容期限が切れたり、排ガス規定によるディーゼル排除などで使用できなくなったなどの理由も一部にはあります。しかし、震災地では多くの貢献や住民の笑顔をもたらしてきた車両たちです。自動車博物館に訪れる多くの人が、館内展示だけで帰ることが多いのですが、ぜひ、これらの車両に感謝を込めて外縁も回って欲しいものです。

旅行日 2019.10.30 2020.11.09


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この記事へのコメント

  • アルクノ

    関連する事を全て調べられ、詳細な記述に圧倒されます。
    日本自動車博物館を運営するのは石黒産業と言う事で、その関係性がイマイチ解りませんでした。
    セメント販売業・石黒産業社長(当時)の前田彰三(1930年 - 2005年、初代館長)が個人収集した自動車を展示しているんですね。
    この博物館は、自社の旧社屋を利用して開設したとあります。
    セメント事業とは関係性の薄い自動車を収集していたとは、社長の道楽と言えそうですが、ここまで入れ込むと一つの事業と言えそうです。
    災害支援用トラックまであるのには驚きました。
    2020年12月10日 13:21
  • 神戸を感じる洋風建築 が元宮大工さんの 作品
    素敵な洋風建築ですね
    疑洋風建築・・・なのですね
    昔の東京駅の趣がある 日本自動車博物館の建物
    そして 自動車のコレクションが凄い!
    復興支援車のビューティバス  女性にはうれしい支援ですね
    迫力満点の車たちの力強さは住民の心の支えになったのでしょうね
    何年か後には、ガソリン車は使用できなくなるようですね
    電気でこの馬力が出るようになるのだろうか? 
    2020年12月10日 15:18
  • つとつと

    アルクノさん
    小矢部にあった頃は、セメント工場の旧社屋で狭いうえに、足場を組んだ簡易なもので車の屋根ばかりしか見えない状態でしたが新しい建物で、だいぶ見やすいものになっています。
    石黒産業は最初はセメントやブロックの会社だったので、トラックや営業車など車の使用が多く、更にGS,住宅建材産業にも多角化していて、ますます使用が増えたそうです。社長車だけでなく社員の車も償却時に引き受けたそうですよ。館内に入るとトラック、バスや消防車まであります。その後は買取の他に寄贈もあって現在は800台あるそうです。石黒産業は多角化の見本のような会社ですが、収集も多岐に富んでこれだけの国内外の種類を一堂に観られる博物館は珍しいと思います。前田氏はカメラも趣味だったそうでそちらでもライカなど貴重な品が館内にあります。
    2020年12月10日 18:10
  • つとつと

    がにちゃんさん
    明治初頭に西洋建物が入ってきて、大工さんは東京に行って建物を見て勉強したそうです。別に外国に行って一から修行したのではないので、そこここに和の技法が取り入れられていて、和の匂いも感じさせるんですかね。僕みたいな人間にも西洋のかっちりした中に柔らかさを感じさせてくれるんでしょうね。
    TVニュースではこのビューティーバスをみたんですが、髪をセットした後の女性たちのにこやかな笑顔は今でも思い出せます^^
    電気は逆に点火出力が無いので、スタート加速性が高くなるそうですよ。その他にも太陽光・水素などこれからどんどん違った種類の車が現れるんでしょうね。博物館にこれらの車も展示されてました。あとは価格と安全性と充填箇所などのインフラが大事なんでしょうね。 
    2020年12月10日 18:24
  • tor

    前回東京駅風だなと思いながら拝見しました。
    それだけではなかったのですね。
    自動車だけでなく周辺にも見どころ満載なのですね。
    洋風建物も宮大工さんが携わっているあたり
    長崎の教会を建てた大工さんを思い出します。
    探求心というか勤勉な日本人気質でしょうか。
    巨大な鬼瓦も迫力があり圧倒されますね。
    実際に屋根にのっていたのですね。
    外に展示されている自動車もすごい迫力ですね。
    行ってみたくなります。
    2020年12月10日 19:19
  • ミクミティ

