金沢城 戌亥櫓跡
金沢城本丸西端 戌亥櫓跡 左奥にあるのが戌亥櫓跡の土台石垣になります。本丸の森に入って最初の三叉路を左に行くと本丸の西側部広場にでます。江戸初期、寛永8年(1631年)の寛永の大火によって、城下町の殆どと金沢城が全焼した際に3代藩主・前田利常は金沢城再建・改造だけでなく金沢城下町の縄張り・区割りを再整備しています。この時の大改修が現在の金沢城の縄張り、城下町の区割・道路などの基礎が出来たと云えます。大きな事業として辰巳用水の開削による大量の堀や導水路による防火・生活水の導入。それまでも多少の浅野川・犀川の直接導水はあったものの、金沢城内の水堀が整備強化されたのもこの頃だと云われています。それまで城内に居住していた家臣団を城外に出し、城下町の区割を確定しています。金沢が武家の都市となったのもこの時からが正式なものと言えました。政庁の機能を有していた本丸を放棄し、二の丸と三の丸の境目を開削して二の丸を大拡張し、政庁と殿様御殿を合わせた二の丸御殿を造営して、金沢城の政庁機能・防衛力を増強したわけです。本丸(戌亥櫓)からの金沢城 正面に金沢城三門の橋爪門、後方は橋爪門続櫓、後方に長く伸びるのが五十間長屋になります。橋爪門は石川門(搦手門)・河北門(正門)と合わせて金沢城三門と呼ばれますが、格式が一番高く枡形も金沢城最大の広さを誇ります。橋爪門の右が三の丸、左が二の丸になります。金沢城橋爪門戦国気風が残る江戸初期とはいえ、城下町の整備や城の改築増強は幕府の監視に引っ掛かる重要案件でした。大火災による惨状は、…
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