    またまた、日本自動車博物館。その内部の展示物や建築だけでなく、周囲の外部展示にも見所がいろいろとあるのですね。
    立派な鬼瓦が間近で見られるのは貴重な機会ですね。凝った意匠や迫力をよく感じられるでしょう。
    洋館もとってもお洒落。絵になります。真鶴産小松石に和風の屋敷、などなど。趣もたっぷり。館長の多趣味さを感じます。
    もちろん、数々の歴史的な車が。今は知っている車の何が将来の歴史的な車になるのでしょうね。そんなことを考えてしまいました。
    2020年12月10日 23:11
  • つとつと

    torさん
    明治初期の宮大工さんの研究熱心さには驚かされます。富山の井波建築や彫刻には伝統もあります外傷の斬新さはこういう新しい技法へのチャレンジが必須だったのかもしれません。
    この旧水島役場の建物を建てた藤井助之焏のお師匠様の松井角平の残した瑞泉寺は何度見ても寺院建築の芸術だと思います。後裔の松井建設も多くの城や寺院を手掛けていますが、築地本願寺のような特殊な寺院建築の技術を併せ持つのはこういう伝統と勤勉さなんでしょうね。先日も金沢城の五十間長屋や菱櫓をみてそう思いました。そうそう、いつもtorさんがアップしてくださる熊本城の一本足の戌亥櫓の櫓、西出丸塀は松井建設が手掛けたそうです。
    なかなかのものが揃っていて、僕は結構気に入ってます。久しぶりに行きましたが、時間があっという間に過ぎていました。
    2020年12月12日 10:02
  • つとつと

    ミクミティさん
    神社やお寺を廻っていると、大きな鬼瓦が境内に置かれていることが有るんですが、ここの聖泉寺の鬼瓦はその中でも最大級@@久しぶりに石動の町に行ってみたくなりました。子供の頃、僕の住んでいたところから国鉄で二駅でしたから、金沢よりこちらの方が馴染み深いんです。
    多趣味や造詣の深さもありますが、どちらも仕事絡みの遺物で、由来を知ると興味深いものばかり。こんなところで江戸城の石垣石が見られるなんて、普通は考えられませんからねえ^^;
    歴史的な車、名車というのは次に書こうと思っていたんですが、創始的なモノは当たり前なんですが、映画・ドラマに登場したもの、有名人が乗った車、レースや記録などで大活躍したもの、皆が認める様々な要素があると思います。でも、一番の名車は、その人その人の個人的思い入れが、作り出すものだた思うんです。僕は初めて乗せて貰った車、フロンテ、初めて見たスポーツカーのコスモ、一番長く乗ったカリーナ他など、印象的なシーンに出て来た車が、それぞれ個人の名車なんだと思います。
    2020年12月12日 10:20
  • yasuhiko

    鬼瓦にも色々あるんですね。
    湧きたつ雲(?)の表現でしょうか、
    聖泉寺の鬼瓦の意匠は独特だと思いました。
    鬼瓦の地域差など調べたら、面白いのかも知れませんね。
    各地に残る古い木造洋館の中には、〇〇医院&
    お医者さんの自宅というものが、少なからず
    含まれてますが、この旧野松医院の場合は、
    玄関ポーチも付いて、立派なものだと感心します。
    私は多分この野外展示の方が好きかも知れません。
    よかったら、当方のブログにも遊びに来てください。
    2020年12月12日 12:09
  • つとつと

    yasuhikoさん
    沸き立つ雲にも見えますが、波を表してもいるようです。水と雲の双方を表しているのだと思います。鯉のぼりの歌に「いらかの波と雲の波・・・」ってありますが、まさに水と雲の両方を表しているのかも^^まあ、甍は本来は棟瓦を指すそうで、屋根が多くある甍の波は屋並みを指すようですが。。そういう風に思わせてくれますね。そうですねえ^^鬼瓦の地域傾向というのは、気にせずに見ていましたが興味を引く対象ですね^^
    木造洋館には医者や医院は確かに多いですね。明治の西洋文化の代表格ですから。。加賀・越中では学校が非常に目立っています。この建物の作者の師匠は現在の松井建設のご先祖様ですが、名を高めた築地本願寺の建物を初めて見た時、西洋建築の勉強もしていないと、こういう建物は作れないだろうと変に納得したような気になっていました。そうそう、オリエンタル色満載で、ステンドグラスもあってyasuhikoさんも興味津々になるかも^^
    2020年12月12日 22:03
  • ゆらり人

    鬼瓦大きいですね、これならデザインがよくわかります。
     何時も屋根のこれを作る時写真が小さくて細部まで見れませんからいい加減でしたよ。
    でもこのデザインも色々あるようですね、このるくる巻きは雲?波?・・・・。
    外の展示の車はガッチリと作って有りますね、これなら災害にも耐えるでしょうね、外国のクマは得てして大きく頑丈そうで時には無駄に思っていましたが、これは必然的に作ったのでしょうね、だって日本人と外人の体格差や重量もかなり昔は違っていましたからこれだけのものが必要だったのでしょうね、日本人が作った、ミゼットなんて日本人たアジア人の体格ならではの規格でしょうから、ところ変われば品変るかな~。
    今は日本人も体格が向上してダンディーに変化し車格も大きくなり大差ないですね、素敵な物を拝見出来ました。
    2020年12月15日 09:16
  • つとつと

    ゆらり人さん
    こちらの寺院や神社の境内には屋根を葺き替える際に、それまでの鬼瓦を境内に飾っているところが多くあります。屋根上にあると遠くて小さく見えますが、近くで見るといずれも大きいですねえ^^名前の通り、鬼の顔もあればこのように波や雲を表しているものもいて色々あるようです。この瓦は雲と波の両方を表しているようです。
    復興支援車に軍用車にも使われています柄頑丈そのものですね。ウニモグなどは6000メートル級の山に登る能力があるんですから。。そうそう自動車の発祥は次回に書こうと思ってたんですが、最初は可愛いものが多かったんですが、外人さんの体型や馬車に替わる道具として大型化しています。100年遅れてスタートした日本もどんどん追いついてきていますねえ^^
    2020年12月15日 15:29
  • yasuhiko

    仰るように、地方に残る洋館を
    訪ね歩くのは大好きかも知れません。
    まだまだ辛抱の日々が続きますが、来年は
    少し希望が見えてくるといいですね。
    私の方は、最近UPの記事で、今年は
    もう店じまいをするつもりです。
    どうぞ、良い年をお迎えください。
    2020年12月20日 22:14
  • つとつと

    yasuhikoさん
    街中に建つ洋風建物も良いのですが、田舎に建つ洋館はまた味わいがあっていいものですねえ^^
    本当に気軽に出歩いてのんびり回るのもいいですねえ^^来年はこんな病は払しょくされて、自由に見て回れるのを期待しています。
    後ほどお伺いさせてください^^先になりますがよいお年をお迎えください^^
    2020年12月21日 13:43
  • 家ニスタ

    明治記念館・・・、僕が去年甲府で見た、擬洋風建築と同じようなものでしょうか。
    外観はよく似ていますね。
    こうした擬洋風建築には何かひな形でもあるのでしょうかね。
    2021年01月02日 22:55
  • つとつと

    家ニスタさん
    江戸後期から明治初期には西洋技術や建物様式が一気に流入してきましたが、当初は当然ながら西洋人が建てたのですが、その建物を見聞したのが地方の職人たちでした。ただそのほとんどが見分でそれまでの和風建築の技術で出来ることは良かったのですが、出来ないことも相当あって、そこは完全に和風になってしまったようです。この為に地方や職人は違っても似た形になったようです。
    越前や加賀は神戸の方に向かったようですが、越中は関東に向かったようです。そうなると横浜となるんでしょうね。
    明治初期はお雇い西洋人からの情報、見様見真似ですが、明治20年頃から西洋風建物の標準書が発行されてきたようです。この建物はある程度標準仕様だったのだと思います。それまでに出来た明治初期の疑洋風が下敷きだったんでしょうね。
    2021年01月03日 09:19

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